きぼう屋

生きているから生きている

神との共働

2010年04月26日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

*******************

「働く神との共働」

私たちの神は、
人の身体を伴うまでして、
すべての命の傍らに寄り添ってくださいます。

そして私たちはその神により、
本当に「涙を拭って(ヨハネ黙示録)」頂き、
深い慰めを得ます。

だから私たちは、
日々の生活で抱える困窮を隠さず、
そのまま神に委ねられます。

つまり
格好つけて教会にくる必要はなく、
逆に泣きながら教会に来る私たちを
神は慰めるために待っています。

さらに神は慰めるだけで終わりません。

私たちの生きる世界は、
既に神の慰めの中にあると同時に、
しかし未だに深い痛みと悲しみの中にあるため、
神は、
なおも慰め続けるために働きます。

そして、神の慰めを知った者を、
その神の働きに招きます。
そこで私たちは神の共働者とされます。
そして実に私たちが得る真の慰めは、
慰めのために働く神との共働において、決定的に起こります。

同時に私たちの罪も、
主が十字架で私たちの代わりに裁かれるのと同時に、私たちも主と共に十字架を背負うとき、
つまり他者の罪を身代わりに背負うとき、
自らが神に赦されていることを本当に知ることとなります。

つまり神による慰めと赦しは、
神が私たちを、
神の十字架を背負う働きに招き、
それに私たちが応答し、
私たちが神と共に十字架を背負う中で起こされます。
「自分の十字架を負いなさい(マタイ伝)」という戒めは、
慰めと赦しがそこで決定的に成し遂げられることを意味するものです。

さて
礼拝でも神は働きます。
私たちはその神の働きに参与します。
神の讃美に耳を傾け、その讃美を共に担います。
それは同時に他者の讃美の声に耳を傾けつつ讃美できるという他者との絆、愛ともなります。
また神がご自身を献げるのを受け、共に献身し、献金します。
神が言を語るのを受け、その言を共に語り、また聞きます。

