きぼう屋

生きているから生きている

映画「おっぱいバレー」見ました。。

2009年04月29日 | 「生きる」こと
世間ではゴールデンウィークということで
しかも不景気のために休みが長い
なんてことも報道されております

こういうとき
この期間ストップしている工場で働いている派遣社員は
ただただ無視されるのでしょうか・・・

また例えば
チェーン方式の飲食店でバイトしなければ家族を支えることができないお母さんたちは
学生が帰省などでいなくなるから余計に
休みなしで働かなければならず
しかも最近は10年前の半分くらいまでバイトの人数が減らされており
人間性を積極的に失ってロボットになりきらないと仕事が片付かない状況でもありまして・・・

どちらも
不健康な社会の象徴として知られなければならないと思います

他人事ではありません!!


わたしはといいますと
休みはないのでございます

しかし
具体的な他者にかかわるゆえに
自分の時間が取れないというだけであり
決してロボットになるわけでもなく

不健康な社会の中に人間本来の健康さ(身体や精神ではなくて人格の)
を介入させるという行為をしたいわけなので

たいへんだけれども幸いなのです

しかし
月曜日の午後は
自分のための時間を使わせていただきました

共に平和運動を担う方が
映画の株主招待券を2枚くださいまして
それが4月まで有効なものだから
なんとか数時間とって
若菜さんと見に行こうと思っておりました

そして月曜日は午前中に集中して
いわゆる仕事をできるところまでやって

午後は映画を見ました

おっぱいバレー

を見ました


わたし
テレビの宣伝を見て
これは見なければならない!と思っておりました

というのは

練習をしたこともない中学生がバレーボールに心底打ち込む動機が
大会で一勝したら顧問の若い女性の先生のおっぱいを見られるという約束にあった
というのは

とても意味深いからです

わたしたちが夢中になり
ゆえにそこから深みを知り
さらにそれにより人格が深まり
成熟し
とりわけ関係性を獲得し
ずるくならない人間となるための

動機とか目的は

純粋であることなどほとんどないし
純粋である必要などないし

純粋な目的で動いていたりしたら
それはいつか実は破綻するし
でも純粋であるばかりに破綻したことを無意識にも隠して
さらに変な気力でがんばるということが起きるし
実は大変なわけです


目的と手段
目的と動機

などなどは

ねじれていて当然なのです


ホームレスを強いられている人が礼拝にこられたときに

「それは礼拝後の食事が目的なのだ」

という(あるいは思っている)キリスト者がおりますが


目的は実はこのようにねじれているほうが本来的ではないかと思います。

ねじれているにもかかわらず!礼拝をしたという事柄がそこにある!
こと自体が本当の意味だと思います

つまりそれこそ主の招きという意味です

礼拝にかぎらず
すべての行動は主の招きだと信じるならば
むしろ
動機や目的はねじれていることを発見するのだろうと思います


目的の純粋さを求めると
人格が破綻してきてしまう
ということを
本日はひとつのヒントとして提示してみたいと思います




おっぱいバレーはこのテーマを深めてくれていました!!

感動しました!!

これはハリウッドでは思いもつかないところのテーマだと思います



また舞台が70年代の北九州でして

日本のバプテストにとって北九州は宣教の開始からの大切な場所ですし
またわたしの母親が育っている場所でもあって

そういう情景を見たいというのもありました

わたしは北九州で生活したことはないのですが
(出張などでよく行きはしますが)
不思議な懐かしさを覚えました

なぜでしょう?
遺伝子のせいでしょうか?

まあそれはどうでもいいとして


昨今の動機や目的を過剰に重要視し
また意識する考え方は

とても非人間的!
だと思うわけです

むしろ人間的なのは

ねじれなのです

十字架がなにしろねじれなんだから・・・

というわけで
おしまい。。。


偽証

2009年04月27日 | 「生きる」こと
ひとつまえの記事で述べたように

証言は真理です。
でも真実である必要は実はありません。

痛み
苦しみ
悲しみ



はそれが嘘となっても大げさになっても

事柄があるかぎり真理であり

偽証にはなりません。


ならば偽証とは??

十戒は偽証するなかれ!と厳しく戒めます。

それは
嘘をつくな!ではありません

それは
痛み
苦しみ
悲しみ


を覆い隠すために

そのほとんどは自分が他者に与えたそれらを覆い隠すために

証言をかえるな!

