きぼう屋

生きているから生きている

考え初め

2007年01月31日 | 「生きる」こと
最近モノを考えていませんで・・・
本も噛み砕きやすいものばかり読んでます・・・
クリスマス明けごろから・・・

社会、精神、身体の状況がよろしくない仲間がたくさんいて
極めて端的に共に引き受けることができるために
極めて端的に祈っているというような時を過ごしています・・・

たぶん、もっとも有意義な生き様を選択できていることは
間違いない・・・
と思うけど

考えないといけないときに
脳みそのそういう部分に血がまわってないなあ・・・
と感じるから面白いです・・・

前回の週報巻頭言も
大切なことだけど・・・
表現の選びとしては目新しいものがなく・・・
スススーと書いてしまった・・・

昨日の5・3憲法集会準備会では
申し訳ないほどに考えることが出来なくて
進行役としての働きができず申し訳なく
ほんとすみません。

そろそろ考えないと・・・
というか
そういう脳みその部分を使わないと・・・


こんなこと考えてます。

地域に無料で配布される地域新聞みたいのが
どの地域にもあって
その中には「譲ります」のコーナーがあって
そこで分かち合いが起こるわけだけど・・・

最近めっきりそのコーナーが寂しくなったのは京都だけでしょうか・・・

たぶん、ネットやリサイクル店の普及で、
まだ使えるけど不要になったものはお金に換えてしまおうと
そうわけかなあと思ってます。

そういえば
わたしが小さかった頃
父方の家系ってのはアメリカ賞賛家系だったのですが
アメリカではいわゆるガレージセールというかたちで不用品を処分するということが
すごいだろー的に語られていまして・・・
それが自立の進んだ文化ということでありました・・・

そして日本もそうなった・・・

そこで思うことは
他者性、関係性の崩壊と共に
不用品は
分かち合われるところから
お金に換えられるというところへ
移行するというようなことです・・・

これはさみしい事柄の象徴的なことだなあと思うわけです。


これは、こうでない分かち合いの経験を繰り返して
思っているわけでして・・・

つまり今週も教会の廊下は
地域のみなさんからカンパいただいた服であふれています。

多くの方々はきちんとクリーニングして持ってきてくれます・・・
その中にはブランド品がいっぱい。
ネットで売ったりしたら結構な額になるだろうなあ・・・
と考えてしまうほどです。

でも
みんな
ホームレスのみなさんへ
と、
お金のカンパと一緒に服を持ってきてくれることが多いです。

分かち合いの現場は心あたたまります。

てなことから
自立という課題を考えてはじめてます。

すると
前回の週報巻頭言と本質は同じだけど
より深く語ることができるコトバを発見できるなかなあ

期待しつつ・・・

キリスト者の自立

2007年01月28日 | 教会のこと
1月28日の京都教会週報巻頭言

********************

この季節は胸が痛む。
教会員Nさんが一人寂しく亡くなった時期だ。
二週間後に発見された。
アルコール多量摂取による心停止だ。
長いことアルコール依存症を患っていた。

彼は依存症からの解放を夢見ていた。
一緒に語り合った。
彼は論理明晰だった。 

彼の結論は、
「人間は何かに必ず依存している。
 どれも害がある。
 アルコールのようにわかりやすい害もあれば、
 互いの依存性が戦争を生むという害もある。 
 その害の種類によって、
 病気とされたりされなかったりする」
というものだった。

