きぼう屋

生きているから生きている

バレバレ

2009年03月29日 | 教会のこと
今週の京都教会週報巻頭言です。

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「バレバレ」

いよいよ明日から庭整備工事が行われますが、
最初の工事は、通りと教会との間に立つ大きな塀を取る工事です。
通りや荒神橋から教会の中の様子がよくわかるようになることで、最初は少しはずかしいかもしれません。
けれども、
教会というキリストの体たる礼拝共同体、つまり、本当の意味で共に生きる神の家族は、
神によりすべてに開かれているので、そのように開いていくことは大切です。
しかも人格などのソフト面と同様、建物などのハード面においても行われることは、
教会が教会であるためにとても大切なことだと思います。
そして私たち教会はさらに開くという行為を今回の庭整備において選び取りました。

またこの行為は同時に、教会が閉じていないか検証する機会にもなると思います。
教会に集う者同志が互いに閉じていないか、
隠し事や秘密が多くはないか、
教会は地域に対して閉じていないか、
地域に御言葉からの行為を披露しているか、
それとも、御言葉とは関係なく、この時代地域で互いに気分を害さないような言葉と行為を選んではいないか、
などなど、
私たちは今、考えるチャンスをもらっています。

開かれた交わりは健康的です。
なぜならば、
たとえば嘘をついても、開かれて互いに知り合うゆえにバレバレだからです。
だから嘘つく必要がありません。
同様に自分をよく見せるために演技してもバレバレです。
元気な振りしても落ち着いた振りしても、
ひとりひとりの抱える困窮が、開かれた交わりにおいてはバレバレです。

そして会社でも役所でもあらゆる宗教施設でも度々起こるような、不正や横領といった事柄も、
開かれた交わりではバレバレなので、
その道にはまりこむことはなくなるだろうと思います。

しかしずっと開き続けることはおそらく人には不可能で、
私たちはどこかで閉じるときを持たねば心身が持たないと思います。
だから主イエスは「一人の祈り」を奥まった部屋で隠れつつ祈る重要性を教えてくれます(マタイ6章)。
つまり私たちは日々の祈りで閉じ、他者との交わりで開く生活を送ります。

一人の祈りをなすゆえに夫婦が開かれ
一人の祈りをなすゆえに家族が開かれ
一人の祈りをなすゆえに教会が開かれ
地域が、世界が開かれます。

バレバレは恵みです。

開く

2009年03月23日 | 「生きる」こと
いよいよ当教会の庭整備が始まりました

庭整備のポイントは
なにしろ開かれること!!
です

正直に反省していることですが
当教会は14年前の建築で教会堂が新しくなった際に
いろいろと閉じていたのだろうと思います
ソフト面もハード面も・・・です

だから
通りと教会堂の間に、大きな塀が建ったわけです
しかし今回
その塀を壊して教会の中が通りからよーく見えるようにします

礼拝をしているところはもちろん
礼拝の準備をしているところや
みんなで掃除をしているところや
あるいは
わたしが午前の1時間ほど
教会堂でひとりで軽く掃除をしながら
ストレッチなどをしている姿もきっと見えるだろうと思います
教会堂内をはだしで足の裏をマッサージする感覚でぐるぐるジョギングしているときもありますし

そういうのを遠慮なくどんどん覗いてほしいと思います

また
庭に教会に集う人たちが気持ちよく出られるように
まさ土塗装をします
庭にどんどんでるということは
教会が開かれることでもあります
そもそも宗教にとって庭といいますか、境内はとても大切でして
すこしでもそういう庭になったらいいと思います

まさ土と花壇の境目は
当教会メンバーのKさんのお店や
当教会の親戚の日本バプテスト病院から
ごろた石を頂き、それを並べます

これはとても面白くて
石を見ると
Kさんや病院、看護学校などを想起するという
まさに開かれる経験をすることにもなります

そして本日は早朝から
その第一弾として
木々の伐採と剪定が行われました

腐ってしまったイチョウの雌は伐採しまして
もう
なくなってしまいました

勝手に涙がこぼれますが

しかし
昨日の子どもメッセージで
教会の長老S兄が
壊す時と立てる時の話をしてくださり
(これが驚くほどの完成度の高い説教でして
 信徒の説教がこのレベルにあるならば
 バプテストは原理のとおりに
 説教家としての牧師はいらないなあ
 と本気で思いました
 でも牧会家としての牧師はまだまだ必要だと思うわけでもありますが・・・)
そのメッセージに励まされ、祈るわけです

