きぼう屋

生きているから生きている

SWその4 他いろいろ

2009年09月29日 | 教会のこと
SW最終日の23日は
教会の墓地の整備にみんなで行きました
お昼にみんなで教会でお弁当を食べてから出発

墓地区画内にまいている小石が土にたくさん埋まっているので
まずは小石交じりの土をふるいに掛けて小石と土にわけまして
小石は水できれいに洗います

土はもう一度戻しまして
その上に水を通すシートを敷きます

そしてシート上に洗いあがった白い小石を敷き詰めます

大変きれいになりました

おそらく雑草の量も大幅に減ると思います

この作業
当初は最低3時間はかかると見込んでいたのですが
あらら
半分の90分で終了

それはまずは事前の打ち合わせが丁寧だったことがあります
(総務委員に感謝)
そしてそれ以上に
キリストの体として歩んでいるという事実が
アイコンタクト以上のものを生み出していることがあると思いました

しかもそれぞれが
綿密な打ち合わせであったにもかかわらず
そこで確認できなかった細かいこと気づき
それに必要な道具などを主体的に持参してきていますし

なんだかみんなすごいなあ
と感謝するばかりでした


そして今週の日曜日の午後には墓地礼拝を気持ちよく行うことができました

今年の墓地礼拝から
これまでは牧師が祈っていたところで
みんなで交互に祈ることにしました

あらかじめ交読祈祷を考えてプリントしました

しっくりいったので
しばらくこの形式でいきたいと思います




びっくりしたのは
当教会の墓地のほぼとなりには
北山教会の墓地があるのですが

北山教会の墓地礼拝が同じ時間に行われたことです

まずは墓地礼拝を開催できたことに感謝
そして
いつもの礼拝人数よりもたくさんの方がおられたことに感謝

なんやかんやいっても底力のある教会であることを確認できました



墓地礼拝の前
午前中は教会で逝去者記念礼拝

礼拝堂の席が足りませんでした
来年までに対策を考えねばなりません

準備と祈り
そして信仰に支えられた司会
同じく準備と祈りを重ね
子どもの立場から語られた子どもメッセージ

すばらしかった!!


さて
わたしはこのすばらしい教会の交わりが
精神的に
身体的に
経済的に
痛み苦しみ悲しみを覚える仲間の
それらを決定的に
交わりの十字架として中心に知りさらに一緒に背負う
ということに
より集中するところから
だからこそ世界全体に一気に広がるということを
丁寧に分かち合っていきたいと願います

それができる交わりにすでになっていると認識します

このあたりを来年度の具体的な企画にしていきたいです

さて
本日はこれまで
いよいよ今週ベトナムに旅立つ仲間の
最後の荷物整理を一緒にしました

そして最後は
教会で行われている火曜祈祷会後の昼食の交わりに加わり

そこから
つまり教会から
みんなに見送られて
おおきな荷物をもって出かけることができたことは

彼にとっても教会家族にとっても
最高でした

あんたには帰るところがあるから
安心して旅立ってください!!




大幅に遅刻して
これからバプテスト病院で開催されている研修会に出かけます


ではでは

SWその3 来夏へ向けて

2009年09月27日 | 教会のこと
22日は朝10時半教会集合
車3台で小浜市へ

のんびり走って約2時間
途中の大原や朽木は景色が良すぎて
運転する者はわき見をしたくなるし
運転していない者は眠たくてももったいなくて眠れないし
なかなか大変でした


小浜公園の駐車場に車を置いて

向かうはとある食堂

当教会メンバーが
京都の店をたたみ
小浜に店を出しました

そのわけは
京都と違って小浜をはじめ福井ではまだひろがっていない
依存症とたたかう方々のためのミーティングをつくっていくことと
日曜日に礼拝生活を送ることができるようにすること
でありまして

わたしはひとつの献身と理解しているわけです

その食堂は古いふるい民家を改築したもので
とても味わい深いものです

そしてトイレが最高
その味わい深い空間のなかで
止揚学園の仲間たちが描いた絵のタイルを中心に
割れたさまざまな色のタイルが貼られておりまして
それが見事にマッチしているのでした

そのタイルを貼る方法は
なんと
当教会の小学生キャンプで
小学生たちがつくった庭のベンチのパクリということでありまして
うれしいことであります


よくさがすと
十字架が隠れておりまして
これまた
うれしいことであります

そしてそして
この食堂の二階は
なんと
教会でキャンプができるように改築してくれています
大人でも20人は泊まれます

というわけで
来年の夏の小学生キャンプは
小浜ということで
役員会に提案します!

