きぼう屋

生きているから生きている

「ナンカチガウ」センサーにより自己批判しつつ

2011年06月30日 | 「生きる」こと
さっきテレビで老舗の洋食屋さんが出ていて
そこのマスターがお客さんのためにドアを開け続けている
というステキなおはなしがあったのですが
その行為の理由としてマスターは
「お客様の第一印象をよくするため」
と言われまして

わたしは私の中で働くセンサーが
「ナンカチガウ、ナンカチガウ」
と警告するのに出会うのでした

でもこの映像で
わたしが「ナンカチガウ」と感じるものが
なんであるかを少し確認できたと思いましたので
ここにメモしておきます

それは同時に
牧師という職務のわたしがこのことを考え始めたらおしまい
ということもあるので
それくらい
基本的にキリスト者精神から逸脱しているものであると思うので
自分に対する戒めとして
メモしておきます

またずっと感じていた茂木健一郎さんの毎朝の連続ツイートに対する思い
つまり彼の見出す論や構造に感激しつつ
しかしなぜか「ナンカチガウ」センサーが働いてしまうというものの
理由も多少わかったと思いました

洋食屋さんのマスターの行為は
行為としてはすばらしいです
文句のつけようがないです
そしてこの行為をルーティーンとすることは
生きる本質を獲得し続けることであると思います

そしてまずなにより大事なのは
この手の行為をし続けることであり
行為の動機は二の次であるということだと思います
この手の行為は動機が不純でも
しないよりすべきだと思います

この行為の意味は
「他者が生き生きするために」
ということだろうと思います。

茂木さんのツイートから学ぶことも
「他者が生き生きとするために」行為することが
他者をも自分をも社会をも幸いにする
というものだと思っています

だから
これらの行為は
他者を愛することを動機とするだろうと思います

しかし「ナンカチガウ」センサーが働くのは
動機が愛ではなくて自分の利益となっているからだ
ということに気づきました

繰り返しますが
動機が愛(贈与)であろうと利益確保であろうと
他者が生き生きするための行為をし続けることが第一に大事で
動機は二の次ですが

しかし動機が問われる職務もあり
牧師はそうである
と思うわけです

洋食屋のマスターはそこまでは問われるはずがありません
商売ですから

それを確認しつつ
例として少し見てみるならば
他者が生き生きとするための行為の動機が
マスターの場合は
お客様に好印象を持ってもらうという自己利益になっているわけです


実はこの手の構造で行為と動機が語られることがとても多い時代だと思います

茂木さんのツイートも
他者が生き生きするための行為をすべし!
と書きつつ
しかし動機はそれが自分を賢くし強くし成功へと導き有名にする
というところに行き着いているものが多いので
センサーが働いていたのだと思います

これまた繰り返しますが
茂木さんも個人事業主ですので
商売上現在の資本社会ではそうならざるを得ないわけです

世がそういう世ですから

そして茂木さんのように
みんなが幸せになって平和な世になるために言葉を連ねてくださる方にとっては

有名になって評価されることで
その言葉がひろまり浸透することになるので
他者が生き生きとなるための行為により
自分が成功し有名になる
ということをも目指す必要があろうと思います

ただ彼の「ばか」を語る連続ツイートは
そこの「なんかちがう」度が大きかったので
以前に「無理がある」と私はつぶやいてしまいましたが・・・。

今の時代
いかに自分が利益を獲得できるか
という目的は以前と変わっていません

自分が
高評価をもらうこと
有名になること(現在は有名になることで財閥や国家と対抗できる)
お金も得ること
という目的は以前からと同じです



交換から利益を生む社会構造の末期ということもあり
これまでの手段が通用しなくなっている点もあり
他者が生き生きするための行為をする
というものが手段としてもてはやされる時代なのだと思います

そしてわたしよりひとまわりほど若い世代から下の人が手段としてもっているのは
自分がアホになって人を笑わせるというものだと思います。
さらには
自分で自分をおとしめることで他者が自分よりも上に立つことができるようにする
というものまであると思います。
これが若者全体にいきわたった背景は社会の不景気と不安定だと思います。

こういう世の中ですから
ヘタをすると
牧師のいわば普通の行為が(他者が生き生きするための行為が)もてはやされて
知らずにそれでもってまわりの人が牧師を有名人にする可能性がある時代です
牧師が行き過ぎたカリスマになりやすい時代です

しかし聖書から学ぶのは
他者が生き生きするための行為は
そのときその場で丁寧にされており
どちらかというとそのときその場のことが宣伝になることが避けられるというものだと思います。
「イエスは、『このことは、誰にも知らせてはいけない』と彼らに厳しくお命じになった(マタイ9:30)」。

