きぼう屋

生きているから生きている

牧師館の金曜日

2006年09月30日 | 「生きる」こと
きのうのおはなし

ただいま
はいはいおかえり
ぞろろぞろろ
おいおい
いったい何人いるんかいな

ひとりふたり
三にん四にん
五にんっと

あれれ
金よう日はみんな習い事ちゃうんかいな

五週めだからないねんでえ
あらあらそうかいな

ええよええよ
習い事よりコレでしょうが

なげるは打つは
どなるはさけぶは
つっつくはころぶは
怪我するは泣くは
いろいろあってコレでしょうが

ぞろろぞろろ
お茶
はいはい
腹減った
はいはい

遠慮はないんか遠慮は
やっぱないんかいな

ええよええよ
気楽にぞろろでコレでしょうが

五時だ帰るわ
五時半だ帰るわ
六時だ帰るわ
おうちの決まりは
いろいろあってコレでしょうが

みんな帰って
長男残って
ホッとする間もないまま

ただいま
はいはいおかえり
ぞろろぞろろ
おいおい
いったい何人いるんかいな

ひとりふたり
三にん四にんっと

今日泊まるね
あららそうかいな
ええよええよ
あしたは休みでコレでしょうが

風呂はいり
無視かいな
かたづけや
無視かいな
歯をみがき
無視かいな
ええよええよ
みんなで夢中でコレでしょうが

はよ寝
無視かいな
ええよええよ
夜半すぎでもさわいでコレでしょうが

もう起きたんかい
行ってきまーす
ええよええよ
寝る間ももったいなくてコレでしょうが

でも
こんばんは
寝てな

憎しみの連鎖を断ち切る

2006年09月29日 | 「生きる」こと
阪神勝ちましたがな。

憲法署名京都実行委員会事務局会議を終えて
帰宅したら
ちょうど最後の藤川の速球を見ることが出来ました。
もちろん空振り三振。

で、いろいろやって
いま、ゆっくり朝刊読んだら・・・

天声人語
久々ヒット
とてもいいコトバを紹介してくれています。

体貫く衝撃
希望が貫く
涙出た・・・

********************

2006年9月29日の朝日新聞の天声人語

最近の言葉から。

9.11の同時多発テロから5年たった。
山口県下関市の中村佑さんは、
当時30歳だった息子匠也さんを
世界貿易センターで失った。

「テロは絶対に許されないが、
 実行犯を憎みたくはない。
 憎しみが憎しみを呼び、
 テロや戦争が繰り返されてきた。
 そんな憎しみの連鎖に加わることになるから」

オウム事件裁判で、松本智津夫(麻原彰晃)被告の死刑が確定した。
松本サリン事件の被害者、河野義之さんの妻澄子さんは
今も意識が戻らない。

「死んでいることと
生きていることは
 全然違う。
 (松本被告への)憎悪より
 妻が生きていることへの感謝。
 この方がはるかに大きい」

*********************

説明なんていらないでしょ。

希望と共なる人の歩み

2006年09月29日 | 「生きる」こと
心わいてくるとこしえの力がある
身体ほとばしるとこしえの情熱がある
魂みたすとこしえの希望(かたち)がある

あすもある
あさってもある
ずっとある

針の刻む時が僕らを覆い
とこしえの諸々が居場所を失おうとも

消えはしない
なくなりはしない
ずっとあって
ずっと待っている
僕らを

心わいてくるとこしえの力がある
身体ほとばしるとこしえの情熱がある
魂みたすとこしえの希望(かたち)がある

だから生きることができる
だから死ぬことができる

だから喜び楽しむことができる
だから悲しみ痛むことができる

だから一緒にいることができる
だから愛することができる

希望よ
来られよ

希望を無視する人の歩み

2006年09月29日 | 「生きる」こと
きょうも心わいてくる力があるよ
みつめているよ
大きな夢のあれやこれや

きょうも身体ほとばしる情熱があるよ
むかっているよ
大きな夢のここやあこそや

きょうも魂みたす完成(かたち)があるよ
できあがったよ
大きな夢のそこのひとつ

あしたはふたつめ
あさってはみっつめ

来月は三十二こめ
来年は三百六十六こめ

十年後は三千六百五十一こめ

死ぬまでには・・・

生命は進み進むよ
次へその次へ
大きな夢とたくさんの完成(かたち)
よろこびたのしむよ


止まるの
こわいよ
できあがらないの
こわいよ
おわるの
こわいよ

死ぬの
こわいよ


きょうも心わいてくる力があるよ
身体ほとばしる情熱があるよ
魂みたす完成(かたち)があるよ


「平和」偽証

2006年09月28日 | 教会のこと
平和がないのに、

彼らが『平和だ』と言って

わたしの民を惑わすのは、

壁を築くときに漆喰を上塗りするようなものだ。

漆喰を上塗りする者に言いなさい。

『それは、はがれ落ちる』と。

     (聖書 エゼキエル書13:10~11前半)