そして日常生活では、
端的に神と共に他者を愛し、他者にかかわり、
すべての場所に、神と共に和解と平和をつくることに、
私たちはそれこそ命をかけます。

この神との共働が私たちのこの世での本来的な行為であり、
これがキリスト信仰による人生です。

安心してばれてます

2010年04月24日 | 教会のこと
先週の土曜日に引き続き
今晩も整体師のEくんに施術してもらいました

今晩もまた店での仕事をすべて終えた後
ウチまで来てくれました

感謝してもしきれないのであります

先週のわたしの体は
稀に見るぼろぼろ
だったそうで

日にちを空けずにもう一回施術をしたほうがいい
と言ってもらって
今晩もお願いしました


楽になりました

先週は
ピキー
ピキー
ピキー

痛みが走りまくったのですが

今晩はそれが激減して
ちょうどいい痛みをたくさん感じることができました


先週はカチカチだった首とおなかも

けっしてやわらかくなったわけではないということですが
かなり固さが減っていて
先週のような
やばさ
を覚えるほどでは到底ない
ということで

安心しました


しかしEくんに施術をしてもらうと
わたしの状態のすべてがばれてしまいます


どれくらいの仕事量になっているのか
どれくらいの緊張度を伴う仕事をしているのか

逆に
少し余裕があるのか

さらには
わたしの感情の動き
とくに出口が見えないで迷いつつ祈っているような出来事の有無

などが
ばれてしまいます

なんだかどちらが牧師かわからなくなってしまいます


でも安心してばれてもらっています


これは
彼もわたしと一緒のとき
何も隠さず
カッコウつけず
全部さらけだしてくれるから
わたしも同じことができているのだろうと思っています

迷惑かけあう仲
という理想を実現できているひとつの交わりです


感謝感謝

教会の子ども

2010年04月23日 | 教会のこと
今週は長男が修学旅行に行っておりました
もう6年生なんですなあ

その下に4人の小さいのがいるので
ついつい長男をも子ども扱いしてしまっていると思います

ごめんなさい

気付けば
野球の細かいところまで良く知ってるし
モンゴル800なんぞを好んで聞いているし

なかなか趣味もよろしいと思います

しかししかしなにより

家族思いで仲間思いなところが泣かせます

彼の行動は必ず共に生きている仲間たちが想起されてのものとなっています

この部分ではわたしはずっと彼には敵わないと思います


わたしはまもなく2歳になる長女を風呂に入れたのは3回しかありません
お兄ちゃんたちが毎日一緒にお風呂に入ってぜんぶ面倒を見てくれます

そこで長男は見事なリードをします
ほとんど見守りつつ
しかしここぞというときには命令もしつつ



修学旅行で
お小遣いのすべてを
家族と仲間のためのおみやげに使って帰ってまいりました

弟たちは大興奮です

妻と私もとってもおいしいお菓子をいただきました


何が彼をそうさせるのか


教会です


教会の仲間が彼を自分の息子として共に生きてくれているからです


今だから良くわかりますが
だから感謝したくてたまらないのですが

私が赴任した当時

クロダさん、フジタさん、アオヤマさん、サヤカちゃんが
週に何度も教会に来てくださって
長男と時を共に過ごしてくれました

また数年後からは
ジョウチさん、ヤマシタさんが自分の息子として接してくれました


そしてこのあたりで
教会に
子どもと共に生きるという下地ができあがってきたと思います

そこで面白いのは

ホームレス支援の交わりが
まず子どもを受容する教会となったことです


そして

サツキちゃん、ムナカタくんにより
教会学校が成立し

さらに青年たちがどんどん子どもたちにかかわってくれて


そして今


ほぼみんなが子どもたちにかかわるようになっていて

すると


どんどん教会に子どもが集まってきているという

つまり本当にウチの教会は
子どもと共に礼拝する教会となったのだなあと感激しております


ただ
実は

赴任当初は
たまたまバプテストの教会学校の歴史の中で
豊かな働きをされてきたフジタさんが
たまたま京都に住まいを移されて
他教会からウチの教会に来てくれたこと
そこに
やはり他教会で育って大きくなって
学生として京都にたまたま来られたサヤカちゃんがウチの教会にきてくれたこと
そして誰をも家族として迎えるアオヤマさんがいつもたくさんの料理で子どもたちを迎えてくれたこと
さらにウチの教会で子どもたちが集まることを祈り続けたクロダさんがずっと長男を抱いてくれたこと

また
その後どんどん
不思議と
やはり他の教会で育った子どもたちが青年となり
たまたま学校や仕事で京都や大阪に来られて
ウチの教会で
自分たちがしてもらってきたことをとても自然にしてくれた

というところで
教会学校が中身を獲得したわけでございまして

偶然といえば偶然ですし
みこころと信じればそうなるかもしれませんし
なんとも不思議なのでございます

さらにそうなってまいりますと
そういう中身に引かれて
教会に集いバプテスマを受ける仲間がどんどん与えられ
また子どもにかかわりたいという動機から
若者がさらにやってきて

そしてそういう教会の交わりだから
安心して子どもを連れて教会に来られる親御さんが集まってきて

まさにこれから

本当の意味での
教会における教育
いや共育が
始まるだろうと感謝しております


もちろん
長男も

これからいろいろあるはずです

悩むし落ち込むしグレるだろうと思います

でもよいのです

わたし
知っています

教会で育ったそういう子どもたちが
肩書きとか収入とか格好付ける方法とか
そんなところではなくて

本質として持つべきものを持っているゆえに
大人になって見事に聖書の言うところの成人となっていることを


教会の交わりは
みんなで子どもと共に歩まねばならないし
歩むしかありません

だって
主イエスがそう言っているし
そうしているし

僕らも
主イエスと一緒に
そうしていきたいのでございます


今日
訪問に行かせていただた先のとある姉妹が

気付いたら礼拝の半分が子どもたちで感動しています

と仰ってくれました


数字的に厳密にいうと

4分の1から5分の1が子ども(小学生以下)なのですが

しかし
半分
と感じるのは本当なのだろうと思います



長男が
親でなく
教会で
キリストの体の中で育つ事がゆるされていることに感謝するとともに


今集まっている子どもたちを
これからもどんどん集まる子どもたちを
教会で
キリストからだとして
主イエスと一緒に
愛してかかわっていきたいと
心から願っております


えらいしあわせ!