また昨日昼過ぎには
切られてしまうメスのいちょうに
教会を支えるパワフルな女性たちが
抱きついて
といいますか
しがみついて
別れを惜しんでおりまして・・・

またその写真もとてもたのしい写真として出来上がっておりまして・・・

こういう写真こそ
歴史を本当に伝えるのだなあ

と感激しております

また女性たちの活き活きとした姿にはいつも感動しております


さてさて
昨日は三年半前に小学生たちが建てた「みんなの家」のお別れ会をしました

天候があやしかったこともあり
かっちりしたお別れ会にはならなかったのですが
しかし
みんなで最後に雑巾をもって
みんなで掃除して
そして記念撮影をしました


こちらは来週取り壊しになると思いますが
そのときは本日のいちょうの雌どころではすまないほどに
涙があふれるだろうなあと
今から心配しております

なんてキーボードをうちながら
もう目頭があつくなっております


昨日の礼拝説教は
今一度
開くことと閉じること
をテーマとしました

全体と個とか
個人と家族と民族と国家とか

というのは

それらの違いを述べて互いに批判するというものではなくて
全体であろうと個であろうと
個人であろうと国家であろうと

それが閉じていると
すべて共鳴し
同じ方向で走り出す
というところが問題なのだ

ということを分かち合いました

そして
神は私たちに「開く」賜物をあたえ
それも
ゆるしと和解が備えられるゆえに安心して「開く」ことができる出来事をあたえ

「開く」
からこそ
それぞれが同化することなく共に生きることが起こされる

ことを分かち合いました

というわけで


キリストの体
というテーマから
チーム・キリスト
を語りだした当教会は

開き合うチーム
という内実を吟味しはじめようとしております


さてさて
一つ前の怪しい記事の中で触れたように
わたしはもう
遠慮なく責任をもって
この場所で歩むことができるようになったので
遠慮なく
どんどんみなさんに教会に来ていただきたく願うわけです

開き合うチームとして
つまり
本質的な意味での家族として

ぜひ共に歩みたく願います

みなさんの交わりと健康と生活が祝されますように

アーメン

よき知らせ

2009年03月23日 | 「生きる」こと
本日(もう昨日ですねえ)は結婚記念日でして・・・
やっぱりうれしいわけです。。。

出会い続けることはこれ以上ない奇跡ですし
そのことを今年も確認できるのは
最大の喜びなわけです



さらに夜半近くに
もうひとつなんともうれしい知らせが飛び込んできました

この半年間
ぼくら家族を不安定にしていた事情から

すっきりと解放されるという知らせがいきなり携帯から飛び込んできたわけです

それも良くも悪くも
神のみこころかどうかはわからないけれども
わたしの自我においては
望んでいた方向で解決したので
なんだか変にうれしくて
疲れているのに眠れなくなるほど興奮してしまいました

だからもう一度牧師室にいって
教会の関係者名簿を開いて
祈ってきました


そしたら
あらら
涙が止まりませんでした



ここまで書いておいて
どういう知らせだったかというのは
とっても身近な人に直接伝えるくらいしかできないのですが


きわめて抽象的にいうと

わたしは
いま
出会い続けているみなさんと
腰をすえて
さらに出会い続けることがゆるされる

という環境を確保することができました

この半年間は
今考えると
はざ間に置かれていて
ほんとうは必要ないけれども
遠慮してしまったり
積極的になれなかったりしておりまして・・・


でも
これでもって
まさに今担うことが許されている数々の業に
遠慮なく向かうことができます


とりわけ京都の
教会の内外を問わずすべての共に歩んでくださっているみなさま

今後ともよろしくおねがいいたします


よかったあ!

みんなの家

2009年03月22日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言

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「みんなの家」

今から4年前。
当教会に急にたくさんの小学生が集うようになり、当教会は喜びと衝撃を同時に受けました。
そして多くのメンバーが小学生たちのための奉仕を引き受けました。
しかしこの小学生たちを迎え続け、キリストを伝え分かち合うには、
教会全体の学びと経験が不足していたことが、
今はよくわかり、反省します。
しかし、それが現在の教会学校に結びついていることは、当教会の財産です。

そして3年半前の夏、
子どもたちは教会に2泊し、現在庭に建つ「みんなの家」をそれこそみんなで作りました。
釘を打ち、絵をデザインし、ペンキを塗りました。
もちろん「みんなの家」と名づけたのも小学生たちです。

しかし残念ながら、さすがにガタがきてしまい、
今では「みんなの家」に入るのも危険な状態となってしまいました。
そして今回の庭整備に伴い、いよいよ解体することとなりました。