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今の世界、そしてわたしたちそのもの・・・

真実かくし・・・
偽証し・・・
ばれたりするけど・・・
なお偽証し・・・
でも
偽証だ!という人も少なく・・・
むしろ
変に安心してしまって・・・
安心という感覚にしがみついてしまって・・・
つまり
自らにも偽証してしまって・・・
もう
そういうことが
麻痺してしまっていて・・・

これを平和ボケというのか・・・

そうかもしれない・・・

でも

麻痺してわからなくなっているのは

信仰
希望


そして

キリスト・・・

なんだろう・・・

祈る
祈る
祈る

感触

2006年09月27日 | 教会のこと
傷がいたいよ

ふさがったとこ
また
こじあけられた

ちきゅうの上の
コンクリートだらけのあっちの皮膚も
オイルたっぷりのあっちの皮膚も
砂てんこもりのあっちの皮膚も

ちきゅうの上の
こっちのわたしの皮膚も

傷がいたいよ
・・・

キリストが
手を
添えたよ

あたたかい

ゆびのしわ
べったりくっついた

えぐれてるよ
ひらのまん中
流れでる血
べったりくっついた

傷ぐちからたれるよ
あっちの血
こっちの血

かわりに

注がれたよ
キリストの血


死んでしまったよ
ひき裂かれたよ
こなごなになったよ
ぐちゃぐちゃだよ

ちきゅうの上の
コンクリートだらけのあっちの生命も
オイルたっぷりのあっちの生命も
砂てんこもりのあっちの生命も

キリストよ
憐れんで


キリストが
すべてを
添えたよ

つめたい

顔も胸も腹も
ぐったりのっかってきた

背中にへばりつく
十字架といっしょに
ぐったりのっかってきた

ぐちゃぐちゃな
あっちの生命と
あっちの生命と
あっちの生命の

かわりに

ぐちゃぐちゃになってる
キリストが


よみがえるよ
かならず

呼ぶよ
だから

マ・ラナタ

キリストよ
すぐ
きて

どくだみ草

2006年09月26日 | 平和のこと
華やぐ庭のかたすみに
人目もつかずに咲いている
浮かんでいるような白い花

嫌なにおいと嫌われて
変な名前と笑われて
それでもなお命を守る草

めだつ事なく生きてても
きっと何かの役に立つ
どくだみ草になりたいな

あの日夏の広島に
なにより早く芽を吹いた
その健気さに生きたいな

**************************


これは昨日歌われた「どくだみ草」の歌詞です。

すごくよかった!!!
とある具体的な生の歴史が凝縮されて
歌声にのってわたしたちにやってきました。
歴史との出会いという贈り物でしたよ。

シンガーソングライターの李陽雨(イ・ヤンウ)さんが教会に来てくれました。
日本バプテスト連盟日韓・在日連帯委員会の主催で
京都教会を会場して
「歌とトーク・出会いの夕べ」
が開催されました。

実は李さんは昨年の12月26日にも来てくれて
たくさん歌ってくれましたが
前回は村崎さん(猿回し)とのコラボだったため
それはそれですばらしかったのですが
しかし
また違うすばらしさが
つまり
李さんの歴史が藤川ばりの速球で僕らの飛び込んでくるというすばらしさが
あったのです。

「どくだみ草」を紹介したのは
詩だけでも伝わるから・・・
しかしあの現場では
こういう誰にでも共鳴できる歌詞でない
具体的な一人の歴史そのものを描いた歌詞のものが
会堂を舞いに舞ったわけでして・・・
これは歌詞を紹介しても仕方なく・・・
現場
を共有するしかない・・・
のでした。
しかし
こういうものとの出会いこそが
人間を人間とする本物の学びであるということは
声を大にして訴えますよ。

こういう歌を分けてくれる人は
そうそう
いや
まず
いないと思いました。

この企画を知っていたけど
来られなかった方々
来るつもりのなかった方々
これだけは感想などを分かち合うことでは伝わりません。

残念!!



