きぼう屋

生きているから生きている

教会の総会

2012年02月26日 | 教会のこと
今週の週報巻頭エッセイです。

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「教会の総会」

いよいよ本日午後には私たちバプテスト教会が大切にしている総会が開催されます。
バプテストは歴史的に近代世界の個人を尊重する考え方に大きな影響を与えてきました。
それは総会による教会や地域の運営へのこだわりから生まれたとも言えます。

総会は多数の意見をもって事柄を決定します。
しかし不思議と聖書には多数の意見による決定と運営という記事がありません。
逆にまずすべては個人か少数者の意見を持って事柄が決定されていきます。

となると、バプテスト教会をはじめ多数決を採用する教会は聖書に反しているということでしょうか。

私は、そうではなく、現在の総会による決定と聖書の少数者による決定の本質は同じである、と考えています。
それはどちらも、実は少数者の意見が尊重されるというところにあります。

聖書では、神に召された特別な少数の人たちの意見が採用されます。
そしてその特別な人たちは神と対面する(厳しい)責任を負います。

しかし私たちバプテストは、聖書の読む中でもうひとつ解釈をさせていただいています。
それは、神に召された特別な人は限られた少数というのではなく、みんなが特別であるという解釈です。
そして全員が(厳しい)神との対面をすることを選び取りました。

だからみんなが特別でみんなが祈りみんなが意見を与えられることを信じ、望み、大切にします。
これが個人の尊重の中心点です。

そして運営上総会において同じ意見の者が多かったものを採用します。
しかしここで大事なのは、
多数であった意見が意志として採用されるということではなく、
すべての意見が総会参加者の意志となりつつ、
でも、採用順序は、多数のものからとなるということだと思います。
つまり、多数意見で歩んだときに行き詰ったならば、
自由にやわらかく少数意見で歩みなおすことができるというものだと思います。

同時に少数者のみが神と対面するのではなく、
みんなが対面することを選ぶバプテスト教会は、
みんなが神と対面するなかで祈り神のみこころを求めたにもかかわらず、
それらが一致しない経験を重ねる中で、
人が神のみこころを知ることの限界性、みこころを知ることができないという罪人性を学びます。

だからバプテストは、自分の意見や思いが実は誤りの多いものであり、欠けていることをよく知ることとなります。
でも、その欠けを主イエスが補ってくださることを信じ祈りつつ、覚悟を決めて意見を言わせていただくわけです。

ボンヘッファーは「人の行為は悪と悪との選択(「キリスト教倫理」)と言いました。
私たちは各々思いを持ち意見を表しますが、
しかしそれは私たちが人である以上悪と悪との選択であることを知りつつ表明します。
これが主の赦しなしには起こりえない総会の大きな恵みではないでしょうか。

主に赦され、主に補われつつ、ご一緒に総会を頂いてまいりましょう。

地域と教会

2012年02月21日 | 教会のこと
今週の日本バプテスト京都教会週報巻頭エッセイです。

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「地域と教会」


「地域に立つ教会」という標語がほぼ全ての教会で叫ばれるようになって久しいわけですが、
今一度この標語の中身を分かち合いたいと願います。

教会にとって「地域」とは何でしょう?

私が経験してきたキリスト教界の議論から、
教会の持つ教義や生活原理を教える対象、
あるいは、単純に教会活動のために必要な人や献金の在り処が「地域」と呼ばれているケースも、少なからずあるようです。

でも私は
そのように教会のために地域があるという方向ではなく、
地域のために、地域に奉仕する教会があるという方向で
「地域」を知る必要があると考えます。

教会は、地域に転がる困窮は何か、今日的社会課題は何か、つまり地域の負う十字架は何か、について真剣に考え、
先立ってその十字架を背負われる主イエスと共に、
神の愛を受けつつ、
地域の十字架を背負うことが教会の使命であると思うのです。

