きぼう屋

生きているから生きている

キリストの体からはじまる

2010年12月26日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

******************

「キリストの体からはじまる」

2010年も終わろうとしています。
当教会をはじめ多くの活動体は4月年度であり、
年末を持って終わるわけではありませんが、
ここで区切りがないと
心身ともに落ち着かないのも事実です。

よって私たちは12月と3月に
それまでの歩みを想起し直す時を毎年持つことになります。
しかし悔い改めから始まる歩みを選ぶキリスト者にとっては、
想起する機会が多くなることは
同時に罪を想起し悔い改め、主に赦していただくことを意識するときが増えることであり、
うれしいことでもあります。

当教会は今年度も
「キリストの体」を意識し具体的にかたちにして生きることを
テーマとしています。

そこで私はこの区切りのときに次のことを考えています。

それは、
目の前に誰がいるのか、
が最も重大なことであり、
その具体的他者と私とが互いに必要とするところの
互いの言葉と表情と行動、そして沈黙と祈りとを、
主がを与えてくださることが恵みであり、
それにより互いに受容することが起こされ、
そこからすべてがはじまる、
という行為が意識されて実践されるときが来ている!
ということです。

教会も含め人間の集まりでは
「何」をするかが最も重要なケースが多く、
またその雰囲気に慣れている私たちも、
「何」のイメージを豊富に持ちます。

しかし、
聖書は「何を」よりも「誰と」を語ります。

例えば主イエスの奇跡物語を「何を」を中心に読むと、
業が最大の感心事となり、
業の結果をもって信じるというカルト信仰が生まれます。

しかし奇跡物語は、
主イエスが「誰と」共におられたか、
という部分が本当の奇跡であり、
主が共におられ全てを受容されているということが奇跡であり、

それが起こされるのが教会の交わりです。

「何を」という問い、
言い換えれば「やりたいこと」は
教会では二の次となります。

「誰と」共にいるのか、
その交わりの中で何を主がなされるのか、
という
「主のなさること」にかける歩みが
キリストの体を作り出します。

来年度は、ここを大きなポイントとして教会形成をしていきたいと思います。

「これやりたい」から「共にいたい」へ!

来年もよろしくおねがいします。

「楽しかったなあ」

2010年12月21日 | 教会のこと
今週19日(日)には
日本バプテスト京都教会の
クリスマス礼拝
愛さん会
祝会
が豊かに祝されまして
主とみなさまに感謝するばかりです

うちの子どもたちが
「楽しかったなあ」
と繰り返し言っております

そしてこの言葉の中に大きな当教会の
現在の中心点を見ます

楽しかった
のは
企画進行がうまいから
ではなくて

子どもたちを受け入れ
子どもたちと一緒に
いやいや
みんなで一緒に
ひとつとなって

つまり互いに受け入れあいながら
常に隣の人の体温と呼吸に行き届きあいながら

教会におけるすべての出来事がすすんでいる
ゆえに

子どもたちは繰り返し
「楽しかったなあ」
といまでも互いに確認しあっているのだと思います

当教会は
ほんとに変化しました

ありとあらゆる人がカッコウつけず遠慮せず共に歩むことの出来る教会となりました


ただそれは
みんなが「ありのまま」で参加できる
ということではありません

それを超えております

今は
現状の自分が教会でキリストにおける出会いを経験することで
変化する!

という出来事として
共に歩むことが起こされております


「ありのまま」
という美辞は
実は前世紀のものだなあと思います

そして今
世界の行き詰まりは
「ありのまま」信仰によるものであることも発見します

人は
出会いにより
変化しながら

時に
正反対になることもありつつ

歩むのでありますなあ



最も大きな変化は
主イエス・キリストとの出会いによって起こされるわけです



その変化は

自分の気分とか感覚とか思想ではなくて

となりの人の体温とか呼吸とか表情とかことば

が大切となり
それが中心となり
それが感心事となり
それに夢中になる

という人となるというものであるわけです


っていうのは
主イエス・キリストが
ご自身の気分とか感覚とか思想ではなくて
ただ端的に
わたしの体温と呼吸と表情とことば
などなどに夢中になり
さらに
そういうわたしのすべてを背負って
わたしを救うために
死をも経験されたわけですから・・・・



クリスマス礼拝における聖歌隊讃美が
またまた美しい!

