きぼう屋

生きているから生きている

今年最後も

2008年12月29日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

*****************

「今年最後も『チーム・キリスト』」

2008年も最後の礼拝となりました。
それぞれ振り返りつつ、いろんな物語を再生していることと思います。
召天、誕生、結婚をはじめ、教会家族でもいろいろありました。
すべて主のみ手に守られ、感謝するばかりです。

さて、この教会家族というテーマは、
この間当教会が一貫して持つ中心テーマです。
血縁でも国籍でも性別でも
似た経済状況でも価値観でもなく、
ただキリストにより家族とされるのが、
教会という共同体であることを分かち合ってきました。

それは同時に、
当教会の言説のほとんどであった「神と個人との関係」に加え、
実は聖書は「個人と個人とを結ぶ神という関係」を
より語っていることを確認することであり、
また他者との関係の希薄さゆえに、「責任」が語られなかったところに、
他者と出会うゆえに「責任」が神より与えられることを、
聖書から知ることでありました。

さらにそれは、第一の他者が神であることを知ることでもありました。

キリスト教の言葉でいうならば、
創造の神のみでなく、
十字架と復活と終末の神を受肉するという出来事にも
丁寧に与りたく願っているわけです。

しかしなぜ
個や自分を語るのと同じだけ、
交わりや他者を語ることがむずかしいのでしょうか。

モルトマンという現代を代表する神学者が
ヨーロッパのエキュメニカルな会議で発言した次の言葉が、うまく言い表していると思います。
「他者の圧迫からの自由という意味での独立は、正義の要求である。
しかし、
人間のコミュニティ(交わり)からの孤立という意味での独立は、
可能ではなく、また正義でもない。
私たちは、交わりの中で互いに他者を必要としている」。
 
私たちは自由と孤立とを感覚的にごちゃまぜにしてしまうようです。

心理学者のエーリッヒフロムなら、
人間は孤立に走るほうが楽なのでそうするけれども、
それは実は自由からの逃走なのだ、と言うことでしょう。

つまり私たちは、楽さと自由をつなげ、しんどさと不自由をつなげる感覚を持つようです。
だから楽な孤立と、しんどい交わりゆえの自由がぐちゃぐちゃになって
楽な自由となってしまうけれども、
でもその瞬間にすべては台無しになっていることを知るのは容易ではないのです。

しかし、とかく独立(自立)を大切にするバプテストは、
自由と孤立を混同してはなりません。
自由は交わりゆえにあり、
交わりに生きる責任、他者と出会う責任抜きには、
自由がないことを、もう一度確認せねばなりません。

私たちみんなは、
キリストの復活と十字架とを頂くゆえに、他者と出会い、交わりを受けるし、
キリストの復活と十字架とを頂くゆえに、自由を得ます。

ポイントは十字架です。
私たちの感覚として持つ「楽さ」ゆえに十字架を放り投げてはなりません。
そして十字架は具体的なキリスト者の交わりでこそ発見されます。

というわけで、
今年後半から何度も登場する「チーム・キリスト」は、
十字架を内包する交わりであり、
ゆえに実は最も自由な時空を持つわけです。

来年も「チーム・キリスト」をご一緒に歩みましょう。


本物のクリスマス

2008年12月22日 | 教会のこと
日本バプテスト京都教会(荒神橋西詰)
イヴ・キャンドル・サービス
24日(水)夜7時~8時
お待ちしております!!


今週の週報巻頭言です

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「本物のクリスマス」

メリークリスマス!
主イエスの誕生を共に頂くことがゆるされ、感謝です。

しかしクリスマスは地球全体で、
日本でももちろん、
完全に近代の経済競争に取り込まれ、利用されており、
とても残念です。

だからいまや
クリスマスを迎えて人が目を輝かせるのは、
主イエスの誕生よりも、
お金がまわることによるほうが多くなっています。

子どもも、
主イエスの誕生よりも、
プレゼントをもらうことを喜ぶ人が多いわけで、
経済競争から同じく自由になることはできません。

つまり私たちは、
想像以上に経済競争、
つまりお金に縛られています。

しかし、その経済競争が今、恐慌を迎え崩れ始めました。
地球規模の不景気は、来年以降さらにひどくなることは目に見えています。

つまり私たちの生活は脅かされています。
自分の手元に入るお金は減り、
旅行や趣味が満足にできないどころか、
子どもの教育から衣食住まで脅かされ、
仕事を失うことも他人事ではありません。
不安はどんどん募ります。

しかし私が、
生活が脅かされる、
というときに言いたいのは、
実はさらに次のことです。

つまり、お金に縛られた世界で、お金が消えたなら、
次にどう生きることが幸せか、
を、
イメージできない私たちであることこそ、
生活が脅かされている根っこの事柄であると、
私は考えています。

私たちは、お金が減りさらに消えたら本当に不幸になるのでしょうか。
結論から言うと、そんなことはありません。

この近代の経済競争の歴史はたった数百年。
これと全く違うスタイルで幸せに生きていた年数は、はるかに長いわけです。
今でも、この経済競争とかかわりのないアフリカなどの部族は、幸せに生きています。

しかもこのたったの数百年で、地球がこんなにも蝕まれました。
1929年の世界恐慌とは異なり、
今は、自然環境やエネルギー問題が待ったなしで人が生きるシステムの大変換を要求しています。
だから、今後の景気回復について研究者たちも発言をすることができていません。
経験からの合理的な知識にて将来を予測することができない未曾有の状況に私たちはいます。
そして、景気も環境も回復するか否かわからない世界へと一緒に突入するわけです。

だからこそ
幸せとは何か?については、確固たる芯を持ちたいと願います。
これも結論のみ言うことになりますが、
幸せとは、
深い愛と信頼で結ばれた「お付き合い」ではない関係である他者が存在することです!
その他者の代表こそ主イエスです!
主は絶対に!私たちひとりひとりと共にいてひとりひとり愛すると宣言されます。
さらに絶対に!わたしたちみんなを和解させつなげると宣言されます。

このクリスマスに
その主が生まれるから、私たちは幸せです。

だからきっと
今でもお金に縁遠い地域ほど(お金がまわってこない地域ほど)、
主イエスの誕生を喜ぶのだろうと思います

そして本日
私たちも
お金に取り込まれない本当のクリスマスを、
ご一緒に分かち合いましょう。

最後にもう一度
メリークリスマス!!

