きぼう屋

生きているから生きている

福音の在処

2006年07月31日 | 教会のこと
7月30日の礼拝メッセージの要旨です。
聖書箇所は列王記下6:24~7:20
ながいのなんのって・・・日本バプテスト連盟の発行する「聖書教育」誌の選んだ箇所なのです。
実際のメッセージは例話がたくさん盛り込まれていますが、
その例話がよかったりもするのですが
長くなるので最小限の例話で・・・それでも長いですが・・・

1、 聖書箇所の物語の要約

サマリアは大飢饉でした。それに加えてアラムの軍隊がやってきて・・・
サマリアは包囲されました。
サマリアの人々は鳩の糞を食べて生き延びていました。糞の中にはなかなかの塩分があるとのこと。
しかし、それもとっても値が張る代物となっておりました。

そんな中、ひとりの女性がサマリアの王様に嘆きます。
「救ってください」
「どうした?」
「子どもを煮て食べました」
「なに!?」
「家族を養えないから、昨日はわたしの子どもを煮て食べました。そして今日は、この人の子どもを煮て食べる約束をしたけど・・・この人、子どもを隠しました・・・約束破りました・・・」
(なんと生々しいやりとり・・・前日に煮た子どもを見たら・・・そりゃ隠すわな)

「ちきしょう!」
と王様は怒りの極みに達して・・・言いました。
「わが国の愛する仲間がこんなに苦しんでいるのに、神は何しとんのじゃ!神のことを教える預言者エリシャなど死刑じゃ!」
(王様、まずはエリシャに怒りの矛先を向けました。)
それを聞いた王様の使いがエリシャのところにやってきました。そして言います。
「サマリアがこんなんなったのは神のせいだ!もう神など信じない!」
(おっと、ここで王様の本音が出ました。)

飢えて乾いてどうにもならないサマリアの人たち。
そんな状況なのに、預言者エリシャは言いました。
「明日ね、明日になったら、上等な小麦粉、大麦が馬鹿らしいほど安く、そうそう、鳩の糞ひとにぎりを買う値段で、30リットルくらい買えるようになるから・・・」
「おいおい」
もう、エリシャを信用していない王様の側近が、あきれながら言います。
「神が大判振る舞いしたって、そんなことは起こるはずない!現実を見ろ!こんなに何もなくて、みんな飢え乾いているだぞ!」
(そりゃあそうだ!急に「明日になったら・・・」なんていわれても、常識人なら・・・「あいつ気でも狂ったか」くらいにしか思えんよなあ。側近さんはとっても普通なのです。)
そんな側近にエリシャは言いました。
「あんた、小麦粉を見るよ。でもそれを食べることはないよ」。
(なんと意味深な・・・)

さてさて、重い皮膚病を患っている4人の仲間がいました。
彼らはもともとサマリアの中で隔離され、隅っこのほうで集団生活させられ、街に出ることを禁じられている人たちです。
差別され、虐げられていました。
だから、街の人々に食料が行き届かないときは、彼らのところにはなんにも食料なんぞは来ないわけです。
そこで、話し合いました。
「どうせ、サマリアにいても食べ物がずっとなくて死ぬだけだ。だったら、アラム陣営に投降しようよ。殺されるかもしれない。でも、どうせここでも飢え死にするんだから、どっちもどっち。万が一アラムの兵隊さんが親切で、パンでもくれたらラッキー。よし!行こう!」
4人はアラム陣営に行きました。
しかし、行けども行けども誰もいません。
でも、お金や衣類、穀物や野菜などは置きっぱなしです。
「どうなっているのだ!」

どうも、前夜に大きな音がしたのを、アラム軍のみなさんは、サマリアの軍隊が、大国エジプトなんかと協力して、襲ってくると勘違いしたようです。

4人は喜んで、手に入ったものを独り占めして、隠しました。
でもこの4人、なかなかいい関係で、やっぱりここでも話し合いました。
「ちょっと待てよ!これは神様からのありがたい知らせではないか。やっぱりサマリアのみんなで分かち合おう!」
で、サマリアの王様にそのことを話しました。

しかし、まあなかなか王様は、そのことを信用できませんでした。
「そうやってアラム軍は隠れていて、サマリアの人々が小麦なんぞを取りにいったときに、『やー』ってやってきて、みんなを捕まえて奴隷にするのではないのか?」
で、偵察隊を送りました。
でも結果は同じ。やっぱりアラム軍の人たちはいませんでした。

「行くぞー」
サマリアの人々は我先にと、物資、食料を取り合いました。そこでは、エリシャが言ったように、小麦粉がただ同然で売買されました。

で、側近さんですが、その姿をちゃんと見たけど、食べることなく・・・民衆に踏まれて死んでしまいました。これまたエリシャの言ったとおり。
(おっと最後はおどしかいな)


2、 それでも神を信じることができる???