信仰告白である讃美は
ただの合唱ではないのですなあ

体中に染みとおります

そしてここにも同じ秘密があると思います
つまり
自分のパートをうまく歌う!
ではなく
となりの人の声と音に行き届くゆえに
自分も歌うことができる
という出来事となっているわけです


礼拝は今年も100人を越えました

実は2004年から100人を超えるようになっています

しかし中身が異なってまいりました

教会におけるクリスマスは
まさにクリスマスくらいは地域の方々に教会で過ごしてもらうという目的もあって
そういう方々がたくさん来られてとても嬉しいのですが

しかし年を重ねるごとに
クリスマスのみということではなく
これから本気で教会家族になりたい
という希望を抱いている方々がたくさん来られるようになっています。
とくに今年は!
感謝感謝です


愛さん会もびっくり
例年
「料理が多すぎたねえ」
と反省しつつ
しかし年々前年以上の料理が並びます

特に今年は手作りスイーツがたくさん!

これぞ教会!って思いました
(わたしはみんなで食卓を囲むというところに教会性を覚えるんです)


そして祝会もいいねえ

何がいいかというと
いろんな出し物があるのですが

出し物をされる人たちが誰も魅せないのです
ひけらかさないのです

自分自身の日常がたんたんと表現されているんです

だから
あったかくてほのぼのします


I家の食卓と題された家族全員での讃美
子どもたちのトーンチャイム
青年たちのバンド演奏
青年たちのトーンチャイム
Tさんの三線による弾き語り
Mちゃんのマジック
Sさんの独唱
そして
野の花会(女性会)のページェント

「楽しかったなあ」
と二日後の今もいうしかないのですなあ

野の花会のページェントは圧巻でした

そして終わってすぐに来年もする!って決まって
その準備も当日にはじまったという

バイタリティーも圧巻!


最後はプレゼント交換

音楽に合わせて隣にプレゼントをまわしていくというシンプルだけどもっともあったかい方法

でももっとあったかくて面白いのは
プレゼントが確定して
中身を確認したあとに
もう一回自然にプレゼント交換が起こるということ

それってアリ?
という意見もあろうと思いますが

ウチのように多種多様の方が集まる教会では
それぞれに必要なものが丁寧に交換されるというのは

まさに「経済」の本質が起こっているわけでもありまして
(経済の本質というのはお金の交換ではなくて、愛と信用の交換であり、共に生きる制度)

聖書的でもありまして

わたしはうれしいのであります


というわけで

今週は

22日(水)の夜7時からは通常通りの祈祷会

23日(木)の夜7時30分からが若者中心の集いで
みんなでレンズ豆のスープをつくって食べて
聖書を分かち合ってお祈りします

24日(金)の夜8時からはクリスマス・イヴ・キャンドル・サービス


ぜひぜひお越しくださいませ


最後に
手術を終えたばかりのIさん、Fさん
病にある数名の仲間たち

覚えてお祈りします

クリスマス礼拝へようこそ!

2010年12月18日 | 教会のこと
明日からの週の週報巻頭言です。
一日早いですが
日本バプテスト京都教会は
こういうことを思い描きつつクリスマスを迎えさせていただくことを
紹介させていただきます

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「クリスマス礼拝へようこそ」

クリスマスおめでとうございます。
今年も主イエスが生まれます。
救い主はなんと赤ん坊。
つまりクリスマスの秘密は、
最も弱い存在であり、一人では絶対に生きられず、
他者の助けなしには死んでしまう赤ん坊こそ
救い主であること!です。

神は聖書を通して
徹頭徹尾みんなで愛し合い分かち合い慰め合い支え合う
仲間として生きることを命じます。

神が命じる世界は、
一人で生きられず他者の助けで生きる赤ん坊も当然生きられます。

すなわち、
主イエスが赤ん坊で生まれたのは、
神によりすべての人が生きられる世界が起こされた!
という救いを示しているのです。

だから
神の世界にこだわり、信仰者は共に生きる世界をつくります。
それが教会です。

よって教会は共同体であり神による家族です。
だから私はみなさんにぜひとも教会で共に歩むことをお勧めします。

しかし教会は歴史上過ちを繰り返しています。
神は聖書にて、
共同体とは、
常に異質な他者
(異邦人、寡婦、孤児、貧困者、血縁者のない者、ホームレス、障がい者、病者、生活のため汚れていると言われる職を担う者、子ども)
に常に開かれており、
常に出会い、
本気で神の家族となり、
共に歩むものであると教えます。

