きぼう屋

生きているから生きている

民主主義ってなんだ?心理的一側面 の、冒頭部分書きかけ、だけどたぶん続きは書かなそう、なもの、

2015年09月02日 | 聖書を読んでみました
民主主義ってなんだ? 心理的一断面
として、二ヶ月前の土曜勤務日に時間が空いたときにざっと書き始めたもの。
でもその後、こんなのを書き始めたことを忘れてました。
今朝、ファイルを整理していたら出てきました。
で、もはや、そのときに何を思いついたのか、どういう論理展開をしようとしていたのか、ちょっとあやふやなので、たぶん、続きは書かないだろうというものですが、
その書き出し部分を。


民主主義ってなんだ?

一人、あるいは超少数で決まったことで世界が動くことが、人の心身を死の方向へ導くことに気付いた先人たちがいました。彼らは、死ではなく「生きる」ことを選びました。そこで彼らは、みんなで決めてみんなで世界を担うことを選び獲得しました。それが民主主義です。これは、今に至るまでたたかわれつつ、引き継がれています。

ですから、民主主義にとって最も大事なことは「生きる」ことです。

では、「生きる」とは何でしょう?

全ての時代地域において、いのちは「私」一人のみで存在してはなく、少し足を動かせば、いやいや、少し目、耳を動かせば、他者がいることが確認でき、その他者と同時代同地域で生きていることを端的に、明確に知ることになります。

よって、
他者と共に生きるということが「生きる」ということです。

もっと言いますと、
他者が「私」に接触する感触が生々しいという状態を獲得するというところから始まるものが「生きる」ということであり、
他者の喜怒哀楽が「私」の喜怒哀楽になるということ、他者の十字架が「私」の十字架になるということが起こって初めて「生きる」のであり、
「私」にとって、「私」が「私」であるのか「他者」であるのかという境界線が消えることさえ起こるのが「生きる」ことであり、
ということは、だからこそ、「私」が「私」であるという明確な感触を、他者と接触するところから知る他者との違いから知るところの「私」として、繰り返し繰り返し知るということが「生きる」ということであり・・・。
そのように知る「私」であるから、つまり他者と異質であるということから知る「私」であって、自分でいいようにイメージする「私」、人からいいようにイメージしてもらうよう振舞う「私」ではないから、そこで知る「私」は、格好悪く、汚く、醜く、糞のような側面を持つことを隠すことができないところの「私」であり、
そういう知りたくもない面を多々持つ「私」でありながら、しかし、その「私」として、私は、「生きる」のです。

で、まさにそうして「生きる」ために、民主主義が選ばれています。

となると、逆に、他者との接触がないとき、「私」が実は他者との接触から知り得た異質性に基づくのではなく、勝手に気持ちいいようにイメージした「私」であるとき、
そのとき、「私」の向いている方向は、実は、死であるわけです。

ここでわかるのは、「私」にはふたつあるということです。
ひとつは「生きる」方向を向く「私」。
もうひとつは「死ぬ」方向を向く「私」。

この中で、民主主義で獲得したいのは「生きる」方向を向く「私」です。

でも、実は残念ながら、民主主義というシステムで「死ぬ」方向を向く「私」を獲得しようという動きも多々あります。
といいますか、そういう動きのほうが圧倒的に多いと言っていいかもしれません。
この場合は、そういう「私」を獲得するために、民主主義のシステムを利用すると言うべきでしょうか。
他者と接触しない「私」は、他者と接触しないゆえに、他者を生かすことをしません。するとそれにより他者が死に向かいます。また本来「私」は他者との接触ゆえに知られる存在ですから、実はそのときに私に「私」が知られることもなく、「私」も死に向かいます。

でもなぜか「私」が死に向かうという認識に至ることなく、「私」が私のイメージのままに存在するために、他者を利用することが起こります。「私」が私のイメージどおりになることをアイデンティティと呼び、その獲得を奨励することが多いゆえに、他者を利用することを隠す場合も多々あります。

たとえば、「私」のアイデンティティのために国家のアイデンティティが求められる時代には、国家のために命を落とした英雄、英霊として、「私」のために利用された他者が、利用されたことを隠され、逆に意味づけされることが当たり前になっています。

