きぼう屋

生きているから生きている

人の限界、主の突破、つまり和解の主

2012年10月31日 | 聖書を読んでみました
本日はマタイ1:18~25。
イエス・キリストが生まれる場面。

イエスの父はヨセフ、母はマリア。とまあ有名な話。
しかし、マリアはヨセフの身に覚えのないところでご懐妊。
私だったらどうするか。
その女性の責めると思います。
そして、嫉妬心いっぱいで別れると思います。

ヨセフも別れを決意します。
でも私と違って未練たらたらで、別れる理由を女性にすべて押し付けるという仕方ではありません。

私は悋気に支配されたどうしようもない人間。
でも聖書によるとヨセフは正しい人間。

だからヨセフは、相手のせいで別れるなんて当然考えず、
相手、つまりマリアが幸せになるためにいろいろ考えます。

ひとつは、婚約者以外の子を宿したということがみんなに知られないよう、
その子は婚約者ヨセフが、ヨセフの側で勝手に婚約破棄し、
その後、自由の身のマリアが懐妊したということにして、
うまいことマリアがスキャンダル扱いされないようにしようと考えましたし、
またきっと、本当の父親とマリアが結婚できるようにしようとも考えたのだと思います。

これが、正しい人なわけです。

でも、主の天使があらわれて、離縁をしないよう命令します。

ここで、人の、それも正しい人という、人の中の人の、その限界性と、
それを超える主の働きが見えてきます。

いくら正しい人でも人が他者を傷つけずにできることには限界があります。
そして、どんなに正しい行為とされるものでも、そこでは、他者、ここではマリアとの縁が切れる、ことが起こります。

人は、他者との縁が切れるしかないという状況を、人の限界の中でたびたび迎えます。

しかし、縁を切ることをさせない力も、同時にこの世界にはあるのだ!ということが語られます。
主は、縁を切ることなく、つながったまま、事柄を解決します。
そう!まさに和解の主。

そして、縁を切らずにヨセフとマリアから生まれたのが主イエス。

和解から生まれた主という出来事は、まさにインマヌエル。
神が私たちと共にいます!から、ひとりではありません!という神の縁を切りません宣言。
同時に、その主は民を罪から救うと書かれます。
この罪、そう、人間の限界性、つまり、縁を切らざるを得ないということ。
でも、その罪から救われる民は、縁を切らずに和解をいただくわけで、
それこそキリスト、救いなわけです。

さて、最後に、マリアが聖霊でもって懐妊したということですが、
これもまた、たとえば人と人との関係では性行為を通して懐妊するわけですが、
となると、人と人は、何かを生み出すためには、何かの条件を必要とするわけですが、

人と聖霊の関係では、条件なしで、まさに生み出される、創造されるという出来事が起こるということかなあと思ったりします。

というところで、本日はおしまい。


久しぶりの更新 系図からの救い

2012年10月30日 | 聖書を読んでみました
とても久しぶりの更新。
聖書を読んでいこうと思いました。
ちょっと現在しんどい時期を過ごしており、
ほかの本はなかなか読めないのですが、
不思議と聖書だけは読むことができるという経験をしていますもので。

で、新約聖書の最初から。

マタイによる福音書の初っ端は主イエスの誕生までの系図。
この系図から与えられる救いって何だろう?

この系図は、主イエスがいいところの家系であるということを当然言っていると思います。
現代でも、いいところの家系というのは信頼されるし、
結婚時にお相手の家系を興信所で調べるケースも多いようですし、
そもそもどの家系に生まれるかで経済や教育の状態も決まりますし、
就職も家系がいいと縁故で苦労なし。

となると、ほぼすべての人において、主イエスがいい家系であるということは、
救いどころか、イヤミにすら思えることだなあ、と思ったりします。

しかし、そのいい家系の中で、主イエスは、その時代に最も見下されていた大工の息子として登場してきます。

なるほど、主イエスは、いい家系でありながらも、どこかで縁を切られて、社会の最底辺に落ちた方であることが読み取れます。

ならば、もう家系なんか役に立たないから紹介などしなくてもいいのに、とも思います。

しかし、この家系にはもう一つ大きな意味が隠れていることは間違いないようです。
それは、救い主が生まれるとされた家系です。

で、その救い主が主イエスです。

で、その救い主は、社会の最底辺に落ちた(落ちざるを得なかった)方であり、
その救い主は、縁を切られた方であります。

家系というのは、だいたい、信用させるために用いるのでしょうが、
マタイ福音書では、つまり、
社会の最底辺で虐げられている者が、救い主としてお生まれになった!
ということに最大限の信用を付与しているのだと思いました。

また、この家系には岩波聖書の注によるとなかなか面白い方々が現れます。
娼婦のふりしてユダに近づいて子どもをもうけたタマルさん。
売春婦のラハブさん。
ダビデと不倫をしたウリヤの妻さん。
出会ったら敵とみなされた異教徒出身のルツさん。

みんな、主イエスの誕生に欠かせない出産を経験されています。

当時は、親権がすべて男性にあり、女性は産む存在として軽視されていたという差別的事実もあり、
女性なら誰でもいい、という解釈もできなくもないですが、
私は、主イエスの誕生までの歴史において、
彼女たちがかかわっていることが、
救いにとって重要だと思うわけです。

最も社会から嫌われ、虐げられることになる倫理違反をした者も、
主イエスという救い主の誕生により、
共に
思いっきり
救われるわけだろうと思います。

そもそも
彼女たちの心を思うならば、
おそらくぽっかりと空いた穴があり、
根源的なさみしさをかかえ、
圧倒的孤独感に支配され、
生きていることが苦しい方たちだったのだろうと思います。

しかし、彼女たちがかかわった事柄抜きには、歴史は全く成立しないわけです。
救い主誕生へとつながらないわけです。

どんな苦難にあっても
どんな困窮にあっても
どんな見捨てにあっても
どんなに生きるのがつらくても

主が生まれることにより、
主がかかわることにより、

すべての者は、救われる!

同時に、すべての者が救い主のはたらきのために不可欠である!!

というのが、マタイ福音書の最初の宣言であり、
そして、その後に、救いの中身が描かれていくのだろう、

と思いました。

久々のブログ更新、おしまい。