そこでみんなで昼食を食べました
あいかわらず抜群にうまいです
なにしろとても丁寧なのです

食べたあとは2階を見学して
キャンプの夢を膨らませます

そして店から30秒で出られる浜辺に行きまして
海水浴も釣りもできることを確認

さらにはしばらくみんなでそこでボーっとしまして

またドライブしながら京都に帰ってまいりました

その道は鯖街道でもあるので
途中さば寿司を買いまして
宿泊する青年たちと一緒に夕食といたしました

おっと夕食の前に
いつもお世話になる桜湯にみんなで行きまして
ほかほかになりました

わたしは前日の疲れも残っていたみたいで
12時に寝ました

その後もきっとまったりにぎやかだったことは言うまでもありません

ということで
SWも残すところ一日ということになったわけです

ではでは

SWその2 ことばのむこうのことば

2009年09月26日 | 教会のこと
21日は関西地方教会連合信徒大会でありまして
朝6時に家を出て8時15分に神戸教会へ
15分の遅刻

すでに他の役員は到着しておられ
会場設営も順調に進んでおりました

感謝感謝で
すみません

講師は加藤享牧師

大ベテラン

なのにわたしは
今回の大会のすべての印刷において

享を亨としてしまっており

講師紹介で謝罪から入るということになったのでした

「すみません みなさま 横棒をいれてくださいぃぃ」

先生の講演は相変わらず分かりやすくパワーのあるものでしたが
いつもよりもちょっと整理されていて
ちょっと遠慮ぎみ
でもありまして

事前の打ち合わせでたくさんの議論をしたことが
ちょっと先生の自由さを奪ったかもしれないなあ
と反省もしつつ

でもそれでも
けっこうすれすれの発言も出ていたので
ちょうどよかったかなあと思いました

先生は計算して話す人ではなく
言葉を自由に操れる人でもなく
ただただ正直に正面から情熱でもって話す
という方ですので

いやいや
日々の行動もそうですので

どうしても評価が分かれるタイプなのですが

しかし
この間
わたしは今の日本のキリスト教会における評価方法に
おおきな疑問を抱いている者なので

評価に関係なく
講師に立っていただきたかったわけです

つまり
計算高く
言葉を操れて
失敗を隠すことができたベテランは評価が高く

正直でまっすぐな方は
失敗が全国的に広まってもいるので
評価が低かったりします

神学の論理部分での失言も確かにそういうタイプは多いのですが・・・

しかしわたしの評価は
まっすぐであること
情熱あふれていること
を大前提とするものでありまして

さらに
それがいつも他者のために用いられている
となってはじめて
その方の話を聞きたいと思うわけでありまして


そういう方の語ることばは
その方の歩みをこちらが追体験するなかで
言葉の意味を超えたところのことばを発見するというところで
すごいことが起こるわけでありまして

今回は
それを
関西のみんなで味わいたいと思ったわけです


加藤先生タイプの方のお話は

いろんな抽象的な考察なんぞはほとんど興味なく
そういう話をされてもちんぷんかんぷんだけど
生活の中に響くことばはキャッチできる
という方にはとてもウケます

また
抽象的な議論をこなしながら
しかしそれらが原理になることをゆるさず
生活に響くことを求め
生活のことばと抽象的ことばをいつも行き来できる方にも
これまたウケます

しかし
抽象的なことばを原理にしてしまう方には
その原理にはまることばを語ってくれるタイプではないし
そもそも原理からははずれてしまって
ある意味語られた発音をそのまま理解するとなると
キケンなことばを語ってもいるので
これはウケマセン
というか
拒否反応を起こすことになると思います

