きぼう屋

生きているから生きている

覚える

2007年02月25日 | 教会のこと
2月25日の京都教会週報巻頭言です。

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荒神口から南に河原町通りを歩く。
通り沿いの店が年々どんどん変わる。
新しい店を見ながら、そこに以前何があったか思い出そうとする。
けれども思い出せない。

日常見てきた風景でも、
人は相当に意識しないと、
覚えることができないことを痛感する。

となると、
過去が忘れられていくのもいたくわかる。
とりわけ自分に苦痛をもたらす過去を、
人は意識しない故に覚えないどころか、
意識して忘れることも、
半ば本能的にできてしまう。

しかし忘れることは「過去」のみではない。
私たちはそれを「歴史」を忘れるとも言う。
そう、歴史。
つまり、過去のみならず、
過去を知るからこそ覚え期待できる将来をも
忘れるということだ。
過去を忘れると将来も忘れる。

そうなると、
自分に都合のいい将来像を
偶像として持つのがせいぜいとなる。

本日は定期総会。
それは今年度と来年度、
そしてさらには教会の歴史全体を「覚える」時。
だから私たちは意識して「覚える」。

共にいる主イエスを「覚える」。
共にいる隣人を「覚える」。
主と隣人との間に起こされた神の出来事を「覚える」。
生命、苦痛・困窮、信仰、希望、愛を「覚える」。
その場面を丁寧に意識して「覚える」。

覚え祈る。

たとえばスポーツではイメージトレーニングが重要だ。
競技の動きのひとつひとつをイメージする。
それが実際の動きを形成していく。

私たちの生きるすべてもそうだ。
歴史の動きのひとつひとつをイメージし、歴史を歩む。

それは生きる方法とするならこういうことだ。
目的を設定し、
それに向かって功利的合理的に
なすべき動きを選択し
無駄な動きは排除するという
現代社会の奨励する方法ではなく

その中で無駄とされる動きのひとつひとつ
見過ごされる
いや、見捨てられる
生命のひとつひとつを
丁寧にイメージし、歴史を歩むということ。

さらに言うなら
そのイメージは
自らで描くことができるものではなく
キリストによりキリストを通して
あの十字架を通して
十字架に集められた
見過ごされ見捨てられた生命、動きを通して
与えられる。


私たちが自らの都合で
イメージすべき歴史を取捨選択する面倒はやめて、
ただただ主イエスと共に、
主の下さる全歴史を、
丁寧にイメージしたい。

繰り返すが
主イエスの十字架を
繰り返し丁寧にいただき覚えるところに
主の平和な「歴史」がある。

 主よ、
主が総会を
主の「歴史」として創り、用いてください。
アーメン。


歴史を発見すること

2007年02月21日 | 「生きる」こと
以前の記事の中で
教会週報巻頭言をそのまま紹介しているもので
バプテストの特徴を個人主義や民主主義とするのはちょっとなあ
ということを書いて
なぜ?
と聞いてくださった方がおられました。

バプテスト誕生期のこの人はこう言っている
あの人はこう言っている

という具体的な言葉と一緒に。

私もバプテストの牧師なので、よく知っている言葉でもありました。
神と個人の魂にこだわったところの言葉や
民主制にこだわった言葉などでした。

なるほどたしかにそういう言葉を発見すると
そうなのだ!
といいたくなるけれども
でもちょっとまってみて、
その言葉が出てくる時代背景はどうだったのか
その時代、歴史家や思想家や他の宗教家は何を言っていたのか
なんてところと対話させながらすると

さらには
これはきわめて困難だけどせねばならないことで・・・
当時の言葉が残っていない人たちの言葉をどうやって聞いていくか
という地点で、有名なバプテストの先輩の言葉も聞いていくという・・・

そして実はこういうところは

ここ
という時代で、
わたしが
どれだけ隣人たちの言葉を聞くことが出来ているか
というところからくる追体験力にかかっているようなところもあり・・・

そういうのを総合的に聞いていくところから
実は歴史を発見できるという

歴史というのは
あらゆる学問の集大成というところのものであるからして・・・

すると
私はやっぱり

簡単に特徴というのはこわいなあ
それはそういう原理がほしいというのが先にないかなあ
と思うわけです。

歴史発見は
今の
隣人との関係性
それも
虐げられている人たちとの具体的関係性から
起こされる!


