きぼう屋

生きているから生きている

バザーの精神

2009年10月30日 | 教会のこと
バザーまであと4日

地域からの献品はいまのところ88件
例年どおりなら明日が献品のピーク
感謝!

献品は偉大です!


リサイクルショップでお金に換えるでもなく

捨てるでもなく

だからといって
経済的に余裕があっての
半ば施しというようなケースもなく

もちろん
ごみ処理というケースもなく

当教会のバザーのためにささげてくださいます

そしてささげてくださった方が
受け取ったわたしに感謝してくださいます

ささげて感謝

これはキリスト者の生き方そのものなのですが
それがバザーでは
キリスト者でない方にも起こされていく!!!

どえらいことです

献品の背景に
ささげてくださる方々の物語があって
それを聞く機会に恵まれるということは
昨年のこの時期に書きました

捨てることのできない品々に染み付いている歴史

それを教会が背負うということは信仰の中心でもあります


そしてさらに
今年はこれまでになかった体験をさせていただきました


これまでは
バザーの売り上げが福祉に用いられることを喜びつつ
また地域でリユースされることを喜びつつ
ささげてくださる方と出会ってきたのですが

今年は
キリスト者ではない!地域の方が

神にささげ
神によりその品が用いられることを喜びつつ
ささげてくださるという出来事と出会いました

ハッとしました

大切に用いてきたけれども
必要なくなり
捨てることはできずに寄付するときには

その品との歴史を神にゆだね

買ったものの
使うことなく
倉庫に眠らせていた新古品に関しては

その品と出会うことなく
品の生命を生かすことができなかった
という負い目の中で

その負い目を神にゆだねる

という

ちょっと私の持つバザーの意味を大きく広がるという事件と出会うことができました


教会は極めて頻繁に
キリスト者でない方々を通して
神と出会います


献品は偉大です

つまり

ささげることは神と共に生きることゆえに偉大です

ささげられるか否かは
人が幸せに生きるかどうかの相当に中心の鍵であることを再確認しました


もしかしたら

神がすべてをささげてくださることで生きるわたしたちは

ささげていただいたものをもらう

のではなく

ささげていただいたものをささげるのかもしれません


ささげていただいたものを

他者にも
そして
自分にも
ささげるわけです


極端な話しではなくて
みんなが幸せになりたいなら

この世界に
もらうという行為は本質的に存在しなくてもよくて
すべてはささげるという行為でいいのかもしれない

と考えるようになりました


誰かに何かをプレゼントされたとき
それを私は
もらう
のではなく
その誰かといっしょに
丁寧に自分に対してささげる
ということが起こり

さらに
プレゼントしてくださった方に
応答
をささげるということが起こる

のだなあと思いました


応答をささげるということにおいて

お礼を超えるのでもあるなあとも思いました




今週は毎日バザー準備
教会メンバーがびっくりするほど献身的に奉仕してくれます

おかげさまで
献品コーナーはいつでもバザーを開始できるまで整っています


これも教会メンバーのささげものです

ささげることが重なりに重なってバザーが成り立つ!!

だから

こんなにも大変な作業なのに
たずさわる人がとても幸せになって

疲労しているのだけれども
嫌な疲労でなく
しあわせとなっていくのだろうと

ちょっと確信しはじめてきました



バザーは11月3日(休)の朝10時~昼2時

みなさまのお越しを心よりお待ちしております!!

一緒に生きる

2009年10月26日 | 教会のこと
先週金土と全国ろう者修養会が当教会で開催されました

えらいしあわせな修養会なんです

バプテスト連盟全体の中ではとてもマイナーな修養会なのですが
わたしは相当深く神学的に評価した上で
きわめて有意義な修養会であることを明確に言っておきます

キリストを音声による言語のみでなく
手話にて分かち合うというチャレンジは

そのまんまで深い聖霊論であります

さらにわたしは
パウロが批判した部分ではなく
豊かな部分としての
異言の賜物を分かち合う場であることを
今回しっかりと確認できました

ちょうど金曜日に
月に二回やってくる連盟からの一斉発送物が届きまして

わたしは届いた時に速読で一気に全部を読むわけですが
(ここで読まないとずっと読めないので)

テキサスからやってきたゴスペルクワイアが
いくつかの教会でコンサートをやって
それがどれも大盛況で
いずれも教会も礼拝堂のイスの数の倍ほどの人が集まったということで
300人とか400人とかで賛美して
聖霊に満たされた
という報告のカラフルな美しい報告書を読んで
すごいなあ
と感動して
ウチの教会の掲示板に早速ピン止めしたのですが