そして本日午後は、「『みんなの家』お別れ会」が開催されます。
この家を作った当時の小学生の中には、4月から高校生になる仲間もいます。
そういう仲間が集まって、懐かしみつつ、「みんなの家」の意味を再確認したく願っています。
ぜひ当時かかわっていない方々も、お別れ会にご参加ください。

さて、
この企画は、教会全体の力不足を補いあまりあるほどに、子どもたちを引き受けてくれていた
F姉の発案と決断により、一気に実施が決まりました。
わたしはF姉の、子どもたちに「キリスト!!」教会!を経験させたい!
という思いを強く受け、感動したことを覚えています。

近代以降の世界の考え方や動き方が行き詰る今、
子どもたちがそれとは異質の「キリスト!!」教会を経験し、そこに生きることは不可欠なことです。

そして「みんなの家」企画はその重厚なテーマを持っていました。

キング牧師の公民権運動の根幹に、
閉じた意味での個人や家族のための思いや業や予定、社会での地位を守ることが大切にされる教会を改革し、
礼拝と信仰告白を死守し、共に教会を担い、聖書からの使命で生きる教会を再獲得することがあったことは意義深いことです。
(ボンヘッファーのナチズムの戦いの基本も同じ本質の教会改革にありました。)

そして現在も世界中の教会が改革を欲しています。

そんな中で「みんなの家」企画は当教会を揺らす勢いがありました。
当教会もキングの批判した教会観の中にあり、
その影響が世界の教会と同じく色濃く残ることを知るゆえのことだったと思います。
そして今なお、世界的に強力なこの影響を当教会も受け続けていることを知ることは大事です。

そしてこういう世界にはびこるところの、
キリストでなく人間中心の信仰観、教会観からの脱出は私たちの出エジプトです。

だからこそ、このたびの庭整備で取り壊しとなる「みんなの家」を、
本日は大きな意味を伴いつつ見送りたいと願います。

私たちは「キリスト!!」教会という「みんなの家」に生きています!!


再放送

2009年03月13日 | ホームレス支援のこと
ホームレス支援に取り組む
東八幡教会の奥田知志牧師の働きが紹介されている
NHKのプロフェッショナルの再放送は
NHK総合/3月17日(火)午前1時~1時44分(月曜深夜)
NHKBS2/3月18日(水)午後5時15分~5時59分
です。

使命の風

2009年03月11日 | 「生きる」こと
昨晩の
奥田さんを追ったNHK「プロフェッショナルー仕事の流儀」は
予想以上に本質を突いていてくれて嬉しかったです。

また知り合いがあんなにたくさん出ているテレビ番組もはじめてだったので
それも嬉しかったです。

実はわたし
たまたま
日本バプテスト連盟平和宣言による説教集編集会議のため
北九州の
奥田さんが赴任している
番組にも出てきた東八幡教会のあの部屋におりまして
彼とも一緒にわいわい編集作業をしておりまして
そして夕食を食べに行ったときに
若菜さんに電話して
ブログに書いておいて!
ってお願いしたわけですが

若菜さんは
京都でやりたいこと
と書いておりますが
京都でやっていること
でありまして・・・


やはり番組にも出てきたあの奥田家の居間で
やはりやはり番組で出てきた奥田家の家族と
NPO関係者たちと
一緒に飲みながら番組を見たわけでありました

泣いて笑って泣いて笑ってと
せわしい時間でありましたが

感動しました

さらに今朝は
番組の主人公だったまっちゃんを、
たまたま通りで見かけて
なんとも嬉しいかぎり・・・

まっちゃんを見ると
京都のMさんを思い起こし涙涙

7年間
暖簾に腕押し状態だったフジサキさんのことは
京都のNさんとばっちり重なってやっぱり涙涙


ただ
今回の45分のい番組枠では扱われなかった大事なこともあるので
それはここに書いておきたいと思います

今回の番組では
「人は出会いで変わる」
という希望がひとつのテーマでしたが

奥田さんたちをはじめ
ぼくらは
「人は変わる」

「人は変わらなくとも生きる」
を同じだけ大事な事柄として支援の本質に置いています

そしてとりわけ
変わらない人とかかわりつづける!
ことは
とてもたいへんなことなわけでして・・・

奥田さんの番組での最後の言葉
プロフェッショナルとは
「使命の風を感じてそれを受けたならば、自分の思いや期待や感情などは一時断念できること」
ってのは

それでもなおかかわり続ける!
ということを選ぶことができる秘密なわけです

もう少し噛み砕いてみましょうか

つまり他者にかかわるというのは
自分の心から自発的に起こされる
というものではなくて

出会った以上
つながるしかないという使命の風を受けることで起こされる

ということだから

これはコペルニクス的大転換なわけで
奥田さんはそれをあっさり語ったわけです


ちなみに
平和宣言もまさに使命を宣言したものでして・・・


ちょっと宣伝をしてきます
もうすぐ
日本バプテスト連盟ホームレス支援特別委員会による
「『ホームレス』と教会」
および平和宣言プロジェクトによる
「時のいましめ」