「私」のために殺される他者を必要とするなかで「私」が生きるということが(本当はそのときに「私」は死を向いているのですが)、当たり前に起こります。

そして、そういう「私」が尊重されるために、民主主義というシステムも利用されます。他者を利用できるのだから、システムを利用することも難しくはありません。

また、この場合に他者が殺されるということが起こるゆえに、実は民主主義も殺されるということが起こります。

101

2015年07月10日 | 聖書を読んでみました
今週の日曜日。
次男君のサッカー部が区内大会で優勝して家族で盛り上がって、
みんなでウキウキしながら眠りについた夜中。

祖父が召されたという連絡が入る。
101歳。

わたしにとって、おじいちゃんであると同時に、人生の先生だった人。

朝日新聞で記者として活躍し、
引退後は鹿児島にテレビ局をつくった人。

高校時代、我が家から徒歩5分のところに引退したおじいちゃんは住んでいた。
学校から家には帰らずにおじいちゃん家に帰り、いろんな話をさせていただいた。

とにかくスポーツ好きな人だったから、その手の話は盛り上がった。
政治の話、経済の話、俗な話、なんでもピンピンとはじけながら会話が進むのが楽しかった。
なにしろいいときの朝日新聞の人だから、
私の立ち位置がそこで決まったと言っても過言ではない。


でも、困ったときに親身になってくれるのがなによりありがたかった。
あの時間でだいぶ救われた。

わたしの今の子たちとの向き合い方は、なんかおじいちゃんに似ているなあと思っている。

参考書代をもらったっけ。
友人や彼女と遊びにいくお金も助けてもらったなあ。

おばあちゃんの葬儀のあとに聞いた思い出話に、ひとつひとつ意味が込められていて感動した。
私が司式をしたもんだから、式の前にそこまで話してもらいたかったよ、なんて言った記憶が。

おい!わしの葬儀も頼むぞ、と言われて、もちろん!と、固く握手をかわした。
のに、
その約束を果たせなかったのは申し訳ない。

月曜日
長男くんが修学旅行に出かける日。
早朝にひいじいじが召されたと伝える。
彼は静かに涙を流しつつ旅行に出かけた。

長男はいないし次男は市内大会に向けた練習があり、
わたしは、仕事で、この2、3日でどうにかしないと家を失うという人とかかわっており、
かけつけることは断念する。

いつか子たちと丁寧に墓参りをして、ひいじいじのことをいっぱい伝えよう。

この間はどうしても当時のピンピンにはねるじいさんではなくて、
なんでもいい感じで忘れるじいさんだったから、
相談したくてもできなかったけど、
本当は相談したいことだらけだったんだよなあ。

そのあたりは天国で、ということで。

おじいちゃん、ありがとう。。。またね。









出会いを目指して

2012年11月09日 | 聖書を読んでみました
第二コリントの1:15~2:11を読んでみます。
少し長いですが。

パウロの仲間たちが、コリントにて、コリントの仲間たちと会う約束をしているけれども、
なかなかそれが実現しない、という状況のようです。

そしてコリントの仲間たちからパウロへ文句が出ているようでもあります。
「コリントに来るなんて調子のいいこといいやがって。その気なんかなかったんじゃないの?」
「コリントが大変だってわかっているから、うまいこと教会の立て直しができない感じがするから、逃げてるんじゃないの?」
まあ、こんな感じでしょうか。

それに対してパウロは、
コリントにてコリントの教会の仲間と出会う計画は、
「軽はずみ」ではなく、「人間的考え」でもなく、
必ず実現することであり(「然り、然り」)、
実現しないことはない(「否、否」)のだ!と応えます。

また、どうも二つの仲間の間に具体的な事件もあったようで、
その事件でパウロの仲間たちもコリントの教会の仲間たちも傷つき悲しんだ様子がうかがえます。
その原因になった者は、パウロとコリントの誰かのようです。
そして、コリントの誰かは、コリントの教会内でも、だいぶ非難された様子がうかがえます。

つまり、これから出会うという出来事を前にして、
しかし出会いを妨げるものがある状況でして、

実は、私たちもこういうことは繰り返し経験しているのだと思います。

それまでの経験から、あるいは噂などから、
出会う前に、出会うことを避けてしまうことがあると思います。

あるいは、こちら側の気分や体調の問題で、
つまり、自分が苦しくなることを避けるために、
出会う前に、それを拒否することがあると思います。

もちろん、出会いを拒否するだけの十分な理由が過去にあるわけです。

でも、パウロは、出会うという希望を捨てませんでした。
コリントの教会と必ず出会う!(然り)と言い切ります。
しかも、主イエス・キリストが「必ず出会う」という出来事しか持っていないと言います。
神さまが、出会うべき両者を「キリストに固く結びつけ」、「油を注いでくださる」と言います。

