きぼう屋

生きているから生きている

からだ

2008年03月30日 | 教会のこと
本日の週報巻頭言です


******************


「ひとつのからだ」


今年度に引き続き、
来年度も
私たち京都教会は、
「キリストの体とされて」
というテーマを歩みます。

「一つの部分が苦しめば、
すべての部分が共に苦しみ、
一つの部分が尊ばれれば、
すべての部分が共に喜ぶのです。
あなたがたはキリストの体であり、
また、一人一人はその部分です(Ⅰコリント12章)」。

人間が集まり交わる場所は、
教会が象徴的ですが、
実はすべてキリストの体だと思います。
職場も!学校のクラスも!家族も!です。

そしてどの交わりでも、
大なり小なり
いろいろな思わしくない出来事が起こります。

そこでは緊張や摩擦があるし、
あるべきと思う姿が崩れ、
すべきと思う事ができない
ということも起こります。

すると
今の常識では、
そういうマイナスと思われる事が起こったとき、
その原因(犯人)探しが、
責任の所在
という言葉で行われます。
そして、
責任を取る個人がいわば選ばれ、
その交わりのほかの人たちは、
自己責任という常識にのっとって、
命拾いすることになります。

でも
こういう犯人探しと命拾いとの繰り返しが、
交わりを成熟させた例は
おそらくないだろうと思います。

なぜなら、
交わりが体であることが無視され、
個と個が分断されているからです。  

だから教会は、
交わりに思わしくないことがあるなら、
それは、
交わりの体の質、
つまり体質の問題であることを、
聖書から学びます。

常識的には個人の問題に見えることでも、
教会はそれを
体質の問題の地平で分かち合わねばなりません。

そしてその地平において、
互いの
信仰と
希望と
愛と
信頼と
対話と、
そして
執り成しの祈りと
具体的な執り成しとが

問題がある以上は(問題と認識できない場合がほとんどだけど)
欠如していることを発見せねばなりません。

もし、今、
特定の個人の問題だと考えていることがあったら、
(その個人が自分の場合も他人の場合もありますが)
ぜひ、
その個人の参加する交わりの体質が、
人間の常識基準か、
キリストの愛基準か

祈りつつ見極めてみたいと願います。

私たちはキリストの体です。
今後もキリストにあって共に生きていきます。

アーメン。


無題

2008年03月28日 | 「生きる」こと
今日はまだここに
なんにも書いていないから

さっと書いてしまいます


わたしは牧師室で脳みそをフル回転させています
整えるべきものを整え
考えるべきことを考えています

牧師室の下では
保育園の仲間たちがとても豊かな交わりを持っています
ほんとは
それに参加しているところですが

整えるべきものと
考えるべきことが多すぎて

食事とお茶のときだけ一緒にいるという
とても失礼なことをしております

わたしの今の状況は
生と死と結婚という
大きな出来事を
同時的に
真正面から受けているというものです

いつなにが起こってもいいように
身体はきわめてするどい緊張を保っています

あらゆる神経の信号が
脳みその筋肉をはじめ
身体全体の筋肉をするどくしています

そして
そういうありとあらゆる事柄が同時に迫ってきている中の
私の心身は

極めてするどく緊張するゆえに
極めて軽く
極めて落ちつき
極めて
なんと
実に
ゆるい!のです

つまり
見事にリラックスしています


この感触を言葉として持ちえたのは最近です

言葉にならない時期は長かったと思います

大きな集会でものすごい人数のまえで話さねばならないようなとき
(今まででは1万人の前というのが最多でしたでしょうか)

あるいは
あまりに不条理な死を受けた者に寄り添うとき

まるで人が入れ替わるかのように
一気にリラックスするという
とても不思議な身体の状態を経験します

だから
たとえば
話の内容を全く用意していなくても
リラックスした脳からは
むしろ最もいいものとしての話が出てきます

なにかコトが起こったときに
自然にいかようにも筋肉が反応したりします

無論
祈りに祈ります

でも
これ以上説明はできません

とまあ
そんな瞬間を
いま
生きております

おしまい。。。

モードチェンジ

2008年03月27日 | 「生きる」こと
憐くんは

まずは
保育園に行きたくない!
というモードにはいっています


ヒロちゃんは?
と一言いうと
急に
保育園に行く
と言います
(ヒロちゃんは保育園の先生です)

つまり
保育園モードにはいります

憐くんでよくわかるのは

モード・チェンジするときは
それぞれのモードにおける
具体的な他者
が想起されるとき
ということです

おうちモードから
保育園モードにかわるときは

憐くんの大好きな
保育園のせいせいの
ヒロちゃん
を想起するときです

すると
アユミは?
ヒロトは?

次々と保育園のおともだちの名が
憐くんの口から飛び出します

そして
保育園にお迎えに行くと
今度は

空は?
共は?


