きぼう屋

生きているから生きている

利用から交わりへ

2008年08月31日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

*****************


「死者との交わり」

ペシャワール会で奉仕する伊藤さんが、
現地アフガニスタンで殺された。

共に歩まれていたご家族、
ペシャワール会や
現地の千人にものぼる仲間たちの
悲痛を覚える。

ペシャワール会は、
キリスト者の医師、中村哲さんが中心となり、
冷戦の戦場となったアフガニスタンで苦しむ人々のため、
医療や看護を提供し、
また荒れ果てた土地の再生のため、
井戸や畑をつくることを担うNGOだ。

長い年月をかけて、
現地の人々との信頼関係を生み、
活動が祝されている。

しかし、
新世紀に、
再びアフガニスタンは戦場となり、
それは今も続く。

その戦争に、
日本も
後方支援というかたちで参加する。

そして戦争は、
今回も、
国、地域間を
単純に憎悪で満たす。

戦争でまず壊されるのは、
長年の関係から生まれる愛と信頼だ。
戦争の本質は、愛と信頼を壊すことだ。

そして関係が壊されると、生命も壊される。

これが、伊藤さん殺害の背景だろう。


伊藤さんのご家族やペシャワール会の仲間は、
伊藤さんの死を丁寧に受けていることが
報道からもわかる。
彼らは、
死者となった伊藤さんとの交わりを受け、
今後の歩みを決断している。
愛と信頼で結ばれた生者と死者は、
このようにして、
十字架の悲痛のうちに復活を受け、
共に歩み始める。

しかし、
世界と歴史を見渡すならば
愛と信頼抜きに死者について語るケースが
愛と信頼で結ばれるものよりはるかに多いことを
知らされる。

つまり、
死者との交わりを生きるのではなく、
死者を利用するケースが
歴史に
これでもかとあふれている。

今回も、
日本政府や一部の政治家が、
伊藤さんの死を利用した。

彼らは、
伊藤さんを殺したところの、
テロリストと呼ばれる者たちを全滅させるため、
後方支援という戦争協力を続けるべき
と、伊藤さんを利用しつつ語った。

平和においては、死者との交わりが生まれ、
戦争においては、死者利用が起こる。

これは銃を持つ兵隊のいる状況のみならず、
日常の生活でもあっけなく起こる。

だから日常生活を丁寧に省みたい。
そこにもし死者利用があるなら、
それは戦争の本質で生きることでしかない。
また神利用、他者利用があったなら
それも戦争の本質で生きていることの発見だ。

わたしたちは、
キリストの平和、
つまりキリストの真の関係に生きる決断を新たにしつつ、
死者、神、他者との交わりに生きる決断を強くしつつ、

だからこそ
伊藤さんを覚えて祈りたく願う。


キャンドル・ビジル

2008年08月30日 | 平和のこと
明日の夕暮れに集まり祈ります
以下転載

~~~~~~~~~~~~
「ペシャワール会の伊藤和也さんの死と、
これまでに亡くなったアフガニスタンやイラクの人々を思って。」

2008年 8月 31日(日)
キャンドル・ビジル
午後5時~7時
三条大橋 北側 東詰め周辺集合
主催:ピースウォーク京都
連絡先:090-6325-8054

キャンドルを灯し、亡くなった方たちに思いをはせ、
街に立って、意志表示しましょう。

自分でプラカードを用意できる人は作って来てください。

~~~~~~~~~~~~
また一つ命の火がかき消されてしまった。
先頃にもイラクで、90名もの女性とこどもの命が奪われてしまった。
それらは、単なる死ではなく「殺されてしまった」という死。
誰であろうとどんな理由であろうと、殺すことは暴力でしかない。

