きぼう屋

生きているから生きている

出会いセンサー

2010年02月27日 | ホームレス支援のこと
本日はホームレス支援鴨川パトロール

わたしはこの間
実は参加できておりません
いつも翌日に役員会があるので
その準備があるのと
それにあわせて
留守番と子どもを見ておくという役割を持つことにしたため
(そうすることで妻は参加できるため)
ボランティアのみなさんにすべて任せております

しかし本日は
明日に役員会がないため
久しぶりに参加できるので
とてもドキドキしておりました

ところが

目で確認できるほどのすごい花粉

眉間の中心の奥のほうが
重たくなって痛くなるという
わたしの花粉症の症状が出てきてしまいました

でもそれでも行こうと思っていたのですが
妻の
やめとき!
の一言で
お留守番をすることになりました

本日も多くの方々と出会ったとのこと

出会ったあとのかかわりをどのように築くか

深く重く難しいテーマを毎回与えられています


今週の朝日新聞に
ウチでボランティアをしている定時制高校の学生のことが載っていました

ホームレス当事者と出会って
人とかかわる仕事につく決心をし
看護師を目指すことにした

という記事です

うれしいです

若人が出会いから人生を決定できる環境を整えるのは
大人の大事な役目だと思います

目的から仕事を決めるのではなくて
出会いから決めねばならないのです


夕方のニュースで
あいりん地区で生活保護をもらっている人が
闇の博打やドラッグに金を使う
という相当に長い特集を放送しておりました

おそらく
闇世界の貧困ビジネスを告発したかったのだと思いますが
しかし
税金から生活保護をもらっている人間のくせに何をしているのだ!
という匂いのしてくるVTRだったというところに

無意識の差別性を見ます


生活保護は権利です

これは
わたしの税金で生活保護受給者を生活させてやっている
ではなくて
わたしも生活保護制度がある国に生まれて来れたから生活ができなくなることはない
という希望を抱くべき事柄です


税金で食わせてる!
という感覚を持っている人は
現在の世界の状況を知る知識と共感力に欠けており
本来人間ならば持っているはずのセンサーが機能していないのだと思います


もはや今の時代はみんな

ホームレス予備軍であり
明日はわが身!です

ホームレス当事者と出会っておしゃべりすれば
すぐにわかること!


聖書は
この知識と共感力とセンサーを
キリストが与えることを語ります

だから教会は持っていなくてはなりません

これからの時代
教会は
これまでの反省も含めて
このあたりに徹底的に祈りと力を注がねばなりません

さて

明日はひとりの青年が信仰告白とバプテスマをします
そういう知識と共感力とセンサーを求めている青年です

もはやそれに気づいていて
それを語る教会に出会った青年です

今から彼のために祈る時間を持ちます
幸せです

主に感謝

アーメン



生と死

2010年02月24日 | 「生きる」こと
久しぶりに牧師室で勉強ができています。
窓からは鴨川河原で遊ぶ我が子の通う保育園のみんなが見えるから気持ちも軽くなってうれしいです。

ヤスクニ闘争と呼ばれているところの
保守&原理主義的国家的雰囲気による人間操作と生命軽視という具体的事実とのたたかいは
残念ながら今はほとんどなくなっています

いろんな理由があろうと思いますが
わたしは
社会のシステムが自由競争経済一本となり
それにより明らかに勝つ者と勝たない者が生まれ
そこで勝ちたければ(=せめて中流意識を持てる生活水準を得たいならば)
長いものに巻かれていく選択をするしかなく
そのようにして
実は自分の食いっぷちのほうが
他者の生命より結局は大事というところに無意識にも追い込まれたゆえに
少数者としてのたたかいをこれまた無意識に投げ出したのだろうと思います