しかし
よくよく考えてみたら

今うちでやっている全国ろう者修養会も聖霊に満たされているなあ
と気づいたら
感動してウルウルしてしまいました

かなり残念なんですが
全国ろう者修養会とか
ろう伝道友の会の働きは
連盟全体としてはあまり意識されていないのですが

しかし
こんなに長く続いているというのは
す・ご・い!
聖霊の導きだと
実感できてしまいます



さらに冷静に考えたら

ゴスペルコンサートで400人集まるということに感動しましたが
11月3日のうちのバザーは1,000人以上が集まるではありませんか

なーんだ
という感じで
バザーを導く聖霊に感謝するのでありました

地域からの献品は現在74件
昨日午後から品を並べ始めておりますが
会場を埋め尽くすほど
しかも
申し訳ないくらいイイモノを頂いておりまして
感謝感謝です


昨日はバザーの準備を終えて

29日に手術をされるAちゃんを励ます寄せ書きを作成
Hさんがあらかじめみんなに小さな色紙を配ってくれていて
各自それにメッセージを書いて
それを台紙に貼り付けたのですが
その台紙は
閉じているときは教会のかたちで
リボンをほどいて開くと
みんなのメッセージが出てくるという

めちゃくちゃステキなもの
愛情たっぷり

Aちゃん!
イエスさまが一緒ですよ!
教会家族が一緒ですよ!

そのあと打ち上げで対面の居酒屋へ
実はその前の晩も
ろう者修養会参加者でその居酒屋に行っておりまして
二晩連続なんていうしあわせを味わいました


そこで教会の若者たちと教会の夢を語りまして
最高にしあわせでした

その中で
現在駐車場のところに

教会学校とか会議とかできる部屋と
宿泊ができる大部屋と大きな風呂と
あとバプテストの青年たちが住める小部屋があるような建物をつくりたい!

なんて話しておりまして

そうすれば

たとえば実習で大変な学生のために夕食をつくることもできるし・・・
とか

なんだかえらいしあわせなイメージが語られました



そのしあわせなお酒を頂いたあとに

北九州よりその晩に京都に来た
O先生から電話
K君も一緒とのこと

というわけで
わたしはそのあと三条へ

久しぶりにミンミンに行きたいということで
まずはそこで餃子とビール

彼らの教会は会堂建築の計画中

うちの教会の建築における借金返済はどんなものだったか聞かれたけど
うちは残念ながら駐車場収入で返済するということで
参考にならなくて申し訳ないかぎり

彼らの教会がささげて建築していこうとみんなで決断していることに

これをうちの教会でもやらないと
中途半端な信仰で終わる

相当危機感を抱きつつ

ちょっと前にでてきたうれしい建築イメージを
真剣に考えたくなってきたわけです



次に沖縄料理の店で泡盛を

なんだかトータルではえらい飲んでしまいました


彼らが京都にやってきたのは
彼らのホームレス支援の働きが認められ
もしかしたら賞を取ることができるかも
ということでして
6つか7つの団体が集まり
大賞が決まるということでしたが
他の団体を見るとすごいのばかりで
まあ無理やなあと話しておりましたが

本日夕方に電話がありまして

大賞とっちゃった
とのこと

がはは
よかったよかった


そういえば
ミンミンにいく途中で
うちのホームレス支援でボランティアをしてくれているOさんに偶然会えたのもうれしかったです

この間いろいろ大変だったけど
ぼちぼち歩むことができていてなにより

また昨日は
ずっと祈っているS君から電話をいただき
生活がいい感じになってきたとのこと

感謝感謝

また本日は
同じく祈っているMさんから電話をいただき
やはり生活が整い
さらに次のステップを踏み出したい
とのこと

そしてなんと
明日教会に来てくれるとのこと

感謝感謝

電話のみで交わりを持っているしんどい状況にある仲間たちが
整えられているのは最高にうれしい!!


さらに
夜には5年前に真剣に一緒にいのったSさんが(さきほどのSさんとは別の)
訪ねてくださって
今の他者ににかかわる大切な仕事を神からの使命として励むことができているということで
これまた最高にうれしいのです


さてさて
そういえば
昨日ひとつの部活が教会に誕生しました

京都教会ジョギング部です

とりあえず希望された方とわたしの二人で
火曜日と土曜日の朝7時から
ジョギングをします

ジョギングは心のしんどいときに有効であることが
あちこちで言われているし
体を健康にするためにも効果があるし

教会がこういうのをするってのは
あり
だろうと思いました

朝7時ちょっと前に
教会前に来ていただいて
一緒に30分ほど走りましょう

ってなこの間数日でした




実は風邪をめされている方がたくさんおられまして

Yさん、Sさん、Nさん、Mさん、が特に大変でして
たくさん祈っております

お大事に

とりわけ
今週土曜日には関西連合のさんび大会があって
うちの聖歌隊も参加するわけですが

そのときに声が戻るくらい回復できたらと願うばかりでありまして

神さま
みこころでしたらぜひともお願いいたします

アーメン

通じ合う

2009年10月25日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言

*****************

「聖霊の導き」


一昨日、昨日と、当教会を会場に全国ろう者修養会が開催され、
全国から33名が参加されました。
また引き続き本日の礼拝に参加されている方々もおられ、うれしく感謝するばかりです。

