きぼう屋

生きているから生きている

楽しいねえ

2009年06月27日 | 「生きる」こと
ウチの教会は
第四土曜日にそれぞれの会が掃除を担当します

それぞれの会ってのは
壮年会
野の花会(女性会)
青年会
です

いまどき男女や年齢で会が分かれているのかい??

という問いはまさにそうであるゆえに受け止めるとして

しかし
いまのところ
残念ながらもいまだに
全国の教会が最も連帯できる機能としては
こういう会のあり方になっているわけですが

本日は
青年会が教会の掃除担当でした

つまり
意識のある人は
年四回は掃除をできる
ということになります

これを総会で決めて
やりはじめて2年目
これまた残念ではありますが
まだまだ意識化しきらないところでありますが

しかし
掃除という行為を復活させたことには
どえらい本質的な秘儀があるわけです

しかしこればかりは
おそらく体験から気づくしかないのだろうと思いつつ
教会が存続するかぎり
毎年総会で決議していきたいと思っております



当番でなくとも
毎週土曜日の掃除に集まる
いわばレギュラーメンバーがいます


わたしのイメージでは
逆にいずれかの会が当番にあたる第四週は
レギュラーメンバーはお休みしていただければ
というところだったのですが

いやいや

本日も
レギュラーメンバーは
青年たちにがっちりお昼ごはんを食べてもらうために
いつも以上にはりきって下さいまして

わたしは
こういうところに
教会の本質中の本質を見せ付けられ
涙が出るほど感動するわけでした

感謝感謝

もちろん青年たちにも
感謝感謝


夜は

近くの同志社の寮のオープンハウスに家族みんなでお邪魔しました

そこで夕食も食べます

その寮には寮母さんをはじめ
友人がたくさん


わたし今回も思いますが

今の20前後の若人は
ステキです

ほんとステキ


楽しかったあ

寮のみなさん
感謝感謝


明日の礼拝も
楽しみ楽しみ

いろいろ

2009年06月22日 | 教会のこと
今週の京都教会週報巻頭言

***************************


「時のいましめ」という平和宣言から生まれた説教集、
カンパ500円。
あと数冊あります。
この中に収められている谷本仰牧師(南小倉教会)の説教は、
当教会のバプテスマクラスの教材にすることを決定しました。

そのバプテスマクラスを、Wさんと共に持つことがゆるされています。
とても深い学びと分かち合いができています。
そして私は思いました。
このクラスは要望があれば、
すでにバプテスマを受けている人でも受講できるようにしよう!と。
私もそうでしたが、
バプテスマクラスが充実していないケースは多く、
信仰の基礎的な事柄を学ぶ機会に恵まれていない方が多いことに気がつき始めております。
全10回のクラス。どうぞお申し出ください。

バプテスマクラスのカリキュラムはこんな感じです。
第一回 イエス・キリストの誕生と生涯
第二回 イエス・キリストの十字架
第三回 罪人の赦しと罪のさばき
第四回 キリストの復活、および終末
第五回 神、および創造
第六回 聖霊、関係性、教会の起こり
第七回 教会共同体(キリストの体)の精神と倫理・・共に生きる、平和・和解、とりなしの祈りと奉仕
第八回 礼拝と日常生活・・・主の日と平日、主の所有と私たちの与りもの
第九回 バプテストの歴史と精神・・・教会と国家、神の力と神以外の諸力
第十回 当教会の歴史と現在、テーマ・・・当教会グランドプランと運営組織

集会室に数千冊の児童書と絵本が届きました。
教団向日町教会付属幼稚園の子ども文庫から頂いた中古本です。
すでに近所の子どもたちが自然に本棚の前のテーブルに集まります。
教会が居場所となることは絶対に欠かせません。
居場所の問題は鳩山民主党代表のすることではなくて(先週の党首会談で言ってましたねえ)、
キリストがなさる本質的なこと。