マスターや茂木さんのような
交換システムの中で利益を得ることで生きる人は
動機不純でも「他者が生き生きするために」行為するのはステキです

でも
主の愛と癒しと和解の循環システムを信じるゆえに
利益獲得交換システムを断念した牧師は
動機が何であるかを丁寧に自己批判し続ける必要があります


そして牧師の動機が不純だと教会がおかしくなると思いますし・・・
「ナンカチガウ」センサーが働いた人が集うのをやめるか・・・
牧師の行き過ぎたカリスマで集う人のセンサーが働かなくなり
わかりにくいカルトになるか・・・

そもそも「他者が生き生きするため」の行為は
戦争遂行のためにも用いられた歴史があり・・・

またこの行為が自己利益を動機とすると
「生き生き」がどんどん安っぽくなると思います
現実かテレビドラマかの区別がつかないくらいに・・・

牧師にとって不景気で不安定な社会は
誘惑も多いということを肝に銘じつつ。。。

<続々> 希望・変化・悔い改め

2011年06月28日 | 教会のこと
今週の週報巻頭エッセイです。

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「<続々> 希望・変化・悔い改め」

「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。
そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。
新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。マルコ2:22」

311以後、この島に住む私たちは新しい生活を歩むしかない。
私たちの本能としては、
変化せず昨日と同じ本日があり、
また懐かしい良き思い出と同じまま今があることを望み、
それらを伝統や文化と呼ぶが、
それにもかかわらず私たち人間の行為と言葉は、
時代により変化せねばならない。

それは、変わらないのは神のみだからである。
人が人間の言葉で神の名を発声する瞬間に、神を変質させてしまうことを、
旧約の時代から信仰者は注意してきたが、
それくらい人が神を正しく知ることができないほどに神は人を超えた別格者だ。
しかし人は時代地域の只中で、
それにもかかわらず神を表現し神に従うことを命がけで選び取る。
そして時代地域で神を伝える言葉と行動とが生まれる。
それは神を表現するのに最も近いものを人間の持ちえるものから選ぶことになる。

日本でも神は、二元論、観念論、実存論、自由主義観原理、聖霊体験論、脱構造論、身体論などなど、
時代によりいろんな表現方法で語られてきた。
表現するための言葉と行動は絶えず変化していると言って過言ではない。
神が変わらないから人の言葉と行動は変化するしかないのだ。
神をより近似値的にあらわすために、人の言葉と行動は変化し続けるのだ。

そして311以後、
私はつい先日までの言葉と行動が通用しないと思っている。
もう一度変わらぬ神に従うために、私たちの言葉と行動とが変わらねばならない。

先週の水曜祈祷会でI姉がこう祈られた。
「神様。私たちは原発をつくって神様のつくられた人やいのちを破壊してしまいました。
ごめんなさい。
神様。こんな私たちでも助けてもらえるでしょうか。
助けてほしいです。助けてください」。

姉妹の祈りはこれまで祈られてきた言葉とは異なると私は思う。
すでに新しい言葉で祈られている。
感謝と求めが祈りの言葉であったこれまでに対し、
姉妹の祈りは、罪告白と神のさばきの受容が新たな言葉として加わっている
私は、これからの新しい皮袋とは、神のさばきの受容であると考える。

そして飛躍するが、さばきの受容は、終末の希望ゆえに起こる。
希望については、本日はモルトマンから学びたい。
彼は言う。
「希望とは未来一般のことではない。希望とは具体的特定的現実を出発点としその現実の未来を告げるものである。未来の可能性と力とを告げるものである」。「希望とは既存の現実(現在経験している現実)に矛盾するところの来たらんとする現実である。経験と希望は矛盾する」。
「矛盾の只中で希望は自らの力を証する!苦難や悪や死と言う経験される現在に対立するなかで希望は形成される」。
「希望とは現在が打ち破られ変化することである。救い主キリストによって生起するところの苦難ならびに共感共苦こそが希望である」。
「神は希望の神である。内や上におられるのではなく前におられる。人と未来の約束にて出会う。ゆえに人は神を<持つこと>ができない。人はただ生々しく望みつつ神を待望するのである」。
(以上、「希望の神学」)

311以後だからこそなおさら私たちは現在獲得しているものに縛られる必要はないだろう。
現在用いている神表現や倫理規範から自由にされることだろう。
それは神が我々をさばいてくださるからこそ起こされる。
希望が現在に対してさばきとして生起する。
さばきが私たちの悔い改めと変化を呼び込む。

そして、主の十字架の出来事ゆえに赦される。
311以後はしかし赦しを気楽なものとして受けることはできない。
主のさばきが含まれてこそ赦しが赦しとなる中で、具体的に赦される凄みを覚えたい。

まだまだ私自身が胸のあたりで抱えていることを表現しきれず、
難しく書いてしまっていることをお詫びしつつ・・・。

関西の高校生にとって東北は遠い?

