本日の週報巻頭言です
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「ひとつのからだ」
今年度に引き続き、
来年度も
私たち京都教会は、
「キリストの体とされて」
というテーマを歩みます。
「一つの部分が苦しめば、
すべての部分が共に苦しみ、
一つの部分が尊ばれれば、
すべての部分が共に喜ぶのです。
あなたがたはキリストの体であり、
また、一人一人はその部分です(Ⅰコリント12章)」。
人間が集まり交わる場所は、
教会が象徴的ですが、
実はすべてキリストの体だと思います。
職場も!学校のクラスも!家族も!です。
そしてどの交わりでも、
大なり小なり
いろいろな思わしくない出来事が起こります。
そこでは緊張や摩擦があるし、
あるべきと思う姿が崩れ、
すべきと思う事ができない
ということも起こります。
すると
今の常識では、
そういうマイナスと思われる事が起こったとき、
その原因(犯人)探しが、
責任の所在
という言葉で行われます。
そして、
責任を取る個人がいわば選ばれ、
その交わりのほかの人たちは、
自己責任という常識にのっとって、
命拾いすることになります。
でも
こういう犯人探しと命拾いとの繰り返しが、
交わりを成熟させた例は
おそらくないだろうと思います。
なぜなら、
交わりが体であることが無視され、
個と個が分断されているからです。
だから教会は、
交わりに思わしくないことがあるなら、
それは、
交わりの体の質、
つまり体質の問題であることを、
聖書から学びます。
常識的には個人の問題に見えることでも、
教会はそれを
体質の問題の地平で分かち合わねばなりません。
そしてその地平において、
互いの
信仰と
希望と
愛と
信頼と
対話と、
そして
執り成しの祈りと
具体的な執り成しとが
問題がある以上は(問題と認識できない場合がほとんどだけど)
欠如していることを発見せねばなりません。
もし、今、
特定の個人の問題だと考えていることがあったら、
(その個人が自分の場合も他人の場合もありますが)
ぜひ、
その個人の参加する交わりの体質が、
人間の常識基準か、
キリストの愛基準か
を
祈りつつ見極めてみたいと願います。
私たちはキリストの体です。
今後もキリストにあって共に生きていきます。
アーメン。
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「ひとつのからだ」
今年度に引き続き、
来年度も
私たち京都教会は、
「キリストの体とされて」
というテーマを歩みます。
「一つの部分が苦しめば、
すべての部分が共に苦しみ、
一つの部分が尊ばれれば、
すべての部分が共に喜ぶのです。
あなたがたはキリストの体であり、
また、一人一人はその部分です(Ⅰコリント12章)」。
人間が集まり交わる場所は、
教会が象徴的ですが、
実はすべてキリストの体だと思います。
職場も!学校のクラスも!家族も!です。
そしてどの交わりでも、
大なり小なり
いろいろな思わしくない出来事が起こります。
そこでは緊張や摩擦があるし、
あるべきと思う姿が崩れ、
すべきと思う事ができない
ということも起こります。
すると
今の常識では、
そういうマイナスと思われる事が起こったとき、
その原因(犯人)探しが、
責任の所在
という言葉で行われます。
そして、
責任を取る個人がいわば選ばれ、
その交わりのほかの人たちは、
自己責任という常識にのっとって、
命拾いすることになります。
でも
こういう犯人探しと命拾いとの繰り返しが、
交わりを成熟させた例は
おそらくないだろうと思います。
なぜなら、
交わりが体であることが無視され、
個と個が分断されているからです。
だから教会は、
交わりに思わしくないことがあるなら、
それは、
交わりの体の質、
つまり体質の問題であることを、
聖書から学びます。
常識的には個人の問題に見えることでも、
教会はそれを
体質の問題の地平で分かち合わねばなりません。
そしてその地平において、
互いの
信仰と
希望と
愛と
信頼と
対話と、
そして
執り成しの祈りと
具体的な執り成しとが
問題がある以上は(問題と認識できない場合がほとんどだけど)
欠如していることを発見せねばなりません。
もし、今、
特定の個人の問題だと考えていることがあったら、
(その個人が自分の場合も他人の場合もありますが)
ぜひ、
その個人の参加する交わりの体質が、
人間の常識基準か、
キリストの愛基準か
を
祈りつつ見極めてみたいと願います。
私たちはキリストの体です。
今後もキリストにあって共に生きていきます。
アーメン。