祈る

2010年04月22日 | 教会のこと
祈る

主よ 来てください
主よ かかわってください
主よ 働かれてください
主よ 慰めてください
主よ 解放へと導いてください
主よ 愛と和解の道を歩ませてください


若くして母親を亡くし孤独の中にある姉妹
子どもたちのために懸命に生きる中で疲れを覚え精神の乾きをも覚える姉妹
家族との縁が切れた中で経済的自立に向けて努力するも先の見えない兄弟
自立後安定した生活を得つつも雲隠れのように連絡がつかなくなった兄弟
死と直面する病を担いつつ複雑な思いの中でしかし軽やかに生活を送る姉妹
獄の中で罪を見つめつつ義しい裁きの前に立つことを願う兄弟
大きな手術を終え日常の生活に戻るための準備をしている姉妹
職場で新たに大きな責任を担いその重圧に慣れる過程にある兄弟
新しい土地と職場での生活が始まり希望を持ちつつも先行する不安とたたかう姉妹
言葉にできないほどの悲痛経験からウツを担いつつ解放を願う兄弟

祈る

教会は交わり!その二

2010年04月20日 | 教会のこと
昨日の記事
教会は交わり!
に大切な交わりを漏らしてしまいました

ホームレス支援の交わり

が当教会の最近10年においては
もっとも聖書のみことばを深くいただいた交わりとなっております。


元気がない!
と内外から言われて久しい教会ですが

キリストの体として美しく組まれている交わりが
(この場合の美しいというのは十字架があるということ)
いくつになっているか

というところで
教会が教会らしい中身をいくつ獲得できたか

というひとつの判断をしてもいいだろうと思っております

赴任時は

野の花会(当時は婦人会と名乗っていました)
エパタ会(手話言語を用いる交わり)
教会学校成人クラス

という交わりがありました

そこに

ホームレス支援
火曜祈祷会

が交わりとして加わり

続いて
土曜日の礼拝準備に主体的に参加する仲間が
掃除の後一緒に食事をするなかで交わりとなり
(なんと!バプテスマ決心者はこの交わりから最も多く誕生しています!)

さらに
礼拝のプログラムと椅子の位置を全部改革する中で
礼拝もまた交わりが意識されるものとなり

さらに水曜祈祷会
が交わりをなし

さらにさらに
教会学校改革においてすべての年齢層のクラスを設けるようになり
年々それぞれのクラスが交わりとして深まり

さらにさらに
青年会が交わりをなし

同時に日曜日は夜まで残り交わりを持つ仲間が与えられ

続いて壮年会も毎月集まることがゆるされるようになり

そして昨年から小さな子どもを育てるお母さんの仲間の交わりが始まり

もちろん子どもたち同志の交わりも起こされ

さらに今年からは読書会の交わりも起こされるという

そんな感じになってきました


そしてこれからは

執事会
各委員会
教会音楽関係

の交わりがキリストの体なる交わりとしてさらに組まれていくよう
いろいろと考えていきたいと思います


そうねえ
若い誰かに
教会バンドを作ってみない!
って提案してみようかいねえ


あとそうそう

以前にも少し書きましたが
今後10年の夢として

寺子屋ならぬ教会小屋という交わりを
築いていきたいと思います

さまざまな事情で教育に悩んでいる家庭のための
無料の小中学生のための塾です
学校の勉強はもちろん
できたら夕食も一緒に食べて
さらには教会ですから聖書の言からの人格育成も目指します

すでに各教科を教えられる人格者である人材は与えられているから

次は真剣に毎日祈るばかりです


教会は
交わりなのです!

教会は交わり!

2010年04月20日 | 教会のこと
教会は
交わりです

会堂とか
組織とか
雰囲気とか

ではなくて

キリストの体という交わりです

だから教会という交わりの特徴は

キリストにおいて結ばれているということと
体として組み入れられているということです



今のうちの教会のなかの
具体的な交わりをひとつづつ考えてみる

ということを今晩はやってみました

ウチの教会にはこんな交わりがあります

礼拝
火曜祈祷会
水曜祈祷会
教会学校各クラス
教会学校リーダー会
壮年会
野の花会
青年会
エパタ会
各委員会
聖歌隊
執事会
土曜日の礼拝準備奉仕者
日曜日のすべてのプログラムが終了したあとに残る仲間
若いお母さんの仲間
小学生の仲間

