きぼう屋

生きているから生きている

共に生きる

2009年08月17日 | 教会のこと
昨日も幸せでした


幸せっていうのは
わたしは
他者と共に意味もなく時間と場所を共有すること
と考えています

そこに意味のないことが究極の意味だと思っております

意味がないと何が残るのか?

信仰と希望と愛
なんです




昨日は教会学校小学生クラスのリーダーから
うれしい報告を受けました

2年生の男の子が
バプテスマを受けたい
と真剣に言ってきたとのことです

そしてクラスのリーダー3人と男の子で
クラスが終わってからお祈りをしたとのことです

さて
そしてリーダーとどのようにバプテスマの準備をすすめるかを
午後に早速一緒に考えたのですが

まず
イエス様大好き
教会(他者との具体的交わり)大好き
というのは
小学2年生でもよーくわかっていて
そういうあたりを
大人が使う小難しい言葉で教育しても逆効果なので
そこはもはやOK

しかし

という事柄を
2年生とどのように分かち合おうか

というところで
リーダーと牧師はとっても問われるのでありました

準備にたずさわる大人たちが
罪という最大の問題を
小学2年生に戻ってつかみなおす
というテーマをかかえることになったわけです

ひとりのバプテスマ決心は
いつもそうですが
このように
交わり全体を揺さぶるんですねえ

さすが神さま!!

祈って祈って祈るのです




昼食では
沖縄と長崎と福岡からのおみやげもありまして
この時期ならではのおみやげラッシュですが
とってもおしかったです

その後は
バザー献品のお願い
チラシを地域に配布
昨日はみんなで約3,000枚
暑い中お疲れ様でした


そして夕方からは
庭でバーベキュー
赤ちゃんからおばあちゃんまで
みんなで楽しむバーベキューはたまりません

うなぎとスイカの差し入れもあって感謝感謝
花火もみんなで楽しみました

そして16日でしたので
五山の送り火

当教会からは大文字がよーくみえます

というわけで
バーベキューの後はみんなで鑑賞会

ですが
バーベキューが終わってから火がつくまで60分も時間がありまして
その時間がとってもよかったです

お互いにいろんな人といろんな話をすることができまして
こういうまったりが
関係性におけるもっとも大事な部分を作るのだなあ
とまたまた確認したわけです

そしていよいよ火がつきまして

今年は風がそんなになかったので
長く燃えておりまして

存分に楽しませていただきました


また毎年この日だけ再開する
ご近所の方のお孫さんがおられまして
ちょうどウチの子たちと同世代なのですが
この再開がとっても楽しみでまた嬉しいのです

来年も来るよっ
って言ってくれました

その小6のご長女さんは
小さいころからべっぴんさんだったのですが
いやいや
仲間由紀恵に見事にそっくりでございました

そういえば
親ばかでございますが
ウチの言ちゃんは
国仲涼子に似ていると思います
今のところは・・・


というわけで

行ってきます!!


平和創造 その2

2009年08月16日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

**********************

「平和創造 その2」

平和であるなら
生命も生活も人格も
喜び踊るほどに祝されます。

しかし、
生命を平和する、生活を平和にする、人格を平和にする、
という行為は存在しません。

ただ平和を創るという行為のみ存在し、
その平和から
生命、生活、人格が義しく生み出されます。

しかしわたしたちは
生命の平和のために行為します。
それが現在の安全保障という行為であり考え方です。
また
生活の平和のために行為します。
それは「資本」や「共産」といった行為であり考え方です。
そして
人格の平和のために行為します。
それはアイデンティティ確保という行為であり考え方です。

しかし
これらはやはり「安全保障」「資本・共産」「アイデンティティ」であって
「平和」とは別のものです。

しかもこれらは
実は平和と逆の方向へとわたしたちを導きます。
たとえばボンヘッファーは1934年に、
安全保障は自分の敵を想定しての行為であり、
戦争へ通じはするものの平和へは通じていない
ことを語ります。
そして実際に
安全保障が第二次世界大戦へと移行しました。

アドルノは、
アイデンティティは他者と分断される本質ゆえに戦争へ通じる
と語ります。

資本主義が戦争と本質を同じくすることを語る学者は数え切れません。

またわたしは、
共産主義も
外部世界を知らない、あるいは関係を持たない共同体では成立した例が報告されているものの
国家レベルでは必ず戦争へと通じていくため、
これだけを見ても平和とは異なると言わざるを得ません。

では平和とは何なのでしょう?