おにいちゃんたちの所在確認をします

家族を具体的に想起することで
憐くんは
保育園モードから
おうちモードにかわります


モード・チェンジが
いつでも
憐くんのようであったらいいなあ
と思います

これが
具体的他者ではなくて

お金を想起したり
雰囲気を想起したり
仕事を想起したり
(学生時代、よくアルバイトモードに入りきったもんです)

そういう風になると
実は
すでに
人間が人間であるところの人間
というところの人間性

何か

失われるのだろうなあ

思います

モード・チェンジは
他者想起です



さらに
とあるモードに入っていながらも
異なるモードにおける他者までも想起できる

というのが

成長というものなのでしょうなあ


いやいや
そんな特定のモードに入るなんてないよ
いつでも地球モードさ

くらいの
大きいこともいいですが

わたしの経験では
そういうことをいう場合のほとんどが
いずれの交わりでも
責任を担うことができないという

また別の
人間性において不可欠な
何かを
失っている状態だと
思ってもいます

つまり
憐くんを
みならいたいわけです

おしまい。。。

イースター礼拝のおはなし

2008年03月26日 | 教会のこと
イースター礼拝は
礼拝説教どころではないところの
復活の主イエスを長子とするところの
教会家族の団結を
豊かに頂いたという礼拝でありましたが

ゆえに
説教はなんだかあやふやになってしまったので
と言いますか
そもそも話したわたしが
再開後はわけわからず
というものであったので

ここに要約を載せたいと思いました

要約なので
これの2倍ほどある例話ははぶきますが・・・

「聖書教育」誌によって示された聖書箇所からの説教で
なかなか大変でもありましたが
(わたしがイースターに選ぶ箇所とはだいぶ違いますが)
しかし
祈りつつ読むなら
聖書はどの箇所も豊かなのです

ではどうぞ。。。

******************


2008.3.23
イースター礼拝

タイトル「キリストと出会う」

聖書:ヨハネ福音書20:1~18



<追い求める果て>

主イエスは復活して墓にもういません
でも墓に遺体があると思っているマリアは
主イエスの身体がないものだから
とてもびっくりします

だから主イエスの弟子だった二人に言います
「主が墓から取り去られました
 どこに置かれているのか
 わたしたちにはわかりません」

さらに天使たちにも言います
びっくりを通りこえて悲しくなって言います
「わたしの主が取り去られました
 どこにおかれているのか
 わたしにはわかりません」

さて
このふたつのマリアの言葉から
マリアの人格全体の変化を知ることが出来ます

マリアは生前のイエスと交流のあったひとりです
そしてイエスの死後
その生々しい交流
つまり、
言葉が交わされ、
臭いが分かち合われ
目をあわせあうというあの交わりから
マリアはだんだん遠ざかっていくわけですが

するとそれと同じくして
彼女の人格全体に変化があらわれます

まずは
主の具体的な姿です
最初は「主が墓から」と
主の位置を確認できていましたが
それが次第に「わたしの主」と言われるようになります
つまり
主がマリアのイメージとして脳裏にて形成されていきます

するとそれと同時に
「わたしたちには分かりません」
という交わりにおける言説が
「わたしには分かりません」
という個人的言説に変わっていきます

つまり
交わりという具体が、個人の脳裏におけるかたちへと変わっていきます

現実の生々しい具体的な出来事が
個々人の脳裏におけるかたちのなっていく

ここにわたしたちが知るべき人間の癖

人間の罪を見ることができます

人間は
どうも自分の脳裏でつくったかたちに
なんでもはめこもうとするようです
それは
生々しい他者との関係性から遠ざかるほどに
そうなるようです

だから
教会は数千年ものあいだ
アホみたいに毎週毎週みんなが集まるのでしょう

この合理化の時代
忙しいのだから
礼拝を月に一回にすることに意味をつけることだってできるし
インターネットで中継して
各自家で礼拝をすることもできます


わたしはインターネット中継を否定はしません
それどころかできるならすべきと思います

でも
そうなったところで
神は必ずやキリストを信じる者を
毎週毎週集めるわけです

つまり
生々しい具体的な交わりは
復活の主と深い関係にあるからです

でも
とりわけこういう時代ですから
わたしたち人間は脳裏につくるかたちになんでもはめこもうとするわけで・・・

すると
どうでしょう
マリアさんは
今度は彼女の求めている主イエスが目の前にいるのに
目の前の人を主イエスとは分からず
主イエスに向かって
「あんたが私の主イエスを運んだのなら
 返して!!」
と言うわけです

生々しい交わりを喪失すると
求めているものが生々しく目の前にあるのに
それが求めているものと気が付くこともできないほどに
わたしたちは
脳裏につくったかたちに騙されるわけです

当教会はバプテストであることを大切にします
わたしたちはバプテストです
でも
わたしたちが大切にしている言葉があります
「バプテスト、バプテストという者はバプテストにあらず」

これはSさんがY牧師から頂いている言葉で
わたしたちも共有できたらと願う言葉です

わたしたちはバプテストであるゆえに
真剣にバプテストであることを求めます

しかし
Y牧師が言うように
バプテスト、バプテストという中で
逆にバプテストが見えなくなるということが起こるのは事実でありましょう

マリアが
主イエス、主イエスと言いつつ
目の前の主イエスが見えなくなったように・・・

たとえば昨今の私たちの生きる社会は
自由、自由と叫ぶゆえにどんどん実は不自由になっている
あるいは
どんどん不自由にする人(権力のある人が多い)ほど自由、自由と叫ぶ
という事実を経験しています

民主的、民主的と言うほどに、権力的になり・・・
相対化、相対化と言うほどに、絶対的になり・・・
個性、個性と言うほどに、個性を失い・・・

だいたいそういうときは
万に届く大きな集団だったら保守的雰囲気に
それ以下の集団だったらカリスマに
同調するようになっているのが事実ではないでしょうか

わたしたちは
わたしたちが心底求めてやまないものを
しかしそれを熱く求めるときに
その求めているものが目の前にあっても気が付かないほどに
つまり
自分の頭の中で描いているところの求めているもの以外が
見えなくなるわけです

これは人間の強い癖であり罪です



<名を呼ばれるから名を呼ぶ>

さて
こういう癖を持つわたしたちが
そういうところから解放されるためにどうしたらいいのでしょう

はっきり言います
主イエスの復活の出来事でしか私たちは解放されません

復活の主イエスの行為のみが私たちを解放します
その行為は
復活の主イエスが、わたしたちを求めて呼ぶ
というものです

マリアが
目の前の主イエスに気が付かず
しかし主イエスを求めているとき
それはすなわち
頭の中のイメージに支配されているとき

そこから解放されたのは
主イエスが「マリア」と呼んでくれたからです

主イエスがマリアを求め、マリアの名を呼んだからです

これが復活です!!