というような物語。
このような歴史の物語として、人々は代々語り継ぎました。それはこの世界で真実に生きるために、語り継いだわけです。
今なら、物語としてでなく、生き方の方法の並んだ道徳集みたいなかたちで代々伝えるかもしれません。
でも、口と耳で伝えるときは、こういう物語が一番なのです。
で、そういう物語は、つまり、世で生きるための普遍的な知恵が盛られているわけです。

さてさて
わたしたち、教会の礼拝に来ているのだから、神を信じている、あるいは信じたい、と思うわけです。
しかし、どうでしょう!想像してみましょう。あんな大飢饉で、しかも周りは戦車が包囲して銃をむけていて、自分の子どもを食べるような状況で、
それでもなお、神を信じますでしょうか。

「信じないといけない」「信じたい」
と思っても、
信じ切れない自分を発見するしかないかも知れません。

つまり王様や、その使い、側近さんのように考えるのではないでしょうか。
「神様どうのこうのよりも、現実的にいかに上手いこと、この困難を乗り切っていくか、その筋道を考えねば!」って。
で、エリシャのように「明日、全部状況が変わって幸せになるよ」って誰かに言われても
「お前はアホか」
とつぶやくのがオチでしょう。

想像しましょう。今も包囲されているところがあります。レバノンは戦車で包囲されています。パレスチナは大きな壁で包囲されています。
外に出られません。食料も医薬品も思うように手に入れることができません。
経済制裁もそうですね。
つまり包囲するというのは、その中の人々のいのちを、外側でコントロールするというものです。
だから包囲されたいのちは、自由がないとかいうレベルではなく、いのちがなくなるのです。
飢餓問題は「包囲」とセットです。いつも。
戦争ももちろん。

そしてそういう場面では、より弱い仲間が一番早く犠牲になります。
子どもが犠牲になります。
食べるかどうかはわからないにしても、(しかし物語としてはこれほど生々しい表現は他にないと思いますが)
日本でも戦中戦後のそういう時期は捨て子が増え、子どものホームレスが増えました。
今でも地球の中で貧しい地域はそうです。

いえいえ、貧しくないわたしたちの社会でも、子どもはまず犠牲になります。
大人に支配され、虐待もされるのです。
虐待する大人たち。
自らのいのちと生活を、社会のシステムや精神、あるいは自身の精神によって包囲され、自由といのちを失いかけ・・・
でも・・・その犠牲となるのが、大人自身でなくて、子どもになる・・・。

そういう「包囲」された困窮には、
不治の病、解明されない病、心身のしょうがい、なども含まれるでしょう。
自分を不自由にし、いのちを脅かすそれらのものを抱え込むとき、

それでもわたしたちは
神を信じますか。

繰り返しますが、王様や側近のように、
人間の知恵、知識、方策、金などを駆使して、上手いことできることを考えるということが、真っ先に来る・・・ということを・・・だれしも経験しているのではないでしょうか・・・。

そして結構明白に、
「神は何をしてんのじゃ!」
と怒りを向けつつ、神を信じきれない自分を発見もし、くるしくなったり、あっけらかんとしていたりするのではないでしょうか・・・。

王様の側近
今で言ったら、知識も経験もあり、市民の信頼も厚い人のことではないでしょうか。

苦しいとき、そういう人の言葉を信じたくなりませんか?
聖書を読み祈るよりも、一般書店で並ぶありがたい本を読んで、すっきりしてはいませんか。

そうなんです。人間ってのはこういうもんです。

だから、わざわざ物語で、そういうところに・・・つまり側近を=社会的に認められている人間を、神以上に、あるいは神と同等に、あるいは、「この人は実は神のことを言っている」なんている理由をつけながら、そういう人間を信じること・・・に、

はまるな!

と、物語をもって代々伝えるわけです。


3、 神からの解放の知らせはどこに???


ではでは、そういう苦しいとき、誰を信じたらよいのでしょう。
「神様」
という答えが出てくるわけですな。正解でしょう。しかし、その神様は、具体的に、どこで、ご自身をあらわしているのでしょうか。

この物語では、かなり明確に、その場所が示されます。
それは、4人の重い皮膚病の仲間たちです。
つまり、社会で最も虐げられ、差別され、いのちを脅かされ続けている人たちです。
彼らを通して、主は、「良い知らせ」を人々に語るわけです。

つまり福音は、そこにあるわけです。

これが真実。
代々伝えるべき真実。
神を信じる者は、まずもって、社会で最も小さくされている人々と連帯するとき、そこに福音を発見するのです。

もし神が世で力を持っている人に福音をあずけたら
力ある人はそれを自分の手柄にし、自分を神のように見せるというのは、今の世界からも想像できませんか。
でも、子どもを殺されたイラクの母親に福音があずけられたら、その母親は分かち合うでしょう!
簡単に考えると、こんなコトになるかもしれませんね・・・。

なにしろ
悲しみ苦しみの中にキリストの十字架があるのですよ。
それが福音なのですよ。
そこから解放されるのですよ。

自分の内部のことだけでもそうでしょう。
成功し、気分もいい!っていう中に、福音を発見するのでしょうか。
そこでは、自分の技量や知識、体力などは発見できても、福音は・・・ないでしょう!