まず最初に確認せねばならないことは、
平和は人間のみで創ることは不可能であることです。
さらにいうならば、
あらゆる生命体をすべて含むところの被造物のみで創ることも不可能です。

人間のみで行為すると、
必ず自分、隣人、仲間のための平和という枠組みに規定されます。

被造物全体を見ても、
このところは、弱肉強食というシステムがあらわすとおりです。

そこでは
平和あっての自分、隣人、仲間、さらに世界という方向が拒絶されます。

人間、被造物のみでは、平和創造という行為は排斥されます。

つまり
自分に銃を向けている敵を愛しゆるすという行為は
その場所を持つことができないのです。

思想においてもこれらは限界状況と名づけられて、
考察から逃避しています。

こうなる前提は明らかです。
それはこの世界を支配しているのが死と死への恐れだからです。

だから死なないために平和でなく戦争を選ぶことを繰り返すのが私たちなわけです。

死よりも愛、死なないための防衛よりもゆるしを選ぶことは、
人間のシステムには組み込まれていないのだろうとさえ思います。

ゆえに私たちはみんな罪人です。
死に支配されている罪人です。

ならば平和とは?

それは死に唯一勝利しているキリストです。
復活の出来事から世界を創造するキリストです。

復活において死に勝つゆえに
十字架において、わたしたちみんなの死と罪とを含めた全部を引き受け、
そのすべてを痛み苦しんだキリストこそが平和です。

平和とは
このキリストが仲介者として立つところにあります。

そしてこのキリストゆえに
わたしたちは限界状況を超えて敵を愛すると宣言したく願い祈ります。

平和創造とは
つまり
この復活と十字架のキリストに従うということに他なりません。

ぜひ共にキリストに従いたく願います。
つまり
平和を創る者とされたいと願います。

*********************


数日前に
このあたりのことを書くのはいつになることやら
と言ったのですが

書き連ねてみました


ひこうきおじさん
昨晩
というか
夜中に

河原でひこうきを感触をたしかめつつ飛ばしておられました

よかったあ

ひこうきのおじさん

2009年08月15日 | 「生きる」こと
もう2週間ほど前になりますでしょうか

夜は9時くらいでありましたが
庭の水やりを妻がしておりましたら
なんだか地面に影が走ったとのことです

影が映るということは
庭の外灯よりも低く何かが飛んでいったということですが
妻はずいぶん低空飛行の鳥がいるんだなあ
と思ったそうであります

けれどもしばらくすると
やさしそうな男性が何かを探しながら教会の庭のほうにもやってきまして
言ったそうです

模型飛行機は飛んできませんでしたか?

あの影はなんと模型飛行機だったわけです

その男性が来たときは
たまたま空くんも庭に涼みに出ておりまして
そこから男性と妻と空くんの3人で
教会の庭から荒神口通から荒神橋からと
暗い中懸命に探したのですが
残念ながら出てこなかったそうです

しかししかし
どうもその男性の真剣さからして
これはただごとではないと感じた空くんは
なんと翌朝5時に起きまして
添くんと一緒にまた探し始めました

しばらくするとその男性もやってきたそうです

早朝の大捜索
しかし残念ながら見つかりませんでした

妻も隣近所に声をかけてそれぞれの庭を見てもらいましたが
これまた残念ながら見つかりませんでした

模型飛行機を飛ばした男性いわく
飛んでほしいけれども
飛びすぎたらこまる
とのこと

あららいろんなことにあてはまるようなお言葉

そして見つからなかったのに
空くんと添くんに
小さな手作りの模型飛行機をプレゼントしてくれました

これもなかなか気持ちよく飛びます

そうそう
ゴムをぐるぐるぐるぐる巻いて飛ばすやつです
どこかで見たことがあるというああいうやつです


そんなことのあった週末
教会のみんなで庭の掃除をしておりまして
庭のスチール倉庫の上にのっけている直径1mほどの金属製のたらいをおろしてみますと
なんと
そこに
すっぽりと
模型飛行機がはまっているではありませんか

あったー!!!!