先日整備された庭に続き
具体的な居場所になるのではないでしょうか。

ぜひめいめい沖縄の歴史を学んでくださいませ。
内蔵がねじれる思いを共感しつつ。
あの現場にキリストの十字架が立ちます。
6月23日は「命どぅ宝の日」。

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「時のいましめ」
わたしの手元にあるのは残り4冊
ほしい方はお早めに

私の説教も載っています

なにしろ読んでほしいのは
谷本仰牧師の説教と
日原広志先生の論文です

私の説教は今発売中の「百万人の福音7月号」に掲載されている方が読みやすいです

増刷も決定しているので
手元のものがなくなっても取り寄せます
お声かけください


早速バプテスマクラスの申し込みをたくさん頂き嬉しい限りです
時間をいかに確保するか頭を悩ますという恵みにあずかっております

けれども
さらにどんどん申し込んでくださいませ
物理的に無理なことも
この際なんとかしてみせましょう

こんどの日曜日の午後は
夏の子どもキャンプでつくるイスの試作をして
夕方から庭でバーベキュー

どなたもどしどしお越しを。

バプテスマクラス大開放計画

2009年06月20日 | 教会のこと
今晩は市役所前炊き出しがありました

わたしは
れんくんが発熱のため家で待機

ホームレス支援に必要なのは
わたし
よりも
若菜さんなので

わたしが子守

本日は27歳の人もいたとのこと

ボランティアみんなで相談にのっていたとのこと

われらがホームになるぞ!!


炊き出しの前はバプテスマクラス

今回もめっちゃ楽しい

本日はキリストの体なる教会の精神と倫理について

一コリントでキリストの体のイメージをつかみ
ローマで1000年以上の歴史によるDNAに組み込まれた異質性と
ぼくらがそれぞれいう個人の主義の異なり
との
えらいほどの違いを分かち合い
後者は実はそんなにたいしたことではなく
前者の異質性が
にもかかわらず
共に生きるというキリストの体を分かち合います

さらにマタイにとび
それは敵を愛することであることを分かち合い
最後にエフェソにて
敵意の隔てを十字架にて壊すキリストが
和解の業をおこし
敵同士をひとつの体とすることを分かち合いました

これが教会なのだ!!!!!!!!

もちろん
宇宙全体がこうなることを目指しつつ
世ではまず教会が象徴的に
そういう生き方を選び取る・・・・・


さて

この間感じることですが

ちゃんとバプテスマクラスを受けていないというか
対話と分かち合いと学びなしに
バプテスマ(洗礼)を受けている人が
たくさんいます

よくよく考えればわたしもそうでした

というわけで

すでにバプテスマを受けている人でも

バプテスマクラス全10回を経験できるようにしようと思います

申し付けていただければ、よろこんでマンツーマンでしたいと思います

あるいは
毎週何曜日の何時から何時
というふうに決めて
希望者みんなで分かち合えるクラスにするのがいいかもしれません


実はバプテスマ受けたけど
ちゃんと学んだ経験がないという方

遠慮なく仰ってください


一緒にたのしく聖書を学び
信仰を確認し
豊かに深く生きてまいりましょう


ではでは


礼拝堂食堂化計画??

2009年06月18日 | 「生きる」こと
月、火、水

いろんなことがありました

ふたつの学校で4回の礼拝説教をさせていただき
祝されました

車で1時間ちょっと行ったところの教会から
絵本と児童書を
数千冊いただけることになったので
二日に分けてもらいにいきました

そんななかで
月曜日は子どもたちがお休みだったので
(日曜参観の振替)
家族と教会のZくんでスーパー銭湯に行きました
(言ちゃんは保育園にお願いしてしまいました)

