きぼう屋

生きているから生きている

五月病に関する危険な仮説

2008年04月30日 | 「生きる」こと
五月病の原因をちょっと考えてみました

もちろんこれまた
危険な仮説でありますが・・・

一般的には
新しい環境での生活において
その環境の変化に精神が付いていけない
というようなものですが

わたしは
そういう環境の変化と
しかしそれ以上に
身体のしんどさ
に原因があるのでは・・・
と思っております

4月からの新しい環境で
心身ともに興奮し緊張しているため
身体がしんどくなっていることに
なかなか気が付かない
という時であるにもかかわらず

花粉が飛び
身体のいたるところが軽く炎症を起こし
しかし軽いというのがみそで
それを気にしすぎることはなく
いやそういう時期だから
あえて気にしないように脳みそは命令するだろうし
だから
しんどいのに
しんどくない
と信じ込まされるというからだの状況が発生し

それに加えて
(といいますか、花粉症のない方はここからですが)
4月になれば
暖かくなったからストーブがしまわれますが
(これは関東以西のはなしですが・・・)
しかし
実は朝晩は気温10度を切ることもあり
ストーブがあれば15度くらいの部屋も
10度以下となっていて・・・
しかし暖かくなった!
と脳みそが思い込んでいるから
せいぜいトレーナー程度を着るくらいで過ごしてしまい
そもそもそれ以上の防寒着は
4月からの環境に備えてしまいこんでしまったりして・・・
よって
身体は寒さによりますますしんどくなり

さらに5月になると
昼間は本日のように夏日になり
半そででもよくなるもんだから
やっぱり脳みそがそのように思い込んでしまい・・・
そのいきおいで朝晩を過ごすと
確かに15度くらいまであがってはきているけど
しかし
トレーナーも着ることなく
薄い部屋着のみだったりして
身体はますますますますしんどくなり

このあたりで
軽い咳がでたり鼻をすすったりするけれども
しかし
興奮と緊張で
やっぱりそれを気にすることなく

そのまま身体はどんどんしんどくなり・・・


で確かに新環境で神経も参るのだけれども

それよりも先に
身体が先に参ってしまうことで
存在自体の力が減少してしまい
だから
神経も参り
精神もぼろぼろになる
というような

そういうものではないかなあ
と思いました

だから
まずは身体をぬくめて
神経もぬくめて
(新環境にあるときほど
 確かに新環境において必要なことに
 時間をつかわねばならないけれども
 でもそうだからこそ
 逆に
 これまでに
 神経をゆるっとさせてくれた
 本を読んだり映画を見たり友人とごはん食べたり
 家族にあまえたり)
ということがとても大事だなあ
と思ったりします

例えば
下宿する学生たちが
ゴールデンウィークに
実家に帰るというのは
実は
身体が
それこそ
あらゆる器官が
内臓が皮膚が筋肉が血液が
求めていることなのかなあ
と思います

ぬくぬくいきましょう

ではでは



今日(昨日)はフリーでございました

2008年04月30日 | 「生きる」こと
今日は休みました

ゴールデンウィークといえども
自由に時間を取ることができるのは本日のみ

というわけで

朝から家族で車に乗って出発
行き先は
海のあるところ

ということで

結局
四国へ

鳴門の海を味わいました

本当は高松まで行って
さぬきうどんを食べようと思ったのですが
故障車による渋滞で四国上陸が11時半だったので
高松までは行かずに
鳴門でうどんやを探すことにしました


あるに決まっているわけですが
しっかりとありました
うまい店

ねぎとかつおとどさっと盛って
しょうゆをじゃばばとかけて
しゅるるとのみこんで

はい!ご機嫌!
ということになりました

その後街中の芝生広がる公園で
息子たちとひと暴れして

次に浜にいきました
鳴門大橋は見える浜ですが
とてもきれいです

憐くんは
「ざぶんはいや」
としばらく海に近づきませんでしたが
おそるおそる足をつけたら
ズボンがぬれてぬいで
パンツがぬれてぬいで
Tシャツがぬれてぬいで
気づけばはだかんぼになって海とたわむれていました

上三人は
いわずもがなです

わたしも
だいぶはしゃぎました

海水が気持ちいいのはもちろん
砂浜もとても気持ちよくて
足の裏からふくらはぎにももまでが
その感触に感動しておりまして
浜をしばらくジョギングまでしてしまいました
といってもまあ1.5キロほどですが
息が切れる前にやめましたが

