きぼう屋

生きているから生きている

チーム・キリスト

2010年07月30日 | 教会のこと
もう6,7年前になりますなあ

そのころ
当教会にはチーム・キリストがいくつも出来ていました

圧巻でした

血縁者は遠くにおられるものの
実質的に家族をもっておらず
孤独であり
さらに重たい病気(認知症も含む)を抱えている礼拝出席者のために

毎週三度も弁当をつくって
車で届けるという
女性会メンバーによるチームができました

元ホームレスで
依存症とたたかっていて
真夜中に度々苦しむ青年を支えるために
当教会の礼拝に集うホームレス支援者がチームとなり
何度も訪問し祈りました

病をかかえる青年のためには
当時学生だった二人の青年が
訪問を繰り返しつつ牧師以上に豊かにかかわってくれていました

現在
ときどき妻と話すのは
あの頃の記憶が飛んでいるねえ
ということです

強烈に毎日が忙しかったのだけ(身体が)覚えているような感じです

しかし
もしすべてを鮮明に覚えていたら
二度とこれだけのかかわりをするというチームを作ることが出来なかったかもしれません
ほんと
それほどにしんどいことでもあります

しかし
自分のしんどさとかが基準ではなくて
キリストの導きが基準であって

できるかできないかではなくて
やるかやらないかであるわけで

キリスト者は
教会は
かかわるわけです


ただ
当時の役員会は
このようなかかわりを否定する意見がたくさん出ておりまして
今振り返ると
私が倒れたのは
かかわりがしんどかったからではなく
かかわることの否定がしんどかったのだなあとよくわかります


しかししかし
その後

わたしは実はずっと心配しておりました
あのころのような
他者にかかわるチームがなかなか教会で起こされなかったからです

その原因は
私が倒れたことにあることは間違いありません
無意識にも教会は
そこで自制せざるを得なかったわけです

だから
わたしの最も熱い祈りは
倒れた出来事から悔い改めと恵みをいただくことと
再びいくつものチームが起こされるということでした


そして

今年度に入って
不思議と
起こされております

苦悩している高齢者のために
女性会でチームができ
毎日誰かが訪問しているという
まさに教会家族が起こされています

青年会は
常に互いを覚えて祈り
仲間の誰かがしんどくなったら
チームができて
訪問してくれます

そんな中で

癒しが起きています
復活が起きています

圧巻です


いま
チーム・キリストが起こされているのを見つつ
それは同時に
教会が牧師である私の回復を確信できるようになった
ということなのだろうなあ
と思わされております

私自身はすでに3年前くらいに回復したなあと思っておりましたが
きっと
こういう現象が起こされた今
実は回復したというところが
客観的にただしいような気がしてきました


いずれにせよ

キリストと
キリストの招きに応えるゆえのチーム・キリストに
心から感謝すると共に

かかわるチームはとても大変なわけで
そのために祈るし
このブログを読むすべての人にもチームのひとりひとりのために
祈っていただきたいのであります


なにしろ

圧巻です

聖霊

2010年07月22日 | 教会のこと
現在当教会は信仰基礎講座と題して
キリスト信仰における大きなテーマを週ごとに分かち合っています

今週は
聖霊
を分かち合っています

この数十年は聖霊が流行しております
それはおおかた
自分の心が聖霊で満たされるか否か
満たされたらハッピーで
満たされていなかったらアンハッピー
ということであるわけですが

聖書は

交わり全体
世界全体が
聖霊で満たされることを証言していて
実は
個人の心が満たされる
ということは
翻訳を丁寧にするほどに
聖書からは取り出しにくいことがわかります