つまり、両者は、
人間的には、出会うことが難しくても、
神さまがその両者を特別な者(油そそがれた者)とすることで、
必ず出会いを与える!
と、パウロさんは言うわけです。

しかも、出会うという出来事のために、
すでに頭金(「保証」)である聖霊が与えられているといいます。
聖霊がおられる以上、すでに出会いは始まっているということです。

どんなに出会いたくなくても、出会うのが難しくても、
主イエスにより、
私たちは、すでに出会いに向けて出発しており、
出会うことを目標とかかげることがゆるされ、
それを目標とすべきであり、
それ以外の目標はないということを、
パウロはここで語ります。

そして、この目標に生きることができるのは、信仰に両者が立っているからだ、とも言います。

さて、どうもパウロとコリントの誰かが、両者を悲しませたようで、
多くの人は、ふたりのせいで、パウロの仲間とコリントの教会の仲間が出会うことができないと思っているような感じですが、

パウロは、そのことをひっくり返します。

つまり、
パウロが喜ぶとするならば、それは、パウロが悲しませた人と出会うことによってだ!と言います。
そして、出会うことで、悲しませた人たちが喜ぶときに、パウロも喜ぶと言います。
さらに、
この共に喜ぶことを目指すために、
パウロは「涙ながらに手紙を書いた」ことを告白します。
愛しているからそうしたとも言います。

さらに、コリントの誰かに関しては、
「その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべき」であり、
「その人を愛するようにしてください」とパウロは懇願します。

そして、
誰かが赦したとすれば、それはキリストが赦したことであり、みんな赦すことである、
という、パウロ流の黄金律が語られます。

そして、この赦しこそが、最強の行為であり、赦しによりサタンにつけ込まれない!とパウロは宣言します。

サタンは赦しのないところにつけ込みます。
つまり、人が人をさばくときは、サタンがそこの交わりに入る最大のチャンスであり、
その交わりはキリストの交わりと思いつつも、サタンの交わりになっているかもしれないわけです。
それが「サタンのやり口」とのことです。

赦し!

赦して、出会うことを目指す!
それができるのはキリストがそれしかしない方であり、
神が出会う者たちを特別に出会う者として立ててくださり、
また、実は出会いを目指した時点で聖霊により出会いは始まっているから!!!。

これが、三位一体の神によるキリスト者の歩み。
これがキリストの業。

というところでおしまい。

救い主に逆らっても損なんだけど・・・。

2012年11月03日 | 聖書を読んでみました
なんとなく眠れない夜。
聖書を読むことにしまして。
マタイ福音書2:1~12

救い主イエスがユダヤ人の王としてお生まれになったことを占星術の学者たちが知りました。
星が昇るのを見たことで、救い主であり王である主の誕生を知ったとのことです。
占星術の学者を、星占い師と理解することもできますが、
私は、もっと信頼され尊敬され社会的地位があり、影響力があった人たちと考えています。

つまり、現代でいうならば、あらゆる科学技術に精通した有名な学者たち、ということではないかと思っています。
そして、星が昇るということでもって救い主の誕生を知ったということは、星が昇ることが誕生の原因、条件であるということで、現代で言うならば、あらゆる科学技術を駆使して因果関係を明確にし、何が起こったのかをはじき出すということが起こったということだと思うわけです。

今も暗い時代です。
もしかしたら人類の歴史はずっと暗いのかもしれないなあとも考えます。
そしてその暗い時代にはいつでも、それを突破する出来事が求められ、あらゆる人がさまざまに突破する希望を語ります。
当時も、暗い時代に救い主の誕生を、精密な因果関係を証拠としてあげつつ、はじき出したのだと思います。

救いの出来事はしかし、歓迎されるばかりではありません。
たとえば昨今の脱原発による経済復興的な希望は、歓迎されないところではまったく歓迎されません。
当時の王様は、救い主の誕生を聞いてとても動揺したことが聖書に描かれます。
それはユダヤの王の新たな誕生であり、単純に言うならば、王の地位が脅かされるからとも考えられます。
脱原発もまた、地位を奪われること、それに準ずることが起こるために、歓迎できない人はたくさんいるわけです。