じゃあ、福音はどこに?
自分の心の隅っこに隠している汚いもの、苦しいこと、悲しいこと、
それを、主イエス・キリストが
「よしよし」
ってなでなでしてくれている・・・
主イエスが泣きながら・・・
十字架上で・・・

ここに福音があるのですよ・・・。


この物語

苦しいとき、

強くてえらい人間や、その技量、知識を信じ、彼らが上手いことしてくれることを信じるか。
それとも
いのち脅かされている隣人たちを覚え、そこにキリストが共にいることを発見するか。

自分の中のかっこいい部分で生きるか。
それとも
醜い、汚い、罪人として生きるか。

この選択を、最後におどしを入れてまで、
「間違えるなよ」
と言うわけです。

さて、わたしたちは、どこに福音を発見しましょうか。







伝承

2006年07月30日 | 平和のこと
教会のはなしだけど、カテゴリーは「平和のこと」にする。
京都教会の礼拝の中には子ども向けのメッセージがある。
教会のおじいさん、おばあさん、おじさん、おばさん、おにいさん、おねえさんが、小学生以下の仲間にメッセージを贈る。

メッセージが代々伝えられる場がある・・・ということが、そもそも平和だ。
子どもたちに単に道徳的な原理なり何なりを教えるのではなく、命がけでメッセージを贈る場は失いたくない。


本日の礼拝では、フジタのおばあさんがメッセージをくれた。
自らが12歳のときの物語だった。
それは戦時中の話だった。

それは決して苦しい体験談ではなかった。
でも、伝えられねばならないものだった。
教会のフジタのおばあさんが12歳のときのことを、今の小学生が知る。
それは「歴史を学ぶ」なんていう事柄でおさまらない「歴史そのもの」「人格そのもの」「意味そのもの」を受ける奇跡の出来事。

これをキリスト教会では「証」と言うだろう。
また一般では「証言」と言うだろう。

メッセージは証なのだ。


フジタのおばあさんは戦争中に食料に苦労しなかったことを告白しつつ
しかし不可思議なことがあったことを語られた。
自分の家の畑でスイカやまっかうり(まくわうり)がなり、それがどんどんおいしそうになる。
だから
「食べよう!」
って当時12歳のフジタのおばあさんが言うと
お父さんは言ったそうだ。
「このスイカのヘタがもう少し黒くなったら食べごろになる。まっかうりのヘタの周りがもう少し茶色い輪になると食べごろになる。もう少し待とう」。
そしてもう少し待ってみる。
でも、いつもその待っている間に、スイカやまっかうりは誰かに持っていかれてしまうというのだ。


フジタのおばあさんがお父さんの行為の意味に気づいたのは・・・それからだいぶ経って大人になったとき、とのこと。
自分の家族は食料に困らなかったが、困っている人がいることを知っているお父さんは、あえて誰でも持っていけるようにしていたようなのだ。
戦時中
あからさまに差し上げるのもひとつの混乱になろうし、独り占めするのは良心がゆるさない・・・
ひとつの知恵だったのか・・・。


子どもたちは、こういう生々しい物語は見事に聞く。

私も父親からしてもらった話で覚えているのは、彼が幼い頃の戦後直後の大変だったときの話。


証、証言と呼ばれる物語を聞く耳を
人間は特別に持っている。
人間特有の優れた能力として。
特有の隠れた能力として。
人間が真の意味で連帯し生きる中心の能力として。
そして奇跡の能力として。

これが共感共苦か。


戦争時代を生きたおじいさん、おばあさんは
次世代、次々世代に
語ってはみないだろうか。
その時の物語をできるだけ残さず
語ってはみないだろうか。

語るのが苦しいところで・・・そこでこそ・・・キリストが働く。
キリストの癒しとあがないを受けて・・・
語ることができる・・・
語るしかない・・・

「キリストに救われて・・・」という決まり文句は
語らなくてもいい・・・
自分の生きてきた物語が語りきれないところで働くキリストを
その物語が真剣であるほどに
聞く次世代、次々世代の者が
発見
するのだ。

自らの物語を証言しきる・・・しきるチャレンジが
人生の先輩としてのチャレンジとならないだろうか。

包み隠さない人生の物語が
信仰そのもの。
平和そのもの。

よいトコ取りの物語は
信仰では・・・ない
平和では・・・ない


こういう時代だから
本気で
おじいさん、おばあさんに
期待する・・・
祈りつつ・・・



宝物

2006年07月29日 | 「生きる」こと
ガチャン

「あ!」

シャワーから出てバスタオルを肩からかけて居間にきて
そのタオルで頭を拭いたら
そのタオルがあたって

ガチャン

憐くんの生まれたての写真をおさめた写真たてが
落下して
割れた・・・

ショック・・・

この写真たてはKさんから頂いたガラスのもので、青と緑のキレイなもの


我が家に飾られているものはそういうものばかり

我が家のネコのチャトラくんが死んでしまったときの話をしたら、それを聞いたHさんがくれた茶色いトラネコのジグソーパズル
結婚祝いにTさんがつくってくれた刺繍のかざりもの
亡くなられた教会のIさんが大切にしていたお人形
亡くなられた教会のMさんがつくってくれた鞠
息子たちがそれぞれ生まれた時に頂いた手作りカードや寄せ書き
Yさんからの挿絵入りの誕生日カード
教会学校のMちゃんが書いてくれた妻の似顔絵
教会学校のSちゃん、Hちゃん、Sちゃん、Sくんなどの書いてくれた絵やつくってくれた折り紙
息子たちが教会や小学校や保育園で描いたり作ったりした作品
息子たちが毎年くれる妻や僕への誕生日の手紙のぜんぶ
息子の友達が保育園で作った作品を「あげる」ってくれたものもある