でも
今の関西の問題点としてわたしが考えるのは
こういう原理が飛び交っても宙に浮いている
ということなので

今回は加藤先生にどうしても話していただきたかったわけです

つまり
発音や文字のまんまのことばでなく
そこの背後にあることばを聞く
というところにこそ

キリストのわざ

があることを

知りたいと願うわけです


さてさて

しかし今年の連合は
各委員会
各会が
まっすぐ情熱をもって活動をしてくれています

うれしいのは
各教会への直接訪問が増えていること

こういう取り組みが
あらゆる企画で人数が増えていることにつながっているはずです

わたしは感動し感謝しております

そういう中で
役員選挙方法に関しては
今回の大会のなかで臨時総会を開催して
規約を変更して新しくすることにしました

民主主義や各個教会主義
という従来の方法から
「主義」
をとって
民主と各個教会を大切にする
という中で
しかし現実的に
正直さと情熱を見失わない制度
に作り変えたわけです

そもそも
制度や法というのはそういうものだと思います

律法は大事だけど
律法主義は批判されるわけです

なにしろ
従来のルールの中で

教育委員会が
一年間まったく活動をしなかったというときがありまして

この時点ですでにルールは形骸化していることが発見されていたのですが

そのときの候補者を推薦したのも受けたのも
ウチの教会メンバーだったので

わたしが会長の時に
それを徹底的に反省し謝罪し
役員選挙方法を変えたほうがいいわけでありまして
(他の方ではやりにくいでしょうし)

今回すませてしまいました


これが機能してくれれば
関西地方連合の諸教会・伝道所はもっともっと
互いに励ましあい慰めあい
共に生きていけるのだと思っております


信徒大会も多くの出席を得て無事終えることができ
感謝感謝でした

今年は
連盟の教会教育研修会や
プロテスタント宣教150周年の神戸での記念礼拝と重なって
そちらに行かねばならない方々も多かったのですが
にもかかわらず
信徒大会にもたくさん集まられて
正直びっくりしました


片付けを終えて
京都に戻って
先に戻っていた青年たちと
教会の斜向かいの「くれない」に行って
打ち上げをしました
(前日に引き続き・・・)

気分的に
生の大をすぐに頼んでしまいました

さらに
日本酒をたっぷりと・・・


という21日でした

というわけで
次回は22日のことを書きます

ではでは

SWその1 歳はとるべきもの!

2009年09月25日 | 教会のこと
シルバーウィークが終わりました
表現できないほどに楽しく幸せでした
何から書いていいかわかりませんので
順番に書こうと思います

まず今回は
20日(日)のこと

20日は敬老感謝礼拝でした
当教会は75歳以上の先輩方を覚えます
今年は29名
感謝感謝

さらに感謝なのは
これからバプテスマを受けたいと願うステキなおばあちゃんがおられること
これは教会のみんなで
神さまにたくさんお祈りするしかないことです

そしてわたしはこの高齢者の皆々様に
しかしなんとも結構大変な注文を
週報巻頭言と説教でしております

でも神さまからの注文のはずだとも信じております

それは

ひとつめは
人生の深い経験から養われているはずの
恥も外聞もなくキリストに従う姿勢を
後輩に見せ付けてほしい
ということ

ふたつめは
死と生の終わりを誰よりも知るからこその
逆にそれを知らない若人にはできないところの
長い人生における悔い改めをなしてほしい
ということ

このふたつは
人生経験を重ねた者でなくては得られない
神さまからのギフトだと思います

わたしはこのふたつを得るゆえに
年齢を重ねることが楽しみでもあります

逆にわたしは全く若いころに戻りたいと思いません
来年からの40代
さらには50代60代70代が楽しみです

世界がどう見えるようになるのか
どう聞こえるようになるのか
どれだけより他者と共鳴できるようになるのか

すごく楽しみです

仲間と一緒に
しわや贅肉をふやすことができること
一緒に
物忘れをしていくこと

最高に楽しみです

教会の後輩たち
子ども世代の成長を身近に見ること
さらに
もっと歳を重ねて
孫世代と出会いその成長を見ること

究極の楽しみといっていいだろうと思います


実に
じいさんばあさん最高!