20世紀最大の神学者と言われるカール・バルトは言います。
「例えば『イエスと宗教改革』、『イエスと伝道』というように関連づけることに私たち教会が慣れ親しんでいるのと同じ意味で、
私たち教会は今や『イエスと社会運動』と言うのです」。

そして福音書のイエスの行動から、
「イエスの人格の本来の内容は、事実、『社会・運動』の二語に要約することができます」
とも言います。

さらに、教会の歴史を次のように語ります。
「1800年もの間、キリスト教会は社会的困窮に相対して、
常に精神を、内面的生活を、天国を指し示してきた。
教会は、説教し回心させ慰めてはきたが、
しかし助けることはしてこなかった。
そう、教会はいつの時代にも、社会的困窮に対する助けを、キリスト教的愛のゆえになされるべき一つの善き業として奨励してはきたが、
『助けることは善き業そのものなのだ』と、思い切って語ることはしてこなかった。
教会は『社会的困窮はあるべきではない』と語ることをせず、
かくして、教会の全ての力をこの<あるべきではない>のために注ぐことをしてこなかった。
(省略)教会は、社会的困窮を、ある出来上がった事実として甘受し、
その代わりに霊や精神について語り、内面的生活を文化的に洗練し、天国のための候補生を準備してきたのであった」

これからはますます<あるべきではない>困窮にあふれる社会になります。
私たちは地域に立つ教会として、
この時代のこの場所に生かされているキリスト者として、
キリスト・イエスに従いたいと願います。

信じ、祈り、礼拝する自由

2012年02月17日 | 教会のこと
おそくなりましたが、
今週の週報巻頭エッセイです。

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「信じ、祈り、礼拝する自由」

昨日の2月11日を、日本のキリスト教界や仏教界は信教の自由を守る日として覚えます。

それは「建国記念日」として定められたこの日が、神道の信仰観による国の起こりに由来し、
他の宗教の信仰を排除するものとなっており、
またかつての戦争時には他宗教の信仰を国家が迫害した歴史的事実があるからです。

さらにイギリスで国家から迫害されアメリカ大陸に逃げたバプテストは、
特に信教の自由を守ることを大切にします。

信じる自由、祈る自由、礼拝する自由は、国の情勢によってはすぐに無くなることを歴史は証明します。

そこで私はまず、私たちが何ゆえに信じ、祈り、礼拝することをやめたくないのか、
その理由を主イエスの言葉から確認したいと思います。

主は言います。
「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
悪口を言う者に祝福を祈り、あなたを侮辱する者のために祈りなさい。
あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。
上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。
求める者には、誰にでも与えなさい(ルカ6章)」。

私たちが信じ祈り礼拝する自由を守るのは、
敵を愛し、敵の重荷を共に背負い、敵に贈るためです。

信仰者から信仰の自由を奪い迫害する者たちを愛するために、奪われようとする信仰を守るのです。
ここがポイントです。

つまり私たちは、
信仰を守るために、その信仰を奪う敵を攻撃したり裁いたりすることは主の言葉ゆえにできないのです。
私たちは敵を愛するために信仰の自由を守り、
そのための手段としても、敵を愛することのみを選びます。

さて、迫害はこっそりやってきます。
国家が暴力で迫害するときは、国は既に戦争状態であり破綻状態であろうと思います。
私たちは戦争や生活破綻を招かないためにも、
こっそりとわかりにくく迫る信仰を奪う力に気付くセンスを養い、
そのために信じ祈り礼拝を続ける必要があります。

主イエスが言うように信仰者は必ず迫害されます。

でも私たちは迫害する者がいないと思い込む癖があります。
迫害はこわいからです。
そこでは、敵を愛するのではなく、
敵がいないと自己暗示をかけ、自分を安心させることが起こります。
同時に愛する行為は選ばれなくなり、
愛や対話や和解ではなく、時代の空気に合わせる仕方でめいめいが自分を守ることを選び始めます。

