きぼう屋

生きているから生きている

年末年始 我らキリスト家族なのだ

2011年12月31日 | 「生きる」こと
ピアソラをずっと聞いていて急にドキッとする。
震災以降、ピアソラの曲が体を重たくしすぎて動けなくなるから聞けていなかったのに、
なぜか今晩は聞き続けている。

無意識にも、苦難が私の体から去ったゆえのことなのか。
それとも同じく無意識にも、苦難が去らないために、ピアソラを聞いていたのか。
はたまた苦難を負う体力がこれまたいつの間にかついていて、ピアソラを聞く体力もついたということか。

よくわからない。

でもピアソラを聞いている。

明日の週報の祈りのきずな欄には、
帰省され家族と交わることのできるゆえに、
帰省先の礼拝に出席されたり、礼拝をお休みされる方の名前が連なっている。
それぞれの交わりを切に祈る。

と、同時に、
その欄に「年末年始を一人で過ごす仲間を特に覚えてお祈りを」と書いた。
というか、勝手に手がキーをたたいていた。

大晦日の本日。
いつもより参加者が少ない中、
家族のいない方が礼拝準備と清掃に来てくれた。
ウチの子の面倒も夕方まで見てくれた。
家族はあるが、交わりを持つ状況でない子どもも早朝から来ていた。

 
311以後を生きるゆえだろう。
例年以上に年末年始を家族と過ごすことのない方を覚える。

例年元旦礼拝後に、
年始を一人で過ごす方と一緒に、
教会から5分のところにある、
5歳からひとりで礼拝に通い、昨年高2でバプテスマを受けたサオリちゃんの実家のケーキ屋兼喫茶店にて、
昼食とケーキをいただく。
ささやかな私からのお年玉。

しかし忘れられない風景がある。
連盟の少年少女隣人と出会う旅に参加のため、
元日夜に会場である東八幡教会に到着したら、
奥田牧師宅では教会員があつまり宴を楽しんでいた風景。

ウチの教会は集まる家族のない者で集まるが、
東八幡教会はそもそも血縁家族を超えて教会家族が共に新年を迎えていたのだ。

今年は天に召された親戚があり、
2日には私も帰省することになった.
しかし、311以後の時代が始まった今、どこかで突破せねばならないと強く思う。

来年の年末年始には、
教会家族として集まることができるようすることは、
もはやこの時代の牧師の役割であると思った。
東八幡教会の真似でもいいだろう。

同時に、
牧師は、年末年始を血縁家族のみと過ごしてはいけないと思った。
これは主イエスが福音書にて述べていることに反している。
せめて牧師くらいは実践せねば。

以前にホームレス支援におけるアンケートから、
年末年始が一番さみしい、という結果を得ているし、
年末年始に死にたくなるというコメントもいただいている。

なのに、ずっとなんだか中途半端だった。

いかんいかん。

我らキリスト家族なのだ。


激感動クリスマスカード

2011年12月27日 | 「生きる」こと
昨日四男くんが保育園のおともだちからいただいたクリスマスカードを、
今朝も感動しながらじっくりと見てしまいました。

皮膚のすみずみがうれしく反応します。

ひっくりかえっている平仮名がまじりながら
丁寧なメッセージが描かれています。
折り紙で切られた独特の模様が貼られています。
仮面ライダーと、
なんと
「日本でさいだいのアブ、メスアカオオムシヒキ」が、紙面いっぱいに描かれています。

ウチの四男のことをとっても好いてくれているんだなあって
よーくわかります。

とてもありがたいです。

相手に喜んでほしいとき、
この年代は、自分が喜ぶものをそのまま贈るのだろうなあと思いました。
自分が最高に喜べる日本最大のアブの絵をうきうきしながら描くわけです。

もしこの年代に、変に相手の好きなものを詮索していたら、
このダイナミックな感動的なカードにはならないでしょうし、
そういう子どもは少しこわい感じもします。
それは経験を積む中で、
少しずつ相手の好みにあわせて贈るというスキルが得られるというものでしょうが、
これは相当高度なスキルだと思います。