なのです



午後はバプテスマクラス
今回は聖霊論

聖霊はすべての外側からやってくることを分かち合います
存在の外側からやってくるから
内側から湧き上がる気持ちとは違うことを確認
もっともっと衝撃的で圧倒的であることを確認
感覚感性の外側からやってくるから
理にかなったり腑に落ちたりする出会いではないことを確認
もっともっと奇跡的で驚異的であることを確認

だって聖書には本当にそういうかたちでしか聖霊は語られていないので

でもなぜか
その逆の聖霊理解って多いんだよなあ?
なぜ??

その後は壮年会例会
念願かなう!
つまり
お手紙大作戦を壮年会もやりはじめました!!

ちょっと遅すぎだけどなにより!

さらにその後は
庭でまったり

なんとこのシルバーウィークにずっと教会に宿泊して生活する青年たちがいるので
後ろの時間を気にしないでいいのでした


日も暮れた頃に
お仕事を終えて教会に帰ってきた青年と共に

青年によるプチ礼拝

「大谷牧師の今の疲れ具合はどれくらいですか?」

とある青年に聞いていただきまして
「満タンがこれくらいだったら、今これくらい」
と手を広げてみましたら
「だったらプチ礼拝に出てもらってもいいですか?」
というわけで
嬉しくプチ礼拝に参加

とっても
とおおおおぉぉぉってもぉぉぉ
あたたかい礼拝で

逆に学ばされます

みんなが祈りの課題を出し合って
それを担当者が丁寧にメモして
後日みんなにメールで流して
日常生活の中で覚えられるようにしておりました

間違いなく一生の友人になりますなあ

感謝感謝


そして
晩は

10月からベトナムへ留学する仲間がいるので
彼を囲んでわいわいとやりました

翌日が関西地方連合信徒大会で
責任を担っているし
朝も早いのに

ちょっと飲みすぎてしまいました

うーんしかし
いなくなるという実感がいまだにわきません

たぶん
留学の2年間はあっという間にすぎて
京都教会に戻ってきても
なんのブランクもなく
あっさり共に礼拝する日々が再開するという希望が

逆に同じ場所に共にいないという実感を阻止するような気がします


という20日でございました

またこの日は

久々に遠くへ引越してしまった仲間も帰ってきてくれました
すべてがぶっとぶうれしいことです
感謝感謝

次回は21日のことを書きます

ではでは

畳へ

2009年09月19日 | ホームレス支援のこと
市役所前炊き出しに来られる人数が若干増えています

政治の話題で持ちきりのこのごろのこの国ですが
政治というのは
市役所前炊き出しに来られる方が減るようにすること
だと思います

本日は71歳の男性が畳にあがる第一歩が支援する仲間のネットワークにより起こされました
感謝

今月中には具体的に次の生活が見えるようになればと願います


先日

スナック菓子に飴にプリンにヨーグルトにゼリーにジュースに牛乳をたずさえて
それもそれぞれうちの子ども5人分ずつたずさえて
だから大きな袋がパンパンになったものをふたつたずさえて

半年前に自立生活をスタートさせた方が訪ねてくださいました

ありがとう
でも
ごめんなさい

本当はこちら側が
何も持たないでもたずねてもらえる人間となり、家とならねばならいのに

その方はお酒でテンションをあげてもいました

ごめんなさい
僕がありのままでたずねてもらえる人間だったらお酒もいらなかったのに


ここ数年
自立された方で訪ねてくださる方がたくさんおられて
とっても嬉しく感謝するしかないのですが
今回のように極端でなくても
本質的に同じスタイルで訪ねてこられる場合が多いことに気づき始めています


確かにホームレス生活を強いられていた方の中では
人が好きだけれども人と会うのが苦手という
単なるシャイとは異なるタイプの方が多く・・・

そしてそれは
それまでの人間関係の中で
人と会うのが苦手にならざるを得ない経験をされているのだろうと私は推測しており
またそれは
ホームレスにならざるを得なかった原因の大きなものだと思うわけで・・・