たとえばペンテコステの記事では

聖霊は
嵐のごとく一同を満たしております

イメージとしては
台風のときに
町中がまさに台風で満たされるわけですが
そのようにして
聖霊は全体を満たすわけです


もし心が聖霊で満たされるかどうかで
自分の状態が規定されるとするならば

幸せを感じないとき
元気が出ないときは
聖霊に満たされていないときということになり

それはとても自分を追い詰めることになります

聖霊は個人の状態とは関係なく
たとえ元気でなくとも
幸せでなくとも

いや、そのようなときこそ

聖霊は
その人の生活全体に
満ち満ちるわけです

だから聖霊はすごいわけ



さて
昨晩祈祷会で
不思議な言葉を聞いて
不思議な気分になっておりました

他の教会の説教の最後に
牧師が

思い上がっているときには聖霊は働きません

と言ったということです


うーん
何が言いたいのかわかりません

まず
聖霊が働くのは条件による
という理解があまりにも古く
またよろしくないものです

そしてこのような言葉で説教が締めくくられるとしたならば
それは
聖霊を利用して
人間である牧師が
単純に道徳事項を語ったにすぎません

もっというと
人間が罪を犯しているときにこそ聖霊が働くだろうから

思い上がっているときにこそ聖霊が働き
しかも嵐のようにぶつかってきて
思い上がりをふっとばし
他者に神の思し召しのままに端的にかかわる
つまり
聖霊によりつなげられる

ということになるのが聖書の語るところではないかと思います



聖霊は

他者にかかわれ
というかたちで私たちを導きます

わたしたちの身の丈にあわないほどに
つまり身の丈というのは自分の基準であり
それを聖霊がふっとばし
なお、さらにかかわれ
というかたちで他者に向かってわたしたちを押し出すのが聖霊です

そして
自己理解における身の丈を超えるから
他者とのかかわりのなかで苦しみ痛むことに耐えられないわたしたちは
祈ることさえできなくなるのですが
すると
聖霊が
身代わりとなって祈ってくれるというところまでする
と聖書が証言するわけで
つまり最終責任は聖霊はとってくれるゆえに
私たちは
いわば大胆に
他者にかかわり続けることが許されるわけです

それも
できる範囲ではなく
身の丈ではなく

聖霊が導くままに
神からのミッションとして

かかわるわけです

それが聖霊!!!!

わんだふぉお

2010年07月21日 | 教会のこと
夏の小学生キャンプ2010in小浜
無事終了

すべてがワンダフォーでした
言葉に出来ないほどワンダフォーでした

日焼けしたところが痛いのだけがあれですが
それもまたキャンプのしるしとして
繰り返しキャンプで起こされた物語を再生するスイッチにもなり
やっぱりワンダフォーです

だからほんとにここに何も書けません

書いてしまうと薄めてしまうことになってしまって
とってももったいないので
言葉にできません
とってもすみません

このキャンプの体験が
じっくりと時間をかけて
参加者の身体となっていくのを
見守っていきたいと思います。



みなさんの祈りと準備と奉仕を感謝

神の働く場

2010年07月18日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

*******************

「神の働く場」

教会とキリスト者は、
この世において神が働かれることを、丁寧に知り、参与していきます。
そしてそれが具体的なキリストの平和を世に創り出すことになります。

神が働かれる場所は超越している場所です。
そして超越している場所の発見こそ大事な信仰のテーマです。

まず私たちは生と死という超越を抱え生きています。

今生きていることは当然ではありません。
超越的出来事です。
ここには明らかに神が働いています。
生きていることを当然とするとき、
私たちは命への労わりを忘れます。
しかし神の働きによって生きることを実感できるとき、
私たちは命を愛します。

また私たちが死を迎えるのも超越的出来事です。
人は、神の働きを信じることで死を受容できる知恵を獲得しています。

また人と人との関係、命どうしの関係、
共に生きること、共に居ること、さらにそこで互いのために祈りあうこと、支えあうこと、引き受けあうことも、
超越的な出来事です。
これらは神の働きがあって初めて成立します。
神抜きでは(人だけでは)、
他者と共にいることは、
最終的に疲労となるという現象が起こります。
しかし神は、疲労を愛と喜びに変化させます。

ですから、
キリスト教会は、(旧約聖書を読むユダヤ教とイスラム教も)、
他者との交わりを毎週欠かさず体験します。
つまりこれこそ超越的であり、
交わりを成立させることこそが神の業であり、
とりわけキリスト教会にとっては、
キリストの十字架上での引き受けの出来事なわけです。

