きぼう屋

生きているから生きている

参観

2008年07月09日 | 「生きる」こと
今日は久しぶりに
息子たちの授業参観に行ってきました

若菜さんが出産したてで
まだ行ける状況ではないので
ならば俺が!
という
変な
また
いんちきな
責任感でもって行ってきました


最初に1年生の添くんのところへ
目立つところに立ちました

他のお子さんたちは
大人を気にして何度も周囲を見るので
知らんおっちゃんが来た
みたいな顔をしてくれるのですが

添くんは
ぜんぜん周囲を見ないで
たぶんいつもと同じ感じで
授業を受けていました

気づいてくれたのは3分ほどたってから
満面の笑みで手を振ってくれました



その後は2年生の共くんのところへ
共くんもなかなか気づいてくれません
となりの女の子に話しかけてばっかりでした


気づいてくれたら
これまた満面の笑みでVサイン

最後に4年生の空くんのところへ
空くんもなかなか気づいてくれません

たまたまわたしの前に座っていた子が
手を上げて発言したので
そのときにその子を見て
そのうしろのわたしにも気が付いた
というわけでしたが

ニター
としておりました


最後にもう一度添くんのところへ

あらら
なんと
机をコの字型に並べてあったので
中央があいていたのですが
そのあいているところで
踊っておりました

そのあとは他人の席に座っておしゃべりしてるし・・・

わたしは5分ほどいましたが
まったく気が付きもせず・・・

うーん

先生たちはみんなよくやってくれておりました

個性は見えてきません
というか
個性を出すことのできる学校方針ではないようでして
そのあたりは見ていて面白くないところでした

だから
よくやっているというか
がんばっている
という感じかもしれません

先生たちの人格がにじみ出るのではなく
演技が光っている感じでした

でも
演技するしかないところでは
それを極めるというのも
大切なことなので

やりぬいてほしいところです
しかも
心身が壊れないようずぶとくやりぬいてほしいです

あたしゃ祈りますよ

授業の中身は
教室から何か生まれるという
わたしが期待するものでは
ありえるはずもなく

最初から答えの決まっているものでした

答えが決まっていてもいいのですが
その答えが深いものだといいのですが
残念
不思議とすべての授業が科目が違うのに
経営方法論によるところの答えを持つものでした

2年生なんて
ポスターをみて
なにが書いてあるか
どう工夫してあるか

というような
広告論の最初の授業みたいなことをしておりまして

ちょっとつまらなすぎます
こういうのは
小学生の時分にすることではありません

これでは
お国のために

益得のために
となっただけで
それも
武器による戦争が
お金による戦争へと
変わっただけで

すごいプログラムでやっているようで
洗脳の領域から解放されておりませんぞ



こういうやさしい領域のことは
もっと頭の悪くなった大人がすればいいことで

頭が切れまくっている小学生は
大人ができないことをやればいいわけです


なんていう教育論は
通用しないわけだから
こうなっているのでしょうが

でも
現場の先生は
子どもたちと毎日接するわけだから

こんなんじゃあ
子どもが
小さく窮屈になっていく
ということを感じるんじゃあないかなあ

と思うのですが

どうでしょう

教育委員会はまったく応援しませんが
現場の先生は心底応援します

といったところで

今日は寝ます

明日も朝6時半から7時10分まで
息子たちとランニング&キャッチボール
です


ではでは