きぼう屋

生きているから生きている

罪人の友

2010年01月31日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「罪人の友」

昨日の朝、
昔やくざだった新藤龍也牧師がテレビで紹介されました。
前科7犯で覚せい剤もしていた彼は、
しかしこの経験を最大限に生かしつつ、
犯罪や薬物からの更生を目指す方々に
主イエスの救いを伝えておられるとのことです。

VTRを見て私は三つのことに感動しました。
ひとつ目は、
新藤牧師が「いつでもどこでもだれでもやり直せる」と語ったことです。
その通り!。

神の救いは身近な言葉でいうと「やり直し」だと思います。

でも歴史を通して
一度失敗した人はやり直しがきかない社会が作られています。

でも教会は「やり直し」からすべてが始まり、
キリスト者は繰り返しやり直せます。

そしてやり直す際、私たちは悔い改めます。
それは同時に罪人であることに気づくことです。

そしてなんと新藤牧師の教会は
「罪人の友 主イエス・キリストの教会」という名でした。
ふたつ目の感動はこれです。

主イエスは成功者、優秀者の友ではなく、罪人の友です。
また実は成功者、優秀者と自他どちらかに認められている者も実は罪人です。
「善人は一人もいない。いるのは罪人のみ」と聖書が語るとおりです。

感動したみっつ目は、
新藤牧師がやり直しを始めた人と寝食を共にしていることです。
その際、成功者が更生する者の世話をするのではなく、
罪人同士の生活が起こされることに主の秘密があります。

つまり、
寝食を長く共にするなら、
人は誰でも気を張り続けられず、
関係性の困難の中で心身も疲労すると思います。
そこでは罪人性があらわにされ、
悔い改めてやり直す繰り返しの中で
さらに共に生きることが
さらに豊かに起こされるわけです。

とりわけ近代以降の教会が見失いがちなのは、

人は罪人でしかないこと、
この世は罪人の交わりしかないこと、
しかしそれが主イエスにより豊かにされる
という事実、

ではないでしょうか。

個々人の環境と能力アップからすべてが始まるという近代の捉え方はもう古いです。

罪人のやり直しから全てが始まるのが真理です。

ぜひ罪人の友、主イエス・キリストに出会い、
罪人の交わりである教会家族として歩んでみませんか。

プロテスタント宣教164年

2010年01月28日 | 「生きる」こと
昨日の朝日新聞夕刊に
思想史家の武田清子さんが
「沖縄に来た宣教師」と題して発言してくださっています

昨年
日本のプロテスタント各教派は
一緒になって
プロテスタント宣教150周年を祝いました

しかし
わが日本バプテスト連盟は
それに異義を唱えました

その理由が武田さんによってわかりやすく述べられています

150という数字は
沖縄宣教を無視した場合の数字であって
それは沖縄を日本から切り捨てた場合の数字であって
それよりはやく
沖縄では宣教が開始され
それから数えると
日本のプロテスタント教会の宣教は
163年となるわけです

そして武田さんはたんたんと
150と163の両方の認識を大切に
と語りますが

しかし163を受容するためには
沖縄切捨てという罪責を認識し告白する必要があります

しかし
プロテスタント宣教150周年のイベント開催において
その罪責は残念ながら認められませんでした
むしろ覆い隠されました

そのイベントを推し進めていた有名な神学者で
本も多く出しているある人は

戦争罪責よりも伝道罪責だ

とまで発言されました

なるほど
その人の本を読むたびに論が浅いと感じていたその根幹がよくわかり逆に助かりました


沖縄の基地のことを考えるときに
わたしはどうしても
偶像礼拝という視点で捉えてしまいます

沖縄に基地があるから平和なのでしょうか
安保があるから平和なのでしょうか
核の傘のもとにあるから平和なのでしょうか

そういう考え方は冷戦時代に有効で今はそうではない
ともいえるかもしれませんが

わたしは
そもそもいつの時代も有効ではない
と知るしかありません

基地も安保も核も
平和のための担保にはなりえません

それで担保されているというのは
偶像信仰です

それらによって
当時のソ連や今の北朝鮮の恐怖から身を守ることができるのでしょうか

そもそも恐怖はソ連や北朝鮮だったのでしょうか

基地も安保も核も

本当は
アメリカが怖くて保っているのだなあ
とわたしは思っています

しかもアメリカに対する恐怖は
意識に上らせることすらできない恐怖であって
つまりアメリカの言うことをきかないと生きることは不可能というくらいの
すでに内面まで支配されていると言って過言でないほどの恐怖であって