妻のあんなに喜んだ顔は久しぶりに見ました

それはそれは大変精巧な模型でした
なんとしても見つけるべき模型でした


添くんが手書きで手紙を書きました


模型飛行機のおじさんへ
見つかりました
いつでも教会の西側のチャイムを押してください


しかしなかなかチャイムがなりません
もしこのまま男性があらわれなかったら
探偵ナイトスクープにでも頼もうか
と半分本気で言ったりしてました



本日の昼間に

なりました

チャイムが

そのチャイムで受話器をとった妻の声が
またまたとびっきりの明るさでした



男性もまたこれ以上ないほどの幸せそうな顔をしておりました

なんとその模型
模型屋さんから依頼されて制作したという
極めて大事なものだったとのこと

模型屋さんがそれをもとに製品化するのでしょうか。



お返しさせていただきまして

ホッとしつつ

しまった!
写真とっておけばよかった!


妻がこれまたひさしぶりに見るくやしそうな顔をしているのでした


いやあ
面白い出会いでした

おしまい

まったり

2009年08月13日 | 「生きる」こと
暑い!!
いやいや熱い!!

というわけで
たまたま妻の妹家族が訪ねてきてくれたこともあって
エアコンを今年初めて使いました



しばらくして動かなくなってしまいました

お客がきてくれたときのみ使用するエアコン

しかしそれももう出来なくなってしまいました

あらら


この間もずーっとしあわせな時間を過ごしております

いろんな人たちと
まったり
過ごしています

本当は時間がないのだけれども
まったり過ごしたいし
まったり過ごすべきなので
ある意味どんどん忙しくもなるのですが

そこはなにがなんでも
合理的に処理はせず
まったりと他者と過ごし続けて

人間でいることを選び取っております


人と人が共に存するというのは
まったりを経て成り立つのだと思っています

ちょちょいと
終わらせると
相手を知ることなく知った気になったり
相手と通じることなく通じた気になったり
さらには
知った気や通じた気を信じてしまって
収拾がつかなくなったりします

いま
わたしはあらゆる場で
こういうおかしさからの解放を目指しています
だからウチの教会では
「キリストの体」
関西連合では
「具体的に顔を合わせる」
ということでやっています

寄り添いネットはなかなかどうして解放されているのではと思います
出会いから起こることでわりかし動けています



まったりと共に生きるときにこそ
丁寧にキリストの十字架のゆるしとさばきを
味わうことができます


日曜日の夜
ウチの教会の青年たちといっしょに夜ごはんを食べに行きました
まったりと3時間弱


これが
なんとね

ウチの家族がおごってもらっちゃいました

いい意味で
はめられてしまったわけですが・・・

すまんねえ・・・


その分は教会の庭整備特別献金としてささげさせていただきます


しかもね
ウチの子どもたちの面倒も見てくれまして
いやいや
面倒を見るなんて表現はあってませんねえ

子どもたちとも共に生きてくれまして!!

ウチの子はホントしあわせ者です!

感謝感謝

感謝感謝


でね
ホントえらいしあわせでたのしいのですよ

あの時空はなんと表現すればいいのでしょう


でね
今回も
青年の一人ひとりのそれぞれの
抜群の性質を垣間見て

わたしはすごく学ばされるし
自分の足りないところを知らされるし


さらに
わたしの何かが確実に埋まっていって
安定する感じを覚えるんですよねえ

癒されておるわけです・・・

相互牧会

青年会でも起こっているわけですねえ


キリストさん
感謝!!!


