きぼう屋

生きているから生きている

沖縄慰霊の日 犠牲の連鎖がなお強くなる中で 罪人たちが生きる

2015年06月24日 | 「生きる」こと
昨日は沖縄慰霊の日

安倍総理の言葉に気が萎えます。無力感を覚えます。
悲しい。

「悲しい」では正確に表現できない身体の覚える感触が、
身体を支配してします。
怒るのだけれど、「怒る」では正確に表現できない身体からわき上がるものに、
身体が押しつぶされそうな感じです。

沖縄地上戦での死者のおかげで今の日本の繁栄があるという、
「美化」なる歴史の解釈、修正が今回も国のトップから語られました。

絶対に違います。

戦争で自分は死にたくないし、自分の財産は守りたいから、他の人に死んでもらうという、
そういう犠牲者を差し出す行為から、
戦死者が生まれるわけです。

歴史の中のほんの5年スパンほどで考えられるところの、
いわば時の流れに身を任せるかたちで、
決して歴史全体から結論を出すというものではなくて、
繰り返してしまうけど、ほんの5年くらいのスパンで自分が守られるということを考えるところの、
不思議な「平和」は、
必ず犠牲者を生みます。

そして、時が経つと、
犠牲者のおかげで今があるとして、
犠牲者を誉め称えます。

犠牲の連鎖による不思議な「平和」

国レベルで原発政策、安保体制、福島、沖縄。

そして個々人レベル、小さな共同体レベルでも、
犠牲の連鎖による、歴史なき不思議な「平和」が生活の本質になっていることは、
とても多いというか、そういう体質になっていると、
反省せざるを得ないと思っているところでして、
そのあたりが表現できない身体作用となっている気がします。

そして、前回の投稿で長くつぶやかせて頂いたことですが、
積極的に生きるという自己暗示も、
犠牲を隠すためのひとつの修正手段だろうと思っています。

不思議な「平和」は実は犠牲の連鎖のこと。
だからたぶん、本当の平和は、その逆の連鎖に生きることなのだろう。

アメリカで白人の少年が学校で黒人少年を無差別に銃で殺した事件。
そこで子を殺された親が殺した少年をゆるすと語ったとのこと。

すごいと思いました。

犠牲の連鎖を止めるのはゆるしなのだ。
そしてそこからゆるしの連鎖、愛の連鎖がはじまるのだ。
と、単純に思ったりもします。

単純には本当にそうだと思います。

10年くらい前はそういう方向転換をしたいと、がんばって訴えている私がいました。

でも、ゆるしは、わたしに本当に出来ることなのか、
人間はゆるすことができるのか、

今はそういう問いの前にいます。

ほんとうは赦すことができるのは神のみではないか。

神の赦しの前で、
十字架上であの表現できないものをすべて受け止めるゆえに苦しみきり悲しみきり殺されきり死なれたもうキリストの前で、

わたしは、ただただ、自らの罪と、
向かいきることができない、
にもかかわらず、
向かい合うことしかできないのではないか。

犠牲の連鎖の世界に生きる者として
犠牲を前にして、
その世界に堕ちきっている罪人の私をキリストの十字架の前に差し出すしかできないのでは・・・・・・・。


戦争や原発という重大問題と向き合うときに、
命の保全、自然の保全という観点から、
つまり、創造論から丁寧に考えることと同時に、

いやそれ以上に、

私たちひとりひとりの、
私たちの生活する世界の、
実は堕落した様を、そういう罪を、
そして、私たちは罪人であり、世界は罪世界であることを、
隠さず、
解釈で修正もせず、
そのままあからさまにして、
それらと向かいあうことを

わたしは、神から問われていると、強く、強く、感じ取っています。

こういうのは消極的と言われるのかもしれません。
行動的ではなく静的なものでもあります。

でも、表現できない身体の感触と身体から湧き出るものを受けつつ、
罪人である私を十字架の前に差し出すことへの挑戦へ
招かれているのではないか、
と、
問われているところです。

祈りをささげつつ。















戦争と嘘と積極性と憲法

2015年06月05日 | 平和のこと
変なタイトルでごめんなさい。

で、

安保関連法案は違憲。
と、憲法審査会に呼ばれた専門家全員が言いまして。

至極全うでありまして。

でも全うが全うとならない行為が、逆に全うとされるような政府があるので、
全うなことが全うとされないような雰囲気がなお醸し出されてもおりまして、
なんとも変な感じなのでありますが、