そして
教会の仲間とは会うことはないけど
私のカウンセリングを受けている仲間もまた
私と妻とその方で豊かなキリストの体を形成することができています

また読書会も誕生します

この中で
ひとつの体として美しく組まれているものと
ちょっとばらけているけどまあ組まれているものと
まだあんまり組まれていないものを

私なりに分けてみましたら
大きなことを発見しました

それは

いわゆる組織性や規則性がなく
その場で端的に共にいる
という交わりが
実に美しく体として組まれるけれども

組織や規則にのっとる部分になればなるほど
組み込まれていない
ということです

このことはちゃんと考えてきていませんでした
これは10年間何をしていたのだ!と叱られても仕方がない見落としです

大変申し訳なかったと思います

つまり
組織や規則の上にあるものは
キリストの体でひとつとなるよりも
組織や規則でひとつとなることを選ぶことができてしまっていたのだと思います

なのにその事実には気付かなかったわけです

うーん情けない
本当にすみません

というわけで
組織や規則の上になるものとしては

教会学校リーダー会
各委員会
執事会

があるわけですが

これらが
キリストの体として歩むことをより強く意識していきたいと思いました

でも気付くと
とても楽しくもなってきました


キリストの体なる交わりとして生まれ出てくる事柄を
組織や規則として表現していきたいと思います


読書会

2010年04月19日 | 教会のこと
ウチの教会では
今年度から
月に一回読書会が開催されます。
記念すべき第一回は来週25日の午後

青年のMちゃんがみんなに声をかけまして
なんと読書会の呼びかけ人として
若いメンバー5名が名を連ねてくれておりまして

とってもうれしいのであります

まずは

先日新教出版社から出版された
「光は闇の中に輝いている」
を読むとのことです

この本は
日本バプテスト連盟靖国神社問題特別委員会の40周年を記念して出版されましたが

中身は

近代日本の歴史の只中における主イエス・キリストを証するものであり
それも

神学者、牧師はもちろん
哲学者、法律家、歴史家も信仰告白として語っているという
(高橋哲哉さんの講演録も私からみたら信仰告白ですねえ
 ご本人はそんなこと言われるとびっくりされると思いますが)

とてもいい学びができる本です

しかも
執筆者、発言者は
私が長いこと対話させていただいている方々ばかりですので
文字になっていることの背景を知らせることもできますから
相当に深く学ぶことになると思います

さらに
この読書会が行われることが決まった事実を通して
当教会の将来がすでに見えても来ます

今年度は牧師による信仰基礎講座も開講することが総会で決まっておりますから

読書会と信仰基礎講座にて

今年は教会を
そして信仰を
丁寧に耕して
それにより数年後にステキな実をいただくということになるということが見えてくるわけです

若い仲間も増えておりますし

わたしも責任を覚えつつ
主の働きに参与させていただきたいのでございます

読書会!!!
楽しみ!!!


動く神さま

2010年04月18日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

*****************

「動く神さま」

神さまって何者?
まずたぶんよくあるイメージと思われるものを紹介します。

それは、
全宇宙を創り、把握する超巨大なで強大な方であり、
その神さまの視点から見ればすべての存在と出来事(特に困窮)はちっぽけだ!
というものです。
またこの神さまは静かです。
超巨大で強大ということは、
スーパーマンやウルトラマンのように戦う必要もないほどに
最初から勝負がわかっているほどの完全な神さまということです。

だから人は静かな神さまの前で静かにすることを心がけます。
そして静かに自分自身が神さまの大きさになり、
ちっぽけなすべてを眺めて安心することを目指します。

しかし!
聖書が語る神さまはそうさせてくれません。
全宇宙の創造主であるところまでは同じですが、
私たちの神さまは、
一つひとつの存在も出来事もちっぽけではなく、
すべてが神さまにあって重たいものだ!
と激しく訴えかけつつ、
全宇宙を支配される方のまま、
一人ひとりの存在と出来事の傍らにやってきます!