アフガニスタンやイラクだけではない。
パレスチナやチェチェン、中国、比べることもできない。
世界中で起こる戦争や紛争、暴力が暴力を生み出す連鎖を止めたい。

昨年の夏、ペシャワール会代表の中村哲さんは、
こんなメッセージを発信した。
「殺しながら助ける」支援というものがあり得るのか。干渉せず、生命
を尊ぶ協力こそが、対立を和らげ、武力以上の現実的な「安全保障」に
なることがある。これまで現地が親日的であった歴史的根拠の一つは、
日本が他国の紛争に軍事介入しなかったことにあった。他人事ではな
い。特措法延長で米国同盟軍と見なされれば反日感情に火がつき、アフ
ガンで活動をする私たちの安全が脅かされるのは必至である。繰り返す
が、「国際社会」や「日米同盟」という虚構ではなく、最大の被害者で
あるアフガン農民の視点にたって、テロ特措法の是非を考えていただき
たい。

それから1年、「殺す」ことではなく、誰よりも緑の大地の回復を願っ
た若者が犠牲になった。

私たちは、何をしていたのか、自らを問いたい。殺された命を悲しみ、
もう一度、最初の一歩に立ちたい。

軍隊で「平和」は創れない。

~~~~~~~~~~~~~~~~

アフガニスタンで現地ボランティアとして5年、一番経歴が長かった
伊藤さん。
現地の言葉も覚え、現地のこどもたちもかけ集まって来るほど、
親しまれながら、農業スタッフとして働いておられました。
ペシャワール会ホームページにある現地からの農業報告には、
報告の合間の文章にユーモアが溢れ、
伊藤さんの人柄が垣間見れます。

旧ソ連の侵攻に続き、大干ばつ。400万人が飢餓線上と言われ、
今も干ばつは続いています。そしてアメリカの侵攻と空爆。
たくさんの民間人が殺されてしまいました。
自給自足の農業国と言っても良いほどのアフガニスタンで、
難民となった人々のほとんどは、干ばつと、戦闘や空爆のために
畑を失い村を捨てざるを得なかった人々でした。

診療所で、病に倒れるより先に、水がなくて衰弱して死んでゆく人々を
生かすため、井戸を掘り、水利事業を進めていたペシャワール会の
活動に伊藤さんは参加されたのでした。

駐留するアメリカと諸外国の軍隊は、
自給率が6割以下に低下し、食糧危機に陥っている
アフガニスタンに対し、何もできていません。
ただ自分たちの軍事力を強化するだけです。
本当の復興は、少しでも現地の人たちの手で現地の人たちの生活を
取り戻せることであるのは明白であるのに、
そして、ほとんどの戦闘が外国諸国の軍隊のいるところで
起こっているのに、尚も駐留し続けています。
しかもアメリカ軍による「誤爆」の連続。アフガニスタンの人々の、
アメリカ軍や外国軍への怒りは日増しに高まっています。
そんな中、ペシャワール会は「丸腰で」干からびた土地に運河を通し、
緑の大地を復活させてきました。

治安が悪いという状況はあります。
しかし、悪化したのは何故でしょうか。
世界各国は、干ばつに手を差し伸べることをしたでしょうか。
報復戦争を始め、たくさんの民間人をも殺したアメリカ軍と、
その戦争と占領を支援し続けている外国諸国の
横暴があるからではないでしょうか。
伊藤さんの捜索に現地の人々が1000人もあたったそうです。
何が「支援」であるかというその答えは、現地の人々の胸にあるで
しょう。

日本はこれから何をするべきか、世界は何をするべきか、
私たちは何をするべきなのか、追悼すると共に静かに考えたいと思い
ます。
伊藤さんの遺した温かい思いを、みんなで分かち合いながら。

ペシャワール会ホームページの伊藤さんの記事
http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/inochi/inochi-r%20124%20a.htm

ペシャワール会ホームページ http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/


祈り

2008年08月29日 | 「生きる」こと
オバマが大統領候補になったということで
演説しましたが
その演説内容からなにかを考える
というほどの演説ではなく
しかし
マケインとどちらがいいか
というなら
オバマということになりますが

なにはともあれ