身体が喜んでいるのがわかります

その後駐車場を借りたお土産やさんで

かたちはわるいけど中身はおいしい文旦を
たっくさん買いました
新たまねぎもとっても安かったのでたくさん買いました
すだちがこのあたりの名産ということで
すだちの焼酎も買いまして
さらにそのつまみにと
いろんな魚の干物も買いました
息子たちが
これがいい
とさつまいもを持ってきまして
それまたうまそうなので買いました

といったところで

鳴門のうず潮が見られる時間になったので
うず潮の道に行きました

鳴門大橋の下を通るうず潮をみるための道で
道のところどころが透明な素材で
下の海が見えるという道でして

そこから見る鳴門海峡は
なるほど
いいかんじてうずっておりました

そんなに大きなのができる季節ではないけど
小さいのがたくさん
できては消えて
というのもなかなかのものでした

このあたりで憐くんは疲れてきたので
かなりだっこしていたのですが
浜辺で走ったおかげで
筋肉がいい調子でありまして
いつもよりもかなり軽くて
いつまででもだっこできる状態になっておりました

いかに日ごろ筋肉が眠っているか
がわかりましたので
ちゃんと動かすようにしたいと思いました


夕食も鳴門でお魚をいただき

10時半に帰宅ということでありました

高速代(明石大橋代)が結構かかってしまいますが
たまには気にせず楽しむのもいいでしょう

次は淡路島もいいなあ
和歌山方面もいいし
福井方面もいいなあ

ってな一日でありました

おしまい。。。

目的から希望へ

2008年04月28日 | 「生きる」こと
目 的 は


神 


あ り 得 な い


し か し


悪 


あ り 得 る し





あ り 得 る






希 望 は


神 


あ り 得 る


少 な く と も





で は な く





で は 絶 対 に な い



*****************


目的なき活動は意味なし
みたいなことが言われる世界になりました


確かに個人の行動でも
共同体の運動でも
目的は必要ですが

それは人間のつまらなさゆえの
その限界さゆえの必要であって

目的が賛美されるということではない!!!!!
というところは
こういう世界だからこそ
押さえねばならないなあと思います

それよりも
他者たちと共に生きる中で

まさに他者たちが共に在る
という生き生きとした
もうひとつの世界を

目指すというよりは
もはや頂きつつ

人間的視点では
そういう世界がない
というしかないけれども

しかし
超越的に頂きつつ

瞬間瞬間で生々しく
他者たちが共に在る
経験をするなかで

もはやそれ以外の姿を描くこともなく

歩むことができる

と希望を得ることが大事で

それこそが
信仰ってものであるし

信仰なんて言葉を使うと
普遍化されない可能性があるなら

それこそ倫理ってもんであるわけで



まずは
せめて
教会はそういう希望を生きていきたい
と願いつつ


本当は

すべての運動体・共同体がそうなるはず
ということをも信じつつ


本日も仕事を開始したいわけなのでした

おしまい



教会学校

2008年04月27日 | 教会のこと
本日の週報巻頭言です。


*************

「教会学校の教育」


バプテストは教会学校を大切にします。
それはあらゆる教派にある子どもの日曜学校のみならず、
全年齢層が学ぶ学校です。
そこでバプテストキリスト者は、
主体的な信仰と本当の意味での交わりを
身に染み込まそうとしています。

だからそれは同時に、
信仰の世代間継承、対話
としてあらわれているし
(他教派で教会員が激減する中で、
バプテストが微増なのは
教会学校のおかげと思います。
ただ当教会では、
主体性と交わり、継承というチャレンジは、
最初期の段階です)、
さらには、他教派が激減する中で、
教会が保守的になるところが多く、
メンバー増加のみに集中しはじめた中で、
バプテストは、
メンバーの人格訓練を、
隣人と出会うプログラムにて開始しています。

これは、
教会教育が、
知識や技能の習得、伝統や教義の洗脳
を目指すのではなく、
世界のすべてと共に生きることと死ぬことを、
信仰と希望と愛、
さらにはキリストの十字架と復活
から深めることを目指すからこそ!
のことです。

だから
教育というより教養
というべきかもしれません。
「教養」は英語で「カルチャー」です。
「文化」と訳されることが多いのですが、
語源は土地を「耕す」というものです。

つまり教養とは、
いのちと世界が常に活きるように、
耕し続ける行為です。

大概いのちや世界は、
伝統、慣習や
安心できるかたちや思考で
ガチガチになり、
逆に活気がなくなります。
だからそれを耕しやわらかくするのが
教養なわけです。

伝統と文化を並列で用いることが多いのですが、
伝統をバリバリ打ち破り、
その昔からの行為にいのちを吹き込むのが文化でありましょう。
だから
文化を守る
という言い回しは本来あり得ません。