このことは
きわめて大切

不思議と
壮大な世界史を学ぶときに

ホームレスの仲間の言葉から見えるものがあるというか
多いのですなあ。

まあ
こういうことは
デリダやアドルノや
そればかりでなく
きっとぼくの読んだことのない色んな人が言っていることで・・・
そのコピーでしかないのですが・・・

ぜんぜん文章として成立していない本日の思いなのでした。
おしまい。


優しさ

2007年02月18日 | 教会のこと
2月18日の京都教会週報巻頭言です。

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主イエスは優しい。
本物の優しさで私たちに接する。
主イエスの優しさを本物というのは、偽物の優しさもあるから。

その本物の優しさは、徴税人ザアカイにも注がれた。
いつの時代にも社会システムがあり、それはきわめて不平等だ。
そしてどの社会システムにも権威が生じる
その権威を利用して自分の益を求めたのがザアカイ。

なるほど、私たちも日々の報道情報の中に同じものを見る。
もっと言うと、自分自身の中に、ザアカイと同じものがあることに気がつく。
気がつかねばならない。

そしてイエスはこういう私たちに本物の優しさを注ぐ。
その優しさは必ず結果を見せる。
それは私たちが変わるという結果だ。
ザアカイが変わったように。

金持ちの青年にも主イエスは優しさを注がれた。
青年は、困窮にある隣人を助ける必要をよく知り、そう生きていると思っていたが、
しかし主イエスによって、
自分の取り分と安全を確保し、あまった分でのみ隣人とかかわるという
本質を見抜かれた。
そしてショックを受けて主イエスから離れた。

私たちはザアカイ以上にこの金持ち青年に自分の本質も見るだろう。
それが現代日本社会で生きる者の正直な告白だろう。

そしてこの青年も主イエスの本物の優しさを受けて変わった。
確かに青年にはザアカイのような、人にわかりやすい劇的な変化はなかった。
しかし彼は明らかに自分が変わらねばならないことを体に刻み込んだ。

本物の優しさは私たちを変える。

しかし巷にあふれる優しさは、逆に「変らなくてもいい」という安堵感を与える。
だから気分を一時良くする程度で終わる。
しかもこの術はもてはやされる。
この術を持つ者は尊敬もされる。

これが偽物の優しさだろう。
偽物の優しさのとりこになっている私が、あなたが、社会が、そして教会がいる・・・

しかし!主イエスの本物の優しさは
一時の気分の問題ではない!
我々を深くさらに深くえぐり、我々を変える!

正直に言うしかないが、私は本物のあの優しさをいまだ持ち得ていない。

しかし私は確かにあの優しさに出会って自分が変わる経験をしてきている。
そしてそれは優しさを注いでくれる人の深い痛みからあふれてきた。

それは深い困窮にあるホームレスを強いられた人の優しさであり、
一日500円で生きるしかない高齢者の優しさであり、
貧しさなどの困窮をかかえる家庭で生きる子どもの優しさだった。

彼らから優しさを注がれた時、そこには必ず涙があった。
そこには十字架が立っていた。

そうだ!イエスの優しさは十字架だ。

わたしは本物の優しさを受けてなお変わるか。
あなたは本物の優しさを受けてなお変わるか。

それとも・・・

主よ!
私たちに本物の優しさを注いでください!
私たちを本物の優しさを注げる者にしてください!
本物の優しさあふれる現場に立たせてください!