そして依存対象がノートに列挙されていた。
国、家族、恋人、思想、宗教、学校、など、
それは千近くあった。
その通りだと思った。

居場所喪失が問題になる。
人は居場所を決定的に必要とする。
だから愛国心にそれを見出したり、
自分のアイデンティティに見出したりする。

全体主義か個人主義かという問いは意味がない。
どちらも居場所探しだからだ。

またその中間もある。
「ただいま」と言える場所探しだ。
家族や教会や学校がそういう場になりやすい。

しかし私たちはよく知っている通りに知らねばならない。
この居場所には
摩擦、ねじれなど、
関係において人が対応しきれない
罪人の出来事がうずまいていることを。

ここが居場所に依存するしかない我々が、
正しく依存するか否かの分かれ目だろう。

自分の居場所が理想郷のように映るとき、
それは依存症だろう。

そうでなく、
愛ゆえに批判しつつ、
しかし、出会いゆえに居続ける場所ならば、
信仰的に言うなら、
罪人の交わりという汚れた居場所を
神に赦されつつ生きるならば、
それは、
赦し主キリストへの依存と言えるところの、
豊かな依存であろう。

そしてこれが
依存でありつつしかし自立であるという事柄ではないか。

来月には定期総会を迎える。
私たちは、
愛ゆえに教会と自己を批判しつつ、
反省と評価と夢と希望を分かち合いたい
と願う。

Nさんの死後の歩みを祈りつつ。

連帯

2007年01月22日 | 平和のこと
京都に来て丸8年。
いろいろな人と出会うことができた。
感謝感謝でなお感謝。

大好きな人がいっぱいいる。
これまた感謝。

そして大好きな人の中のひとりで
とりわけ大好きな人が
今、
全身全霊をかけて、
精神をふりしぼって

それこそ地球の平和のために
あらゆる生命と人格のために
立ち上がる。

私は全身全霊で支えることを宣言したい。

教育基本法についての意見を分かちあう政府主催のタウン・ミーティングが
実は教育基本法改悪を進めるための捏造、やらせであったことは
すでによく知られていること。

その中で
京都のタウン・ミーティングでは
京都市教育委員会が
恣意的に参加者を選別した。

これまた全国紙やテレビが大きく取り上げて全国的に知られるようになった。

その、恣意的に参加できないようにされた方が
そのわたしの大好きな人だ。

この方の生き様から多くを学んでいる。
生きる本質
生きる重点
他者性
歴史性

京都の平和運動の中心を担うひとりだ。
寄り添いネットのホームレス支援にも力を貸してくれる。
うちの教会の礼拝にも度々来てくれる。
クリスマス・イヴ礼拝は家族みんなで来てくれる。

その方が
いよいよ裁判を起こす。

このブログを読む友人たちに呼びかけたい。

祈ってほしい。
共にたたかってほしい。

この裁判に見える希望を共有してほしい。


納豆と世界

2007年01月20日 | 「生きる」こと
我が家の息子たちは納豆で育っている。
これはけっしておおげさではない。

ところが
納豆が店頭から消えた。

「あるある大辞典」というテレビ番組で
ダイエット効果が抜群と放送されたからだとのこと。

スーパーをはしごして
なんとか買ってくる。

「ごめん、しばらくは一回一パックにして」
いつもは数パック食べる息子たちは不満げ。

おそらくパワーもいつものように出ないのだと思う。

でもって
すごいニュースが飛び込んできた。
「あるある・・・」のデータは捏造だったとのこと。
番組終了もありうるとのこと。

人の気をひくためにデータを捏造する。

タウン・ミーティングしかり。

イラク戦争もそう。

おそらく
世界のすべてが
マーケティング手法
すなわち
金と人間をどれだけ味方につけるかという方法で考えられる今、
みんな
ありとあらゆることを捏造するのだろう。

ある身近な大きな教会が礼拝出席者を水増ししていたという事実もある。
ほとんどの新興宗教が信者数水増しをしてることは周知の事実。

テレビの報道における
たとえば政治のコメントも
そういうマーケティング的な暴露話のみ。
教育基本法の中身とか歴史とかは語られず
ただ、与野党間の調整方法とか、人数あわせの方法とか・・・

でもって

まあ
納豆が店頭に並んでくれそうで
さみしいながら

うれしい。。。

のんびり

2007年01月20日 | ホームレス支援のこと
市役所前での炊き出しを終えて帰宅。
ホームレス支援機機構・京都寄り添いネットの定例炊き出し。
本日は年末年始の行政支援で泊まることができる者もあり、
いつもよりは少なめ。