そして
活き活きとしたいのちと世界であり続けるために耕すときには、
必ず新鮮な水や空気、栄養分が必要になるでしょう。

そして私たち信仰者は、
その常に新鮮なもろもろこそ!
は、
キリストであり、
聖霊であり、
神である!
と信じるわけです。

さて
本日も信仰と交わりを、
新鮮なキリストを頂く中で
共に耕しましょう。

それが教会学校の教育ではないでしょうか。


体質改善

2008年04月26日 | 教会のこと
京都教会に来て10年目

当教会が持つ不思議な体質はなんだろう

ずっとテーマにしてきましたが

この間

ほかの教会で生まれ育った人たちで
京都方面に引越してきて
当教会のメンバーになった人と
もともと当教会のメンバーである人が
ちょうど半々になったら

よく見えてきました

端的に
教会の仲間と
一緒にいる時間を持つことがない

というのが
京都教会の体質のようです

また
端的に一緒にいるなかで
互いの発言から
不思議と何かが生まれるというところに期待し
そこから教会の交わりが形成される
というのではなく

個々人が持っている考えなどを
ただ話しておしまいで
だから
声の大きい人や
社会的に地位のある人の意見で物事が決まるので

礼拝にしても
建築にしても
隅々まで行き届かないものになっているんだなあ

と思いました

それが礼拝など
ソフト面ではいい感じになってきましたが
ハード面はどうしたらいいかなあと
行き詰まりぎみのテーマとぶつかっています

というわけで

わたしの赴任以降に新しく当教会のメンバーになっているみなさま

遠慮なくどんどん
批判をしてほしいと思います

この10年のわたしの取り組みに対しても
批判をしてくれないと
さみしすぎます

どうどうと批判してくれて結構です

間違いなくいろいろと気がついているはずです

わたしは
気が付きつつも
立場上わたしが言うときつくなりすぎるから
言えないことも多々多々ありますから

ぜひ
そうそう
若いみなさん
思ったことをどんどん言って欲しいと願います

あと
総会決定事項が
不思議と大切にされない
という中で
しかし総会を整えてきて
なんとか形になってきましたが
しかし
やっぱり不思議と総会決定事項が大切にされないことが
けっこう見受けられるのは

たくさんの声が行きかいそこから生まれることより
声の大きい人の声でいろいろ動いてきた
という体質がいうても変わりきれていない
ということなのだろうと思います
(体質改善はなかなかできないわけです
 それでいいわけです)

大切なのは

なにしろ共にいる時間をつくり
教会共同体の人格形成
信仰者人格形成
のために
言葉を交わしあい

なにがしたいのか
なにができるのか
どこでするのか
だれとするのか
などなど

身体でそれらが分かち合われる中で
教会のいろいろをさらに整えていきたいと思います

そうなっていないものに関しては
牧師として
そうなっていない
とだけは
これからはしっかり言うことにします

若い人たち
じゃんじゃん
思いをぶつけてくださいませ


もう一度
わたしの思うところの
体質改善について

端的に一緒にいる時間をとらない

端的に一緒にいる時間をもつ

自分の考えの発表会で終わる

互いの言葉が交わされる中で新しいものが生まれる

まず自分、そして余裕があれば隣人、教会共同体

ただただキリストによってつながった「キリストの身体」と
その象徴として「私」のみ


10年目だから
こういうところをしないと
仕事をしたことにならないから
やりまっせ



危険な仮説

2008年04月25日 | 「生きる」こと
以前に

食べたいと思ったものを
身体が求めている

なんてことを
こちらで書きました

あの胃酸でさえ
青汁でさえ
身体が求めていると
苦もなく
どころか
おいしくも感じる
というのはとても面白いところです

さて
わたしと若菜さんですが
身体が動くために必要とするものが
まったく異なります

若菜さんは穀物(炭水化物)を食べないと
身体が動きませんし
頭も動きません

でも
肉や魚(たんぱく質)を食べ過ぎると
それが検査で出てしまいます

わたしは
人間ドッグのあとのカウンセリングなどでは
まあいつも決まったことをいわれまして
そこでは
一日の肉や魚の量が80グラムくらいなわけですが

しかし
それでは身体が動きません
一日300グラムは食べておかないと
胃腸の調子にまでかかわってきます

足りない時は
大豆タンパクの粉を飲みます

それが味気ないのに
おいしかったりします

でも検査でたとえば尿タンパクなどは
出てきません


じつは
人によって
その人が動くために必要な成分ってのは
えらく違うと思いますが

そのあたり
どうなんでしょう

とりわけ
アレルギーの人は
(つまりぼくみたいな人は)
(卵やそばや大豆や・・・などのアレルギーも)
それが平均からみたら極端に違う
ということでもあるような気がするのですが・・・