ということです。

もっというと
そしてこちらが本質なのですが

自分の罪を覆い隠すための証言をするな!

ということです。


罪を覆い隠すことが偽証です。

逆に言うと
そしてこれは極めて大事なことですが

真理は罪の中にあります
罪をひとつひとつ丁寧に想起するときに
その中で十字架にかかるキリストを発見し
そのキリストこそ真理である
という事柄が起こされます


わたしたち人間が人間であろうとするならば



が中心にあることを知り
それをゆるされるゆえに受け
その中心たる罪から
すべてを見聞きし
すべてを考え

さらには中心たる罪の中心たる十字架のキリストから

言葉を聴くことが不可欠です。


というわけでつまり
罪を担わないことが
偽証です。


証言と真理

2009年04月27日 | 「生きる」こと
証言は真理です

聖書の証言は真理です
虐げられた者の証言は真理です

でも真実ではないかもしれません

でも真実でないことに何の意味があるのでしょうか

嘘だろうと脚色があろうと
そこで事柄が語られているならば
それは真理であり
歴史上客観的に認められる出来事です

つまらない歴史家は
真実かどうかだけを探ります
それでもって
逆に事柄を失い
真理を見落とします

真実しか興味のない人は
だいたいいつの間にか
他者攻撃のために真実を用いることだけやっていて
本質からどんどん反れていきます


証言における事柄にこだわるとき
それが真実か嘘か脚色があるか
なんてことは
聴く側がわかります
事柄にこだわるからわかります

だから
語る側に真実のみ語ることを要求しなくてもいいわけです

嘘がわからないうちは
聴く側がまだまだ事柄に触れていない
と反省することになります

そしてさらに

事柄を表現するためには
真理を生きるためには
そのための
嘘や脚色の入っている物語が
どうしても必要となることをも

事柄にこだわる者はよく知っています


証言

ここに真理があります

主イエスが開く

2009年04月26日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「主イエスが開く」

目と耳に限らず、
身体のすべての器官が硬直しました。

小学生の娘を虐待し、殺し、埋めた事件の報道を受けることに
身体が耐えられなかったのかもしれません。

昨日の新聞によると、
近所の方々も気づいており、関係機関に相談していたとのことです。
しかしその機関は知らないと言っているそうです。
また、親が娘を「臭い」「汚い」「家に上がるな」とのしりながら殴る音が外に聞こえ、
さらに小学2年生の娘さんが「はい」「ごめんなさい」と泣き叫ながら応える声が聞こえた、
という証言も掲載されておりました。

残酷すぎます。

ここでは家族、地域、行政などすべてが閉じていると思います。

そしてこれは他人事ではないと感じます。

交わりがその外側の世界に開かれず閉じるとき、
外側の世界で受けるストレスを閉じた空間で爆発させるのは、
もはや人間の本性であることを、
この時代は発見していると思います。

そして閉じた世界の中で
体力、経済力、知力における弱者が爆発の衝撃を受け、
傷つき、時に死に至ります。

地球規模の搾取の循環、教室規模のいじめの循環なども同じこの構図ではないでしょうか。

私たちが本当に幸せになりたいならば、
しんどくても性に合わなくても、
自らの生きる共同体を、また自分自身を、
その精神から所有に至るまで開くことが本当に大事な時代です。

これは「プライバシー」の最近のイメージとは逆のことのお話しです。
「プライバシー」はもはや本来の深い精神を失い、
過度な自己防衛の肯定を表現するケースが多くなってしまいました。

閉じると本当に危険です。

だから復活のイエスはすべての鍵をかけて閉じきった弟子の部屋に、
それでもなお入り、
弟子たちを世界に開いたわけです。
ヨハネ黙示録によれば、
閉じた部屋(交わり・個人)のドアをキリストがたたいているわけです。
女性、子ども、障害のある者、病を持つ者に閉じていた共同体を、
イエスは叱責してでも開いたわけです。
そもそも教義や雰囲気や伝統などで閉じていたユダヤ教会を
イエスは繰り返し開きました。

そして私たちも主イエスに開かれます。

アーメン

顔と顔とを

2009年04月23日 | 教会のこと
関西地方連合ニュースレター巻頭言です
発行は一週間後くらいでしょうか
信徒大会の案内ポスターといっしょに
関西地方連合諸教会・伝道所に届きます