そういう中で高橋哲哉先生は
単独者としてたたかってきたか、たたかっているか、たたかっていくのか

私たちのために問うてくれました

単独者
とは
キルケゴールから見出せる概念で

主イエスの十字架の困窮を
われわれも孤独のうちに背負う
という生き様により
悪しき大いなる勢力と向き合い続けることができる

というものです

かつて実存と呼ばれたりもしました

しかし

その実存はいつのまにか個人主義として語られたり
わたしはわたし
介入しないで!
となったり

あなたはあなたで責任とって!
という自己責任論となったり

アナーキーになったり

とまあいろいろだと思うのですが

そこからするならば
もう一度丁寧に単独者を確認することはとても大事だと思っております


しかし
キリスト者はそれを越えることも大事です


ヤスクニ問題
また国家という問題は

実は
生きることという問題です

逆に言うと
死なないということの問題です


からできるだけ遠ざかるため
わたしたちは国家というシステムを必要とします


を覆い隠すため
それに美しい意義付けをするためのヤスクニ神社なりアーリントン墓地などが必要となります

ヤスクニや国家への迎合は

困窮を!十字架を!引き受けたくない!
というところから始まります

死を!引き受けたくない!
というところで確立します

自分が苦しまないために
どこかから搾取することが起こり
自分が死なないために
となりの国の人を殺すということが繰り返し起こります

そこで考えねばならないのは
生と死です

いま
若者が国家やヤスクニ神社に魅力を覚えるケースが多いのは
生と死というテーマに応えてくれる数少ないところだからだと思います

同時に
死から自分を遠ざけ
また死んだとしてもその死に最大限の意味を付与してくれる
となれば
こんなにありがたいことはないと思います

しかし
それは
生と死はあれかこれか
となって
別々のものとなり
生は良いもので
死は悪いもの
という単純な人間感覚を前提としている場合にはありがたいのだろうと思います。