絶対

2008年12月21日 | 教会のこと
神さま

クリスマス礼拝とクリスマスパーティーを

ありがとうございました


今年は
実は

ぼくら夫婦は
友人や知り合いを積極的に誘うことはしませんでした


ここ数年
ぼくら夫婦の誘いで20~30人くらいの方々が来てくれております

とてもうれしいことです

でも今年は
クリスマス礼拝に来る理由から
牧師家族と付き合いがある
ということをどかそうと思いました


世界恐慌を迎え
人間が人間であり世界が世界であるには
どうしたらいいか

というときに

お金をたくさん得ることと自分の幸せを追求すること

できなくなる時代となるからこそ

さっさとそこから解放されて

人間が人間となり世界が世界となるという本当の幸せであるところの

覚えあい祈りあう他者との交わり

つまりそれは
「お付き合い」ではない交わり
ゆえに
キリストの身体でありチーム・キリストであり教会である
という交わり

を獲得することを始めたい
と思ったからです

だから
他者との交わりという教会を本当に必要とする人が
素直に礼拝を選び取って来ることに期待することにしました

それは言い換えると
神さまに招かれたから礼拝に来る

という事柄に賭けることにしたということです

そして今年は91名でした

年々増加していたクリスマスの出席者が
はじめて減った年となりました

昨年からは15%減です

しかし
昨年までとは違い
最後まで参加された人は
50%増でした

だから
まさに祈っていたことが起こされたと思ってもいいのだろうと
喜んでおります

そしてそういうクリスマス礼拝とパーティーだったので
これまでには考えられないほど
人と人との距離が近くなりました

あたたくなりました
たくさんの大きな笑い声がありました
歌声がありました
手話がありました

そしておいしい料理でおなかいっぱいになりました

パーティーでの出し物は
どれも最高でした
涙をこらえるのがやっとでした
(こらえられなかったというのが本当ですが)

チーム名「まきびと」による振りつきの
♪イェスイェスイェス
♪ナザレの子
に始まり

チーム名「おばあちゃんず」による
なべを楽器にした楽しい歌があり

チーム名「アローンズ」による
手話つきの美しい歌があり

ミナコちゃんの
しゃべりがポイントのマジックがあり

シンさんによる
「きよしこの夜」ができた歴史のおはなしを含む独唱があり

チーム名「おじちゃんず」による
「We shall overcome」の歴史のおはなしとコーラスがありまして

どれも細胞のひとつひとつを嬉しくする
愛の詰まったものでありました

そして
わたしはそのように出し物をしてくださったみなさんの中に
今年とても大変な経験をしてきた人がたくさんいることを知っておりますから

その中で
しかし
アホになって
みんなでうれしくなるために歌って踊ってしゃべって演じるという中に

言いようのない深い深い美しさを見ることができました

だから
涙がこぼれてしまうわけです


金にしばられてしまった
わたしたちの身体と心と魂が

覚えてくれて祈ってくれる他者との繰り返しの出会いにより
覚えることができて祈ることができる他者との繰り返しの出会いにより

解放され活き活きし
すべての筋肉がゆるみ

本当の幸せをいただくために

教会が与えられているからこそ
教会が教会になることを

それは
世間の持つ一般的な教会のイメージとはまったく異なる
聖書からの活き活きした教会を

今後とも
ご一緒に担っていただきたく願うばかりです

つまり
チーム・キリストとして
ぜひご一緒に歩んでまいりましょう


本日来てくださった皆々様に
心から感謝します

主イエスが絶対にみなさんと一緒にいます!!

絶対に!!