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「顔と顔とをあわせて・・・自立と交わり」 大谷心基

聖書
「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」
(創世記32:31=新共同訳)
夜も昼も、私たちはこの上なく熱心に、あなたがたと顔を合わせることと、
あなたがたの信仰の不足分を補完することとを、祈っている。         
(Ⅰテサロニケ3:10=岩波訳)


主の伴いを感謝いたします。

みなさまの教会・伝道所の交わりには必ず主が伴われております。
それは顔を合わせるかたちで伴われていると信じます。
もちろんわたしたちの五感や第六感で知るとかではなくて、
信仰で主の伴いを受けます。
五感などの限界を主ご自身が十字架で共に担われるゆえに、
わたしたちはその十字架において、
五感を、あるいはカルト的な第六巻を超えて、
主に出会い、主と共に歩みます。

この主と顔を合わせる生々しさを
ぜひとも教会・伝道所の交わりの中で大切にしていきたいと願います。
また逆に
生々しさを失うことがないよう
互いに切に祈ることができればとも願います。

と言いますのは、
私たちの交わりは、
主の顔という生々しさよりも、
主の名を原理化したような言葉を大切にしてしまうことが実は多いのからです。
現在において主の名の原理化は
教義や教会形成方法などに現われていると思います。
聖霊の原理や実存の原理やバプテストの原理など、
文字で説明できるような事柄が主の顔の前に立っている
と認識するのは私だけではないことと思います。

主は出エジプト記において、自らの名を明かしませんでした。
それは主の名の原理化、抽象化、主義化が人間の都合で起こることを
知っていたからだろうと考えます。
そして主はただ「あってある者」と名乗りました。
これに関するいろんな解釈はありますが、
わたしは、
「生々しく顔を伴って活動する主の、その時その場所における働き」
と主が名乗られた!と読んでいます。
さらに主は、
この生々しい主と共にある信仰者を、
主の働きゆえに世の権力者の前に派遣する、
という名であることも同時に述べています。

だからわたしは、
まずは生々しい主の顔をいつも見ること、
それゆえに、教会の交わりのひとりひとりの顔を見ること、
さらには、関西の諸教会・伝道所につらなるひとりひとりの顔を見ること、
を、今年度は関西地方教会連合のテーマにしたいと思いました。
これは強烈で大胆な一点突破をかかげたものであり、
そこには合理的な方法もしたたかな策略も全くありません。

嬉しかったら顔と顔とを合わせて一緒に感謝し喜ぼう!
問題が起きたら、顔と顔を合わせてから祈ったり考えたりしてみよう!
顔をあわせる前に脳みそや感情にあらわれる他者や交わりに対する思いや評価などは、顔を合わせるまでは保留にしよう!
という、端的なテーマです。

そしてさらに期待するのは、
顔を合わせずに言葉のやりとりをするときは、
原因と結果や、目的と手段となどが語られるけれども、
顔と顔とをあわせるところでは、
十字架と復活を共に味わうという出来事が起こるに違いないということです。
顔を合わせると仲介者である生々しい主が本当に働くと私は信じます。

そして
自立する者とは、
顔を合わせることのできる者ではないでしょうか。
責任を担う者とは、
顔を見たその相手のすべてを共に引き受ける者ではないでしょうか。
協力というのは
そもそも相手と顔を見て出会うことなしに、始まることもむずかしいのではないでしょうか。

めいめいの教会・伝道所の交わりでも、
地方連合の交わりでも、
なにしろ顔と顔とを合わせて!
共に祈り!
共に礼拝し!
共に語り!
共に食べ!
共に担い!
共に歩みたい!
と願います。

臨在の主に感謝しつつ。
 

歴史探し

2009年04月20日 | 「生きる」こと
歴史を知るには

原因と結果
条件と現象
手段と目的

を探すのではなくて

十字架と復活

を探せばよかったんだねえ

歴史における
個と個との間の
共同体と共同体との間の
十字架と復活の物語を

再生すればいいわけですなあ

しかも

これが歴史学的にもっとも客観的だと思います



ようやく簡潔に
言うことができるようになりました





基本単位

2009年04月19日 | 教会のこと
今週の京都教会週報巻頭言です。

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「基本単位」

先週の祈祷会で
ヨハネ福音書のイースターの場面を参加者みんなで分かち合いましたが、
その中で
主イエスが
キリストという事柄を、
キリストの体なる教会共同体に委託していることを再確認しました。
これは驚くしかないことです。
でも、教会共同体とは、
本当に、
そこから救い、そして愛と和解とが起こるキリストの体なのです。