つまり
復活の主に出会う前までは
わたしたちは
私たちが神を求め
「神よ、神よ」と呼ぶわけです

復活の主イエスと出会うということは
それが逆転して
神が私たちを求め
私たちの名を呼ぶということです

これが復活の大逆転です

神が「京都教会よ」「大谷心基よ」
と呼んでくれるというのが
復活の業です


このことはあの有名な「夜と霧」を書いたフランクルの
その本の中の有名な言葉が見事に一言で言い表しています

彼はこう言います

「私が人生に何かを期待し求めるのではなく
 人生が私に期待し、私を求めるのだ」

ユダヤ人である彼は
ナチスドイツ時代に強制収容所で強制労働をさせられていました
その表現できない苦しい状況の中で
とりわけ未来の自分の姿が今の自分に期待しているという体験を通して
この言葉を言いました

私が未来に期待するのではなく
未来が私に期待するのです

これが復活です

つまり

私が主イエスを求め、主イエスに期待するのではなく
主イエスが私を求め、私に期待するのです

これが復活!!!

もっと言いましょう

私がバプテストを求めるのではなく
バプテストが私を求めているのです
(この場合のバプテストは何らかの組織のことではありません)

私が自由を求めているのではなく
自由が私を求めているのです

私が平和を求めているのではなく
平和が私を求めているのです

私が愛を希望を信仰を求めているのではなく
愛、希望、信仰が私を求めているのです

これが復活です!!

だから
神が私たちを呼ぶのです
ひとりひとりの名を
ひとつひとつの共同体の名を
丁寧に呼ぶのです

この呼びかけこそ復活の始まりです

そしてわたしたちは
その呼びかけに応えます

それは
わたしも他者の名を呼ぶということにおいてです

それは聖書の原語から見るならば
主イエスが私の名を呼ぶということは
主イエスが私を愛し、私にかかわるということであり、
また
わたしも他者の名を呼び
他者にかかわり他者を愛するということです

ここまですべてセットで
わたしたちは復活を味わいます



<復活した!と復活はわからない!のはざ間で
・・・我々は途上にあり!>

さて
主イエスに名を呼ばれたマリアは
しかし
同時に主イエスから言われます
「わたしにすがりつくのはよしなさい
 まだ父のもとに上っていないのだから」

そうです
主イエスに名を呼ばれるけれども
しかし
その主イエスとのかかわりは
途上であるのです

主が父のもとに上るのを待ちつつあるという
途上なのです

だから
私たちは
主イエスに名を呼ばれ
彼に愛されていることを信じ、彼に従うけれども
しかし
同時に
彼にすがりつくことができず
またあのマリアが3回発した言葉
つまり
「主イエスがどこにいるか分かりません」
と云う言葉を
私たちも発するわけです

わたしたちは
主に名を呼ばれ
主に求められ、期待されていることを明確に知ることと
しかし
主がわからず
主を求め、主に期待するということの
はざ間に

いるわけです

だから
言うなれば
主イエスに名を呼ばれた者だからこそ
主がどこにいるかわからないという状況をも耐えることができるわけです

復活を頂いたから十字架を担うことが出来るわけです
福音を頂いたから律法を生きることができるわけです

これは「はざ間」という生き様です
これが真実の生き様です
これが神による現実であり
神の国の先取りという生き様です

もはや
主イエスが
あなたの名を呼んでいることは間違いありません

復活の主が共にいます

アァメン

イースターな一日

2008年03月25日 | 教会のこと
さてさて
おとといはイースターでありまして
日本バプテスト京都教会も
イースター礼拝と愛さん会でもって
主イエスの復活をお祝いしました

明るい会堂で
リラックスして
礼拝がスタート

まずは
子どもメッセージ
アッコお姉さんと青年の仲間たち
による手作り紙芝居は
紙芝居の中のいろんなものが動く仕組みで
子どもはもちろん
大人も見入ってしまいました


復活の主イエスが
マリアのことを呼んでくれたように
みんなのことを呼んでくれます
ってことで
子どもたちひとりひとりの名前を呼びかける場面は
圧巻
涙ものでした

はじめて

すごくひさしぶりに来てくれた子どもたちの名前は
わからなくて呼べなかったけど

イエス様は呼んでくれていました

牧師として
断言するわけです


聖歌隊讃美も
また圧巻

ウチの教会の聖歌隊メンバーって
こんなにたくさんいたんだ

わたし
牧師のくせに
びっくり。

青年による特別讃美も
これまた圧巻

手話でも一緒に讃美してくれて
それもちゃんと通じたということで
ひと安心

このふたつの讃美も
復活の主が
生々しく見えてくるような讃美で
ハンカチが欠かせませんでした

讃美しているんだよなあ
うたっているんじゃあなくて
讃美をしているんです

感謝ですなあ

旅行中のフランスの方おふたりが
バプテストということで
当教会の礼拝に出席
そこでは
Hさんが通訳として活躍してくれました
これまた感謝


通訳しやすそうな言葉を選びつつ
また多少(かなり)ゆっくりめに
礼拝説教をしていきました


それがうまくいったかどうかは
あんまりわかりません

そんなことをしなくても
Hさんの場合
じゃんじゃか通訳できるわけでもあって
余計なことだったかもしれません





説教中に
ドーン
という音

前に立っているわたしには
何が起こったのかよくわかりませんでしたが

周りに座っていた人たちが
まさに一瞬のうちに動いて
体制を整えました

Xさんが
倒れたのです

意識なく呼吸も不安定でしたが

まずは医者のHさんが
Xさんの傍でも
おそらく最も的確な場所にすぐに座られ
H兄さんは
すぐにでも救急車を呼ぶことができる体制に入り
医者のHさんの指示のもと救急車を呼び
Mさんは
時間と様子を克明に記録し
青年たちは
救急隊員が入ってきやすいように
号令をかけつつ
重い礼拝堂の椅子を動かし