2011年06月21日 | 「生きる」こと
初めての体験。
ミッションスクールでの礼拝説教中にざわざわが消えなかった。
今朝の同志社高校の礼拝。

これまでに中学高校の礼拝は数十回経験させていただいている。
(50回以上100回未満くらい?正確にはよくわからない・・・)

これまでは礼拝開始前から説教の開始時までざわざわしていても
説教が始まって少し経てば生徒さんたちはだいたい目を見開いて聞いてくれていた。
どちらかというと面白いほどに程よい緊張感と集中度の高い静けさだった。

こちらも生徒さんたちが集中して聞いてくれるための内容と話法を準備している。
(一応プロですし・・・本気でこの世代に大切な事柄を伝えたいですし・・・)

そして今朝もいつもと同じだけの準備はしていった。

けれど

ざわざわ。。。

うーん。

内容が甘かったか?
しかし、教員の目が真剣だったことや、感銘を受けて涙を流されている教員もおられたし・・・。

話法が甘かったか?
なんどか空気をつかむための業を出してみたものの・・・
これまではそれでシーンとなったものの・・・

ならばこれまでとの違いは何か?

それがひとつだけある。
物語の現場がこれまでと違った。

これまでは、
わたしがかかわったホームレス当事者との物語や、
困難を抱える中高生との物語や
自分の中高生時代の物語を語ってきたわけだが、

今回は
津波被災地で出会った方との物語を語った。

これまでは物語にどんどん生徒さんたちが入ってくる感じだったが、
今朝はなかなか入ってきてくれなかった。
(無論入ってきた生徒さんも少数ですがおられました。
 だからその方たちの目を見て話させていただきました。)

たぶん物語の現場の違いが要因では?。

みっつのことを考えています。

1)距離の問題
被災地から遠い関西の高校生は
その距離ゆえに、
被災地の物語に共鳴できるものを持ちえていない。

2)経験の問題
被災の規模が大きすぎるゆえに、
人生経験の浅い高校生は、
被災地の物語に共鳴できるものを持ちえていない。

3)共鳴しすぎるゆえの問題
感受性豊かな高校生ゆえに
私以上に被災地の物語に共鳴できるが、
この三ヶ月間あらゆるところで(多くはメディアで)、共鳴し、
それゆえに痛み苦しみ続けたゆえに
逆に無意識かもしれないが、共鳴しないような策を働かせている。


うーん。

いずれにしても
関西の高校生にとっては、
今は、東北はまだ遠いということは言えるのだろうと思った。

新しいテーマ。
彼らが東北に密着できることをこれからは目指すこととなった。

しかしまいったあ。

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その後もう少し考えてみた。

よっつほど考えてみた。

1)物語の詰めが甘かった可能性があること。
物語の土地が京都市内など追体験の楽な場所ではなく、
津波ですべてが消えたという土地であるゆえに、
その土地の感触を伝え切れていないかもしれないこと。
これだけは実際に足を踏み入れたかどうかで決定的に違ってしまうので、
踏み入れた者が踏み入れていない人が多いところで語る場合は、
踏み入れていない人の感触に戻る作業が必要であり、
それが甘かったかもしれない。

2)私が被災地での出会いで苦難を背負っていること
京都にいても町が壊れていないことが不思議になることがあるほどに、
被災地の経験は私の心身に影響を与えている。
それゆえに、私が物語るときに無意識に制限をかけている可能性があること

3)集団心理
部活の大会が終わったばかりという時期とかいろいろなことで、
気分的にざわざわしているものが集団心理になっていることと、
単純に音響的にマイクボリュームが多少小さかったことが
重なったことによるだけかも。

4)関西から東北は遠い
高校生だけでなく、関西に住むわたしにとっても、
被災地に何度入ったとしても、
東北は決して近くなっていない状況が続いていると言えること。
となると、
ゼロから考え直す必要がある。。。
語り手も聞き手も遠いけれども近く感じるという中での物語りとは?