興奮

2008年12月21日 | 教会のこと
12時に布団にもぐったものの
眠れませんでした

明日のクリスマス礼拝を前にして
遠足前夜の子どものように
興奮しているせいです

バザーの前日もそうでした

布団をかぶって
目を瞑ると

いろんな顔が浮かんできまして

なんだかいつのまにか祈っておりまして

まったく眠れないわけです

明日会えるだろう人
残念ながら明日は会えない人
今ハッピーな人
今憂鬱な人

いろんな表情が飛び込んできますから

それが複雑にからみあって
わたしの脳を刺激しますから

なにしろな眠れないわけです


しかも教会の今の状況としては

青年が5名ほど
おそらく今頃教会の台所で
明日の愛さん会の食事を作るなど
クリスマス礼拝とパーティーの準備をしておりますし

若菜さんもウチの台所で
せっせとやっておりまして

こういう風景は
心をウキウキさせてしまうわけでもあります

だからやっぱり眠れません


ありとあらゆる喜怒哀楽が
魂に触れるとき

人は眠れないようです


でもまあいいのです

人の身体ってものは
眠る時に眠るので

どうにかなるってものなので

眠れないうちは眠らないけれども
いつか眠るわけです


しかしこのように興奮して眠れないということは
実は大変ありがたいことであるわけでして

ほんの数年前までは
教会の人にはなかなか気づいてもらえず
ぼくら夫婦でやりきらないといけない奉仕がたくさんあったのですが

この2年のあいだに
それがどんどん減ってきました

いつのまにか
それらをやってくれる人が
増えました

だから
ぼくら夫婦に余裕ができるようになりました

興奮する余裕は
数年前まではありませんでしたから・・・

疲れてばったんきゅー

疲れすぎて眠れないか
でしたから・・・

教会で生きる人が増えたなあ

感謝するしかありません
そして
ホッとしています

みなさん
ありがとう


いやーほんと
楽しみ楽しみ


なぞなぞ

2008年12月20日 | ホームレス支援のこと
いよいよ明日
21日はクリスマス礼拝!
10:30am~

****************



ホームレス生活をしているおじさんが
なぞなぞをつくって
紙に書いて
うちの息子たちに渡してくれます

今回はこういうなぞなぞでした

問題

あるはしのしたに4にんのホームレスがすんでいました。
4にんのなまえは
① こばやし
② えて
③ ひげ
④ なべ
です。

このなかで、
ふゆにはいるけどなつになったらいなくなるのはだーれ?
このなかで、
おかずにおすをかけてたべたらきれいになるのはだーれ?
このなかで
ながいはなしがきらいなひとはだーれ?


そしてあした
息子たちが答えを提出します

ゆたかな関係だなあと感謝しています


金曜日の市役所前炊き出しは
牛肉のたくさん入ったクッパをつくりました
寒い夜に湯気が舞うのは
人をうれしい気持ちにします

とある大手テレビ局から電話があり
25日のクリスマスの夜の
にぎやかな繁華街の様子と
ホームレスの炊き出しの様子とを
ニュース映像として撮りたい
とのことでした

うちは25日に活動はないので
ほかの団体の活動を紹介しましたが

なるほど
そういう時代なのだと思いました

ホームレスは
ずっと語ってきていることですが
他人事ではないわけです

本当にみんながホームレス予備軍

危機っていう言葉をつかっているけど
恐慌が起こっているというのが事実なわけで

ますます
金は消えるわけですので

来年
再来年

予想を超える状況になるのだろうと思います

こういうときは



だけが通用することを

このクリスマスに
みんなで
分かち合いたいと願います

明日はクリスマス礼拝



顔を合わせて

2008年12月19日 | ホームレス支援のこと
いよいよ次の日曜日
21日はクリスマス礼拝!
10:30am~

****************


日曜日に亡くなられたタローさんのご家族がわかり
ご家族がご遺体を引き取られました

長崎は五島の出身だったとのことです
10年前にご家族より家出人届が出されてもいたそうです

タローさんとは8年ほどかかわることがゆるされ
その間にいろいろとお話をしましたが

名前や年齢、出身地などの
いわゆる真実を知ることは
とっても難しいことです

どういう関係になったら
本当のことを互いに伝えあうことができるのか

ここに答えはありません

それぞれの歩んでいる環境の中で
自分についてのことを隠す程度はまちまちです

ただ経験上
深い困難と出会ってきている人ほど
隠す程度は大きいと思います

そういう意味では
タローさんがさまざまなことを抱えていたことは
想像できていました

しかし
その困窮の具体を共に担うことができなかったこと
そこまで知りえなかったことは
どうしても後悔してしまいます

しかし
同時に知らなくてもいい
とも思っています

名前も年齢も出身地も過去のことを
今何を考えているかを
ぼくが知らなくても

ぼくは彼の顔を知っているし
声を知っているし
それぞれの表情を知っているし

嘘であったとしても
彼の語る少しの物語を共有できるし

実は
そこで
もはやはっきりと覚えることができ
覚えられることを経験するし
関係は成立しているし
もはや孤独ではない
ということが起こっていると思います

そもそも
たとえば僕と妻が
あるいは僕と息子が
どれだけ本当のことを伝え合い知り合うのでしょうか

何にも隠すことのない関係でも
人間のコミュニケーションの限界において
あきらかに他者同士であることにおいて

わたしたちは知っているつもりで
知らないことのほうが多いのだと思います

知る知らないよりも

顔を合わせて一緒に時間を過ごす
ことからこそ
大切なものが起こされるのだと思います

タローさんのご家族の悲しみを覚えます
祈ります


そんな中
本日
とある大きな
そして地域から信頼されている病院から
ホームレスを強いられている方などの生活困窮者にかかわりたいから
懇談の時を持ってくれないか
という連絡をいただきました

感謝です

今年の京都の冬はどれくらいまで冷えるのでしょうか
みんなで
祈りつつ
あたたかく
がんばります


2008年12月17日 | 教会のこと
いよいよ次の日曜日
21日はクリスマス礼拝!
10:30am~

****************



個か全体か
みたいな議論を不思議に感じて20年

自分の中では
そういう枠組がすでに消えているのですが

しかしたびたびこの枠組みに出会っては
身体が宙に浮く感じを覚えもします

わたしは教会で
チーム・キリスト
というわかりやすい言葉を目標としつつ

本当にチームとなりたいと願っております

すると
どうもチームというのは
全体
という枠組みで考えられるようです


となると

やっぱり個と全体という枠組みは
大切な事柄を切り捨ててしまうことになるから

どこかで簡単に考えないとならんなあ
と思いつつ
ここに書こうと思いました


わたしはいわゆる現代思想が
フランス語を用いるユダヤ人から生まれていることの
その背景を想像することがあります

思想界に
いやそれどころか
地球全体に大きな影響を与えている
彼らからはじまった
構造主義とか呼ばれる考え方は

実は
ユダヤ教徒として
信仰を
一般の思想という言葉で
語るという方法でもって
世界を平和にしようじゃないの

フランスのユダヤ教会で
実は身近な関係である思想家たちが
本気で
しかもみんな信仰者としての交わりを持つ中で
相互批判しつつ
ことばを語っているのではないかと

勝手に想像しています



そうしないとならないのは
ホロコーストを経験したからなわけです

彼らは殺された経験をしたからです
(無論共同体の仲間が殺され
 彼らは生きていますが
 しかしそれはまた
 彼らが殺されたことでもあります)