どれも、それを見るだけで、それを作ったりくれたりした仲間の顔と、その時間の感触を思い起こすことができる

我が家の歴史がつまっているのだ

逆に
客観的に誰からも評価されるようなものは置かれていない

見る人によってはガラクタが飾られている変な家だ

しかし、どれも宝物なのだ
我が家では超一級品なのだ
いくら金を積まれても渡せない代物なのだ
すでに歴史のいのちなのだ

割れた写真たて

しかし

「なおる!」

と妻が言った

破片を見事に並べきった・・・

ジワー

と、胸の中に回復してくるものを受ける

よかった!



息子たちが今晩なぜか

妻と僕に絵を書いてプレゼントしてくれた。

妻と僕がシーソーをして、滑り台をすべって、もぐらたたきをしている絵だ

とりわけ
もぐらたたきの意味は不明だが

しあわせだ。

宝物が増えた。

その絵に日付を入れた。






愛情

2006年07月29日 | 平和のこと
堤未果さんからメールが届いた。
彼女の著作「報道が教えてくれないアメリカ弱者革命ーなぜあの国にまだ希望があるのかー」が本年度日本ジャーナリスト大賞新人賞を受賞したとのこと。

嬉しいじゃあないですか。
でも私はそもそも「大賞ではないの?」とも思っている。

読まねばならない本だ。
アメリカの現状、そこから見える世界の現状がよくわかる本なのだ。

堤さんには5.3憲法集会in京都の講師として来ていただきお世話になった。
その関係で、その時とその前後のやりとりだけをしたという、知り合いとはいえない知り合いだ。

でもその中で彼女の人柄を垣間見ることができたことは嬉しい。
彼女が垣間見させてくれたというのが正しいか。

飛び込んでくるのだ。
初めてメールで知ることになったわたしにまで・・・全身全霊で・・・

それは自己アピールなどのための一方的な熱さではない・・・
こちらを信頼し、飛び込んで愛情を注ぎ込むという仕方なのだ・・・。

知り合いとはいえない知り合いのわたしにまでそうなのだから・・・
「アメリカ弱者革命」で紹介されている人たちとの出会いはいかほどなのか・・・

その人たちのいのちと生活に密着し、そこに愛情を注ぎ、自らがその人たちそのものとなるくらいの深い追体験を通して書かれているいることは間違いない・・・

もちろん、他者の体験がそのまま100%自分の体験になることは不可能だろう・・・
でも、愛情を注ぎ込むほどに極めて近似値的に近い体験を獲得することはできるに違いない・・・
彼女の著作を読むなら、それができることを知る・・・

他者を信頼し愛情もってかかわる・・・
これ!平和の第一歩!

どんなに優れた本でも、この第一歩がないと、実は「平和」からずれていく・・・。

彼女の著作は・・・ずれない!
「平和」を描いている!
だから「希望」が見える!「希望」を獲得し、「希望」を生きる!
これはどれも彼女の人柄・・・
他者を信頼し愛情もって飛び込む!ことそのものであり、そこから産み落とされるものだ・・・

ここまでほめてしまいましたが
これは「ほめ殺し」ではありません・・・

今後の彼女の活動に期待!

こちらもぜひどうぞ!



本性

2006年07月28日 | 平和のこと
わたしはアンチ巨人です。
そんなわたしに第一子の空君(小2)がふと言いました。

「巨人は一回でも勝ったらあかんの?」

即答しましたよ。

「そうや、一回でもあかん!」

そんなわたしに第二子の共君(年長)が即座に言いました。

「一回くらい勝ってもええやんか!」

さらに空君が続けて

「パパ!いじわるはあかんで!」

・ ・・・・・・

(この二人の息が合うのは知ってるが・・・これはなんなのだ!)

ガーン!

頭に響くものをひさびさに感じましたよ。


プロ野球ファンなら誰もが知る熱狂的世界
そこではファンの感情が入り乱れる。
そこでは余計な恍惚と落胆、さらには暴力もあるような・・・

でもこれは決して異常な姿ではなく・・・むしろ人間の自然な姿・・・本性が自由に豊かに表れるような姿・・・が交錯する世界が繰り広げられる・・・。


昨日の守ろう憲法と平和きょうとネットの例会でヤスクニ神社問題を分かち合いました。
そこでの議論の中心点であり、しかし限界点として現れたのが
民衆の本性とヤスクニの精神の一致をどうみるかということ・・・