鶏がらでとったスープに焼餅を入れる雑煮。
「うまい」と口々から発音される。
寒い夜だった。
なべから椀から口から白いけむりがのぼる。
けむりがのぼるほどにいい顔になる。
ボランティアもいっしょに食事。

のんびり準備し
のんびり食べて・・・

「ありがとう」
「こちらこそありがとう」

昼には玄関前にそっとカンパ衣類が置いてあった。
感謝。

寄り添いネットの会計を担い
いつも明るく
的確なコトを言ってくれるおばちゃんは
大きな手術を無事終えた。
心配かけないよう
みんなでカバーするぞ。

最近の京都はどうなってるのか。
北で学生が殺され
西でも不可思議な殺人があり
本日は我が家のそばのTUTAYAに強盗が入り
小学生の息子たちは集団下校。

しかし集団下校によってますます子どもたちは大げさに強盗をとらえる。

「外国人が鉄砲持ってる」
「え?」

犯人が外国人というところを相当にインプットされたようだ。
なんか悲しい。

今年の年末年始は変な殺人が多い。
どうだろう。
みなさんのまわりは。
わたしのまわりは、
今年は例年になく、精神のしんどい人が多い。
うつを持っている人がほぼ例外なく重い症状を見せている。

全国的にそういう空気なのか。
気候がそうさせるのか。
もしかしたら
もっと大きな地球の変化か何かがあって
人間を狂わしているのか。

キリストに突き抜ける信仰を神に求める。

ただいま2006クリスマスおよび2007新年の
感謝カードを製作中。
これは例年といっしょ。

まあ、あわてる気もなく
のんびり発送する。

なにしろ
のんびり。のんびり。

のんびりやると
事柄の本質が最もはやくきまっていく
と思うから。


本日

2007年01月17日 | 「生きる」こと
1月17日
今朝は4時に起きた
起きた瞬間に祈る

今日大きな手術をする教会のおばさんのこと
12年前の震災でいのち失った者たちのこと
愛する者を失った者たちのこと

ホームレスの者たちのこと
日雇い労働者の者たちのこと

起きた場所は大阪教会

今日まで日本バプテスト連盟ホームレス支援特別委員会による
大阪フィールドワーク

朝5時の釜ヶ崎に行く
仕事出しの始まる時間
雨降る中集まる人たち

人の熱さを経験する
物語がからみあう熱さもあるだろう
苦難の歴史がわきあがる熱さもあるだろう

釜ヶ先を離れると
すぐにしまわれ覆われる
そういうものが暴露されている熱さといえばいいのか

ただ
自らの小ささを経験し
しかし生きる力はわいてくる
そんな経験を受けつつ

5時50分の電車で京都に向かう
手術を迎える教会のおばさんのもとへ。

お連れ合いと友人親子も来た。
祈った。
涙浮かべながら笑いあった。

手術室の前で
お連れ合いが
「記念写真をとろう」

直前の7組の手術室へ送り出す深刻さを見た後の
なんとも明るい光景に
看護師もいっしょに笑ってくれる

祈り祈り祈る


祈祷会の時間になる
手術は終わらない。

祈祷会ははじまり
みんなで祈る
そして30分が過ぎ電話が鳴る。

手術が終わった
意識もしっかりしているとのこと

背骨がじんわりあたたかくなった


祈祷会がおわり
もう一本電話がなる

「明日の会議を中止してもいいか」

東京での会議が中止になった。

これまた
ありがたい・・・



生きる!祈る!