そして大人でもこのスキルは二の次だと思ったりします。
一義的のものは、相手に喜んでいただきたいという思いだと思います。
愛だと思います。

ウチの子たちでもそうですし、
教会の子たちでもそうですし、
私の幼き日の経験でもそうなのですが、

この年代は、
自分のもっとも好きな人形などおもちゃをあげる、あるいは貸す、ということにおいて
相手への愛を表現するわけです。
とにかくよろこんでいただきたいわけです。

だから
「日本さいだいのアブ」は涙もんなのです。

かみさま
この子たちが
一生の友だちとなりますように

アアメン




「絆」が叫ばれた年のクリスマス

2011年12月26日 | 教会のこと
今週の週報巻頭エッセイです。

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「『絆』が叫ばれた年のクリスマス」

恒例の、清水寺にて発表される今年の漢字に選ばれたのは「絆」である。

3月11日の東日本大震災を経験した私たちは、「絆」を再発見したのだ。
つまり、切る事のゆるされない、切る事のできない関係性の大事さを決定的に知るに至った。
私たちは地震、津波、原発事故という大苦難を体験、追体験する中で、
一人では生きていけないこと、他者と助け合わねば明日の命が見えてこないことを知った。
それは死者および死と向かいあう状況の中で知らされた。
つまり「絆」を取り戻す豊かな動きは、
死と死者と向かい合う中での悲痛を中心とする複雑な心と体の動きの只中でのみ起こされているのだ。

クリスマス。
それは「神我らと共にいます」という神の「絆」の宣言を祝う時。
神が絶対に私たちとの関係を切らないと宣言された日。

それはキリストを通して起こされた。

キリスト。
それは十字架で殺された方。
最も虐げられ最も見捨てられた方。
神は、キリストの死と死者としてのキリストと出会う中で私たちとの「絆」を取り戻された。
私たちもキリストの死を目の当たりにして神との「絆」を知らされた。

「絆」とは命であること、生きることと対峙する出来事の只中でこそ確認される。
だから共に生きるときには、私たちは必ず命と生を脅かす苦しみ、悲しみ、痛み、さみしさを経験する。
すると私たちはそれらを避けるために共に生きることを停止し、一人になろうとするかも知れない。
また、互いの利益が確保される限りにおいて共に生きるという線を定めるかもしれない。
しかしそれらは「絆」においてはゆるされていない。
それらは自分の安全地帯があることが前提となる。
しかし大苦難という安全地帯が消える中では、端的に互いの苦痛、悲哀を担いあうしかない。
そこでどんな緊張、摩擦があっても、担い合うしかない。
そうしなければ命と生とが確保されない。
そしてこの十字架としか言いようのない場面にて、「絆」が再発見され、成立する。
この事実は、神との「絆」が十字架によることにより証明される。 

また「絆」が叫ばれると同時に、「日本」というフレーズも叫ばれた。
つまり「絆」にて十字架を背負ってもなお私たちがつながるために、
「日本」という共通項が強調されたのだ。
しかしその中で同じ災害にて苦しむ在日外国人は、存在を無視され差別もされた。
同時に日本国籍を持つ者たちにも、
国家主義を歴史的罪責の吟味なしに受け入れる社会の雰囲気が起こり、
ゆえに政府の言動をそのまま信じる雰囲気も起こされた。
そしてこのことがとりわけ放射能問題では人々にさらなる傷を負わせている。

「絆」の心臓は「日本」などの国家ではない。
キリストの十字架であり、我々の背負い合う互いの十字架である。
端的に共に十字架を背負う「絆」こそ、
神が私たちに贈るクリスマスプレゼントなのである。

ちょっと早いクリスマスプレゼント

2011年12月24日 | 教会のこと
遅くなりましたが、今週(って本日までですが)の週報巻頭エッセイです。

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「ちょっと早いクリスマスプレゼント」

ある律法専門家は答えた。「隣人を自分のように愛しなさい。」
イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
しかし、律法専門家は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とは誰ですか」と言った。