だいたい歓迎できない人は、暗い世界の中なのに十分に満足している人でもあるようです。

しかし、それは偉い人だけの話でもなく、
わたしたちみんな、小さな世界でも、自分の小さな利益を守るために、新しいことを歓迎しないケースは多々あります。
別に新しいことがなくても、利益を守るためにつまらない行動をとることは多々あります。
誰でも経験していることでしょうが、ほんの小さなプライドを守るために、小さな嘘をついてしまったりします。

そのような、実は自分自身の現在のスタイル、所有物、アイデンティティなどを守るというある意味生存維持のための本能的行動は、ヘロデ王と同じように、救い主の誕生を拒むことになるのだろうと思います。

私たちは、救い主の誕生を受けるとき、同時に、自らが砕かれるということをも経験することを知らされます。
救い主の誕生は、私たちを救うために、私たち一人ひとりをいったん破壊することでもあるはずです。
そこでは、私たちは、古い自分が一度死ぬという経験をし、救い主と共なる新しい自分が与えられることに期待することがゆるされるのでしょう。

もちろん、この救い主による破壊は、私たちにとっては恐ろしいことであり、ゆえに、救い主に逆らってでも、自らが壊れない選択をしてしまうことが多いわけですが、まさにこれが罪なわけです。

私たちは、神を信じ愛しますが、同時に、本気で、神を怖れる必要があるわけです。


動揺したヘロデ王は、占星術の学者、つまり、当時の科学技術のブレーンと、大祭司、祭司長、律法学者、つまり、閣僚議員と与党議員と野党議員をみんな集めて、救い主がどこに生まれるのかを聞き出します。もはや総動員です。
建前上は、救い主を拝みたいということになっています。社会を救う新しい改革を歓迎すると言います。でも本音としては、その新しいかたち=救い主と、総動員で戦うということが起こっています。

そして、その後の聖書箇所で、ヘロデ王は救い主との全面戦争、つまり殺害計画を実行するわけです。

私たちも、とりわけ苦しいときほど自分の現状維持という生命維持機能が働き、本当は自分を壊してくれて新しくしてくれてハッピーにしてくれる救い主であるのに、その救い主と、自らのあらゆる知識と経験と言い訳を持ち出して、実は決闘するということが、少なからず、いや、ほとんどの場面で起こっているわけです。

だから今なお、主イエスは十字架につけられるのです。わたしによって。私たちによって。

クリスマスは、喜びの知らせを聞くけれども、それは決して心地よいばかりでなく、私が壊され変化させられるという、苦難と不安をも覚える出来事です。
しかし、その苦難と不安をも包み込む、救い主の誕生の出来事がクリスマスでもあります。

クリスマス。
救い主の誕生の出来事に身を委ねたいと思います。






救いであるところの誇り

2012年11月02日 | 聖書を読んでみました
本日は第二コリントの1:12~14を読んでみました。

パウロさんはここでパウロの仲間たちの「誇り」について語ります。
誇りは、人の支えになります。
誇りがアイデンティティとされることは珍しくありません。
そのとき、人は、誇りが汚されると同時に、自らのすべてを否定されたと思うことにもなります。
誇りはまた、自慢になり、また思い上がりにもなりやすいものです。
そのとき、人は、誇りゆえに、他者を受容できなくなったり、他者を傷つけることも多々あります。

日本もそうですが、世界の潮流として、国家の誇りが大切にされている時代です。
それは、国家という存在のアイデンティティを何で保つべきかが、もはやよくわからなくなっているからだと思います。
人は国家間を自由に行き来できるし、経済にしろ物資にしろ、国家間を自由に出入りします。
今住んでいる国家以外では生きていくことができない!という時代でもなく、
人は生きる国家をある程度選択もできます。

生活様式、伝統、慣習、宗教で保つことのできた国家のアイデンティティは、今やそれでは持たず、
誇りを必要としているようです。

そして、誇りで国家を支えると同時に、誇りで、隣国を傷つけます。

誇りはなかなか繊細で扱いのむずかしいものです。

でもパウロの仲間たちは、誇りを大切にします。

その誇りは、「神から受けた純真と誠実」であると語ります。
同時に、「人間の知恵」は誇りではないことも語ります。

誇りの中身が、人間に属するものではなく、神に属するものである限りにおいて、
誇りはとても大切になることがわかります。

しかし、現代でも、神の名を誇りとする国家は、最大国を含めて多々あります。
しかし、そこでは神の名を騙った人間の知恵が誇りとされていることを、私たちは見抜かねばなりません。

そうではなく、神の領域のみが誇りであるというところに立ち続けることが、パウロの仲間たちの使命であるわけです。

そして、誇りは単に精神ではななく、「行動」であることがうかがえます。
「神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは<省略>わたしたちの誇りです。」