「ボンヘッファーとキング 抵抗に生きたキリスト者」
という多少難しくまた厚い本を再読しています。
キングはわたしたちバプテストの良心であり、
アメリカで黒人解放のために生きた牧師です。
ボンヘッファーはドイツでナチズムによるユダヤ人虐殺に抵抗した牧師です。

そしてふたりに共通しているのは、
教会共同体というキリストの体であることを信じ、
教会共同体というキリストの体として祈り、聖書から聴き、生きていることです。

だから白人やナチスという敵に対して、ただしい者としての自分が敵を非難をする
というやり方を、
ふたりはまったく取ることができませんでした。

彼らは自分たち教会共同体の罪や悪をも知るゆえに、
自分たちの罪と、白人やナチスの罪を、
キリストが一緒に赦すという出来事に立ちつつ、
キリストにより正義へと一緒に招かれるところに立ちつつ
ゆえに、
罪を担い、悪とたたかい、敵を愛し、
教会共同体として活動をしました。

わたしたち一人ひとりは確かに個人としてユニークな存在です。
しかしそれは個人という単位が大前提となるということとイコールでしょうか。
聖書はそうは言いません。
わたしたちはめいめい、愛と赦しと和解によりつながる教会共同体の象徴です。
そしてめいめいユニークなのは、
共同体において明確に知ることになる他者と自分との「異なり」です。

もっというならば、
異なるという出来事の中心であるキリストの
十字架と復活の出来事、
苦しみと輝きの出来事、
愛と赦しと和解が、
わたしたちめいめいに響いてくるゆえに
めいめいがユニークなわけです。

すると、
異なったままで共に生きるというすごい出来事が
でもまったく無理なく起こされます。
一方で
個人が単位の前提であることを語る個人主義に立つと、
かなり無理して他者と共に生きることになります。
これはおそらく多くの人が経験済みだと思います。
さらにはそのストレスで心身の調子を崩した人も多いはずです。

でも本当は共同体が基本単位です。
キリストの体と、
キリストだからこそ起こる愛と赦しと和解が
基本単位です。

ここは日本という状況なので
教会共同体を別の言い方でいうならば
基本単位とは、
共に生き、愛し合うことに命をかけている共同体
であります。
そしえそれをキリスト信仰でさらに言うならば
基本単位とは
共に生き、愛し合うことが、自分の能力ではどうにもならず、キリストの十字架と復活、つまり愛と和解にかけるところの共同体
となります。

だからストレスはこういう共同体の前では力を発揮することなどできません。
つまり
この教会共同体という基本単位にはストレスがないどころか、逆に救いがあります。

そしてわたしたちは今日も
基本単位としてキリストとその身体たる共同体を贈られています。

単位が違うと全部違ってくるから
これはとても大事なことです。

共にキリストの体なる共同体を生きていきましょう。


ぶれない何か

2009年04月17日 | 「生きる」こと
牧師室の書類整理をしておりましたら
「日本バプテスト連盟第46回全国青年大会報告」
という小冊子がでてきまして

たぶんだいぶ前に送っていただいたと思うのですが
書類の山に埋もれておりました

そしてさっき読みました

そしてうれしくなりました

それはまず大きなところでいえば

若いバプテストのみなさんが
主体性にこだわり
教会性にこだわり
黙想、祈りにこだわっている

ことが読み取れてうれしかったです


もうすこしいえば

こういう大会運営や教会生活を担う自由と責任がいろいろなかたちで語られていたこと
互いに愛に満ちた批判を受け入れあっていること
それらの大前提としてキリストから聞くことを大切にしていること
情熱あふれていること

を知ってうれしいわけであります

これはもう期待してしまいます

若いバプテストが主の働きを担っています
だから
ぼくらの世代が邪魔しないようにせねば・・・


実は昨晩夜半すぎに
当教会の青年から相談メールが届きました
それは大切な提案でした
しかも
青年たちが大きな十字架を背負いつつ
しかしそれだけの責任を担ってでもせねばならない提案であり
しかもそれが自分のためでなくて他者のためにみんなで動くという提案でありました