わたしはただしずかに
Xさんの傍らで手を握ることができました

そして救急車が到着

しかしXさんは意識をその頃には取り戻し
Xさんご本人の希望を受けて
Hさんと救急隊員の判断によって
安静にしていれば大丈夫ということで
病院には行かず
教会のたたみの部屋でしばらく寝ることになりました

その間約20分間

そして礼拝を再開
Hさんは再開後もずっとXさんに寄り添ってくれています

ふと思いました
ウチの教会のメンバーには
医者に看護師に介護師に救急隊員がいて
じつは
ありがたいんだなあ


もちろん
気分が悪くなった人がいるときに
人的な体制が整うというのもそうですが

いのち
ということに敏感で
いのち
にかかわる決断をしている人が
集まっているということが
ありがたいなあ
と思いました


説教を再開するものの
もうすべては吹っ飛びまして

Xさんが
なんというか
礼拝の中で復活したわけで

この出来事で
今年のイースター礼拝は
出席したみんなが
一生忘れることのないものとなったわけで

そうそう
復活は
まさに
「他者のために」
が起こされることでもあり

おとといのイースター礼拝は
それが体験として
起こったというものでもありました



愛さん会に
Xさんも参加することができまして

みんなでわいわいと食べまして・・・
子どもたちは宝探しゲームも楽しみまして・・・

3時ごろに解散です



その後も
母親たちは庭で
青年たちは礼拝堂で
わいわいがやがや
交わりが続きまして・・・

母親グループは4時半ごろまで

青年グループは7時すぎまで続きまして・・・

青年たちが
クリスチャンっていいよねえ
と素直に話しているのは
とてもステキな光景でした

クリスチャンっていいのです


その7時まで
なんと
SさんとYさんは
事務室でコンピュータと格闘していまして
今日終わらせたいことが結局終わらないという
あの
すごくイライラする時間を過ごしてくれていまして・・・
本当にすみません
本当にありがとうございます


青年たちは
その後
街中でイースター打ち上げということで・・・

なによりです

とまあ

感謝感謝な一日でした

そして
Xさんを覚えて
祈って祈って祈るのであります

アーメン


成長するには痛みが伴う

2008年03月24日 | 「生きる」こと
成長するには痛みが伴うのです

なんていうと
あのカリスマ総理の言葉を思い出しますが

ああいう
極めて人間による作為的成長のはなしではなくて

本当の成長のはなしにおいては
つまり生命が生命となり
交わりが交わりとなる
ということにおいては

痛みが伴うというのは本当だろうと思いました

というのは

この間
憐くんが
夜中の2時ごろ
いつも
大泣きします

痛い痛い
言いながら

身体が成長するときの
あの痛みを味わっているところです



そういう憐くんの大泣きにつきあう
大谷家共同体もまた
憐くんの痛みを
あらゆるかたちで味わうし
また
そのために睡眠不足になる
という痛みも
味わうわけです



痛いねえ

十字架だから



空くんと共くんは
本日は終業式で
早く帰ってきました


昼ごはんを食べたら
すぐに寝てしまいました

そりゃあそうなのです

わたしも
今日は午前中いっぱい
ボー
っとさせていただきました




活動を開始したいと思います

復活の主に従いつつ

祝復活

2008年03月23日 | 教会のこと
本日の週報巻頭言です。

イースターの本日は
とってもいろんなことがありました。

それはまたおいおい


********************

先週の説教で分かち合ったところの、
主イエスが十字架で殺される前に、
私たちのために祈ってくれた
その祈りの中身を
しっかり確認することは、
主イエスが復活された本日、
主がどう私たちにかかわるのかを、
よくよく知るために
大切なことです。

主イエスは、
キリストに従う者たちが守られるために、
神が主イエスに栄光を与えるよう祈ります。

このことは、
「栄光」という言葉を
ヘブライ語から考えると感動ものです。

ヘブライ語では
「栄光」は「重み」という意味を持ちます。
だからこの主イエスの祈りは、
主イエスによる、
主が世界のすべての重みを背負う!
という宣言だと思います。

主イエスは、
私たちの全体重、全重荷を
本当に背負うと宣言しつつ、
本日、復活します。

さらに主イエスは、
神の御名で私たちを守ってくれ!
と祈ります。

ここからわかるのは、
神が名を名乗ることです。
神は匿名ではないことです。
だから私たちは、
私たちのすべてを引き受け救ってくれる方が、
誰であるかを、
具体的に知ることが出来ます。
そう、主イエスを通して知る神です。

一方、
昨今は匿名者が活動します。
この間の中高生の自殺原因が、
どれも、
携帯電話から見られるサイトに
自殺に追い込まれた
その本人について
匿名者たちが
誹謗中傷を書き込んだことであるということは
悔しくてなりません。

しかし、
そういう匿名者によって
命を削られる子どもたちに、
名を名乗りつつ、
救うと宣言される神は、
必ずやその子どもたちに
命を与える!!
と信じます。

神の御名、
つまり名を名乗る神は、
具体的な私たちへの愛です。

一方
匿名者とは、
抽象的かつ孤独という現象です。

そして、
抽象的孤独である者は、
(誰でもが時にこうなるわけですが)
自分の主義に頼るしかないから、
名を名乗る神をはじめとする具体的他者が、
愛でもってその主義に侵入してくるのを
ひどく恐れるに違いありません。

だから主イエスは、
神の愛に生きる者は
そういう人々に憎まれるから
彼(女)らを守ってくれ!
とも祈るのでしょう。

主イエスが復活する今日、
私たちは
抽象的孤独から具体的神の愛へと復活します。

復活の主イエスが共にいます!!!