有名な善きサマリア人の話。
イエスは、善きサマリア人の例えを用い、誰が隣人か?ではなく、誰の隣人になるか?を教え、
「行ってあなたも同じようにしなさい」と戒める。

一昨日、「ぜひ御教会のホームレス支援と、支援をしている教会のみなさんのために用いてください」と献金された方がおられた。
感謝してお預かりし、お名前を伺うと、彼は「伊達直人(タイガーマスク)ということで」と名乗った。
多額の献金だ。
寄り添いネットと、完成後にはホームレス支援にも用いやすくなるところの、増改築献金に、半分ずつ献げていただいた。

ホームレス支援をしている教会として覚えてくださり、献金をしてくださる方はますます増えている。
また、具体的にボランティアで参加してくださる方も増えている。

ホームレス支援のボランティアと当事者みんなの交わりは、
不思議と聖書に書かれている主イエスを中心とする群衆の交わりが体現されているものとなっており、主に感謝する。
そして、当教会の交わりが同じく主の交わりを実感できるのは、
ホームレス支援の交わりのかたちと雰囲気から、教会の私たちが学んだものが多いことが要因であることも、歴史的に間違いないと思う。

そしてこの交わりの特徴は、
誰が自分の隣人になるか、というものが、
主に愛されているゆえに、
とりわけ具体的に困窮している人の隣人になり、その方を愛する、
というものへと、
主による出会いを通して変化し続ける、というものであろう。

この事柄を、当教会はもはや一言で語っている。
「他者の隣人になる」。これが主を信じる者の行為である。と。

伊達直人さんは、この夏に勤める工場で機械に挟まれ、今生きているのが奇跡であることを証しされた。
私は思う。彼は、まさに正しい答えを実行するゆえに命を得たのだと。
他者の隣人になることは命を生み出す。
まず第一に、愛、つまり一生共に生きる関係性なる命を得る。
そして同時に、
隣人のために生きるための身体器官の維持という命も得られるとまで言ったら言い過ぎだろうか。

聖書と経験を対話させるときに、私はそう思う。

「他者の隣人になる」。
最も豊かなプレゼントを、教会はちょっと早めにいただいた。
心から感謝するのである。

「グローバル化と21世紀の宣教」のための提言

2011年12月02日 | 「生きる」こと
2009年に広島で開催された宣教シンポジウム資料として書いたものです。
311以後にもう一度読みたいと思いました。

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日本バプテスト連盟中長期計画に向けての提言

ホームレス支援特別委員会
委員長(当時) 大谷心基(日本バプテスト京都教会牧師)



1) はじめに

 現代の世界システムとなったグローバリゼーションの只中にある教会は、キリストに従うゆえにどういう存在としていかなる行為をすべきなのか、が、今回のシンポジウムの大きなテーマと理解する。そしてそれが日本バプテスト連盟中長期計画の中で具体化されるものと期待する。
 当委員会は、一貫して掲げる委員会理念をグローバリゼーションの世界の只中で噛み砕くかたちで今回の提言をしたい。
 そこではじめに、連盟定期総会資料に常に記している当委員会理念を確認したく願う。

<理念>
* マタイ25章31節~46節の御言葉に立つ。「主の兄弟である最も小さい者のひとり」としてのホームレスに関わることは、信仰の、そして福音宣教の課題であると考える。
* マタイ4章4節の御言葉に立つ。「ホームレス問題」は、「ホーム」ということばで表現される「関係性」「帰るべきところ」「いのちの基盤」「家族など愛し支えあう者たちのいるところ」の喪失がその本質であると考える。ホームレス問題は単なる「ハウスレス」問題ではない。「ハウス」(家)に代表される「衣・食・住」という物質的な必要を満たすとともに、教会、家族、地域、学校、職場における関係、そしてそれらの土台である神との関係を回復することこそが、課題である。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」。ホームレスのひとりひとりを含め、わたしたちのすべてが、神の口からひとりひとりに対して与えられる赦しと愛の宣言のもとで兄弟姉妹であり、家族であると理解する。

2) グローバリゼーション(余剰、搾取、格差、貧困、戦争)