だから
これからは
何も持たず
何も飲まず

人に会うことができるということを
当事者と共に目指す必要があると感じています

もちろんそれは
何も持たず
何も飲まず
ということを押し付けるわけではなく

他者と交わる
ことに確信をもつことを目指すということであり
その結果として
何も持たず
何も飲まず
が起こるということです


本日(もうとっくに昨日ですねえ)の昼は
元ホームレスの方との10年の付き合いをインタビューされました
本になるそうです

真正面から話すと言葉が詰まるので
なんか周辺部分を話してしまったような気がします
でも
彼のことを話すには
今はいろいろと生々しすぎて
ちょっと無理でして
もっともっと時が経つのを待たねばならないようです

すみません

しかし
いい本になったらうれしいです

いい本というのは
それを読んだ人が
間髪いれず
ホームレス当事者に会いに行く
という本です

ぜひともよろしくお願いいたします




ささげるという行為

2009年09月18日 | 「生きる」こと
昨晩
大阪の仕事を終えて帰宅しましたら
教会の玄関にお米が置かれておりました
10キロがふたつ

美しい字のお手紙が入っていました
お役に立ててくさだれば・・・
とのことです

感謝に耐えません

しかし匿名でしたので
直接感謝の気持ちを伝えられず
この場にて表したいと思いました

本当にありがとうございます


ささげるという行為は人間の最も人間らしい行為であり
最も高度な行為だと常々思っております

しかも
それが匿名でなされるというのは
さらに高度な行為です

つまり
極めて純粋に他者のためにささげてくださることであり
名を明かさないことで
感謝も含めて見返りを全く求めてないことであって
実はなかなかお目にかかれない高度なものだと思います

ささげるという行為なのに
見返りが求められることは極めて当たり前になっています

それは
ささげるということで
自身のアイデンティティを確保するという見返りや
イメージアップをはかるという見返りまで含みます

宗教では
神にささげると言いつつも
ご利益を求めることが常でもあります

そういうご利益から解放されているという
たとえばキリスト教会でも

献金や奉仕が
純粋にささげられるのではなくて
そこにめいめいの利益になる意味がくっつくことで

教会の交わりが窮屈になる例がたくさんありすぎます


おもしろいのは
キリスト教関係施設や付属幼稚園や施設から給料をもらっている人が多い教会は
そういう人が奉仕の中心になって
いわゆる発展することが起こりますが

そこから給料をもらうという事実がなかったらどうなるのか

問われ続けられねばなりません

案外もろいものです


さて

本日夜は市役所前炊き出しですが
ボランティアも
純粋にささげることができるかが勝負です

ボランティアが結局は自分のためだったというような美談はよく語られますし
それはまさにそうなのですが
しかし
その次として
そこからも解放され
純粋に他者のため
となるときにこそ

ボランティアという行為がはじめて光を放つだろうと思います



ところで
当教会は今年も11月3日にバザーをします

当教会のように
利益は教会や教会付属施設の運営費のためではなく
困窮する他者のために用いるというバザーは
実は少ないのですが

しかし地域の方々は
それを知っているから
こんなにも協力してくださっているのだと思います

バザーにおける純粋さを
できるかぎり今年も確保していきたいと思います



現在のところ地域の皆様から21件の献品を頂戴しました
まさにささげるという行為をいただいております
商品数は500くらいでしょうか

しかしこれからがシーズンでありまして
最終的には例年のように10,000点ほどの商品になることを期待しております

そして10,000のささげるという行為から慰めと励ましをいただくことになると思います
そしてそれを地域に還元したく願っております

地域のみなさま
今年もぜひともご協力をお願いいたします。


主イエスは
最も純粋にご自身のすべてを
ひとりひとりに
今日もささげておられます

アーメン
感謝

とりなし

2009年09月17日 | 教会のこと
この前の礼拝は
礼拝前に18名から欠席の連絡があり
礼拝後に2名から出席できなかったという連絡があり
連絡がない方でも欠席の方が多数おられ

ひさしぶりに
えらく少ないなあ
と感じました

43名の礼拝でした

でもふと思いました

赴任当初は
40名を超えたらえらく多いと感じたわけで・・・
えらく少ないと感じたときは20名に満たなかったわけでして・・・

5年くらい経って
そういえばどんなに少なくても30名以下にならなくなってるね
と妻と確認したことを覚えておりますし
ということは
その頃はえらく少ないと感じたときが30名くらいだったわけなのでしょうが