イースター(復活祭)にぜひどうぞ!

2008年03月23日 | 日本バプテスト京都教会のお知らせ
(23日まではこの記事が先頭です
 でも新しい記事もこれの次にあります)


荒神橋西詰めの

日 本 バ プ テ ス ト 京 都 教 会 
        の

イ ー ス タ ー ( 復 活 祭 )

        の
お 知 ら せ

3 月 2 3 日 ( 日 ) 

朝 10:30~ イースター礼拝
昼 12:00~ イースターパーティー


上記の教会のHPを開いたら
催しのご案内
のところをクリックしてくださいませ

礼拝は
聖歌隊讃美
青年会特別讃美
いつもより多めのみんなで一緒の讃美
牧師のとってもいい話
などがあります

パーティーは
みんなで食べ物を持ち寄って
わいわいと立食形式で行います
何か食べ物を持っていきたいという方は
ぜひそうしていただけますと嬉しいです
何ももってこられないけど
ここでおいしいもん食べたいという方は
ぜひ遠慮なくそうしていただけますと幸せです

高齢者や身体のしんどい方が座る椅子は
十分にあります
子どもたちが楽しむことの出来る
おみやげつきの企画もあります



復活の前には
十字架があって

16日(日)は
十字架の主イエスを覚える
受難週礼拝です
朝10時半からです

19日(水)は
受難週祈祷会です
夜7時からです


どしどしお越しくださいませ

キリストを信じる方はもちろん

愛を信じる方も
希望を信じる方も
平和を信じる方も
出会いの超越性を信じる方も

みんな来てくださいませ。

心から
ほんとに
心から
お待ちしております

共に

2008年03月22日 | ホームレス支援のこと
昨晩は市役所前炊き出し

暖かかった昼とはえらくちがって
寒い夜となりました

いつものように
明るくわいわいと時を共に過ごす中で

ひとりの女性が足を引きずっています
聞くと足の付け根を押さえて
そこをさすりつつ
痛い
と言われます

ときどき胸をさすっています
親しい仲間が背中もさすっています

わたしが尋ねてもなかなか言いづらそうなので

ボランティアの看護師の女性が寄り添ってくれました

胸から膿が出てきたので
あのT病院に行ったら
すぐに手術をして
膿を切り取ったとのこと

しかし
5日目に帰されたとのこと
他の詳しい検査はしていないとのこと

胸から膿を取り
なお痛く
足の付け根も痛い

すごく嫌な予感がします
なんとかせねばなりません

少なくとも
路上で生活していてはなりません

本人いわく
退院後は
入院の保証人になってくれた人のところに
居候しているとのこと

しかし
そういうすべてをなんとか確認して
次の道を開かねばなりません

同時に

生きる希望と情熱を
分かち合わねばなりません

主イエスよ
共にいてください

彼女の痛みを
取り去ってください

彼女と
彼女と共に在る者に
希望と愛と力とを与えてください

キリストよ

2008年03月21日 | 教会のこと
十字架の主
キリストよ

あなたはどうしても

殴られ倒され
身体切り裂かれ
鮮血を吹き散らかし
血と土の混ざる傷口を開けねばならないのですか

あなたはどうしても
食するも座るもゆるされず
十字架を背に負い
全身の筋肉を振るわせ動かし続けねばならないのですか

あなたはどうしても
十字架に吊るされ
僕らに侮辱され
汗と血と汚物を垂れ流し
叫び
死なねばならないのですか



十字架の主
キリストよ

あなたがどうしても
見るに耐えない死を受けてまで

僕らに与えたい

世界とは何ですか
生命とは何ですか
時間とは何ですか
精神とは何ですか

あなたがどうしても
嗅ぐに耐えない死を受けてまで

僕らから取り去りたい

世界とは何ですか
生命とは何ですか
時間とは何ですか
精神とは何ですか



十字架の主
キリストよ

あなたの十字架の死を
全宇宙にさらけてまで

僕らに突っ込み
僕らを触発し
僕らを沈黙させる

現実とは何ですか



十字架の主
キリストよ

あなたは復活してくれますか
復活してください
復活してくれないと大変です

世界が切り裂かれ
生命が殴り倒され
時間が吊るされ
精神が侮辱されています

現実が
汗と血と汚物を垂れ流し
血と土が混ざり
どす黒い傷跡を次々と開けています



復活の主
キリストよ

世界の和解を
生命の快復を
時間の救済を
精神の平安を

あなたが
十字架の衝撃の只中で
起こしてください

現実の復活を

あなたが
十字架の葬りの只中で
創ってください


キリストよ
来たりませ

どうしても
来たりませ


アーメン
アーメン

市役所前炊き出しは21日

2008年03月21日 | 京都寄り添いネットのお知らせ
(この記事は21日までトップ下に陣取ります
 新しく更新された記事は下にあります)