しかし、政府に限らず、
全うであるものから批判を受けつつ生きるのではなくて、
欲しているものが全うであると言い切って生きることは、
人の世では常にはびこることなのだろうと反省しているところでもあります。

だから、安保関連法案が合憲であると言い切ることは
嘘であるけれども嘘であるという感覚すらなくなるくらい、全うなことだと言い切ることの出来る精神が既にあるだろうと思っています。

自らの欲するものを手に入れるために、それが正しく全うであると自分に言い聞かせるばかりでなく、それを他者にも説明でき、さらに他者もそれに同意してしまうくらいの、
それくらい、今のわれわれが、自分の欲するものを実現したいということに夢中になっているという、そういう精神が既にあるのだろうと思っています。

自分の目標を達成するための諸々
自分が気分良くなるための刺激、興奮
自己実現

これらはもはや精神として、かなりもてはやされつつ存在しているのだろうと思います。

そしてこの精神の基準は、自分ではかることの出来るものであり、
それもおそらく、かなりわかりやすくはかることのできることであり、
おそらく、いや、間違いなく、快感、刺激、満足感と呼ばれるようなものたちだと思います。


そして、この精神は、必ず、
嘘や隠し事と肩を組むしかないものでもあるに違いないと思います。

目的を達成する快感、気分が良くなるための刺激は、何かを隠し、事実を曲げてでも、獲得されるものとなっているようであります。
このように獲得することを積極性と呼び、
それがポジティヴシンキングと呼ばれることも多いと感じています。

ナチスが戦争に賛成するキリスト者を積極的キリスト者と呼んだり、
安倍さんが、戦争の出来る状態を積極的平和主義と言ったりするのは、
偶然ではなく、この精神が横たわっているゆえと思ったりします。

そこでは、
過去の、都合の悪い事柄は隠され、
欲するものを手に入れるために、逆に過去が修正され、美化され、
そのためには、嘘がつかれる、
けれども、
その隠すこと、嘘をつくことにも気づくことが出来ないという、
また隠されていること、嘘をつかれていることにも気づくことが出来ないという、
そういう精神が、強固に、横たわっているのだと思います。

積極的に生きるという名の刺激と快感と自己実現は、
戦争と肩を組むしかなく、
嘘と隠し事と肩を組むしかなく、

そうなると、

違憲も合憲ということになっていくのだろうと、、、。

だから
欲するものを手に入れるための精神は、
単純な刺激や快感や自己実現が、全うなものを覆い隠すゆえに、

逆に、
全うなものから常に批判されつつ歩むところに、
平和を見たいと願うのありまして。

憲法はそのための全うなものとしてあるだろうなあと。

私の場合は、十字架のキリストから、全うなる十字架のキリストから、批判されつつ歩みたいわけでありまして。










修学旅行で故郷へ

2015年06月04日 | 「生きる」こと
次男君。10日前まで修学旅行でした。
京都、奈良、大阪。

で、なんと、
バスで御池通、河原町通を通ったそうで、

「ここが行ってた中学校」「ここ入ったところに住んでた」「ここのラーメンうまい」とか、
ちょっと興奮してみんなにしゃべってたとのこと。

廃校になった春日小学校にプレハブが建っていたとのことで、もしかして復活?とも言っておりました。どうなんでしょう?。

サッカーに夢中な次男くん。
とても独特な技術とリズムでサッカーをします。

クラブでサッカーを教わってきて人たちとは動き方がまったく異なるから面白いです。

これは、まさに鴨川サッカーで養ったものだなあ。

鴨川でウチの兄弟がサッカーを毎日しておりましたら、
そこにご近所の子たちが交ざりだし、
鴨川を散歩しているお兄さんたちも交ざりだし、
さらには親御さんも交ざりだし、
いつの間にか、
いろんな年齢層が集まってサッカーをするようになってました。

狭い河原で、当時小学生の次男君は大きなお兄ちゃんを抜くために、
また、パスやトラップでミスすると鴨川にボールが落ちてびしょびしょになって取りにいくというわけだから、
そうならないパスやトラップをするために、
独特の技術、リズムを発見していったのだと思います。