今年はの修養会では「教会の手話」をみんなで学びました。
信仰生活に欠かせない言葉が互いに通じるための確認は大切です。

また通じることは、実は聖霊の働きです。

聖霊が舌のような炎として一人ひとりの頭の上に直撃したことで、
言葉の異なる者どうしが通じ合った!
というのが聖書の記す霊の働きです。

聖霊は通じ合わない者どうしが通じ合うために働きます。

言葉が通じない場合はもちろん、
価値観や性格、主義主張、
さらには信仰が通じない場合でも、
聖霊が働き、つなげます。

そして
つなげられて集まったのが教会の交わりです。

だから教会はあらゆる人が集まる場所です。
一定の言葉や階級、価値観の人のみが集まる場所ではありません。

私たち京都教会は、
これからもあらゆる人が気兼ねなく主の思し召しのままで集う教会となるよう祈り励みます。

そして当教会におけるこのような取り組みのひとつであり、
おそらく最も歴史の長いものが、
ろう伝道です。

ヘブライ語とギリシア語で書かれた聖書を、
日本語などの音声による様々な言葉のみでなく、
手話で分かち合うことができるための長い取り組みです。

それにより新たに通じ合うことが起こされます。

だからこれは聖霊の働きです。

それゆえに、
当教会のろう伝道も、全国ろう者修養会も、
何度となく存続が危ぶまれけれども、
私たちから見たら奇跡的に、今なお存続することがゆるされています。

でも神さまから見たら当然かも知れません。

故湯浅兄は私が赴任した11年前に、若い手話通訳者が与えられるよう熱く祈られました。
私たちが良く知るように、神はそれを私たちの希望以上にかなえてくださいました。
通じ合うことに向かうことはみこころだからです。

全国ろう者修養会も、
私は今後ますます全国から必要とされると確信しています。
通じ合うための大きな働きだからです。

最後に、
修養会のための数々のご奉仕を心より感謝いたします。
いつもながらにその精神と精度に驚くばかりです。

そして間をおかずバザーとなりますが、
こちらも聖霊に導かれつつ、共に奉仕できればと願います。

*****************


あと30分ちょっとで礼拝
うれしいですねえ

教会の隣の河川敷と荒神橋は
なにやら大掛かりな撮影準備をしております

これだけ大掛かりなので
映画か力の入ったTVドラマでしょうか

本日顔を見ることのできる俳優さんは誰でしょう??


でも
イエスと出会うほうがどきどきします

というわけで

それぞれの教会の礼拝が祝されますように

まもなく祈祷会

2009年10月21日 | 教会のこと
またもや原稿を締め切り過ぎて提出
編集者のみなさんに
ごめんなさい

インフルエンザのほかに
のどが腫れる風邪も流行っているようです
今夕の祈祷会はその症状でおふたりがお休み

いつもお祈りしてもらっている分を今日は僕がお祈りします

バザーの献品がどんどん届きます
今年も驚くしかありません
みなさまのご好意に心から感謝

本日だけで8件
合計63件

捨てたくないけど置き場所がない!
でも売るのも嫌!
だからウチの教会のバザーに寄付してくださる!

というパターンが最も多いのですが

これって
すごいことですよね

教会への信頼がなければ成立しませんもんね

その信頼に応えられるよう
キリストと共に神の愛を実践していきたいと思います



ちなみに愛の実践は
気持ちのいいお付き合いというか
なあなあまあまあというか
建前は笑顔でとか

そういうのではなくて

愛ゆえに
あいまいにしてはならないところはあいまいにせず
ぶつかるべきところはぶつかり
ゆえに
愛がさらに表舞台に躍り上がる
というものでございますので

単純にわたしの日ごろ態度を見て
(深い交わりのないままに態度だけを見て)
教会が愛を実践しているか否かという判断をすることだけは
ご勘弁を・・・


当教会は
愛が安価にならないよう
今後とも励んでまいります


バザーへのご協力を
今後ともよろしくお願いいたします。


よくぞこんなにも

2009年10月19日 | 教会のこと
昨日の主の日も祝されました

ここにきて
ウチの教会は主の日ごとに
目頭があつくなるような物語がたくさん生まれています
だから主の日の夜は感動してたくさん祈ってしまいます

よくぞこんなにも
みんながみんなのことを覚えて祈り
具体的に声をかけて時間をつくって行動して
寄り添って共に笑って共に泣いて
キリストの前に立つことがゆるされて・・・