しかし!
生と死はあれかこれかではありません!
生と死はセットであるということを大前提として受ける必要があります


そしてこれが単独者と突破するあらたなる人間観だと思います

単独者もがんばってはいるけれども
最終的には
生と死があれかこれか
というところにあるかと思います


生と死はセットです
キリストの十字架と復活ゆえにセットです

我々はバプテスマにおいて
新しい命として生きます。
しかしそれは同時に
既に死んでいる者として生きるということでもあります。

パウロの言っているとおり
われわれは繰り返し死んでいるのです

そしてそこにおいて死をすでに引き受けています

死を引き受けているからこその新しいいのちです
主の晩餐にて死を述べ伝えるというのはこういうことです

主イエスの十字架の死の中に私たちは自らの死をしっかりと見ることができ
主イエスが自らの死を引き受けていることをもって
すべての死の引き受けも完了するのです

そしてここが単独者を突破するところです

単独者は
十字架の主イエスと同じ姿になるというところを根幹としますが
それをこえるキリスト者観は
十字架の主イエスにおいて引き受けられたという事実を根幹とします

主イエスの引き受けにおいて奇跡的にわたしたちは死を引き受けつつ生きるのです

しかもパウロが言うように
罪の報酬は死であります

つまり
キリスト者は
死を引き受けるということにおいて罪を引き受けるのです

すると
ヤスクニでは死を美化し罪を覆い隠しますが

キリスト者は
互いの罪を引き受けあうという交わりとして
罪と死とがどんなに醜くとも
互いに美化せず愛し合いつつ引き受けあることができます

するとじつは

自らの見苦しいところを隠し
格好つけたり演技したりして
自分を認めてもらわねば生きていけない世の中で

しかし
それに疲れきって
明日は生きていないかもしれない
生きる意味がないかもしれない
と迷う若者たちは

国家やヤスクニで最大限の意味づけをしてもらうか

それとも

なんの意味も必要なく
罪と死を
そのあふれんばかりの困窮を
そのまま
互いに受け入れあわれていくということにおいて
死を受けつつ生きるという豊かさを獲得するか

ということになろうと思います

そして

わたしは後者こそが真理であることを宣言するしかありません

また
ヤスクニ闘争の失敗は
死を引き受けるチャレンジがなかったからだと思います

しかし
日本バプテスト連盟靖国神社問題特別委員会が
なにゆえに
いまなお活動が熱く深く
また多方面から評価されているかというならば

死、死者、弔い
というテーマを10年以上前に見出し
丁寧にそれを確認し
だからこそ
人々の魂に響き
次世代へも継承されたのだと思います

といったところで

今思いついていることをメモしておきました

光は闇の中に輝いている

2010年02月23日 | 「生きる」こと
「光は闇の中に輝いている」
という本が
新教出版社から発売されました。

日本バプテスト連盟靖国神社問題特別委員会の
40年の活動から

獲得することがゆるされたとっても深い事柄が凝縮されています

しかし残念なことに
すでにamazonでは買えないようです

出版社には在庫がないようです

あとはキリスト教書店か
執筆者か
委託販売しているバプテスト教会か

から手に入れるしかできないようです

つまり売れているということなわけで
なかなか驚きですが
しかし
内容が優れているし
(自分で言ってしまっては仕方がないのですが)
こういう時代になかなか出せないテーマでもあるので

売れるのもわかります

その出版記念会が昨晩東京でありました

たくさんの方が来られて感激だったのですが
若い人が多かったのがうれしかったです


二週前のホームレス支援シンポジウムといい
出版記念会といい

テーマが継承されている事実は心強いです


またウチの教会の青年もどちらにも来てくれまして
これは私が連盟全体でどんな責任を担っているかということを
教会の仲間が見てくれたということでもあって
とても助かることでもあります

感謝感謝



出版が終わって

次のテーマとして

わたしは

国家論の確認

単独者論を超える単独者論の発見

を見出しました

そのあたりをしっかりと学ぶことで
長いものに巻かれないで
キリストに従いきる人間形成を
よりしっかり
続けていくことができるだろうと思います



いろいろと考えていることは
また後日

教会=この世における神の具体性

2010年02月22日 | 教会のこと
神さまは具体的な存在と行為です。
それはキリストというかたちにおいて実現します。

そのキリストと共に生きるという決断が信仰です。
決断はしかし気づいたらキリストが共にいるという気づきです。

しかし信仰は
具体性を伴わないで済んでしまう場合があります。
人間の脳みそでは具体性が伴わなくて大丈夫だからです。

信仰がいつの間にか
自分の気分や感情
感覚や感性
方法やイメージ
に刷りかえられてしまいます。

すると信仰は
内面の抽象的なこととなります。

そして具体性がなく抽象的な議論を神学的と表現されたりもしてしまいます。

しかし神学は抽象的でもまだいいです。

ただ

キリスト者は神学を抽象的なものにとどめることはしませんでした。
具体性を確保し続けました。

その具体性が教会です。


だから
キリスト者として教会を担っている者の神学は具体的です。
しかし
教会を担っていない者、担っているふりをしている者の神学は抽象的です。

一般に神学議論という言葉が現実味のない抽象議論を意味するようになったということは
神学が教会を担っていなかったということもあらわします。


キリスト者は
いつも信仰が抽象的になることと闘ってきました。

そしてカトリックは
具体的な教会として制度をつくりました。

プロテスタントは
その制度性を批判しつつ、教会に臨む神こそ具体的と言いました。

でもそうするとまた信仰が抽象化しました。

そこでカール・バルトさんは
神の言こそ具体的と言いました。
教会における礼拝説教が神の言とされるというわけです。

私は説教はそのようなものと経験上からも思います。

しかし
神の言が語られることに参与する牧師のあらゆる準備は
当然ながら常に十分であることはなく
それが人間の限界であり
だからこそ人間であり
ゆえにその罪を背負いつつ
しかし胸を張って神の言を語るのですが

私は
説教を神の言として
そこに具体性を見ることは
かなりむずかしすぎて
具体性確保をこれ一本に見出すのが
本当に神のみこころなのかなあとも思います。

もっと端的な具体的なキリストがおられるのではないか!