なぜ殺されたのか

勝手ながらに極めて乱暴に
彼らはこう考えているのではないかなあ
ということを想像してみます

それは
存在の中に本質なり実在なり意味なりを見つけるという
自分探しの思想が
信仰されていたからだと思います

それを直観なり経験なり心理分析なりで認識するという方法も
信仰されています


わたしはそれがすべて間違いではないと思います

でも
それは信仰されてはならないものです


そういうなかで

国とか民族という存在も
それを確定する中身を信じるということに集中するわけです

そして
アイデンティティを確立するわけですが

それによって
そのアイデンティティを壊す敵は
やっつけないとならないということも起こってきて

そういう中で
ユダヤ人は殺されてしまった

と考えたのではないだろうか

だから

その存在のなかの本質とか意味とかでもって
存在が確立するのではなくて

他者との差異でもって
存在は確立するという

この考えをなにしろメジャーにしないと
また殺される
と思ったのではないかと想像します


そして丁寧に
言語からみてくれるわけです

たとえば
コーヒーカップという言葉は
その中身であるところの
コーヒーを入れられる
ということにおいて名が付けられた
のではなくて
隣のワイングラスと異なるものがそこにあるから
名が付けられた
ということから考えてくれたわけです

すると
わたしオオタニシンキは
こういう生まれで
こういう環境で育ち
こういう仕事をして
こういう体力で
とかいうようなところで
オオタニシンキなのではなくて

周りにたくさんいる他者たちと
まったく異なる存在として
オオタニシンキなのである

ということなわけです

すると
オオタニシンキがオオタニシンキであるためには
他者がいないと困るわけです

他者がいて
はじめて
他者との差異において
オオタニシンキが発見されるわけです

というわけで

存在の中に意味を見出そうとすると
個と他がわかれることになるし
個と全体みたいな話にもなると思いますが

存在の外
つまり他者に意味を見出すならば
個は他とのチームのおいて個となることしかできないわけです

そしてわたしの好きなレヴィナスさんは
他とは顔である
と言いまして

そのそれぞれ異なる顔と出会うときに
オオタニシンキは
その顔に告発され
その顔に対する責任を受け
その顔に応答することから
オオタニシンキになるわけです


これはまさに
神と顔をあわせる衝撃
というユダヤ(創世記)の思想であるなあと思います

差異を語ったデリダさんも
もしかしたら

神と人間の
明らかな差異をこそ
本当は語りたいのではないかなあ

と思います

そこで
人間の神格化からの解放を語りたいのではないかなあ
と思います



牧師として言うならば
敵を愛するというイエスの命令
および
家族を敵とするというイエスの宣言は

まさに
敵でありながら
しかしひとつの身体という同じチームにあるということにおいて
その敵によって
まさに差異によって
わたしがわたしという
個を知る

という
すんごい恵みなわけです

というわけで

チーム・キリスト
としてさらに共に歩んでいきたく
強く願うわけです

かなり乱暴に単純化したことと
お会いしたこともない思想家の背景を勝手に想像したことをお詫びしつつ

ここまで読んでくださって
感謝

子どもクリスマスとプロ性

2008年12月16日 | 教会のこと
いよいよ次の日曜日
21日はクリスマス礼拝!
10:30am~

****************


この前の日曜日午後の
子どもクリスマスに来てくださった
子どもたちとそのご家族の方々に
神の愛が注がれていることを信じ
祈ります

世界のすべての人たちに
神の愛である
ひとり子イエスが与えられることを信じ
祈ります

子どもクリスマスが
みんなの笑顔の中で終えることがゆるされ
神さまと来てくださった方と準備し迎えられた教会の仲間に
厚く感謝するばかりです

はじめてや
一年ぶりに
当教会に来てくださった方々が

準備し迎えてくれたひとりひとりの
なんらかの決められた形や言葉による接客とはまったく異なり
話し合って決めたとおりに機械的に動くのとも違い

ひとりひとりが
それぞれの声量と音質で言葉を発し
それぞれの手足を自由に動かし
それぞれの目や口を自由に動かして
みなさんと出会い接していた

その姿を
ぜひとも記憶して帰っていただけていればと
心から願っております

先日
朝ドラの「だんだん」で
プロ性が語られていたけれども
それに納得がいかない
ということをこの場で書きましたが

すこし考えてみました

プロってなんでしょう?
アマチュアってなんでしょう?
お金をもらうからプロでしょうか?
ボランティアだからアマチュアでしょうか?