感動しました

先週の日曜日の夜に一緒にいることのできた青年たちで話し合ったそうです


今の時代に教会共同体を選び取っている青年たちは
その時点で覚悟が決まっているし
ぶれない何かを持っています
これはほんとです

もちろん教会共同体ではなく
個人の内面とか
キリスト教文化とかが好きで教会に来る方もおられますし
それはそれでステキなのですが

教会共同体で生きる決意をしている青年たちは
いい意味で異質です
これはほんとです


わたしの役目は
その異質たる質がさらに深まるよう
ことばとかかわりをつむぎつづけることなんだろうなあ

と思わされました

感動感動で
感謝感謝なのでした

むーずかしいなあぁぁ

2009年04月16日 | 教会のこと
中学生高校生世代の少年少女に向けたメッセージを
某キリスト教関係雑誌からご依頼いただきまして
その編集者のおひとりと
どんなテーマを深めようかと
ああだこうだと意見交換しているところでありますが

これがなかなか
ほんとに
むずかしいぃぃぃ

深みを伴い読者に響くメッセージを書くのは
実は10年も牧師をして勉強と出会いを続けていると
そんなに大変ではないのですが

しかし
なにゆえにむずかしいかというと

きっと今のわたしのホットなテーマを
まだ少年少女向けの言葉にできていないところのホットなテーマを
そういう言葉にしようと

わたしの神経が叫ぶから
むずかしくなっているのだと思います

ここで
ある意味もはや完成しているいくつかの少年少女向け説教を
そのまま編集者に送るということのできるという人間だったならば

きっともっと簡単にみんなに認められるところの牧師になれるのでしょうけれども

こういうチャレンジを
真正面から受けて
一番ホットなところをしっかりことばにして伝えないと

人間としての深まりがストップしてしまうし
それは実はとりわけ献身を選択した者としては
逃げてはいけないところだと

どちらかというと
神経が
(つまり意識とかではなくて)
叫ぶわけなのです


それにきっと
もっとも敏感で賢い少年少女世代は
大人以上に

最もホットなメッセージを届けないと
自分の知りうる感動を超えた感動には
出会えないだろうと思います

だから
真剣に祈って取り組みたいと思います


編集者は最初
異性や酒、たばこという身近なテーマから掘り下げて・・・
と言ってくれましたが
意見交換するなかで
そういう事柄のさらに奥にあるといっていい現象があるだろうなあ
となりまして・・・
つまり
いまは
メール依存や
他者と異なることの不安など
もっと人間の根源的な
しかも下手したら生きる死ぬにかかわるほどに
デリケートな事柄があり
そういうところと聖書とを対話させていこうということになりました

まずは
生きよう!
一緒に生きるぞ!
って伝えたいし

さらには
あなたはあなただ!
って伝えたいし

そのためには
あなたがあなたになるためには
あなたがあなたをアピールしたら逆効果で
あなたが他者をそのまま受けることで
あなたがあなたなのだ
という原理を
身体に響くかたちで伝えたいし

それは他者と同じでいることでなくて
異なる他者を受けることで他者とあなたが異なることを知ることで
あなたがあなただと知る
っていうことが
自分と隣人を愛するってことなんだ
って伝えたいし

さらには
それを阻害するのは
他者と比較するところからくるコンプレックスであって
でもその際の比較されているあなたと他者はどちらも
ほんとのあなたと他者ではなくて
あなたの基準と感覚によるあなたと他者で
そうでないところのほんとのあなたと他者
つまり
異なる者どうしが受け入れあうという
奇跡としかいうことができない愛を実践するときに
まさにその奇跡として
主によるところのあなたと他者とが与えられて
主によってあなたと他者とがつなげられるという
まさに信仰
をいただくからこそのあなたと他者として
共に在るときに
コンプレックスの入る余地はないのだ
ってなことも
伝えたいわけで

でもこれをどういうことばにしたら
少年少女に伝わるのでしょうかねえ

ぐわああああ

祈ります
祈ってください

がんばります

アーメン主よ
ほんとに助けてくださいね。。。

肉だんごじけん

2009年04月14日 | 「生きる」こと
肉だんごじけん
が先週の土曜日に起こりました

我が家の晩ごはんは肉団子
息子たちの大好物です

しかし4男のれんくんが
疲れきってしまって
ごはんをたべられないほどでありまして
ソファ上で放心状態でした

だからお兄ちゃんたちが食べ終わったあとも
食卓のれんくんのお皿には
肉団子が盛られたままでありまして

お兄ちゃんたちの目と意識は
どうしてもそのお皿にいってしまいます

そしてとうとうれんくんにお兄ちゃんたちが聞きます
れんくんの食べていい?