そこで当教会が取り組んでいるのは
(もしかしたらまだ私が突っ走っているだけかもしれません)

神の具体性は教会であり
教会はキリストの体として
まさに体として
具体的なのだ

ということを確保することです


制度でなく
説教でもなく

まずは

キリストの体なる教会の交わり
具体的なキリスト者の網の目上の関係性
日々絶対にとりなしの祈りをなすチーム・キリスト

この関係に生きることが
信仰の抽象化から解放される道であり
具体的なキリストと出会う道です。

そして

この交わりの深化のために
説教が働き

またこの交わりを罪人として整えるために
制度や組織も考える

ということではないでしょうか。


そして11年やってきて気づくのは

人は自分の内面につくってきているもの
を守ることができないと
交わりを放棄するということです。

制度だと
具体性は枠組みだけで内面に介入しないので
内面をこわされなくて平気です。

説教のことばは
ことばだけに内面化できます。

でも交わりはいつでも具体的です。

目の前に他者の顔があるわけですから。


そして
自分の内面につくってきているものに
どんどん介入してきます。



でも
その介入こそ
最も具体的な
十字架のキリストに他なりません。

今こそ

教会が必要であり
キリスト者は教会性、キリストの体性、交わり性が問われています。

といったところで

昨晩なんとなく思いついたことを
わすれないうちに書き留めておきました。

いのち

2010年02月22日 | 教会のこと
この三日間はいのちが濃かった


バプテスト看護学校に信仰を吹き込んだメアリー先生が天に召された

ちょっと遅れていて心配していたIさんが男の子を出産された

祈りと準備を重ねた式においてBさんとMさんが結婚された

大阪中央教会の全牧師が按手を受けられた

Tさんの手術同意書を書いた

お二人から切実なとりなしの祈りの要請があって何十分も祈った

今日の午後
京阪電鉄の一両目で
北浜につくまでずっと
他者のために命をけずりまくっているOさんのために祈った

乗り換えて地下鉄では
日本橋につくまでずっと
この間体調が整わないMさんのために祈った


金曜の夜はその命を削りまくっているOさんを囲んでごはんを食べた
土曜の夜は結婚したふたりを囲んでごはんを食べた
本日の夜は大阪中央教会の愛さん会でごはんを食べた


キリストがおられる



超大盛スープ

2010年02月17日 | 教会のこと
今日は夕方にバプテスマクラス
今年度50回目
残るは2回
感謝感謝

今回はバプテスマ決心者のEさんと
事情により母国へ帰国することになったため
決心までいたらなかったけれども
一緒に学びたいと言ってくれたRさんの
計三名での学び

でも
昨日と今日のクラスでは
Rさんがキリストに出会っていることを
ご本人が告白もされており
これまた感謝感謝

クラスが夜の祈祷会がはじまる40分前に終わったので
あわてて3人で夕食

対面にあるくれないさんへ
居酒屋さんだけど夕食もやってくれています

からあげ定食と出し巻き定食と豚キムチ定食をそれぞれ注文

そしたらなんと

単品メニューと同じ量が出てきました
つまりどれも2.5人前くらいのボリューム

さらに大盛のごはんに
超大盛のスープ

スープは普通100から150ccくらいだと思うのですが
350はありました

スープでおなかぶっくぶくになるけどごめんねえ
とおかみさん

今日は特大ビールでなくていいのお
とさらにおかみさん


飲みたいのはじっとがまん

満腹満腹
感謝感謝

しかも安い!


申し訳ないことに2分遅れで祈祷会へ

おなかがほんとにぶっくぶく


さて土曜日は結婚式
今回は結婚する二人がすべてのプログラムをつくりました

聖書と賛美歌を当人が選ぶのはウチの教会の場合必須なんですが
入場と退場の曲も
両親の入場や家族による祈りの挿入
さらに
誓約の文面も自分でつくり
なんともステキなプログラムとなっています

