今週の週報巻頭エッセイです。
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「教会の総会」
いよいよ本日午後には私たちバプテスト教会が大切にしている総会が開催されます。
バプテストは歴史的に近代世界の個人を尊重する考え方に大きな影響を与えてきました。
それは総会による教会や地域の運営へのこだわりから生まれたとも言えます。
総会は多数の意見をもって事柄を決定します。
しかし不思議と聖書には多数の意見による決定と運営という記事がありません。
逆にまずすべては個人か少数者の意見を持って事柄が決定されていきます。
となると、バプテスト教会をはじめ多数決を採用する教会は聖書に反しているということでしょうか。
私は、そうではなく、現在の総会による決定と聖書の少数者による決定の本質は同じである、と考えています。
それはどちらも、実は少数者の意見が尊重されるというところにあります。
聖書では、神に召された特別な少数の人たちの意見が採用されます。
そしてその特別な人たちは神と対面する(厳しい)責任を負います。
しかし私たちバプテストは、聖書の読む中でもうひとつ解釈をさせていただいています。
それは、神に召された特別な人は限られた少数というのではなく、みんなが特別であるという解釈です。
そして全員が(厳しい)神との対面をすることを選び取りました。
だからみんなが特別でみんなが祈りみんなが意見を与えられることを信じ、望み、大切にします。
これが個人の尊重の中心点です。
そして運営上総会において同じ意見の者が多かったものを採用します。
しかしここで大事なのは、
多数であった意見が意志として採用されるということではなく、
すべての意見が総会参加者の意志となりつつ、
でも、採用順序は、多数のものからとなるということだと思います。
つまり、多数意見で歩んだときに行き詰ったならば、
自由にやわらかく少数意見で歩みなおすことができるというものだと思います。
同時に少数者のみが神と対面するのではなく、
みんなが対面することを選ぶバプテスト教会は、
みんなが神と対面するなかで祈り神のみこころを求めたにもかかわらず、
それらが一致しない経験を重ねる中で、
人が神のみこころを知ることの限界性、みこころを知ることができないという罪人性を学びます。
だからバプテストは、自分の意見や思いが実は誤りの多いものであり、欠けていることをよく知ることとなります。
でも、その欠けを主イエスが補ってくださることを信じ祈りつつ、覚悟を決めて意見を言わせていただくわけです。
ボンヘッファーは「人の行為は悪と悪との選択(「キリスト教倫理」)と言いました。
私たちは各々思いを持ち意見を表しますが、
しかしそれは私たちが人である以上悪と悪との選択であることを知りつつ表明します。
これが主の赦しなしには起こりえない総会の大きな恵みではないでしょうか。
主に赦され、主に補われつつ、ご一緒に総会を頂いてまいりましょう。
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「教会の総会」
いよいよ本日午後には私たちバプテスト教会が大切にしている総会が開催されます。
バプテストは歴史的に近代世界の個人を尊重する考え方に大きな影響を与えてきました。
それは総会による教会や地域の運営へのこだわりから生まれたとも言えます。
総会は多数の意見をもって事柄を決定します。
しかし不思議と聖書には多数の意見による決定と運営という記事がありません。
逆にまずすべては個人か少数者の意見を持って事柄が決定されていきます。
となると、バプテスト教会をはじめ多数決を採用する教会は聖書に反しているということでしょうか。
私は、そうではなく、現在の総会による決定と聖書の少数者による決定の本質は同じである、と考えています。
それはどちらも、実は少数者の意見が尊重されるというところにあります。
聖書では、神に召された特別な少数の人たちの意見が採用されます。
そしてその特別な人たちは神と対面する(厳しい)責任を負います。
しかし私たちバプテストは、聖書の読む中でもうひとつ解釈をさせていただいています。
それは、神に召された特別な人は限られた少数というのではなく、みんなが特別であるという解釈です。
そして全員が(厳しい)神との対面をすることを選び取りました。
だからみんなが特別でみんなが祈りみんなが意見を与えられることを信じ、望み、大切にします。
これが個人の尊重の中心点です。
そして運営上総会において同じ意見の者が多かったものを採用します。
しかしここで大事なのは、
多数であった意見が意志として採用されるということではなく、
すべての意見が総会参加者の意志となりつつ、
でも、採用順序は、多数のものからとなるということだと思います。
つまり、多数意見で歩んだときに行き詰ったならば、
自由にやわらかく少数意見で歩みなおすことができるというものだと思います。
同時に少数者のみが神と対面するのではなく、
みんなが対面することを選ぶバプテスト教会は、
みんなが神と対面するなかで祈り神のみこころを求めたにもかかわらず、
それらが一致しない経験を重ねる中で、
人が神のみこころを知ることの限界性、みこころを知ることができないという罪人性を学びます。
だからバプテストは、自分の意見や思いが実は誤りの多いものであり、欠けていることをよく知ることとなります。
でも、その欠けを主イエスが補ってくださることを信じ祈りつつ、覚悟を決めて意見を言わせていただくわけです。
ボンヘッファーは「人の行為は悪と悪との選択(「キリスト教倫理」)と言いました。
私たちは各々思いを持ち意見を表しますが、
しかしそれは私たちが人である以上悪と悪との選択であることを知りつつ表明します。
これが主の赦しなしには起こりえない総会の大きな恵みではないでしょうか。
主に赦され、主に補われつつ、ご一緒に総会を頂いてまいりましょう。