気づけば今は
40名でえらい少ないと感じて
50名で少なかったねえなんて感じるというのが

なんだか面白いなあと思いました

つまり

どうも僕らは多い少ないという感覚を持つけれども
実はその多い少ないというところの基準は
いつのまにか動いているわけで
つまり
多い少ないというのは
基準がいつの間にか動く以上決して当てになる感覚でもなくて
できたらそういう感覚からさっさと解放されて
端的に
出席者欠席者をも含めて
共に礼拝する兄弟姉妹が与えられていることを
それこそ
えらく
喜びたいし
喜ぶことができるし
実際に喜んでいるなあ

ということであるわけで

感謝感謝なのでありました


この前の礼拝は
20名以上のその日には会えなかった仲間のために祈ることのできる幸せを
味わうのでした

その幸せは
20名の十字架を共に引き受けることになる
という信仰の出来事と共に起こされます

人間側からの用語で言うならば
20名の困窮を共感することと共に起こされます

だから
礼拝は出席者と欠席者で成立するわけです



また

かつての30名よりも
今の60名のほうが
お互いの距離が近く
共に生きる家族という感触がある
ということが発見できるのも面白いなあと思います

人数は倍でも
会話と笑いの量は倍どころではなくて
へたしたら十倍になっていると思います

その背景には
日々
互いが互いのために祈る量も
倍以上になっていることがあると思います

数が少ないほうが交わりが濃い
というイメージがありますが

数の大小で交わりの深さが決まるわけでもないということも
あたりまえのことだけれども
ふと気づきまして

これも感謝感謝なのでありました

数の大小というのは
大小のどちらに意味を見出すにせよ
私たちを縛り付けますねえ!!

要注意!


ところで
実は毎年9月の前半は
風邪や怪我、精神の病などでお休みの人が多いことも発見しています

朝晩が急に冷えてくることと
花粉などで空気がにごることなどがあるのかなあと思っています

わたしも
かならず花粉にやられますし
クビや腰の古傷が痛み
ひどい年は阪神の赤星のようになってしまいます

だからこの時期は
マッサージやストレッチに毎日30分は費やすようにしています
それをするようになって
この4年は日常の生活と奉仕がなんとかできています

お互いに祈りつつ
注意しながら歩んでまいりましょう

また
病や怪我を背負う方々に
主イエスの癒しの手が差しのべられていることを宣言し
心からお祈りいたします


2009年09月16日 | 教会のこと
神さまとご家族の支えのなかで
懸命にリハビリに励まれる教会の仲間がおられます
そして今驚くほど回復され
とても久しぶりに礼拝に参加できる
という現実味のある期待をいただくことができています

先日訪問させていただいたときに
具体的に礼拝に参加できそうな日程を仰られました

うれしくて
家に帰ってからそのことを息子たちにも伝えました

実はその仲間が礼拝に参加できるということは
息子たちの幼なじみであるその方の息子さんも
一緒にひさしぶりに教会に来ることができるということでもあって

息子たちはそれこそ喜びを爆発させていました

まさに爆発していました

夕食を囲んでいるときだったのですが
体も箸も宙を舞っておりました

ただ
その具体的日程が
息子たちの運動会と重なっておりまして

それに気づいたら
体も箸も宙で静止してしまいました



数秒の沈黙を経て

長男と次男がなんと同時に

じゃあ運動会休む!!