そうしたら同じ通りのご夫婦といっしょになりました

とくに男チームは
4人の暴れん坊を見ていなければならないので
その方の目が加わってくれたのがとても助かりました

風呂を出て
近くのおおきなショッピングモールのHANAに行きました
そこには気兼ねしないでいいフードコートがあるので
そこで昼ごはんを食べました

平日の昼間にフードコートに行ったのははじめてでした
すると
その平日の風景が夜とはまったく異なり
ぼくら夫婦は感動しました

いろんなしょうがいを担う
子どもから高齢者という
あらゆる世代の人たちが
車椅子などの
それぞれ必要な器具をつけたままで
フードコートにおられました

しょうがいをもつ小さな子どもとその親たちが
丸いテーブルを囲んでいました

車椅子のおじいさんとおばあさんと
その子ども夫婦が
四角いテーブルを囲んでいました

しょうがいをもつおにいさんおねえさんと
おそらく彼らの通っているところのスタッフが
やっぱり丸いテーブルを囲んでいます

まずはじめに思ったのは
きっと彼らが気兼ねなく自由にごはんを食べられる場所
そしていつまでもおしゃべりできる場所
というのが
他にはなかなかないけれども
ここのフードコートは
そういう場所になっているんだなあ
ということでした

それはたとえば
食堂もそうですが
たぶんそれぞれ生活している家も
わたしの家と同じように
彼らを招くことができる
スペースや機能を満たすことができていない
ということもあるのだろうなあ
と思いました

またお金がないから
わりかしリーズナブルなフードコートに来ている
というわけでもなく
お金に余裕があっても
その場所に来ているという感じでした



わたしはまたまた思いました

教会の建物ってどうだろう?
礼拝堂ってどうだろう?

気兼ねせず自由に
ごちゃごちゃしたままで
さわがしいままで
祈り礼拝できる空間になっているだろうか??

わたしは
キリストの目指す場の具体として
当教会堂はフードコートに追いついていない

正直思いました


礼拝堂食堂化計画

という

一年に一度は話すわたしの夢は
こういう風景の礼拝が起こされる空間づくりでございまして

教会の中では
かなりいい線いっていると思いますが

まだまだ

であります

わたしは夢を持ち続ける決意をしたのでした


フードコートに集まっていたみなさんは
とてもいい顔してました

おしまい

突然絵本たちがやってきた!!

2009年06月12日 | 教会のこと
今朝
となりにあるキリスト書店ヨルダン社のYさんと挨拶を交わしましたら
ちょっと呼ばれまして
ワゴン車の荷台を見せていただきましたら

中古の絵本が数百冊ありまして・・・

教団のとある教会が
子ども文庫の本を全部買い換えるということで
現在の本をすべて処分するというから
Yさんがそのほんの一部を
ワゴン車で運んできたわけです

どこかで利用でいないか・・・

という
その教会の希望もあるということで

いきなりだけれども
ウチの教会に持っていけばなんとかなるかも

ってなわけで

声をかけていただきまして


実は当教会のグランドプランの柱のひとつは
子どもたちとかかわり子どもたちを受け子どもたちと共に生き子どもたちと共に成長する
というものであり
その具体的なプランとして
子ども文庫というものが話されておりました

ただそのお話の中心を担っていたMさんが名古屋転勤になってしまい
現在はフリーズされておりましたが

いやいや
これは神さまが強烈に開いてくれている

今朝の絵本を見た瞬間に信じてみようと思うしかなく



とりあえずその数百冊を喜んでいただいたわけです

来週前半は
わたしが直接その教会へ出向いて
教会の方とお話をし
教会の思いを受けて

そして当教会であらたに本の命を味わうことができればと願っているわけです

おそらく一気に千数百冊の絵本と児童書を与えれることになり
さらに中古の本棚もいただけそうなので

祈りつつ
取り組みたいと思いました


たまたま当教会の懇談会が明後日の主の日にあるので
そのときにみんなで本をどのように扱っていくか
話し合いたいと思います


実際に本の山を見たら
笑顔になってしまいます

なんか
風が吹いてきたなあ

もう数冊ほど・・・

2009年06月11日 | 教会のこと
雑誌
「百万人の福音 7月号」

送られてきました

注文してないのになんでだろう?
そうか?
今月号からリニューアルだから
各教会に無料でお試し分を送っているんだ!