 グローバリゼーションはホームレスを産み出す。システム上これは必然である。
現代の多くの思想家が言うように、グローバリゼーションの正体は余剰分の確保を競うことである。企業は世界市場の競争で勝つため資本を増加せねばならない。したがって企業は資本を拡大することに躍起になる。すると利益は資本にまわされ、労働者確保にはまわされない。また合併や買収により資本を増やす。そこでは労働者が多数解雇される。
資本は社会に還元されない端的な余剰分である。今世界には余剰がある。しかしその余剰を大きくしなければ経済競争に敗れるシステムとなぜかなってしまった。そして資本という余剰金がさらに増え、市場にまわる金が減る。
さらに余剰分増加のための搾取が起こる。余りのないところがさらに搾取される。ここで大きな格差が生まれ、貧困が拡大する。
そしてホームレスが産み出される。
実際に日本においても、このシステムを導入した小泉構造改革以降、急激にホームレスが増加した。
したがって当委員会にとって、グローバリゼーションは緊急に克服すべき世界システムである。
敬虔なカトリック信者の思想家であるジャン・リュック・ナンシーは、このようなシステムはすでに経済ではなく、あえて呼ぶなら「超」経済であり、それは経済が経済を超えて正体不明のものになったということであると分析する。この論は後の提言にも結びつくので紹介する。
さらにグローバリゼーションは戦争を生み、人を殺す。貧困を受ける者は貧困からの解放のため戦争ですべてが変わることを望み、また資本増大を目指す者は搾取の手段として戦争を歓迎する。
よって「殺すな」という戒めに立つキリスト教会にとって、またその戒めを「平和に関する信仰的宣言」として告白する当連盟諸教会・伝道所にとって、戦争を必然的に生むグローバリゼーションの克服は緊急課題である。

3) 格差、貧困と個々人

 貧困層が起こり、格差社会となった現代社会は、極論ではなく勝ち組と負け組みとで構成されるようになった。そこでは勝つための競争が起こる。さらには勝ち組となるための教育も始まった(京都市では高校の授業でマクドナルドの経営戦略を学ぶ)。
 競争は同時に分断を生む。ある個人が勝ち組となることは同時に他の個人を負け組とすることである。
 現代における貧困は、分断された個々人の貧困である。貧困に苦しむ者は、同時に分断され孤立していることに苦しむ。競争において分断され貧困となった時、人はその苦しみを共有する関係にある他者をも失っている。つまり「共に苦しむ」仲間がいない。さらには貧困となった原因を自分に見出し自己否定することで(自己責任論)、自分との関係をも失っていく。したがって当委員会は、ホームレスを「ホーム(関係性)」の「レス(喪失)」と認識する。貧困の大きなテーマのひとつは、孤立からの解放であり、関係性の回復、ホームの形成である。そして分断とのたたかいであり、人間の恢復である。
 勝ち組は苦しむことがないかと問うならば、私は勝ち組こそ決定的な苦しみを内包していると言わざるを得ない。まずは勝ち抜いた人も孤立している。「共に喜ぶ」仲間がいない(勝つことが喜びであるとは本来言うことができないが)。また競争を勝ち抜いたということは、他者を踏みつけ、他者から搾取したことであるが、それを自覚しないよう調整しつつ生きることは苦しみではなかろうか。仮にそれが無意識であったとしても。人はこういう場面でさばかれるのを待っている。そしてさばかれるゆえに存在を赦され、次こそは他者を踏みつけるのでも搾取するのでもなく、別の道を歩むことを希む。しかしそれでも同じ道を繰り返すときにはもう一度さばかれる。これが信仰である。
 勝ち組、負け組という枠組みとは関係なく、現代の格差・貧困社会の中での大きな課題は「個人」である。分断された個人とは他者と出会うことのない個人である。そこで個人はおのずと自らを世界の大きさまで肥大化することになる。先ほどナンシーの、現在の経済は「超」経済という正体不明のものとなった、という論を紹介したが、個人もまた「超」個人となり、いまや正体不明のものとなった。あるいは「超」人間と言えるかもしれない。すなわち、今われわれは人間であることを止めて、人間を超えようとしている。これこそ、自分自身の、あるいは個人の偶像化、つまり人間の神化ではなかろうか。そしてそれは個人が世界になるはずのないところで、世界となろうとする不思議な挑戦である。しかしその挑戦に生きる者は自身が世界全体となる幻想を抱く。そこではアイデンティティが肥大化する。その現象は、個人主義と信じつつ国家やなんらかの力と自身を一体化させるかたちで現われる。平たく言うと長いものに巻かれることが個人主義を信じるゆえに起こる。個は他者との出会いからのみ起こされるが、他者との分断からは起こされ得ない。他者と共に生きる中で個人は個人とされるが、分断される中では個人は「超」人間という肥大化した幻想体となる。そしてその幻想体はそれぞれの時代地域の中で最も大きな力と必ず結びつく。つまりそれにより自身が最も肥大化できるからだ。そしてこの個人という名の「超」人間が「超」経済というグローバリゼーションを産み出した。
 