が発行されます

どちらも一冊500円です

奥田さんの論文や説教も
わたしの論文や説教も載ります

欲しい方は声を掛けてくださいませ

5月にはお渡しできるかなあと思います


そういえば
この番組で
無給のボランティアが「プロフェッショナル」として紹介されることにかんして
NHK内ではすごい議論があったそうですが
しかし
NHKは「プロ」の概念を今回から変えてまで
奥田さんを紹介したかったようでして

これって実はすごいことだと思います。


プロ性については
わたしはかつてこんなことをこんぼブログで書いておりますので
ここにも貼り付けます

************

プロってなんでしょう?
アマチュアってなんでしょう?
お金をもらうからプロでしょうか?
ボランティアだからアマチュアでしょうか?

わたしはそれは全然違うと思います

プロはお金とは関係ありません

プロは
その時間のその場における責任を
活き活きと担い
決してその責任を放棄しない!
という業を行う人のことだと思います

逆にアマチュアは
責任を担うことがないように
逃げ道を常に用意しつつ
その時間のその場における業を行う人のことです

そういう意味では
子どもクリスマスの奉仕を担ったみんなは
プロでした

集う他者のために
その他者の存在を受けるゆえに
それぞれが受ける責任を担い
それを
丁寧にそれぞれの実存において
行動として表現したわけです

これがファミリーレストランなどのように
みんなが同じ決まった文句を発し
決まった動きをするということになると

それは責任を担うことを選択しているのではなく
ただ単に失敗をしないことを選択しているのであって

実はこれはアマチュアなわけです

となると

プロと一般的に呼ばれる仕事の多くは
失敗をしないというところで止まり
責任を担うところまで行き着かないものが多く

わたしはそれはやっぱり
実はアマチュアだと思っています

もちろん
プロは失敗がゆるされません

福祉施設のボランティアも
失敗はゆるされないところの
無給のプロです

失敗したら
相手が死ぬ場合もあるわけですから


だからプロは
相手が死ぬ場合もあるというところまでの
責任を担いつつ失敗をしない
ということを受けるに違いありません


そしてテレビに良く出てくる
責任を人に押し付けるえらい人たちは

当然アマチュアです

高給取りのアマチュアということになると思います


このあたりは
かなり世界を不幸にしている点だと思います

世界が全体として幸福になるためには
無給のプロを活き活きと引き受ける人材が
どれだけ出るか
というところに
相当に負うているのではないでしょうか


そしてキリスト教会は
他者なるキリストと
他者なる隣人に
責任を負う人間であるゆえに
プロとして
他者を受け
他者のために動く

つまり
他者を愛する

という人間になることを目指す
共同体なわけです

**************


しかしいい番組でした

再放送もあるらしいので
見逃した方は今度こそ!!



今夜10時NHKを見てね!

2009年03月10日 | ホームレス支援のこと
今夜10時からNHKの「プロフェッショナル」という番組を
ぜひ、見ていただきたいのです。

その番組では、
バプテスト連盟の東八幡キリスト教会牧師である奥田知志氏の
北九州ホームレス支援機構の活動が取り上げられます。
北九州での活動は、
私たちが京都でやりたいと思っていることでもあります。

ぜひぜひ、ご覧ください。

安息

2009年03月08日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「安息」

いよいよ年度末。
商売人もサラリーマンも忙しい季節です。
教会もとりわけ総務関係の奉仕がいつも以上に必要とされる時期です。
いや、もしかすると、
今の私たちの社会は、常に忙しく、
それは時期的な忙しさがぼやけるほどかも知れません。

そんな中で、
私は「安息」と、その必要性を考えざるを得ません。
私たちには休みが必要ですし、それも積極的に休むことが必要だと考えます。
しかし、何がどうなったら私たちは本当の「休み」を得、心身が癒され、活力を回復するのでしょうか。

聖書が教えてくれるのは、
休みは礼拝という行為であることです。
ここには私たちの感覚におけるところの矛盾が最前列に置かれています。
つまり、休むけれど行為するという矛盾です。

