きぼう屋

生きているから生きている

あなたの罪は赦された

2012年01月30日 | 教会のこと
日本バプテスト京都教会の今週の週報巻頭エッセイです。

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「あなたの罪は赦された」

せっかく教会と出会い、主イエスと出会い、神に出会ったのだから、
私たちは信じるべき事柄を信じたい。

それは、
主イエスが十字架にて私たちの罪を身代わりとなって背負い、
主イエスが裁かれることにおいて、私たちの罪が神により赦されたという事実である。

今も主イエスは私たち一人ひとりの日常生活の鍵となる場面で宣言される。
「あなたの罪は赦された」。
そして私たちはその宣言を受け、信じ、赦された者として生きることができる。

私たちは心から本気でこの宣言を信じ、赦された者として歩みたい。
赦されているという大前提を心身の隅々にまで行き渡らせて、
さわやかにやわらかく深く豊かに、そして明るく幸せに歩みたい。

信仰とはそのような歩みである。

しかし、一般論として、
今、たとえば教会にはじめて足を運んだ方はどのように思うだろう。
元気がなく教会運営が厳しいと日本の教会界が自己評価しているくらいであるからして、
恐らく多くの教会は、どんよりとし、堅苦しく、暗いと思わせてしまうのではないだろうか。

私は、教会は丁寧に自己分析し悔い改めねばならないと常々思う。
教会の衰退は、教会が信仰を歩んでいないからに他ならないと考える。

私たちの罪は赦された。

この事実が具体的に私たちにどのような歩みを備えるかというならば、
それは、既に赦されているゆえに、自らの罪を一つひとつ丁寧に担うことができるという歩みである。
またそればかりではない。
同時に、他者の罪をも引き受けることができるという歩みである。
赦しを信じる者は、そのようにして自らの、そして自らの生きる仲間と歴史の罪を、
ある意味堂々と担うことができる。

そして他者の罪を引き受けるとき、同時にその他者の苦難をも引き受けることとなる。
大震災における被災者の苦難の引き受けは、被災者の罪の引き受けと決して別々に起こりはしない。
ただ罪と苦難の議論はここではしない。
本日は、罪を担うこと、十字架を背負うことが、信仰者のみに可能なことであることを分かち合いたい。

赦された者のみ!が罪を担うことができる。
しかし赦しを信じられないとき、逆に罪を放棄し、他者になすりつけることが起こる。

教会は「個人」を見出した。
キルケゴールが十字架を「単独者」として背負うことを信仰と呼び、
赦された者は単独で罪を担うことができることが発見され、それが「個人」とされたのだ。

しかし近代の「個人」は異なる。
罪というテーマのないところでの自己発見、自己実現、自己確立によるものを「個人」とし、
発見、実現、確立にどうしても障害となる罪は逆に排除されるのだ。

そして残念ながら、歴史的に教会は「個人」の中身を問いきれていない。
だから、和解より数的成長を、共に苦しむことより自分の目標達成のための神を求め続けた。

結果、教会はどんよりとなる。

私たち教会はいかがだろうか。
赦しに生き、罪を互いに背負いあい、さやわかに豊かに共に苦しみ泣けているだろうか。

祈りつつ。


神の歴史を生きる

2012年01月16日 | 教会のこと
今週の日本バプテスト京都教会週報巻頭エッセイです。

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「神の歴史を生きる」

「神様、罪人のわたしを憐れんでください(ルカ18:13)」。
主イエスは、「自分は正しい人間(ルカ18:9)」と信じ切っている人々を悔い改めに導くために、この徴税人の祈りを紹介する。

私たちは正しい人間であることが一瞬もない者たちであり、
神の赦しを受けるしかない罪人たちであり、
真剣にこの祈りをすべき者たちである。

しかし私たちは「自分が正しい」ことを欲する。
そして思い通りにならず、それが特に苦難を伴う場合、
その原因を「自分が正しい」ゆえに他人に見ることを繰り返してしまう。
私はそうでない人と出会ったことはない。
むしろ「自分は正しい」ことを無意識にも前提にすることが、私たちが罪人である所以でもあるに違いない。

私たち京都教会は今年60周年を迎える。
例えば最近一年の教会の交わりに起こされたことを振り返るならば、
当教会では単純にその60倍の出来事が起こっており、
それはもはや莫大な質量となっている。

そして私たちはその出来事を証しにて継承する。
聖書にてこれほどまでに神を信じる者たちの出来事が証言され継承されている以上、
私たちが実際に生きる教会の出来事も同じく継承され「ねばならない」。

その時に私は聖書にて継承されている出来事のトーンを覚える。
それは罪責が証言されていることと、
それに対する神の裁きと赦しと、
そこから将来への道を歩むための厳しいみ言葉によるトーンである。

歴史の中のうれしく楽しい出来事を証しすることは大事である。
しかしそれ以上に、膨大な質量の出来事を時間の限られた中で継承しようとするならば、
それは罪責告白となることを聖書は教える。

うれしい出来事の継承は、
逆にその出来事の継続を目指すことにもなり、
そのムードが原理化することにも繋がる。
すると私たちが知らずにそこに縛られる現象も起こる。

しかし罪責告白は、
神の憐れみの業に託すしかない出来事であり、
私たち教会は、
予想のできない開かれた新鮮な和解と癒しの道が神から与えられるところに、
覚悟を決めて賭けることとなる。