それが表に出てしまうと身体機能にまで大きな影響が出てしまうから

基地、安保、核で
アメリカ以外という恐怖から身を守るという嘘でもって
しかし
アメリカから身を守る
ということをしてきているのだと思います

だから
これらが何に有効だったかというと
アメリカから身を守ってきたということだと思います

しかし
残念ながら
こと沖縄ではそうではありません

戦後直後からの
いまだ表にはでていない多くのレイプ
そして基地問題を叫び始めざるをえなくなった少女へのレイプ
度重なる事件と事故
そして常軌を逸した迷惑

沖縄は
アメリカから身を守ることができないどころか
人質として今なお
京都のわたしのかわりに
ずっと顕在化することすらできない恐怖の只中にいるわけです


そのような中で
わたしの信仰においては
163年というものの
中身を無視した(いちおう数字だけはみとめていますが)
150年を祝うことは
十字架にはりつけられているキリストゆえに
キリストを通して知らされる沖縄ゆえに
まったくできないのであります


また
基地、安保、核
という問題は

きわめてアメリカ主導の経済という問題の言い換えであって
その経済システムゆえの犠牲でもあると思います

そしてアメリカ主導の新自由主義経済が破綻し
世界恐慌が起こっているから
基地問題が今一度テーマとなっているわけだと思います

だから

基地問題は
新たな経済システムの提案と共に解決する方法を探りたいと思います
ということは
実は
いのちたちが生きるための新しいシステム提案が必要ということです

となると

実は
沖縄で基地反対運動をしてきた先輩たちが
常々言ってきた本質的なことが
そのまま正しいということでもあります


さて
最後にもう一度150周年を祝うという行為についてですが

ゆえに
150で祝うということは
偶像礼拝だと思います


というわけで
2010年は
プロテスタント宣教164周年です


証言の前に立つ

2010年01月22日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「証言の前に立つ」

ハイチの震災を覚え切に祈ります。
世界バプテスト連盟の救助隊が現地に入っています。
またキリストが震災を受けた全ての人と共におられす。
日本バプテスト連盟は次週より募金を開始します。
各自祈りつつ用意されることを提案します。

本日は1月17日です。
15年前の早朝に阪神間で大地震が起こりました。
私は東京で会社勤めをしており、
テレビの映像と、様々な被害の数字が増えていくことでのみ震災を知りました。

しかしこんな私も震災を少しずつ内臓に響くかたちで受けていきます。
それは被害者やボランティアの証言を直接聞くことによってです。

証言と、証言する方の存在を受けます。
ひとつひとつの生と死、傷と痛み、悲嘆と絶望と希望を受けます。

そして私はそれらを受けるときに、押しつぶされる感触と、
受けきれない弱さを繰り返し知ることとなります。

同じことが戦争を経験された方々の証言、
私の場合はとくに従軍慰安婦とされた方々の証言を受けるときにも起こります。

直接地震も戦争も知らない私は、
証言と証言者を受けることで地震と戦争を受けます。

これはつまり
戦争を知らない世代であり、地震の場にいない私が、
積極的にせねばならない責任ある行為です。

決して楽な行為ではありません。
証言者の全体重を背負う精神が求められ、その十字架を背負う信仰が求められます。

逆に言うならば、
信仰者は十字架を背負うよう神に召され、証言の前に立ちます。

それは同時に、十字架のキリストの前に立つことです。

本日午後4時から神戸教会で震災を覚える礼拝が開催されます。
その日に現地に入った野中宏樹牧師の説教と、被災された鮫島泰子姉の証言を受けます。
同時にキリストの十字架を明確に覚えます。

教会が大切にする証も全く同じ本質を持ってキリストの死を伝えるものであり、
キリスト教会はそれを二千年続けています。

人間にとって最も重要な行為は証であると言って過言ではありません。

証を受け、証をする。
そこに十字架がある。
そこに主の癒しと希望がある。

本日は強くそのことを覚えたいと思います。


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ひとつ前の記事で
京都における私の仲間に
ガンを担っておられる方が複数人おられ
現在の切なる祈りであることを
たとえ直接その方々を知らなくとも
このブログを通して
みなさんにも祈ってもらいたいので
書かせていただいているわけですが

その記事を書いていたまさにそのとき
福岡の大切な仲間が
ガンで召されました

キリストよ
来たりませ

今から会いに行きます

祈りつつ

お久しぶりです

2010年01月21日 | 教会のこと
しばらくぶりの更新でありますが
忙しかったですなあ
ようやく普通のペースにもどれるか
というところでありますが

なんとか間に合いました

というのは
本日は添くんの誕生日
パーティーする時間がとれそうです

このかんも
うれしいことがいっぱい

でも
祈るしかないこともいっぱい

まずは
Kちゃんの腫瘍が良性ということでホッ!
ほんとよかった!!
Uさんの発熱が薬疹ということでホッ!
大きな病気でなくてよかった!!
Iさんが足の痛みによる落ち込みから解放されてホッ!
わたしいつでもおんぶします!!
Eくんのバプテスマ日が決定してホッ!
ずっと一緒に生きましょう!!