神さま
教会家族をつくってくれて
チーム・キリストを起こしてくれて
ありがとう


これからは
とくに無理しなくても
単純にしかし丁寧に教会を生きるなら
おのずと教会家族が増えていくだろうと思います

そしてどんどん交わりの質が深まると思います

今の世界の中でみんなが無意識のうちに求めているものが
ウチの教会の無意識の中にあふれるようになったと思います


妻とは赴任時にこんな話をしていました

10年で教会の交わりの質が変化しなかったら
僕たちにはできないということだから
僕たちは京都教会を辞めよう

でも
5年を過ぎたころ
10年を待つまでもなく辞めよう

ほぼ結論を導き出してもいました

でも
なぜか
不思議とそういうときに
特定の個人との出会いが与えられました

ホームレスの方や
主に従いたいと決断された方や・・・

そのときに僕らが離れたらその人のその先の人生が大変になってしまう
ということのみで
京都に残る決断を繰り返しました

残念ながら教会のことで残ったわけではありませんでした

教会だけならば
その頃いただいたいくつかの招聘先のほうが
僕の知識と経験を生かせたし
それぞれの教会に一緒に宣教を担いたいというパートナーとなるだろう魅力的な人もいたので
(牧師がどこの教会に行くかというのは
 一緒に教会を担うパートナーがいるかどうかを基準にすべきと今は思います
 悩んでいる方そういう視点をぜひ)
あっさりと移動していたと思いますが

僕はどうも
出会うことのできた方というか
不思議と出会ってしまった方との
関係の質が深まる前に
すぐに会うことのできない距離に移動するという
ある意味冷たい選択を
することのできない人間のようです

しかしそれが幸いしました

そういう出会いと僕の性質の結果
いやいや
これこそキリストの出来事なのだろうと信じるしかないのですが
そのおかげで
京都教会に居続けることができて

毎週ウチの教会に起こされる奇跡に立ち会うことができて最高に幸せです

同時に
京都を離れようと考えていた僕自身の未熟さを再発見して
悩み祈るばかりです


またこの奇跡の出来事は
実は心が軽くなるとかすっきりするなんてことではありません
むしろ逆で
さまざまなことを身に引き受けることになるけれども
つまり疲労や困窮がより多くなるけれども

しかし
はっきりと
最高に幸せ!と断言できます


そして今は
京都教会の交わりゆえに
ここを離れる気はまったくありません

それを確信したのは
すでに天に召されたYさんの祈りが
教会で具体的に起こされたときです

Yさんは私の赴任当時にはすでに真剣に祈り
また私にも直接仰ってくださいました

若い人や子どもがあふれる教会になりますように!
全年齢層の教会学校が教会活動の中心になりますように!
若い手話通訳者が起こされますように!

11年前の赴任時は
このみっつとも客観的にかないっこない夢でした

親についてくる子どもはいましたが
子どものためのプログラムはありませんでした
(個人的にしているプログラムは月に一度ありました)

教会学校は有志で行われていましたが
役員会は自分たちには関係ないと明言しました

以上のふたつは僕がたたかえばなんとかなる可能性もあるけれども
手話通訳者だけはどうしていいかもわかりませんでした


しかし今

若者と子どもがあふれているではありませんか
礼拝の中に組み込まれた子どもメッセージは
年々質が高まっているではありませんか

教会学校は終了時間をいつもオーバーするほどにもりあがっているではありませんか
そこでは礼拝説教以上に聖書が聞き取られるケースが出てきているではありませんか

なんと
20代と30代の手話通訳者が起こされているではありませんか
毎週礼拝前の手話の学びのときが生き生きとしているではありませんか

いまYさんが生きておられたら・・・

しかしキリストと共に死者としていまの状況を喜んでくれているに違いない・・・


さらに今
営繕関係も
レクレーション関係も
予想を超えて整っています


というわけなので
くりかえすのだけれども
こういう教会が丁寧に生きられれば
あらたに教会家族に加わる方はおのずと増えるわけです

迎え入れる精神というか
出会いを生きる姿勢というか
つまり信仰とか愛が
なかなか熟されてきたということです

そういえば
11年前は受付もなければ新来者の紹介も新来者への挨拶もなかったわけですから・・・


この3年ほどでなにゆえに急にいろいろと整ってきたかというならば
それは
これらの基礎である
「交わり力」(2003年ごろから用い始めたことば)
「チーム・キリスト」(2008年から用い始めたことば)
にこだわり
それが熟してきたからに違いないと思います



こんな感じで

次は
さらに礼拝の中身を深めたいと思います

賛美と証を担うことのできる礼拝をみんなで考えていきたいです

とりわけ教会音楽のチームが熟されることを期待し祈ります


さらに
総務のチームに次世代が加わることを期待し祈ります
(ウチの教会の総務チームは
 有給スタッフのいないチームとしては
 日本一ではないかと結構本気で思っています)

Yさんのように祈ることできるようがんばってみます



本当は実は昨日の目頭が熱くなる物語を書こうと思ってPCに向かったのですが
なぜかそこに行きつく前にこんなに長くなってしまったので
(だいたいいつも書き始めると
事前に考えていたことと違うことを書いてしまいます)