とまあ
ちょっと危険な
素人による
仮説であります

ではでは

神を捜し求める途上にて

2008年04月24日 | 教会のこと
求めるほどに
隠れてしまう神
を信じているのが
わたしたち教会なわけですが

なにゆえに神は隠れてしまうのでしょう

たぶん
神を求め
捜して捜して捜すなら

わたしたちは
神を捜し求める途上における
神の出来事と出会うからではないか
と思っています

その出会いは
神を捜し求めなければ出会うことのない出会い
だと思います

神を捜し求めているからこそ
わたしたちは
その途上において
十字架という重荷を背負う他者に
出会うのでありましょう

神を捜し求めていないなら
十字架という重荷を背負う他者が
見えず
世界のすべてが自分に見えるというところで
認識が完了してしまうことでしょう

個人

自由

平和



信仰

キリスト教

教会

バプテスト


ありとあらゆるものが

その中心を十字架ゆえの他者
として在るか
それとも
自分の意識や感情や知識など
つまり自分
として在るか



求めるほどに隠れてしまう神を
全身全霊で
捜し求めているという途上にあるか否か

捜すのをやめて
自分のもろもろで満足するという事柄を
神と呼んでいるかいないか

といったところで

決まるのかもしれません

一緒に
意地でも

神を捜し求め続け
神を捜し求める途上を
歩みたいと願います

たくさんの他者との出会いを頂きつつ


壱、弐、参ときて「よん」は四でいいのかな?

2008年04月23日 | 「生きる」こと
最近なんとなく思いついて
でも全然深めていないテーマ

********************
その壱

かつてエコノミックアニマルといわれて
馬鹿にされていた日本の会社員の姿

しかしいま

この姿が全世界的なものとなったのはなぜ?

かつて5時になったら家に帰って家族と交わる
という
アメリカのビジネスマンの姿は
いまやなし

むしろ日本以上に
企業に仕えることが求められ
それこそ使命とまでいうのはなぜ?

つまり
個人主義はお金の前では
あっという間に壊れるという
命をかけるものではなかったということ?

じゃあ命をかけるべきは?


*****************
その弐

バプテストは
個人主義であるという論は多い

けど
本当?????

わたしが学ぶ限りでは
ヨーロッパやアメリカの経済史と政治史から推測するに

個人
ということを強調するしかない
そういう状況における
困窮というものが大事で

それは当時は
個人
と表現したけど

その
個人

今なら
どう表現されるのか

という問いに至るなら
もはや
個人主義はでてこない
と思うけど・・・

むしろ
長いものに巻かれない
情熱と勇気

を掘り出したいものだけど・・・


なにより
それは自由な交わりであり
交わりの自由
であったと思うのだけど・・・

そうだ

バプテストは
交わり力を求めてきたのだ!

