7月30日の礼拝メッセージの要旨です。
聖書箇所は列王記下6:24~7:20
ながいのなんのって・・・日本バプテスト連盟の発行する「聖書教育」誌の選んだ箇所なのです。
実際のメッセージは例話がたくさん盛り込まれていますが、
その例話がよかったりもするのですが
長くなるので最小限の例話で・・・それでも長いですが・・・
1、 聖書箇所の物語の要約
サマリアは大飢饉でした。それに加えてアラムの軍隊がやってきて・・・
サマリアは包囲されました。
サマリアの人々は鳩の糞を食べて生き延びていました。糞の中にはなかなかの塩分があるとのこと。
しかし、それもとっても値が張る代物となっておりました。
そんな中、ひとりの女性がサマリアの王様に嘆きます。
「救ってください」
「どうした?」
「子どもを煮て食べました」
「なに!?」
「家族を養えないから、昨日はわたしの子どもを煮て食べました。そして今日は、この人の子どもを煮て食べる約束をしたけど・・・この人、子どもを隠しました・・・約束破りました・・・」
(なんと生々しいやりとり・・・前日に煮た子どもを見たら・・・そりゃ隠すわな)
「ちきしょう!」
と王様は怒りの極みに達して・・・言いました。
「わが国の愛する仲間がこんなに苦しんでいるのに、神は何しとんのじゃ!神のことを教える預言者エリシャなど死刑じゃ!」
(王様、まずはエリシャに怒りの矛先を向けました。)
それを聞いた王様の使いがエリシャのところにやってきました。そして言います。
「サマリアがこんなんなったのは神のせいだ!もう神など信じない!」
(おっと、ここで王様の本音が出ました。)
飢えて乾いてどうにもならないサマリアの人たち。
そんな状況なのに、預言者エリシャは言いました。
「明日ね、明日になったら、上等な小麦粉、大麦が馬鹿らしいほど安く、そうそう、鳩の糞ひとにぎりを買う値段で、30リットルくらい買えるようになるから・・・」
「おいおい」
もう、エリシャを信用していない王様の側近が、あきれながら言います。
「神が大判振る舞いしたって、そんなことは起こるはずない!現実を見ろ!こんなに何もなくて、みんな飢え乾いているだぞ!」
(そりゃあそうだ!急に「明日になったら・・・」なんていわれても、常識人なら・・・「あいつ気でも狂ったか」くらいにしか思えんよなあ。側近さんはとっても普通なのです。)
そんな側近にエリシャは言いました。
「あんた、小麦粉を見るよ。でもそれを食べることはないよ」。
(なんと意味深な・・・)
さてさて、重い皮膚病を患っている4人の仲間がいました。
彼らはもともとサマリアの中で隔離され、隅っこのほうで集団生活させられ、街に出ることを禁じられている人たちです。
差別され、虐げられていました。
だから、街の人々に食料が行き届かないときは、彼らのところにはなんにも食料なんぞは来ないわけです。
そこで、話し合いました。
「どうせ、サマリアにいても食べ物がずっとなくて死ぬだけだ。だったら、アラム陣営に投降しようよ。殺されるかもしれない。でも、どうせここでも飢え死にするんだから、どっちもどっち。万が一アラムの兵隊さんが親切で、パンでもくれたらラッキー。よし!行こう!」
4人はアラム陣営に行きました。
しかし、行けども行けども誰もいません。
でも、お金や衣類、穀物や野菜などは置きっぱなしです。
「どうなっているのだ!」
どうも、前夜に大きな音がしたのを、アラム軍のみなさんは、サマリアの軍隊が、大国エジプトなんかと協力して、襲ってくると勘違いしたようです。
4人は喜んで、手に入ったものを独り占めして、隠しました。
でもこの4人、なかなかいい関係で、やっぱりここでも話し合いました。
「ちょっと待てよ!これは神様からのありがたい知らせではないか。やっぱりサマリアのみんなで分かち合おう!」
で、サマリアの王様にそのことを話しました。
しかし、まあなかなか王様は、そのことを信用できませんでした。
「そうやってアラム軍は隠れていて、サマリアの人々が小麦なんぞを取りにいったときに、『やー』ってやってきて、みんなを捕まえて奴隷にするのではないのか?」
で、偵察隊を送りました。
でも結果は同じ。やっぱりアラム軍の人たちはいませんでした。
「行くぞー」
サマリアの人々は我先にと、物資、食料を取り合いました。そこでは、エリシャが言ったように、小麦粉がただ同然で売買されました。
で、側近さんですが、その姿をちゃんと見たけど、食べることなく・・・民衆に踏まれて死んでしまいました。これまたエリシャの言ったとおり。
(おっと最後はおどしかいな)
2、 それでも神を信じることができる???