小は大をかねる

2006年09月25日 | 教会のこと
昨日の教会週報の巻頭言です。
逝去者記念礼拝でした。

********************************

 先日、私は大が小をかねない経験をしました。
 それは、歯間ブラシという、歯と歯を磨くための細いブラシを使ったときです。
 それには太さのサイズが数種類ありまして、わたしは真ん中のあたりのサイズを買って使いました。
 ところが、それでは入らない隙間があったのです。
 そこで、次は一番小さいサイズを買ったところ、どの隙間も磨くことができました。
 小は大をかねたのです。
 部屋の掃除でもよくあることでしょう。
 隅の隙間のほこりが掃除機では取れないとき、小さなブラシなどで掃除することがあります。

 そしてこういう場面を、社会全体で考えてみると、面白いことが見えてくるのではないでしょうか。
 隅の隙間に大きいモノは行き届くことができず、
 そこでは小さいモノが、小さければ小さいほどに、行き届くということが、です。
 世界の隅で、さまざまなシステムや力の隙間で苦しみ悲しんでいる人たち。
 彼らのところに、政府などの大きな力はなかなか行き届きません。
 しかし、マザーテレサがインドで路上生活者にかかわったように、
 今、パキスタンで中村哲医師が井戸を掘っているように、
 小さな力は不思議とその只中に入って、より行き届くことができています。

 大人の世界では互いに行き来できないような場面でも、子どもはすんなり入っていけたりもします。

 そして、この世界で最も小さいのは、きっと主イエス・キリストです。
 主イエスは、赤ん坊そのものとして小さく、
 また何の抵抗もできず、十字架で殺された者として小さい方です。

 でも、だからこそ、
 世界の隅の隙間から、
 私たち一人ひとりの精神の隅の隙間まで、
 自由に往来し、行き届く方なのです。
 そして今もそこに主イエスがいます。みんなを救い出すために。

 さて、本日は逝去者を覚えています。
 死者もまた、最も弱く小さい者です。
 わたしたちは、また社会は、死者を神さまにしてみたり、逆に完全に忘れ去ったりします。
 でも死者はそこで意見を言うことができません。
 死者は生きる者に完全に操作されるほどに弱く小さいのです。

 しかし、そういう死者だからこそ、
 死者はキリストと一緒に、
 遺された私たちの精神や社会の隅の隙間をも知ってくれているのかも知れません。
 そういう場面で、信仰的には実際に死者と出会うと言っていいと思います。
 いと小さき者の幸いとはこういうことでありましょう。

これぞ平和

2006年09月24日 | 平和のこと
前の前の晩の話。

長男と次男とがけんかをしておりまして・・・
それはそれは、ぶっとばすために追いかけて追いかけられて・・・
なんてやっておりました。

それを1歳半になる末っ子が見ておりまして・・・
何を勘違いしたのか・・・
ニコニコしながら兄貴たちのうしろをペンギンみたいについていってしまうではありませんか。

兄貴たちが追いかけっこでもしていると思ったのでしょうか・・・


末っ子がなぜかうしろからチョコチョコついてくるうちに

兄貴たちのけんか

終了しました。

しばらくポカーん

そして笑うしかなくなる・・・

という風景があらわれました。

これって何。


ひとつはこういうことかなあと思います。
兄貴たちの雰囲気、つまり憎みあっている雰囲気に対して
それを壊す末っ子の持つ何かがあったということ・・・

ふたつめとしてはこんなんかなあと思います。
その雰囲気を壊すためには、その雰囲気とは全く異なるものを、末っ子はもっていたということ・・・

そしてみっつめとしてこういうことがあったろうと思います。
末っ子の持っていたのは、実は雰囲気ではなくて・・・
単純に
兄貴たちと一緒にいたい!遊びたい!という「共に」という事柄であったということ・・・


これを強引に社会に当てはめてみると・・・

ひとつ
社会になんらかの雰囲気があって・・・
それはかっこよく主義なんてよばれる場合もあるけど・・・
それが隣人を憎むことが否定されない雰囲気、主義だった・・・
しかし、それを壊すための何かがかならず世界にはある・・・

ふたつ
その何かとは、その雰囲気、主義と全く異なるものであるけれども、
それに対峙させるような雰囲気とか主義ではなく・・・
雰囲気とか主義を超えるという意味で全く異なるものであるということ・・・

みっつ
それは端的に「出会い」そして「共に」という出来事・・・

なんてことかなあ

思いつつ

これぞ平和

思ったのでした。

おしまい

これも歴史

2006年09月23日 | 「生きる」こと
おとといだったでしょうか。
夜のテレビでおいしいカレー屋さんのランキングみたいのをやっていまして・・・
そもそも順番つける意味は何かなあ・・・
なんて考えながら眺めていたのですが・・・

あらら
その第一位になったお店

東京は神田のエチオピアではないですか!!!