2007年02月16日 | ホームレス支援のこと
ホームレス支援炊き出しから帰宅。
本日は市役所前での炊き出し。
なんと牛丼。
スタッフが日本酒が切れていたから焼酎でつくってくれたとのこと。
これが功を奏して
キレのあるなんともさっぱりしたうまさ。

今日もいろんな人と話すことができた。

息子が今月二十歳になった・・・

うれしそうに話すおじさん。
家族を忘れることはないのだ。

今日は次男のともくんの体験入学。
4月から小学生。
そしてその準備としての日。
どちらかというと、必需品を買う日でもある。

両手に学校道具を抱えてすごくいい顔で帰ってきた。

妻が学校で長男の友人のおかあさんからこんなことを聞いてきた。

とある放課後、その友人をはじめ、同級生や上級生と校庭で
いわゆる残り遊びをしていたときのこと。
ドッチボールをしたそうだ。
別の友人がその友人に、チーム分けのためのグーパーで
「パーを出して」
と言ったもんだから
素直にパーを出したら
別の友人はグーを出したとのこと。
そして長男のそらくんにはグーを出すように言っていたようで
そらくんと同じチームになってはしゃいでいたようだ。

そして友人はあたまにきて
「やーめた」と校庭のすみっこで一人で遊んだとのこと。

そしてしばらくすると
「おれもやーめた」

そらくんがやってきて
「いっしょにキャッチボールしようぜ」
と言ったそうだ。

それがうれしかったらしくて
家に帰って家族に何度も言ったとのこと。

さらにすごいのは
「俺は同じようにできるかなあ」
と言っているそうで・・・

そらは言葉を話し始めたときからこういう優しさを持っていたなあ
と思いつつ
わが子のことで感動するわたし。
ああ
涙が・・・

昨日は保育園にいく息子たちがバレンタインでもらったチョコなどを持って帰ってきた。
昨日もらったものに、一昨日もらって忘れてきたもの。

みんなでいい顔して食べてました。

うーちゃんがお母さんと作ったという手作りのブラウニーをくれて
息子たちに分だけでなくて
妻と私の分もあって

食べた。

体中の血管が喜んだ。
めちゃうまい。
しあわせ。

商売できるやん。

でも
なんとも愛情をいただける味で
本当に愛情が注がれているのだと思った。

ありがたい。
感謝感謝。

れんくんが
「うーちゃんうーちゃん」
言いながら食べている。
それはそれはうれしいことでしょう。

そういえば
今晩の妻の作ってくれた筑前煮は
びっくりするくらいうまかった。

彼女はどちらかというと
伝統的な男女観でいうと
男的で、
家事などは苦手なんだけど
しかし気づけばいつの間にか料理は上手くなっている。

洗濯掃除整理整頓は・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・

わたしがやればいいのだ。
はい。

妻は、妻を必要とする人たちがたくさんいるので
そういう人たちに会うことに時間をつかってもらうのが一番。

なんとなくうまいことこうやって家がまわる。

ただいま探偵ナイトスクープを見ながら書いていますが
この番組はいい。
毎回どこかで泣いてしまう。

そういえば
炊き出しの準備をしながら
教会集会室のテレビから流れてきた
ジャガー横田の歩みを見て
涙してしまった。
壮絶な人生。

かつてはそういうのを見ても
きっと遠い世界のことだったのだろう。

いま
いろんな人に出会い
とりわけホームレスの仲間と出会い
彼らの壮絶な人生を見聞きし
ヒトゴトではなくなってきているようだ。

泣いてしまう・・・

という
昨日と今日でした。


呼び名 その2

2007年02月15日 | 「生きる」こと
れんくんが
我が家では
保育園のお姉ちゃんの

うーちゃん

の名を呼んでは機嫌がよくなるのですが

なんと
うーちゃん本人の前では
黙ってしまって
まったく
うーちゃん
とは呼ばないそうです

というか
呼べないようです

もう初恋かいな

だとしたら

なかなか見る眼(心)があるではないか

呼び名

2007年02月14日 | 「生きる」こと
すえっ子のれんくんは
パパ
ママ

お兄ちゃん3人の呼び名を言えるようになった。

そのそれぞれの呼び名に
おかえり