そこでわかるのは、
神の働きは他者との交わりの只中で起こされるのであり、
個人が神を参拝することによってではないということです。

参拝形式の信仰は、
超越以前の自分を神の名によって肯定するという、
実のところは自分で自分を報いるための、自分の働きであると言えます。

しかし
神の働く場は、礼拝を中心としたキリストの体なる交わりであり、
そこから派遣された者たちがあらゆるところで担う交わりです。

だから本日も共に礼拝し、愛し合います。
神の働きによって。

アーメン。


命だけなんとか

2010年07月14日 | ホームレス支援のこと
警報が解除されたところで今回はどうにもなっておりません
水を貯めきった山々は遠慮なく放出しているようです

午前8時すぎに一気に水があがってきました
消防も同時にやってきたということは
ダムが放出でもしたのでしょう

昨晩よりも増水し
7,8年前の大増水と同じレベルに達しています

御池橋の住居も浸水しました
一気だったので
体が逃げるのに精一杯で
荷物は全部置きっぱなし

自転車は流されてしまいました

葵橋の下の住居は天井ちかくまで浸水


というわけで

あまっている自転車
あまっている布団
がありましたら
ご寄付をお願いいたします

服や靴もお願いいたします

下記までよろしくお願いいたします。

602-0854
京都市上京区荒神口通河原町東入亀屋町122-1
ホームレス支援機構 京都寄り添いネット


北の山が見えた!希望だ!

2010年07月13日 | ホームレス支援のこと
鴨川の河原から
北の山々が見えてきた

希望だ

もう北でも雨が小さくなってきたということ

ラジオが言う

警報解除


河原で生活する男たちに笑みが戻る

「缶を集められねえ」

愚痴も出るようになる


一安心して家に戻る



今年は20年に一度の
鴨川の底の土を抉り出す年で
その工事が終わったばかりだから
増水の心配はかなり減った

しかし今晩はそれでも水があがってきた

葵橋の下の住居は半分ほど水に浸かった

丸太橋の下も浸かっていたが
すでにみんな自立しているからよかった

荒神橋の下は干した洗濯物に水が浸かっていた
高床式の家はなんとか大丈夫だが
住人は非難

その住人が
「寝てて気付いたら水がすぐそばまで来ていた」
と言うくらいだから
一気に増えたのだろう


御池大橋の下は
あと数センチで浸かるところ
住人はみんな非難

大橋の下は
あと50cmくらい余裕がある
3人で力をあわせて
対策をとっていた



もし昨年だったら
えらいことになっていた

運がよかったとしか言いようがない

そしてやっぱり危険と隣り合わせであることを
恐怖と共に確認せざるを得ない


ただ
北の山々が見え出した


とりあえずよかった




他者のための教会

2010年07月11日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

******************

「他者のためのキリスト教会」

先週金曜の夜、
教会員ではないが、
当教会が連帯する福祉運動を熱心にされ、
ホームレス支援のボランティアでもある男性が牧師館を訪ねられた。
知り合いの生活保護で生きる青年が、
事情によりその日でアパートを出るよう裁判所より通達があり、
彼はその知り合いの方に一日中付き添い役所などをめぐったという。
しかし公的な支援施設に空きはなく、
週明けの月曜日までこの知り合いの方は行き場所がないとのことだ。
そこで教会に相談に来られた。

私はまず、
すでに生活困窮者があふれる時代であるのに、
役所が土日に対応できないことに腹がたった。

しかし
もっと腹がたったのは、
今の教会はさらに何もできないことだ。
私たち教会は、聖書に書かれていることを、こんなにも実行できない!
という罪の重さに気づくことしかできない。

聖書は、
キリストの体なる教会が
他者の隣人となり、
他者を愛し、
他者と共に具体的に寝食する姿を
神の国のこととして述べる。

しかし教会はそれを行ってきたか。

少なくとも私の赴任以降は努力しつつもまだ行き届いているとは言えない。

また、
いつ当教会はこの世のためのキリスト教会となったのか?
は具体的に伝承されるべき事柄ゆえに、
私の赴任前の、
命からがらの他者の隣人となった当教会の物語を、
ぜひとも先輩方には教えていただきたい。