あとは
わたしも奏楽者もはじめてのプログラムなので
スムーズにいくかどうかというところですが

うまくいくために
新郎新婦のためにはもちろん
奉仕者のためにもお祈りくださいませ

結婚式にバプテスマ

さらに実は転入会の希望も新たにいただき

うーん楽しみ


十字架のありか

2010年02月17日 | 教会のこと
今晩は今年度49回目のバプテスマクラスを持ちました

毎年こうなるとうれしいのですが
10年に一度ほどのような気もします


毎年このようになってほしいから祈りまくりたいと思います

バプテスマクラスは
牧師が教えるクラスです

一緒に聖書を読んで
問いを出し合って
対話して
でも
最後には牧師が教えます

何を教えるかというと

キリスト者として生きていくうえで
生々しいキリスト以外のものには従わないために

いのち、人生、生活、仕事、
などなどと
聖書を対話させて

間違えないように
ずれないように
覆わないように
思い込まないように

ただただ生々しいキリストの伴いを知るように

それぞれの生活における指標を
すなわち十字架を教えます


牧師は教会で教えます

しかし

牧師は教会を指導はしません


牧師は教会がどのように決断し動くのかを
指導はしません

教会の決断と行為は教会共同体自身が責任を持って担います

牧師は
その決断と行為の中心に
生々しいキリストの十字架が立っているか否かを
宣教のプロとして嗅ぎわけ

立っているならば感謝するし
立っていないならば戒めるという仕方で

聖書を通して教えます

言い方を変えるならば
牧師がひとつの結論を導き出して
それに教会がついてくるよう指導するのではなくて

生々しいキリストの十字架の立つところはすべて良く
ただただ十字架から離れないよう教えるわけです


牧師は教えるが指導しない

これはとりわけヒトラーに従った教会の反省として
今一度大切にされていることだと思います


牧師の指導は危ないのです

指導者はキリストのみ
牧師はそのキリストの十字架のありかを教えるのみ


ただ

最近

誰でも決められるような簡単なことを
それも決して大きな決断にはならないことを
牧師が決めるよう強く求められるということが起こっています

文字をどうするかとか
ちょっとしたセレモニーをどうするかだとか

よってたかって決めるわけでもなく
またよってたからなくとも
思いついた人の責任で実行すらできることでもあると思うけど

そこに牧師のリーダーシップを求めるというかたちで
結論を聞こうとするのは
とても危険だなあと思います

これはどこかで不思議な雰囲気が流れてしまっているということだと思います

教会全体としては

教会の決断と運動はみんなでよってたかって対話する中で見出していく
ということが豊かに起こっているだけに
牧師の指導というテーマが
些細なことのなかでなんとなく起こっていることは奇妙です