「自分が正しい」ことを欲する私たちの欲望は、
私たちが罪人であることと、歴史上の罪責を忘却させる。
他人や時代に原因を押し付け、神による和解と癒しの道を見逃す。
同時に「自分が正しい」から解放されないとき、
私たちは、神による豊かな和解と癒し、そして新たな出会いの可能性に広がる将来をも失う。
つまり、「自分が正しい」現状を維持する力が、神による将来の到来を妨げるのだ。

私は、様々な出来事、状況の罪責を知るために三つの問題を考えることにしている。
それは
① その状況のある共同体(自分)の歴史的体質問題。
② 国家の施策と雰囲気の問題(「皇帝のものは皇帝に」。また現在それは市場の問題でもある。)。
③ かわっている人の問題である。
この三つのうちの一つに罪を擦り付けることはできない。
いずれもが罪責告白を神の歴史を生きるために必要としている。 

私たちは60周年を神の憐れみを祈りつつ丁寧に迎えたく願う。

新しい時代の新しい年の新しい教会

2012年01月10日 | 「生きる」こと
今週の週報巻頭エッセイです。


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「新しい時代の新しい年の新しい教会」

まずはじめにお詫びを。
皆様からのお年賀を心より感謝いたします。
同時に、我が家の2010クリスマスカード&2011賀状によるご挨拶が、
例年通り大幅に遅れておりますことをお詫びいたします。
また、年始から我が家全員がインフルエンザとなり、
最初の祈祷会をはじめ活動できずご心配をおかけしたことを重ねてお詫びいたします。
風邪など流行っておりますので、皆様の心と体が整えられるようお祈りいたします。

さて、恐らくほぼ毎年「新しい時代」の到来が叫ばれているかと思われますが、
しかし、現在は本当に新しい時代の幕開けを迎えていると思います。

それは、地球規模において、
これまでの経済システムに依存した生活スタイルが破綻しており、
その代替システムは提案されていないという時代です。

大変な時代です。
しかし私は悪い時代とは考えません。

経済システムにおける生活は、実は必ず搾取される者を生み出してきました。
日本国内では、搾取されている者がほとんど見えない時代が続き、
みんなが利益を平等に得るために法や施策が整ってきました。
しかしその一方で、国内では在日外国人や日雇い労働者、
国外ではアジアやアフリカの多くの国の市民が、搾取され続け、酷い環境での労働を強いられています。
そして今、このシステム維持のためにもっと多くの人々から搾取せねばならず、
日本ではその搾取対象に若者たちが加わったわけです。

ということは、
現システムの恩恵を受けている現在の年齢の高い半分の人たちが死を迎えると同時に、
誰も恩恵を受けなくなることがわかっており、
となると、
年齢の低い半分の人たちは、
生きるために新しい世界を共に創るしか手がない時代を迎えたということです。

だから、
誰も搾取されず、いじめられず、共に分かち合いつつ生きる世界を、
そういう神の国というヴィジョンを既にいただいている教会、つまりキリストに感動している者たちは、
率先して具体的に創り出しつつ生きるよう召されてはいないでしょうか。

まずは、教会共同体を本当の意味でキリストの体として創りあげるのがこの時代のミッションです。
このミッションは案外単純です。
聖書のままに生きることです。
それは、キリストに愛され、支えられ、ささげられている者として、
キリストの体なる教会の交わりを愛し、支え、ささげつつ生き、
同時に、この世界でとりわけ苦難にある者を愛し、支え、その者にささげつつ生きるということです。

ここでは、
キリスト、教会、世界のみっつが切り離されて、ひとつひとつ別々に理解されることが絶対にゆるされず、
まとめて一気に認識され行動されることのみが求められます。

聖書に生きる時代を創る教会とされていきたいと願います。

当教会のクリスマス礼拝の様子

2012年01月06日 | 教会のこと
日本バプテスト京都教会のクリスマス礼拝の様子が
長崎教会のHPに動画にて掲載されています。
長崎教会のマリーさんが当日当教会に来てくださり撮影してくださいました。
感謝です。

こちら

です。

開きましたら
左端に日本バプテスト京都教会とある欄のもろもろをさらにクリック。

長崎教会と当教会はこの間うれしい行き来があります。

いま、当教会には長崎教会出身の青年が二名います。
かつて、当教会の青年が学生時代に長崎教会に住んでいたこともあります。
また、長崎教会の悩める青年が当教会で一ヵ月半生活したこともあります。

教会っていいなあ!と思います。


動画を見てウチの教会っていいなあとあらためて思いました。

やわらかくてのびのびでほんわかで。
そして全員参加。

見方によっては、
準備不足に遅刻にだらだら
となるのかもしれませんが、

なにしろ
かっちりしてしまったらおしまいで
準備は6割。あとは現場での出会いとコミュニケーションを聖霊の働きで。という教会でありまして。
礼拝はハプニングなのだ!
ということを楽しみにする教会でありまして。
そのための議論を実は相当に繰り返している教会でありまして。
だから予定通りにいくと物足りない教会でありまして。

礼拝中の子どもたちの座る位置や自由さ
手話の交わり
あたりもよーく撮影していただけて感謝ですなあ。