わたしはそれは全然違うと思います

プロはお金とは関係ありません

プロは
その時間のその場における責任を
活き活きと担い
決してその責任を放棄しない!
という業を行う人のことだと思います

逆にアマチュアは
責任を担うことがないように
逃げ道を常に用意しつつ
その時間のその場における業を行う人のことです

そういう意味では
子どもクリスマスの奉仕を担ったみんなは
プロでした

集う他者のために
その他者の存在を受けるゆえに
それぞれが受ける責任を担い
それを
丁寧にそれぞれの実存において
行動として表現したわけです

これがファミリーレストランなどのように
みんなが同じ決まった文句を発し
決まった動きをするということになると

それは責任を担うことを選択しているのではなく
ただ単に失敗をしないことを選択しているのであって

実はこれはアマチュアなわけです

となると

プロと一般的に呼ばれる仕事の多くは
失敗をしないというところで止まり
責任を担うところまで行き着かないものが多く

わたしはそれはやっぱり
実はアマチュアだと思っています

もちろん
プロは失敗がゆるされません

福祉施設のボランティアも
失敗はゆるされないところの
無給のプロです

失敗したら
相手が死ぬ場合もあるわけですから


だからプロは
相手が死ぬ場合もあるというところまでの
責任を担いつつ失敗をしない
ということを受けるに違いありません


そしてテレビに良く出てくる
責任を人に押し付けるえらい人たちは

当然アマチュアです

高給取りのアマチュアということになると思います


このあたりは
かなり世界を不幸にしている点だと思います

世界が全体として幸福になるためには
無給のプロを活き活きと引き受ける人材が
どれだけ出るか
というところに
相当に負うているのではないでしょうか


そしてキリスト教会は
他者なるキリストと
他者なる隣人に
責任を負う人間であるゆえに
プロとして
他者を受け
他者のために動く

つまり
他者を愛する

という人間になることを目指す
共同体なわけです

だから繰り返しますが

そのプロ性
つまり
愛を

子どもクリスマスに来てくれたみなさんが
肌で感じてくれていたら
それが一番の成果だろうと思います



じゃあなんでプロ性が
お金で語られるのでしょう?

人間というものは
交換によって
自らの生を覚えるわけですが

手っ取り早いのが
金と何かの交換なのだろうと思います

しかしキリスト教会は

キリストとの交換を選ぶところで
そこから解放される生を知るわけです

となると

キリストとの交換に責任を持つのが

プロであって

そのプロ性は
キリストと共に
地球を救うことになると
わたしは信じております

今度の日曜日の
クリスマス礼拝にもぜひ!!

子どもクリスマスー死を受けつつ

2008年12月15日 | 「生きる」こと
現在
業者さんによる
教会全館ワックスがけ中につき
その間わたしはゆっくりしようと決めました

実は金曜日の夜から風邪をひいているので
ありがたい時間であります

今朝起きたら
風邪がほぼ治っている感触なので
この休憩で
しっかり体力ももどって
今度の日曜日の
クリスマス礼拝にむけて
しっかり準備していきたいと思います

さてさて
昨日午後は子どもクリスマス

集会室がいっぱいいっぱいになるほどに
子どもたちとお父さんお母さんが集まってくれて
感謝感謝です

また座れなかった方々には
おわびするばかりです

少しでも
クリスマスの本当の意味と生活に届く力を
持ち帰っていただいていたらと願っています

わたしはまず
子どもたちには茶トラのおはなしをしました
11年前に福岡で出会った
下半身麻痺の猫との生活物語です

わたしが天国にいったらまず最初に探すだろう
大切な家族です

子どもたちの目がとても真剣だったので
はなしているこちらがびっくりしたのですが
茶トラの生から
キリストのかかわりをすこしでも身体に記憶してくれていたら

これまた切に切に願います

そして
付き添いできてくれた大人のみなさんには
いつもの
ホームレスとハウスレスのはなしをしました

これは予定になかったのですが

実は昨日礼拝後に
刑事さんが教会に来てくれまして

その日の早朝に
街で倒れている人がいて
病院に搬送されたものの
亡くなられた方がいるけれども
その方について知らないか
ということでございまして

これまでも何度か経験してきた
ものすごくつらい瞬間を
再び経験しました


タローさんでした

教会のとなりの橋の下で
8年前に生活をはじめ
5年前にアパートつきの仕事に就いて
新しい生活をするものの
その仕事場が警察沙汰になりつぶれ
その後
同種の仕事をしつつ
しかし部屋は持たない状態となり
歯を食いしばって生きているところでした

読み書きができず
自分の名前もよくわからないということで
同じ橋で生活する仲間が
タローちゃん
と呼ぶようになったわけですが

タローさんは
しかしそこで
おそらくはじめて
自分のことを覚えてくれて心配してくれる仲間と出会ったのでしょう

そのことをいつも感謝していました

でも
ぼくらはタローさんを看取ることができませんでした

彼と病院へ行くこともできませんでした

この苦しさと悲しさと寂しさと
心臓の鼓動が平常にならないという状況からか

わたしは

大人のみなさんにも数分のおはなしをしました

意地でもホームをつくってくれ!!

というはなしです


そしてわたしは明確に宣言します

魂の奥底まで行き届くホームは
それはすなわち
他者とのはざ間の隅々までに行き届くホームは

今年も生まれる

主イエス・キリストです

わたしたちはこのキリストの身体としてのホームであり
キリストの愛を受けて
キリストのとりなしを受けて
キリストのゆるしを受けて
そして
ホームとしての責任を受けて
他者へ向かう責任を受けて
他者を愛する責任を受けて

平均80年を生きます


ただこれも明確に告白するしかないのですが

日本において
身近なところに
当教会も含めて
このホームになることを
覚悟を決めて決断して選択している教会が

つまり
キリストの身体としてのホーム
である教会が

きっと
教会の外側から見たほうが
客観的によくわかることだと思いますが

なかなかないことは

牧師として
キリスト者として

心から反省するしかなく

しかし

昨日当教会に集まってくださった
おひとりおひとりのためにも

教会が
本当に
キリストの教会となるよう
キリストの身体なるホームとなるよう

全身全霊を傾けていきたいと思います


タローさん
本当にごめんなさい

キリストよ
タローさんをお願いします



「変」

2008年12月14日 | 教会のこと
いよいよ次の日曜日
21日はクリスマス礼拝!
10:30am~

今週の京都教会週報巻頭言です!