その物語はまた後日

ではでは

バザーに向けて

2009年10月18日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

******************


「バザーに向けて その3」


11月3日(休)のバザーまで二週間となりました。
現在地域からの献品は46口で数千点となっています。
さて今週は2003年に作成の小冊子「バザーをつくる」から、バザーの準備について分かち合いたいと思います。

この小冊子には準備についての次のような項目があります。

1、 祈る
2、 献品する
3、 知人、友人を誘う
4、 地域に宣伝する
5、 手作り品のお手伝い
6、 値札付けのお手伝い
7、 最終打ち合わせ会の出席
8、 前日のお手伝い
9、 当日のお手伝い

現在は
この中の5から9は書く必要がないほどに行き届いているとも思います。
となると今年は、
1から4をより意識できるバザーを迎えているのだなあと、
教会の仲間に感謝しつつ感じております。

5から9に関しましては、
たとえば先週の火曜日の作業では、
驚くほどのチームワークで、驚くほどにたくさんの作業をこなし、
しかも明るく開放的で、
このメンバーでビジネスをしたら成功するなあ、
と、かつてマーケティングを学んでいた者として心から思ったほどです。

そしてこういうチームは、いまや教会のあらゆる場面で誕生しています。

最近ならば、
墓地整備や小羊会、
さらに信徒による牧会チームの個々の場面での誕生が、
当教会の標語ともなっている「チーム・キリスト」の具体化として起こされており、
私は心からうれしく感謝しています。

そして、このようなチームをささえているのが、
この項目でいうところの1から4であり、
教会の伝統的な言葉で言う、
礼拝、祈祷、献金、奉仕、宣教、伝道という本質の部分です。

またさらに言うなら、
1から4は
人間がする前にキリストがなさる、ということを確実に知る出来事ともいえます。

そう!
バザーはキリストにより成立します!
このことを最後に確認し、共に準備をすすめたいと願います。


*********************

その1とその2は
前週と前々週の週報巻頭言なわけですが、
その1はバザーの歴史
その2はバザーの目的
を確認するものでありました。


献品は、この文章を書いた後にも頂いており、現在52件です。
感謝感謝でございます。
言葉に言い表せないほどに
胸がいっぱいになる思いを頂いております。

献品は10月いっぱいまで受け付けております


では今週も
本日の礼拝からスタートしましょう!

礼拝45分前なのに
すでに教会の庭は子どもの声であふれています

本日の教会一番乗りは朝7時半でした

早く来たくなるくらい礼拝は幸せなんですなあ

感謝感謝

天に宝を

2009年10月16日 | 教会のこと
ウチの若菜さんは

教会活動の背景といいますか
裏方といいますか
土台といいますか
つまり
表に現われないし
評価もなかなかもらえないような

下働きならぬ下奉仕

の場面をデジカメで残すことをしてくれています

命をかけていると言ってもいいくらいです
だって
こういう見えないところでの奉仕が
教会を支えているというどころか
教会の本質であるし
キリストにとっては
表の中の表なわけです

だから
歴史が語られていくときには
こういう場面こそが語られねばならないわけです

しかし
そんな感じで写真を撮られたとある青年がこのように応えてくれたそうです


「天に宝を積ませないわけですね」


なるほど
とても面白い

キリストにとって表の活動は
人間社会の中では見えてこないままも全く問題なく
もしかしたら
むしろ見えてこないほうがいいのかもしれなくて
見えてきたら
今度はそれが
人間社会の中で表と認識されて
それゆえに
つまりキリストのためではなく
人間社会で評価されたいがために
見えてこなかった奉仕をし始める
なんてことが起こるのだろうなあ
と学ばされました



ウチの教会がすごいのは
見えない奉仕をすすんでする人があふれていること!

これは奇跡

良く見える奉仕はするけれども
見えない奉仕はしないどころか
見えない奉仕の存在を知らない
という教会だったわけだから・・・

だからわたしは
イイワケとアリバイから解放されよう
という半ば標語にもしてきたメッセージを
ずっと語り続けてきたわけですが
気づけば
最近は語っておりません


でも
現在の人においては
イイワケとアリバイからの解放が見られてきておりますけれども

残念ながら
形骸化時代のイイワケとアリバイがかちこちに残っているのも事実です

たとえば
コンセプトのない新教会堂
献金を議論することないままにはじまった駐車場収入や会場収入

そして
体に染み付いているものとしての無意識領域のイイワケとアリバイ
意識に上らないものとしての
祈りと聖書と奉仕と交わりと献金の日常生活でのプライオリティの低さ