と思いました


それを読んでいたら

あらら

わたしの説教が載っていました

そういえば中高生とその親御さんに向けたメッセージを執筆しました

偶然にもリニューアル第一号のメッセンジャーになったんだなあ

変に恐縮してしまいましたが

ぜひお買い求めくださいませ


わたし
バプテスマ決心者とか
新来者とかに差し上げたいから
もう少し
もらいたいなあ
出版社さま
あと数冊いただけないでしょうか?

よろしくお願いいたします!

(と、こんな場で本気で言ってみました)

ではでは



洗足関係☆互いの足を洗い合う

2009年06月11日 | 教会のこと
主イエスが弟子たちの足を洗う
というヨハネ福音書の物語を
日曜日と水曜日に分かち合いましたが

主イエスが弟子たちを愛し抜く
という具体的な事柄として
召し使いの行う足を洗うという行為をされたことは
私たちが愛するというときの
具体的なイメージとして大切だなあと
改めて思いました

さらに
主イエスが上着を脱いで腰に手ぬぐいを巻くというのも
私たちが他者を愛するときの姿勢として
さらに服装として
イメージすべきことだろうと思いました

主イエスは
ネクタイを巻いていたのではなくて
手ぬぐいを巻いていたわけです

しかもジャケットを着ていたどころか
上着を脱ぐわけです

礼拝の服装
とりわけ牧師
さらに教派によっては聖職者と呼ばれる
そういう人たちの服装って何なのでしょう???

礼拝でネクタイを巻く牧師として考えさせられます


そして主イエスは
弟子たちみんなの足を洗ってくれました
それは優れた弟子だけではなくて
いやむしろ
イエスを裏切り
イエスを売って金をもらおうとたくらんでいたユダの
そのたくらみをすべて知りつつ
主イエスはユダの足も洗い
手ぬぐいで丁寧に拭いたはずです


この箇所は
ペトロとユダが出てきますが
さてさて
わたしたちは
いったいどちらでしょう???

伝統的にキリスト教会は
教会で生きるキリスト者はペトロのようである
と語ってきたと思います

だから
ペトロが主イエスを知らない!と言ったことまでは
自分のこととして追体験できたりします

でも
ユダに関しては
裏切り者として
今もなお教会で悪役とされているのではないでしょうか

教会は伝統的に
ユダのようになってはいけません!
と語りつつ
自分がユダであるということは考えることが少ないようです


でも
ぼくらはみんなユダだと思います

お金で主イエスを今も売っていると思います

キリスト者は手に心をあてて考えてみたいのですが

自分にお金が入ること
すなわち自分の職業は
礼拝や祈祷会
さらには日々の聖書通読や祈りより
優先されている!

これをまず否定できないと思います


さらには
自分の身に入ってくるお金が
地球の貧しい人たちから搾取されたものであることを
丁寧に覚えつつ
ゆえにその罪をさばかれつつ
お金の聖めを祈るということは

礼拝の献金のときの文句としては言うけれども
実際は意識されきれていないことも

まず否定できないと思います


わたしたちはみんなユダです

でも
こういうわたしたちの足を
主イエスは
わたしたちの奴隷として
わたしたちに実に搾取されている者として
洗うわけです

これを奇跡と呼ばずして何と言うのか!!


さらに主イエスは
ご自分が殺されいなくなる
ということを知ったときに
ご自分の姿を
洗足というかたちにおいてあらわされました

つまり
洗足という具体的行為がキリストであるということです

さらに
洗足をお互いにしなさい!
と主イエスは言われます

つまりキリストの体なる教会の
キリスト性とは
互いの洗足であり
互いに手ぬぐいを腰に巻いて
互いの足を洗う用意がすでにできている
という事柄なのではないでしょうか

なんて具体的!!!