つまり・・・
プロ野球やワールドカップサッカーに熱狂する人々の本性と、暴力、さらに戦争の精神の一致をどう見るのか・・・という問いともなってくるようなもの・・・

このあたり・・・
息子たちはわかっていたのか・・・
「いじわるはあかんで・・・」
と、わたしを愛を込めて批判してくれたわけで・・・

あらためて思いました・・・
人間の本性を警戒し、批判し、その暴走を食い止めるための防波堤が必要だ・・・と。

憲法ってそういうものなのかなあ。

宗教ってそういうものなのかなあ。


となると・・・
ヤスクニは人間の本性に対峙しないで、人間の伝統、文化、習慣という言い方で、実は人間の本性を気持ちがいいほどに肯定している訳だから・・・

これは・・・宗教・・・ちゃうわなあ。


この息子たち
野球大好きです。
外でも家でも野球しています。
客観的に見て上手いです。
毎日テレビで野球を見ています。
テレビでないときはインターネットでメジャーリーグの動画を見ています。

阪神の大ファンです。

でもこんなことも言ってます。
「日本シリーズは中日と西武を見てみたいなあ。」

「え!阪神でなくていいの?」
「うん」

なかなか冷静です。

うーん
学ばねば・・・


その空君
ただいま起床。
テレビのスイッチをつけ・・・
「おは朝」のスポーツを見ています・・・。
いやはや・・・

対話

2006年07月27日 | 平和のこと
モノローグではなく・・・ダイアローグを・・・

先日の憲法集会に関する相談会で議論されたテーマは、今考えると、これだったのかなあ?と思っておりまして・・・

いやいや、この間の
憲法署名実行委員会
5.3憲法集会実行委員会
守ろう憲法と平和きょうとネット
などなど
京都全体で平和をつくる運動を目指す場所で熱く語り合われたテーマは・・・

モノローグでなく・・・ダイアローグを・・・

だったのだと思うのです。

なんとか一緒に大きなうねりをつくりたいと、いろいろと企画し発信するものの
どうも一方通行で終わっていたかも・・・という多くの仲間の問い

もちろんどの会も、会の組織のかたちからして、みんなで寄ってたかって「いっせーのせ!」ではじめるというものだけれども
つまり、みんなでわいわい対話しながらやろうという組織のかたちをもってはじまっているけれども

どうも実際はなぜかモノローグ・・・一方通行になってしまっている・・・

それを今一度ダイアローグ・・・対話に持っていきたい・・・

それを、共に汗をかいてきた仲間たちは、それぞれの言葉で表現し、それぞれの経験からその方法を見つけ出そうとしているのかもしれない・・・と、ふと思いつつ・・・しかし相当正しいとも思っているのわけなのです。

「平和」は「対話的世界」「対話的人間」のこと以外のことではない・・・
「平和」は「一方通行」から人々を解放し、豊かな行き来をできるようにすること以外ではない・・・

強い者から弱い者への一方通行
権力から市民への一方通行
経営者から労働者への一方通行

からの解放

親から子どもへの一方通行
子どもから親への一方通行
夫から妻、妻から夫への一方通行
男から女 女から男への一方通行

からの解放

人間から大地への一方通行
人間から動物への一方通行

からの解放

教師から生徒への一方通行
牧師から信徒への一方通行

からの解放


仕事中に息子たちが押し寄せてくる・・・
「あそぼー」「きょうこんなんあってん」・・・
「あ、そう・・・仕事中やし・・・あっちいって・・・あとでな」・・・

気のない返事をするわたし
子どもを一方通行に閉じ込めるわたし


教会では、礼拝説教でわたしがメッセージをし、教会学校で分かち合われ、3日後の祈祷会でさらに応答するというかたちを設けてはいるが・・・

平和をつくろうとする市民のさまざまな会と同じで・・・

モノローグでおわることが多いのは罪深き現実・・・

テーマはここでも・・・モノローグではなく・・・ダイアローグを・・・
となろうか・・・


永遠のテーマですなあ。
うーん。


小さな声を大きくすれば「対話」化できるのか・・・
つまり大きな企画をたくさん宣伝できたら・・・社会がかわるのか・・・
うーん。

「対話」できないぼくたち、わたしたち・・・

というテーマが、根底にへばりついているよなあ。

このあたりを見ていくと・・・
深すぎて深すぎて・・・
ありとあらゆる事柄がぐちゃぐちゃに絡んでいて・・・

しかし
平和はそこから・・・
教会も・・・信仰も・・・

受容

2006年07月26日 | 教会のこと
鴨川河原を自転車で走った。
ない・・・
ヨモギが・・・
おじさんたちがみんなでかわらの雑草をブイーンと刈っている・・・

夏の小学生キャンプ。最初にみんなで鴨川にヨモギを取りに行くところからはじまったわけで・・・

あぶない、あぶない
刈られる寸前・・・だった。
きっと雨で刈られるのが延期されていたのだろう・・・

よかった・・・


キャンプの忘れ物がいっぱい。
17人しかいないのにこんなにたくさん!

いいねえ。

忘れ物するのはだらしない??