神の領域を誇りとする行動、振る舞いであるかどうかが、私たちは問われます。
そのときに、自分のアイデンティティ確保のために誇りが重要な役割を持つゆえに、
誇るゆえに、逆に神を見失い、心では、頭では、神を求めつつも、自分の保守のためにまさに誇り、そのために行動し、それゆえに他者を傷つけたり、関係を壊すことが起こります。

行動、振る舞いが、誇りを大切にするときには問われます。
問われるからこそ、神を誇りとしているか、自らを誇りとしているか、が見えてくるのだろうと思います。

そして、神を誇りとするところからの行動は、みんなが理解できると書かれていきます。

人の知恵、人の誇りは、たくさんの説明が必要です。
哲学的、心理学的、社会学的、政治学的、経済学的な説明が必要です。
だから、理解できないケースがとても多いです。


でも、神を誇りとするところのものは、人の全身全霊に届きます。
筋肉と神経、脳と内臓、心と魂に響き渡ります。
髪の毛の先から足の爪の先までを震わします。

だから、誰でも「これだ!」と理解できます。
神を誇りとする行動との出会いは人を癒し、救います。
和解を起こします。

さらに、パウロの仲間にとってはコリントの仲間が誇りであり、
コリントの仲間にとってはパウロの仲間が誇りであるとまで書かれています。

異質な相手が誇りである!
ここに神の業があります。
異質な者たちが神によって出会い、異質なまま互いを誇りとする。
これはつまり、互いが互いに神による仲間たちであることを尊敬することであり、
神による仲間と神により出会ったということが誇りであるわけです。

すると、
目の前の異質な他者が
私の全身全霊に届き、
筋肉と神経、脳と内臓、心と魂に響き、
髪の毛の先から足の爪の先まで震わせることとなります。

パウロは、このことを「十分に理解してもらいたい」とコリントに人たちに呼びかけ、
また、私たちに呼びかけているのだと思います。

というところで、おしまい。

希望!あらゆる苦難は慰められる!

2012年11月01日 | 聖書を読んでみました
今日は第二コリント1:3~11を読んでみました。

私たちの神は「慈愛に満ち」「慰めを豊かに下さる」神ということを、この言葉のまま信じることができてうれしいです。信じるべきだし、信じるしかないし、信じないなんてもったいない!。

この神は、「あらゆる苦難に際してわたしたちを慰め」てくださるからありがたい。あらゆる苦難!。

神が慰めてくれる苦難と慰めてくれない苦難があるわけではないからこれまた感謝。

人は、実は苦難を分けます。助けるべき苦難と助けない苦難を分けます。
それは、人の判断による加害と被害というかたちで分けることが多いと思います。
被害者の苦難は慰めるけど、加害者の苦難は覚えることなく、裁きのみ行われたりします。

聖書は、裁くのは神のみと言います。そこでは人は裁く必要がなくなります。

その裁く神は、しかし、同時に、いや、裁く以前に、慰める神です。
慰める神だから裁くことができるわけです。
神はまず慰め、赦すから、裁くわけです。
慰め、赦された者は、裁きを聞き入れることができるようになり、新しく生まれ変わることができるに違いないわけです。

まず、すべての人のすべての苦難は神に慰さめられます。
そして、神に慰められた人は、「神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができるようになります」。

そして、慰められた者に対して、神のみが、必要なときに裁きます。
人が裁くとき、そのときは、慰めることができなくなります。
人が裁くとき、そのときは、神の慰めをしることができなくなります。
人が裁くとき、そのときは、その人が苦難から抜け出せないことを意味するのだろうと思います。

裁きは主にゆだね、その主の慰めにすべてを委ねることができるから、
私たちは命あふれて生きることができます。

私たちに満ちる神の慰めは、直接届くのではないようです。
「キリストによって」届くようです。

そして、キリストを仲介して届く本物の慰めとは、
私たちに満ち溢れている「キリストの苦しみ」と同時に届くことが明確に書かれます。
私たちが慰めに満ち溢れるということは、キリストの苦しみに満ち溢れるということです。
だからこの慰めを受けた者は悩み苦しむことができるようになります。
さらに、慰めを受けた者が悩み苦しむとき、それが、他者への慰めと救いとまでされていきます。