けれども、信仰における認識では矛盾しません。
つまり、私たちは礼拝において、
わたしが行為するのを断念し、神の行為にすべてを委ねることをするからです。

さらに言うなら、
教会における伝道、礼典、教育、音楽、総務、会計などなどの奉仕も、
神が行為するところにゆだねるからこその、私たちの行為です。

でも繰り返しますが、
私たちの感覚では、
私たちが行為するからには休みにならず、
礼拝し奉仕するほどに、安息どころか疲労がたまることにもなります。
だからここは信仰のひとつのチャレンジポイントです。

つまり礼拝と奉仕の行為と責任においては、
それ以外の行為と責任において発生するストレスや疲労がない!
というフィールドを信じて足を踏み入れるかどうか、
あるいは、そういう奇跡と出会うことを目指すかどうか、
が、わたしたちの信仰生活における最たるチャレンジなわけです。

といいましても、
牧師たちが疲労から病気になるケースが世界的に多々あることも周知の事実でして、
このチャレンジはどちらかというと希望をいただく出来事なのだろうとも思います。

だから
絶対に礼拝と奉仕を休まない!なんていうことは
罪人たる私たちには無理なことであるけれども、
しかしそれでも日々信仰なる心身が養われて、
礼拝と奉仕の責任が、
つまり他者と共に祈り生きる生活が、
疲労回復のための最たる神からの出来事であることを、
丁寧に経験できればと願ってやみません。

安息は、礼拝や奉仕をも含めて全部を休むことではなく、
礼拝や奉仕で神にゆだねることから発生するところの、
私たちの行為と責任を生きることにおいて起こる、
真の休みであることを、
共に信じることがゆるされるなら幸いです。


みんなで

2009年03月04日 | 教会のこと
礼拝では
OHPで讃美歌歌詞や交読文を前面の白壁に大きく映し出します

それは手話を言語とする仲間が
讃美歌を持ちながらは讃美できないからです。

いつでも手が自由であるために映し出すわけですが

この映写方法については
もう5年くらいにわたって何度か話し合っています

それは
OHPからパワーポイントに移行しようというものです

これまでは予算の関係で見送ってきていましたが
プロジェクターなどの価格がどんどん安くなり
今ではいつでも導入できるくらいになっています



先日の執事会では
移行の見送りが決定しました

その理由は

奉仕にかかわることのできる人が限られてしまう

というものです


OHPのような簡単な機器ならだれでもできるし
OHPシートもみんなでつくってみんなで整理しよう

となったわけです


教会が変化してきていることを実感できる出来事でした

いいねえ

感謝


信仰共同体

2009年03月01日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です

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「信仰家族」

先週の日曜日に、私たちは定期総会を持つことが許され、
2008年度の活動を感謝し、さらに2009年度の希望を頂きました。

私たちは、主イエス・キリストによって呼び集められ、和解せられ、つなげられたところの、
共に生きる群れです。
互いに祈りあい、慰め励ましあい、支えあい、
信仰と精神が成熟しあう群れです。
そして先週の総会で、厚く深く「共に」を実感できたなら幸いです。

私は聖書から知る信仰生活にこだわりたいと願います。
それは、時代地域の雰囲気に流されない信仰生活です。
だからこのところはもっとも気をつける部分でもあります。

戦後の日本では、
相当に注意し徹底して共に生きることにこだわった教会でないかぎり、
戦後の日本の企業社会の雰囲気の範囲内で
信仰生活を形作ることがほとんどだろうと思います。
それは言葉化こそされないけれども、暗黙の了解を得ている感覚となっています。
暗黙のうちに、人と人との距離が定められ、互いに干渉してはいけない場所が定められています。

しかし、私はそのような距離や場所を
キリストの十字架の出来事が吹き飛ばすゆえに、
信仰によりまさに家族として共に生きることを、今後も目指したいのです。

先週木曜日に、J家に待望の第一子が誕生しました。
Mくんと名づけられました。
心からお祝いを申し上げます。

教会という信仰共同体で生きておりますと、
こちらがどんなに年を重ねても、
いつでも生まれたての生命と出会うことがゆるされることに、
驚きをもって主に感謝するばかりです。
同時にどんなに若くても、
いつでもおじいちゃん、おばあちゃんと出会うことができることも、
まさに主の奇跡であり、この時代は教会独特のものと言ってもいい事柄です。

これは、
みんながみんなの子どもで、
みんながみんなの親で、
みんながみんなの兄弟姉妹であるという、
キリストの奇跡の業(これぞ奇跡!)ゆえのことです。

この主の豊かなメッセージを、
教会は永遠に大切にしていきたいですし、
ほんの少しでも軽んじたりこぼしたりするなら、それはあまりにもったいないことなのだと思います。

私たちは、
企業を信仰する家族も、
お金を信仰する家族も超えたところの、

キリストによる!信仰家族です。