ありがと
をくっつけて思いを伝えてくれる

そしてもうひとり

保育園で一緒のお姉さんの

うーちゃん

を、はっきり発音する

うーちゃんと一緒にいるとくっついていくし
手をつなぎたがるし

れんくんはうーちゃんが大好きなようだ。

うーちゃんが保育園でれんくんにそのように接してくれていることがよくわかる
うれしい

ありがとう

あとひとつ
れんくんは
思いが伝わらないとき

おーいー

と怒りながら言う

これがそらくんと同じ言い方なのだ

やれやれ

信教の自由を守る日

2007年02月13日 | 教会のこと
2月11日の京都教会週報巻頭言です。

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本日は「信教の自由を守る日」です。

バプテストは、信教の自由を守るゆえに、イギリス国教会に抗った群れから始まった教派です。
これこそはバプテストの特徴です。
よく、バプテストの特徴として、個人主義や民主主義が語られますが、
それを特徴というのは、まゆつばものだと思います。
これは近代の特徴であって、その特徴が自分のセクトから生まれたというのは、
誰しも自然に言いたくなるようです。
しかし
信教の自由を守るという覚悟は
バプテストの最たる特徴であることは、
その歴史からよく知ることが出来ます。

住井すゑの作品「橋のない川」で、
天皇に爆弾を投げようとした人が逮捕された事件を受けて、
先生がその人をキチガイと生徒に教えた時、
被差別で生きる孝二がこう言います。
「神さま(天皇)というのは、
少しでもいやなことをされると、
そのいやなことをした者にばちをあてるのだ。
神さまを祀ったお宮が、
どこもきれいで立派なのは、
ばちがこわいからにきまっている。
天皇陛下の写真を、
誰も通らぬ廊下の向こうのご真影室に祀っておくのも、
写真の出し入れをする時、
校長先生が特別立派な洋服を着て、
真っ白い手袋をはめるのも、
やはり天皇のばちがこわいからだ」。

「ばち」という表現で住井が言いたいのは、
人々を恐怖で脅し権威を保つ神さまこそ、人を不幸にする人間による偽物!
ということではないでしょうか。
そして、そういう偽物を神とする世界が、
被差別の人々がそうされたように、
踏みにじってもいい「いのち」を必要とし、生み出すということではないでしょうか。

恐怖で脅して人々を動かすこと、
逆に、脅すほどの恐怖感のある存在を、神さまとする人の習性、
こういうもので常に動く世界に抗って、
「ばち」などの脅しが怖いから信じ従うのではなく、
それと関係なく、
端的に寄り添う方がいるから、その方を神と信じる!
というのが、バプテストのひとつの出発点です。

そしてココから「信教の自由」「政教分離」という精神が生まれました。

しかし昨今アメリカを中心に、
聖書の神も、地獄などの「ばち」を用意する恐怖の神として語られます。
これを原理主義と呼びます。
これに飛びついている中心は、残念ながらバプテストだったりもします。
なぜ?
それはバプテストの特徴を個人主義や民主主義としてしまい、
信教の自由のためのたたかいの歴史を覚えることを忘れたため、
まさに、個人の一方の顔であるわがままと、
民主性の一方の顔であるところのその時代の最たる力への迎合が、
こういう原理主義を招いているのでしょう。
そして、これは住井から教わる日本の天皇観と本質は同じようです。
そして、踏みにじられる人々が世界にも、
日本のココの隣にも、たくさん生み出されるのです。

この神観が人の信仰を不自由にします。
人格を、生命を不自由にします。
そして神を不自由にします。

だから本日は、こういう神観からの解放を覚えたいのです。

住井の言葉からすると、
きっと神は、立派な教会堂も服も求めないのでしょう。
むしろ日々寝起きし食事し風呂に入る普段の姿で神と一緒にいることを望む気がします。
と、言いつつ、立派な会堂で立派な服を着て礼拝する私がおり・・・
この時代のキリスト教の最も大きな潮流にこうやって流される弱い者のひとりでしかなく・・・

しかしどうでしょう。
こんなところから、解放された教会の姿をイメージ出来るのも本日なのかも知れません。


ヒトゴト?