しかも最も大きな方でありつつ
「最も小さき者」としてやってきます。
十字架で殺されるほどに小さい者としてやってきます。

そして小さき者のまま復活された方としてやってきます。

そして今も復活の神さまがここにいます。
みなさんの傍らにいます。
みなさんの抱える困窮を身代わりとなり背負っています。
一人ひとりの存在と出来事がいずれも全宇宙の大きさと同じ重みを持っていると激しく訴えつつ、です。

そしてこの私たちの神さまは
したがって、まったくもって静的ではありません。

最も動的です。

全宇宙のすべての存在と出来事のもとへ最も小さき者として寄り添う方です。
しかも十字架を背負いつつ。

この神さまが共にいない存在も出来事も絶対にありません。
すべての存在のもとに必ず共にいます。
すべての出来事を共に担います。

そしてこの動く神さまは、
「神の義と神の国」という目的のために動き、
同時に私たちを動かします。

注意せねばならないのは、
私たちは、自分の目的や安定のためでなく、
「神の国と神の義」のために動く神さまと共に動く!ということです。

動きの基本は
動く神さまと交わるという動きであるところの礼拝です。

だから今日も共に礼拝をします。
また、ゆえに、礼拝は動的です。

動く神さまは、
もちろん!イエス・キリストです!

******************

今日もステキな主の日でした
ステキな礼拝に食事の交わりに教会学校に例会におしゃべりに営繕作業でした

主と教会家族に感謝感謝



ピキーーーーー

2010年04月18日 | 「生きる」こと
体がだいぶ楽になりました

整体師をされている教会家族に
さっきまで
丁寧な施術をしてもらっておりました

ジョギングしたくなるくらい
軽くなりました

しかし

だいぶぼろぼろ

とも言われてしまいました


首とお腹(内臓)が固いということです


おとといの夜に
体の中が急に動かない感じになったのは
そういうことなのかもしれません


内臓も筋肉ですからねえ
凝るんでしょうか


施術中に気持ちよくて眠りました



時々やってくる

ピリリ

イタタタタ
って
言って

でも

直後に寝息をたてていたそうです


しかし
このピリリが効きます

ピリリどころか
ピキーーーーー
となりまして
かなり効きます

首を押されたら

手のすべての指先まで
ピキーーーーーー
って痛くなるという
なかなか強烈なところもあるのですが

でも

楽になります


仕事で疲れているなかで
夜遅くに
こんなわたくしめのために

ほんとにほんとに

ありがとうございました


明日の礼拝説教をいい感じで迎えられると思います


これからもピンチのときには
遠慮なく助けてもらいますので

こんなわたくしめを

今後ともよろしくお願いします


いやあ

助かったあ


鯛なのです

2010年04月17日 | 「生きる」こと
一日にブログ記事をふたつも書けるなんてひさしぶりでうれしいです

本日
教会家族のIさんより
なんと
新鮮な鯛と秋刀魚の干したものをいただきました

あまりに美しい鯛だったので
さぞかし高価なのだろうと思いきや

福岡並みの価格ではありませんか

新鮮な魚を安く売ってくれる店があるそうです

京都にきて12年目
ようやく魚屋さんにめぐり合えたような気がします


若菜さんもちょっと興奮して
まず鯛をさばいて刺身にして
アラで出汁をとって味噌汁をつくり
秋刀魚も焼いてくれました

美味い!!


刺身は
先日Zくんからいただいたベトナムの醤油で食べたら
これがこれがバッチリ!


みなさんのおかげで
癒されます!!


さらにこの後

私を癒してくれるため
仕事を終えてかけつけてくれると言ってくれた教会家族もいてくれまして・・・

昨日のブログで心配をおかけしてしまったようで
なんだかすみません

でもしあわせです

ありがとうございます!