しかし教会をはじめ、人はあらゆる共同体で、
閉鎖的となり、同質の者(似た価値観、経済状況、生活状況の者)が集い、
そうでない者を排除する歴史を繰り返します。

そして聖書の中身は
そういう排除に警鐘をならすかたちで書かれているものが実はほとんどです。

そして20世紀の戦争で
世界は共同体同士があそこまで殺しあうことを知りました。
同時にそこでの共同体では異質な者たちが同質化させられたこともあり、
その後人は共同体自体を危険視し、個人として生きることに躍起になりました。
その形態の行き詰まりが昨今の社会ではないでしょうか。

教会も、共同体形態をとっていても
個人と神との関係にこだわるようになり、
聖書とずれていきます。

すると自分と神とのつながりの感覚が救いと理解するようになります。

さらに教会も経済システムと一体化します。
つまり一人で生きる(自立する)ため他者との競争に勝ち、
そのために資格や技能を持つなどして経済的に自立することで一人前として認められ、
結婚でき、家庭をもつこともできる、
という暗黙のルールに縛られていきます。

日本の多くの教会が「一人前」の集まるところであったことは歴史が証明するところです。

また共同体であったとしても、
愛ではなく規則でまとまることを大切にした時代でもあります。

でもこれからはこの生き方で幸せは絶対に訪れません。

私たちにとっての幸せの近道は、
神が聖書で語るような、
異質な者と出会い続け、それにより愛を求め、さらに愛で自分も豊かに変化するという、
開かれた温かい共同体を得ることです。

だから繰り返しますが、
教会共同体として、
血はつながってなくとも神の家族として、
共に生きていきませんか。
ぜひ。

十分の一というロゴスはすなわち十倍というロゴス

2010年12月17日 | 教会のこと
昨晩は木曜夜の集い

ここしばらくは
若者たちがたくさん集まっているので
わたしは遠慮させていただき
若者たちが自主的に
「共に生きる」具体をより豊かに経験し
「交わり力」が養われ
チーム・キリストとして成熟することを
うれしく見守っておりました


昨日は久しぶりに参加しました

参加者は青年6名と高校生1名とわたし

そのみんなで教会につながる若者たちみんなの名前をあげて
具体的に状況を覚えて
丁寧にお祈りします

そしてひとりずつ名前をあげていきましたら
なんと
40名

まず数にびっくり

いつの間に・・・


しかも毎週のように覚えているから
その40名がとっても近い距離感であることにびっくり


そして木曜日に祈るメンバーが40名にしっかり行き届いていてさらにびっくり

感動です


ここにも幾度か書いていると思いますが
わたしの持論として
一割がすべてとなる!
ということがあります

だいたいすべての時間の1割を礼拝にささげますが
そうすると生きるすべての時間が礼拝となります

収入の十分の一を献金しますが
すると全収入が神によって健康な財産となります

そして
仲間というのも
その十分の一が献身的に仲間を覚えていると
仲間全員が恵みにあずかるということが起こります

だから

7名の祈る者がいたら
40名に行き届くのは聖書の教えるひとつの出来事なわけです

そして

他者のために献身する者が一人ふえると
教会にかかわることになる者が十人ふえます

これホントです

ただ

献身した者たちがチームとなり
自分のイメージとか気分ではなくて
チームの交わり、言葉の行き来から生まれ出る事柄でもって
歩むときにのみ!

十分の一理論(逆に言えば十倍理論)
は成立すると思います

これを
聖書は聖霊の働きと呼ぶと思います

聖霊は
つなげてつなげてさらにつなげるわけです




さて

明後日19日(日)は
朝10時半から

ク リ ス マ ス 礼 拝


みなさん!!

ぜひ!!


では教会でお会いしましょう!!