そういう群れは内輪になり新しい仲間を受け付けなくなります。
国もいつの間にかそういう内輪の群れとなり、
他国や地域への愛や対話、和解よりも、軍事戦争、経済戦争を選び、
さらに国の空気と異なるもの、とりわけ信仰や思想を排除するようになります。

それはまず市民レベルで起こります。
人々の心が時代の空気に圧迫され知らず知らずに狭くなる仕方で迫害が始まります。
そして国家暴力に繋がっていきます。

我ら教会は空気に流されるという迫害を察知できているでしょうか。
私は、主の愛を受け他者を愛するところからその可能性が見えてくると信じます。

そして愛するために信教の自由、つまり、信じ、祈り、礼拝する自由は欠かせません。

だから私たちは、2月11日を信教の自由を守る日として、毎年覚えます。

総会というキリストにある行為

2012年02月06日 | 教会のこと
日本バプテスト京都教会の今週の週報巻頭エッセイです。

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「総会というキリストにある行為」

早くも2月。当教会の総会の季節です。
私たちバプテストは総会を権威とし、最高決定機関とします。
教会(教派)によっては、牧師や執事会(役員会)が決定機関であるケースもありますが、
バプテストは総会を選び取っています。

また、日本の宗教法人法でも役員会が決定機関とされますが、
バプテストはそれでも総会を選び取ります。

最高決定者とは、最終責任者と同じ者でありましょう。
つまり、その交わり、団体、教会にかかわる仲間たちの命、生活、そこにおける困窮、重荷を、
「私は共に背負う覚悟も持つ」という者のみが、決定に参与できるわけです。

すると、特に法においては、その最高決定者が必ずその責任を負うという線をはずせないため、
代表者や役員がそういう役割を持つよう定められるということもありましょう。
すると、メンバー全員による総会は、責任を負う覚悟のない者も決定権を持つ可能性がどうしても高く、
国家の法や多くの教会の法では採用できないのかも知れません。

しかし、それでもバプテストは総会を採用します。

それはバプテストが聖書の証言するキリストにこだわる教会だからと思います。
逆にいうと、キリストと異なっている現実の国家や団体の行為、方法を、キリストに従うゆえに選ばないわけです。

しかし良くも悪くも総会による決定は理想ではあれ、世の現実からすると隙だらけです。
責任が担われない決定が次々に生まれます。
当教会のこれまでの総会決議の中にも、尊重されないものは多々あります。
そういうケースでは、もしかしたら、
無意識にも最高決定機関は教会家族の総会ではなく、血縁家族や自分となる現象が起きているのだと想像します。
そしてきっとこれが国の法も知るところの
総会を最高決定機関とする最大のデメリットなのだろうと思います。

でもバプテストはそれでもなお総会を選び取ります。

それは、
総会参加者みんなが確実に
「教会共同体の仲間と運営の全責任を背負う覚悟ができている」と語る日、
つまりキリストと共に十字架を背負う行為をなすことができる日が、
必ず来る!という理想に賭けているからです。

総会は、キリスト(自分ではなく)が私たちに何を要請しているか、みんなで祈り求める場です。

総会は、この世における神の国の象徴である教会の交わりと働きと運営とが、
招かれたみんなの具体的献身と献金という責任の中で祝されていくことを、
具体的に確認し計画する場です。

総会は、当教会の交わりに招かれたみんなの顔と、これから招かれる将来のみんなの顔を想起し、
「そのみんなの命と生活と困窮と重荷を私は共に背負う」という覚悟を、
互いに響き合わせつつ、意見を交換し、事柄を決定する場です。

これらが起こされるのは、
神さまが、キリストをそのような方として、
つまり私たちの全てを身代わりとなって背負われ、それも私たちの愛がなく無責任という罪のために十字架で死なれた方として、
私たちにささげてくださっているからです。
私たちはその神の愛を受けているからです。

だから、私たちは、キリストゆえに
理想たる総会という行為に、今年も挑戦してみたいと思います。