4) 今日キリスト教会とは何者か

 日本バプテスト連盟は教会教育において「生の全領域」という範囲を大切にしてきた。この徹底が今後さらに必要と考える。教会と私生活、福音と社会、信仰と行為、精神と身体というような二元論は、生の全領域が語られる場では居場所を持たない。我々は二元論から解放される。
 その中で個人と全体という二元論は克服されねばならないことを前述した。個人は容易に全体となり、全体は同じく個人となる。つまりこのふたつは異なるどころか同質である。ならば我々は今何を問うべきか。それは個人だろうと全体だろうと、他者と共にあるか、他者と分断されているか、である。
 個のアイデンティティが確立して初めて他者と出会うことができるというのは嘘である。我々は他者と出会うことで個が確立する。乳児は親や兄弟と出会うことから個を確立する。キリスト者は他者なるキリストと出会うことから個を確立する。
 しかし個のアイデンティティ確立を最初の作業と信じるケースは多い。しかしそこから解放されねばならない。繰り返すが他者と出会うことのない個のアイデンティティは永遠に肥大化する。これは究極の偶像礼拝である。さらにその個人は余剰分を確保することで肥大化する。キリスト者がその状態になるときには次の現象が起こる。それは自身の時間的余剰ができて初めて礼拝出席と奉仕をなし、金銭的余剰ができて初めて献金をするということである。ここで一番目に余剰分、二番目にキリストという順序が起こる。すると第一の他者であるキリストとの出会いが余剰分で行われるゆえに、同時代に生きる他者との出会いも余剰分で行う。隣人愛は余剰分があるときのみのテーマとなる。これが偶像礼拝の引き起こす現象である。
 そして私たちは今日の教会にこの要素が程度は異なれへばり付くことを否定できない。教会が個人の余剰分あっての教会となっている部分は大きい。しかしそれはキリスト教会ではなくグローバリゼーションに生きることであり、同時にキリストではなく余剰分に従うことであり、さらには搾取と格差、貧困と戦争に協力することとなる。
 我々は今覚悟を決めてキリストへ従う方向へ向き直さねばならない。それは各個の確立ではなく、第一の他者であるキリストと出会うゆえの、同時代の具体的他者との出会いによる双方の確立という方向である。

 それをキリスト教会は「共に生きる」という言葉で大切にしている。この徹底も欠かせない。共に生きることは単純なイメージではなく具体的な行為である。当委員会が理念とするマタイ25章から学ぶならば、それは、飢えていたときに食べさせ、のどが乾いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねる、という具体的な行為である。
 我々諸教会・伝道所は具体的な宣教施策として以上の事柄を持つだろうか。また持たなくともそのような者があらわれたときに我々はどうするか。教会には余剰分がないためにかかわることができないという論を正当化するだろうか。もしそうならば教会は変えられねばならない。そのような他者との出会いからこそ教会は教会となるという事実を生きねばならない。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という主イエスの言葉は事実である。この件に関してはこの提言の最後に具体的な提案をしたく願う。