苦難にある私たちは、神の慰めを受け、同時にキリストの苦しみを受け、キリストの苦しみに比するならば軽いところの自らの苦難を悩み苦しむことができ、悩み苦しむことが、実は他者への慰めと救いになる。

さらに、慰められた者は、共に同じ苦しみを苦しみ、それに耐えることさえできるとまで書かれていきます。

この共なる苦しみと共なる慰めがあるとき、
私たちの「希望は揺るぎません」。

私は、共に苦しんでくれる仲間がいてくれて、共に慰めあう仲間がいてくれるから、
絶対に希望を捨てない!と、今の状況だからこそ宣言します。

「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」。

アーメン。

自分を頼りにするのではなく、人の経験や知識や技術を頼りにするのではなく、
死者を復活させてくださる神を頼りにするから、
私は希望を捨てません。

「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」。

アーメン。アーメン。

おしまい。

希望!あらゆる苦難は慰められる!

2012年11月01日 | 聖書を読んでみました
今日は第二コリント1:3~11を読んでみました。

私たちの神は「慈愛に満ち」「慰めを豊かに下さる」神ということを、この言葉のまま信じることができてうれしいです。信じるべきだし、信じるしかないし、信じないなんてもったいない!。

この神は、「あらゆる苦難に際してわたしたちを慰め」てくださるからありがたい。あらゆる苦難!。

神が慰めてくれる苦難と慰めてくれない苦難があるわけではないからこれまた感謝。

人は、実は苦難を分けます。助けるべき苦難と助けない苦難を分けます。
それは、人の判断による加害と被害というかたちで分けることが多いと思います。
被害者の苦難は慰めるけど、加害者の苦難は覚えることなく、裁きのみ行われたりします。

聖書は、裁くのは神のみと言います。そこでは人は裁く必要がなくなります。

その裁く神は、しかし、同時に、いや、裁く以前に、慰める神です。
慰める神だから裁くことができるわけです。
神はまず慰め、赦すから、裁くわけです。
慰め、赦された者は、裁きを聞き入れることができるようになり、新しく生まれ変わることができるに違いないわけです。

まず、すべての人のすべての苦難は神に慰さめられます。
そして、神に慰められた人は、「神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができるようになります」。

そして、慰められた者に対して、神のみが、必要なときに裁きます。
人が裁くとき、そのときは、慰めることができなくなります。
人が裁くとき、そのときは、神の慰めをしることができなくなります。
人が裁くとき、そのときは、その人が苦難から抜け出せないことを意味するのだろうと思います。

裁きは主にゆだね、その主の慰めにすべてを委ねることができるから、
私たちは命あふれて生きることができます。

私たちに満ちる神の慰めは、直接届くのではないようです。
「キリストによって」届くようです。

そして、キリストを仲介して届く本物の慰めとは、
私たちに満ち溢れている「キリストの苦しみ」と同時に届くことが明確に書かれます。
私たちが慰めに満ち溢れるということは、キリストの苦しみに満ち溢れるということです。
だからこの慰めを受けた者は悩み苦しむことができるようになります。
さらに、慰めを受けた者が悩み苦しむとき、それが、他者への慰めと救いとまでされていきます。

苦難にある私たちは、神の慰めを受け、同時にキリストの苦しみを受け、キリストの苦しみに比するならば軽いところの自らの苦難を悩み苦しむことができ、悩み苦しむことが、実は他者への慰めと救いになる。

さらに、慰められた者は、共に同じ苦しみを苦しみ、それに耐えることさえできるとまで書かれていきます。

この共なる苦しみと共なる慰めがあるとき、
私たちの「希望は揺るぎません」。

私は、共に苦しんでくれる仲間がいてくれて、共に慰めあう仲間がいてくれるから、
絶対に希望を捨てない!と、今の状況だからこそ宣言します。

「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」。

アーメン。

自分を頼りにするのではなく、人の経験や知識や技術を頼りにするのではなく、
死者を復活させてくださる神を頼りにするから、
私は希望を捨てません。

「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」。

アーメン。アーメン。

おしまい。

希望!あらゆる苦難は慰められる!