れんくんは食欲も出てこないので
いいよお
とあっさりお返事をしました

お兄ちゃんたちはよろこんで
れんくんの肉団子を分けて食べました

しかし
しばらくして
れんくんがアイスキャンディをひとつ食べたら
ちょっと元気が戻ってきまして
するとおなかもすいてきました

そして
れんくんは食卓につきました

お皿は空っぽです
大好きな肉団子はもうお兄ちゃんたちのおなかの中です

ギーギャーーーーーアアア

とれんくんは泣き叫びました
肉だんごがなーいー!!
肉団子食べたーいー!!

そして食べてしまったお兄ちゃんたちに
あるったけの文句を言います

お兄ちゃんたちは困って
だってれんくんが食べていいって言ったでしょ!
って丁寧に伝えるわけですが
しかし伝えるほどに

ギーギーギーギャーーーーーー

でございまして

そりゃあれんくんからしてみれば
自分が食べていいと許可してしまったからこその
やり場のないギャーなわけです

でも
しばらくしたら

お兄ちゃんたちが謝りはじめました

れんくん食べてごめんな!

するとれんくんのギャーがとまりました

さらに3人のお兄ちゃんが順番に
ごめんな!
と何分にもわたって言っておりましたら

れんくんの表情がほぐれてきまして
とうとうニコニコになりました

そして

いいよ!

って言いました


という
深い事件に出会うことができました。

感謝感謝


復活

2009年04月12日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

******************

「復活」


イースターおめでとうございます。
今年もキリストの復活と共に世界の復活が起こされます。
ひとりひとりみんなの復活が起こされます。
だから遠慮なく復活の生をご一緒に歩みましょう。

当教会からはじまったホームレス支援機構・京都寄り添いネットは、
秋の機構改革に向けて準備中です。
改革の中心は、「共に生きる」支援を設けることにあります。

ホームレスとは「ホーム(家族、関係)」の「レス(喪失)」と当ネットは捉えています。
だから当ネットの支援はそもそも関係づくりであり、
それは「共に生きる」支援でもあるわけですが、
それを本格的に組織化したいと願っています。

これまでは高齢のホームレス当事者が多かったため、
確かに共に生きる支援をするものの、その内容は限られていました。
しかし昨年の金融危機以降、
若年層のホームレスが増え、
共に生きる中身がその若者の「ホーム」=家族となり、
若者がこれから抱える再就職、結婚、出産、子育てなどの課題を
支援者が共に担う必要があるというところまで拡大してきました。

もちろん、この課題は国などの福祉にがんばってもらうべきで、
行政とNPOとで組織的に「共に生きる支援」をできる日が来るのを期待しますが、
しかし、それができるようになっても、
支援の本質は、
具体的なホームレスのAさんに、そのAさんの「ホーム」となる具体的なBさんが、
それこそ自分の子どもや親に献身的にかかわるのと同じ質でかかわることにあることは、
まったく揺らぎません。

つまり、キリスト教会から始まった福祉は、今再びキリスト教会の本質に戻ってきた!
という時代を迎えているのだろうと思います。

わたしは今、
京都のキリスト教関係者に、
京都のキリスト教全体で「共に生きる」支援をする提案をしています。
それは、
キリスト信仰とは、わたしたちがキリストの体という、あらゆる条件を超えた「ホーム=家族」とされるところに、
キリストの体の復活という出来事を見出すことだからです。

そして教会も同時に今一度キリストの体へと復活します。
本当の意味で共に生きる仲間としての教会と、
本当の意味で共に生きるからこそ必要となる
赦しと和解と愛の具体的人格であるキリストを贈られて、
今後とも互いに天に召されるまで、
しつこいけれども本当の意味での家族となることができたら幸いですし、
聖書から知るならば本来はそうあるべきなのだと思います。