これはまだ潜在的なことなので
たいへん厳しいですが
あらかじめこの奇妙さを指摘しておきます

さて
しかし私は
指導してはならないと自分に言い聞かせつつ
しかし実は
相当に大きな決断を指導してしまっております。

ホームレス支援をする決断
教会学校を設立する決断
礼拝に子どもメッセージを入れる決断とそれに伴う礼拝改革の決断
あまりに危険な構造箇所の改築の決断

いずれもよってたかってという状況が起こりにくかった時代に
それを経ずにしております

そしてこれらによくみなさんがついてきてくれていると
感謝するばかりです

でも本当はたいへんよくないことです

だから本当は謝らねばなりません


あるいは
礼拝と祈祷会は休むべきではないという方針の決断
十分の一献金はすべきであるという方針の決断

しかしこれらは指導ではどうにもならないということを教えられています


こういう献身というテーマは
交わりの中で愛によってはぐくまれてこそ
豊かに身を結ぶわけです

だからわたしは
礼拝や献金、奉仕のことについては
指導ではどうにもならないという経験を元に

これからはただただ
それらにおけるキリストの十字架のありかを
聖書から説いて教えるのみなわけです

あるいは
総務を総務担当執事が一人でこなす体制から
牧会事務委員会と設備事務委員会をつくるという決断をし
動き始めましたが

これも一年でぽしゃりました

事務の牧会性を体で受けるためには
牧師の指導ではどうにもならず
やはりよってたかる必要があったわけです

そして
総務委員会と設備管理委員会となり

やがて総務・会計委員会となり

赴任当初とそんなに変わらない体制に戻りました


不思議なのは
事務に牧会というのはわからない
というところから
名称が変更されたにもかかわらず

この数年は
事務における牧会性を牧師が認識していないという批判もあり

なるほどこうなるのだなあと

牧師の指導ではどうにもならない部分を発見しているわけです

だからこれからは総務における十字架のありか
を発見することになろうと思います


というわけで

教会共同体の決断と運動は共同体人格として責任を持って担います

逆に教会共同体は牧師の指導性を本来は批判せねばなりません
とりわけバプテストはここに命をかけています

しかし
牧師がキリストの十字架のありかを命がけで見出すとき
もしそれにも批判ができる余地があるなら
それはもはや牧師の資質の問題なので
それはそれで重要です

さらには
十字架のありかにおける激しい議論がもし起こるとするならば
実にそのときは
教会がまさに教会であり
それも
バプテスト教会となっているときであるからして
実は幸いなことです


2週後は教会の定期総会
しっかりとよってたかって決断できるよう
祈って祈って祈ります


赤の他人

2010年02月14日 | 教会のこと
今週(2月14日週)の週報巻頭言です。

今朝の一番乗りは朝7時
礼拝の3時間半前
感動します

*********************

「赤の他人」


先週の月曜日から水曜日にかけて、
連盟のホームレス支援特別委員会シンポジウムに、
Yさん、Nさんと共に参加しました。

このかんのこの手のシンポジウムの中では最もたくさんの参加者がおられたと思います。
平日なのに60人以上が参加しました。
ホームレス問題、貧困問題は、
教会の中心テーマであることを、
参加者から今一度教わり、気が引き締まりました。

その初日に、
昨今テレビによく出る奥田知志牧師が講演をしてくださいました。

彼は、
人類と聖書の結論は、
「人は一人では生きていけない、人は一人では生きていない」、
というものであると語りました。
さらに、赤の他人にかかわられ、赤の他人にかかわるという中で、いのちは生かされ育まれる
とも言いました。

私は彼が「赤の他人」という言葉を選択されたことに感心しました。
私はよく「他者」という言葉を用いますが、それよりも中身がしっかり伝わる言葉だと思いました。

私たちはめいめい赤の他人の隣人となり、赤の他人がめいめいの隣人となります。
家族、友人、同僚、知り合いでだけでなく、
赤の他人との関係が結ばれることに聖霊の働きを見ます。
もっと言うと、
聖霊により
赤の他人はもはや赤の他人であり続けることはなく、
赤の他人が瞬時に家族とされるのが教会です。
なんという奇跡!!

木曜日は関西地方教会連合の定期総会があり、
その開会説教をさせていただきましたが、
私は「他者」という言葉を「赤の他人」に言い換えることにしました。

そして、
この時代は、
同じ家に住む人に必要なお金を確保し、余った分を赤の他人のために用いるというチャリティー感覚、
つまり、余剰分の再分配ではどうにもならないから、
最初から家計において、
「赤の他人のための食費・医療費」などを組み込んでおく必要性を提案しました。

そこまでしたら聖書の語る分かち合いになるわけです。

連合の協力伝道も、
各教会の予算に隣の教会のための活動費があってもいいし、
それが連合協力金でもあるわけで、
それは余剰分でなされてはならないことを説きました。

つまり、
余剰分からささげることを聖書が献金の物語を通して厳しく戒めるように、
キリストによる平安で平和な世界は、
余剰分の分かち合いではなく、すべての分かち合いから起こるのです。

キリストの体としてひとつ!とは、
精神のみでなく
すべてがひとつ!
ということです。

キリストに救われる!とは
精神や魂のみでなく
身体も救われる!し、
隣人も世界も救われる!
ということです。

信仰は
抽象的なものではなくて、
考えられうる中で、
否、人の考えが及ばない範囲に至るまで、
極めて具体的です。

つまり
赤の他人と家族とされ
赤の他人の家族となる
具体性の只中に
救いがあり、信仰があり、キリストの体があります。


キリストに救われ、
信仰を頂き、
キリストの体として、
赤の他人と共に
今日も共に歩みます。



街のホッ!とステーション

2010年02月13日 | 教会のこと
とても遅くなりましたが
今週(2月7日週)の週報巻頭言です。

********************

「街のホッ!とステーション」


赴任した年。
私は「街のホッ!とステーション」というタイトルで説教をしました。

当時
たしかコンビニのローソンがテレビCMでこのフレーズを用いていたと思いますが、
それを見た私は
コンビニではなくて教会こそが
そういうステーションであるし
そういうステーションになりたいし
そういうステーションであるべきだなあ
と、思いました。