いえいえ!
持ち物忘れるのは何でもないこと!
自分の持ち物なんて二の次三の次
覚えるべきことはまったく違うのだ!
覚えるべきは共に生きる隣人なのだ!
荷物を丁寧にまとめる時間があったら、みんなと遊びたいのだ!
そんな時間があったら、寝ていたいのだ!

モノなんて・・・
忘れようとなくなろうともともとなかろうと、どうにでもなる・・・

仲間たちとの「いま・ここ」の出会いは、
あとからはどうにもならない・・・
「いま・ここ」での休息も欠かせない・・・

「うまいこと」生きる人間には興味ない・・・
「ある!がまま」生きる人間として育まれたい・・・



連続する「いま・ここ」の「ある」を受けているのが人間

「あってあるもの(神)」を受けるのが人間

人間は自分で「なる」のではないのだ!

 







執成

2006年07月26日 | 教会のこと
執り成しの祈り(他者のための祈り)は、人間が意識をもって行う最初の行為であり、最深の行為である。
執り成しの祈りよりも先に行われる行為はあり得ない。

人が自分を知りたければ、それは他者の中に見ることを知らねばならない。
人が「人間」「いのち」を知りたければ、それは神の中に見ることを知らねばならない。
真理は内側にはない。外側にある。
この前提が、感覚化されない現代人間社会は、恐ろしい方向に進み続けているということだろう。
内側を眺め、内側に束縛された個々人。
自由を求めつつ不自由を獲得することに躍起になる個々人。

さてさて
以上書き連ねましたのは、
夏の小学生キャンプの寝る前のプログラム、「お祈りの時間」の報告をしたいがためでありまして・・・
また、他の報告もさせていただいて、キャンプいろいろは終わりといたしましょうか。

大人も子どもも、キャンプ参加者は机を囲んで大きな円となりました。
そこで、年中さんもおばあちゃんも、みんな一言づつ、その日の喜びや悲しみ、明日の希望などを語るのであります。
「きれいに染められてよかった(草木染をしました)」。
「流しソーメンがうまかった」。
「温泉が楽しかった(銭湯のことを言っているのだ)」。
「寝る前のおしゃべりがたのしかった」。
「明日のかき氷が楽しみ」。
「トモ君が元気になってよかった」。
「ミナコ先生が風邪でこれなくて残念」。
「けんかしてつまらなかった」。
「ぜんぜんおもしろくなかった(子ども特有のぶつかりかたですな)」。
「かばんとかくつを隠されて悲しかった・・・(高校生のタクミ先生の一言。タクミ先生を、子どもたちはからかうのでした・・・もちろん大好きだからです。)」
などなど・・・
自分のこと、他者のこと、いろいろと出てきます。

そして
「じゃあ、お祈りします」と、
タテオ先生がまとめてお祈り。

「神さま、きれいに染められてありがとう!流しソーメンおいしくてありがとう!温泉楽しくてありがとう!寝る前ふざけてありがとう!トモ君元気になってありがとう!明日のかき氷が楽しみでありがとう!ミナコ先生と一緒にいて下さい!けんかしてごめんなさい!けんかしたけど仲直りできてありがとう!ぜんぜん面白くなかったけど一緒にいてくれてありがとう!タクミ先生をからかってごめんなさい!からかわれたタクミ先生と一緒にいて下さい・・・・・・・・・」

そうなんです。みんなのことがぜんぶ自分のことになって、自分のことはぜんぶみんなのことになって、一緒にお祈りしたのでした。

みんながみんなのために祈り生きる
みんなに自分を語り、みんなを聞く

わたし、おっちゃん牧師はいっぱい祈ってます。
「イエスさま、最終日に疲れて気分が悪くなってしまった大きいソウ君と、ショウ君と、アキちゃんと、一緒にいて、なぐさめてください。アーメン」
もちろん、他のみんなのこともたくさん祈ってますよ。


今回のキャンプのテーマは「平和」
「平和」は「神の家族」でキリストでつながっている。(エフェソ書)
そして、平和をつくる最初の行為は
執り成しの祈り

みんなが染めたハンカチがつながって大きなタペストリーになりました。
真ん中にハート。
その中に「平和」の文字。
すごく美しい。ホッとする色と模様。
それぞれのハンカチは「ひとつのからだ」の部位として、個性をかもし出すからこその「ひとつ」となる。
それぞれにしっかり「名前」が書かれた。
感動!

教会で生きる大先輩のおばあちゃんたちの経験は、こういう作品のアイデアを一瞬にして出して、しかもそれに意味があり、はまるからすごい!

そうそう!教会のおばさんとおばあちゃん、教会のメンバーでないけど、参加した子どものお父さんやお母さんも、子どもたちのため、つまり他者のために、たくさん汗を流しました。

この姿って「平和」として子に伝わること間違いなし。

ホントにホントに感謝感謝のキャンプでした。

イエスさま、みなさま、ありがとう!