たとえば語り手だけが遠いけれども近いという状況で、
聞き手は遠いというばあいは、
中村哲さんからアフガンの話を聞くとすごいけど
数回見学に行ったことのある人からきいてもそれほどでもない、
というあの感じになる

そこにさらに聞き手も遠いけど近いとなると
どういう感じになるのかという想像をしっかりしてみる必要あり。

原発と憲法9条

2011年06月20日 | 「生きる」こと
日本バプテスト連盟憲法改悪を許さない私たちの共同アクションのニュースレター用のものです。

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原発と憲法9条
日本バプテスト京都教会 牧師 大谷心基


1) 犠牲の循環を断ち切る

 日本バプテスト連盟は2002年の第49回定期総会にて「平和に関する信仰的宣言」を採択した。この宣言は十戒を解釈しつつ告白されている。その解釈を支える通奏低音には、神を神とすることにおいて他者の犠牲の上に立つ命と生活から解放される道を歩むべく戒めを生きるというものがあると私は思わされている。(さらに神を神とすることはキリストに従うこととして告白されている)。
 しかし私たちの国は、現在の繁栄は67年前までの戦争において命を失った兵士たちの犠牲の上に成り立っていることを語る。このとき「犠牲」は誇らしい行為とされ「犠牲者」は英霊とされる。ここからわかることは、私たちは今もってなお、私たちの繁栄と存続、安定と安全のためには、他者の犠牲が必要であり、犠牲者は英雄であるという世界に生きているということだ。
 ところが敗戦直後はその限りではなかった。私たちは憲法9条を持つに至ったのだ。それは戦争と軍備の放棄を宣言するものである。私たちは、67年前までに繁栄と存続、安定と安全のために隣国の人々を2千万人殺し、自国の人々が3百万人死ぬという中で、犠牲が何も生み出さないことを実体験として知ったのだ。それは複雑な論にて導き出されるのみではなく、私たちの神経と皮膚とが他者の犠牲が無意味であることを痛みつつ知ったのだ。憲法9条は、犠牲の循環を断ち切るための法である。
 しかし戦後も犠牲の循環は続く。地球規模の世界システムがさらに強固に犠牲の循環によって成り立つものとなっている。そして連盟の各特別委員会の働きは大枠で言うならば、この犠牲の循環を暴き、それを、神を神とすることにおいて、またキリストに従うことにおいて断ち切るための宣教活動に他ならない。従って私たちは、靖国神社問題特別委員会、公害問題特別委員会、日韓在日連帯特別委員会、問題特別委員会、「障害」者と教会委員会、ホームレス支援特別委員会、性差別問題特別委員会にてこれまでに生み出されたことばから繰り返し学びたく願う。
 3月11日の地震と津波により福島原発が大事故を起こした。放射能物質が飛び散った。どれだけの量がどこに飛び散ったのかを私たちは恐らく今もって正確に知ることができていない。311以後の情報隠蔽・操作などによる情報に対する不信や、これまでの生活環境をすべて失いかねない恐ろしい情報の扱い方とそれへの従い方という思想の困難さが、正しい情報を見分けることを阻む。本能が阻んでいる状態であると言えるかも知れない。そしてこの状態は、実は私たちが今犠牲を強いられているということではなかろうか。
 私たちは、私たちの生活の繁栄と安定のために「安全」と言われる原発を採用してきた。しかし原発は一部地域に犠牲を強い続けている。原発の維持のために、現場で働く下請け会社の作業員たちは被曝する犠牲を強いられ続けた。原発の立つ地域は都市部の繁栄のために危険な施設を抱える犠牲を強いられ続けてきた。
 同時に原発は情報の不平等において人々に犠牲を強い続けている。原発で莫大な利益を得る者たちは情報を隠蔽、操作することで、この国の全ての人に犠牲を強いてきた。
 また原発事故による犠牲は十年後頃から明確となる。これは精神的な犠牲と同じく後々疾患として現われる。しかし時間のずれが生じる場合、犠牲の結果が不明確な時期にはますます犠牲を強いられ続けるということが起こる。時間的ずれによる犠牲は想像以上に大きいものとなるだろう。
 そして何よりも生活の繁栄と安定の中で原発による犠牲の循環を問い切れなかった私たちが、私たちに犠牲を強いてきたと言っても過言ではない。私たちは今その只中にある。
 敗戦時に犠牲の循環を憲法9条にて断ち切る決意をした私たちは、平和に関する信仰的宣言などで繰り返しその決意を新たにしたが、しかし原発事故を受け、今改めてこの循環を断ち切る覚悟を決める必要がある。すべての犠牲は主イエスが十字架で引き受けられている。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と主が叫ばれつつ、主ご自身で犠牲の循環が止まり、主から逆の循環が始まることを知らせてくださる。私たちはこの主に従う。