と言いまして・・・


わたしはそういう選択肢があるなんて思っていなかったので
しかも少し前には
運動会をえらく楽しみにしていて
インフルエンザの影響で開催が心配されていたけれども
開催することが決定したことをそれこそ宙に舞って喜んでいたし
それも出場する種目のことや応援歌のことをいろいろと教えてくれてもいまして

なのに
二人同時にそういう結論を叫んだことに
驚くしかなかったわけです


わたしは何の応答もできず
熱く運動会欠席を叫ぶ息子たちの甲高い声を聞きつつ

しばらくたって

でもな
その日に礼拝に参加できたら
その後も参加できるということだから
少し会えるのが遅くなるかもしれないけど
運動会は出といたら

というのがやっとでございましたが・・・


なんというか

しばらくぶりの友と会うということを
最優先にする生き様は
私の願うところでもあるし
イエスさまの願うところでもあろうと思うわけで

泣きたいくらい感動したのでした

というか泣いていたのでした・・・


いつも一緒にいることのできる仲間のところに
しばらくぶりの人やはじめての人が来たときに
その場が
いつも一緒の仲間のリズムとペースとテンションのままなのか
それとも
それらを停止して
しばらくぶりの人やはじめての人に開かれた新鮮な状態となることができるか


実は聖書の物語が常に教える重要な部分だと思うわけです

後者は
開かれた生きている交わりだと思います

前者は
もはや一定のリズムとペースとテンションに支配された
閉じて形骸化に向かう交わりだと思います

そして例えば運動会のように
リズムとかテンションを超えた
慣習上の強烈な原理があった場合
なおさら
ひさしぶりの友と会うことを選択することは難しいのだと思いますが


難しいと思っているのはわたしの精神性ゆえでして
息子たちは
そういうのから解放されてもいるんだなあ

学んだわけでした



イエスさまは
一匹の羊であるわたしを
いつも探してくれているから

感謝感謝なのであります


おしまい

罪ゆるされて

2009年09月14日 | 教会のこと
えらい長いこと更新していなくてすみません
8月後半に京都を離れておりましたら
戻ってきていろいろと忙しくて
さらにブログを書くという身体感覚も麻痺しまして
書いておりませんでした

というわけで
今週の京都教会週報巻頭言です

*************************

「罪ゆるされて」

先月16日。
教会学校の小学生クラスをしているとき、
2年生のSくんがクラスのリーダーに
「バプテスマを受けたい」と言いました。
丁寧にその決断を受け取ってくれた3名のリーダーは、
クラス終了後にSくんを囲んで祈ってくれました。

そしてその日の夕方
リーダーと私でSくんのバプテスマ準備について話し合いました。
まずイエス様が好き、教会が好き、という端的な思いは、
そのままで
彼の、神と共にキリストの体として生きるゆえの感触であり、
2年生だからこそのシンプルな言葉であり、
それを大切にすることを確認しました。
しかし、
信仰の中心である罪がゆるされた!ことを
どう分かち合うかというで、
リーダーと私はとても悩みました。

それから一ヶ月。添くんのバプテスマクラスがはじまりました。
罪のゆるしの分かち合いについては悩んだままのスタートです。

するとバプテスマクラスでこんなやり取りが起こりました。

(私)イエス様は何をするんだろう?
(S)イエス様はみんなを助ける!
   イエス様を信じた人は?
   イエス様と一緒にみんなを助ける!
   たとえばクラスでいじめられている人がいたときにちゃんと助けた?
   できなかった?
   あら?なんで?
   うーん!?勇気なかった!
   そうか!たぶん僕も勇気ない!でもそれでいいのかなあ?
   だめ!
   やっぱだめか!?じゃあどうしよう!
   次は助ける!
   うん!わかった!僕もそうする!でも次は勇気でるかなあ?
   イエスさまと一緒だから勇気でる!
   そうだな!イエスさまがゆるしてくれるもんね!イエス様が勇気をくれるね!
   そう!イエスさまがするから僕もする!イエスさまと違うことをしたらだめ!
   ほんとそうだね!そうだ!そういえばそれを罪っていうだよね!
   それって?
   イエスさまと違うことをすること!
   イエスさまと違うことをすることが罪なの!
   そう!でも神さまはその罪をゆるしてくれるんだ!
   なんで?
   なんでだろう?
   なんで?
   うーん!もう次からはイエスさまと違うことじゃなくてイエスさまと同じことができるようにかな?
   わかった!次はイエスさまのしたいことするね!
   じゃあ助けるね?
   うん!イエスさまと一緒に助ける!

ということで、
罪が赦されるということは
次の生き様が決まること!を
不思議と主の導きの中で分かち合ったのでした。

感謝感謝!