なんて思うけど・・・



バプテストの特徴として
個人主義を強調する人たちが
交わりを苦手とする現象は
なかなか面白いと思うけど・・・


******************
その参

実は昨今
これまで軽くしか読んでなかった
心理学関係を
かっちり読んでいます

フロイトなどを学んだ
フロイト大好き人間の書いた本だと
とても内面的なことが多いけど

フロイトは
外側を描いているなあ
と思ったので

バルトにしろマルクスにしろ
その主義者は内面化するのと同じで
心理学ならさらに内面化するようで・・・

バプテスト主義者も
内面化する傾向があるけど・・・
すると
閉じこもる傾向もあるけど・・・

しかし
フロイトはどうも違うぞ!
と思い始めているところです・・・


******************
その四

内面化された心理現象で分析することの好きな人は

そういうもので自分が分析されるのが嫌なので
そういう類型に収まらないように
他者のまえで振舞う
ということを見つけつつあります

自分を分析するということは
なかなかできないわけです

そりゃあそうですわ

だから

キリストさんにまかせればいいのに・・・




なんてことを
ぼんやり思いつつ
考えつつ

でも
なかなか深まらないなあ

思っているところです


さて

祈祷会に行ってきます

応答

2008年04月22日 | 教会のこと
もう一ヶ月ほど前になるでしょうか
とても熱いお手紙をいただきました

差出人は
教団M教会のFさんという
おじいさん

内容は
もう戦争はだめ!
9条を変えてはだめ!
ということが
ご自身の戦争体験
兵士としての体験から
とにかく熱く書かれたものでした

そして今晩
ご本人からお電話をいただきました

わたしがお返事のお便りをさせていただいたことへの
感謝のお電話でした

こちらこそ感謝に耐えません

ただびっくりし
腹立たしくもなったことなのですが

Fさんは
上京と左京の教会ほぼすべてに
自らの体験から知る危機感ゆえに
同じお手紙を送ったけれども

返事が来たのは
わたしからだけだったとのことでした

わたしもなかなか時間がとれず
お返事を書くのに半月ほど要してしまいましたが
しかし
あれだけ熱く真剣な手紙には
応答すべき

というのが
キリスト者における
関係というものだと思うのですが・・・


牧師のみなさん

これじゃあ
キリスト教は・・・

って言われても・・・


他者(神・キリスト・人間)
への応答
(むろんこれが恵みへの応答)
という基本さえあれば

キリスト教会が
こんなにしぼむことはなかったと
本気で思っております



Fさんとは
今度お会いしようと思います

楽しみです

キリスト者が神の思し召しのままのキリスト者となり
教会が同じく教会となり

牧師もしっかりと牧師になり・・・





東西

2008年04月22日 | 「生きる」こと
昨晩
とてもひさしぶりに浅草に行きました
(それこそ15年ぶりくらいです
 東京を離れて13年になりますし・・・)
連盟事務所での会議をふたつ終えたのち
Yさんに誘ってもらいました

YさんとOさんとわたしで
仲見世を歩き
浅草寺をながめ
浅草界隈を歩き

染太郎というお好み焼きやさんに
連れて行ってもらいました

美味い

関西出身のOさんが
ソースが違う!
と言いましたが

わたしは
ソースはこれ!
といったところでした

またそればかりでなく
街の空気や音や灯りや言葉が
身体にフィットします

京都で10年目
東にはない西のいいところに
感激しっぱなしですが

しかし
ほんの数時間浅草にいるだけで

わたしはどうがんばっても
東の人間なんだ


身体に知らされるという
驚きのときを味わっていました

と言っても
いまわたしの使う言葉は
もはや西のリズムとイントネーションで
東京弁をしゃべれるかといわれたら
もうすぐには出てきません

でも
身体は東京弁がフィットします

つまり
わたしはすでに自分というものが
分裂した状態にあるという

しかしそれこそきわめて当然で
だからこそ
いろいろ感じ、考えることができるという

そういう存在になっているのだ

と確認しました


逆に言うと

それぞれの生まれ育った土地の言葉と
標準語とよばれる言葉のふたつを話す人が多いわけですが

わたしもこの年でようやくそうなれたのだなあ
そういう分裂しているはざ間を
味わうことができるようになったんだなあ
と思いました

ちなみに
これは
日本語と外国語を話す
ということとは
わけが違うということもあると思います

それは
日本語と外国語を話すという場合
それぞれの言葉を話すときに
それぞれの身体として話すわけですが

同じ日本語で
地域によっての言葉を話すという場合
そのふたつの言葉でもって
身体が引き裂かれるわけです

とりわけ
標準語にほかの言葉が吸収される
みたいな力が働きますが
(京都では、京都弁なり関西弁に
 東京弁が吸収される
 みたいな力を知ることができます)

外国語どうしなら
そういう力がはたらく場所を持ちません


というわけで

東に身体がフィットしつつ
西の言葉に引っ張り込まれている
という分裂状況の中で

だからこそ

見えるし聞こえる事柄を
これからも発見できればと
願ったわけでありました

それにしても
お好み焼きはうまかったです

そういえば
仲見世で
とある教会のとある夫婦
(バプテストでは有名な)
にお会いしまして
お互いにびっくりしてしまいました

世間は狭いものです

いやあ
楽しかったあ。

兄弟を通して

2008年04月21日 | 教会のこと
******************************
ひとりで生きることのできない者は交わりに生きることもできない
交わりに生きることのできない者はひとりで生きることもできない
******************************