しかも
足をあらわせないならば私(主イエス)とかかわりがないということだ!
とまで主イエスは言うのだから!!!


となると

教会は

地球のため
地域のため
他者のために

それも
地球、地域、他者のかかえる困窮にかかわるために
上着を脱ぎ
腰に手ぬぐいを巻いている!

という具体的な場と人ではないでしょうか?


ぜひとも共に腰に手ぬぐいをまく者となりましょうね


寺園先生が特別伝道礼拝のあとの研修会講演で言っておられましたが
交わりにおける具体的奉仕のない
理念だけのインテリキリスト者は
嘘である
というのは本当だと思います。

ゆえに
そこで行き詰った日本の教会たちは
そこから本気で解放されて
しっかりと地球、地域、他者という現場に立ちなおす必要が本当にあるし
そもそも
地球、地域、他者は
本当にそういうキリストの体を求めているし
その体性から
和解と平和が起こることを
聖書が繰り返ししつこく書いているように
わたしたちもしっかりと信じ
歩みたいと願うばかりです

自己保全的理念
護教的理念

を偶像崇拝としてしりぞけるということが

現代のキリスト者のもっとも大いなるたたかいなのだと思いました!!


少なくとも日本バプテスト京都教会は
その悔い改めの作業から
開かれ
和解と平和のための奉仕
つまり
互いの洗足
に生きる教会として歩み始めました

だから
皆々様を教会へ堂々とお誘いしたく願います

日曜日は
当教会へどうぞ足をお運びくださいませ


ではでは

キリスト「としての」 その弐

2009年06月08日 | 教会のこと
キリスト「としての」
というタイトルの意味する事柄は何か?

というするどい問いをいただきました

感謝です

つまり
キリストはキリストでしかなく
キリスト「としての」
のあとに来るものは
当然
キリスト
以外にはありえない!!!!

というのは神学の基本原理であり
その基本原理を単純に当てはめることで
キリスト教会はかなりの確立で過ちから解放されるのは事実ですが

しかし
今回あえて
「としての」
というテーマを出していこうと思っているところです。

しかし
「としての」
のあとは空欄のままであり
空欄でなくてはなりません

このタイトルの週報巻頭言を呼んでいただければわかるように
そこには
キリストが教会の交わりとなる
ことが書かれています

キリストは教会の交わりです
これはボンヘッファーが明確にし
バルトも追随しているところです

しかし
それは絶対に
教会の交わりはキリストである
とはなりません!!!

この順序は絶対にひっくりかえりません!!

しかしわたしは
絶対にひっくり返らないけれども
そのひっくりかえらない中で
しかしさらに教会の交わりの中身を表そうとするときに
「としての」
ということばを選びました

だから
キリスト「としての」
のあとは空欄でないとなりません
そこに
教会
を入れることはできません

ちょっと高度な論理になっていると思いますが
ことばというのは
それくらい複雑な論理であるわけです




キリストは教会である
としっかり言いつつ
教会はキリストである
と言うことに決定的に注意するということを

はらわたで知るに至ったならば
それは神学、あるいは信仰の半分を知ったということになるだろうと思います

しかしこれがはらわたでわからないならば
たとえ聖書のすべてを原文で暗記し
すべての解釈をすることのできる
聖書研究始まって以来の天才であったとしても
神学、あるいは信仰の半分はいつまでもわからない
ということになります


というむずかしいことを書いて
本日はおしまい

ちなみに
今週の礼拝も祝されました
感謝感謝

ゆるされて

2009年06月07日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

*********************

「ゆるされて生きる」

まず宣伝をしますが、おゆるしください。
日本バプテスト連盟が「平和に関する信仰的宣言」を告白していますが、
その宣言にかんする「平和のいましめ」「恵みのいましめ」に続く「時のいましめ」が発行されました。
これは平和宣言から生まれた説教集です。
わたしの説教も掲載されています。
一冊500円。私の手元に50冊あります。
ぜひお買い求めください。
残ったら大家族で経済事情の厳しい私が買い取らねばならないので、
ぜひ・・・(苦笑)