あの集会における
といいますか
アメリカの
キリスト教の多くの大会もそうですが
あらゆる大会における
同じパターンの
人間集団の姿



悪しき宗教

だなあと
こわくなりました


もうひとつこわいのが

オバマの演説日が
キング牧師が「わたしには夢がある」
と語った演説日と同じということで

オバマとキング牧師とを重ねたり
オバマが大統領候補になったことが
キング牧師の願いがかなうこと
と言ったりされていることです

つまり
キング牧師という死者が利用されているのが
とてもこわいです

わたしがキング牧師のことを学んだ範囲だけでも
とりわけ
ベトナム戦争に反対した姿を知るだけでも

キング牧師は
たとえアフリカ系アメリカ人が候補になったとしても
あの悪しき宗教性がある中では

ハレルヤ

とは言わないだろうと想像します


むしろ

キング牧師が残したたくさんの文字と
キング牧師について書かれたたくさんの文字から
わたしが想像するのは

今の状況なら
アメリカの大統領候補より
アフガンで殺された伊藤さんに

キング牧師は
祈りをあわせるだろう
ということです


伊藤さんと出会うことがゆるされ
伊藤さんと別れる時を迎えた
伊藤さんのご家族
ペシャワール会の仲間たち
中村哲さん
アフガンの仲間たち
を覚えて祈ります

同時に
伊藤さんの死が
国家に利用されないことを祈ります


キング牧師という死者を利用する
アメリカの大会も
伊藤さんの死を
海外派兵継続のために利用する
日本の政府や政治家も

死者を利用するという
死者の国家や自分への同化
同時におこる
同化によるニセの歴史づくり



同化という
他者
他国
他地域
を消すという行為

つまり

戦争行為そのもの

をしていることを
捉えねばならないと思います

なにしろ
祈ります

納涼祭はもう一度

2008年08月27日 | 教会のこと
今週の日曜日もしあわせでした

礼拝の聖書箇所は
ヤコブがエサウに変装して
イサクから祝福を奪い取る
という物語

自分で納得がいったからといって
それはまったく意味をなさないのですが

久しぶりに
自分で納得のいく説教となりました

祝福というときの
神の基準と人間の基準
そこからみる
親子の関係性と教育
ミッションスクールの教育

それぞれのテーマを掘り下げることができました

午後は
10年ぶりに新しくなった教会案内を
地域に配りました

東京の教会から
京都旅行に来ていたAさんも
当教会員かのように
一番たくさん配ってくれました

Aさんは
教会学校のリーダーもしてくれました

当教会は
お客さん
というジャンルをなくした教会でして
(というのは
 みんながお客さん
 というのが基本の教会でしたので
 ここが改革のポイントでした)

ご本人がお客さんを希望しないかぎり
こんなふうになるわけで
これはうれしいかぎりです

来たらみんな仲間なのです


また
かつてわたしも生活していた自由が丘の単立教会から
献身し神学校で学ぶご家族も来てくれました
たくさん祈ります


チラシ配布後は
炭をおこして
教会の庭で
納涼祭でございます

とある大先輩より
そのための献金もいただき
会費以上のおいしい肉を食べることができました

なにしろ楽しかったです


あまりに楽しすぎたので
二週間後の9月第一週に
有志でもう一度しようか

ということになりました

発熱して出られなかったSちゃんや
帰省していて出られなかった若者たちもいるので

こんなに楽しいことを
彼らに味わってもらわないわけにはいかない!

ということになりました


といったところで

またあした

2008年08月26日 | 「生きる」こと
ブログ更新をしない時期を過ごしたら
そういう時間を取るのが面倒になるというか
毎日時間を取ることの大変さを
思い知らされておりますが

このあたりで再開しないと
続かなくなるだろう
と思いつつ

昼休みに時間を取っております


昨日
我が家の車が変わりました

といいましても
またまた中古のステップワゴンですが

(我が家が中古でないとだめなのです
 経済的にもそうですし
 子どもががんがんよごして傷つけますし
 ホームレス支援で
 なべがこぼれたりしますし)

いいのが見つかったので