2) 和解と癒しの循環をつくる

 犠牲の循環を止められる主に従う私たちは、主と共に逆の循環を具体的に創っていきたい。それは誰かに犠牲を強いる戦争と軍備の放棄を覚悟を決めて訴え続けることであり、同じく原発の放棄を訴え続けることである。さらには連盟の特別委員会がすでに出会っている犠牲を強いられている他者たちの隣人となり、愛し、そして犠牲を強いた者として罪責告白することである。さらに、彼(女)らと共に歩み、共にたたかい、その彼(女)らのために祈り、彼(女)らを覚えて礼拝をささげることである。
また自らが強いられている犠牲をも発見するだろう。そしてその際は、犠牲を強いてきた「敵を愛する」ことが主から提示される。またとりわけ原発の場合、その敵の一人目が自分自身である可能性も強い。
 しかしこれらのことを具体的に行うことは単純ではない。人にとって人のわかる範囲での繁栄と存続、安定と安全からはずれる道を歩むことは本能的に困難なことなのだ。他者に犠牲を強いない歩みは人としては不可能と言わざるをえない事柄に違いない。つまり私たちは罪人でしかないのである。
 しかし、罪人として私たちは犠牲の循環とは逆の循環を歩まねばならない。それを私は和解と癒しの循環と呼びたい。そして日本バプテスト連盟は中長期計画においてこちらの循環を歩む決意をしていると考えている。
 さらにこの歩みの際に、私は連盟中長期計画と同様に「平和に関する信仰的宣言」の結語を指標としたい。私たちは終末の主の希望を頂きつつ、主の赦しのみではなく主の審きをも頂く中で歩むことを、311以後の今だからこそ繰り返し祈りつつ覚えたい。また牧師としては、結語に描かれる内容を日々の具体的生活の物語として語ることを惜しみたくないと願う。


3) 付記・原発自体が軍備である可能性

 原発と憲法9条の関係で言うならば、原発がそもそも軍備の一環であるという可能性があることを付記したく願う。例えばつい先日まで北朝鮮の原発開発は核兵器開発であると他の国々が結論付けていたことを思い起こすならば、そのことがそのまま原発を持つこの国に当てはまらないとは全く言えない。また広島と長崎の原爆被害を経験したこの国が10年も経たずに原発のための予算を導入した背景に、アメリカの核戦略が絡んでいる可能性は否定できない。確かに原発から生まれるプルトニウムの種類が核兵器に用いるものとは異なるという議論もあるが、しかし劣化ウラン弾など核兵器の種類も増える中で、その議論がどこまで的を得るかは疑わしい。
 少なくとも、原発と戦争兵器とは明確に切り離せないことを覚えておく必要がある。
 

4)さいごに

 日本バプテスト連盟に加盟する諸教会・伝道所は、福島県で原発事故の恐怖と不安の只中で十字架の主ゆえに宣教を担い続け、地域の人たちを祈り支えておられる、福島旭町キリスト教会、郡山コスモス通りキリスト教会、あゆみの家キリスト教会のみなさまと牧師を覚えて、日々祈ってまいりたい。

(続)希望・変化・悔い改め

2011年06月19日 | 教会のこと
今週の週報巻頭エッセイです。

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「(続)希望・変化・悔い改め」

「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。
そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、
ぶどう酒も革袋もだめになる。
新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。マルコ2:22」

私たちは新しい皮袋を必要とする。
それは日々神からの新しい愛と希望と信仰、つまりいのちを確実に受け取るため。

生理学的に言うならば、
私たちの身体は三日ですべての細胞が新しくなるとのこと。
遅くとも一週間で私たちの身体は全く新しく変化する。
すると毎回の礼拝において
私たちは確実に復活の新しいいのちを、変化した新しい身体で受けることとなる。

そして聖書は、教会を、また人々の関係のあり方を、「キリストの体」と呼ぶ。
そこから私たちが学ぶのは、
教会の交わりをはじめ、人々の交わりは、日々変化し新しくなるということだ。

さらにその変化を聖書は「和解」と呼ぶ。
私たちは和解により新しくされ、
キリストを頭とし、キリストによりつながる関係・家族へと、
キリストに招かれるゆえに、
一週間前の古い自分と関係を丁寧に想起し、悔い改め、
新しいキリストの体なる関係に参加する。