というボンヘッファーの言葉を

別に本を確認したわけではなく
記憶において思い出しつつ
紹介したわけですが

この言葉には続きがあって
それがまた

というか
それこそが

すんごい言葉なので
重ねて紹介したいと思います


これまた記憶であって
本を確認していませんが

こんなんだったかなあと思います

****************
自分を通して出会うキリストは弱く
兄弟を通して出会うキリストは強い
****************

これが教会の根拠だと思います



みんな→ひとり→みんな

2008年04月20日 | 「生きる」こと
ふと
ひとり
という状況が
どれだけ
心身に負担がないか

ということを感じています

我が家はご存知の通りで
6人家族でして
牧師というお仕事ですから
みんなで一緒にいる時間を
会社員と比べると
より多く持つことができます

そして
夜が来て
じきに子どもたちが寝て
妻も寝ると

わたしはひとりで読書なりなんなりをするわけですが

みんなが起きているときは

今日も疲れたなあ

だいぶ重たくなっている身体で
生きているのですが

とりわけ昨晩は
立っているのもやっという疲れ具合だったのですが

ひとり
になると

一気に軽くなり

筋肉が柔らかくなり
頭も柔軟になりました

すると
急に
一日の出来事の反省点が
どんどん脳みそに映写されます

やわらかく考えることができて

あのときは
こんな言葉をかければよかった
とか
こんな手順ですればよかった
とか
これをすればよかった
これを見逃していた
これは子どもや妻からのサイン(無意識の)だったはず
とか

いろいろ出てきます

すると
もう寝てしまった妻や子どもたちに
すごく会いたくなります

その日会った人たちに
また会いたくなります

みんなといると
おそらく無意識のうちに
相当心身に負担をかけているのだと思いますが

いうなれば
また負担をかけたくなります

なんか

たとえばテニスなどで
(どんなスポーツでもいいですが)
試合が終わって
筋肉をリラックスさせているときなどに
その試合の反省点が急に脳みそに映し出されて
またすぐに試合をしたくなるというような

そんな感じなのかもしれません



本番は共にいるときで
本番に備えているのがひとりのとき
と言えるのかも・・・
と思いました

だから
ひとりというのは負担が軽いのだろうけど
でも
負担が重くても
みんなといたい

という

まあそんなこと考えたわけです




試合を重ねるごとに
成熟するように

みんなと一緒にいるほどに
成熟するのだと思いました

成熟は
共に生きる現場の
場数による
と思います

ひとりの時間が多いというのは
やっぱよくないのだなあ・・・

そうそう
みんなと一緒というのは
そこで
いちいち言葉を交わしている
いちいちリアクションせねばならない
という条件におけるみんなであって

なんらかのルールや原理において
一緒にいるという
職場などによくある
みんな
ではないのだろうと思います

ルールや原理によるみんなというのは
ひとりと同じなんだなあと思います



ストレスは実は
ひとり
の増加が主な原因ではないか
なんて考えてしまいます
みんなと一緒にいるようでそれもまたひとり
というのが多くなっているわけでは・・・





いまひとりで
とても軽く

そしてこれから家族と会い
礼拝でみんなと会う

ということで
まさに試合のごとく

体中の
まあこの場合
手足というより
脳や神経を動かす筋肉を
たくさん使い
ゆえに負荷を
心身にかけることになるわけだけど

それが
やっぱりとても楽しみなわけです

なんていうことから

ひとりとみんな

ということを考えていました

ボンヘッファーいわく

ひとりでいることのできる者は交わりにいることができるし
交わりにいることができる者はひとりでいることができる

ということで・・・
もちろんボンヘッファーは
その根拠が仲介者キリストとの出会い
と語り
きわめてキリスト論で
信仰的なのですが

わたしのこの書き連ねは
きわめて人間論で
身体感触的なのですが

つながらない話ではないだろうと思います

そういえば
確か彼はこれを否定文で書いていたような気もするなあ

ひとりでいることのできない者は交わりにいることもできない
交わりにいることのできない者はひとりでいることもできない

こっちのほうが真実味があるような気がするなあ
なんでだろう

というところで

本日も一緒に礼拝をささげましょう

ではまた後ほどお会いできたらと願います

祈りつつ

アンケートを実施するわけで

2008年04月19日 | 教会のこと
明日の週報巻頭言です。

***************


「アンケートよ!礼拝に羽ばたけ!?」

先週の全体懇談会にてみんなで決めましたとおり、
本日より
「愛唱讃美歌と聖句」のアンケートが始まりました。
受付にある用紙を手に取り、
記入して、
回収ボックスへお入れいただければ幸いです。

時期などはうる覚えですが、
8年ほど前にも同じアンケートを実施しました。
その動機は、
MI姉の召天だったと思います。
そして今回はYI兄の召天を受け、
互いの愛唱讃美歌、聖句を
教会として共有する必要があるという
共通認識が生まれました。