そして今夜は
ホームレス支援機構・京都寄り添いネットの炊き出し

市役所前にて10時から

お祈りを

おでかけを

2010年12月16日 | 教会のこと
いよいよ19日(日)はクリスマス礼拝

朝の10時半からです

ぜひともいらしてくださいませ

そのまえに
12日(日)午後に開催された子どもクリスマスが
とってもステキでしたので
その報告を

まずはお集まりいただいた子どもたちと親たちに感謝
しかも
昨年、一昨年に引き続いて参加してくださっている親子がたくさんおられて
何かが響いてくれている
ということがわかって
とってもうれしかったです

手作りの人形劇は
台詞まわしも見事
バックミュージックのピアノも見事
裏方も見事

よく準備されたのがわかります

だから
人形劇を録画していく親御さんも

わたしの話は例年と一緒
「弱いが強い」
このフレーズを集まったみなさんに覚えてもらいたいというおはなし
久しぶりにかつて一緒に生活していた障がい猫のチャトラのおはなし
そして最後の5分はどうどうと親御さんにむけたおはなし

もはや競争で食っていく時代じゃあない!
他者を愛し信頼し受容しかかわるということで食っていく時代!
職業の数もみなさんのお子様が大人になる頃には
対人援助職がもっとも多くなっているはず!
子どもの競争を想定しての子育ては子どもを愛せなくなって親子関係が変になる!
子どもが愛する人間になることを想定するなら
親は子を徹底的に愛するのみでよし!
しかもそれが食っていくことにもつながるのだからなおよし!
キリストはそうやって私たちを愛し
さらに私たちが他者を愛せるようにする方!


礼拝のあとはゲーム
まずは参加者みんなで受付で配られた小さいシールを交換しあいながら挨拶して名前を覚えあうゲーム

いいねえ
教会常連の子どもたちがはじめての子どものところにすすんでいくではないですか

感動!

そしてつぎは恒例のびりびりゲーム

大きな大きなクリスマスプレゼントは
やぶってもやぶっても包装紙
みっつのチームにわかれて
それをやぶりたおして
中のプレゼントを出します

そして中からは大きなチョコレート
でもひとつのチョコレート

だからチームのみんなで分け合います
分け合うのが大事


そして部屋を移ったら
野の花会(女性会)のみなさんが
子どもたちのために
小さなホットケーキの上にバニラアイスがのっていて
そのアイスにプリッツがささっていて
さらにそのプリッツにポテコがたくさんひっかかっているという
とってもかわいくて
しかもとってもおいしいお菓子をつくってくれました

そして最後にサンタさんが登場

例年サンタさんはしゃべりません
遠い国の違う言葉の人
という設定なので
サンタさんは通訳者の青年に耳打ちして
青年がしゃべるという段取り
(サンタが声でばれないようにということなんですが・・・
 でも結局はばれるのですが・・・)


今年は
サンタさんはろう者
だからほんとにしゃべりません
耳元でこそこそとまねをして
通訳役の青年がうまいことしゃべります
息がぴったり
教会家族だからこその賜物

これも感動

でもやっぱり今年もサンタの正体はばれてしまいましたが

いいのですいいのです




話はもどって今度の日曜日の19日は
クリスマス礼拝が10時半から
クリスマス愛さん会が12時から
クリスマス祝会が13時半から
となっております

ぜひともおでかけくださいませ


今週は
祝会の出し物の練習などが教会でさかんに行われております
愛さん会の準備も着々とすすんでおります
今年も手作りの料理がこれでもかあ!というほど並びます


これからの時代は
ほんとに
教会のような共同体で生きるべきなのですなあ
(週末営業的教会ではなくて
 ほんとに共に生きているという日々他者のための活動をしている教会が
 これからの時代に必要なのです)


来週は
この場で

もういちど人間社会とは何なのか
ってことと
共同体の必要性を
考えて書いてみようかなあ



なにしろ
19日は教会へ



最初のドキドキ

2010年12月11日 | 教会のこと
明日からの週の週報巻頭言です。

つまり明日の週報にのっているものですが
明日の午後の企画のことに関連しているので
もう本日アップします。

****************

「最初の子どもクリスマス」

本日は子どもクリスマス。
今年で7回目。
私は初回の緊張を今も忘れません。
共にあのときに奉仕された方々も同じと思います。

当時は毎週教会に通う子どもはなく、
また外に向けた大きな企画を行うだけの奉仕者も足りない中で、
準備と当日のイメージがまったく浮かばないまま、
それでも「なにしろやろう!」という教会の思いの中で、
あふれる不安を抱える中、
しかし主に委ね、
たくさん祈り、
準備を続けました。