2007年01月12日 | 教会のこと
今は
わたしが京都教会に来て以来
同時期にいっぺんに
病、怪我、入院、手術、出産、帰国、洗礼
などなどの
人生における大きな出来事を迎える人が
最もたくさんいる
という
そういう時になっている。

手術を受けた人、受ける人が4人
出産した人、する人が2人
入院は最も重なったときで5人

今日は3人の仲間を見舞うことが出来た。
おっと、生まれたてのいのちとも会ったから4人!
みんなどっこい生きている!

腹の奥底から
大切な何かが沸いてくるような感触を味わいつつ
一緒に祈った。

そしてさらに祈る。

主イエスが共にいる!

出会いと別れ

2007年01月10日 | 教会のこと
おめでとうございます。
教会のYさんに第一子誕生です。
1月9日でした。
ものすごくかわいい。
母子共に健康です。

なまえは創人(そうと)くん。

そして
男の子でした。
またもや。
京都教会はこの間ずっと男の子のみ産まれております。
不思議ですなあ。

出会いがあれば別れもあり。

教会のTさんが14日の午後の飛行機で韓国に帰国します。
さみしい。

だからこっちからいくぞ!
ソウル!
みんなで!
昨年帰国したPさんもソウルにいるし!

京都教会の韓国ツアーを数年のうちに実現させましょう。

しかししかし
創人くんはほんまかわいい。


寄り添いネット新年活動

2007年01月08日 | ホームレス支援のこと
ホームレス支援機構・京都寄り添いネットの
初活動のお知らせ

<8日までこの記事がトップです。下にいくと最新記事あります。>

1月6日(土)午後 鴨川パトロール
(おにぎり持って訪問します)

ボランティアは午後1時に教会集合です。
(駐車場側の最北のドアよりお入りください)



1月8日(月)昼 新年炊き出し
(おせち付き。新年を味わうことも生きる力なり)

ボランティアは朝10時ごろに教会集合です。


今年も寄り添いネットをよろしくお願いいたします。




身体

2007年01月08日 | 教会のこと
昨日の教会週報巻頭言です。

*************************

 新年おめでとうございます。キリストが生まれて2007年目。世界がキリストの身体となることがゆるされて2007年目とも言えましょう。でも報道で知るのは、テロや残虐な殺人、虐待でした。暗く重たい気分になります。
 そして、この「気分」になるところに、私は自分の誤りを見ます。というのは、これらは「気分」という「心」の問題ではなく、キリストの「身体」の問題だからです。キリストの身体として生きるなら、私の身体が生々しい痛みを覚えるだろうからです。
 そこで新年の最初に明確にしたいのは、教会がキリストを「心」の問題にすることが多いのは間違いであることです。教会はキリストの「身体」とされており、それは世界がキリストの身体であるところの象徴であることをぜひとも思い起こしたいと願います。
 「心」の問題はどうしても個々人を分断し、あらゆる生命がひとつの「身体」であることを見失わせます。するとひとつの「身体」としての世界の癒しより、自分ひとりの「心」の癒しを求めるようになります。でも、そうすればするほど、ますます孤独で寂しくなる私たちもいます。そして恐ろしい事件を知ると、孤独なゆえにますます自分の「心」を守ることに興味を示すようになっていくのだと思います。
 でもそれは同時に、明らかに「身体」を持つ生命なのに、その「身体」を失っていることでもあります。それは生きる感触を失うことであり、実は、この喪失感によってますます「心」を病んでもいるのではないでしょうか。
 今、教会こそは「身体」を回復したいものです。それはそれぞれが身体の一部という生々しい交わりです。
 教会がそうなれば、世界の苦痛の癒しの現場になるはずでもあります。
 主よ。我々の個々人の間の不思議な距離が破棄され、キリストにつなげられるキリストの交わりという「身体」としてくださいますように。アーメン。

