今週の週報巻頭言です。
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「今年最後も『チーム・キリスト』」
2008年も最後の礼拝となりました。
それぞれ振り返りつつ、いろんな物語を再生していることと思います。
召天、誕生、結婚をはじめ、教会家族でもいろいろありました。
すべて主のみ手に守られ、感謝するばかりです。
さて、この教会家族というテーマは、
この間当教会が一貫して持つ中心テーマです。
血縁でも国籍でも性別でも
似た経済状況でも価値観でもなく、
ただキリストにより家族とされるのが、
教会という共同体であることを分かち合ってきました。
それは同時に、
当教会の言説のほとんどであった「神と個人との関係」に加え、
実は聖書は「個人と個人とを結ぶ神という関係」を
より語っていることを確認することであり、
また他者との関係の希薄さゆえに、「責任」が語られなかったところに、
他者と出会うゆえに「責任」が神より与えられることを、
聖書から知ることでありました。
さらにそれは、第一の他者が神であることを知ることでもありました。
キリスト教の言葉でいうならば、
創造の神のみでなく、
十字架と復活と終末の神を受肉するという出来事にも
丁寧に与りたく願っているわけです。
しかしなぜ
個や自分を語るのと同じだけ、
交わりや他者を語ることがむずかしいのでしょうか。
モルトマンという現代を代表する神学者が
ヨーロッパのエキュメニカルな会議で発言した次の言葉が、うまく言い表していると思います。
「他者の圧迫からの自由という意味での独立は、正義の要求である。
しかし、
人間のコミュニティ(交わり)からの孤立という意味での独立は、
可能ではなく、また正義でもない。
私たちは、交わりの中で互いに他者を必要としている」。
私たちは自由と孤立とを感覚的にごちゃまぜにしてしまうようです。
心理学者のエーリッヒフロムなら、
人間は孤立に走るほうが楽なのでそうするけれども、
それは実は自由からの逃走なのだ、と言うことでしょう。
つまり私たちは、楽さと自由をつなげ、しんどさと不自由をつなげる感覚を持つようです。
だから楽な孤立と、しんどい交わりゆえの自由がぐちゃぐちゃになって
楽な自由となってしまうけれども、
でもその瞬間にすべては台無しになっていることを知るのは容易ではないのです。
しかし、とかく独立(自立)を大切にするバプテストは、
自由と孤立を混同してはなりません。
自由は交わりゆえにあり、
交わりに生きる責任、他者と出会う責任抜きには、
自由がないことを、もう一度確認せねばなりません。
私たちみんなは、
キリストの復活と十字架とを頂くゆえに、他者と出会い、交わりを受けるし、
キリストの復活と十字架とを頂くゆえに、自由を得ます。
ポイントは十字架です。
私たちの感覚として持つ「楽さ」ゆえに十字架を放り投げてはなりません。
そして十字架は具体的なキリスト者の交わりでこそ発見されます。
というわけで、
今年後半から何度も登場する「チーム・キリスト」は、
十字架を内包する交わりであり、
ゆえに実は最も自由な時空を持つわけです。
来年も「チーム・キリスト」をご一緒に歩みましょう。
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「今年最後も『チーム・キリスト』」
2008年も最後の礼拝となりました。
それぞれ振り返りつつ、いろんな物語を再生していることと思います。
召天、誕生、結婚をはじめ、教会家族でもいろいろありました。
すべて主のみ手に守られ、感謝するばかりです。
さて、この教会家族というテーマは、
この間当教会が一貫して持つ中心テーマです。
血縁でも国籍でも性別でも
似た経済状況でも価値観でもなく、
ただキリストにより家族とされるのが、
教会という共同体であることを分かち合ってきました。
それは同時に、
当教会の言説のほとんどであった「神と個人との関係」に加え、
実は聖書は「個人と個人とを結ぶ神という関係」を
より語っていることを確認することであり、
また他者との関係の希薄さゆえに、「責任」が語られなかったところに、
他者と出会うゆえに「責任」が神より与えられることを、
聖書から知ることでありました。
さらにそれは、第一の他者が神であることを知ることでもありました。
キリスト教の言葉でいうならば、
創造の神のみでなく、
十字架と復活と終末の神を受肉するという出来事にも
丁寧に与りたく願っているわけです。
しかしなぜ
個や自分を語るのと同じだけ、
交わりや他者を語ることがむずかしいのでしょうか。
モルトマンという現代を代表する神学者が
ヨーロッパのエキュメニカルな会議で発言した次の言葉が、うまく言い表していると思います。
「他者の圧迫からの自由という意味での独立は、正義の要求である。
しかし、
人間のコミュニティ(交わり)からの孤立という意味での独立は、
可能ではなく、また正義でもない。
私たちは、交わりの中で互いに他者を必要としている」。
私たちは自由と孤立とを感覚的にごちゃまぜにしてしまうようです。
心理学者のエーリッヒフロムなら、
人間は孤立に走るほうが楽なのでそうするけれども、
それは実は自由からの逃走なのだ、と言うことでしょう。
つまり私たちは、楽さと自由をつなげ、しんどさと不自由をつなげる感覚を持つようです。
だから楽な孤立と、しんどい交わりゆえの自由がぐちゃぐちゃになって
楽な自由となってしまうけれども、
でもその瞬間にすべては台無しになっていることを知るのは容易ではないのです。
しかし、とかく独立(自立)を大切にするバプテストは、
自由と孤立を混同してはなりません。
自由は交わりゆえにあり、
交わりに生きる責任、他者と出会う責任抜きには、
自由がないことを、もう一度確認せねばなりません。
私たちみんなは、
キリストの復活と十字架とを頂くゆえに、他者と出会い、交わりを受けるし、
キリストの復活と十字架とを頂くゆえに、自由を得ます。
ポイントは十字架です。
私たちの感覚として持つ「楽さ」ゆえに十字架を放り投げてはなりません。
そして十字架は具体的なキリスト者の交わりでこそ発見されます。
というわけで、
今年後半から何度も登場する「チーム・キリスト」は、
十字架を内包する交わりであり、
ゆえに実は最も自由な時空を持つわけです。
来年も「チーム・キリスト」をご一緒に歩みましょう。