はっきり言わねばならない。
新しいキリストの体なる命と関係に生かされるときに
私たちはダイナミックな神の救いを知る。

しかしこの救いを阻む私たちの罪がある。
それは古い命と関係に固執すること。
あるいは古いイメージや雰囲気に固執することとも言えよう。
身体は常に変化し新しくなっても、いや、身体が変化してしまうからか、
関係や環境の変化を拒むのが人の常かもしれない。
そしていつまでも同じかたちが続くことを伝統、文化、慣習として褒め称えもする。
また宗教がそういう変わらないことを良しとし、そこで勝負してきた歴史もある。
決して幸せな歴史ではない。

新しいキリストの体なる関係は、
精神論にとどまらない。
具体的なかたちや雰囲気も当然変化する。
礼拝をはじめ教会のスタイルや雰囲気もキリストの体ならば必ず変化するのだ。
新約聖書の時代の教会だけでも全くスタイルが定まっていないことは注目に値する。

今週23日は、連盟女性連合が呼びかける「命どう宝の日」。
私たちは沖縄が背負う犠牲と苦難とを覚える。
早急に私たちは基地や原発の危険を誰かに背負わせるという古いスタイルから、
今こそ新しく変化せねばならない。

本日は3,000回記念礼拝。
私たちは当教会に対する一定のイメージから主が解放してくださることを喜びつつ、
教会のかたちの具体的変化に隠れた主の業を見出す必要がある。

また教会が伝統や文化となることに抵抗する必要がある。
教会をはじめ宗教は古いものを守るためではなく、
とりわけ今のような危機状況において、
どこよりも早く新しいかたちを提示するために存在する。

もし教会が守るべきものがあるとするならば、それは十字架の主のみ。
主の言葉と行為、主の身体と歴史、主の福音と律法。
その主が守られるならば、キリストの体は日々変化し新しくされ、悔い改め、命と希望を生み出す。

新しい皮袋はすでに主より与えられている。
主が主ご自身という新しい皮袋を私たちに与えてくださっている。
主こそが新しい皮袋である。
共にその主を信じ、その主に従ってまいりたい。

スピリチュアル・ケアについて少し考えてみた。

2011年06月14日 | 「生きる」こと
現在私は医療団体の責任を担わせていただいている。
そして今医療に求められているのはスピリチュアル・ケアであると認識する。

スピリチュアル・ケアとは、
人のあらゆる力と技能を超えたところの、
人が苦痛にあるときほど確実に覚える超越的、統合的な何者かをも含めて
苦痛にある方々をケアすることである。

それは同時に、
苦痛からの解放を身体のひとつの器官の回復のみに見出すのではなく、
体、心、魂という全人領域において見出すというものである。
またさらに、
家族や友人、医者などの医療スタッフとの関係性、
生きてきた歴史、環境、背景、共同体という領域全体からをも見出すものであると、
私は思う。

私はキリスト教精神に基づく医療団体の立場から考えるため、
スピリチュアル・ケアとは聖霊によるケアであると考える。

人の体、心、魂、共同体性、関係性、歴史性のすべてを超えて
そのすべてをつなげて一つとするのが聖霊の働きである。
さらに一つとする際に、
聖霊はその人のそれまでの人生にはなかった領域との出会いを起こし、
その出会いによりその人自身も一つとなるという仕方で、その人を導く。

使徒言行録2章のペンテコステの記事によるならば、
聖霊は突風として、炎の舌として、
人に接する、いや、強い衝撃をもってぶつかってくる。

そこでまず知ることは、
聖霊は人にとって決して心地よいものではないということ。
むしろ腑に落ちず、混乱を招くものでもあるということ。
つまり聖霊による業は、癒しの業をも含めて
人の思惑どおりにはいかないということ。

そしてスピリチュアル・ケアは、
この人の思惑どおりにはいかない着地点を目指すケアである。

ちょっと頭がこんがらがるところであるので、少し整理してみたい。

現代における癒しの業は、
大雑把に分けると二つある。

ひとつは、医学的に、科学的合理的に、人が予定するところの治癒を目指すものである。
もうひとつは、同じく人が予定するところの治癒を目指すが、その方法は、超越的、精神的なものであり、カルトと捉えられるものまである、というものである。

そして後者がスピリチュアル・ケアと言われる場合があるかもしれない。
(この手の本が書店に積まれるようになって久しい)。
しかし私は否と言う。
その理由は、結果が人の予定しているものだからである。
手段が科学的であれ非科学的であれ、人の予定した結果を求める場合、
それは聖霊による結果を求めることに初めから抗うものであり、
スピリチュアル・ケアではない。