チラシを手分けして各小学校の前で配りました(今は学校前でのチラシ配布ができなくなりましたが)。
私は御所南小に行きました。

「今度の土曜日の昼1時からだからね」。
「サンタさんって来る?」
「来るよ?プレゼントもあるよ!」

配布中に小学生と会話をすることで私はホッとしました。
子どもたちは来る!と確信しました。

でも逆にもうひとつの不安が大きくなります。
子どもたちや親たちを迎える体制を教会が整えることができるか、
というものです。
なにしろ限られた人数でぎりぎりいっぱいの準備をしてきていましたから。

そして当日を迎えました。
開始1時間前からドキドキしつつ、玄関前で待ちます。

すると来るではありませんか。
子ども21名、親10名が参加してくれました。
まずみんなで礼拝し、
ゲームをSさんがリードし、
そして野の花会が準備してくれたクッキーをみんなで焼きました。

サンタさんは当時ホームレス生活をされていたJさん。

そして参加者の中に子どもへのDVで悩む親もおられ、この日からかかわることも生まれました。

奉仕者は8名。
野の花会4名と男性2名(共にホームレス生活者)と牧師夫妻。

ね!ぎりぎり感がわかるでしょ!

でも企画を終えて奉仕者は共通に思いました。
この主による幸せを教会員に経験してほしい!。

そして翌年より、日曜日の午後に開催することとなりました。

7回目の今年は奉仕者がこんなにたくさん!
奉仕者数が初回の参加者数と同じかも。
企画も丁寧で準備も見事!
人形劇からゲームまで全部手作りなんてアメージング

主の愛を知るからこその献身に感謝。

さあ午後にたくさんの子どもたちと親たちが訪れてくれます。

あの初回の新鮮なドキドキも追体験しつつ、
でも初回と違ってすでに積まれている経験を生かしつつ

主にあってたくさん子どもたちと親たちを迎えたいと思います。

この地域のために
よろしくお願いいたします。


和解と癒し その7

2010年12月07日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「和解は伝道!和解と癒し その7」

今年もクリスマスがやってきます。
主イエス・キリストが私たちの世界のために、その只中にお生まれになります。
私たちの世界、また私たち自身が有する混沌とした、殺伐とした状況や精神状態のどまん中に、
その苦しみを産みの苦しみとして全て抱えつつ、
主イエス・キリストが新しい命としてお生まれになります。

だから主の誕生を覚えることは決定的な救いとなります。

さて、当教会では
次週12日の午後に子どもクリスマス、
19日にはクリスマス礼拝と祝会、
24日はキャンドル・サービスを予定しています。

すでにいずれも平日も用いつつ準備が着々と進んでいます。

そして私は、準備される方々の表情と姿勢がとても美しいことを発見しています。

そのわけは何でしょう。
それは、
誕生する主が私たちの癒し主であり和解主であることを知るから、
その主によって神と他者とさらに和解し、
それにより私たちと隣人たちがさらに癒されることを
期待しているからに違いありません。

クリスマスは主により和解が起こります。

つまり人間関係が
本質的に深くなり決定的につながることが
主により!!起こります。

だから私はみなさんに提案します。
クリスマスの企画には、ぜひ友人、知人、家族をお誘いしましょう。

教会にどなたかを誘うという伝道の根幹は、私たち一人ひとりの信仰の根幹でもあります。
つまり、
すべての生命とは主により和解という形で、
愛し愛される関係となるという形で、
つながることを信じることが信仰です。

だから和解をなす主は、
キリスト者がどなたかを教会に誘い、連れてくることを起こします。

あとは
私たちがその主の声を聞くか、私たち自身の思いを優先するか
という問いのみ残ることになります。
そしてここの葛藤を、教会は歴史的に信仰のたたかいと呼んでいます。

ですから今後10年のテーマを「和解のつとめに仕える」に決定した連盟は、
同時に和解は伝道であることも確認しました。

和解は伝道!