はまだまだこれからの課題でもあります

しかもおそらく最も大きな課題です



だからウチの教会の仲間は常にめいめいチェックしていきたいと願います


この無意識のイイワケとアリバイは

キリストという他者と共に
他者のために生きる
つまり
他者と共に徹底的に準備を整えて礼拝する
という具体的な時間と場所によって

消えます


そういう礼拝が

純粋でない教会収入を不必要とし
みんなが喜ぶ教会堂改築を生み
みんながみんなを覚え祈るという交わりを生みます


この世界はイイワケとアリバイで儲かりますが

天に詰まれる宝はその逆です





「天に宝を積ませないというわけですね」

と応答がとある青年から生み出されていることに

アメージンググレイス

と賛美するしかないのでした


若菜さんには
そういう写真をこれからもどんどん撮っていただいて
もっとたくさんの人が
「天に宝を積ませてくれえ」
って叫ぶようにしてほしいものです


感謝感謝

聞くこと・・・さらにつづき

2009年10月10日 | 「生きる」こと
聞く能力とは壊す能力のこと

というのがよくわからない

とさらなる応答をいただきました


なるほど
そりゃあそうです
いきなりこんなこと書かれてもねえ・・・

すみません


聞くことは人を自由にします
聞くことで
その聞いた内容に吹かれるように聞いた内容を生きることができます

きっと聞くってのは他者からという方向が明確だからだと思います
それは他者と共に生きるということだし
交わりに生きることであるし

信仰的に表現するならば
これぞ
聖霊によって生きるということだからです




聞くことは交わりに生きることで聖霊に吹かれて歩むこととわかるなら

聖霊が凝り固まったさまざまを壊すのと同じくして
交わりが
すなわち他者から聞くということが
凝り固まった自分を壊してくれるわけです

よって

聞くことは壊すこと

となるわけです

これでもむずかしいねえ
たぶん


さてさて

一方でしかし

壊すことを一生懸命に語り続けるケースもあります

たとえば
批判とか相対化ということばを用いつつ


でもね
壊すことってのはそんなに語らなくていいのです
壊すためには聞けばいいのです

聞く範疇でなく
語る範疇で壊すことを語ると

その交わりの中で
聞くことのできる人たちはたしかに豊かに壊して豊かな人格となるけれども
壊す壊すといっている本人が壊すことがないということが起こります

そうすると
壊す壊すという本人とか小さなグループのいいように
交わりの中で
政治ができるということになります


だって他の人たちは壊せっていわれて素直に壊すけど
本人は壊さないから壊れてないものが浮き上がってくる!!


小泉元首相がそうでしたもんね


でもそういう交わり(教会も含めて)って結構たくさんあります


壊すってことは
ものを考え始めるときに
いわゆる概念崩しを常にするという訓練を多少すれば
その後にたくさん語る必要がないわけです

壊すことを語る暇があったら
つくられるものを語ったら言いわけです

相対化を語る暇があったら
自分の思いを語りきったらいいわけです



わたしのこの15年くらいを知っている人は笑っていると思いますが

実は
こういういわば相対化原理主義からの解放が
わたしの最近の15年の道なのです


ほんと解放されるべき!!


さて

解放されないとどうなるか

それはひとことで済ませられます


自分を美化してしか生きられなくなるということ

壊すとか相対化とか言い続けると
なぜか
自分のしてきたことを美化し
これからすることの理由を美化します

してきたこともすることも
一長一短があるのに
その短を無視するようになります

不思議??


わたしはこれに縛られてきましたから
かなり断言的にいうことができます



新自由主義は
壊すとか批判とか相対化とか個人とか語りつつ
実は壊すことなく美化するというものだと思います


というわけで

聞くことが壊すこと
ということは
聞く能力は赤ん坊からして持っているわけだから
壊すことをそんなに叫ばなくても
みんなするわけで
しかし
そういう元来の能力だからこそ
壊す!
なんていわれると変に共鳴してしまって
そう叫ぶ人についていくなんてことにもなってしまうわけですが
ゆえに利用しやすい言葉なのですが

壊したいなら
聞く

というところでいかがでしょう

ではでは

聞くこと・・・ひとつ前のつづき

2009年10月09日 | 「生きる」こと
昨日の記事がちょっとわかりづらい
という応答をいただきました

なるほどそうだと思いました

聞くことと語ることを
別々のものでなく
同じものとしてしまおう

ということなので言葉で説明するとぐちゃぐちゃです

この根本は

私たちは
キリストから
聖書から
聞く
ということにおいて命とされ生きるわけです

そして
聞くことがイコールキリストに従うことであり
それは同時に時代地域の雰囲気や思想が平和をくずすならばそれとたたかうことであり
そのゆえに語る
ということが命であり生きることなわけです


それはまずはキリストと同時性を生きると表現できるかもしれません

それは
わたしたちが二千年前のイエスのもとに行くということと
今、イエス・キリストがここにおられたら
何を行為するか
という大きくわけたらふたつがあると思います

同時に
イエスが子どもたちや学生たちのもとにいったら何を語るか
わたしが子どものころや学生のころ
イエスはいったい何を語っていたのだろうか
つまりわたしは何を聞いていたのだろうか