またその年の夏休みに福岡の漁村を歩いていましたら、
中央の通り沿いに、
村の人たちが自由に集まり、
一緒に食事やお酒を楽しむことのできる広さ二十畳ほどの部屋がありました。
いつでも誰でも入ることのできる部屋を見て、
こういう教会をつくりたい!
と、私は明確に思いました。

そして上記タイトルの説教へとつながったわけです。

でも11年経った今、
私はそのことをすっかり忘れておりました。
しかし先週の餅つき大会のとき、
なぜかふと
「街のホッ!とステーション」というフレーズを思い出しました。

それはきっと
目の前で、
もはや教会はそうなっていたから!
だと思います。

赤ちゃん、幼児、小学生、少年少女、青年、お父さん、お母さん、おじいさん、おばあさん
が集まっていました。

礼拝には習い事で来られないけれども、
日曜日の午後に河原で当教会の子どもたち、青年たちと遊ぶ少年たちも参加できました。

病気を担う方も障がいを担う方も参加できました。

私は端的に主に感謝しました。
私が願っていたことも祈っていたことも忘れて放っておいた教会の大切な姿を、
しかし主は決して忘れることなく、
ホッ!とステーションとしての教会をつくり続けてくれていたのです。

後日。
その日に初めて教会に来られたご家族が、
餅つきを通しての交わりを終えて教会を出たあと、
なぜか心がぽかぽかして、
まっすぐ家に帰るのがもったいなくて、
途中でお茶をしたことを
教えてくれました。

また日曜日の夜にみんなでごはんを食べる青年たちも
同じような気持ちなのかなあと思いました。

そしてこういう気持ちは
極めて主による出来事です。

主の業を一言でいうと

主の愛で
他者同士が
同じ時間
同じ場所に
共にいる!

という出来事を
主が起こす
ということです。

それが教会で見事に繰り返し起こされています。

最後に
餅つき大会を覚えてくださったすべての方々に
心から感謝いたします。

相撲という「道」と朝青龍という「異邦人」

2010年02月05日 | 「生きる」こと
朝青龍さんの引退劇からいろいろ考えております。

わたしは相撲は「道」であると考えています。
柔道や剣道、合気道などと同じです。

ならば道とは?。

わたしは「道」とは、人間の自然性あるいは本性ではどうもよろしくない!ということの発見から起こされていると思います。
つまり人間の自然性あるいは本性に逆らうものとして「道」が生まれると考えます。

しかもとりわけ人間のもつ暴力的な本性に逆らっています。

相撲、柔道、剣道、合気道などは、
直接相手と戦うという行為をしつつ、しかしそれに逆らうという大きなねじれをもつという点が
実は一番大切なところだと思います。
このねじれこそが「道」の意味です。