というような物語。
このような歴史の物語として、人々は代々語り継ぎました。それはこの世界で真実に生きるために、語り継いだわけです。
今なら、物語としてでなく、生き方の方法の並んだ道徳集みたいなかたちで代々伝えるかもしれません。
でも、口と耳で伝えるときは、こういう物語が一番なのです。
で、そういう物語は、つまり、世で生きるための普遍的な知恵が盛られているわけです。
さてさて
わたしたち、教会の礼拝に来ているのだから、神を信じている、あるいは信じたい、と思うわけです。
しかし、どうでしょう!想像してみましょう。あんな大飢饉で、しかも周りは戦車が包囲して銃をむけていて、自分の子どもを食べるような状況で、
それでもなお、神を信じますでしょうか。
「信じないといけない」「信じたい」
と思っても、
信じ切れない自分を発見するしかないかも知れません。
つまり王様や、その使い、側近さんのように考えるのではないでしょうか。
「神様どうのこうのよりも、現実的にいかに上手いこと、この困難を乗り切っていくか、その筋道を考えねば!」って。
で、エリシャのように「明日、全部状況が変わって幸せになるよ」って誰かに言われても
「お前はアホか」
とつぶやくのがオチでしょう。
想像しましょう。今も包囲されているところがあります。レバノンは戦車で包囲されています。パレスチナは大きな壁で包囲されています。
外に出られません。食料も医薬品も思うように手に入れることができません。
経済制裁もそうですね。
つまり包囲するというのは、その中の人々のいのちを、外側でコントロールするというものです。
だから包囲されたいのちは、自由がないとかいうレベルではなく、いのちがなくなるのです。
飢餓問題は「包囲」とセットです。いつも。
戦争ももちろん。
そしてそういう場面では、より弱い仲間が一番早く犠牲になります。
子どもが犠牲になります。
食べるかどうかはわからないにしても、(しかし物語としてはこれほど生々しい表現は他にないと思いますが)
日本でも戦中戦後のそういう時期は捨て子が増え、子どものホームレスが増えました。
今でも地球の中で貧しい地域はそうです。
いえいえ、貧しくないわたしたちの社会でも、子どもはまず犠牲になります。
大人に支配され、虐待もされるのです。
虐待する大人たち。
自らのいのちと生活を、社会のシステムや精神、あるいは自身の精神によって包囲され、自由といのちを失いかけ・・・
でも・・・その犠牲となるのが、大人自身でなくて、子どもになる・・・。
そういう「包囲」された困窮には、
不治の病、解明されない病、心身のしょうがい、なども含まれるでしょう。
自分を不自由にし、いのちを脅かすそれらのものを抱え込むとき、
それでもわたしたちは
神を信じますか。
繰り返しますが、王様や側近のように、
人間の知恵、知識、方策、金などを駆使して、上手いことできることを考えるということが、真っ先に来る・・・ということを・・・だれしも経験しているのではないでしょうか・・・。
そして結構明白に、
「神は何をしてんのじゃ!」
と怒りを向けつつ、神を信じきれない自分を発見もし、くるしくなったり、あっけらかんとしていたりするのではないでしょうか・・・。
王様の側近
今で言ったら、知識も経験もあり、市民の信頼も厚い人のことではないでしょうか。
苦しいとき、そういう人の言葉を信じたくなりませんか?
聖書を読み祈るよりも、一般書店で並ぶありがたい本を読んで、すっきりしてはいませんか。
そうなんです。人間ってのはこういうもんです。
だから、わざわざ物語で、そういうところに・・・つまり側近を=社会的に認められている人間を、神以上に、あるいは神と同等に、あるいは、「この人は実は神のことを言っている」なんている理由をつけながら、そういう人間を信じること・・・に、
はまるな!
と、物語をもって代々伝えるわけです。
3、 神からの解放の知らせはどこに???
