昨日は沖縄慰霊の日
安倍総理の言葉に気が萎えます。無力感を覚えます。
悲しい。
「悲しい」では正確に表現できない身体の覚える感触が、
身体を支配してします。
怒るのだけれど、「怒る」では正確に表現できない身体からわき上がるものに、
身体が押しつぶされそうな感じです。
沖縄地上戦での死者のおかげで今の日本の繁栄があるという、
「美化」なる歴史の解釈、修正が今回も国のトップから語られました。
絶対に違います。
戦争で自分は死にたくないし、自分の財産は守りたいから、他の人に死んでもらうという、
そういう犠牲者を差し出す行為から、
戦死者が生まれるわけです。
歴史の中のほんの5年スパンほどで考えられるところの、
いわば時の流れに身を任せるかたちで、
決して歴史全体から結論を出すというものではなくて、
繰り返してしまうけど、ほんの5年くらいのスパンで自分が守られるということを考えるところの、
不思議な「平和」は、
必ず犠牲者を生みます。
そして、時が経つと、
犠牲者のおかげで今があるとして、
犠牲者を誉め称えます。
犠牲の連鎖による不思議な「平和」
国レベルで原発政策、安保体制、福島、沖縄。
そして個々人レベル、小さな共同体レベルでも、
犠牲の連鎖による、歴史なき不思議な「平和」が生活の本質になっていることは、
とても多いというか、そういう体質になっていると、
反省せざるを得ないと思っているところでして、
そのあたりが表現できない身体作用となっている気がします。
そして、前回の投稿で長くつぶやかせて頂いたことですが、
積極的に生きるという自己暗示も、
犠牲を隠すためのひとつの修正手段だろうと思っています。
不思議な「平和」は実は犠牲の連鎖のこと。
だからたぶん、本当の平和は、その逆の連鎖に生きることなのだろう。
アメリカで白人の少年が学校で黒人少年を無差別に銃で殺した事件。
そこで子を殺された親が殺した少年をゆるすと語ったとのこと。
すごいと思いました。
犠牲の連鎖を止めるのはゆるしなのだ。
そしてそこからゆるしの連鎖、愛の連鎖がはじまるのだ。
と、単純に思ったりもします。
単純には本当にそうだと思います。
10年くらい前はそういう方向転換をしたいと、がんばって訴えている私がいました。
でも、ゆるしは、わたしに本当に出来ることなのか、
人間はゆるすことができるのか、
今はそういう問いの前にいます。
ほんとうは赦すことができるのは神のみではないか。
神の赦しの前で、
十字架上であの表現できないものをすべて受け止めるゆえに苦しみきり悲しみきり殺されきり死なれたもうキリストの前で、
わたしは、ただただ、自らの罪と、
向かいきることができない、
にもかかわらず、
向かい合うことしかできないのではないか。
犠牲の連鎖の世界に生きる者として
犠牲を前にして、
その世界に堕ちきっている罪人の私をキリストの十字架の前に差し出すしかできないのでは・・・・・・・。
戦争や原発という重大問題と向き合うときに、
命の保全、自然の保全という観点から、
つまり、創造論から丁寧に考えることと同時に、
いやそれ以上に、
私たちひとりひとりの、
私たちの生活する世界の、
実は堕落した様を、そういう罪を、
そして、私たちは罪人であり、世界は罪世界であることを、
隠さず、
解釈で修正もせず、
そのままあからさまにして、
それらと向かいあうことを
わたしは、神から問われていると、強く、強く、感じ取っています。
こういうのは消極的と言われるのかもしれません。
行動的ではなく静的なものでもあります。
でも、表現できない身体の感触と身体から湧き出るものを受けつつ、
罪人である私を十字架の前に差し出すことへの挑戦へ
招かれているのではないか、
と、
問われているところです。
祈りをささげつつ。
安倍総理の言葉に気が萎えます。無力感を覚えます。
悲しい。
「悲しい」では正確に表現できない身体の覚える感触が、
身体を支配してします。
怒るのだけれど、「怒る」では正確に表現できない身体からわき上がるものに、
身体が押しつぶされそうな感じです。
沖縄地上戦での死者のおかげで今の日本の繁栄があるという、
「美化」なる歴史の解釈、修正が今回も国のトップから語られました。
絶対に違います。
戦争で自分は死にたくないし、自分の財産は守りたいから、他の人に死んでもらうという、
そういう犠牲者を差し出す行為から、
戦死者が生まれるわけです。
歴史の中のほんの5年スパンほどで考えられるところの、
いわば時の流れに身を任せるかたちで、
決して歴史全体から結論を出すというものではなくて、
繰り返してしまうけど、ほんの5年くらいのスパンで自分が守られるということを考えるところの、
不思議な「平和」は、
必ず犠牲者を生みます。
そして、時が経つと、
犠牲者のおかげで今があるとして、
犠牲者を誉め称えます。
犠牲の連鎖による不思議な「平和」
国レベルで原発政策、安保体制、福島、沖縄。
そして個々人レベル、小さな共同体レベルでも、
犠牲の連鎖による、歴史なき不思議な「平和」が生活の本質になっていることは、
とても多いというか、そういう体質になっていると、
反省せざるを得ないと思っているところでして、
そのあたりが表現できない身体作用となっている気がします。
そして、前回の投稿で長くつぶやかせて頂いたことですが、
積極的に生きるという自己暗示も、
犠牲を隠すためのひとつの修正手段だろうと思っています。
不思議な「平和」は実は犠牲の連鎖のこと。
だからたぶん、本当の平和は、その逆の連鎖に生きることなのだろう。
アメリカで白人の少年が学校で黒人少年を無差別に銃で殺した事件。
そこで子を殺された親が殺した少年をゆるすと語ったとのこと。
すごいと思いました。
犠牲の連鎖を止めるのはゆるしなのだ。
そしてそこからゆるしの連鎖、愛の連鎖がはじまるのだ。
と、単純に思ったりもします。
単純には本当にそうだと思います。
10年くらい前はそういう方向転換をしたいと、がんばって訴えている私がいました。
でも、ゆるしは、わたしに本当に出来ることなのか、
人間はゆるすことができるのか、
今はそういう問いの前にいます。
ほんとうは赦すことができるのは神のみではないか。
神の赦しの前で、
十字架上であの表現できないものをすべて受け止めるゆえに苦しみきり悲しみきり殺されきり死なれたもうキリストの前で、
わたしは、ただただ、自らの罪と、
向かいきることができない、
にもかかわらず、
向かい合うことしかできないのではないか。
犠牲の連鎖の世界に生きる者として
犠牲を前にして、
その世界に堕ちきっている罪人の私をキリストの十字架の前に差し出すしかできないのでは・・・・・・・。
戦争や原発という重大問題と向き合うときに、
命の保全、自然の保全という観点から、
つまり、創造論から丁寧に考えることと同時に、
いやそれ以上に、
私たちひとりひとりの、
私たちの生活する世界の、
実は堕落した様を、そういう罪を、
そして、私たちは罪人であり、世界は罪世界であることを、
隠さず、
解釈で修正もせず、
そのままあからさまにして、
それらと向かいあうことを
わたしは、神から問われていると、強く、強く、感じ取っています。
こういうのは消極的と言われるのかもしれません。
行動的ではなく静的なものでもあります。
でも、表現できない身体の感触と身体から湧き出るものを受けつつ、
罪人である私を十字架の前に差し出すことへの挑戦へ
招かれているのではないか、
と、
問われているところです。
祈りをささげつつ。