教会の歴史とは、これらが数えられつつ、伝承されることに尽きるだろう。

教会がキリストと共に(他の諸力と共にではなく)歩もうとするならば、
この時代に教会がシェルターを持つ意味は大きい。

シェルター設置に関しては
ホームレス支援に対するのと同じ論理による消極意見も起こるだろう。
私はこれまで
困窮者にかかわることの消極意見との対話に力をかけず、
困窮者へのかかわりに力を注いできた事実があり、
実は当教会において
明日の命を脅かされている他者の隣人になることは
未だ丁寧に議論されていない。

これは牧師として反省するしかない。
しかし今後は議論をするしかない。

時代は変わった。
猶予もない。

この青年は今晩も行き場がない。
きっと野宿をする。

主ならどうするか?
聖書はどのように語るか?

主よ!彼に伴い続けてください。


二度目が肝心

2010年07月10日 | 教会のこと
歴史を学ぶと面白いことを発見できるものですが
わたしはその中でも
二度目が肝心
ということをよく学んでいます

それは
おかしいことに気付き
それを変えるためにがんばって
一度目の挑戦でなんとかうまくいき
それがひとつの転換点になるものの
しかし実は
それなりの時間がたつと
元の雰囲気なり体質に戻ってしまう
ということが実は大半です

そして
もう一度同じおかしさを覚え
もう一度変えるために
二度目の挑戦をすると
その後は雰囲気なり体質がそれなりに変革し
戻ってしまうことが少なくなる
ということに良く出会います


たとえばわたしはバプテストですが

宗教改革で国家からの自由を獲得するものの
ほんの100年でプロテストした教会も国家じみてきてしまうわけですが
そりゃあそれまで1000年以上も続いた国家や教会の体質が芯から変わるほうが無理なわけで
戻っていくのも無理はないなあと思ったりします
でももう一度国家からの自由をうたい
バプテストは誕生し
その後は体質は改善されたままであり
リバウンドはそう起こっていないみたいなのです

しかし今度は国家が(資本経済社会が)バプテストが語っていた個人や合理性を語るようになって
不思議とまた逆の歩み寄りでバプテストが国家と結びつくようにもなります
(今、それはアメリカ教とも呼ばれるようです)

日本へバプテストが入ってきたとき
実は逆の意味での国家と組したバプテストだったのだろうと思います
だから戦争においても国家に組した歴史があります
でも戦後
日本のバプテストは国家から自由になる道を歩みます
(しかし当時の日本の人口とアメリカのバプテストの人口はきっと同じくらいなので
 貧しい日本ではなく、富むアメリカバプテストに組したということかもしれませんが)

しかし
やっぱり
体質改善は一度ではうまくいかず
アメリカ教とも呼ばれるようになった国家とつながる思想を
日本の教会ももう一度無意識にも持っていくわけです

でもそのおかしさに
アメリカのバプテストから自由になるということを求めるかたちで気付いて
経済的にアメリカから完全に自立する道を選びます

つまり二度目の挑戦です

そして二度目を経ると
聖書主義
キリスト主義
というところに立つこともかろうじてわずかながら可能になってくるのだなあ
と思います

それまでは
国家主義
個人主義
経済合理主義
だったりしたわけです


ウチの教会も

私が赴任して
ホームレス支援をはじめ
教会の形態や体質を変革する信仰理解と活動を行ってきており
それが一度目の挑戦としてそれなりにかたちになっているわけですが

しかし
そろそろ
リバウンドといいますか
もとの体質に戻るということも
なんとも無意識のうちにとっても自然に
起こってくるだろうと予想します

そして
同時に二度目の挑戦もはじまります

そこからが肝心なわけです

それが人間であり
それが歴史の常なんですなあ

しかし
だからこそ
これからが楽しみです


新しい体質の教会に共鳴して集まっている若者のみなさんには
こういうあたりも覚えてもらいつつ
遠慮なく積極的に
楽しみつつ
二度目の挑戦に参与していただきたいなあ
と思うわけでございます