これは極めて大事です。

ぜひ今年は、
例年に輪をかけて
友人、知人、家族に声をかけ共に教会に集うクリスマスにしませんか。


昨日今日 礼拝説教って?

2010年12月06日 | 教会のこと
昨日の礼拝説教の聖書箇所は
わたしは聖書の中で一番むずかしいろ思っているところ
ローマ11:11~

聖書箇所は
日本バプテスト連盟が発行している「聖書教育」誌にそっています

だから先週は説教作成に苦労しました

聖書を受けるところまではいくのですが
それを説教にするというところまでがむずかしい


結局
原稿もメモのなしで

一週間この聖書の言葉を祈りつつ読んだという経験のみで

講壇に立つこととなりました

そうなるとまずかならず起こることは
説教時間が長くなること

なりました

いつもは25分のところを40分


そして
手話通訳ができない表現を多用してしまうということ

通訳者が苦労されておりました

ごめんなさい


夕にいつものように若菜さんに説教の感想を聞きましたら
説教者の中で言葉が消化されていないんだろうなあと思った
ということでまさにそのとおり

でも
そのせいなのか
ずっと緊迫して聞くことができる説教だったという評価

うーんなるほど




午後の教会学校では
わたしはユースクラスに参加しておりますが

いやあいやあ

若者たちは最も大切な部分をしっかりと受け取ってくださっていました


説教の中身は

聖書の時代のローマにおけるユダヤ人と異邦人
70年前のドイツを中心としてヨーロッパそして地球全体のユダヤ人と異邦人
および現代のユダヤ人とアラブ人という異邦人
そして
日本に生きる私たちにとってのユダヤ人と異邦人

という
実はめちゃくちゃむずかしい歴史性を共有するというものでありましたが


歴史性がある!!!!

今年から大学生になった18歳コンビの説教感想は
説教から受けた今後の生き様から質問まで秀逸

また元ホームレスの青年は
このこむずかしい説教から見事に人生のあり方を語り脱帽


妻がリーダーを務める成人Cクラスでも
むずかしかったという感想とは裏腹に
分かち合いは豊かだったとのこと

また当教会の長老からは
礼拝終了直後に
「本日の説教はいつもにましてすばらしかった」
と仰っていただきもしまして・・・


説教ってなんなんだろうなあ


うれしく思わされたわけでした




午後は本日これからのホームレス支援
「寒い冬を一緒に乗り切ろう!焼肉大会!」
の準備

そして来週日曜日(12日)午後2時からの
子どもクリスマスの準備

さらに奏楽者の研修会

すべて祝されました


というわたしは
役員会でほとんど参加できなかったのですが・・・

役員会も祝されました



そしてただいまより

焼肉大会の準備が始まります

楽しみ!
ほんと楽しい!


ではでは








不幸の元

2010年12月04日 | 「生きる」こと
本日はなんと二つ目の記事アップ!!
これくらい毎日余裕があるとうれしいですが・・・
そうもいかず・・・



不幸の原因

それはイメージを固めてしまっていること
と最近思います

イメージトレーニングなんていうのが流行してまして
たとえばスポーツなどでは結果を出すのに大変有効ということですが

それは
相手を無視して
自分の思うとおりにすることを
求められているときにのみ
有効である

ということだと思います

あるいは
相手が苦しもうが困ろうが悲しもうが死のうがこっちには関係ない!