2007年02月11日 | 「生きる」こと
おととい金曜日(9日)の昼
私は妻と教会の方を訪ねたあと
新京極と蛸薬師の角の「マツモトキヨシ」に行った。
ビタミン剤など、いろいろ必要なものがでてくる年齢になった。

で、店に入ったら
消防車のサイレンが聞こえてきた。
音が大きくなった。
まるでこっちにくるようだ。
と思ったら、
店の前で止まって
消防士が出てきて
放水準備を始めた。

目の前のゲームセンターから出火したようだ。
確かに二階部分から煙がでている。

一気に緊張した。
身近で火が出ている事実は私を動かそうとした。

またさらに
そのゲームセンターの隣もまたゲームセンターだが
そこは妻の友人の不動産だということも影響しただろう。

身体が消火活動を一緒にしようと動こうとする。
しかし
それは無理だ。

すぐさまやってきた警察官が叫ぶ
「移動してください」
「どいてください」

消防士が叫ぶ
「放水の邪魔になりますから」

京都の繁華街のど真ん中

しかし
この一大事に何かをせねばとあせる私の身体とは逆に
世界は動いていく。

笑い声
記念写真を撮る風景
通行整理する警察官にけんかを売る人

目の前で火事が起こっているとは思えない
その火事がまるでテレビの中のことのように
真隣の世界が動く。

びっくりするのは
隣のゲームセンターでは
少年たちが遊んでいたということ。

そこにも太いホースを持った消防士が走り入っているのに
その消防士を撮影している。

さいわい小火程度ですんだ。

しかし

なんとも悲しい世界を見た。

消防や警察などの専門家はかかわる。
しかし最も近くにいる人はかかわることができない。

人々はそこで傍観者となる。

そのとたんに目の前の出来事は
自分の生命とはつながらない
バーチャルなものに変わる。

これでは

遠いイラクのこと
いやいや
近いホームレスのこと

どれもこれも
ヒトゴトになるだろう。

なんとも悲しい世界を見た。


共に生きる!

2007年02月11日 | 「生きる」こと
昨日(10日)はこんなことをした。
「格差と貧困をなくそう!憲法25条を今に生かす集い」

3時間のプログラム
立命館大学の峰島先生をコメンテーターとしてお迎えし、
各現場を担う人たちが、それぞれの困窮を発表し分かち合った。

高齢者の実態
障害者の実態
学校の実態
ワーキングプアの実態
児童虐待の背景
介護保険の実態
国保料金の問題
医療現場の実態
福祉労働者の実態
生存権裁判原告の訴え
ホームレス生活の実態

わたしは司会をさせていただいたが
ひとつひとつの発言の重さに
胸震え目頭熱くなり
場を仕切ることがやっとできる状態となるしかなかった。

生存権は無視されている。
よくわかった。

新聞各紙も、宣伝をしてくれて
さらに様子を報道もしてくれた。
どの新聞記者も3時間ずっといてくれたのはありがたい(朝日、毎日、京都)