思い切って買いました

前のがもうすぐ車検でして
もうぼろぼろですから
けっこうなお金が必要なこともわかっていまして

クラクションが壊れているし
ブレーキのディスクもやばいのがわかっているし
フロントガラスに傷が入っているし
エアコンは半分壊れているし
CDも壊れているし


ってな時に

今の中古相場の6割ほどの車体価格で
売られている今の車に出会いまして
しかも車検も1年半残っておりますし

買ったわけです


また買い換えるなら今
というのもありまして

つまり
そろそろ日本のぼくらの多くが
貧乏を隠せなくなるので
中古車が値上がりすることが予測できますし
(既にだいぶ上っていますが・・・
 新車も値上がりするからなおさらです)
今なら
ぼろぼろの車でも
鉄材として売れるので
かなりの値で引き取ってもらえますし

いいのと出会ったら
買っておくべき時期なのだろうと
思うわけです




昨晩はみんなでドライブということで
hana
まで行きまして
ごはんもそこで食べました

すると嬉しいことに
ウチのホームレス支援でボランティアをしてくれている高校生たちが
同じ場所で
夏休み最後を
仲間で過ごしていまして

アー!ワー!オー!キャー!
でございまして

ここに来てよかったねえ

しみじみワカナさんとうなずきあったわけです

30日の支援にも来てくれるとのことで
えらく嬉しいです


といった
今月最後のお休みを過ごしました


本日はこれから
教会の祈祷会に来られたみなさまが
その車に乗って
教会墓地の清掃に行きます


その帰りに
落ち着くし
おいしい喫茶店があるので
そこでケーキとお茶を楽しんでくる予定です


では
またあした

キリストの平和

2008年08月22日 | 教会のこと
8月17日の週報巻頭言です。

****************


♪キリストの平和が
 私たちの世界の
 隅々にまで
 ゆきわたりますように

今月の礼拝で歌っている子ども讃美歌です
(一部歌詞を変更しています。「心」→「世界」)

我が家では3歳の憐くんが毎日歌っています。
3歳でこの歌を口ずさめるのはうらやましい限りです。

本日は、
63年前の戦争で、
被害者となり加害者となった私たちが、
そのゆえに
アジアの二千万人、日本の三百万人が殺されたということを、
もう二度と起こさないために、
キリストの平和の到来を
心底真剣に祈る礼拝を持ちます。

キリストの平和は
世界の隅々にまで行きわたります。
そして教会、キリスト者は
それを証言します。

今年も8月6日に、
広島の秋葉市長が平和宣言をしました。

本日はその宣言より二つの言葉を分かち合いたいと思います。

ひとつめはこの言葉。

「被爆者が永遠に忘れることのできない
 地獄に消えた声、顔、姿を
 私たちも胸に刻み、
 『こんな思いを他の誰にもさせない』
 ための決意を新たにする日」。

神に赦されて生きるキリスト者の歩みは、
この地獄を二度と見ない堅い決意であり、
そのためにこの地獄と、
地獄で十字架を背負い続けるキリストを
そこまでして
地獄を選択した私たちを赦しつつ、
平和への道を用意されるキリストを、
絶対に忘れることなく語り継ぐ!
というものでありましょう。

この語り継ぎは、
キリスト教会が歴史を通じて大切にしている
「証」そのものです。

ふたつめはこの言葉。
「悲劇と苦悩の中から生れた
 『核兵器は廃絶されることにだけ意味がある』
 という真理」。

核兵器は国家防衛の砦です。

私は、若者の愛国心のわけを調べる中で、
彼らが国家の強さが自己の強さで、
国家防衛が自己防衛であると信じていることに出会います。

つまり、彼らの発想から言うなら核兵器は自己防衛です。

ならば、
核兵器廃絶という意味のみに真理がある
とは何なのか?

それは、
自己防衛からキリストの救いへの解放であること、
自己は神により守られ
キリストにより隣人、隣国と
どんなに摩擦があれどもつなげられる!ということ、
この信仰こそが真理!
というキリスト信仰と重なるものである
と私は考えます。

共にキリストの平和を歩みたく願います。

諸諸

2008年08月22日 | 「生きる」こと
本日から小学生組は登校です
夏休みは昨日でおわり