ぜひ共にずっとキリストの体として歩みましょう。


イースター(復活祭)にぜひ

2009年04月12日 | 日本バプテスト京都教会のお知らせ
12日まではこの記事がトップです。
新しい記事はひとつ下です。

*****************



こんどの日曜日はイースター(復活祭)でございます

日本バプテスト京都教会は次のようなプログラムを持ちます

イースター感謝礼拝 朝10:30
イースター愛さん会 昼12:00

礼拝は聖歌隊による前奏から始まりますから
ぜひ時間前にどうぞ

愛さん会は立食パーティーです
みんなでわいわい食べてお話しましょう

こどもたちは
キャンディハンティングをします

つまり宝探しでして
宝はお菓子なわけですが

今回はとってもおもしろい方法でおこなわれます
教会のお兄さんお姉さんたちが
みんなのためにあみだしてくれました
来てのお楽しみ


そしてなにしろ
復活を共にあじわいたいと思います
復活は
わたしたちひとりひとりの人格と生活に
世界全体に
決定的な変化をもたらします

復活は
回復以上であり
快復以上です

復活は
端的に本質と本質が結びつきます
そこは赦しと和解が繰り返され
平和が訪れます


当教会は
マーケットの方法で
信者の人数を集めることを考えたり
組織運営論で
教会運営を考えたり
ということをしません

ただただ
復活の生
を分かち合うというところでのみ
共に祈り礼拝し生き
教会という
血縁も言語もなにもかも超えた
本質と本質で結びつく家族となりたい

と願っているのみです

教会というキリストの身体
つまり
「ひとつの部分が苦しめばすべての部分が共に苦しみ
 ひとつの部分が喜べばすべての部分が共に喜ぶ(聖書Ⅰコリント)」
を日々歩みたいし
それはキリストの仲介により起こされるし
それこそがひとりひとりを
また世界を
本当の意味で救うと
信じているのであります

というわけで
4月12日の朝10:30にお待ちしております


そういえば
京都市では
5日にイースターが終わっている教会がいくつかありますが
これは全国的なことなんでしょうか???

なんで???
うちが間違っている??


まあしかしなにしろ
4月12日の朝10:30にお待ちしております

十字架後復活前

2009年04月11日 | 教会のこと
いまは
昨日主イエスが十字架で死を迎え
明日主イエスが復活を迎える
というそのはざ間の時です

このとき
世界は何を受け何を語り何を行うことがゆるされるのでしょう

沈黙だろう
と思います

沈黙のうちに
十字架のひとつひとつの場面と言葉と
主イエスの傷と血とを
想起し

同時に

まさに同時に

時間的に数秒たりともずれることなく

沈黙のうちに
復活される主イエスの傷と血と言葉を受ける
備えをする


今朝の祈りのときはただ以上のことをしてみました


そして
明日の復活を頂いたらすぐに
明日の朝の祈りでは

復活の恵みにささえられつつ

この世界に転がる
身近なことでも直接触れていないことでも
十字架とよぶしかないところの困窮を
できるかぎり想起し
その十字架を
主イエスの復活ゆえに
わたしの十字架として背負うことがゆるされ
それらの十字架からの解放のため
歩むことができるよう
主に願いたいと思っています

またわたしが想起できるのは氷山の一角にもならない程度であって
その氷山の一角も含めてすべての十字架を
主イエスがなお引き受けてくださることを
驚き感謝しつつ
祈りたいと思います


「共に生きる」支援

2009年04月10日 | ホームレス支援のこと
ホームレス支援機構・京都寄り添いネットは
発足10年目を迎えております

そしてつい半年前までは
つまり金融恐慌が起こる前までは

わたしはこの働きは10年を区切りに縮小できるなあ
と思っておりました

京都市のホームレス当事者の数も減っておりましたし(6割減)
自立後になおかかわりの必要な方に関しても
教会の枠でかかわることができる範囲であったからです

しかし
金融恐慌が起きまして
また派遣切りなどが起こりまして

さらには
これでもって
世界のシステムがいつまでもホームレスを生み出すものであることを
思い知らされまして

活動を縮小させるどころか
活動をひろげなければならない

ということに気がつかされてしまいました

しばらく私自身の精神が大変でした
なにしろ整理がつきません

縮小させようと思っていたところで拡大させる
という方向転換を身体全体で受け取るには
一ヶ月ほど時間を必要としました

また
実はなんとなく
いや本当ははっきりと
ホームレス問題が拡大することは
半年前の金融恐慌発生時にわかっていたのですが
わかっていないふりをして
他の働きの忙しさにかこつけて
寄り添いネットのことについては新たに手をつけていなかったものだから
多少あわてなければならない状況でもあり
この忙しさを受け入れることにも
勇気と悔い改めがいりました