******************

「変」

おとといの金曜日に、
清水寺の森清範貫主は、
毎年恒例の「今年を象徴する一字」を、
大きな紙に大きな筆で書きました。

今年は「変」が選ばれました。

余談ですが、
私はこれまで森貫主がその一字を選んでいると思っていました。
しかし実は市民の投票で決定していることをはじめて知り、ちょっとがっかりしました。
優れた宗教家が選ぶのでないとなると、
どの書家が書いても一緒だなあと、勝手につぶやいてもしまったわけです。

が、しかし例年にように、
今年もこの一字を、私なりに捉えたいと思います。

メディアでは、
首相が変わったこと、
金融危機で世界が変わったこと、
また、よりよい世界に変わってほしいという願望などが、
この字の選ばれた理由として語られていました。
どれも納得です。

しかし私は、
この漢字をそのまま「へん」と読むことが、
今年の様々な出来事に共通していることなのではないか、
と考えます。

つまり変な世界で変なことが起こっている!と、
市民は、
意識として持たなくとも、
感じてはいるのだろうと想像します。

そして
その「変な」感じとは、こういうものではないでしょうか。

ギャンブルのような経済で勝ち負けが決まる世界で、
その延長上の現在の戦争で勝ち負けが決まる世界で、
正義が顔を出すことがないという「変」さ。

一度ギャンブル社会で不運にも負けると、
正社員になれず、
年金ももらえず、
教育格差の中で負け組家庭の子はその後ずっと負け続けるという中で、
人の情愛は、思いやりは、優しさは、心と身体が温かくなる交わりは、
いったいどこに行ってしまったのか、
と言いたくなる「変」さ。

運よく勝っているけれども、
仕事以外に使う時間はなくなり、
金はあるけど心も身体もぼろぼろになる世界で、
精神は、魂は、本当の意味でのホームは、
いったいどこへ消えてしまったのか、
と言うしかない「変」さ。

クリスマスは、
「変な」世界が
愛、正義、平和、平安の世界へと「変わる」出来事です。

さらに
主イエスが、
私たちの常識というフィルターを通して見るなら
あまりに「変な」仕方で、
生まれてくれる時です。

さらにさらに
その主イエスは、
私たちのあらゆる悲痛を一緒に担いつづけるところの
あまりにあまりに「変な」お方として
私たちひとりひとりと
ずっと共に歩んでくれるいう
あまりに「変」すぎて信じられないけれども、
本当だったらそれ以上なく嬉しいところの
決定的な約束が結ばれる時です。

さて
いよいよ本日午後は子どもクリスマス。

遠慮なくその主イエスと出会いましょう。


クリスマスと依存

2008年12月11日 | 教会のこと
クリスマスって何なの?
ということを
昨晩の祈祷会で
わいわいと分かち合いました

とても有意義でした

その1

クリスマスは贈るということ
世の中が贈る循環となる希望をいただくこと
逆に言うと
奪うこと、消費することの循環の終わりを期待すること

それは
キリストを贈られることから始まること

子どもたちは
贈るというより
プレゼントをもらう
こととしてクリスマスを知るけれども

それは
自分が贈られるという経験を受けること

子どものもっとも大きな役割は
大人から愛を贈られること

大人は
神から愛が贈られることを
子どものときの経験からも
身体的に知ること

さまざまな依存症があり
多くの人が戦っているが
実は
この消費社会は
依存症を生産する社会であること

依存症の中で
死に向かうものもあれば
社会で賞賛されるものもあること

スポーツや芸術
経営などは
賞賛される依存症を伴って成立する時代となっていること

依存症は
なにしろ手に入れることによるものであること
それに縛られていること


その2

キリストの誕生を待つということは我慢とは違うこと
世界を変える大きな希望ゆえに
いくらでも生き生きと待てるということ

それがアドベントということ


といった具合でした


わたしは
自分の依存性について
すでに天に召された
アルコール依存症とたたかっていた教会のメンバーとの対話の中で
見つけていた時期がありまして

そこで見つけたことは
今もそのとおりだと思うのですが

わたしは
妻依存症であり
活字依存症であり
音楽鑑賞依存症だ
と自分では認識しています


つまり
わたしは妻がいない生活を想像できないし
本や音楽のない生活が想像できないということです

子どものいない生活は
想像できます
家のない生活も想像できます

なのに妻と本と音楽が想像できないのは
ほんとに病なのだと思います

妻と本とCDは手に入れ続けていないと駄目
というのはおかしいわけです

反省です



クリスマスは
そういう
手に入れること
から
贈ること
への大転換であって

それは
半ば言いすぎだけれども
キリスト依存症
を患うことで
他の依存症から解放される
ということでもあろうと思います

それが人間の限界かなあと・・・

バルトさんは
人間の限界としてキリスト中心主義でもって
生きるしかないけど
究極的には
キリスト中心主義という主義からも
解放されることを望む

なんて趣旨のことを書いておりますが


そんなんだろうなあと
あらためて思ったわけです


というわけで
いよいよクリスマス

たまらなく楽しみです



贈る

2008年12月08日 | 教会のこと
今週の京都教会週報巻頭言です。

********************

「贈る」

まだご存命なんだ・・・
と感動しました。

現在世界中に最も大きな影響を与えている思想家
レヴィ=ストロースが
百歳を迎えたという新聞記事がありました。
失礼ながら私はその偉大さからか、
もう召されていると勝手に思い込んでいました。

彼は人類学者としていわゆる未開の地で観察研究を重ね、
人間社会の中心法則を発見します。

それは、
人間社会は「贈る」行為により成立する、
という法則です。

逆に言うと、
贈られること、奪うこと、集めることでは滅びる
という法則です。

さらに、
誰かに贈ったらそのお返しが贈られるというやり取りも、
人間社会を成立させない
と語ります。

そうではなく、
私たちは誰かから何かを贈られたら、今度は別の誰かに何かを贈る、
という循環を生き、
これが、人間社会が成立する中心法則!
と語るのです。

でもなぜそれが中心なんでしょう。
私は、
人間にとっては贈ることが最も幸せなことだからだ
と思います。
うすうす世界中のみんなが気づいていることだと思いますが・・・