わたしのときより2週間ほど休みが減っておりまして
(終わるのははやく
 始まるのはおそくなっているのです)
かわいそうなかぎりですが
本人たちは比較対象がないからか
なんでもないようです


しばらくブログを更新できませんでしたが
この間は
通常のすべきことのほかに
息子たちの自由研究などのお手伝いと
夏休み最後ということで
(さらに憐くんの保育園も休みということで)
日中に時間をとって
一緒に過ごしたり
オリンピックを観たり・・・



ブログを更新する時間をとりませんでした

今夏
息子たちは
なにしろ広島が衝撃だったらしく
広島を基準にいろいろと考えています

たとえば昨日の昼は
京都10年目にしてはじめて
京都タワーに上りましたが
真下に
近鉄デパート跡地が広がっておりまして
それをみた共くんは
原爆でこうなったん?
というところから考え始めておりまして・・・

空くんの自由研究は
広島で聞いた話や見て考えたことをまとめる
というもので
自由工作は
原爆ドームの象徴的な部分を
つまようじで作るというもので・・・

どちらもなかなかのもんです

わたしもだいぶ手伝いましたが
これくらいの手伝いなら
空くんがやった!
と言えます


話は戻って京都タワーですが
昨日は視界良好で
いろいろと見えました

タワーから我が家の方を見ていましたら
我が家のあたりに雨が降り始めたのがよくわかりまして
干してきた洗濯物を心配しつつも
雨の場所と晴れの場所の境い目を見ることができたのが
わたしとしてはとても面白かったです

遠くの大阪のビル郡もよく見えました
近くのビルの屋上で休憩するサラリーマンもよく見えました


一昨日の昼は
わかなさんがおにぎりとから揚げをつくってくれて
それを持って
鴨川河原に出まして
みんなで食べました

言ちゃんが生まれて以来
家族全員で外に出るというのは
はじめてです

言ちゃんは
ときどき笑顔を見せるようになり
声を出して応えようとしてくれるようになりました

だから
親もお兄ちゃんたちも
いつのまにか言ちゃんのまわりに集まります

今年は
ヒロトくんのところも
サクラちゃんのところも
女の子が与えられまして

またみんなで会えたらいいなあ

願っております



平和交読文2008

2008年08月16日 | 教会のこと
明日の「平和を祈る礼拝」でみんなで読みます

***********************


日本バプテスト京都教会平和交読文2008

<注>
当交読文は、2008年7月20日、21日に開催された平和の旅in広島の参加者による感想文をもとに、できるだけ感想文に書かれたことばを用いつつ作成されました。そのため、小学生によることばから大人による多少むずかしいことばまで、統一されることなく混ざりつつ盛り込まれています。また、文中で読まれる聖書箇所も、感想文からのものです。




(司会者) 神さま。2008年の夏、わたしたちは、平和の旅として、広島に行きました。

(会 衆) 旅から受けた、わたしたちの思いを、神さまの前で、言いあらわします。


(司)原爆は、すごくこわいです。

(会)原爆は、たくさんの人を、痛い思いや、悲しい思いにしました。


(司)原爆は、一瞬のうちに、人も、家も、町もつぶすので、絶対に、落としてはいけません。

(会)原爆は、地球を壊すので、全部なくさなければ、なりません。

(司)原爆でやけどをし、皮がはがれ、肉がむきだしになっている人が、とても痛そうでした。

(会)今もなお、後遺症で、苦しむ人たちを、わたしたちは、忘れません。

(司)核兵器は、次の世代をも、苦しめます。

(会)わたしたちは、世界中に、核兵器の影響で、痛みを抱える人がいることを、覚えます。



(司)原爆で、たくさんの人が死んだことを知って、とても悔しかったです。

(会)神さまは、原爆で、人が死ぬことが、嫌いです。



(司)戦争は、人間の自由と尊厳を、引き裂きます。

(会)戦争が生み出すのは、憎しみ、悲しみ、破壊、そして、人のうめきです。



(司)戦争は、人をたくさん殺して、人がたくさん死ぬから、とてもいやです。

(会)世界の中の、たったひとつのいのちも、殺されてはいけません。