今、最も注目される取り組みだ。

今後さらに連帯を深めて
共に歩んでいく。

峰島先生の趣旨は明快だった。
「共に生きる!」

会が終わった後
互いにあいさつを交わし
名刺交換をする姿は感動すら覚えた。


スタート地点

2007年02月08日 | 平和のこと
朝日新聞が来年の最も大きなテーマに向けて取材を開始したという。
それは「戦争罪責」。

戦前、もう戦争が始まるというのがわかっている頃
私の祖父は朝日新聞の記者として、朝鮮半島にいた。

当時の重要な記事を相当書いていたらしい。
以前にも紹介したが、その記事のひとつは高校の教科書にも載った。

そして、そういう現場にいて今なお生きている人がいないらしい。

そして祖父のところに取材がきているとのことだ。

そのうち記者と一緒に朝鮮にも行くことになるらしい。
そのときには、四捨五入したら100歳になる祖父の付き添いとして
私も行きたいものだ。

今ならなんのしがらみもなく
当時の新聞社の行為、姿勢、倫理など
語ることができるだろう。
がんがん語って欲しい。

さらに当時朝鮮で起こって
記事にしたくても圧力の中で記事に出来なかったことも
がんがん語って欲しい。

歴史を取り戻して欲しい。

じいさんならやるだろう。

これで愛するじいさんは
まだまだ元気に生きてくれるだろう。

朝日新聞さん
わたしも朝鮮連れてって

自分で言うのもなんですが
戦争罪責がテーマなら
結構の役に立つかも知れません。

なにはともあれ
戦争罪責は
平和へのスタート地点

顔見て

2007年02月07日 | 「生きる」こと
第一子の空君のこと

「おやすみ」
「おやすみ」
「ちゃんと顔見ておやすみや」
「ごめんごめん」
で、
腰を上げて
顔を見て
「おやすみ」
「おやすみ」

「いってきまーす」
「いってらっしゃい」
「ちゃんと顔見て」
「ごめんごめん」
で、
手休めて
玄関に行って
顔を見て
「いってらっしゃい」
「いってきまーす」
でっかい声で
見えなくなる直前に
もう一度
「いってきまーす」

何かにつけ
顔を見てくれる空君の
センスに感謝。

キリスト者の自立 その2

2007年02月05日 | 教会のこと
2月4日の教会週報巻頭言

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バプテストは自立を大切にする。
だからその中身を深めたい。
今週も共に分かち合いたい。

先週のこの場所で、自立とは、依存する相手が誰かという事柄だと分かち合った。
我々は、国や家族、時代の雰囲気、金などではなく、キリストに依存したいと願った。

また、自立とは、何にも依存しない事柄でもないことも分かち合った。
何にも依存しないと言う場合は、実は自己や、何かの集団に依存していることも考えた。
そして自己や集団に閉じこもりがちになり、自己愛、愛国心と呼ばれるナルシズムを抱く。

しかしこれが今の世界の潮流だろう。
世界中の教会共同体にも見られる現象であるはずだ。
「自立」の捉え違いが生んだ結果と言えるかもしれない。

繰り返すが、自立とは、何にも依存しないことではなく、
キリストに依存することであり、
しかもあの十字架で消されようとするキリスト、キリストの言葉に依存することだ。

人は何にも依存しないで生きられる強さはまず持っていない。
そういう罪人でしかない事実は痛みつつ確認されねばならない。

トインビーは言う。
「ラウドネススピーカーの口からは、我々はかの『いとささやかに静かなる声』を聞くことはできない。
(中略)救いの言葉と行いとは、我々の全く思いがけない一角から現れるのかもしれない」。

この指摘は大切。
私たちが大きな声、大きな流れ、雰囲気、心理、欲求という言葉を聞き、それに依存してしまうから。

しかしキリストの言葉は、十字架で消される小さな声だ。
だから私たちは探す。
地域の中の小さな声を。
自分の中の隠された小さな声を。
その声の出所であるキリストの十字架を。

さらにその小さな声の小さな言葉が我々をそこへ従うよう決断させることに驚かされるだろう。
これがキリストの招きであり、
この決断が信仰と呼ばれるものなのだ。

我々は依存するしかない弱い存在だ。
しかし依存する相手がいと小さき声に現るキリストであるときのみ、
キリストが我々を立たせる。
これのみが自立。

「自立」より「キリスト立」と言うべきかもしれない。
すべての生命は自分で立つのではなくキリストで立つのだから。


夏目と聖書と戦争といと小さき個人

2007年02月04日 | 「生きる」こと
昨日(3日)京都に小森陽一氏(近代文学研究家・東大教授)が来ました。
彼の新著を記念する講演会です。

わたしは出版社から書評を依頼された関係で
講演会のあいさつをしました。

あいさつは5分の持ち時間。
「講演会に関するあいさつを自由に」という注文。
講演会とかけ離れたことをしゃべると思われてしまったようですが
その通りでした。

この5分でどうやって伝えたいことを伝えようか・・・
直前まで考えました。

「9条 ことばの力 平和の力」
という本で
樋口、夏目、宮澤、大江の小説の
歴史的背景から見えてくることばの力の本質と
9条の文言の力の本質が重なるという
そういう本なので