その平和に関する信仰的宣言は、
先週のペンテコステ青年主催礼拝の説教にて
説教者のN姉が話されたバルメン宣言と
本質を同じくします。

それらの宣言の特徴は、
キリストを人間の心から身体全体へ、宇宙全体へ解放すること、
ゆえに自分の心が痛まなくとも、世界のあちこちで起こる苦痛をキリストの十字架として知ること、
にあります。

そして
その苦痛の解放と、
苦痛を与える神以外の諸力への抵抗、
またその諸力を悔い改めへ導くこと、
さらにその諸力にかかわるわたしたち一人ひとりの罪の認識と告白を
宣言の中心とします。

そしてここまで突詰められると、
宣言はおのずとキリストに集中し、
キリストによってしか起こらない罪人の赦しと罪のさばき、
全宇宙の復活を希望するものとなります。

逆に様々な信仰のことばについて、
それらがキリスト集中に至っているか、
自分の心の問題で終わっていないか、
世界の苦痛を知ることができているか、
という検証も、
平和宣言から起こされます。

すると、罪のさばきの欠けた信仰のことばが多いことも発見できます。

私たちの罪は神にさばいていただけます。
そしてずっと傷跡として残ります。

例えば友人を傷つけたとき、
その友人から傷つけた出来事をなかったことにしてもらうのと、
その傷を友人が背負いながらも、傷つけた私を愛してくれるというのでは、
どちらが本来の深い出来事となるでしょう。
それは後者です。

これが神は罪をさばいてくれて、
そして罪人であるわたしを赦してくれるということです。

私たちはこうしてゆるされて生きます。


キリスト「としての」

2009年06月06日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。
といいましても
今週って今日までありまして・・・
掲載するのを忘れておりました・・・

***********************

「キリストとしての」


本日はペンテコステです。
キリストの復活から50日経過した日です。

それは、
キリストが聖霊としてすべての被造物たちを、
それこそキリストの体として、
さらに言うならば、
キリストの働きを具体的に担うことのゆるされた交わりとして、
つなげる出来事が起こる日です。

だか本質的な意味での教会が起こされるという日です。

さて、私たちが「ひとつとされる」ということは何を意味するのでしょう?

それは個が打ち消され、所属する組織の色にみんなが染まるということでしょうか。

いいえ。
それは質の低い国家や会社などでは起これど、ペンテコステには関係ありません。

みんなが同じ色に染まるのは、
最終的に自分の所属するグループの利益をみんなの目的としているからです。
ここでは、自分は救われて相手は救われない、ということが起こります。

ならばペンテコステで知る「ひとつにされる」こととは何でしょう?
それは自分以上に相手を救うことを決意と共に選び取り、
宣言し行動することを目的とするゆえに「ひとつとされる」交わりです。
そこでは
自分がキリストに救われることを目的とするのではなく、キリストに既に救われていることを知らされ、
ゆえにキリストと共に、キリストの体として、つまり個々人がキリストの一部として、
他者の救いを目的とすることが起こります。

誰の救いが目的かということと、
自分がすでに救われているということを知るか否かが、
交わりが悪魔的か聖霊によるものかの別れ道です。

そういう意味では、教会も確認を怠るとすぐに誤りますし、
その確認とは礼拝における毎週の交わりと「ひとつ」の経験であることは間違いありません。

そして本日は青年会がペンテコステ礼拝のすべてを引き受けてくれます。
礼拝説教、子どもメッセージ、司会、献金当番、受付、OHP当番、讃美歌選択など、
みんなの救いのために、キリストの一部として行為します。
これはそのままペンテコステの業です。
神に心から感謝します。