いやいやびっくりです。

東京を離れて11年。
エチオピアさんが人気店になっていたなんて・・・

通いましたよ。
グラムマサラが妙に効いているさらさらスープに
大きな具材がのっかているというもの
パンによくあうだろうなあ、と思う味
だけど、ごはんにのっかってくる
というものでした。

神田なので
古本屋街があり
秋葉原まで歩いてすぐで
(今の秋葉原ではなくて、オーディオが好きな者が集まる秋葉原でした・・・)

妻の家(実家)も近くて・・・

よく行っておりました。

当時は常時3名くらいの客がいる程度だったんですが・・・
10年という月日は変化するに十分な期間なんだなあ
と、思った次第です・・・

あとコーヒーがうまかったなあ。
カレーの後についつい注文してしまうものでした。

また行きたいなあ。
でもなんか不思議な気分なんだよなあ
有名になってしまっているってのが・・・

店内の風景は
テレビを通して見る限り
まったく変わっておりませんでした。

おかげで
10年以上前のいろんな記憶が
どっかんどっかん
脳みそのなかで打ち上げられる経験をしました。

なんとなく結婚を考え始めていたころで
ピカートの結婚についての論考のやつが
ボロボロのやつだけど神田で見つかって
それにとても感銘の受けて
夫婦の関係性のみならず人間の関係性そのものを学ぶできる本でして・・・
今も時々読んだりして・・・

ウェーバーについての論文もいろいろ探し買っていたころで
学生時代に読んだウェーバーの背景を学ぶにつれ
ウェーバーの論考そのものが全く違うように見えてきたと言う経験・・・
つまり背景の占める大きさみたいのに感激していたころで・・・

フッサールとベルクソンを懸命に買っては読んでいるころでもありまして・・・
通勤電車でそんな本広げておりました・・・
今では考えられないくらい元気でしたなあ・・・

うーん
でも
カレーが食べたいぞ
食べたい・・・

これぞ歴史

2006年09月22日 | 「生きる」こと
はちみつ事件が我が家で発生しました。
昨日朝食のとき
はちみつの大きな瓶が
倒れました。

ダラーリ サラーリ
と流れ出るはちみつ
ちょうど食卓の真ん中に直径30cmほどの円状に
はちみつがひろがりました。

もー
みんなで倒した共くんに文句を言ってしまいました。


みんな、パンを真ん中の円状になったはつみつにつけるかたちで食べました。

でもまだまだ流れ出たはちみつは減りません。
そのまま置いておきました。

で、
朝のちょうどおやつが食べたくなるくらいの時間
わたしはトイレのため執務室から家に戻りますと
トイレ後
なんとなく
食卓に行って
はちみつを
指につけて
舐めました。

その後コトあるごとに
はつみつを舐めました。

プーさんの気持ちがわかりました。
うまい!!

子どもたちが帰宅して
おやつを食べるときも、
パンをそれぞれ持ってきて

それこそとってもたのしく
円状のはちみつから取ってつけて食べました。

なんかはちみつを囲んで
とてもたのしい時をなんどもなんども過ごしました。

あらら
こぼされたときは文句言ってしまったけど

とってもしあわせなコトばっかり起こるではありませんか。

共くん
ごめん

これはずっと思い出に残ります。

何がどう転ぶかわからない。
そんな嬉しい経験でした。

感謝感謝。

まだはちみつ食卓にのってます。
これからの朝食も

昨日と一緒で
やったるでー

はちみつつけるぞー
パンもってこーい

勝訴

2006年09月21日 | 平和のこと
こんなんは初めてですが
自分の記事でなく
新聞記事を載せます。

わたしの友人たちもがんばっているので・・・
ひとまず
ホッ

**********************

国旗掲揚時の起立強制は違憲、地裁が都に賠償命じる

 入学式や卒業式の国歌斉唱の際、教職員は国旗に向かって起立しなければならないなどとした東京都教育委員会の通達は違法だとして、都立学校の教職員ら401人が、都と都教委を相手取り、通達に従う義務がないことの確認や損害賠償を求めた訴訟の判決が21日、東京地裁であった。