となってくるはずです

これらをイエス・キリストという事柄抜きで表現すると
昨日のような記事になったわけです

つまり
キリストが語るゆえに
赤ん坊からして
聞く力は高められていて

また聞くという力はキリストを聞くという力ゆえに
人間には測ることができない力でもあるということです


たぶん
キリストを信じていない方々でも

昨日のような
聞くことと語ることに関しては
おんなじようなイメージをもたれているかたは多いだろうと思います。


そこをキリスト信仰から見ると
根拠を語ることができるということになります

無論
キリスト神学において
この根拠が自明でなく
根拠もまた議論をへて
表現が変化するわけですが

しかし
根拠を議論するうえでいろいろと議論するのと
根拠の議論がない中でいろいろと議論するのでは

実はえらい違いがあるだろうとも思います


あらら
ますます難しくなってしまったでしょうか

すみません

いくつか

2009年10月08日 | 「生きる」こと
今はとても気持ちがいいです


昨晩はひやひやでした

雨と風はいつどれほどまで強くなるのか

でもいずれもそう強くはならずに
台風は過ぎてくれました

さきほどようやく乾いた通りの落ち葉を
気持ちのいい日差しと風を受けつつ
掃いていくという幸せを味わっていました

大きな雨はいつもひやひやです
鴨川が増水すれば
持ち物も家も失う仲間がいるから・・・

そしていつでも対応できるよう準備しておりましたが
それが必要なかったという最もありがたい結果となりました

被害にあわれた皆様を覚え祈ります



実は今
妻は全国女性大会に参加しているため
私と息子4人で生活しています

なかなか大変ですが
みんなで協力しながら楽しんでやっています


そんな中で
今週の朝は同志社高校の礼拝説教

よく聞いてくれるのでいつも驚きつつ感謝するしかありません

聞く
という能力は
若ければ若いほど高いと
わたしは思います。

逆に
語る
という能力は
歳を重ねれば重ねるほど高くなると思います


だって
そもそも赤ん坊は聞くことがコミュニケーションのほとんどなわけですし
聞くという能力により
成長していくわけです

そして少しずつ語ることができるようになりますが

ここで大人が勘違いしてはならないのは
語る能力で子どもを判断することはできないということです

語る能力とは異なり
聞くことに関しては優れた力を発揮しているので
その聞く能力で判断してあげたいと思います

しかしこの聞く能力というのは
語る能力と違って
よくわからないものでもあります

でも
わかる方法もあります

それは

歳を重ねるにつれ聞く能力はだんだんと低くなっていくけれども
しかしなんとかねばって
若い人と同じだけの聞く能力を発揮してみるということです

それは自分が2歳になったり10歳になったり15歳になったりするということです

こういう風に昔の若い日を思い出すとき
自分が何を語ったかということを思い出す人はそうそういないと思います

何を見たか
何を聞いたか
何を触ったか

ということが思い出されるはずです

そうすると
目の前の若い人の現状が見えてくるだろうと思います


そして
はじめて礼拝のおはなしを考えます

そうすると
高校生も聞いてくれます


あと不思議なのは

語る言葉も自分が高校生のころに持っていた語彙に変換できるということ


昨今は
どのように語るか
という教育をしすぎだと思っています

アピールの仕方
プレゼンの仕方
表現の仕方
などなど

しかし

聞いたこともないことを表現できはしないし

聞いている分量が少ない中で表現しすぎると
それが原理化して
逆に後々壊すという作業がえらい大変にもなったりします
(無論聞く能力というのは壊す能力でもあるゆえに聞くことのできる場合は心配ないのですが)

表現は
歳を重ねればその能力がどんどん高まります
しかし
それをさらに高めるためには

若いうちにどんどん聞いてもらうことです

それは
語る側がその聞く人の年齢にいったんなってみるというところから語るということでもあります


というわけで
中学生や高校生におはなしをするというのは
わたしにとっては恵み以外のなにものでもありません

教会で子どもメッセージを大人みんなで担うにも
まさにこれです

大人に語るときの倍以上の準備を要しますが
後輩に聞かせることは
人間の重大な責任です




今夜は
息子四人と私の男のみの最後の夜なので
楽しい夕食にしたいと思います

ではでは

大人はずるい

2009年10月06日 | 「生きる」こと
パパずるい


息子たちからよく言われます
みんなしゃべれるようになったら
けっこうすぐにこれを言います

そこで

ずるくない!

なんていうウソで応えても仕方がないので

そうなんよ!僕はずるいんよ!ごめんな!ゆるしてな!

と言ってきました

しかし
いつからかよく覚えていないのですが
(5年前くらいかなあ)
ふと気づきまして
言い方をかえました

そうなんよ!大人ってのはずるいんよ!ごめんな!申し訳ないけどそのことは知ってくれ!



大人
という一般名詞になるという
これまたずるいことをしているわけでもありますが

でも

大人はずるい!