共同体

2010年04月17日 | ホームレス支援のこと
昨日

孤独死されたKさんの遺骨をあずかることとなる

それは同時に
血縁に引き取り手がなかったということでもある

だからこそ

僕らが覚える


私の牧師室に
ちょうど一年前にガンで逝去されたHさんと
Kさんの遺骨が並ぶ

ふたりはお互いに気にかけあっていた仲間だ

わたしはおふたりと
牧師室で出会う

後悔の思いが繰り返し強くあらわれるが
同時に
あたたかい気持ちにもなる


キリスト教会において
遺骨にて死者が共にいるという感触を覚えるというのは
あまり語られてきていない

しかしそれは

すべてを単体から
個人から
はじめるという思想に
聖書をあてはめるかたちで
信仰理解をしてしまっただけだと思う

すべては共同体からはじまる
しかも共同体がキリストの体としてはじまる
つまり他者と共に
というところからはじまる
という聖書の根幹からして

死者もなお共にいることを
体の一部である骨から覚えることは

信仰なのだ


***************

昨晩の炊き出し

わたしは市役所前の活動を終えて帰ってきたが 

その後京都駅へ行ってくれるボランティアたちもいる


家についたころ

チーム京都駅より電話が入る


男性物の上着はないか?
というもの

若菜さんが教会にある物資倉庫に探しにいく


でももう一度電話が入る


ボランティアのKさんがその日着ていた上着を渡したとのこと


kさんはキリスト者ではないけれども

わたしはキリストの精神を見る



これによって
寒さをしのげる当事者はもちろん

自分の上着を渡した仲間がいるという
寄り添いネット共同体も
精神がほんとにひとつ深まる



寄り添いネットをはじめてよかったと思うひとつの瞬間

感謝だ


キリストにあって

2010年04月16日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

そのまえに
この間ブログを更新できていなくて
ご心配くださり連絡をくださった皆々様
感謝でございます

えらくせわしい日々を過ごしておりました

そして昨晩
夕食前
急に体力が消えていく感触を覚えてしまいました
表面に筋肉は動くのにその中身に力が入らない感触です

仕方がないので
その日中に寝ることを決意し
11時に寝ることができました

でも
朝から頭痛がしてまして
ちょっとゆっくりせねばならないようです

ちょうど
わたしは第3金曜日の午前中に休むことにしているので
(夜中にホームレス支援がある日なので
 他の休みは毎週水曜日の午前中にできるだけ取ろうと思っていますが
 こちらはあんまり取れませんねえ)

朝のとりなしの祈祷を終えたあと
リラックスするために1時間ほどジョギングし
(筋肉もちょっと硬かったようで
 ジョギング後はちょっと楽になりました)
シャワーをあび
でもやっぱり頭痛がするので鎮痛剤を飲み
さらにちょっと楽になって
今に至っております

若菜さんも
この間本調子ではありませんが
先日孤独死された方のこともあり
だいぶしんどい状態なので

みなさま
ぜひともお祈りしていただきたく
切にお願いする次第なのであります

ほんとに
切に

では今週の週報巻頭言です


*****************************

「今年度もキリストにあって」

2010年度が始まりました。
先週がイースタープログラムでしたので、教会学校は本日がスタートです。

昨年度までは少年少女、青年のみんなが小学生と子どもクラスのリーダーとなり、
その年代のクラスがありませんでしたが、
若者が増え今年度はユースクラスも設置されたことをまず主に感謝します。

さて、まず各クラスのリーダーと在籍者は、
毎週一度はメンバーの顔を想起しとりなしの祈りをしましょう。

これを難しくは「万人祭司」と言い、
バプテストをはじめ、プロテスタント教会が大切にしていることです。

またそのための知恵として書記活動があります。
各クラスで書記を選び、
毎週誰が顔を合わせ、誰が休みだったか、
を、記録し共有できれば幸いです。

次に、キリストにある生活を考えてみましょう。
本日は簡単にみっつに分類します。

それは、
① 礼拝する、②十分の一献金をする、③証をする、
です。

まず「祈ることと聖書を読むことは入らないのか?」という起こるべき問いに応えます。
私はこのふたつは、
「二人または三人が集ま」ってなされるならキリストにある!と思いますが、
個人による場合は、
キリストにある出来事か、自分で自分を報いる行為か、紙一重なので、
あえて今回は含めませんでした。

そして挙げさせていただいたみっつはすべて他者を必要とし、
キリストの体を実感させる出来事です。

だから私たちは、自らがキリストにあるかを確認するとき、
このみっつが整えられているかを吟味すると有益です。

礼拝するとは、
礼拝に参加することと、
無理な場合は連絡し、とりなしを依頼することです。

十一献金とは、
十分の九を神からのギフトとして丁寧に用いることと、
十分の一をキリストの体なる教会の神の国建設にささげることです。

証しするとは、
十字架のキリストに引き受けられた罪の告白と、
しかし罪人である自分が赦され愛と和解に導かれることを他者に表現することであり、
それゆえ自分を通して他者がキリストの体なるにつながること=伝道です。