人間の本性
と、
平和のためにそれを許さない「道」
との
ねじれを、

なにしろわかりやすく人々に教えるのが格闘関係の「道」だと思います。

「道」はねじれ、矛盾を持ってこそ「道」です。
格闘技はあえてその矛盾を持っているに違いありません。
だからこそ人の深いところで共鳴するものがあるわけです。

人は矛盾とねじれの中でしか生きられず、
しかしそれを表に出すことはできず、
しかしそれをどこかで響かせておかねばならず、
ゆえに「道」が必要ともなってきます。

ゆえに勝つことを喜びとして表現しないこと、
負けた相手を最大限に敬う、
という礼儀はどんなに厳格であってもいいと思います。

キリスト教信仰で言ったらこれは律法です。
平和のために過剰にせねばならないことってあるんです。

ただ、
「道」は開かれているものであり、閉じたところに「道」はありません。

その点、相撲界全体が閉じているのは気になります。
「道」は実は文化や伝統ではくくられることのできない、もっと深く広いものです。

文化や伝統は精神の領域で語られますが、
「道」は信仰あるいは宗教の領域で語られます。

無論
伝統、文化で語られる宗教はすでに自ら宗教を放棄しています。

精神は自分を保つためにあります。
それは本性とぶつかる必要を持ちません。

「道」は本性と、つまり自分自身とぶつかるものです。
したがって「道」を進むには自分を捨てるという献身が必要となります。

そこで相撲界の不思議なところですが、

理事はなぜ無給でないのでしょう?。
横綱審議委員はなぜ無給でないのでしょう?。

献身する姿が見えないのが不思議です。

実は
現役力士以上に
そういう人々の「道」に対する姿勢が実は崩壊しているというのが相撲界の問題なのだなあと思いました。

まただからこそ
相撲を「道」でなく
伝統や文化で片付けてしまうのかもしれません。

さらに品格ということばで片付けてしまうと
問題の本質にたどり着けないような気がします。

また相撲「道」と
日本という国家の伝統を
同じ土俵で語ることも実はできないと思います。


さてさて
朝青龍さんに関しましては
異邦の地で生きるということについて
実は議論されねばならないだろうと思います。

彼は日本のとりわけ相撲界においては明らかに異邦人です。
異邦人は孤立します。
いいえ
孤立させられます。

この事実はこれまでの外国人力士がみんな口を揃えていることです。

あるいは日本人メジャーリーガーも言っています。
外国でプレーするサッカー選手も言っています。

しかし野球やサッカーならそれでもいいですが

相撲が相撲であるならば

異邦人と共生する開かれた「道」について時間を割いて議論せねばならないと思います。
そして異邦人にも開かれてこそ
相撲界はさらに深い世界となります。


たとえば海外で生活した事のある人
留学した事のある人
は、
経験していると思うのですが、

なぜかよくわからないけれども
身体と精神全体で受ける孤独感からくるストレスによる
普段と異なる行動と言動が生まれてしまう

というのは普遍的な人の行為だと思います

異邦人と共に生きる場合
彼らのそのような行為をその社会の常識から判断するのではなく
状況から丁寧に判断せねばならないと思います

そしてそのようないわばおかしな行動、言動は
異邦の地で血縁を超えた家族を本当に獲得したときに
自然となくなっていくものだと思います。
わたしの経験だと
だいたいそこにたどり着くまでに10年ほどかかると思います。

すると
本当は朝青龍さんはこれから変化するのだろうなあ
とも思わされました。

相撲はそういう家族を大切にしているわけですから
今後さらに外国人力士が増えるなかで
こういう事柄はしっかり議論したらいいのにと思いました。

また血縁を超えた家族ということで
昨今日本では地域共同体の再構が叫ばれておりますが
地域がホームとなることと
相撲におけるホームも
質が違います。

地域は国家と同質の伝統から解放され得ません。
相撲は解放されているし、解放を目指すゆえにもっと真理性を持っています。

地域はどうがんばっても最終的に閉じます。
相撲は開かれる可能性があります。


さてさて
わたしの経験とはなにかと申しますと
私にとっては都は異邦の地であるという経験です。

別に海外だけでなく
身体感覚の異なる地はすべて異邦となると思います。

東京から京都に来て11年

私はようやく京都の地に「ホーム」を獲得できた状態だと思います。


異邦人との交わり
異邦の地でのホームの獲得は
10年の準備を経てようやく
スタートするのだと思っております。

そこで
わたしはこういう風に今のところ結論づけております。

異邦人と異邦人を迎える共同体は
どちらも
それぞれの行為におかしさを覚えつつも
そこにでなく
端的に互いの存在を肯定し受容することのみを行うこと
それは端的に同じ時間同じ空間に長く居るということ

しかも粘り強く
つまり
異邦人も去らない
迎える共同体もかかわりを浅くしない

すると

そこで獲得できるものは言葉で表現できないほどに
豊かで優れたものであること


もういいかげん長くなってしまったので
ここらへんにしときます