ホームレス支援機構・京都寄り添いネット

今月の
市役所前炊き出しは

3月21日(金)です。

教会集合は夜8時・・・おにぎりをにぎります。
現地集合は夜10時・・・御池通り側です。

どうぞよろしく。

イラク戦争5年

2008年03月20日 | 平和のこと
3月20日です
イラク戦争がはじまって5年です

戦争は終わっていません
イラク・ボディ・カウント
を今日見ることは大事なことです

アフガンでも戦争は終わっていません

さらに5年前に比べ
世界のあちこちで戦争が起こる可能性が
高くなっているというか
もはや
戦争があたりまえ
となりつつもあります

それは
アメリカが経済的に破綻しているけれども
それを隠しつつ
グローバリゼーションという言葉でもって
地球から財産を集めようとしましたが
ここにきて
あのサブプライム・ローン問題で
もはや
破綻が隠し切れないから
もうどうどうと
戦争をするだろうと思います


日本の改憲問題は
本当は
そこのところの問題で
日本が他の国から攻められたら
という小泉さんがさかんに言っていたことが
改憲の動機であるはずがないのです

破綻したアメリカが
世界で二番目に軍備を整えているところの
日本に
アメリカの代わりに戦争をしてもらいたいわけです


日本も実は
破綻しています
国債のありようがもはやあまりに不健全です
借金がどんどん増えていることだけでも
そのことはわかります

でも戦争特需よ!もう一度!
とはもういかないわけです

破綻したアメリカから金がやってくるということはないのです
逆に
アメリカのかわりに
日本の金と軍隊(つまり生命)が
使われて
破綻している国が
ますます破綻することになるだけなのです


それでも改憲を叫ぶ背景は
今の世界の
経済グローバリズムと存在ナショナリズムという
イデオロギーから
自由になれないばかりに
経済的にも
実は損をするという方向を歩むという
なんとも
あわれな状態なわけです

こういう中で
わたしたちは

まず
今も殺され引きちぎられ
黒い血をアスファルトに流す
ボディ(死体)を
鮮明に脳裏に刻むことです

男のボディ
女のボディ
子どものボディ
赤子のボディ

わたしたちの身体に刻むことです

そうまさに受難週

キリストの死を語り伝えよ!

とりわけ主の晩餐式のたびに
聖書から聞くわたしたちは

キリストのボディを身体に刻み
それは同時に
今殺される人々のボディを刻むことでしかないのです


金がなくなって
それを横取りするために
戦争をするわけだけど
そのためには
兵隊が必要で
兵隊になってもらうためには
まずは貧困層をつくり
兵隊になることでしか食べていかれない人をつくり
さらに
ナショナリズムという教育で
お国のため
という精神も付加し
そして
そういう人たちが
ボディとなる・・・


戦争
格差社会・貧困社会
ナショナリズム
グローバリゼーション

これらはセットです

東ティモールでも
チベットでも
日本におけるいじめや差別でも
こういうのがセットとなっておこる
戦争とよぶべきことは
どんどん増えます


次男の小1の共くんがふと言います
「おれが大人になったら戦争になるの?」
若菜さんが応えます
「そうなったらややから、戦争反対してるんよ」
今度小学校に入学する添くんが言います
「そうや!戦争にはならへんで!戦争反対してるからならへんで!」
さらに添くんは言います
「みんな神さまが戦争しちゃあかんっていう絵本読めばいいのにな!」

たぶんもう3年くらい前だと思います
『地球というすてきな星』
という絵本を読み聞かせたのは・・・

それを覚えていてくれました
ジョン・バーニンガムによる絵本です
ほるぶ出版から出ています


今もソウル・フラワー・ユニオンが
スピーカーから飛び出してきています

5月6日の世界9条会議in大阪にて
彼らが演奏してくれるとの情報がついさっき入ってもきました

本日は
アルバム『極東戦線異状なし!?』を聞いています

昨日ちょっと紹介した
『うたは自由をめざす!』
の続編
『続・うたは自由をめざす!』
が収録されています


♪ちらばって うたは自由をめざす
 まざりあって うたは自由をめざす
 せめぎあって うたは自由をめざす
 ひびきあって うたは自由をめざす
 傷つけあって うたは自由をめざす
 手を取り合って うたは自由をめざす 
 バグダッドで うたは自由をめざす
 ノース・コリアで うたは自由をめざす
 クルディスタンで うたは自由をめざす 
 アフガニスタンで うたは自由をめざす
 パレスチナで うたは自由をめざす
 東ティモールで うたは自由をめざす
 アイヌ・モシリで うたは自由をめざす
 バビロンから うたは自由をめざす ♪

