さっきテレビで老舗の洋食屋さんが出ていて
そこのマスターがお客さんのためにドアを開け続けている
というステキなおはなしがあったのですが
その行為の理由としてマスターは
「お客様の第一印象をよくするため」
と言われまして
わたしは私の中で働くセンサーが
「ナンカチガウ、ナンカチガウ」
と警告するのに出会うのでした
でもこの映像で
わたしが「ナンカチガウ」と感じるものが
なんであるかを少し確認できたと思いましたので
ここにメモしておきます
それは同時に
牧師という職務のわたしがこのことを考え始めたらおしまい
ということもあるので
それくらい
基本的にキリスト者精神から逸脱しているものであると思うので
自分に対する戒めとして
メモしておきます
またずっと感じていた茂木健一郎さんの毎朝の連続ツイートに対する思い
つまり彼の見出す論や構造に感激しつつ
しかしなぜか「ナンカチガウ」センサーが働いてしまうというものの
理由も多少わかったと思いました
洋食屋さんのマスターの行為は
行為としてはすばらしいです
文句のつけようがないです
そしてこの行為をルーティーンとすることは
生きる本質を獲得し続けることであると思います
そしてまずなにより大事なのは
この手の行為をし続けることであり
行為の動機は二の次であるということだと思います
この手の行為は動機が不純でも
しないよりすべきだと思います
この行為の意味は
「他者が生き生きするために」
ということだろうと思います。
茂木さんのツイートから学ぶことも
「他者が生き生きとするために」行為することが
他者をも自分をも社会をも幸いにする
というものだと思っています
だから
これらの行為は
他者を愛することを動機とするだろうと思います
しかし「ナンカチガウ」センサーが働くのは
動機が愛ではなくて自分の利益となっているからだ
ということに気づきました
繰り返しますが
動機が愛(贈与)であろうと利益確保であろうと
他者が生き生きするための行為をし続けることが第一に大事で
動機は二の次ですが
しかし動機が問われる職務もあり
牧師はそうである
と思うわけです
洋食屋のマスターはそこまでは問われるはずがありません
商売ですから
それを確認しつつ
例として少し見てみるならば
他者が生き生きとするための行為の動機が
マスターの場合は
お客様に好印象を持ってもらうという自己利益になっているわけです
で
実はこの手の構造で行為と動機が語られることがとても多い時代だと思います
茂木さんのツイートも
他者が生き生きするための行為をすべし!
と書きつつ
しかし動機はそれが自分を賢くし強くし成功へと導き有名にする
というところに行き着いているものが多いので
センサーが働いていたのだと思います
これまた繰り返しますが
茂木さんも個人事業主ですので
商売上現在の資本社会ではそうならざるを得ないわけです
世がそういう世ですから
そして茂木さんのように
みんなが幸せになって平和な世になるために言葉を連ねてくださる方にとっては
有名になって評価されることで
その言葉がひろまり浸透することになるので
他者が生き生きとなるための行為により
自分が成功し有名になる
ということをも目指す必要があろうと思います
ただ彼の「ばか」を語る連続ツイートは
そこの「なんかちがう」度が大きかったので
以前に「無理がある」と私はつぶやいてしまいましたが・・・。
今の時代
いかに自分が利益を獲得できるか
という目的は以前と変わっていません
自分が
高評価をもらうこと
有名になること(現在は有名になることで財閥や国家と対抗できる)
お金も得ること
という目的は以前からと同じです
が
交換から利益を生む社会構造の末期ということもあり
これまでの手段が通用しなくなっている点もあり
他者が生き生きするための行為をする
というものが手段としてもてはやされる時代なのだと思います
そしてわたしよりひとまわりほど若い世代から下の人が手段としてもっているのは
自分がアホになって人を笑わせるというものだと思います。
さらには
自分で自分をおとしめることで他者が自分よりも上に立つことができるようにする
というものまであると思います。
これが若者全体にいきわたった背景は社会の不景気と不安定だと思います。
こういう世の中ですから
ヘタをすると
牧師のいわば普通の行為が(他者が生き生きするための行為が)もてはやされて
知らずにそれでもってまわりの人が牧師を有名人にする可能性がある時代です
牧師が行き過ぎたカリスマになりやすい時代です
しかし聖書から学ぶのは
他者が生き生きするための行為は
そのときその場で丁寧にされており
どちらかというとそのときその場のことが宣伝になることが避けられるというものだと思います。
「イエスは、『このことは、誰にも知らせてはいけない』と彼らに厳しくお命じになった(マタイ9:30)」。
マスターや茂木さんのような
交換システムの中で利益を得ることで生きる人は
動機不純でも「他者が生き生きするために」行為するのはステキです
でも
主の愛と癒しと和解の循環システムを信じるゆえに
利益獲得交換システムを断念した牧師は
動機が何であるかを丁寧に自己批判し続ける必要があります
そして牧師の動機が不純だと教会がおかしくなると思いますし・・・
「ナンカチガウ」センサーが働いた人が集うのをやめるか・・・
牧師の行き過ぎたカリスマで集う人のセンサーが働かなくなり
わかりにくいカルトになるか・・・
そもそも「他者が生き生きするため」の行為は
戦争遂行のためにも用いられた歴史があり・・・
またこの行為が自己利益を動機とすると
「生き生き」がどんどん安っぽくなると思います
現実かテレビドラマかの区別がつかないくらいに・・・
牧師にとって不景気で不安定な社会は