 このようなかかわりが「共に生きる」ということである。そしてここから各個が確立する。
 しかしかかわるから各個が確立するということでもない。かかわるなかで我々が知ることになり、知らされるしかない事柄があるから各個が確立する。それは主イエス・キリストの十字架である。十字架はどこに立ち、キリストはどこで釘打たれているのか。それは他者とかかわりつつも、限界ゆえに他者とかかわりきれない自分自身を見せ付けられ、それにより他者との裂け目を知るに至るところではないか。そこで神は他者を愛しきれない我々をさばく。そのさばきは十字架のキリストにおいてなされている。我々は自らにおこるさばきを十字架のキリストの傷と死により知るに至る。その十字架が、我々の限界と、私と他者との裂け目の只中に立ち、なお我々を他者へと向かわせる。なお我々を愛することへと向かわせる。
 我々は他者との出会いの中でキリストの十字架の前に立ち、そこでさばきと赦しの奇跡を受けて、初めて我々自身となる。各個はそこではじめて各個となり、教会はそこではじめて教会となる。

 今日キリスト教会とは、主イエス・キリストの十字架の前に立つ群れのことである。十字架を知るゆえに神にさばかれることを知る群れである。十字架により存在が赦され、真の恢復を頂き、そういう者たちとして他者と出会い続け、他者を愛し続ける群れである。
 今日キリスト教会とは、主イエス・キリストの十字架を放り投げる群れではない。さばきを認識しない群れではない。さばきのない赦しだけを受ける群れではない。十字架のない恵みに生きる群れではない。十字架の在り処に出会うことがない群れではない。すなわち、他者と出会うことを拒否する群れではない。引きこもる群れではない。余剰分があってはじめて教会を考える群れではない。

 したがって私は、前回の宣教会議で提案された「全被造物と共なる礼拝」という標語を軸に展開された新たな連盟宣教理念は、大切なテーマを見出しつつも最も重要な事柄、つまり全被造物と出会うことがゆるされる根源である主イエス・キリストの十字架の出来事が中心からはずれていることを指摘せねばならない。それは、十字架のキリストが中心とならない新たな理念もまた、グローバリゼーションに加担し、戦争に協力する理念となる恐れがあることの指摘でもある。また「異なる者が異なるままで」というフレーズも同様である。異なる者が異なるままである根源であるキリストの十字架による異質な者同志の出会いを、具体的な計画として立てることが今日の教会に求められている。無論深く読み込めば前回の理念にそこまでのことが述べられていることは承知しつつ、しかし十字架が中心に来る述べ方に変えることの意味は計り知れない。

 最後に当委員会から具体的提案をしたい

 当委員会は、各個教会・伝道所がキリストの出来事に突き動かされて、ホームレス生活者の支援を行うことを目的としている。それは教会の交わりが、例えばマタイ25章のみ言葉に後押しされて、本当にホームレス生活者と出会い、彼(女)らが今の状態から救済されるよう行為することである。
 その際、教会は救済に必要な知識を持つ必要がある。生活保護法などの法律や、行政や民間等のさまざまな社会的資源の存在とそれらとの協力方法などを教会が知ることは、これからますます広がる貧困社会の中で、欠かせないことである。まずはそのような研修を当委員会単独ではなく、連盟全体として開催する必要性を訴える。
 さらに連盟諸教会・伝道所は各都道府県にまたがるため、教会・伝道所が各地域の貧困社会における救済センターを目指すことを提案したい。その際、連盟に加盟する教会の中には、教会が、あるいは教会から生まれた民間団体がすでに優れた救済プログラムを有しているところもあるため、ネットワークを結び、相談と対応ができるシステムづくりを提案したい。
 さらには、ホームレス生活者や、貧困生活者とかかわるときに発生する金銭面を支援するシステムも、連盟全体として整備することを提案する。
 つまり、ここでも二元論を克服し、単に精神面でかかわるのではなく、物理面も含めて他者とかかわることのできる宣教体制づくりが必要であると考える。
 ここが現代のグローバリゼーションと戦争に加担するか、キリストに加担するかの別れ道であるため、しつこく繰り返すが、余剰でつくるのではなく、キリストのために、他者のために、献げてつくることを提案する。
以上