京都では
午後2時から
三条河原で戦争に反対する集会があり
午後3時から
ピースウォークをします

午後1時45分から
すってんころーりんぐ・すとーんずによる演奏もあります

なんとか雨は過ぎ去ってくれたようです
予報よりも半日はやく・・・

ボディを刻みつつ・・・

平和に関する信仰的宣言
今一度宣言しつつ・・・

嘘・防衛・戦争

2008年03月19日 | ホームレス支援のこと
昨日Nさんをお見舞いしまして
ある程度回復していてちょっと安心しました

まだまだ顔色も悪く
痩せすぎています

退院後の福祉のために
区の担当者も
Nさんからいろいろ聞くために
きてくれました

しかし
ここでひとつの問題発生

これはよくあることで
もっと考え抜かねばならないのですが

福祉の人に正直に
自分の歩みを話せば
すんなりといくところであっても

学歴
職歴
いやいや
自分の歩みすべてを
Nさんもまた
ものすごく美化して話してしまいます。
だからもちろん
たくさんのウソが並びます

長いことホームレスという
困窮の深い生活を味わう中で
生き抜こうとするなら
そして
とりわけ周りの人から
暴力を受け差別され続けるなかで
生き抜こうとするなら

自分の人生をウソで塗り固めても
自分という存在をつくらないと
どうにもならないのだろうなあ

今回も思いました

でも
長いことかかわるなかで
そういうウソが崩壊していく
という経験もしているので

やはり鍵は
関係性なのだなあとも思います

ウソというのは
自分を防衛するということと
密接なつながりを持つわけです

こういうあたりから
歴史を読むことも大切だと思います


さて
昨晩は5・3憲法集会の実行委員会がありました
9条と25条に焦点を当てます
一昨年
堤美果さんにこの集会で講演いただいて
わたしたちは
貧困層が社会でつくられていくことは
戦争をするために欠かせないということ
貧困は戦争のひとつの装置であること
を学び
その後
日本でも貧困問題が広がっているので
ここでしっかりと
貧困をゆるさないための25条と
戦争をゆるさないための9条を
W講師で分かち合うわけです

そして京都では
明日午後2時から
イラク戦争に反対するピースウォークがあります
三条河川敷集合です
そこから円山公園まで歩きます
イラク戦争ではっきりしたところの
経済グローバリゼーションと存在ナショナリズムの合体が
今や世界各地で戦争という結果を残し始めています
チベットにおける戦争
(これは戦争です)
を見るときに
経済グローバリゼーションで勝つために
強国は周辺諸国を
どんな手を使ってもつぶす
ということが分かります

アメリカ
ロシア
中国
とその周辺
(アメリカの場合は周辺がもはや地球全体におよぶ)
における戦争は
今後ますます増えるだろうから
しっかりと声をあげねばならないわけです。

そして
5月4日の
幕張メッセでの9条世界会議に向けて
いま広島から東京まで
9条ピースウォークが行われていますが
22日(土)~25日(火)は
京都を歩きます

また京都では
数年の準備を重ね
いよいよ
憲法9条京都の会
も発足します



昨日の夕方
しんどそうにしているわたしを見て
息子たち4人が
みんなで
うつぶせになったわたしの
肩と背中と腰とおしりと足の裏を
丁寧に踏んでくれまして
疲れがふっとびました

息子たち
ほんとにありがとう

きっと
今後ずっと
とくに僕ら夫婦がじいさんばあさんになったときには
経済的にも助けてもらうことになりますから

なにとぞ
よろしくお願いします


ごめんなさい

というわけで

また明日

(いまのバックミュージックは
 ソウル・フラワー・ユニオン
 でございます
 ♪せめぎあって
  傷つけあって
  響きあって
  手を取り合って
  歌は自由を目指す!!♪)

2008年03月18日 | 「生きる」こと
昨日
何年ぶりになるのでしょうか
Kさんが教会を訪ねてくださいました
おみやげで
ホームレス支援で用いることのできる
お茶のパックを
たくさん持ってきてくれました。
心から感謝

Kさんは以前
京都のホームレス支援において
そのアイデアと行動力
いのちに対する熱さとあたたかさ
でいろいろと助けてくれた方です


実は一年前に
お母様が急逝されたとのことでした
Kさんの年齢から言うなら
(わたしより若いので)
若すぎる死でもあり
急であることと若いということが
遺された者にあたえる
あらゆる影響は
身体の中をかきむしるようなものだったのではないか
と想像し
祈るしかありません

Kさんは
死者のにおいについて
話してくれました
においは記憶となって
わたしたちに迫り続けるのだと思います

つまり
人間は
生者としても死者としても
そのようにして他者に
つながりつづけるのだろうと思います

においは

そのものなのだ
と思いました

その後
私は会議のため神戸へ
K教会にお邪魔しました

その教会の牧師家族でもまた
昨年、お嬢様のEさんが天に召されました
でも
昨日
Eさんも共にあると
不思議と思いました


また
わたしのこととしては
先週の土曜日
保育園の卒園式のときに
その知らせを受けたのですが

従妹が急逝しました
わたしよりみっつ下です
ただ祈るしかありません


昨晩
わたしは会議で見られませんでしたが
息子たちは
東京大空襲のドラマを見たそうです

妻の実家が両国であり
また教会のSさんがあの炎を中を経験しており
ヒトゴトではありません

どうやら生々しく
人が死んでいく姿が描かれていたようですが
共くんが
ぼろぼろ泣きながら
しかし見続けていたということでした

さらに
憐くんも
その共を見ながら
涙をながしてはじめたとのことです

今朝
空くんに
今晩も続きがあるよ
と言ったら

泣きそうだから見れない

と言いました


明後日20日は
イラク戦争開戦日

始まった日に
戦争反対のビラをつくって
四条河原町に行って訴えたときの
自分と通行人との間から生まれた
表現できない
さまざまな感情、感覚は
しかし
今でも生々しく覚えています

そこには
戦争の根本要素がありました

今年も
20日は午後2時に
三条大橋下の鴨川河原西側からスタートし
ピースウォークをします

ピースウォークする者と
街を歩く者の間には
深い本質的な事柄が隠れています
それを
実感することはとても大切だと思います

死者

覚え続けられねばなりません
死者が
そのようにかかわってきてくれるから



平和宣言

2008年03月17日 | 教会のこと
先週の
「平和に関する信仰的宣言」全国研修会は
きわめて有意義でした

おそらく
さまざまな紙面で報告されるだろうとおもうので
各々のセッションの感想などは
そちらにおまかせして

わたしは
研修会全体から
次の歩みを考えますが

ただ
事情があって遅刻したため
基調講演を聞くことが出来ませんでした
到着したとき
まさに
講演が終わって
拍手が鳴り響いているときでした

残念

さらに
その後の議論のなかで
同じ講演内容でいいから
もう一度別の場所で講演会をしたい
とか
参加者が
自分の地域でその講師を呼びたい
とか
いった発言があり
配られたレジュメと資料
そして
講演を聞いたいろんな人たちの感想を
総合するなら
そりゃあ
めったにないいい講演だった
ということがわかり
なおさら