しかし
癌とたたかう仲間が3名!!
祈って祈って祈りまくります!!

ひとりは手術ができたけど
ふたりは手術もできなくて・・・


昨年癌で亡くなられたHさんの物語が
とある単行本で紹介されました
こちらはプロのライターさんが関係者にインタビューして書いたわけですが

わたしは連載中の「百万人の福音」の4月号で
信仰という視点からHさんの物語を書きます

たぶん

というか

間違いなく

泣きながら書きます


連載は当初六ヶ月の予定でしたが
十二ヶ月になりました

6回だけだと
物語を選ぶのに相当苦労するところだったけれど
12回だと
普通に苦労するくらいになりまして

その差がしかし
かなり助かるわけです


先週の日曜日は
朝からは宝塚教会の礼拝説教と修養会
夕方からは震災15年を覚える礼拝

宝塚教会の修養会は
教会の皆さんの自由な問いにどんどん応えるという形式でしたが
これがこれが
教会
信仰
キリスト者
牧師
といったことの本質的な問いばかりで

まずは本質を突く問いを発せられるという時点で教会が成熟していることを発見し
さらにその問いへの応答はまったくごまかしが利かないということも発見し

でもなんとか
応答がみなさんの内臓に響くものとなったようで
これまたホッとしました


教会と牧師との関係は

教会が牧師に職務を委託するというものだ

長いこと言われてきて
それを信じきっているケースが多いのですが

しかし同時に
職務という点では
万人祭司だから
牧師だけでなくみんなでするのだ

ということにもなり
えらい矛盾をかかえることになり

下手すると牧師は必要悪なんていう意見も出たりして

わけがわからなくなるのですが

そういう問いが発せられたので
わたしはわたしの思うところを述べたわけです

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牧師の仕事は
献身すること

教会の仕事は
牧師が献身しても食っていけるようにすること

職務は教会のみんなでする

でも
献身した存在者がいる中で職務を遂行するのと
そうでない中でそうするのとでは

同じことをしていても中身が全く変わってしまう

牧師という献身した存在は
すべての責任を十字架で背負う

責任を背負う存在というのが牧師の仕事


というわけで

牧師ということでは
按手による職務の委託がテーマではなく
献身がテーマなのだ

教会メンバーということでは
どの職務を委託するかがテーマではなく
ずべての職務をこなすことがテーマなのだ

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私が感じているところでは

献身している存在が
牧師だけでなく
信徒にもいる教会は

間違いなく成熟する

ということです


ウチの教会にもいてくれるから感謝です

たとえばそのおひとりに、
教会学校や少年少女会、青年会で影響を受けた人が
全国で大活躍してたりします!!
牧師や牧師の連れ合いの方もたくさん!

今日(昨日)の昼に関西の女性連合役員会が当教会であったけれども
その中の3割がそういう方々!

ウチの教会は
私が赴任したからではなく
その方が引退後の生活を京都ですることにしてくれたから
今の教会の姿があるわけです

これはホント

実に私以上に献身者で
わたしのダメなところを十字架で背負ってくれてもいます

具体的に
あのときのあれとか
あのときのそれとか

って

言えますもん


さてさて話しを戻しまして

震災を覚える礼拝には
キリスト者だけでなく
当時神戸教会で避難生活をしていた方も来られました

さらになぜか
そのご家族に夕食をごちそうになってしまいました

しかしここにキリストの秘密があると思いました

飯なんです

避難所で共に食卓を囲み
15年後に再び食卓を囲む


当時中学生だった方が
二人のお嬢さんのお父さんとなっていました

すごいねえ


しかし
ご本人たちは時に笑顔で語られる当時の様子が
わたしにはとてもリアルすぎて
わたしの背筋が緊張しているのを感じました

でもこうやって
証言を受けることによって
出来事を知るのだなあと改めて思いました

震災によるあらゆる出来事を覚えてこれまで以上に祈ります




震災を覚える礼拝の講師としてきてくださった野中先生と
なぜかふたりで

孫が早くほしい

と語り合っておりまして


これも震災という出来事の中心にあるホームという問題と
意識せずとも出会っているからこその
語り合いだったのだろうなあと今は思うわけであります




今夜(昨夜)の祈祷会は
たったの4人という数でいうと赴任以来もっとも少ない人数で守りましたが
すっごくよかったあ

十字架のキリストのみ

ということをじっくりと分かち合えるメンバーで
みんなでわいわい証をしているうちに
あっという間に時間が経ってしまいました


明日(本日)は
意識して脳みそを休ませつつ仕事をします

ではそろそろ寝ます

おやすみなさい

お年玉

2010年01月03日 | 「生きる」こと
心からありがとう!!