また息子たちのこと

2007年01月07日 | 「生きる」こと

昨晩も第四子のれんくんは
お兄ちゃんとけんかして泣いていた第二子のともくんのそばに
すぐにいって
あたまをなでた・・・

思い返せば
上の3人も
ちょうど少しコトバを話せるようになり、
自分の意思を伝えられるようになった頃
こういうことをしていた・・・

れんくんが今してくれるから
上3人の出来事も思い起こすことができる・・・
もしれんくんがいなかったら
忘れてしまったかも・・・。

4人がこれを繰り返してくれて
何度も想起されて
ようやく記憶されていくような感触。

さらに今は、上3人もれんくんの行為を十分に記憶できるわけで・・・


まったく言うこと聞かず
ちらかしまくり
こわしまくり

そういう息子たちをたくさん怒る父親の僕ですが、
たまらなく愛することができているのは感謝。。。

「パパ!そうくんがどんどんこっちくるからベットから落ちる」

昨晩熟睡中に僕を起こすそらくん。
こんな起こされ方したら相当いらいらするはずなのですが
それがないから不思議・・・。

「よいっしょ。これで大丈夫。寝れるか?」
「うん」

「パパのこと呼んでくれてありがとな」


不思議とうれしくなるから
なんともありがたい・・・

愛しているというのは
自分の思い通り、予定通りに
その愛する相手のゆえに全くいかなくなることで
自分が変わっていくということなのだろう・・・

たくさん息子が与えられた・・・
これは
身近にこういうことを経験できる者として
それを世界全体で経験しなおすことを
率先してすべきという

責任ある使命なのだとも思った・・・

兄弟

2007年01月04日 | 「生きる」こと
だいぶ前に
我が家の第四子のれんくん(1歳8ヶ月)が
わたしがお兄ちゃんたちをおこっていると
ニコニコしながら足元にやってきて
おこっているのがアホらしくなるということを書きましたが・・・

偶然ではなかったようです。。。
昨今コトバを発するようになって
また様々な行動がとれるようになって

こんなんなってます。

わたしがお兄ちゃんの誰かをおこっていると
「パパ。パパ。パパ。」
とやってきて
ニコニコしながら首をかしげつつ
「はほはほひほはほ」
とわたしに話しかけてきます。
で、
おこるのがアホらしくなって
みんなでニコニコすると
今度は
さっきまでおこられていたお兄ちゃんのところへいって
あたまをなでてあげて
自分のおもちゃを貸してあげたりします。

おそるべし
いったいどうなってるのか????



不信仰告白

2007年01月02日 | 教会のこと
12月31日は木崎さんの信仰告白とバプテスマがありました。
信仰告白の中身に感動。
涙あふれて・・・

「わたしができるのは信仰告白ではなくて不信仰告白だけです」

深い
そしてこれこそ信仰告白。

人が信仰を告白するというのは
不信仰を告白してこそで・・・
それのみ可能で・・・

「信じてます」
なんてスッキリ言えたら
逆に信じる相手を都合よく勝手に作ってないか
反省しないとあかんのだろうなあと思いました。

信なき我を救いたまえ。

娘を癒された父親のイエスに対するあの言葉の重みを
今一度味わうことが出来ました。
感謝。

そしてもうひとつ

「聖書に従おうと思ってひとりで読んできたけど、できない」
「ひとりではできない。みんなと共にするならできる」
という告白に

そのとおり!
でっかい声でアーメン!