わたしたちは
ペンテコステにて
今一度
そしてさらに
真の教会とされます。

アーメン


祈り

2009年06月05日 | 「生きる」こと
四男坊のれんくん(4歳)が
我が家の夕食の食前の祈りを毎日してくれます。

昨日はこんなお祈りをしてくれました

ことちゃんと
ママと
Mさんと
ともと
そうくんと
そらと
Wさんと
パパと
れんれんが

大好きです

あと
神さまが大好きです

あと
みんなが大好きです

アーメン

だれも教えていないのですが
そのときに食事を共にする人の名前を全部言ってくれます
これってすごいことだと思います


そして本日はこんなお祈りをしてくれました

神さま
今日はママの誕生日です
だから
ママはごはんをたくさん食べなさい

神さまも
みんなも
一緒にごはんを食べます

神さまもみんなも大好きです

アーメン


こういう祈りのときとことばを共有できるだけでも

キリスト者でよかった
って思います

感謝感謝


若菜さん
おめでとう!!



風景

2009年06月04日 | 「生きる」こと
本日は同志社国際中学校でおなはし

以前にもお世話になったことがあるけれども
学校に到着しても風景の記憶が戻ってきません

しかし
40分ほど電車にゆられて
トイレに行きたくなっていて
担当の先生にトイレを教えてもらって
そして座ったら

あらら
そのトイレの風景は記憶にありました

つまり
前回もトイレを借りたというわけです

なんでトイレだけ・・・


中学生たちは
お話にたいする反応もいいし
目をしっかりこっちを見てくれていたし
とても楽しかったです


そういうはなしをもっとここでしたいのだけれども

どうしてもトイレの風景だけが鮮明に浮かんできてしまうので

本日はこれにておしまい

ということですみません

結び合わされて

2009年06月02日 | 「生きる」こと
昨日はホームレス支援炊き出し

わきあいあいなわけですが
そのなかで
ふたりの方から命の看取りを依頼されました

依頼するときに
ぼくを呼ぶ声からして
すでに覚悟を決めた決断を知ることができますし
一歩一歩近づく歩みも
わたしを見る目も
そして50cmくらいの距離となり
静かに
間接的な言葉で語る
その声のトーンというか
のどのふるえというか
辞書的な意味ではないところのそこで起こされている言葉というか
それらはお互いの神経を一気に結び合わせるものであることを
昨日も経験しました

だから
こんなことを打ち込みながら涙が出るのです

命って何でしょう?


夜は家族と蛍を見に行きました
ほたるが体のまわりを飛んでいくのは感動です
その静かな空間と時間のすべての瞬間に
身体が丁寧に反応するという不思議な経験をします

こういう丁寧な反応は子どもでもできることをも発見しました

そして蛍はとなりのおばさんの肩にとまりました

美しい・・・



その帰りがけにコンビニでアイスクリームでも食べようと思ってみんなで自転車をこいでいたら
携帯にメールが入りました
「今晩お暇?」
あらら
たぶん今日本で一番忙しい友人牧師からのメールでした
「お暇よ」
と返事をしましたら
関西で数本の礼拝説教と講演があるために
新幹線で京都に向かっているとのこと

この一ヶ月にふたつの会議で合計4日間も一緒だったのですが
しかしまだまだいろいろと議論を深めたいこともありますし
互いに互いを牧会するということでもあるので
よろこんで京都駅に行きまして
一緒に飲みました

面白かった議論としては
もはや引用はやめよう!というものがありました
偉大なる先輩方の言葉も
私が読んで使用してそのことば生きたなら
すでに私の言葉だし
どうどうと私の言葉として構成しなおして使おう!
というものです

あとは
一流の学者よりも
学者としては二流三流でも一流の教育者が必要だ
という議論も面白かったです
これはただ単純な手段としていっているのではなくて
歴史を丁寧に学ぶなかで言っていくという
まさに議論として語り合いました

どの分野でもそうなんではないでしょうか・・・


なんの議論をするにも
彼との議論だと
互いにキリストを主語とするところからはずれないので
とても爽快だし
そもそも議論が深まるからうれしいです

たいがい牧師といっても
やすっぽい心理学とか
単純なイメージとか
ただのコンプレックスによるものとか
ストレス発散
というところからの言葉が中心をしめることが多いのですが

そういうかけらもない対話になるのが
なにしろ嬉しい!!