ではでは、そういう苦しいとき、誰を信じたらよいのでしょう。
「神様」
という答えが出てくるわけですな。正解でしょう。しかし、その神様は、具体的に、どこで、ご自身をあらわしているのでしょうか。
この物語では、かなり明確に、その場所が示されます。
それは、4人の重い皮膚病の仲間たちです。
つまり、社会で最も虐げられ、差別され、いのちを脅かされ続けている人たちです。
彼らを通して、主は、「良い知らせ」を人々に語るわけです。
つまり福音は、そこにあるわけです。
これが真実。
代々伝えるべき真実。
神を信じる者は、まずもって、社会で最も小さくされている人々と連帯するとき、そこに福音を発見するのです。
もし神が世で力を持っている人に福音をあずけたら
力ある人はそれを自分の手柄にし、自分を神のように見せるというのは、今の世界からも想像できませんか。
でも、子どもを殺されたイラクの母親に福音があずけられたら、その母親は分かち合うでしょう!
簡単に考えると、こんなコトになるかもしれませんね・・・。
なにしろ
悲しみ苦しみの中にキリストの十字架があるのですよ。
それが福音なのですよ。
そこから解放されるのですよ。
自分の内部のことだけでもそうでしょう。
成功し、気分もいい!っていう中に、福音を発見するのでしょうか。
そこでは、自分の技量や知識、体力などは発見できても、福音は・・・ないでしょう!
じゃあ、福音はどこに?
自分の心の隅っこに隠している汚いもの、苦しいこと、悲しいこと、
それを、主イエス・キリストが
「よしよし」
ってなでなでしてくれている・・・
主イエスが泣きながら・・・
十字架上で・・・
ここに福音があるのですよ・・・。
この物語
苦しいとき、
強くてえらい人間や、その技量、知識を信じ、彼らが上手いことしてくれることを信じるか。
それとも
いのち脅かされている隣人たちを覚え、そこにキリストが共にいることを発見するか。
自分の中のかっこいい部分で生きるか。
それとも
醜い、汚い、罪人として生きるか。
この選択を、最後におどしを入れてまで、
「間違えるなよ」
と言うわけです。
さて、わたしたちは、どこに福音を発見しましょうか。
聖書箇所は列王記下6:24~7:20
ながいのなんのって・・・日本バプテスト連盟の発行する「聖書教育」誌の選んだ箇所なのです。
実際のメッセージは例話がたくさん盛り込まれていますが、
その例話がよかったりもするのですが
長くなるので最小限の例話で・・・それでも長いですが・・・
1、 聖書箇所の物語の要約
サマリアは大飢饉でした。それに加えてアラムの軍隊がやってきて・・・
サマリアは包囲されました。
サマリアの人々は鳩の糞を食べて生き延びていました。糞の中にはなかなかの塩分があるとのこと。
しかし、それもとっても値が張る代物となっておりました。
そんな中、ひとりの女性がサマリアの王様に嘆きます。
「救ってください」
「どうした?」
「子どもを煮て食べました」
「なに!?」
「家族を養えないから、昨日はわたしの子どもを煮て食べました。そして今日は、この人の子どもを煮て食べる約束をしたけど・・・この人、子どもを隠しました・・・約束破りました・・・」
(なんと生々しいやりとり・・・前日に煮た子どもを見たら・・・そりゃ隠すわな)
「ちきしょう!」
と王様は怒りの極みに達して・・・言いました。
「わが国の愛する仲間がこんなに苦しんでいるのに、神は何しとんのじゃ!神のことを教える預言者エリシャなど死刑じゃ!」
(王様、まずはエリシャに怒りの矛先を向けました。)
それを聞いた王様の使いがエリシャのところにやってきました。そして言います。
「サマリアがこんなんなったのは神のせいだ!もう神など信じない!」
(おっと、ここで王様の本音が出ました。)
飢えて乾いてどうにもならないサマリアの人たち。
そんな状況なのに、預言者エリシャは言いました。
「明日ね、明日になったら、上等な小麦粉、大麦が馬鹿らしいほど安く、そうそう、鳩の糞ひとにぎりを買う値段で、30リットルくらい買えるようになるから・・・」
「おいおい」
もう、エリシャを信用していない王様の側近が、あきれながら言います。
「神が大判振る舞いしたって、そんなことは起こるはずない!現実を見ろ!こんなに何もなくて、みんな飢え乾いているだぞ!」