(司)「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。」と、イエスさまは、教えてくださいます。

(会)でも、わたしたちは、憎しみあい、傷つけあっています。

(司)戦争をしてはいけない、と知りつつも、身近な争いを繰り返します。

(会)戦争の悲惨さを知りつつも、日常に追われ、何もできない、わたしたちがいます。

(司)神さま、わたしたちが、世界中の隣人を、愛することができるようにしてください。

(会)神さまからの愛により、二度と戦争をしないように、導いてください。

(司)神さまは、戦争が、嫌いです。

(会)わたしたちは、戦争に反対します。



(司)わたしたちは、戦争で起こったことを、風化させたくはありません。

(会)戦争の事実を、伝える熱意を、風化させたくはありません。

(司)でも、わたしたちは、戦争や、原爆被害の悲惨さの前で、空しくなり、沈黙します。

(会)神さま、伝える言葉を失うわたしたちに、言葉を備えてください。

(司)戦争で起こったことを、語り継ぐことができますように。

(会)空しさを突き破る、平和の歌を、歌うことができますように。



(司)わたしたちは、神さまの憐れみを、信じます。

(会)わたしたちは、神さまから、力を、いただきます。

(司)わたしたちは、平和のために、忘れません、覚えます、考えます。

(会)わたしたちは、平和のために、伝えます、奉仕します、祈ります。

(司)わたしたちは、平和の学習で、満足せずに、平和を求めて、活動します。

(会)わたしたちは、世界各地で起こっている、戦争や紛争が、わたしたちと、かかわりがあることを、覚えます。

(司)平和とは、楽しくて、うれしいことが、いっぱいあること。

(会)平和とは、毎日、あたりまえに、ごはんを、食べられること。

(司)平和とは、イエスさまの足跡を、たどること。

(会)平和とは、感謝し、悔い改め、伝道すること。

(司)神さまは、みんなの笑顔、やさしさ、勇気が、好きです。

(会)核兵器を持たない勇気こそ、本当の勇気です。



(司)「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」と、イエスさまは、教えてくださいます。

(会)イエスさまこそ、平和を実現させるお方です。


(全員) わたしたちも、平和を実現する者たちとして、イエスさまに従い、みんなで、一緒に、歩みます。

このごろ

2008年08月13日 | 「生きる」こと
言は
抱きぐせが見事につきました
女の子の顔になってきました
体重もぐんぐん増えていまして
言姫関
とも呼ばれています

憐は
こわくなってきました
「とも!ぶっとばすぞ!」
「そうくん!ころすぞ!おまえ!」
とか言います
どこで覚えるんでしょう?

添は
これまでなぜか敬遠してきた
自転車でしたが
小学校に入り
友達の家も遠くなり
またお兄ちゃんとつるむためにも
自転車が必要になり
共くんの誕生日に
添くんも自転車を買ってもらって
練習したら
数分で乗れるようになりました
空くんの指導もすばらしかったです

共は
誕生日を迎えて
自転車を買いました
盗まれてしまったからです
誕生日の晩は
好きなものを食べることができるのですが
今年はマクドでした
共くんは言ちゃんがうまれて以降
とてもお兄ちゃんになりました

空は
ようやく夏休みの
自由研究と自由工作の
やることが決まりました
なかなかいいものをすることに決めました
たいしたもんです

といった
このごろです

死者 その弐

2008年08月13日 | 教会のこと
さて
生前まったく会ったことのない死者について
わたしは知ることはできないのか

と問うならば

知ることができる


信仰に生きる者として言わねばなりません

その根拠は

聖書の中のたったあれだけの物語で
イエス・キリストを
わたしたちは知る

というところに見出します

イエス・キリストのみならず
信仰の先輩たちをも
聖書から知ります

ならば

教会共同体の
会ったことのない先輩を

知らないとは言えません

しかし
知らないといってしまうほどに
そういう先輩の物語が語られていない
というのは

別問題ですが
大問題だと思います


あと
信仰認識というところを通らなくても