彼は今でもシュートを強く打たなかったりします。
さっとコースを見つけてさらぁーと流し込む感じです。

鴨川を久しぶりに眺めた次男くん。
いい顔してます。

実は長男君が、
今、小倉南の友人宅近くの公園で、
高校の友人たちと
あの鴨川サッカーのようなことをしています。
月に二回ほどやっているのですが、
いろんな人が加わっていくそうです。

ときどき小4の四男くんを連れて行ってくれたりもします。

私もときどきお兄ちゃんたちとボールを蹴りますが、
先日、無回転のボールを蹴る練習をしていましたら、股関節を痛めまして、太もも内側が内出血しましたので、たぶんじん帯をすこしばかり損傷したみたいなのですが、
もう数年はボールを蹴りたいので、シェイプアップしようかと思っているところです。
と思って坂道ダッシュをしたら、再び股関節を痛めました。
でも、内出血はようやくおさまってまいりましたから
そろそろ、のんびりと、はじめようかと思っております。

修学旅行の話と言うか、サッカーの話になってしましまして。。。


運動会でした。

2015年06月02日 | 「生きる」こと
この前の日曜日は我が家の小学生たちの運動会でした。

でも私の中では、運動会は、体操服の胸に紅白の名札をまつり縫いするところから、すでに始まっておりましたよ。

裁縫も楽しい。料理をはじめとしてあらゆる家事は私のリラックスポイントになっております。


がんがん雨の予報だったけど、末娘のてるてる坊主のおかげでしょうか、見事に晴れました。暑すぎて困るほど。

みんなで弁当のメニューを考えて、当日は4時起きで作ります。
ハンバーグ、若鶏のチューリップの唐揚げ、ステーキ、かぼちゃの煮物、フライドポテト、出し巻き卵、枝豆、グラタン、フルーツ
卵とポテトがちょっと塩が強かったかなあ。でも炎天下でがんばる子たちにはちょうどよかったようでもありまして。

ほんとは、おやじの会が6時45分に集合して、場所取りなどのリードをするので、そこから参加したかったのですが、
弁当が間に合わず、ごめんなさい。
ということで、8時にようやく中学生以上のお兄ちゃんたちと小学校に着いたら、
すでに校庭はキャンプ場。
テントが張り巡らされて場所がありません。
が、
うまいこと、旗のポール下が空いてまして、
しかもそこはちょうどベンチにようにもなっていまして、
そこを我が家の空間といたしました。

で、

開会直前に、なんと、

先生たちが円陣を組んで気合いを入れてまして。

末娘の入学式のときから感じてはいましたが、先生たちにチーム感があってなかなか好きです。

ウチはなぜかみんな足が速くて、兄弟みんながリレーの選手に選ばれるのですが、
一年生の末娘も、選ばれました。
でも、練習で一回も勝てない人がいるということで、運動会前は、本人かなりショックを受けておりました。
保育園時代はかけっこも跳び箱も鉄棒も誰よりも出来ていたから、そういうものと思っていたみたいです。

で、リレーの一番手として走りますが、
彼女としてははじめて経験する最下位でバトンを渡しました。

が、本人は本番ではもはやすっきりしていまして、
来年はもっと早くなるために、長男くんから走り方を教えてもらうと言っております。

で、

そんなさわやかな末娘とは対照的に

わたしは、

彼女のは知る姿を見て号泣。

もうこんなに大きくなったんだなあと、こみあげてきてしまいました。
お兄ちゃんたちは、こんな私に慣れているので、またか、という感じでしたが・・・。

閉会してからは、お兄ちゃんたちとテントの片付けまで残りまして、
先生たちと残られた親御さんたちとお茶で乾杯して、

帰りました。

またまた日焼けしました。

このかん、釣りや次男くんのサッカー応援ですでに焼けているのですが、さらに。

で、
実は
四男くんはリレーに出ませんでした。

これまでは、有無を言わさず、先生が、速い人順でリレーの選手を選んでいたのですが、
今年の担任は、まず、リレーに出たい人を募集したそうです。
で、
四男くん、
「もういいかなあと思ったんだよね」
と、手を挙げなかったとのことで。

なんか彼らしいのでした。

彼のダンス、その中での側転、かっこよかったです。

彼も末娘も、ずっと笑顔で、すてきでした。

お兄ちゃんたちも、カメラにビデオを手に走り回ってくれまして、ありがたいかぎりでございました。

小学校の運動会はあと5回もあります。へへ、いいでしょう!。