月曜日は朝から
教会に泊まったMくん(関東に転勤になったけど遊びに来てくれました)

生活保護を受けることになったコロスケのお父さん

夜中に車で走ってきた妻の妹家族
がいっしょになりまして

これまたまったり


火曜日は
午前の祈祷会と昼食会を楽しんだあと
他の教会のみなさんはバザーの準備をしてくれているのですが
僕ら家族は妹家族と出かけるために途中退席

わたし別にお休みを取っているわけでもないのですが
たまたま火曜日で
教会のみなさんがいたから
教会のことを引き受けていただいて
遊びにいくことができまして
これまた感謝感謝なのでございます

火曜日は信仰者の先輩が集まってくれています


わたしはこのみなさんのおかげで
なんとか牧師として立つことができてきたと思ってます
育てていただいております

ゆるされてる!!

ってのをびんびん受けております!!

感謝感謝

感謝感謝です


このゆるしがわたしには足りないなあ
って痛切に思うこの数年です!!

さらなるご指導よろしくお願い申し上げます



はじめてマンガミュージアムに行きました
ここでもまったりしました

えらく気持ちのいい庭の人工芝を子どもたちとはだしでかけまわり
ミュージアム内のお部屋でごろんとし
ときどき絵本を読んでおりました
それが3時間弱


ミュージアムを出ましたら
あらなんと
我が家にいつも新聞を届けてくださっている方と道でばったり
新聞配達をしているけれども
実は芸術家で
やさしい絵を描かれる方で
ウチの教会の子どもたちに作品を下さったりしてくれる方です

体全体からやさしさが染み出ている方でして
ウチに新聞を持ってきてくれたときに会うと
配達途中なのについつい話しかけてしまいます

でね
お連れ合いとご一緒でして
これがとてもキレイな方でした

内面が表面となっているというキレイさ!!

なるほど!
そういう家族なんだなあ
とまたまた学ばされて
感謝感謝



実は火曜日は
共くんの9歳の誕生日

だからそのあとに

保育園の親仲間で中華料理屋をやっている
Sさんのお店に行きました
友人として家族ぐるみのお付き合いさせていただいてもう7年!!

ここの料理はすべて絶品!!
遠くから京都に遊びに来た人を連れて行くことが多いのですが
そういう方がもう一回京都に来るとまず間違いなく連れて行け!と言います

とくに餃子はここでしか食べられない味!


長男さんはオーストラリア留学を終えて今度は中国留学
お母さんは芸術家で今は博士課程でさらに勉強中
Sさんも京大で学んだという
なんともどえらい賢いご家族なのですが

でも賢いというよりも
抜群の落ち着きがあって
それもまわりにいる者が安心してしまう落ち着きがあって
これまたいつも学ばされます

わたしは
とりわけ20歳代は
いつでも脳みその切れ味をするどくしている
という感じで
なんとも落ち着きがありませんでしたが

Sさんと出会って学んだのは
脳みそをもっと切れるようにする人間は決定的に落ち着いている
ということでした

落ち着いている人の中に
切れ味を放棄して安定区域内で生きる人と
さらに切れるようにしている人がいることを知りました

わたしにはちょっと無理だけれども
でも
Sさんのような落ち着きから
いろいろと与えられておりまして
やはり
感謝感謝なのであります



最後はちょっとSさんも一緒に飲みまして
これまたしあわせでした


なんと

Sさんの次男さんと長女さんを
我が家に連れてきてしまいまして
みんなで我が家でお泊りとなりました

子どもたちはみんなでお風呂にはいってみんなで寝ました


みんなの寝顔を見て
嬉しくてたまりませんでした
思わずこういうときは
みんなの幸せを祈ってしまいます

Sさんが
子どもは僕の将来!!
って言ってくれまして

まさにそうだなあとわたしも思いました

水曜日は
自立生活がはじまった方との面談をしました
いい顔になってます
この調子でがんばってほしいです

今回は
なにしろ食べていくための仕事にかんして何でもしていくということと
しかし
将来にわたって生きがいとなる仕事を
夢に終わったとしてもいつも描いておく
というような確認をしました