新年度は、このみっつを丁寧に吟味し、
これらが整うところから、
他の事柄も整うことを味わいます。

新年度もキリストにあって歩みます。

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孤独死

2010年04月07日 | ホームレス支援のこと
キリストが十字架で死に復活することを覚えているときに

仲間が孤独死を迎えた

ホームレス生活状態であった彼は
大きな病気が見つかり
入院を経て
生活保護を受けてアパートで生活をされていた

若菜さんが20日前に繁華街で元気な彼と会った
また仲間たちもちょうどそれくらいまで直接会っていた
その都度彼が元気であるという報告も受け安心していた

みんななんとなく安心していた
年度の変わり目でなんとなく忙しかった

そういう日常的な感覚や生活という
極めてふつうのことが

彼を孤独死へとおいやってしまった


いつもの仲間たちの感覚ならば
そしてそれは実に優れた感覚であるわけだけど
先日月曜日の炊き出しが終わったら
おそらく数人が会いに行っただろう

でも
そういう優れた感覚も

彼が死んで二週間以上経ったことを知ることができなかった


私たちの関係性と活動の限界

というかたちで簡単に終わらせることは出来ない


わたしは
彼の最期を
孤独にしてしまった


悔しさと悲しさを祈りの中で味わい
出口の見えない反省を
しかししていく

キリストだけは彼の最期に伴われたことを信じつつ


復活の主キリストよ

2010年04月05日 | 教会のこと
復活の主キリストよ

あなたは復活して

ぼくらに

何を

見せようとしているのか
聞かせようとしているのか
嗅がせようとしているのか
口ずさませようとしているのか




復活の主キリストよ

あなたは復活して

ぼくらに

どこに

導こうとしているのか
連れ出そうとしているのか
引っ張り込もうとしているのか
引きずり出そうとしているのか




復活の主キリストよ

あなたは復活して

ぼくらに

誰と

目を合わさそうとしているのか
固く手を結ばせようとしているのか
はちきれんばかりの力で抱きしめ合わそうとしているのか
永遠の口付けをさせようとしているのか




復活の主キリストよ

あなたが復活して

ぼくらは

ぎざぎざに削り切られた身体がぎりぎりに落ちないあんばいでくっついている十字架の
超スローに流れ落ちる黒い血がつっかえながら筋となって染めていく十字架の
あなたに
あらゆる時空のあらゆる点で
すべての器官をこじ開けられて

出会うのか

出会いたい

出会え

出会う

出会うしかない

出会うところから

なにもかもはじまる




復活の主キリストよ

今からあなたに会いに行きます




復活の主キリストよ

今からぼくらに会いにきてください




復活・・・死と罪を超える

2010年04月05日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

********************

「復活・・・死と罪を超える」

イースターおめでとうございます。
本日、私たちは主の復活に出会い、
それを身体の真ん中に注いで頂き、
それを味わいます。
まただからこそ同時に、
実に私たちも復活します。

復活とは何か?
それははっきりと現われていなかった存在がはっきりと現われることです。
死を超えて、主が受難の神として啓示されることです。
死に覆い隠されていた私たちが、主の十字架ゆえに、死を包含しはっきりと生かされ現われることです。
罪ゆえにさばかれるべき私たちが、主の十字架にて赦されるゆえに、罪をはっきりと認識し、受容しつつ生かされ現われることです。

私は当教会の歴史資料にのこる言葉から、
当教会においては、死を超えることは丁寧にテーマとなってきているものの、
しかし、罪についてはテーマになりきれていないことを発見しています。

死は個人の問題でも語られます
(キリスト教会は死について本来、他者なる神と人との関係で語りますが、
一般的な死の語りが教会でもなされるケースが多いと思います)。

一方罪は、神と私、あなたと私、あなたたちとわたしたち、という関係性においてのみ語られます。
するとおそらく、
当教会では50年ほどの間に「個人」というテーマが豊かに分かち合われ、
その後の50年のテーマとして、「関係性」が分かち合われ始めているのではないかと考えています。

そこで私は今一度提案したく願います。

私たち教会は、愛、交わり、関係性の只中から、キリスト、信仰、行為、言葉を発見してみませんか。
それはつまり、
他者と向き合うほどに互いに迷惑をかけ、傷つけあうことになること、
およびその根源にある自分の知的、精神的、物質的財産を守るという本性があることを、
互いに丁寧に受けあい、だからこそ互いに罪として告白する出来事が起こされることだと思います。
そしてその告白は同時に復活に与ることになります。
そして愛が起こされます。

さて、しかしなにゆえに罪を告白できるのか、
それは本日の礼拝説教の主題となります。
礼拝にて分かち合えればと願います。

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というわけで、
主題は礼拝にて分かち合いました。

またいつかそのことも書くことが出来ればと思います