生前に会ったことのない死者を知る根拠もあります

それは逆からの問いにより成立すると思います

つまり

毎日のように会っている人を
わたしたちは
本当に
知っている!
と言えるのだろうか

という問いから考えたいわけです

すると
厳密に問うほどに
知らない!
と言うことしかできません

つまり
わたしたちは
生者のことも死者のことも
会っている回数にかかわらず
知っていない!

という結論をいただくところから

その結論は
そのままひっくりかえるかたちで

わたしたちは
生者のことも死者のことも
会っている回数にかかわらず
知っている!

となるわけです

実は
わたしたちの
知っている!
というのは

こういうかたちで
知らない!がひっくりかえったかたちで
起こされているわけです

それでもって
精密な計算もしているわけです




このひっくりかえりの根拠として

わたしは
キリスト者として
キリストの十字架と復活
創造と終末
を受けているというわけです


といったところで

おしまい


死者

2008年08月12日 | 教会のこと
先週土曜日の記念会もそうでしたが

わたしは牧師として
生前に会ったことのない方の記念式を執り行う
ということを繰り返しています

おそらくわたしの世代の牧師は
ちょうどこのテーマと向き合わねばならない
ほぼ最初の世代なのだろうと思います

死と死者について生者はなにも語ることが出来ません
だから
死者の生前の物語を伝え聞き語り継ぐしかできません

しかし
その作業があまりにも重要で
あまりにも生者に影響を与えます

生者は死者の物語をも生きて初めて生きていると言えるほどです

しかもたくさんの物語を受けているほど
活き活きと生きているとも言えるほどです

しかし

だからこそ全地球的問題として
死者利用が行われるのだと思います

死者の物語が美化されるわけです

でも
逆から問うと
美化されない死者の物語を
(あるいはそもそも
 自分の過去の物語を美化せずに)
わたしたちは受けることができるのでしょうか

結論から言うと
できない!
と思います

でも
できる可能性もあると考えます

その可能性が信仰であり
キリストの赦しに応える
あるいは
神にさばいてもられるからこそ語る
という倫理なのだろうと思います。

キリスト教会は
死者の物語を
美化せずに語り継ぐ

という行為ができたなら
その教会共同体は
具体的に永遠だと思います

でも
美化して語り継ぐなら
永遠が分かち合われない教会となるだろうと思います

そもそも死者が語り継がれないならば
それは
教会だと思い込んでいても
すでに教会でないところの
別物の集まりです


伝道というのは
死者のありのままの語り継ぎだと思います

そこで
死と死者ということを
初めて語ることのできる教会となるだろうし

そもそも宗教が死と死者を語ることができなかったら
やばいわけでもあります


物語の語り継ぎではなく
単純な原理で死と死者を語る場合が多くなりますが
そうすると
脅しと洗脳が
笑いが止まらない状態で教会に入ってくるわけです



死者の生前の
ありのままの
醜く汚く弱いところを語るということは
実は同時に
その方の
神の思し召しのまま
をも語らざるをえない
ということだろうと思います

つまり終末論的希望からも
語るしかなくなるわけです

これが応答倫理
とうわけなのですが・・・



日曜日は
たまたま「聖書教育」誌による聖書箇所が
アブラハムがサラの死を痛み
墓を異国の地で設ける
という場所でありましたが


これぞ
死者を想起し続ける応答倫理
すなわち
終末論的希望
なわけなのだろう
と読まされました


生きることにとって
最も本質的なテーマは
死者
なのですなあ




漬け込む

2008年08月09日 | 教会のこと
本日は

昼に結婚式
夕に記念式

でございまして

祈って祈って
役割にあたりたいのであります

昨日いくつも記事を書けたのは
本日の準備と
さまざまな業者さんの出入りなどあって
一日中教会にいたからで・・・

気分転換のときに
記事を書いていたわけですが・・・


結婚するおふたりとご家族
故人を記念するご家族
と共に
また
ご家族のために

全身全霊を注ぐ