驚愕

2006年07月25日 | 教会のこと
教会の夏の小学生キャンプが終わりました。
「小学生」キャンプと言っても年中から中1までの17人のキャンプ。
掃除と片付けを終えて、今5時半。
7時からは会議。急いでレジュメを書かねば・・・。
でもその前に.キャンプいろいろの続きをココに書きたいのでありました。


初めてのおつかいならぬ、初めてのおとまりがありました。
年中のハナちゃん。
「家でもお母さんがいないとダメなんです」
なんてなんのその。
お兄さんやお姉さんたちと対等におしゃべりして、食べて、銭湯行って、祈って、一緒に寝て、朝は元気よく起きて
「ラジオ体操いこ!」
ってみんなに声をかけて、ラジオ体操会場のお寺さんに行きました。
実はそのお寺さんでお父さんと待ち合わせをして、そこでバイバイ!という約束。
お父さんがニコニコでハナちゃんを抱っこ。
ところが・・・
ハナちゃんは、さえなくて・・・。
だんだん雲行きあやしく・・・なって
あらら・・・。
「教会行くー」
と泣き出しました。

お父さんびっくり。
「こんなハナは見たことない!」「どうなってるの?」

結局、ハナちゃんは教会に帰って、一緒に朝ごはん食べて、教会の赤ちゃんの面倒をみて、お母さんのお迎えを待ったのでした。

そうなんですよ。
さみしくないんですよ。
17人みんながホントに「きょうだい」になるんですよ。
それが目的のキャンプでして・・・。

いつもとちがう
わが子の姿に

親は
びっくり

イエスさまは
ムフフ

感謝。感謝。

姉御

2006年07月25日 | 教会のこと
教会夏の小学生キャンプ
まだまだいろいろと。

お風呂は銭湯に行きました。
一日目はやさしい番頭さんの銭湯だけど、二日目はそこがお休みのため、ちょっとこわい番頭さんの銭湯へ。
やっぱり最後にわたしは怒られたのでした・・・。
ヘコヘコ・・・

で、これまた年中さんもいるわけですが、女の子チーム、小4のハルちゃんとアキちゃんが、年中のライラちゃんとハナちゃんに、ずっと寄り添ってくれました。
銭湯の行き帰りはずっと手をつないでいました。
お風呂の中でも一緒だったそうです。
あたまやからだを洗うのも一緒だったそうです。
これ
ハルちゃんとアキちゃんが、誰に言われるでもなく、自分たちで相談して、寄り添ってくれました。感謝感謝。
胸がフルフル。
ちょっとばかし目がウルウル。

寝る前も、絵本を読んでくれたりして・・・

お姉ちゃん!
ありがと。

神さま
きょうだいにしてくれて
ありがと。

光景

2006年07月24日 | 教会のこと
小学生キャンプ2日目
「小学生キャンプ」と言っても、きょうだい参加などもあるので、年中から中1までの17名
いろいろとあってとってもいいのです。
「ある」ということの連続がぼくらの魂を揺さぶり続け
感動となり続けている・・・
そんなキャンプの一部を。

トモくんが大変なことになりました。
楽しかった流しソーメン。そこには錦糸玉子も用意されておりました。
もちろん、玉子がダメな人はそれを取りません。
しかし
流れてくるんです。
だれかの箸についていた玉子が、ソーメンと一緒に。
トモ君。気づかず玉子も取って食べました。
トモ君は玉子アレルギー。「痛い!痛い!」。1時間くらいあとから彼はとても大きな苦しみを背負いました。
「大丈夫?」。あとからあとからみんながトモ君に声をかける・・・
そしてトモ君。熱く腫れてほてった身体を休めるべく、タイル張りの廊下が一番気持ちがいいと、そこで熟睡しました。
みんなが通る廊下のど真ん中で苦しむ仲間が寝ている。
そんな中で、その光景をがんがん目に焼き付けながら、みんなが教会を行き来する。
邪魔だなんていう人はいないし、勝手にトモ君の気持ちを推測して、「布団がいいだろう」と運ぶ人もいない。
トモ君を受け入れた日常ではありえない光景
これはとても美しいのでした。

夕食のバーベキュー
年中さんのジュンジュンが食べません。
「どうしたの?」「ヒコちゃんを待ってる」。
小3のヒコちゃんは、ピアノのレッスンのため一時キャンプを抜けて、あと20分くらいで戻るという時なのでした。
「わかった」と仲間たちと大人たち。
でも予定があるから、みんなは先に食べ始めます。でもジュンジュンはけなげに待っています。
やっとヒコちゃん登場。「お帰りぃ」。
二人は並んで食べるのでした。
この光景。美しいでしょう。

他にも美しい光景がたくさん。

もちろん、けんかもたくさん。

でもいいよ。ホントにいい。

こういう仲間たちと光景に出会うことができて
神様ありがと。

奇跡?

2006年07月24日 | 教会のこと
教会の夏期子どもキャンプ
みんなが楽しみにしている流しソーメン
しかしずっと雨
「だめか・・・」
と思っていたけど
予定の30分前になんとなく雨がやみ
蝉がなき始め

あれれれ

晴れた!

できた!

流しソーメンの1時間だけ
教会上空は晴れました。

なってこった。

奇跡?