この世のための教会として
歩みはじめましょう

アーメン





教会の本質

2010年07月02日 | 教会のこと
ひとりの青年がアイデアを出して呼びかけてくれました

木曜日の夜に
みんなでごはんを食べて
聖書を読んで
お互いのために祈ろう

昨晩
第一回目が開催されました

美味しいし楽しいし幸せだしうれしいし慰められるし明日が見えるし生きる気になるし

これはいい
これはすごい

これが
きっと教会の本質の中の本質
なんだと思いました

一緒に食べて
一緒にみ言葉に触れて
そして
み言葉に生きる
つまり
互いの重荷を引き受けあって祈りあう

発案してくれた青年が
おいしいカレーをつくってくれました

今後も毎週
まさに主からのミッションとして
よろこんで食事を用意されるとのこと

感謝感謝


教会の活動は
すべて
もちろん礼拝も含めて

誰かが主から受けたミッションに
他の者たちが共鳴し
それを共有のミッションとして
複数人で聖書を読み祈り行う

ということなのだろうと思います

逆に言うと

伝統だからするのではなく
儀式だからするのではなく
恥をかかないためにするのではなく
牧師が言っているからするのではなく
執事会で決めたからするのではなく

キリストの体なる具体的な教会という家族の
誰かの受けたミッションにみんなが喜ぶところから
教会活動は始まるわけです

当教会も
わたしの赴任以降

火曜昼の祈祷会

ホームレス支援炊き出し
がそのようなかたちではじまり

実にそのふたつの交わりにより
イースターもバザーもクリスマスも教会学校も
実質上担われてきた経緯があります

そのふたつの交わりが
隅々のなかなか見えない部分まで行き届き
教会活動を豊かにしてきました

今は
そこで教会のすみずみを見てきた人が増えているため
全体懇談会などで
しっかりと担うことができるようにもなりました

つまり
誰かが具体的に受けたミッション
というところが
教会の本質を獲得するためのポイントなわけです

そしてこの木曜夜の集いからも
優れていろいろな証しがうまれてくるだろうと思います
この集いから教会の本質が再獲得されるということにもなろうと思います


そもそも
50年前の教会の青年会って
こうだっただろうなあとも思います


昨今思うのは
教会は
50年前にやったことを
もう一度やったらいいなあ
ということ

懐古趣味といわれればそれまでですが

50年前にしていたことを
個人主義と合理主義により
相当につまらないかたちで放り投げていると本気で思います

これはもったいない

しかもたかだか50年
遠い将来から見たら同じ時代

つまり
この50年はちょっとした揺れであり
強烈だった人間の思想に流れるケースが多かったほんの50年があったというだけであり

だったら
また50年前のことをしたらいい
と思いました

さてさて

教会の本質ですが

それは具体的な交わりです
互いに互いを良く知るようになる交わりです
互いの罪が告白され互いに担い合えることを目指す交わりです
互いに祈りあう交わりです
互いに笑い泣く交わりです
共に食べて生活する交わりです
共に礼拝する交わりです

互いに互いの身代わりになる交わりです

わたしはわたしとは絶対に思わない交わりです
わたしはあなた、あなたはわたしという交わりです

一人で生きていけるなんで絶対に思わない交わりです
主と共に生き、他者と共に生きるしかないし、そうでなければ生きられないし生きたことにならないことを豊かに知っている交わりです

自分の能力とか賜物とか財力とかを絶対に求めない交わりです.
主からのミッションのみを求めて端的に分かち合い行いあう交わりです

できるかできないかで判断することを絶対にしない交わりです
主のミッションはやる!という交わりです
主以外の諸力によることはやらない!という交わりです

そしてこういう交わりは

共に食べ
共に聖書を頂き
共に祈る

という具体的な場所と時間を繰り返し共有し
その場数を踏むごとに

まさに教会の本質として
形成されます


木曜夜の集い
これは仮称ですが
これからみんなでいい名称をさがしますが

ぼちぼち続けていきたいのであります

感謝感謝