きぼう屋

生きているから生きている

記念

2008年07月12日 | 「生きる」こと
Y兄の記念会にたくさんの方が集まってくださり
感謝するばかり

記念説教は
結局本番までに原稿一文字も打てず
といいますか
これまた文字にしたら
言葉としては同じだけれども
大事なことが消えるような気がしまして

それくらい
複雑で微妙なところを
まばたきひとつゆるされない集中度において
見極め聞き極めていくべき出来事で

聖書に
三つのポイントだけを
直接メモして
それのみで本番突入

なりました

複雑で微妙な事柄の中の
しかし粘り強く集中して受け続けることで
見えてくる
実はなかなか太い骨格を
共有できたなかなあ
と思っています



いのちとは
生と死の両方を受けて
はじめていのちとなる

それも

生と死とを

自分とは何者か
という問いのためにいただくのではなく

キリストとは何者か
キリストによりつなげられた共同体とは何者か
という問いのなかでいただくとき

共同体に
またわたしに

いのちが起こる


そして

生と死とを結びつけることができるのは
十字架で死に復活したキリストのみ


このキリストを無視すると
死者は
生者に
利用される・・・


その逆で
われわれはキリストにより
死者を
強烈な矛盾とねじれと悲痛のなかで
受けることがゆるされ

そこで
生と死による
いのちを得る



といった趣旨の話でございました


アーメン
キリストが共にいます