残念

なわけです



講演は
志村真さんが
非暴力について語ってくれたものでありまして・・・

実は「平和に関する信仰的宣言」
という
普段「平和宣言」とよばれている信仰告白は

キリストを信じ、キリストに従うなら
もはや殺すことも戦うことも
「できない」
というところで
非戦という態度を取り続ける決断
を告白しているものです

だから
そのあたりと
講演における
非暴力という決断が響きあうのは当然
であるわけです

この
「できない」
というのは

日本語では
そんなに違和感がないのですが
英語をはじめ
ラテン語系の言語では
ものすごく違和感のある言葉でもありまして

人間に殺す能力も戦う能力もあるのに
「できない」
という言葉を
つまり”cannot“
という言葉を用いることは
文法上、それこそできないわけですが

だからこそ
言語学的に見てみるなら
そこに
人間の行為を超越したところの行為
があることが
示されるだろうし

あちらからの
つまり
キリストからの戒めとしての行為
というものが
まさに信仰的に宣言するしかないかたちで
ある
ということが示されるに違いないわけです


確認できたことは

平和宣言は
究極の保守的福音的宣言
であるということです

聖書のみで文法をも突破するわけです

そして
アホなほどに
キリストの十字架を信じ
とりわけ
その赦しのみならず
さばきをも信じることがなければ
到底
平和宣言が何をいっているのか
ちんぷんかんぷんになるという
そういう宣言であるわけです



キリスト教会にも
社会運動や福祉運動に熱心なところが
たくさんありますが
そういうところで
ありがちなこととしては

赦しは語るけど
さばきを語ること
限界性を語ること
があまりなく

本来「キリスト」
と語られねばならないところで
そういう運動共同体内における
共通言語となっているところの言葉を
語ったりすることが多く

そこは
実は原理主義になっていることが多かったりします

でも
平和宣言は
そういうのとは
ぜんぜん違うわけです

平和宣言は
実はそういう反省からも生まれていると思います

日本バプテスト連盟宣教研究所が
長年にわたって
牧師、神学者を数日間箱詰めにして
徹底的に議論するという研修会をしてきましたが

そこで
「福音と律法」
を深くさらに深く
掘り下げていきました

それが平和宣言の中身に大きく影響していることは
否定することができません



そういう平和宣言は
実は海外でどんどん評価されています

そして
そういう海外の仲間たちとの交流と連帯が
はじまることになると思います

具体的には
イタリアとドイツと
原理主義となった教会から飛び出した
アメリカの教会が
平和宣言という新たな教会形成の課題に
飛びついています

今後さらにひろがることでしょう

日本でも
NCCをはじめ
他教派とそれらの教会でも評価されていますが
それが
いわゆる
自他共に認めるような
福音派と呼ばれる教会から歓迎されているあたりに
(クリスチャン新聞も含め)
そりゃあそうだろう
と頷いているところです

これまで
平和宣言の全国研修会では
説教をつくるという
ちょっと専門家しか参加できないところの
ワークショップを繰り返してきましたが

つまり
教会は説教をつくるというところで
教会と世界と神の国を
最も豊かに見つめることになるから
そういうかたちで
平和宣言と聖書を
より深く対話させてきましたが

いよいよ
次回は

この平和宣言を
極めて内容の濃い
ゆえにどうしてもむずかしい平和宣言を

その骨子と内容が
子どもにも届くような

そういう日本語に翻訳するという

そういう作業をみんなで
ワークショップでします


また平和宣言は
2002年の11月に採択されましたが
その文言が作成されているときに
9.11があり
アフガン戦争がおこり
イラク戦争が準備されており
日本でも
戦争ができるための法律が議論されており

そういう状況のなかで
「殺すな」
と宣言したという
いわば
2002年状況における宣言
といっていいものであるから

それが
たとえば2008年状況における平和宣言として
あらたに宣言されるのもいいし

また
せっかくバプテストなので
各個教会で平和宣言を作成するものいいだろう

というような議論にもなりました

わたしはパネル・ディスカッションで
パネラーのひとりとして

第二平和宣言をつくるという提案をしました
それは
現平和宣言よりも
「和解」と「共に」
が強く押し出された宣言をつくるという提案です

現在の宣言は

「主イエスによって解放され生かされた私たちは、
  ・・・できない」

という構造ですが
それを

「主イエスによって和解させられ共に生かされた私たちは
  ・・・できない」

というところで
今一度考えてみたいと思っているわけです

つまり
現宣言が
人間存在の前提としての罪人が
キリストにより
赦され解放され生きるようになる
というところで語られますが
私は同時に
関係存在としての人間の前提は敵対であり
それがキリストにより
和解され共に置かれ生きるようになる
というところまで語りたいと思っているわけです

人同士を敵同士とすること
つまり
他者は前提として敵であるとすること

ちょっと強烈な論理ですが

しかし
人間存在が
罪人から赦された者という範囲
を行き来するように
人間関係は
我と汝は
敵対関係から和解関係という範囲
を行き来するというのは

そうそう間違っていないだろうと思います


平和宣言研修会でまた思ったのは
祈りと礼拝が多いということです
それも
それが付け足しでなく中心であるということです

そうでなければ
こういう宣言も生まれないわけです


たぶん
平和宣言第二章が
はじまるのだと思います

キリストよ
来たりませ