誘惑も多いということを肝に銘じつつ。。。
そこのマスターがお客さんのためにドアを開け続けている
というステキなおはなしがあったのですが
その行為の理由としてマスターは
「お客様の第一印象をよくするため」
と言われまして
わたしは私の中で働くセンサーが
「ナンカチガウ、ナンカチガウ」
と警告するのに出会うのでした
でもこの映像で
わたしが「ナンカチガウ」と感じるものが
なんであるかを少し確認できたと思いましたので
ここにメモしておきます
それは同時に
牧師という職務のわたしがこのことを考え始めたらおしまい
ということもあるので
それくらい
基本的にキリスト者精神から逸脱しているものであると思うので
自分に対する戒めとして
メモしておきます
またずっと感じていた茂木健一郎さんの毎朝の連続ツイートに対する思い
つまり彼の見出す論や構造に感激しつつ
しかしなぜか「ナンカチガウ」センサーが働いてしまうというものの
理由も多少わかったと思いました
洋食屋さんのマスターの行為は
行為としてはすばらしいです
文句のつけようがないです
そしてこの行為をルーティーンとすることは
生きる本質を獲得し続けることであると思います
そしてまずなにより大事なのは
この手の行為をし続けることであり
行為の動機は二の次であるということだと思います
この手の行為は動機が不純でも
しないよりすべきだと思います
この行為の意味は
「他者が生き生きするために」
ということだろうと思います。
茂木さんのツイートから学ぶことも
「他者が生き生きとするために」行為することが
他者をも自分をも社会をも幸いにする
というものだと思っています
だから
これらの行為は
他者を愛することを動機とするだろうと思います
しかし「ナンカチガウ」センサーが働くのは
動機が愛ではなくて自分の利益となっているからだ
ということに気づきました
繰り返しますが
動機が愛(贈与)であろうと利益確保であろうと
他者が生き生きするための行為をし続けることが第一に大事で
動機は二の次ですが
しかし動機が問われる職務もあり
牧師はそうである
と思うわけです
洋食屋のマスターはそこまでは問われるはずがありません
商売ですから
それを確認しつつ
例として少し見てみるならば
他者が生き生きとするための行為の動機が
マスターの場合は
お客様に好印象を持ってもらうという自己利益になっているわけです
で
実はこの手の構造で行為と動機が語られることがとても多い時代だと思います
茂木さんのツイートも
他者が生き生きするための行為をすべし!
と書きつつ
しかし動機はそれが自分を賢くし強くし成功へと導き有名にする
というところに行き着いているものが多いので
センサーが働いていたのだと思います
これまた繰り返しますが
茂木さんも個人事業主ですので
商売上現在の資本社会ではそうならざるを得ないわけです
世がそういう世ですから
そして茂木さんのように
みんなが幸せになって平和な世になるために言葉を連ねてくださる方にとっては
有名になって評価されることで
その言葉がひろまり浸透することになるので
他者が生き生きとなるための行為により
自分が成功し有名になる
ということをも目指す必要があろうと思います
ただ彼の「ばか」を語る連続ツイートは
そこの「なんかちがう」度が大きかったので
以前に「無理がある」と私はつぶやいてしまいましたが・・・。
今の時代
いかに自分が利益を獲得できるか
という目的は以前と変わっていません
自分が
高評価をもらうこと
有名になること(現在は有名になることで財閥や国家と対抗できる)
お金も得ること
という目的は以前からと同じです
が
交換から利益を生む社会構造の末期ということもあり
これまでの手段が通用しなくなっている点もあり
他者が生き生きするための行為をする
というものが手段としてもてはやされる時代なのだと思います
そしてわたしよりひとまわりほど若い世代から下の人が手段としてもっているのは
自分がアホになって人を笑わせるというものだと思います。
さらには
自分で自分をおとしめることで他者が自分よりも上に立つことができるようにする
というものまであると思います。
これが若者全体にいきわたった背景は社会の不景気と不安定だと思います。
こういう世の中ですから
ヘタをすると
牧師のいわば普通の行為が(他者が生き生きするための行為が)もてはやされて
知らずにそれでもってまわりの人が牧師を有名人にする可能性がある時代です
牧師が行き過ぎたカリスマになりやすい時代です
しかし聖書から学ぶのは
他者が生き生きするための行為は
そのときその場で丁寧にされており
どちらかというとそのときその場のことが宣伝になることが避けられるというものだと思います。
「イエスは、『このことは、誰にも知らせてはいけない』と彼らに厳しくお命じになった(マタイ9:30)」。
マスターや茂木さんのような
交換システムの中で利益を得ることで生きる人は
動機不純でも「他者が生き生きするために」行為するのはステキです
でも
主の愛と癒しと和解の循環システムを信じるゆえに
利益獲得交換システムを断念した牧師は
動機が何であるかを丁寧に自己批判し続ける必要があります
そして牧師の動機が不純だと教会がおかしくなると思いますし・・・
「ナンカチガウ」センサーが働いた人が集うのをやめるか・・・
牧師の行き過ぎたカリスマで集う人のセンサーが働かなくなり
わかりにくいカルトになるか・・・
そもそも「他者が生き生きするため」の行為は
戦争遂行のためにも用いられた歴史があり・・・
またこの行為が自己利益を動機とすると
「生き生き」がどんどん安っぽくなると思います
現実かテレビドラマかの区別がつかないくらいに・・・
牧師にとって不景気で不安定な社会は
誘惑も多いということを肝に銘じつつ。。。