と言いたいです。

一緒に生きる仲間が与えられるのは強烈にうれしい。

思い出すと胸があつくなる・・・
うわ!
泣きそう・・・



2007年も共に

2007年01月01日 | 教会のこと
2007年おめでとうございます。
今年も共に生きましょう。
よろしくお願いします。

我が家からのクリスマスカード&年賀状はもうしばらくかかります。
すみません。

かわりと言ってはなんですが、

昨日の年末感謝礼拝と
その前のクリスマス礼拝の
週報の巻頭言を。

**********************************

12月31日の週報巻頭言

「2007の希望」

♪ あなたが疲れ落ち込んで
  涙あふれるなら
わたしがぬぐう
  他の友を見失ってつらいときは
わたしが一緒にいる
  あなたがふさぎこんで
  歩みを進めることができなくて
  夕暮れをむかえるなら
  わたしがなぐさめる
  わたしが身代わりになる
  さらに闇が深くなり
  苦痛に囲まれるなら
  嵐の海にかかる橋に
  わたしはなる     ♪
サイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」の歌詞です。
 教会の具体的希望は、いつでも互いにこういう教会家族であることだろうと思います。ただ日本の教会は、まだこの精神が成熟期を迎えるほどは歴史を重ねていないとも言えるでしょう。ということは、成熟することがそのまま希望でもあるということです。またそれは私たちの目標であり生き様でもありましょう。
 でもこの段階でも、教会家族の長子イエス・キリストは、私たちみんなにとって、「明日に架ける橋」として存在します。これこそ救いです。
 1月に、Aさんはお母さんになり、Bさんはおばあちゃんになります。新しい命の誕生というよくわかる希望があることはきわめて幸いです。私たちはやわらかで透明な赤子と出会うなら、その赤子の「明日に架ける橋」になりたいと願うでしょう。これは自ずからの願いというより、神が与えてくれるところのステキな願いだと思います。そして本日木崎さんがバプテスマにおいて新しい命を得ることも実は同じ出来事で嬉しいかぎりです。
 教会の元気がなくなったと言われて久しいですが、それは、よく言われるような、社会変化や日本文化のせいではないと思います。ただ教会家族みんなの、この「明日に架ける橋」にあるような「信仰、希望、愛」へのこだわりが重ねられていく歴史の成熟度の問題ではないでしょうか。だから実は端的にこの希望を受け、この希望にのっとって生きることを続けることで、教会が教会となるし、そのように生きたらどんなに幸いか想像もできるのだろうと思います。
 2007年もぜひみんなで一緒に歩みましょう。よいお年を。


12月24日の週報巻頭言

「クリスマスが年末にあるのは・・・」

クリスマスおめでとうございます。
今年もクリスマスがやってきました。主イエスが繰り返し「いのち」を世界に示し、同時に世界のすべての「いのち」を再び誕生させるという、つまり復活の「いのち」を私たちみんなに与える、神の約束の象徴的な日です。
 このクリスマスが年末にあるのは有意義だと思います。今年を振り返るならば、それは地球や社会全体においても、個々人においても、決して喜ばしいことばかりではなく、様々な悲哀や苦痛、閉塞感などを、私たちは経験していることと思います。そしてそういう経験が想起される中でクリスマスを迎えることがゆるされていることに意味があります。
 今年はどんな年だったでしょうか。清水寺の森貫主は、「命」という一文字を大きく書きました。恒例のこの行事は応募された中で最も多かった字を書くとのことですが、つまり、「いのち」を味わうクリスマスの本質と見事に重なった年であることがわかります。背景には、いじめの問題、自殺の問題があると報道されていました。
 そしてさらにその背景は次のようなものではないでしょうか。経済の世界化(グローバリゼーション)に伴う貧富の差が、同じ方法を取る日本においても私たちの生活に身近なこととしてあらわれはじめました。それは格差社会問題と呼ばれています。お金を持つ強い者と持たない大部分の弱い者を構造的に固定する戦前戦中と同じかたちになりつつあります。つまり、強い者のために、弱い者が利用される構造になったということです。
 そしてこの構造は戦争に不可欠な構造であることは歴史が証明します。たとえば、貧しい者が、家族を養うために、それなりの給料をもらうために軍隊に入るしかないという構造だからです。
 こうして弱い者の「いのち」が脅かされます。これは会社や学校など人間集団にあるいじめの構造でもあります。
今年は、こういう誰かの「いのち」がいつも脅かされているという、世界の中身が露わになった年でした。
 クリスマスは、この構造を打ち破る神の意志が強く働く時です。だからこそ心してご一緒にクリスマスを味わい、祝いたいと思います。
神に栄光!地に平和!