祈祷会もこれまたまったりと聖書をわかちあって祈りあいます
若い仲間の出席も増えてきてなによりです
ウチの祈祷会は
他者のために祈り、他者に自分を祈ってもらう
という会です
この祈りはとりなしの祈りと呼ばれますが
深い真理が隠されている祈りです

祈祷会後はバプテスマクラス
今回は
「神」と「創造」がテーマ

「神」という呼び名とは
神が僕らと必ず共にいて、さらに僕らを神の痛みのところに派遣する
というところまでをすべて含んだもの

というようなことをいろんな例を互いに出しながら
体感していきました


そのあとちょっと生ビールを飲みに行きました


木曜日(本日)は
バプテスマクラスを分かち合っている若人が教会に泊まったので
一緒に朝ごはん

そして彼は青春十八切符で里帰り

本がたくさん読めるから
とのことです

若いねえ

しかし本ともまったり付き合ってはじめて本に書いているあることがわかるかも・・・

ふるさとでのよい交わりを祈りつつ


おしまい

平和創造

2009年08月12日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

***********************

「平和創造」

平和はとても深い事柄です。

それは私たちの言葉、論理をはるかに超えています。
それは私たちの経験、体験を、感覚、感性をはるかに超えています。

だから平和を創る者はそれらを越えた深みを生きる者と必然的にされていきます。

この深みのことを私たちはキリストと呼びます。

だから平和は、言葉や論理の正しさの中にはありません。
この正しさを求めるやりとりの中にもありません。

確かに言葉や論理しか用いることのできない私たちはそれらで互いの行き来をします。
しかし!
それらを超えた、
それらの言葉や論理の背景の物語の、
さらにその物語に確実にかかわるキリストと、
確実に起こるキリストの十字架と復活を共に頂き、
その言葉にならないうめきを、
私たちは祈りとします。
そのうめきの中には平和があります。
その祈りはキリストが共に祈られます。

だから平和創造は、
互いに互いの言葉にならない物語を共有できるほどの出会いと共生を第一歩とします。

それはキリスト教会がその誕生時から大切にしている礼拝、祈りを共に頂く教会共同体というかたちの基本です。

歴史の中でその基本は国家や経済などの力で幾度も揺らぎ、
教会共同体は国家共同体や経済、利益共同体に変容していきます。

しかし宗教改革をはじめ幾度もの改革で教会は共同体を再獲得してきました。

だから平和は、
教会共同体が礼拝と祈りをどれだけ具体的に共にささげるかというところにあります。
どれだけうめきを互いに引き受けあうかというところにあります。
そしてキリストが驚くほどにすべてのうめきを引き受けているという奇跡的な大前提こそ平和です。

繰り返しますが、
平和は言葉、論理、経験、体験、感覚、感性を超えています。
だからそれらで判断しているとき、
そこに平和はありません。
私たちはキリストゆえにそれらを超えます。
それが平和創造です。

詳しくは後日になりますが、
平和はさらに、生命、生活、人格をも超えていることの提示のみを加えてさせていただきます。

*******************

平和をみんなでつくりましょうね

最後に提示させていただいたことを
詳しく語る後日というのは
いったいいつになるのでしょう??
たぶんまとめられたかたちで書くことはできないと思いますので
あらかじめ謝ります
すみません



圧巻!

2009年08月04日 | 「生きる」こと
腰の痛みがとれません
2週間ほどになります

こんなに長く腰の痛みがあるのははじめて

こまった・・・


もう一週間が経過したけれども
Wさんの信仰告白とバプテスマの余韻を
いまだに味わっております

優れた告白でした

まず
キリストに従う宣言があり
キリストの体なる教会共同体として生きる宣言があり
ご利益的理解がいっさいなく
なにしろ
十字架ですべてをひきうけているキリストに
すべてが集中しておりました

圧巻!!
すごく深い!!