 難波孝一裁判長は、「通達や都教委の指導は、思想・良心の自由を保証した憲法に違反する」との違憲判断を示した。その上で、「教職員は国旗に向かって起立し、国歌斉唱する義務はない」と述べ、退職者32人を除き、起立や国歌斉唱の義務のないことや、処分の禁止などを認めた。

 さらに判決は、「違法な通達や校長の職務命令で、原告は精神的損害を被った」とも述べ、請求通り、原告1人当たり3万円の賠償も認めた。
(読売新聞) - 9月21日15時24分更新


<国旗国歌>都教委の「強制は違憲」東京地裁が判決 

 入学式や卒業式で日の丸に向かっての起立や君が代斉唱を強制するのは憲法で保障された思想・良心の自由を侵害するとして、東京都立高の教職員ら約400人が都教育委員会を相手取り、起立や斉唱の義務が存在しないことの確認を求めた訴訟の判決が21日、東京地裁であった。難波孝一裁判長は「強制は違法、違憲」と判断し、起立や斉唱の義務がないことを確認したうえ、一人当たり3万円の慰謝料の支払いを命じる判決を言い渡した。
 都教委は03年10月23日、都立学校の各校長に「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」という文書を通達。国旗に向かって起立▽国歌斉唱▽その際のピアノ伴奏▽こうした職務命令に従わない場合に服務上の責任を問われることを教職員に周知――との内容で、これに従わず懲戒処分を受けた教職員らが提訴していた。
 判決では、「国旗掲揚、国歌斉唱に反対する者も少なからずおり、このような主義主張を持つ者の思想・良心の自由も、他者の権利を侵害するなど公共の福祉に反しない限り、憲法上保護に値する権利。起立や斉唱の義務を課すことは思想・良心の自由を侵害する」と判断。
 さらに、「通達や都教委の一連の指導は、教職員に対し、一方的な一定の理論や観念を生徒に教え込むことを強制することに等しく、教育基本法10条1項で定めた『不当な支配』に該当し違法」と指摘した。
(毎日新聞) - 9月21日16時27分更新

************************

安倍さんが首相になって
教育基本法から手つけます!
って言った
直後のこの判決!

でも

教育基本法改悪案見ると
10条1項もかわるだろうから
「教育は」が「教育行政は」
にかわるだろうから
主体がかわるだろうから
悪くなったあとは
こういう判決はでなくなってしまう・・・
でないためにかえられるのだが・・・

**********

おそろしや
なんとかしてよ
イエスさん

「おれもするから
 おまえもしろよ(イエスさん)」



共なる祈り

2006年09月21日 | 教会のこと
昨晩は水曜日で祈祷会でした。
わたし好きです。祈祷会。

一緒にひざを突き合わせての祈りは
抱えている何かを
そのひとつだけかもしれないけど
いや
ひとつはかならずや
解放されるという
そういう出来事だと思います。

互いが互いのために祈る
その祈りの言葉を同じ場で共有する。
体温のぬくもりと
声の表情を
たがいに分かち合いながら
そういうひとつひとつの皮膚感覚がくっついているかたちで
祈りの中身がストンとおなかに落ちるとき
ストンとなにか解放されていく・・・

相手を覚えること
自分が覚えられること

この行いが同時に噴出する共なる祈り

ここに
いのちと生活の中心があるといって
過言ではありません。

キリスト者は
祈祷会に出なくてはならないという
昔の宣教師、牧師の言葉は
相当に正しいと思います。

いのちと生活
キリストのために

祈祷会。
もったいないもったいない

平和と安全Ⅱ

2006年09月20日 | 平和のこと
先日、京都は法然院で最後の戦争噺をされた
戦争出前噺家の本多立太郎さんが、こんなこと言っています。

**********************

大体、人間裸になる、というと、お気の毒にと言われる。年頃の女性の外は大てい哀れまれることになる。しかし、これは非常に勇気の要ることであって、殊に国家の場合、鎧兜で身を固めなければ守れないなんて、こんな意気地なし、弱虫なことはないし、第一低能です。憲法前文のとおり、素裸になって、そしてこれから生きる道を見つけ出していく事が本当の勇気じゃないのか・・・

『ボレロが聴きたい』耕文社P.40

**********************

憲法前文以上に憲法9条がそうだと思いますが・・・
こういう勇気
どこからやってくるのか・・・

希望がやってくる・・・
この詩を参照してくださいませ・・・

前の記事の平和と安全というテーマもそうですが、
安全を第一にするのではなくて、平和を第一にするには勇気がいる!