のです


わたしは
子ども時代に大人がずるいことを知ることは悪くないと思っています
むしろ大事だと思っています

なぜなら
大人のずるさを最もよく感知できるのは子どもだからです


そこで大人が
ずるくない!
というウソを言ったら
子どもは本当にそのような原理を受け入れて
そこからいろいろと考えて

最終的には

ずるいことがずるくないことになる!

というウルトラCを導き出すと思います

つまりそういうふうにして
ずるさが純粋に麻痺するだろうと思います

でも

大人はずるい
という前提を知らされるならば

大人になるにつれ
ずるくなっていく自分を発見して
それとたたかうことになるだろうと思います

でも嫌々
ずるくなる道を選ばざるを得ないという
苦しみを味わえると思います



というのは

純粋に
まったく悪気なく
ずるいことをしている
大人なりたての人たちに
度々出会います

ずるいことをしているという意識なく
むしろ純粋な良心でもって
平然とずるいことをしていたりします

そして
そういう人たちの親などまわりの大人も

同じように
ずるいことをしているのに
ずるいことをしていないという風な生き方をしています



こういうケースを結構真剣に見つめて考えてきた中で

ひとつ確かなこととして言いたいのは



について無知な場合にこうなるなあ

ということです



大人はずるい

ということを十字架として背負うときに

大人は
本当の意味で
大人になれるのだと

思っています


わが子たちへ

ずるくて本当にすみません・・・

「いろんなの」を「どう」するか

2009年10月03日 | 「生きる」こと
日々生きていくと
いろんな人や物事と出会い
いろんな責任が生じていろんな現象が起こるので

どうしても
そういう「いろんなの」を「どう」見て受けて考えるかというのが
必要になってきます


その

「どう」

というところが
時代と共にかわってきます

でもきっと決して時代と共によくなっている
というわけではなくて
時代の雰囲気のなかで
いずれかの

「どう」

が選ばれているのだと思います


それを本日は大きく分けてみっつほどでみてみたいと思います

ひとつは
なにかしらの答えを見つけて
その答えと比較するかたちで
「いろんなの」
を考える方法があります

このなにかしらの答えは
総括
と呼ばれたこともあるし
主義
と呼ばれもするし
原理
と名づけられたりもします

そこでは
人と人は答えと答えをぶつけあって戦います

40年くらい前に流行していたやつです

そしてその後
ひとつの答えが権威をもつというのが
30年位前から10年くらい前まで流行っていました
これは原理主義なんて呼ばれていました


不思議と今
以上のふたつの「どう」がぶつかる場面に出会うことが多いです

お互いにいろいろ言うのだけれども
結局は
一応権威というテーマは出るにしろ
答えに縛られている点は同じなので
出口がないだろうなあと思います



さてふたつめですが

これは
目的は一緒というところでひとつになり
でも
プロセスは違っていいのだ
というところで
ばらばらを奨励する

「どう」

です

だから

「いろんなの」
は将来から見るかたちで考えることになります

すると
一応個性が保障されます

現在はみんなばらばらの個性でいいわけです

しかし
そういう個性を強調するほどに
まず間違いなく
同じ目的を確保しようとするのが面白いです

それが目的にならず
分かりやすい利益になる場合もあります

すると
ビジネスライクなお付き合い
となるみたいです

これは20年前くらいに流行していました


でも今は廃れたかというと
そうではなく
今は
目的とか目標から今を眺めて
手段なり戦略なりを考える
「どう」

当たり前になってしまいました

いいのかなあ?

わたしはかなり不安視しています




みっつめですが


それは
同時代に同地域に生きる者と
なにしろ
目的も意味も見つけることなく

一緒に具体的に居る

というところから
互いの具体的な身体運動(発声、表情、ぬくもり、顔色などなど)から
そのときその場で知るべきことを知り
語るべきことが語られ
受けるべきことが受けられるというかたちで
「いろんなの」
が行き来するという

「どう」

です


これは流行しません

たぶん大変だからだと思います

でもわたしはこの
「どう」
で生きていきます

この
「どう」


不思議と
人を
安定させるし
賢くさせるし
愛に向かわせるし

なによりも
すぐに自らの限界と出会わせてくれるし
それゆえに

絶対的他者を知るしかなくなるし
ゆえに
他者を知ることにもなるからです



だからわたしは

意味とか意義とか目的とか答え
ではなくて

どれだけの時間とさまざまな力(体力、知力、経済力、技術力などなど)を割いて
祈り準備し行為しているか
どれだけの情熱の中で共に具体的に生きているか

というところで

「いろんなの」

を考えています



その祈りと準備と行為と情熱が

意味を見いだせなくても
なんらかの結果を出さなくても

まったく問題ないわけです


だってね
意味とか結果とか目的ってのは
キリスト
という出来事で十分で
他のことをそこに入れる必要はないのだから


というわけで

「いろんなの」を「どう」するか

について

ちょっと書いてみました

おしまい