京都の憲法集会に関する相談会

2006年07月24日 | 守ろう憲法と平和きょうとネットのお知らせ
明日7月25日夜7時より
日本バプテスト京都教会にて
第2回京都の憲法集会に関する相談会を開催します。

第1回は多数参加いただき感謝に耐えません。さらに引き続き、闊達かつ繊細(矛盾していそうでしていない)な議論を、より具体化させつつ行いたいと思います。ぜひご予定ください。

この相談会の呼びかけ文をもう一度貼り付けます。

*****************************

京都の憲法集会についての相談会開催を開催します。

 皆々様の日々のご活躍を伺い、勇気を頂戴しております。
 ご存知のとおり、京都におきましては、毎年5月3日および11月3日などに、現平和憲法を守り、広げ、生かすための集会を、多くの個人、団体の連帯・協力により開催する実績が積み重ねられてまいりました。そして、国民投票法案の国会上程など改憲状況が緊迫する今、さらに力強く、内容豊かな憲法集会をつくり、改憲状況に立ち向かう運動を大きくしたいと願い、またそれが不可欠であろうと思っています。そのためには、これまで連帯できた個人、団体をさらに大きくひろげ、京都全体の人々と共に運動できる知恵を、みんなで出し合うことが必要ではないかと思っております。また集会の企画に関しては、スタートを早くする必要もありましょう。
そこで、下記のように7月4日に相談会を開催したく願い、ぜひともみなさまに御参加いただきたく呼びかけさせていただく次第です。
 まことに勝手なお願いではありますが、ぜひともよろしくお願い申し上げます。心よりお待ちしております。
2006年6月7日

<京都の憲法集会についての相談会呼びかけ人>
5.3憲法集会in京都実行委員会(2006)代表
大谷心基

話題

2006年07月23日 | 教会のこと
只今、夏の小学生キャンプ中
小学生キャンプといっても、その兄弟や卒業生も一緒なので
年中から中1までが一緒に楽しくやっている

あまりに楽しくやっている

ぼくも楽しい

草木染をした。
鴨川によもぎを摘みにいき、それで木綿をそめた。
木綿は大豆などの豆やフィルムケース、割り箸、そして輪ゴムを使ってぐちゃぐちゃにしばり、
それが模様となる。
いい作品になった!

夕食のカレーはウチの教会の自慢!
ホームレス支援炊き出しで鍛え抜かれている!
旨い!
ちょっとやそっとの食堂には負けません!
4件となりのカレー専門店よりも・・・

がやがやと銭湯を楽しんだ!
「来たね!」と番頭さん!
これがまたいい!
銭湯にいく途中で参加している子どもの家の前をいくつか通る。
すると家族がそこでエールを送ってくれる。
「いってらっしゃーい」
この「つながり」が楽しい!

いろいろあったが、「コレ!」ということがあったから今日はキャンプのことを書いた。

それは夕食。
みんなでテーブルを囲み、みんなの顔が見えた。
年中から中1と年齢層は広いが
しかし
みんなでおしゃべりしながら食べたのだ。
あっちやこっちでいくつものおしゃべりがあったのではなくて、
ひとつのおしゃべりがずっと続くかたちで夕食の時を過ごしたのだ。
繰り返すが、年中から中1が、だ。

もちろんみんなニコニコ
もちろんみんな話題に入ることができる

すごいコトが起きている!と思った。



その

おしゃべりの

話題

ですが

それは

実は

下ネタ!でしたー!


いいじゃあないの!みんなでひとつのおしゃべりをした事実が宝なのです!

明日はタマネギの皮で染めます。
これまた楽しみ!

そして
みんなの一番の楽しみは

流しそーめん!かも。

晴れるといいなあ。

で、まだ当分寝ない愛する若すぎる仲間たちと、
「寝ろ!」と言いながら
いま一度戯れてきます。

ではでは。

そうそう!
ちゃんとお祈りもしましたよ。
みんなが一言ずつ祈りたいことを発表して。
これまたいい時間だった・・・

安堵

2006年07月23日 | 教会のこと
日曜日の朝

ぼくにとっては主の日の朝

実はようやく礼拝メッセージが整ったところ

安堵


でも朝からここに書きたくなったのは、もっと大きな安堵を得たから

鴨川の水が減ってきた
これで河原で生活する仲間も少しは

安堵
できるか

ぼくも

安堵
できるか

昨晩
思いもかけず
いとこの「みっこ」が尋ねてくれた
お連れ合いと一緒に
忙しくて結婚式にも行けなくて
心にとてもひっかかっていたけど
幸せそうで

安堵

「みっこ」のお母さんや兄さんも元気とのこと

安堵


今日は礼拝

さらにさらに

今日から3日間は夏の小学生キャンプ
こちらは

安堵
とはいかず
ドキドキ
だが

とてもいいドキドキ

街の子どもたちと
全身全霊で
分かち合いたい

愛、希望、平和

キリスト

みんな
産まれて生きて出会ってくれて
ありがとう

おっちゃん
みんなのためなら

かける

おっと
その前に
キリストが

かけてる



キリストは
ぼくらの
安堵


降り続く雨の中
降り続くミサイルの中

安堵
できっこない
人たち
のために
祈る

キリストが
傍らにいる
ことを
覚えて