というときに
イメージトレーニングでイメージを固めて
それが身体にも確実に作用するようにするのは役立つだろうと思います。

だからスポーツをはじめ
受験や就職活動やコンピューターゲームや
仕事で企画を勝ち取るためのプレゼンなど

そういうのではイメージトレーニングは効果があるのだと思います

しかし
そのような効果があるということは
同時に

どこかの誰かに
苦痛や悲痛を与え
さらに死に追いやっている場合も多いということです

しかししかし
あらゆる他者との出会いを想定してのイメージというものをつくることもあろうかと思います。

しかししかし
それがうまくいくような出会いなんてのは
所詮イメージ内のことであり
出会いなんて呼ぶことすらできないものであるわけで

出会うってことは
出会いによってイメージが粉々に破壊されて
その出会いで予期せぬ新しい事柄を得るということでありまして

だからこそ出会いはすごいのでありますが

イメージを持つことは
出会いを阻害するわけです

そしてすでにイメージを持つというのは人間の癖になっていると思います

なんでも先を勝手に予想してイメージとし
予想通りにいかないとイライラしたり逆に落ち込んだりしているのに

なおもイメージをつくることに再チャレンジしたりして
とっても変だと思います

すっごく不幸だと思います


幸せになりたければ
イメージをつくらなければいいわけです

つまり行き当たりばったりでいいわけです

でもただ単に行き当たりばったりでは
すべては動いていきません

ならば動くための原動力は何か


愛なのです


行き当たりばったりで動くために
常にぶち当たる出来事や他者を徹底的に愛するというところから
すべてが開始され
それゆえに
ぶち当たった出来事や他者を
そのありのままになにしろまずは受容することができて

ゆえにありのままを知り
ありのままを理解し

そこから丁寧にはじめることができるわけでありまして

なにしろ愛なのです


しかし

イメージ化という癖を持つ私たち人間は
相当に気をつけていなければ
自分で
ぶちあたる出来事や他者を
イメージ化します

そしてそのイメージから解放されなくなります
凝り固まります

当然イメージ化されたものは
所詮
人間の範疇の
しかもその人ひとりという人間の領域内のことで

とっても
おそろしいほどに強烈に
狭い
ことなので

実はすぐにイメージは崩されます

しかし不思議なことに
人間はそのイメージが崩されないために
今度はがんばりはじめます

それは

イメージが崩されないように
出来事や他者にぶちあたらないようにする
つまり
出会いを拒絶する

あるいは
イメージが壊れないための
イイワケとアリバイをどんどん用意する

なんてことをし始めまして

どんどんどんどん
中身の中心の本質から遠ざかっていきます。



イメージは知識と経験からつくられていきます

だからイメージは狭いものであっても
それをつくるのに長けている人は
新しい知識と経験をどんどんイメージに反映できます

するとイメージはどんどん変化していきますし
そういう人はわりかし自由で
失敗も少ない人生を歩むのだろうなあと思います


でもそれでもイメージはやっぱり狭いものです

愛に比べたら取るに足らないものです


でもでもでも

人は本当に相当に注意しないと
もっとくだらないイメージに凝り固まって
先述しているように
イメージを壊すものと縁を切るか
イメージが壊れないように徹底抗戦することを選びます

そこでは不思議なくらいに今あるイメージが中心なので
新しい知識や経験を取り入れる力がなくなります
そこでは
今あるイメージを補強できる知識と経験のみ採用されることになります

そして
そのようなイメージ化を癖としてしまったとき

人間は

不信から考え始めるようになります
批判、非難から考え始めるようになります

まず敵を想定するところから考えるようになります

そして孤独になります


本当に共に生きる仲間を失ってしまいます

孤独に陥ります

愛がなくなるから・・・


だから
ますます
自分のイメージどおりに行くというところで生きがいを見つけるようになり
それを壊す可能性のある場や出来事や他者からは逃げて

さらに孤独になり閉じこもり
愛を失います



でも実は
こういうブラックゾーンに落ちた中で
いろいろと議論したり
先を考えたり
結論を出したりすることが多いです


もったいない・・・・・・・・・・


愛し
信頼し
受容し

そこで

まったく新しい予期せぬ事柄がうごめき始め
さらに産み落とされ

まさに新しい命として

出来事が
場が
人間たちが

動き出す・・・・

これぞ出会い!!
そして正義!!