彼が現れるまで、
世界は実存主義という考えを奨励しました。
しかし彼の考えがそれを突破し、
その後構造主義と呼ばれ、
世界の考えを変えました。

しかし
私は度々言うように、
それは人間中心から人間外中心、
信仰者として言うと神中心への移行であり、
今は
信仰界だけでなく思想界も
神を匿名で語るようになった
と考えています。

そして、神中心の世界では、
人間は「贈る」ことで成立するわけです。

これは聖書の倫理であると同時に、
繰り返しますが、
最先端の合理的根拠を持つ事柄です。

すると、
最初に贈るのは誰?という問いが
当然ながら発生します。

そこでキリスト者はお腹の底から言うことができます。
まず神様がキリストを私たちに贈ってくださった!と。

そう!これがクリスマスです。

そして、
キリストを贈られた私たちは、
別の他者に、
キリストを!愛を!教会を!プレゼントを!
贈ります。

それは地域のみなさんに、
来週の子どもクリスマスを贈ることでありましょうし、
また、再来週のクリスマス礼拝を贈ることでありましょうし、
さらに、本日それらの案内チラシを贈ることでもありましょう。

キリストを贈っていただき
さらにキリストを贈るという
幸せな幸せなクリスマスは
もうすぐです!!


儀式と身体

2008年12月06日 | 教会のこと
昨日は
関西の各教派の代表者が集まる会議に出席
1月から関西地方連合の会長になるので
招かれたというわけですが

まずは会場の玉造カトリック教会にびっくり

でかい
きれい
それでもって
やさしい

でかいと
なんともいやらしい
という会堂に数多く出会う中で

歴史を重ねた凄みを
今回も経験

会議後の食事会で

儀式についていろいろと分かち合いました

カトリックや聖公会という儀式を大切にする教会から
教派のスタンダードに反して儀式を取り入れている教会もあり

そのなかで
儀式に相当に消極的というか
否定をもしてきているバプテストの牧師として

いろいろと考えていることを聞いてみたかったわけです

また日本基督教団の
知る人ぞ知る聖餐問題もあったし
カトリックは長崎ではじめて列福式をされたし

儀式
さらにはサクラメントということは
今いろいろと考えないとならないなあ
と思っているところです


面白いことに
儀式ということで
カトリックや聖公会の方々が言うことは
身体性でありました

言葉でなく
身体で事柄を受けるということの大切さを伺いました

とくに
病やしょうがいなどで
言葉でコミュニケーションができない人たちにとって
身体で経験することが
どれだけ豊かな出来事となるか

ということについて

このテーマを相当丁寧に
儀式を大切にする教派では議論をしているんだなあ
ということがうかがい知れるほどの
深い話を聞くことができました

わたしはこの間
原理的な言葉が飛び交うことに
ほとほと疲れているので

またそういう言葉は信用に値しない場合が多いことを
知るに至っているので

儀式の身体性は
とても興味深く聞くことができました

たしかに
身体による経験は

人間存在の深いところに根付き
その人の人間性を決定付ける力を持っています

だから

たとえば
軍隊が人を殺す訓練をするときは
まさに儀式的な訓練をすることで
身体性において人が軍人となることを目指します

この国のラジオ体操もまた
軍人育成のための
基礎的身体訓練として
身体性から人間を変化させることを目指したものであることは
すでによく知られていることです

そういう意味では
キリスト教会の儀式が
そのような
身体性を駆使して
都合よく人間をつくってきた
という歴史があったことは忘れてはならないし

だからこそ
バプテストのような教派も生まれたわけですが

この身体を持つしかないというのが人間であり
だからこそ
身体性の吟味こそが
豊かにされねばならないのだろう
と思いました

それは
儀式の中身の吟味が大切であり
儀式否定に走ることではないのだろうなあ

考えているところです

とまあ

そんな楽しい夕食会を終えて
家に10時半ごろ到着しましたら

息子たちは金曜日ということで起きておりまして
長さ20cmほどのキャンディを持ってきまして

Hちゃんが修学旅行のおみやげで買ってきてくれた!
と嬉しそうに報告してくれました

近所のお姉ちゃんが
修学旅行先で
ウチの4人の息子を思い出してくれたという事実に
目頭が熱くなりました

Hちゃん
ありがとう!!

さて
わたしはもうしばらく机にへばりつかねばなりませんが

寒い夜になりそうなので
みなさまは
風邪などひかぬよう
ご注意いだたきつつ
睡眠もたくさんとっていただき

明日
礼拝でお会いいたしましょう

アドベント

主の誕生を待ち望む
最も希望に満ちたとき

すなおにこの出来事を
神さまから頂戴したく願います



路上と世界とクリスマス

2008年12月04日 | 教会のこと
今週の京都教会週報巻頭言です。

********************

「路上と世界とクリスマス」

明日はホームレス支援機構・寄り添いネットによる
「みんなで寒い冬を一緒に乗り切ろう!!焼肉大会!!」です。
(これは1日に無事終了しました)
支援活動により、この間半減したホームレスは
金融危機で再び急増しています。
これは報道以上に、解雇がすすんでいるということだと思います。

そしてこれは他人事ではなく、
このような貧困層の拡大が地球規模ですすむ今、
キリスト教会が覚え祈り
先立つ主イエスと共に活動すべきことと思います。

さて、
ホームレスは、怠け者だからそうなった!
という言説は今も聞かれます。
それは極端な論を通り越した
大きな誤りです。
が、しかし
本日はそれを甘んじて受けるところから考えます。

すると
地球規模の貧困層拡大は、
極端な論でいうならば、
地球みんなが怠け者だから!となります。

そこで、本日は、
地球のみんなは、ならば何に怠けているのか
を考えてみましょう。

スイスで生活する有名な実践神学者のボーレンが、
著書(説教集)『喜びへの道』で強く述べます。
「キリスト教会の衰退は、
信徒たちが労わりと配慮とをもって
互いに仕え合い与え合うことを怠っていることに原因がある!」。