2012年11月01日 | 聖書を読んでみました
今日は第二コリント1:3~11を読んでみました。

私たちの神は「慈愛に満ち」「慰めを豊かに下さる」神ということを、この言葉のまま信じることができてうれしいです。信じるべきだし、信じるしかないし、信じないなんてもったいない!。

この神は、「あらゆる苦難に際してわたしたちを慰め」てくださるからありがたい。あらゆる苦難!。

神が慰めてくれる苦難と慰めてくれない苦難があるわけではないからこれまた感謝。

人は、実は苦難を分けます。助けるべき苦難と助けない苦難を分けます。
それは、人の判断による加害と被害というかたちで分けることが多いと思います。
被害者の苦難は慰めるけど、加害者の苦難は覚えることなく、裁きのみ行われたりします。

聖書は、裁くのは神のみと言います。そこでは人は裁く必要がなくなります。

その裁く神は、しかし、同時に、いや、裁く以前に、慰める神です。
慰める神だから裁くことができるわけです。
神はまず慰め、赦すから、裁くわけです。
慰め、赦された者は、裁きを聞き入れることができるようになり、新しく生まれ変わることができるに違いないわけです。

まず、すべての人のすべての苦難は神に慰さめられます。
そして、神に慰められた人は、「神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができるようになります」。

そして、慰められた者に対して、神のみが、必要なときに裁きます。
人が裁くとき、そのときは、慰めることができなくなります。
人が裁くとき、そのときは、神の慰めをしることができなくなります。
人が裁くとき、そのときは、その人が苦難から抜け出せないことを意味するのだろうと思います。

裁きは主にゆだね、その主の慰めにすべてを委ねることができるから、
私たちは命あふれて生きることができます。

私たちに満ちる神の慰めは、直接届くのではないようです。
「キリストによって」届くようです。

そして、キリストを仲介して届く本物の慰めとは、
私たちに満ち溢れている「キリストの苦しみ」と同時に届くことが明確に書かれます。
私たちが慰めに満ち溢れるということは、キリストの苦しみに満ち溢れるということです。
だからこの慰めを受けた者は悩み苦しむことができるようになります。
さらに、慰めを受けた者が悩み苦しむとき、それが、他者への慰めと救いとまでされていきます。

苦難にある私たちは、神の慰めを受け、同時にキリストの苦しみを受け、キリストの苦しみに比するならば軽いところの自らの苦難を悩み苦しむことができ、悩み苦しむことが、実は他者への慰めと救いになる。

さらに、慰められた者は、共に同じ苦しみを苦しみ、それに耐えることさえできるとまで書かれていきます。

この共なる苦しみと共なる慰めがあるとき、
私たちの「希望は揺るぎません」。

私は、共に苦しんでくれる仲間がいてくれて、共に慰めあう仲間がいてくれるから、
絶対に希望を捨てない!と、今の状況だからこそ宣言します。

「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」。

アーメン。

自分を頼りにするのではなく、人の経験や知識や技術を頼りにするのではなく、
死者を復活させてくださる神を頼りにするから、
私は希望を捨てません。

「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」。

アーメン。アーメン。

おしまい。

人の限界、主の突破、つまり和解の主

2012年10月31日 | 聖書を読んでみました
本日はマタイ1:18~25。
イエス・キリストが生まれる場面。

イエスの父はヨセフ、母はマリア。とまあ有名な話。
しかし、マリアはヨセフの身に覚えのないところでご懐妊。
私だったらどうするか。
その女性の責めると思います。
そして、嫉妬心いっぱいで別れると思います。

ヨセフも別れを決意します。
でも私と違って未練たらたらで、別れる理由を女性にすべて押し付けるという仕方ではありません。

私は悋気に支配されたどうしようもない人間。
でも聖書によるとヨセフは正しい人間。

だからヨセフは、相手のせいで別れるなんて当然考えず、
相手、つまりマリアが幸せになるためにいろいろ考えます。

ひとつは、婚約者以外の子を宿したということがみんなに知られないよう、
その子は婚約者ヨセフが、ヨセフの側で勝手に婚約破棄し、
その後、自由の身のマリアが懐妊したということにして、
うまいことマリアがスキャンダル扱いされないようにしようと考えましたし、
またきっと、本当の父親とマリアが結婚できるようにしようとも考えたのだと思います。

これが、正しい人なわけです。

でも、主の天使があらわれて、離縁をしないよう命令します。

ここで、人の、それも正しい人という、人の中の人の、その限界性と、
それを超える主の働きが見えてきます。

いくら正しい人でも人が他者を傷つけずにできることには限界があります。
そして、どんなに正しい行為とされるものでも、そこでは、他者、ここではマリアとの縁が切れる、ことが起こります。

人は、他者との縁が切れるしかないという状況を、人の限界の中でたびたび迎えます。

しかし、縁を切ることをさせない力も、同時にこの世界にはあるのだ!ということが語られます。
主は、縁を切ることなく、つながったまま、事柄を解決します。
そう!まさに和解の主。