実は前回はあまり回収率がよくありませんでした。
でもあの時よりも
みんな八つほど年を重ねているから、
今度は召天という出来事も前回ほど他人事ではなく、
アンケートもたくさん集まるかなと勘ぐっております。

とまあ
啓発はこれくらいにしまして、
互いの愛唱讃美歌や聖句が共有されることは
恵み!
と思います。

これは決して告別式等のためだけでなく、
例えば主日礼拝での讃美や招詞を、
このアンケート回答から選ぶことも出来ますし、
その際、週報に
「○○兄姉の愛唱讃美歌」と載せるなら、
その讃美が
もう一つ豊かな意味を持つのではないか
とも想像します。

また例えば、
病で長く礼拝に出席できない方を覚えて、
その方の愛唱讃美歌を讃美することもできます。
ステキだと思いませんか?
しかも、
身体全てがその人に共鳴する喜びまで、
讃美において神から与えられるのではないか
と期待してしまいます。

さらに、
突然に論が大きくなるのですが、

実は私の理想の礼拝は、
(といいますか、夢のまた夢の礼拝は、)
礼拝のその場で
みんなでわいわいと
歌いたい讃美歌や読みたい聖書箇所を決めて、
牧師もそこから祈りと説教とを備えられ、
(だから牧師は相当の学びと感受性を必要とされますが・・・)
また集ったみんなも自由に証しするという、
どちらかというと静的なイメージのある礼拝とは逆の、
とても動的な礼拝です。

そういう礼拝になったら、
互いに祈って欲しいことを発表しあい、
また来ることのできなかった人の状況も分かち合って、
そこで熱く祈ることができるなあと思います。

とまあ、
しかしそこまで自由になるのは困難なことでもあり、
収拾がつかなくなることも予想できてしまいますが、

しかしアンケートは、
もしかしたら
これくらいまでの拡がりを持つかもしれません。

アンケートが祝されますように。
アーメン。


預言者

2008年04月18日 | 平和のこと
名古屋ですばらしい判決がでました

キリスト者という立場でいうなら
聖書的な判決とも言っていいだろうと思います

ちょっと長いけど
新聞の記事をどうぞ

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<イラク自衛隊>多国籍軍空輸は違憲 名古屋高裁が初の判断
4月17日14時44分配信 毎日新聞

イラクへの自衛隊派遣は違憲だとして、市民団体などが国に派遣差し止めなどを求めた訴訟の控訴審判決が17日、名古屋高裁であった。青山邦夫裁判長(高田健一裁判長代読)は原告の請求を却下するなどした1審・名古屋地裁判決を支持し、控訴を棄却したが、「航空自衛隊による多国籍軍の空輸活動は憲法9条に違反している」との判断を示した。

 全国で行われている同種の訴訟で空自の活動の一部を違憲と認定したのは初めて。原告団は「控訴は棄却されたが、違憲の司法判断が示された」として上告しない方針で、勝訴した国は上告できないため判決が確定する。

 青山裁判長は判決で「イラクでは、多国籍軍と国内の武装勢力の間で国際的な武力紛争が行われ、特に首都バグダッドは多数の犠牲者が出ている地域でイラク復興特別措置法でいう『戦闘地域』に該当する」と認定。クウェートからバグダッドへ多国籍軍の兵士を空輸する空自の活動について「戦闘行為に必要不可欠な後方支援を行っており、他国による武力行使と一体化した行動」と述べ、武力行使を禁止した憲法9条1項とイラク特措法2条2項、活動地域を非戦闘地域に限定した同条3項に違反すると判断した。

 また原告は派遣により平和的生存権が侵害されると訴えていたが、判決は平和的生存権を「憲法上の法的な権利」と認定。「戦争への協力の強制など憲法9条に違反する国の行為により個人の生命が侵害されるような場合には、裁判所に違憲行為の差し止めを請求するなどの具体的権利性がある」と判断した。

 そのうえで、今回の原告の請求については「戦争への協力を強制されるまでの事態が生じているとは言えない」などとして控訴を全面的に棄却した。

 同訴訟原告団は04~06年、自衛隊の派遣差し止めと違憲確認、原告1人当たり1万円の損害賠償を求め、7次に分かれて計3268人が集団提訴し、うち1122人が控訴していた。原告団によると、自衛隊のイラク派遣を巡り、全国の11地裁で提訴されているが、判決はいずれも原告側の訴えを退けている。【秋山信一】

 ▽弁護団長の内河恵一弁護士の話 ようやく勝ち取った違憲判決。裁判所がしっかりした考えを出してくれたことを法律家として誇りに思う。


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わたしはイラク派兵は違憲である!
ということで、京都における裁判の原告のひとりでもあり
京都地裁では意見陳述もさせてもらいました
こんな陳述です