この深みで共鳴する人は
涙をながしておりました

いつもと涙を流している人が違っていたあたりに
秘密があるのだと思いました


昨日は
バプテストリーから出した荷物を
またバプテストリーに入れます

バプテストリーを倉庫にせねばならないという
残念設計の教会堂のため
改築まではこれのくりかえし

しかし
そうやって荷物をしまっている青年のひとりが

「ここでバプテスマをしたい」

と真剣に言ってくれまして

わたしも真剣に祈るわけです


その昨日は
礼拝があって
教会学校があって
執事会があって
総務委員会があって

午後5時すぎに集会室に行ったら
まだ青年のみなさんがおられました

これはラッキーと

すまん
教会案内をみんなで折ってくれへん
とお願いしました
(教会案内はA3を六つ折にして完成します)


みんなこころよく引き受けてくださったのですが

しかしその直後に

ハッピーバースデー
と歌ってくれまして
みんなで書いたカードをくれました

わたし
土曜日が誕生日だったのですが

みんなが5時過ぎまで残ってくれていたのは
こういうわけでありまして

なのに
教会案内折ってくれへん
と言ってしまうわたしの鈍感さに

ただただ反省するばかり・・・

いつもいつもいろいろとありがとう!!!


本日は炊き出し
暑い夏をふっとばせ!焼肉丼大会!
というやつ

本日はごはんのうえに焼肉を乗せる担当が
女子高校生ふたり

いつもはおばあちゃんたちがしてくれているところで
そこでのおばあちゃんたちと当事者の会話も
とてもあたたかくて
炊き出しのなかでも重要な場面なのですが

女子高校生と当事者とのやりとりも
とてもあたたくて感動しておりました

普段は
おばあちゃんが当事者を包むあたたかさだけど
本日は
当事者が高校生を包むあたたかさでした

おばあちゃんは当事者のお母さん世代というケースが多く
高校生は当事者の子ども世代というケースが多いわけで

こういうやり取りの中で
人間が人間であるところのものが
ふと湧き出るのだろうと思わされます



夜はとある団体が主催し
とある教会で開催された
とある外国からの神父の説教のある平和礼拝と
愛さん会がありました

駐車場を確保しておくから
という主催者のうれしい計らいもあり
家族みんなで(家族には教会の青年も含まれておりますが)
行きました

うーんうまかった

愛さん会の料理が最高!!
その教会のみなさんが作ってくれました!!

これまた圧巻!!

じつはこの料理を担当してくれたみなさんが
ウチのホームレス支援を強烈にバックアップしてくれている方々でして・・・

だから余計にうまいわけでもありますが

でもこの仲間たちは食堂もやっているので
本当にうまいのです

それもやさしいうまさ!!!

また
被爆者の方と
戦争で友人をなくされたおじいさんの話にはらわたをえぐられました

重い!

この重みをこの重みのまま引き受けられるのか?
という問いと挑戦を受けました

この引き受けこそキリストの十字架あってのことです


神父さんはとてもすばらしい人格者でした
でも
お話はもうひとつふみこんで深みと重みがほしいなあ
というところで終わってしまい残念

でも
キリストが苦しむ場所に行く
ということで広島と長崎に行かれるということや
主の晩餐式における共同体性
つまりキリストの苦しみの互いの引き受け
というあたりは
京都における
キリスト教関係の平和集会では初めて聴くことのできる十字架性であり
ホッとしました

入り口を紹介して終わってしまった感じです

(でも安保闘争以来のイデオロギーに
 聖書をくっつけるという話を繰り返し聞いてきて
 もはや苛立ちすら覚えているこのごろだったので
 ほんとにホッとしました)