そして、縁を切らずにヨセフとマリアから生まれたのが主イエス。

和解から生まれた主という出来事は、まさにインマヌエル。
神が私たちと共にいます!から、ひとりではありません!という神の縁を切りません宣言。
同時に、その主は民を罪から救うと書かれます。
この罪、そう、人間の限界性、つまり、縁を切らざるを得ないということ。
でも、その罪から救われる民は、縁を切らずに和解をいただくわけで、
それこそキリスト、救いなわけです。

さて、最後に、マリアが聖霊でもって懐妊したということですが、
これもまた、たとえば人と人との関係では性行為を通して懐妊するわけですが、
となると、人と人は、何かを生み出すためには、何かの条件を必要とするわけですが、

人と聖霊の関係では、条件なしで、まさに生み出される、創造されるという出来事が起こるということかなあと思ったりします。

というところで、本日はおしまい。


久しぶりの更新 系図からの救い

2012年10月30日 | 聖書を読んでみました
とても久しぶりの更新。
聖書を読んでいこうと思いました。
ちょっと現在しんどい時期を過ごしており、
ほかの本はなかなか読めないのですが、
不思議と聖書だけは読むことができるという経験をしていますもので。

で、新約聖書の最初から。

マタイによる福音書の初っ端は主イエスの誕生までの系図。
この系図から与えられる救いって何だろう?

この系図は、主イエスがいいところの家系であるということを当然言っていると思います。
現代でも、いいところの家系というのは信頼されるし、
結婚時にお相手の家系を興信所で調べるケースも多いようですし、
そもそもどの家系に生まれるかで経済や教育の状態も決まりますし、
就職も家系がいいと縁故で苦労なし。

となると、ほぼすべての人において、主イエスがいい家系であるということは、
救いどころか、イヤミにすら思えることだなあ、と思ったりします。

しかし、そのいい家系の中で、主イエスは、その時代に最も見下されていた大工の息子として登場してきます。

なるほど、主イエスは、いい家系でありながらも、どこかで縁を切られて、社会の最底辺に落ちた方であることが読み取れます。

ならば、もう家系なんか役に立たないから紹介などしなくてもいいのに、とも思います。

しかし、この家系にはもう一つ大きな意味が隠れていることは間違いないようです。
それは、救い主が生まれるとされた家系です。

で、その救い主が主イエスです。

で、その救い主は、社会の最底辺に落ちた(落ちざるを得なかった)方であり、
その救い主は、縁を切られた方であります。

家系というのは、だいたい、信用させるために用いるのでしょうが、
マタイ福音書では、つまり、
社会の最底辺で虐げられている者が、救い主としてお生まれになった!
ということに最大限の信用を付与しているのだと思いました。

また、この家系には岩波聖書の注によるとなかなか面白い方々が現れます。
娼婦のふりしてユダに近づいて子どもをもうけたタマルさん。
売春婦のラハブさん。
ダビデと不倫をしたウリヤの妻さん。
出会ったら敵とみなされた異教徒出身のルツさん。

みんな、主イエスの誕生に欠かせない出産を経験されています。

当時は、親権がすべて男性にあり、女性は産む存在として軽視されていたという差別的事実もあり、
女性なら誰でもいい、という解釈もできなくもないですが、
私は、主イエスの誕生までの歴史において、
彼女たちがかかわっていることが、
救いにとって重要だと思うわけです。

最も社会から嫌われ、虐げられることになる倫理違反をした者も、
主イエスという救い主の誕生により、
共に
思いっきり
救われるわけだろうと思います。

そもそも
彼女たちの心を思うならば、
おそらくぽっかりと空いた穴があり、
根源的なさみしさをかかえ、
圧倒的孤独感に支配され、
生きていることが苦しい方たちだったのだろうと思います。

しかし、彼女たちがかかわった事柄抜きには、歴史は全く成立しないわけです。
救い主誕生へとつながらないわけです。

どんな苦難にあっても
どんな困窮にあっても
どんな見捨てにあっても
どんなに生きるのがつらくても

主が生まれることにより、
主がかかわることにより、

すべての者は、救われる!

同時に、すべての者が救い主のはたらきのために不可欠である!!

というのが、マタイ福音書の最初の宣言であり、
そして、その後に、救いの中身が描かれていくのだろう、

と思いました。

久々のブログ更新、おしまい。