半年間のさぼりに関しては
当事者および当事者との交わりをいただく方々
さらには京都のひとたちに
心からお詫びせねばなりません

またキリストに謝罪せねばなりません

主よ
なにもわかっていないわたしをお赦しください


そして
ようやく
やることにしました

ホームレス支援機構・京都寄り添いネットは
秋に機構改革をすべく動き始めます

さて
ではホームレス支援でさらに何が求められるのでしょうか

それは「共に生きる」支援です

なんのこっちゃというところでしょうが
つまりこういうことです

これからは若いホームレスが生まれます
その際
これまでのような主に高齢の方々を支援してきた機構では
若い方々に寄り添う術がありません

極めて簡単にひとつのことから言うならば
高齢のホームレス当事者の場合
その方がたとえば生活保護でのアパート生活を始めたならば
その方への支援はほぼ完了したと言えました
(無論自立後のかかわりという支援も現在の大きなテーマですが)

しかし若年層の当事者の場合
いったん生活保護でアパート生活をはじめても
当然それでおしまいにはなりません
その後当事者が人間らしく生きるためには
仕事を見つけたいし
結婚もあるだろうし
子どもも与えられるわけで
そうなると
むしろアパート設定がスタートで
その後
若いホームレス当事者とまさに「共に生きる」支援でもって
仕事に結婚に子育てなどに至るまで重荷を分かち合い
また生活保護を終えて
次の道を探し定め続けるということを
共にやっていくという

つまり
ホーム・レス状況の方々の
ホーム
となる支援

家族となる支援

若い当事者のお父さんお母さんとなる支援
兄弟姉妹となる支援

が本当に見事に必要な時代がやってくるわけであります


そしてこの他者のホームとなる!
という人間の極めて人間らしい事柄は
人類の普遍テーマでもあろうと思います

この間のわたしの講演においては
マズローの欲求五段階説は不完全だと言うようにしています
マズローは第一段階の欲求は食欲と性欲となっているけれども
それは第二段階で
第一段階は
ホームを求めるという
つまり赤子が母親を求めるという欲求である
と語るに至っております

それくらい人間に必要な支援を互いに獲得していきたい!
ゆえに機構改革をします


みなみなさまのご協力を心よりお願い申し上げます

変わりたいのです

2009年04月09日 | 「生きる」こと
もっと変わりたいなあ
と思っているこのごろです

京都で丸10年過ごし
それは同時に牧師職を10年したということでもあって
そういう
数字だけのことではあるけれども
区切りをむかえて

変わりたいなあ
と思っているわけです

この間ずっと妻に
おれ変わりたいねんなあ
と漏らしております

妻は正直に
よくわからんねえ
と言ってくれつつ
変われるために応援するわ
と励ましてくれるので
助かってます


何が変わりたいのかというと

自分自身が変わりたいということでありまして・・・

この10年間
わたしを身近に見てきた教会の仲間たちをはじめ友人たちは
この10年でもう結構変わったよ
と言うだろうと思いますが

しかしもっともっと変わりたいなあと思っています

10年前を振り返ると
よくもわるくも原理的で
よくもわるくも正攻法で
よくもわるくも直接的であったなあ
と思います


じゃあ今はどうなったかというと
実は
原理を崩していないし
正攻法でやっているし
直接的なんだけれども

でも
それをさらに動じず余裕をもってやることができるようなっている
と思います

すると
10年前はうまいこと
わからなかったり
つながらなかったり
伝えられなかったりしたことが
スムーズに運ぶようになってきました

しかししかし

でももっと変わりたい!!

もっともっと動じず
どうどうと恥かいて
どうどうと傷ついて
どうどうと叫んで
どうどうと泣いて
どうどうと受け入れて
どうどうとかかわって
どうどうと生きたい

と思っています


具体的には
さらに間接的なうわさを信じない
さらに裏を読まない
さらに因果関係を信じない
さらに自分の気分を信じない
さらに自分の答えを求めない
となると必然的に
人に原因を押し付けない
人の悪口を言わない
人を怒らない
ともなるだろうと願っております

ただただ
具体的なあのひとこのひとのため

直接うごく

それは
あのひとこのひとの重荷になっていることを
できるかぎり引き受けて
それをそのまま主にあずけて
すなわち
主にあって
自分がかかわっていてもかかわっていなくても
その重荷の責任ゆえに謝罪し
悔い改め
そこから歩みだす

という人間にもっともっと変わりたいとねがっております


祈りつつ覚悟をいただいて
次の10年のスタートを切りたいと思います

だからみなさん
わたしを見て変わっていないと思ったときは
変わってないよー
と教えてくださいませ

なにとぞよろしくお願いします