京都では見事にすべてを
もっとも無視する形で葬られてしまいましたが
それはこんな感じでした

名古屋ではその逆となりました


さてさて
おそらくこれから
この判決を出した裁判長がどれだけくだらないやつか
という論客から出てくると思います

福岡の靖国違憲判決でも
大阪のそれでも
必ず裁判長が個人的にどうしょうもないやつ
という論でもって
判決がおかしいということを正当化する試みが繰り返されています

そして
その背景には
その裁判官個人や
この裁判の原告のような一部がおかしいのであって
他の日本人は
(この場合「日本人」という枠組みとなる)
まともだ!
というところを
確保したいのだろうと思います

ここでなにがわかるか
と言いますと

たくさんの普通の日本人
という
集団に属することでしか安心感を得ることができない社会があり

そういう集団の安定という安心をすこしでもみだす
この裁判長や原告たちみたいな人が

とてもこわいので
必要以上にこわがるしかない社会構造なので

そういう人たちを
排除したくなるのだろう
と思います



その集団における安心というときの
護教的論理として
靖国神社や自衛隊は必須になっている
そういう国のそういう時代だなあと思います

これは逆に言うと

単独者として立つことができない

という欠点を
この社会が持っているということでもありましょう

そして集団の中で匿名になるから
インターネット上では
匿名者が活躍もできるわけですが

しかし
そこでよくわかることが
集団での安心がないとこわい場合に
人は集団のかげで匿名を選び
そして
集団での安心を乱すと
その人が考える人に対して
(それは結局自分の想像
 いや妄想といってもおかしくないところのものにおいて
 勝手にこわがって勝手に嫌う他者に対して)
攻撃をするのだろうと思います

だから

ネットでは

保守的な人の匿名による発言が群を抜いて多いわけです


それは逆に言うなら

単独者として立つことができない
名前を持つ者として名を名乗ることがこわくてできない

そういうところにはまった場合の発言でもあるわけです


だから
この裁判長は大変だなあと思います

かつて大阪高裁で
こういう集団の安心を覆す判決を出した裁判長が
直後に自殺するということもありました

京都におけるイラク派兵違憲訴訟では

もと裁判官で現在弁護士の方が
裁判長に向かって
そういう集団の安心を覆すこと
(彼は国の方針に反対すること
 と表現したと思いますが)

裁判官としてすごく勇気がいるけど・・・

と公判で述べておりました


ネットでも雑誌でも
一部新聞でも
政治家からも
叩かれに叩かれると思います

しかし
わたしがこの記事の最初に
聖書的な判決
と言ったのは

まさにここです

主イエスは
集団の安心をこわすばかりに
「十字架に付けろ」
と言われたわけです

このわたしも
主イエスにそう言うわけです

それくらい
集団の安心というものは
我々にとって権力となります

会堂で汚れた霊に取り付かれた男が
主イエスに
「おれにかかわるな!」
と言ったとき
主イエスは言ったわけです
「黙れ!汚れた霊よ!出て行け!」
と言いましたが

ここにおける汚れた霊とは
まさに
集団における安心という権力だと思います

今なら
群集心理
大衆心理
集合沸騰
などの用語で表される事柄であったのではないかと思います

でも
そういう事柄が
霊というわねばならないほどの
人格として我々に迫り

我々はその力に
無意識に
しかも喜んで受け入れつつ
屈服し
そして
主イエスのことを
「十字架につけろ」
と突き放すわけです


だから
そういう集団の安心という権力に
打ち勝つ
ことを信じることは

復活を信じるということでもあります

十字架で死んだ主イエスの復活の出来事なわけです



そういう復活の場に立つとき

人間は集団の安心から解放されて

単独者として

立つわけです

これこそ預言者!!


言うなれば

裁判長は預言者的行動をとった

と聖書的に述べても過言ではないわけです


あとそうそう
この裁判で
平和的生存権が具体性を持つことが示され
感激しました

これまでのどの裁判でも
抽象的で意味なし!
と切り捨てられていましたので・・・

また
最近は
高裁において
違憲判決を出しつつ裁判では負けにする

というものが続いていますが

それは
最高裁は
もはや権力が分立していなくて
政府どおりの判決しかでない
ということに対する
プロテスト
なんだろうなあ
と思えて仕方がありません

そして
きわめてすぐれた
知恵だと思います


集団の安心とか安全でなく
主の平和がなるよう
切に祈ります

アーメン