(そりゃあそうだ!急に「明日になったら・・・」なんていわれても、常識人なら・・・「あいつ気でも狂ったか」くらいにしか思えんよなあ。側近さんはとっても普通なのです。)
そんな側近にエリシャは言いました。
「あんた、小麦粉を見るよ。でもそれを食べることはないよ」。
(なんと意味深な・・・)
さてさて、重い皮膚病を患っている4人の仲間がいました。
彼らはもともとサマリアの中で隔離され、隅っこのほうで集団生活させられ、街に出ることを禁じられている人たちです。
差別され、虐げられていました。
だから、街の人々に食料が行き届かないときは、彼らのところにはなんにも食料なんぞは来ないわけです。
そこで、話し合いました。
「どうせ、サマリアにいても食べ物がずっとなくて死ぬだけだ。だったら、アラム陣営に投降しようよ。殺されるかもしれない。でも、どうせここでも飢え死にするんだから、どっちもどっち。万が一アラムの兵隊さんが親切で、パンでもくれたらラッキー。よし!行こう!」
4人はアラム陣営に行きました。
しかし、行けども行けども誰もいません。
でも、お金や衣類、穀物や野菜などは置きっぱなしです。
「どうなっているのだ!」
どうも、前夜に大きな音がしたのを、アラム軍のみなさんは、サマリアの軍隊が、大国エジプトなんかと協力して、襲ってくると勘違いしたようです。
4人は喜んで、手に入ったものを独り占めして、隠しました。
でもこの4人、なかなかいい関係で、やっぱりここでも話し合いました。
「ちょっと待てよ!これは神様からのありがたい知らせではないか。やっぱりサマリアのみんなで分かち合おう!」
で、サマリアの王様にそのことを話しました。
しかし、まあなかなか王様は、そのことを信用できませんでした。
「そうやってアラム軍は隠れていて、サマリアの人々が小麦なんぞを取りにいったときに、『やー』ってやってきて、みんなを捕まえて奴隷にするのではないのか?」
で、偵察隊を送りました。
でも結果は同じ。やっぱりアラム軍の人たちはいませんでした。
「行くぞー」
サマリアの人々は我先にと、物資、食料を取り合いました。そこでは、エリシャが言ったように、小麦粉がただ同然で売買されました。
で、側近さんですが、その姿をちゃんと見たけど、食べることなく・・・民衆に踏まれて死んでしまいました。これまたエリシャの言ったとおり。
(おっと最後はおどしかいな)
2、 それでも神を信じることができる???
というような物語。
このような歴史の物語として、人々は代々語り継ぎました。それはこの世界で真実に生きるために、語り継いだわけです。
今なら、物語としてでなく、生き方の方法の並んだ道徳集みたいなかたちで代々伝えるかもしれません。
でも、口と耳で伝えるときは、こういう物語が一番なのです。
で、そういう物語は、つまり、世で生きるための普遍的な知恵が盛られているわけです。
さてさて
わたしたち、教会の礼拝に来ているのだから、神を信じている、あるいは信じたい、と思うわけです。
しかし、どうでしょう!想像してみましょう。あんな大飢饉で、しかも周りは戦車が包囲して銃をむけていて、自分の子どもを食べるような状況で、
それでもなお、神を信じますでしょうか。
「信じないといけない」「信じたい」
と思っても、
信じ切れない自分を発見するしかないかも知れません。
つまり王様や、その使い、側近さんのように考えるのではないでしょうか。
「神様どうのこうのよりも、現実的にいかに上手いこと、この困難を乗り切っていくか、その筋道を考えねば!」って。
で、エリシャのように「明日、全部状況が変わって幸せになるよ」って誰かに言われても
「お前はアホか」
とつぶやくのがオチでしょう。
想像しましょう。今も包囲されているところがあります。レバノンは戦車で包囲されています。パレスチナは大きな壁で包囲されています。
外に出られません。食料も医薬品も思うように手に入れることができません。
経済制裁もそうですね。
つまり包囲するというのは、その中の人々のいのちを、外側でコントロールするというものです。
だから包囲されたいのちは、自由がないとかいうレベルではなく、いのちがなくなるのです。
飢餓問題は「包囲」とセットです。いつも。
戦争ももちろん。