といいましょうか
いのちをかける
といいましょうか

この感触はなんと表現したらいいのでしょうねえ

自分のすべてをそこに漬け込むというか・・・

結婚という事柄に漬け込み・・・
死者との交わりという事柄に漬け込み・・・

といったことを
ぜひともさせていただきたく願うわけです

説教をつくったりというのは
そんなに大変ではないのですが
この
全身全霊
というか
漬け込む!
というものは
知識と知恵と心身を極度に集中させることを要求するので

なにしろ祈って祈ってやらせていただくわけです

信仰的に言うなら

キリストによってつなげられることに集中する・・・
その十字架の生々しい働きに集中する・・・

といったところでしょうか



これぞ恵みで
これぞキリストの体!!


ではでは



2008年08月08日 | 「生きる」こと
洗濯機で一緒に洗ってしまったところの
本当は洗ってはいけなかったもの

というのは
どのお宅でもあるわけですが

ついこの前
わたしは車のリモコンキーを
ポケットから出し忘れて
洗ってしまいました

でリモコンが効かなくなってしまいました



息子たちの鍵や財布はしょっちゅうですし
紙おむつが洗われてしまうこともけっこうあります



今朝は

すごいものが

出てきました

それは

なんと











筆箱です

息子が学校で使っている筆箱です

もちろん
中身のセットもそろっております
鉛筆に消しゴムに
フエルトペンまで・・・


なんで????

いまだ
なぞです・・・

和解への旅路 その参

2008年08月08日 | 教会のこと
今年の少年少女大会も

とってもうらやましいぃぃ!!

というものでした

分団リーダーをつとめたほかの仲間と

少年少女で参加したいねえ!

とマジで話しておりました



わが連盟は今後とっても楽しみなわけです


というのは

少年少女大会や青年大会の
中身がどうであったかということが

その後の連盟の牧師や信徒
教会に
反映されていることを

社会学的に見て取れるだけの
歴史もあるわけだからです


そのあたりからいうと
こういう少年少女大会を経験した世代からは
相当の人材がでてくる
ということにもなろうと思います


だから
僕らは今から
そういう人たちと共に宣教するために
祈り期待し準備しつつ待つことができて

とても幸せなわけです




中身として昨今何が起こっているかというと

まず
講師が
人の生と死
複雑な関係性と物語
の現場で
繰り返し困窮を背負い
悲痛に涙しているという人たちである

ということがあります

だから
抽象的になりようがない!
というのは大きな出来事です


ふたつめとしては

讃美の内容が大きく変化している

ということがあります

抽象的な気分的なものを連呼する讃美
から
具体的な現場を想起せざるを得ない讃美
その具体的な中で神を受ける讃美
へと
変化しているのも大きな出来事です

だから少年少女の盛り上がり方が変わってきていると思います
音楽のリズムに乗るという盛り上がりではなくて
讃美の波に打たれ結果として互いにつながる喜びを知るという盛り上がり
(という表現で伝わるかなあ)
に変わってきたと思います


このあたりは
かつてはリードする大人たちが
なぜか興奮し酔うという場面が多く見られたけれども
(かつては
 興奮してしゃべる分団リーダーや
 讃美で少年少女よりも目がいってしまっている大人に
 どう付き合っていいか
 というところが
 大会の奉仕をする最大の悩みでもあったわけで・・・)

そういうのがなくなっているというところで
よくわかるかなあ
と思いました

これもやはりでかい出来事だと思います


この30年ほどは
興奮し酔うスタイルの集会方法が
アメリカや韓国から輸入されておりますので

実はそれか解放されるというのは

結構たいへんなことでもあろうと思うわけです


わたしは
こういうあたりに
スタッフの凄みを見ます

相当真剣に
キリストの本質を
祈り考え
大会を準備してきた結果なのだろうと思います

感謝感謝なのです


といった大枠をまず書き留めておいて
次回からは
細かいところの嬉しいところを
忘れないうちに書こうと思います

ではでは