ただとりわけ共同体性のところは
なぜか通訳がしっかりなされず
これもちょっと残念でした
共同体の話をしているのに
共同体という日本語が出てきませんでした

たぶんここがメッセージの中心だったと思うのだけど・・・

今週から帰省される
Yくん
Nさん
祈ります

16日は
チラシ配布とバーベキューを一緒に楽しみましょう

ではでは

提言その3

2009年08月02日 | 「生きる」こと
日本バプテスト連盟の中長期計画に向けた提言を
京都教会週報巻頭言として何度にもわけて掲載しているので
いわゆるいつものような巻頭言が長いことないわけですが
その提言を
ここでは今回で完結しようと思います。

その1とその2は
少し前にあるのでどうぞ

************************

4) 今日キリスト教会とは何者か

 日本バプテスト連盟は教会教育において「生の全領域」という範囲を大切にしてきた。この徹底が今後さらに必要と考える。教会と私生活、福音と社会、信仰と行為、精神と身体というような二元論は、生の全領域が語られる場では居場所を持たない。我々は二元論から解放される。
 その中で個人と全体という二元論は克服されねばならないことを前述した。個人は容易に全体となり、全体は同じく個人となる。つまりこのふたつは異なるどころか同質である。ならば我々は今何を問うべきか。それは個人だろうと全体だろうと、他者と共にあるか、他者と分断されているか、である。
 個のアイデンティティが確立して初めて他者と出会うことができるというのは嘘である。我々は他者と出会うことで個が確立する。乳児は親や兄弟と出会うことから個を確立する。キリスト者は他者なるキリストと出会うことから個を確立する。
 しかし個のアイデンティティ確立を最初の作業と信じるケースは多い。しかしそこから解放されねばならない。繰り返すが他者と出会うことのない個のアイデンティティは永遠に肥大化する。これは究極の偶像礼拝である。さらにその個人は余剰分を確保することで肥大化する。キリスト者がその状態になるときには次の現象が起こる。それは自身の時間的余剰ができて初めて礼拝出席と奉仕をなし、金銭的余剰ができて初めて献金をするということである。ここで一番目に余剰分、二番目にキリストという順序が起こる。すると第一の他者であるキリストとの出会いが余剰分で行われるゆえに、同時代に生きる他者との出会いも余剰分で行う。隣人愛は余剰分があるときのみのテーマとなる。これが偶像礼拝の引き起こす現象である。
 そして私たちは今日の教会にこの要素が程度は異なれへばり付くことを否定できない。教会が個人の余剰分あっての教会となっている部分は大きい。しかしそれはキリスト教会ではなくグローバリゼーションに生きることであり、同時にキリストではなく余剰分に従うことであり、さらには搾取と格差、貧困と戦争に協力することとなる。
 我々は今覚悟を決めてキリストへ従う方向へ向き直さねばならない。それは各個の確立ではなく、第一の他者であるキリストと出会うゆえの、同時代の具体的他者との出会いによる双方の確立という方向である。

 それをキリスト教会は「共に生きる」という言葉で大切にしている。この徹底も欠かせない。共に生きることは単純なイメージではなく具体的な行為である。当委員会が理念とするマタイ25章から学ぶならば、それは、飢えていたときに食べさせ、のどが乾いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねる、という具体的な行為である。
 我々諸教会・伝道所は具体的な宣教施策として以上の事柄を持つだろうか。また持たなくともそのような者があらわれたときに我々はどうするか。教会には余剰分がないためにかかわることができないという論を正当化するだろうか。もしそうならば教会は変えられねばならない。そのような他者との出会いからこそ教会は教会となるという事実を生きねばならない。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という主イエスの言葉は事実である。この件に関してはこの提言の最後に具体的な提案をしたく願う。