クリスマスに
うちの子たちに
プレゼントを届けてくれた
ホームレス生活を強いられている仲間たち

正月に
うちの子たちに
お年玉を届けてくれた
ホームレス生活を強いられている仲間たち

自分のために使ってくださいよ
と言ってみるものの

これがわしのためや

といってくれた仲間たち

ウチの子を

わしの子や

といってくれた仲間たち


子たちに気持ちが十分届いています

ウチの子は
ホームレス差別を全くできないどころか
その感覚が起こりえないし
逆に差別する人たちを
彼らが差別性を隠していても
見事に暴いて怒りを覚えているし

これ以上の教育を見つけるのは極めて難しいほどの
大切な事柄を子たちは受け取っています

また申し訳なくも
教会家族のオトンとオカンからもクリスマスプレゼントやお年玉を頂きましたし

東京のおじいちゃんとおばあちゃんとひいおばあちゃん
鹿児島のおじいちゃんとおばあちゃんとひいおじいちゃん
からも頂きました

感謝するばかりです


こんなにたくさんの
オトンとオカン
じーじとばーば
ひいじーじとひいばーばに愛されれば
間違った大人になることはむずかしいと思います

もしかしたら
ホームレスを差別する社会に
貧困を産み出す社会に
反抗してグレるかもしれませんが

その度合いが大きくなる可能性も
彼らのオトンとオカンへの深いかかわりからするとおおいにありますが

しかしそれは問題にすらなりません

大事な事柄を獲得しているからよいのです


ホントにありがとう!!!


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本日
新鮮な牡蠣をボランティアのNさんから頂戴しまして
早速いただきましたが
美味しかった!!

心から感謝!!

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クリスマスと新年のごあいさつは
来週より発送できそうです
いつも遅くてすみません


正月だというのに

2010年01月02日 | 「生きる」こと
心から感動して
心から尊敬します

正月だというのに

キリストのため仲間のために
礼拝準備にきてくださる仲間たち
さらに昼食を準備してくださる仲間たち


正月だというのに

ホームレス支援パトロールに参加してくださる仲間たち
休みのあいだにしかできない
と言って
生活困窮者を訪問される仲間たち


心が洗われます

私の中のつまらんものが流されます

何をすべきか
何に集中すべきか
が鮮明になります


静かな情熱をもってたんたんと事柄(Geschichte)にかかわり続けることのみ!!


十字架がある
愛がある
平和がある

復活がある

2010

2010年01月01日 | 「生きる」こと
2010年おめでとうございます
本年もよろしくお願いいたします

旧年もとてもたくさんのみなさまにお世話になりました

しかも一方的にお世話になることが多くて
大変申し訳なくも
甘えてしまっておりまして
やっぱり申し訳ありません

象徴的なことに
昨年末の30日には
2時間もかけてマッサージをしてくださった仲間がおられ
31日には
心のすっごくこもっているカレーをおすそ分けしてくださった仲間がおられ

新年を幸せに迎えられないわけがないのでした

感謝感謝

しかし同時に

新年を不安と迷いのなかで迎えた仲間たちがおります

家族同然の人と別れねばならない仲間
今月半ばで住む家がなくなってしまう仲間
職がみつからず精神的に追い詰められている仲間
寒波が来ているけれども路上で寝るしかない仲間

などなど

一緒に次の道を探ってまいりましょう

激しく祈っております


30日夜は年末感謝祈祷会を持ちました
この日はいつも一年を振り返って証を分かち合います

そこでは不思議と
教会で新たな出会いと交わりが起こされ
それが祝された
という証が続きました

うれしかったです


また主の晩餐式もするのですが
青年たちが種無しパンを焼いてくれました

これまたうれしかったです



本日は11時より元旦礼拝
若菜さんは年が変わるぎりぎりまで花を活けてくれてました
これまた感謝

なのにわたしはメッセージをまだまとめきれておりません

でもきっとこのままマイクの前にたって
そのときになんとかなるようになんとかなるのだろうと
安心もしておりますし
そこでどのようになんとかなっていくのか
というのが楽しみでもあります

ここらへんは講演と礼拝説教の違いかもしれません


関西地方教会連合は
1月より新年度になりました

会長二年目となるわけですが
一年のかかわりのなかで
ようやく現在のテーマの本質を身体的に覚えることができてきたかなあ
というところであります
しかし身体化したら
その後は具体的にいろいろと起こるということは
これまでに幾度も経験しているので
こういう場合の備えをしつつ
心して担いたいと思っております
こちらもお支えのほどをよろしくお願いいたします


ではおやすみなさい