これ!本多さん流の平和と安全についての考察だと思います・・・

本当に道端で素っ裸になる勇気は必要ありませんが・・・

弱いが強い

2006年09月19日 | 教会のこと
昨日は関西地方連合の宣教協議会に出席しました。
なにしろ嬉しかったです。
何が嬉しかったかというと、
同時に来年度の役員選挙もありまして
書記で名前が挙がっていたのですが
(候補者選考委員会が推薦するのですが)
無事落選しましたぁぁぁぁ

投票用紙が配られて
もうひとりの候補者の名前を見てにんまり。
助かった。
当選されたNさん、よろしくお願いします。
デヘヘ



みんなに会えて嬉しかったです。



バプテスト教会のあり方についての会議でありました。
うーん

主義になるはずのないバプテストが
主義にはまって数十年。
まだ抜けられず・・・

ということなのかなあ。
とてもとてもむずかしいところにぶち当たっています。

どうすればいいのだろう・・・

「各個教会」
「自立」

たしかにこれを選択した時代はあったし長いけど
これにせねばならないという原理にはならないはず・・・
これらを選択したのは
どういう時代のどういう背景でどういう対話からなのか・・・
時代、背景、対話
が歴史から掘り起こされることが少なくて・・・
選択したことのみ取り出されている・・・
と思ったりする。

確かに勉強できる本も少ないので・・・
バプテストが選んだこういうかたちの根拠は
「個人の魂を大切にする」
とか
「個主義」
とか・・・
で落ち着いているものが多くて・・・

でもこういう根拠になっているものも
実は選択されたかたちであって・・・

これを選択した際の背景と対話は・・・
うーん


今のところ、わたしはこんなん思ってます。

かつて
強い力が多くの人を虐げているときに、教会は強い力そのものでしたが
そこでそういう強い力にいれば安心して悠々と生きていけたものの
そうでなくて、
そこから抜け出して
殺されるかもしれないのに抜け出して
弱い力を選択して
それでみんなで連帯した
のがバプテスト
ということではないのかなあ。と。

大切なのは
安心と強い体力(教会の)を削っても
誰一人放って置かないことを選び取り
その弱い力に連帯し
むしろ
どんどん弱くなり
しかし
弱いが強い!

聖書のままに信じていったアホたちが
尊敬するわれらバプテストの先輩ではないのかあ。と。

全体主義だった時代は個人というかたちを選んだけど
個人主義というものが他者との距離をとるということから、もっと複雑に強く全体主義にからめとられている今は
じゃあ何を選ぶの???

みたいなことを
もっと精密にやりたいのだけどなあ。と。

近代以降の世界の歴史、社会、雰囲気などなどの学びが足りないのかなあ。

対話力の欠如とも言えるよなあ。と。

で、
じゃあ何がバプテスト?

わたしの場合は
ホームレスとの出会いという選択が
かなり具体的な
バプテスト

です。

バプテストって
端的に具体的な行動を表す言葉なんだと思います。
弱い力の選択と、弱い力どうしの連帯みたいな。

日本には弱い教会しかないのだから。

大きいと思われたり自己認識している教会も年間予算1億ないのだから。
人数も数百人ですし。

でも1億以上のNPOや福祉事業の責任もっている人もいまやバプテストにたくさんいるし・・・
数千万でいいならかなりいるし・・・
それって小さい規模だってやる側は知ってるし・・・
企業やっている人は「やってられん」という小ささだって知っているし・・・

人間弱い!
教会弱い!
キリスト強い!

この端的な宣言に立ち返るための工夫が必要なのかなあ。

と思ったりしていて

で、
それは
他者にかかわる中で行き届くことのできない「わたし」の弱さ
とりわけ
差別され虐げられている他者にかかわる中でその人たちの深淵に手をさし伸ばしきれない「わたし」の弱さ

繰り返し泣きながら
ギャンギャン泣きながら

キリストきてくれー

って祈る
というのが

バプテスト
だと、思ったりして・・・

かなり本筋ついていると思いますが。