そしてそういう場面では、より弱い仲間が一番早く犠牲になります。
子どもが犠牲になります。
食べるかどうかはわからないにしても、(しかし物語としてはこれほど生々しい表現は他にないと思いますが)
日本でも戦中戦後のそういう時期は捨て子が増え、子どものホームレスが増えました。
今でも地球の中で貧しい地域はそうです。
いえいえ、貧しくないわたしたちの社会でも、子どもはまず犠牲になります。
大人に支配され、虐待もされるのです。
虐待する大人たち。
自らのいのちと生活を、社会のシステムや精神、あるいは自身の精神によって包囲され、自由といのちを失いかけ・・・
でも・・・その犠牲となるのが、大人自身でなくて、子どもになる・・・。
そういう「包囲」された困窮には、
不治の病、解明されない病、心身のしょうがい、なども含まれるでしょう。
自分を不自由にし、いのちを脅かすそれらのものを抱え込むとき、
それでもわたしたちは
神を信じますか。
繰り返しますが、王様や側近のように、
人間の知恵、知識、方策、金などを駆使して、上手いことできることを考えるということが、真っ先に来る・・・ということを・・・だれしも経験しているのではないでしょうか・・・。
そして結構明白に、
「神は何をしてんのじゃ!」
と怒りを向けつつ、神を信じきれない自分を発見もし、くるしくなったり、あっけらかんとしていたりするのではないでしょうか・・・。
王様の側近
今で言ったら、知識も経験もあり、市民の信頼も厚い人のことではないでしょうか。
苦しいとき、そういう人の言葉を信じたくなりませんか?
聖書を読み祈るよりも、一般書店で並ぶありがたい本を読んで、すっきりしてはいませんか。
そうなんです。人間ってのはこういうもんです。
だから、わざわざ物語で、そういうところに・・・つまり側近を=社会的に認められている人間を、神以上に、あるいは神と同等に、あるいは、「この人は実は神のことを言っている」なんている理由をつけながら、そういう人間を信じること・・・に、
はまるな!
と、物語をもって代々伝えるわけです。
3、 神からの解放の知らせはどこに???
ではでは、そういう苦しいとき、誰を信じたらよいのでしょう。
「神様」
という答えが出てくるわけですな。正解でしょう。しかし、その神様は、具体的に、どこで、ご自身をあらわしているのでしょうか。
この物語では、かなり明確に、その場所が示されます。
それは、4人の重い皮膚病の仲間たちです。
つまり、社会で最も虐げられ、差別され、いのちを脅かされ続けている人たちです。
彼らを通して、主は、「良い知らせ」を人々に語るわけです。
つまり福音は、そこにあるわけです。
これが真実。
代々伝えるべき真実。
神を信じる者は、まずもって、社会で最も小さくされている人々と連帯するとき、そこに福音を発見するのです。
もし神が世で力を持っている人に福音をあずけたら
力ある人はそれを自分の手柄にし、自分を神のように見せるというのは、今の世界からも想像できませんか。
でも、子どもを殺されたイラクの母親に福音があずけられたら、その母親は分かち合うでしょう!
簡単に考えると、こんなコトになるかもしれませんね・・・。
なにしろ
悲しみ苦しみの中にキリストの十字架があるのですよ。
それが福音なのですよ。
そこから解放されるのですよ。
自分の内部のことだけでもそうでしょう。
成功し、気分もいい!っていう中に、福音を発見するのでしょうか。
そこでは、自分の技量や知識、体力などは発見できても、福音は・・・ないでしょう!
じゃあ、福音はどこに?
自分の心の隅っこに隠している汚いもの、苦しいこと、悲しいこと、
それを、主イエス・キリストが
「よしよし」
ってなでなでしてくれている・・・
主イエスが泣きながら・・・
十字架上で・・・
ここに福音があるのですよ・・・。
この物語
苦しいとき、
強くてえらい人間や、その技量、知識を信じ、彼らが上手いことしてくれることを信じるか。
それとも
いのち脅かされている隣人たちを覚え、そこにキリストが共にいることを発見するか。
自分の中のかっこいい部分で生きるか。
それとも
醜い、汚い、罪人として生きるか。
この選択を、最後におどしを入れてまで、
「間違えるなよ」
と言うわけです。
さて、わたしたちは、どこに福音を発見しましょうか。