さらに怠惰とは、
「私たちが自分の行為しか眼中になく、
そのことゆえに自ら滅びに向かっている」
ことと述べます。

そして怠惰なキリスト者ゆえに、
地球各地の混乱のために
とりなしの祈りしかできない!
とも言います。

私たちは今週、世界祈祷週間として、世界全体のために祈ります。
そこで私たちが祈りへ導かれる時、
怠惰な信仰生活を送る自らの発見へと同時に導かれるなら、
それは恵みです。

そして、今一度
傷だらけのキリストの顔を見つつ、
彼と共に、他者のために、祈り行動することで、
自らも成立する道を、
つまり信仰と愛の道を、
労わりと配慮をもって仕えあい与え合う道を
選ぶことが、
十字架の赦しゆえに与えられます。

ボーレンが怠惰ゆえにとりなしの祈りしかできないと言う背景には、
ユダヤ人が虐殺されるなかで
彼らを覚えて
真剣に祈りはしたけど
しかし勇気ある行動をとることができず、
黙して見過ごした
というものがあるのだと想像します。

私たちは正直なところ
そこまでの歴史を抱えつつ、
信仰の怠惰性を知ることができないのだと思います。

しかし、それ以前の、
とりなしの祈りを怠けている
という怠惰性の発見から
信仰の交わりが生かされることを知るという
大きな恵みに出会うことは起こるだろうと思います。

せめて、世界のために、
派遣する宣教師とその交わりのために、
とりなしの祈りをしてまいりましょう。

さらに本日からアドベントです。
今年は地域新聞「リビング京都」に
当教会のクリスマス案内が記事として(広告ではなく)掲載されました。
北区、左京区、上京区、中京区、下京区、東山区、南区の全戸に配布されています。
私たちは地域全員の喜びのため、
仕え与える奉仕をキリストと共にします。
怠け者としてではなく、キリストの救いの協働者として歩むことができます。

さらにホームレスとは、
世界のみんなが他者への愛に怠けたからこその出来事です。
こちらも、キリストと共に
愛に懸命になる者とされることからはじめることができます。

アドベントの最初の週であり、
世界祈祷週間である今週は、

ボーレンのように信仰を省みることができたらと願います。


そっち行ってあげよか?

2008年12月03日 | 「生きる」こと
昨日と一昨日のことを。

昨日は朝から日が暮れるまで
一日中
火と向かい合っておりました

剪定した
いちょう、もみじ、えのき、つばき、きんもくせい
の枝を
庭の隅っこで大量に乾かしておりましたが

風のない日だったので
全部燃やしました

火もうまいことずっと状態がよかったので
直径20cmの枝も
きれいに細かい炭になりました

一坪ほどのスペースに
150cmほど山積みになっていた枝が
ポリバケツいっぱい弱の細かい炭になりました

燃やしている最中に
息子の通う保育園の仲間たちが
お散歩でやってきました

れんれんのおとうさーん
と声を掛けてくれまして

これはこれはうれしいもんです

れんれんのおとーさんなにしてるん?

って聞いてくれたから

これでことちゃん焼いて食べようかなあ

と言ってしまったら

子どもたちの表情が固まってしまいまして
先生が
おいもを焼くんだよー
ってフォローしてくれましたが

こういうどぎついのは
東京の笑いなんだなあ

再確認して
反省しました


おいもを実際に焼いていたのですが
それを忘れてしまいまして
気が付いたら炭になっておりました

また子どもたちはさらに

ひとりぼっちなのー?

って聞いてくれたので

そうなんよ
さみしいねん

って言ったら

じゃあそっち行ってあげよか

って言ってくれるもんだから
なんだか
ものすごくうれしくなって
体が活き活きしてくるのを感じることさえできました

お散歩の帰りにもういっかい通ってくれたときも

れんれんのおとーさんがんばってねえ!
って
子どもたちがひとりひとり
わたしの目が見えるところまで近づいてくれて
言ってくれるもんだから

ほんとにがんばって
全部燃やしきることができました

感謝感謝


一昨日は
ホームレス支援の焼肉大会でした
気候がよかったこともありますが
人数で言うなら昨年の5割増の120名

新しい顔もたくさんおられまして

この金融危機で
職と宿を同時に失った人がたくさんいることを
具体的に知らされました

肉は
お店の方の協力で
おそろしいほど安くしてもらっています

感謝感謝


医者に看護士に福祉士にケースワーカーさんたちが
支援に協力してくれるので
高齢者や病気の方のケアに関しては
十分にはいまだやれずとも
どうにでもなるようにはなってきましたが

若い人への具体的ケアが
次の策として必要であることを痛感しております

入院されている方々は
すこしづつ回復し
希望も見出してくれて
ホッとしております


ホームレス支援に関しては
プロが誕生してきたと思っています

プロ性については
また別の機会に書いてみようかなあと思います

というのは
朝の連ドラの「だんだん」で
この間
プロ性についていろいろ語られているけど
それがイマイチいい加減だなあ
と思っているので

そのあたりをそれなりに整理したい

思っているところです


あと
教会の青年から
とっても嬉しいお手紙をいただきまして・・・
それはわたしが10年間
教会の課題として取り組みつつ
しかし
多くの協力は得られていなかった事柄を
鋭いセンスとあふれる愛でとらえてくれて
その課題に取り組みたいというもので

感動して
感謝するしかなくて
踊りたいくらいうれしくなっております

でも
まだお返事を書くことができていないので
明日の朝一で書きたいと思います



我が家は
れんれんの水疱瘡が
ことちゃんにも伝染りまして

クリスマス前のうまいタイミングに
発症してくれて
なにより
というところでもございます

というわけで

本日は
わたしも早めに寝たいと思います

ではみなさま
おやすみなさい