まずは
守ろう憲法と平和きょうとネットが
9条の会や小森さんと今後直接かかわる取り組みを紹介。
3.17の憲法セミナーと
5.3の憲法集会への参加を呼びかけ。

で、
小森さんの本の通奏低音を
神学的な言葉に翻訳して感想を述べるという
そんなことしてみました。

つまり
いと小さき者の声のなかに、我々が生きるに欠かせない力ある言葉がある・・・
といったような感じで・・・

小森さんの講演は面白かったです。
前半は講演で、
後半は演説でした。

ご自分の歴史を振り返りつつ語り始めました。
なるほど
少し装飾しすぎだなあ・・・
歴史を限定しすぎだなあ・・・
聖書のプロとして歴史批評を大切にする者としては思いつつ・・・

しかし、これくらいにしないと
自分史なんぞは語ることなんぞできないなあ
と思いました。

そういう点
信仰告白ってのは、
生々しい自分史を語ることが出来るという
やはり特別な場だなあとも思いました。

今回は夏目漱石の小説を解釈してくれました。
これが
聖書解釈とまず同じだなあと思いました。
また
小説が戦争の時代へのメッセージになっている点がだんだん明らかになってきたのも
聖書解釈と同じで・・・

つまり解釈学が発展したのだなあと再確認。
また、日々聖書解釈とたたかいつつ
時折夏目などを読むわたしは
当たり前のように夏目をそのように読んでおりまして・・・

実は聖書と向き合う作業の繰り返しは
信仰者の生活の繰り返しは
国語の専門家からはかなりお褒めいただける生き様なのだろうなあ
と、思ったりもしました。

この本
読まれよ
かなりよいですぞ。

で、

本当は講演会後、
小森さんと一緒に食事をする予定だったのですが、
聞きたいこといっぱいあったのですが、

一方で昨日は寄り添いネットのボランティアスタッフが
御所と鴨川をパトロールしてくれておりまして
で、ぐっと冷え込んだ京都ですから
体調の悪い仲間もおりまして
御所で寝起きしていた方がひどい高熱で病院に搬送されたという連絡が入り
一緒の食事はできませんでした。

が、
彼の講演趣旨からいうなら
まさにこういうホームレスのひとりのいのちとことばを
受け取り語ることが文学なわけですから

わたしは
講演で聞いたことを即実践したわけでもあって・・・

というか
聖書を読んでも漱石を読んでも
倫理は同じというわけで・・・

歴史といのちを突き詰めると
そこに行き着くのだろうと

そんなん思ったわけでした・・・

この二日ほど

2007年02月01日 | 「生きる」こと
寄り添いネットを通して自立されたOさんが訪ねてくださいました
「仕事も順調や」
以前と同じほがらかな顔
五臓六腑が一気に元気になるのを覚えるうれしさ
寄り添いネットへのカンパ金と
子どもたちへのおみやげも・・・
遠慮なく頂きます
もうわたしら家族です

新しいいのちの誕生です
ちょっと小さめの女の子
母子ともに健康
教会のメンバーのお孫さん
電話で報告を受けて
やっぱり
五臓六腑が一気に元気になるのを覚えるうれしさ
涙腺もゆるゆる

思い切った買い物をしました
ダイソンの掃除機です
花粉が飛び始め
我が家は親子6人みんなアレルギーをもっていいるもので・・・
よし!
と買いました
買ってよかった・・・
部屋の空気がきれいになるし
毛の長いじゅうたんの奥底に沈む砂埃も取ってくれるし・・・
フォルムがかっこよくて
息子たちが
掃除機を囲んで遊んでいます
確かにロボットのようで・・・
保育園から帰ってきたら
「ただいま!ダイソンは!」
と言ってます
長男は長男で
今日我が家に遊びに来た二人の同級生に
「これダイソン」
と紹介してました
とほほ・・・