本日は
もう寝ます

だから明日はすっきりになる予定です

ではおやすみなさい

果実

2009年06月01日 | 教会のこと
幸せな一日でした
(もう昨日ですが・・・)

ペンテコステをこれほどまでに豊かにいただいた年は
これまでになかったような気がします

それはペンテコステ礼拝を青年たちが主催した出来事に由るのは間違いないわけですが・・・

Nさんの説教はすばらしかった
出だしの聖書釈義の綿密さにまず感動
もはやわたしはそのあたりの釈義をさぼっているので
反省しつつ聞いておりました

しかししかし
その後の説教本筋部分は圧倒的でした

綿密さに加えて厚みがありました

聖霊という弁護者による決断的生
こそが
真理へと導かれる生

というテーマと受け取りましたが

それを
ドイツの歴史とバルメン宣言
バルトがその時代にぶつけたことばと
ボンヘッファーの聖霊による決断的生
そして日本の歴史と教会の罪責告白

という内容をもって語ってくれまして

これはこれはひさしぶりに聞く
説教たる説教でした

それは
本職の牧師の説教も含めて
この間聞いてきた説教ではぴか一でした

歴史と神学をしっかり学ぶことは
ほんとに大事です

牧師さんたち
一緒にもっともっと学びましょう


Nさんは歴史を学んでいる学生なわけですが

わたし
思わず
牧師にならへん?
と聞いてしまいました

でも強く否定されてしまいました

Nさんは学校の教員になるという希望を持っています
でも歴史をしっかり語る教員も大切なので
その道のためにわたしも力を尽くしたい限りであります



しかし牧師になりたいとなんとなく思ってしまったときには

これまた力を尽くしたいのであります
(献身ってふと起こってしまうので
 そういうときはわたしもすべてを注ぐのです)

また司会もよかったあ
Iさんの初司会でしたが

事前の準備と祈りが充実していたことがよくわかるものでした

祈りは余計なことばがなく
しかしすべてを祈るものでしたし

ひとつひとつの進行も
丁寧に準備されたものでした


というわけで

わたしにとっては
なにしろ充実したペンテコステだったわけです


しかしここにきて
ウチの教会は
またひとつ皮がむけた感があります

赴任当時は
教会メンバーでも
ゲスト気分の人が95%
ホストは5%
という
自他共に認めるところの
正直こまった教会でしたが

6年前くらいに気づくとホストが3割くらいになっておりまして
それがすこしづつ増えてきているとは感じていたけれども

ここにきてホストが5割を超えたと思います

ということは
ウチの教会の交わりは
人を迎え
人を受け
人を愛する
ことが実質可能になったということだと思います


わたしは
ホスト60%を目指しております

(いつか書いたかもしれませんが
 わたしは何事も完璧だとおもう姿の60%が整えば
 実は完璧になる
 と経験上考えているのです)

そうすると
あとはほうっておいても
交わりが交わりゆえに
勝手に成熟し
当然そこで生きる人間も成熟するしかなくなると思います
そういうのを聖霊の業と認識できるのだろうと思います


そうそう
午後の総会も
(今回の総会は簡単なほうの総会で
 がっちりやる総会は2月末ですが)
気づけば出席者が
赴任時の3倍
ほんの2年前の1.5倍
ではありませんか


というわけで

10年やってきたことの
果実を味わうという意味でも
本日(昨日)は幸せでした

みなさん
また来週も一緒に礼拝しましょう

感謝感謝