イメージ
これは不幸の元



これこそ幸の元

ただただ愛でもって
まっしろけっけのまま
出会うままに出会うなかで

新しく生まれるものに期待する


信仰的にはこれを
聖霊の働きと表現するわけだったんです


となると
教会は
キリストによりイメージが壊されるためにあるようなもんです

そりゃあそうなんですよお
十字架とか復活とか終末って

人間の枠をはるかに超えていて
イメージ不可能なものなのだから・・・・

信仰者・キリスト者のみなさん

共に信仰者・キリスト者として
義しく歩むことができるよう
祈ってまいりましょうね

大切なこと

2010年12月04日 | 教会のこと

とあるバプテスト連盟に加盟している教会の
とある初老の男性の信徒に電話をしました

その方は教会を中心となって支えている方でありますし
このような方がいたら教会は健康だよなあ
と思わされる方ですが

留守でした


ご家族が出られて

教会の掃除に行きまして昼すぎに戻る

ということでありまして


わたし
感動しました

めちゃめちゃ感動しました



生き生きとして交わりが深く
プログラムも財政も
豊かになる教会は

中心の男性信徒が
掃除をする

ということなんです



私は青野太潮先生が大好きなのですが

それは
誰よりも早く教会に行って
ほうきを持って玄関前を掃除しているのを見たときに
先生の人柄の本質に触れ
感動したこと経験があるからです


そして
これは実は信仰的に大きなポイント


わが京都教会の次の教会形成の鍵になるような気がします


いやあ

電話してよかったあ

今一度大切なことに気づくことが出来ました


感謝

仲間のひろがり

2010年12月02日 | 教会のこと
本日は昼に四条にて人と会う約束をしておりまして

とっても天気がよかったので
途中まで自転車
自転車禁止区域からは歩き
で行ってまいりました

めっちゃ気持ちよかったあ



京都に来て12年

教会活動
および教会に連なる活動が
相当の広がりを持ってきた昨今

とてもうれしいことが起こるようになりました

それは街に出ますと
仲間の誰かしらに会うようになった
ということです

四条に行く途中
寺町どおりにて

Kさんにお会いしました
来週の月曜日のホームレス支援
「寒い冬を一緒に乗り切ろう!焼肉大会!」
にボランティアで行きます
と言って頂きました

感謝

四条からの帰りは河原町通りで
また別のKさんにお会いしました

今夕の教会の木曜の集いに行きます
と言って頂きました

感謝

そして教会に戻って机仕事

まずは百万人の福音の原稿の仕上げ

それを終えて
今度の日曜日の役員会の準備

来年度の計画とか予算編成にむけたものがあるので
結構大変

そして事務室に用ができていってみたら
電気が付いてまして
どなたかなあ
と思ったら

もうすでに
青年おふたりが

子どもクリスマス用の教材制作のためにやってきていて
絵の具を塗っておりました

体中がほっこりする光景で
ありがたい限りです


でも寂しがり屋の私はちょっといじわるに
「牧師室に声かけてくれればいいのに」
ってさみしげに言ってみましたら

とっても明るくさわやかな声で
「こんにちはあ」
って言って頂きまして

これまた感謝


このあとは木曜夜の集い


しあわせです


12月

2010年12月02日 | 教会のこと
今朝母子室に行きましたら
手作りの子どもクリスマス用の教材が並んでおりまして
胸いっぱいの幸せを頂きました

午後
当教会員の友人で東京の他教派の教会に通う私と同世代の方が訪ねてくださいまして
最近の東京の様子を聞くことが出来ました
東京を離れて15年
だいぶ変わっているようです

そして
たぶん東京での生活ももう出来そうもないです

できるとしたら開発されていない下町
かなあ


その方が当教会の集会室の様子を見て

教会がにぎやかで和気あいあいとしているのがわかる
と言ってくださいました

確かに部屋の様子を見ると
その部屋をどれくらいの人がどのように利用しているか
というのはわかります

わたしも以前に感動したことがあるのですが
長崎の五島のカトリック教会に行ったとき
平日ですので誰もいませんでしたが
いろんな世代がかなりの人数でしかも活き活きと礼拝を守っている
というのが見えてきました

というわけで
とっても褒めていただきました


しかし
牧師としましては

ウチの教会の家族たちは
まだすこし各々自分の殻やイメージやスタイルにこだわりすぎておりまして
本当はもっと近づいて交わり家族となり愛し合うことができるはず
ということがあるわけでして

褒めていただくのはもう少し先にしていただこうかなあと思ったところです



今日も教会のおばあちゃんが
クリスマス案内を教会に取りに来られて
地域に配りに出かけられました

感謝です
感動です

これが信仰で
これが恵みだなあ

と教えていただきました

いよいよ12月


クリスマスが今年も楽しみです

なんだか年々楽しみになってきます

そのわけは

京都教会の仲間たちが
自分のためでなくて
(身内や内輪のためではなくて)
他者のために
まだ見ぬ隣人のために
クリスマスを用意できるようになってきたから


しあわせですなあ

というところで
おやすみなさい