 このようなかかわりが「共に生きる」ということである。そしてここから各個が確立する。
 しかしかかわるから各個が確立するということでもない。かかわるなかで我々が知ることになり、知らされるしかない事柄があるから各個が確立する。それは主イエス・キリストの十字架である。十字架はどこに立ち、キリストはどこで釘打たれているのか。それは他者とかかわりつつも、限界ゆえに他者とかかわりきれない自分自身を見せ付けられ、それにより他者との裂け目を知るに至るところではないか。そこで神は他者を愛しきれない我々をさばく。そのさばきは十字架のキリストにおいてなされている。我々は自らにおこるさばきを十字架のキリストの傷と死により知るに至る。その十字架が、我々の限界と、私と他者との裂け目の只中に立ち、なお我々を他者へと向かわせる。なお我々を愛することへと向かわせる。
 我々は他者との出会いの中でキリストの十字架の前に立ち、そこでさばきと赦しの奇跡を受けて、初めて我々自身となる。各個はそこではじめて各個となり、教会はそこではじめて教会となる。

 今日キリスト教会とは、主イエス・キリストの十字架の前に立つ群れのことである。十字架を知るゆえに神にさばかれることを知る群れである。十字架により存在が赦され、真の恢復を頂き、そういう者たちとして他者と出会い続け、他者を愛し続ける群れである。
 今日キリスト教会とは、主イエス・キリストの十字架を放り投げる群れではない。さばきを認識しない群れではない。さばきのない赦しだけを受ける群れではない。十字架のない恵みに生きる群れではない。十字架の在り処に出会うことがない群れではない。すなわち、他者と出会うことを拒否する群れではない。引きこもる群れではない。余剰分があってはじめて教会を考える群れではない。

 したがって私は、前回の宣教会議で提案された「全被造物と共なる礼拝者として」という標語を軸に展開された新たな連盟宣教理念は、大切なテーマを見出しつつも最も重要な事柄、つまり全被造物と出会うことがゆるされる根源である主イエス・キリストの十字架の出来事が中心からはずれていることを指摘せねばならない。それは、十字架のキリストが中心とならない新たな理念もまた、グローバリゼーションに加担し、戦争に協力する理念となる恐れがあることの指摘でもある。また「異なる者が異なるままで」というフレーズも同様である。異なる者が異なるままである根源であるキリストの十字架による異質な者同志の出会いを、具体的な計画として立てることが今日の教会に求められている。無論深く読み込めば前回の理念にそこまでのことが述べられている可能性がることは承知しつつ、しかし十字架が中心に来る述べ方に変えることの意味は計り知れない。

 最後に当委員会から具体的提案をしたい

 当委員会は、各個教会・伝道所がキリストの出来事に突き動かされて、ホームレス生活者の支援を行うことを目的としている。それは教会の交わりが、例えばマタイ25章のみ言葉に後押しされて、本当にホームレス生活者と出会い、彼(女)らが今の状態から救済されるよう行為することである。
 その際、教会は救済に必要な知識を持つ必要がある。生活保護法などの法律や、行政や民間等のさまざまな社会的資源の存在とそれらとの協力方法などを教会が知ることは、これからますます広がる貧困社会の中で、欠かせないことである。まずはそのような研修を当委員会単独ではなく、連盟全体として開催する必要性を訴える。
 さらに連盟諸教会・伝道所は各都道府県にまたがるため、教会・伝道所が各地域の貧困社会における救済センターを目指すことを提案したい。その際、連盟に加盟する教会の中には、教会が、あるいは教会から生まれた民間団体がすでに優れた救済プログラムを有しているところもあるため、ネットワークを結び、相談と対応ができるシステムづくりを提案したい。
 さらには、ホームレス生活者や、貧困生活者とかかわるときに発生する金銭面を支援するシステムも、連盟全体として整備することを提案する。
 つまり、ここでも二元論を克服し、単に精神面でかかわるのではなく、物理面も含めて他者とかかわることのできる宣教体制づくりが必要であると考える。
 ここが現代のグローバリゼーションと戦争に加担するか、キリストに加担するかの別れ道であるため、しつこく繰り返すが、余剰でつくるのではなく、キリストのために、他者のために、献げてつくることを提案する。
以上
文責:大谷心基(長・日本バプテスト京都教会)