スピリチュアル・ケアは、
予定した結果が得られたら癒された!という範疇を超えている。
そもそも予定せず、聖霊の導きを祈る。
しかも予想した結果とも異なるかたちで、
つまり人にはわけのわからないかたちで、
人が癒されるという結果が知らされることを目指す。
無論非科学的手法によるケアではない。
手法は科学的である。
結果が人の思惑を超えているものを求めるのである。

聖霊に吹かれてたどり着いた着地点が癒しの場である。


さて、スピリチュアル・ケアに際して、
私たちが聖書の言に生きる姿勢が問われていることを私は訴えたい。

現在の教会も聖書の言をいただくというときに、不幸な歴史から逃れることができない。
それはいわゆる聖書の読み方である。
歴史批評的に読むのか、逐語霊感的に読むのか、ということである。
この聖書の読み方の違いは、
多くの分裂を生み、
また経済社会や国家までを巻き込む思想をつくり、
戦争の要因にもなっている。

歴史批評的に聖書を読むということは、科学的合理的に読むということである。
そして人が予定できる道筋にて結果(メッセージ内容)を知るに至る。
逐語霊感的に聖書を読むということは、感情的、原理的に読むということである。
しかしそれよりも、
多数がその方法を知ることのできない科学的合理的方法よりも、
多数がめいめいの仕方で納得できる感情や原理を選び取った読み方と考えるほうが合理的と思われる。

しかし、上記の二つの方法は
いずれも聖書の言から予定可能な結果を導き出すことで共通している。
さらにいうならば
手段が科学的か非科学的かの違いはあれ、結果は予定できるものであるという共通点を持つ。

現代の癒しの業において起こっていることと同じことが、
聖書の読み方においても起こっているのではないか。

たとえば逐語霊感説は、
聖書は聖霊によって書かれたものだから誤りがない、
と結論付けるが、
私は、
聖書が聖霊によって書かれているとしても、人によって書かれているとしても、
(私はこのふたつを分ける議論に意味を見ないが)、
今、ここで、わたしたちが、
聖霊によって聖書を読むことが大事であると信じている。

そのときに起こることは、
予定どおりの結果(メッセージ)が導き出されるのではなく、
例えば同じ聖書箇所でも、読む時間と場所が異なれば、
全く異なる結果が生まれるということである。

その結果は驚くしかないものである。
私たちの感覚、感情、思考、思想、信条などを超えて
私たちの知る論理を超えて
私たちに突風としてぶつかってくるかたちで
その結果はやってくる。

そしてこのときに、聖霊により、聖書の言は受肉する。

聖書の読み方に関することは
実はボンヘッファーが言っていることである。


そして同じように
スピリチュアル・ケアにおける癒しも
聖霊により受肉する。

スピリチュアル・ケアについて
少し考えてみた。

希望・悔い改め・変化

2011年06月13日 | 教会のこと
今週の週報関東エッセイです。

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「希望・悔い改め・変化」

大地震、大津波、原発大事故から3ヶ月。
甚大な被害はしかしなお広がるだろう。
津波被災地における精神的、経済的、関係的諸被害はこれからなお明らかになり、
放射能物質被害はさらに後に明らかになる。

この島に生きる私たちは、
311以後、
間違いなくこれまでとは異なる内容を持つ変化の時代を生きる。

私たちは今、「変わらない」ことは決して幸いではなく、
昨日と同じ生活が今日も繰り返されることを望むのは空しいことであることを学んでいる。
そして日々新しい命を主より与えられる私たちは、
日々新たに「変わっている」ことを確認する。

目の前にいる兄弟姉妹は、昨日の兄弟姉妹でありつつ、
しかし、新たに出会う兄弟姉妹だ。
私たちは相手の状態が昨日と同じことを前提としがちだが、それは不自由なのだろう。
誰もが今日から性格も考え方も180度変化する可能性があり、
ゆえに何が起こっても不思議ではなく、
逆に変化を新しい命としてうれしく受容し合えるのが教会の交わりだ。

そもそも、今日肺に入れた空気は昨日とは違う。
今日肌に受けた光は今日の光である。

311以後、私たちは昨日と「変わらない」ことを断念する。
今後住めない土地が現われる。
体がこれまでのように健康ではなくなるケースが増える。
その中で私たちが確認すべきは、
日々新たに生まれる私たちにとって、
昨日までは、つまり過去の諸経験は、
それがどんなに幸せな記憶であっても、
理想なのではなく、
それらは、悔い改めのための経験であり記憶である
ということではなかろうか。
そしてその上で、
「今」という新しい時と命と出会いとに、
新しい恵みが注がれる。

「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。
そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。
新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。マルコ2:22」

次週私たちは三千回記念礼拝を持つ。
教会もまた、歴史を悔い改めてこそ新たな恵みが生かされる。
そして本日は病院デーである。
病院も、歴史を悔い改めてこそ新たなミッションを聞き取る。
いずれも新しい時と命と出会いの只中で恵みが生きる。

そして本日はペンテコステである。
聖霊は、
昨日までの経験と記憶からはまったく想像できない新たな人間関係と言葉を我々に届けた。
しかも突風のごとく。
つまり経験と記憶と共に私たちは吹き飛ばされ、
ただ聖霊の導くところへ着地させられる。
それが「今」。
そして着地点をいただくからこそ、
私たちは昨日までを悔い改めることがゆるされる。

この信仰による生き様が、
しかしこの島全体にとって求められている。
この島における希望とは悔い改めである。
新しい命を新鮮に受け取るとき、私たちは感謝して悔い改めるしかなくなるとも言える。

このような時代が訪れることは稀有であろう。
だからこそ主に出会った私たちは
着実に変わりつつ生きたいと祈る。


教会は教会とつなげられる

2011年06月05日 | 教会のこと
今週の週報巻頭エッセイです。

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「教会は教会とつなげられる」

本日午後、和歌山教会にて調牧師と立花協力牧師の就任式がある。
当教会から井関姉、湯川姉が、午前の礼拝から参加される。
特に立花協力牧師は、府立医大で学ばれている期間、当教会のメンバーであり、
和歌山教会と当教会が具体的に繋がる感触を私たちは持つ。
また先週は北山教会の木原牧師就任式、次週は尼崎教会の谷綛牧師就任式があり、
私たち京都教会も共に喜ぶ。

教会は、自らの教会のみで成立はしない。
教会は、他の教会との関係の中で初めて成立する。

それは人が他人との関係の中で成立し、
国が他国との関係の中で成立するのと同じ。

逆に、他人との関係を無視する人となることを、神は良しとせず、
他国を無視し、他の国との連帯よりも愛国心に夢中になることをも、神は良しとしない。

神は、聖書を通して、
他者、とりわけ異邦人と、聖霊により結ばれ、愛に生きる姿を、
福音として提示される。

同様に教会も他教会とのつながりなしには、
つまり「愛教会心」のような感覚では、
キリスト教会とは別物となることに注意せねばならない。

先週は連盟理事会に出席した。
近年に連盟に加盟する二つの教会が「消え」たことを分析する中で、
他教会との関係喪失が大きな原因であることをつかんでいる。
同時に、現在も総会を開催できないほどに困窮する教会は数多く、
そのいずれも他教会との関係を失っていることを共通点として持つ。
また、都会の教会は地方の教会でバプテスマを受けた教会員の転入を最も大きい理由として、財政が安定する傾向があるが、
財的に安定するからか、他教会との関係を持たず、
その教会で完結し、他教会への関心や連盟全体の活動への関心が薄れる傾向が強い。
またそこで起こりやすい危機は、
最も大事な聖書理解、信仰告白が、
他の教会や連盟活動体との対話がなくなり、吟味されなくなるということ。

これまで連盟は、困窮にある教会に対して経済的支援と人的支援を行ってきた。
そして次もマイナーチェンジした同様の支援を行う計画が理事会にあがった。

その中で私は大胆な意見を述べさせていただいた。

それは、教会の支援は他の教会がする、というもの。
所詮狭い日本では、距離は関係なく、
例えば東北の小さな教会に、東京の大きな教会が教会全体としてかかわるために、
連盟がコーディネートできないか、という提案。
よく「姉妹教会」というものがあるが、それ以上に密着して姉妹となるための制度をつくるという提案。
他の理事の感触が驚くほど良かったので、ここでも紹介する。

その制度において、
困窮する教会は、活動的な教会を見て、
身体全体で教会の姿を経験し、教会形成のイメージを持つ。
支援教会も、困窮する教会にかかわることで、
自らの信仰告白と教会形成が問われ、さらに愛が問われ、
実は支援をしているようで、教えられ、自らの成熟が起こる。

もちろん京都教会も、他の教会と益々かかわりたい。
まずは今週の全国ろう者修養会。そして7月のシオンの丘教会との合同子どもキャンプ。

「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい(フィリピ2:4~5)」。