きぼう屋

生きているから生きている

法を越えて・・・児玉教授の言葉と関田牧師の言葉

2011年07月30日 | 「生きる」こと
児玉龍彦教授の発言の精密さと重さに心打たれた。
私はとくに下記の発言に勇気付けられた。
児玉先生は言われた。

「緊急に子どもの被曝を減少させるために、新しい法律を制定してください。
私の現在やっていることはすべて法律違反です。
現在の障害防止法では、核施設で扱える放射線量、核種などは決められています。
東大の27のいろいろなセンターを動員して南相馬の支援を行っていますが、
多くの施設はセシウム使用権限など得ていません。車で運搬するのも違反です。
しかしお母さんや先生たちに高線量のものを渡してくるわけにはいきませんから、
今の東大の除染では、
すべてのものをドラム缶に詰めて東京にもって帰ってきています。
受け入れも法律違反、
すべて法律違反です。
このような状態を放置しているのは国会の責任であります。」

法律が人のためでないならば、人は法律を違反し人を守るのだ。

実は関田寛雄牧師が、
日本バプテスト連盟ホームレス支援特別委員会での講演で、
以下のように語られた。

「国の法律ではなんだかんだと決まりがあります。
その法律違反を恐れていては、本当の仕事はできません。
日本社会において、本当に牧会するということ、
人の魂をケアしていくということは、
日本社会の法律の枠の中だけでできると思ったら大間違いです。
ぎりぎりのところでみんな生きているのです。
すれすれのところで生きている。
その法の枠を越えないことには、
その人の存在そのものを見つけることはできません。
だから私は、
国有地に朝鮮人が「不法侵入(あくまでも括弧つき)」して「不法建築」した建物を買い受けました。
だから戸手にすんでいる在日朝鮮人たちの「不法性」を共有しているのです。
彼らと同じように、私も不法なのです。
私はそういうところに何か、宮清めをしたイエス様、
また「安息日は人のためにあるのだ!」
と敢えて言って法律を越えたイエス様の自由に、
つながっていけるような気がします。
国の法律は尊重します。
尊重しますが、
このぎりぎりのところで人間の命を見捨てるような法律ならば、逆らいますよという、
いわば「開き直り」です。
それは本当に、安息日だからといって命の尊さを妨げるようなユダヤ教の当局者の動きに対して、「否!」と言ってこられたイエス様の、あの自由さというものに与れるような気がします。
大いに人権問題に役立つところは一所懸命法律を守りますが、
場合によってはそうではない。
私はそういうことを教会の信徒の方々が了承することが大事と思います。
『国法に反してまで、そんなことをする必要があるのか』というような固定観念を崩して、
国法より何より、
教会は神の国の法律に従うのが一番なのです。
『汝の隣人を愛せよ』という戒めの下で、この人となんとか一緒に生きていく。
そのために国の法律が邪魔になるときは、越えていきましょう、ということが了解できるような教会員となるためには、
教会員自身が、ホームレスや在日の方に具体的にめぐり合って友達になっていけばいいのです。
名前を呼び合う友達になっていくと、これは黙っておれない。
これはこのまま放ってはおけないということになるのです。
放っておけないという思いが、たまたま法律を越えていく、
これでいいのです」。

心熱くして聞いたことを思い起こす。
この講演は
バプ連ホームレス支援特別委員会発行「『ホームレス』と教会」に収録されている。

神の言を伝承する

2011年07月27日 | 教会のこと
今週の日本バプテスト京都教会の週報巻頭エッセイです。

************************

「神の言を伝承する」

 いよいよ土日に夏期小学生キャンプが開催される。
今年は北山教会、シオンの丘教会と合同で行う。
他教会との合同キャンプは当教会としては初の試みとなる。
このキャンプから教会と教会とが具体的につながる歩みを開始したい。
連盟や連合という枠の中に一緒にいるというゆるい関係のみならず、
具体的に顔を合わせて覚えあう教会どうしの関係が
今後の新しい聖書からのかたち(パウロの手紙は教会と教会を具体的につなげる)となるだろう。
 
そしてこのキャンプで、
私たち教会は若い神の子たちに教会の大切にしている事柄を伝承したい。
それは神の言である。(言の中身をここで詳しく述べるスペースがないことをお詫びする)。

教会をはじめ、人の集まる活動体が活発になるために、人は二つの方法を持つ。
一つは洗脳。もう一つは伝承。
恐らく活気ある教会の多くは牧師のカリスマによる洗脳である。
でも私は洗脳を否定はしない。
人はカリスマと洗脳とを求めるものだ。
聖書の登場人物たちからして、神がそのような人材を備えていると考えることもできる。

しかし、カリスマによる洗脳は歴史を重ねることができない。
カリスマ存在時期のみ活発であるが、それ以降は衰退する。
二千年以上の歴史を持つ教会はこのことをよく知る。
だからもうひとつの方法をさらに大切にする。
それは伝承である。

先輩の信仰者は後輩たちに自らに語られた神の言を深い響きを持って語ることが赦された。
そうして聖書が生まれたほどだ。
そして小学生キャンプにて、教会学校のリーダーや奉仕者、いや全ての先輩は、
後輩たちに自らに響く言を響かせねばならない。
「ねばならない」のである。
これが信仰者の使命であり大人の使命だ。

神は信仰者に常に語られている。
信仰者はそれを吸音材として消すこともできる。
しかし神はそれを求めない。
信仰者が楽器として神の言を響かせることを求める。
ただ、信仰者という楽器は言を大きく響かせることはできない。
なぜなら神の言は十字架の苦難であり贖罪であるからだ。
いと小さき者たちの言葉にならない悲痛や私たちの隠す罪などが、
しかしキリストの痛みとキリストの引き受けた罪としての神の言として信仰者に届く。
つまり響きづらいものとして届く。

それを先輩の信仰者は後輩たちに、
消えないように丁寧に響かせつつ伝える。
すると後輩たちにも神の言が響く。
神はこの作業のために人を同労者として選んだ。
聖霊はこの作業のために人を仲間とする。

当教会には伝承がさらに必要だ。
伝承が活発になることは、教会の意味の根幹の獲得でもある。
信仰者は伝承のために、
神に祈り、キリストに燃え、聖霊に押し出されたい。

今も確実に響いている神の言を響かせていきたい。

311以後の道標として「『ホームレス』と教会」(連盟ホームレス支援委員会発行)からの言葉たち

2011年07月26日 | 「生きる」こと
3.11以後の教会とキリスト者の道標としてタイトルの冊子はいいなあと思います。
そこでいくつかその冊子の言葉を紹介します。
これはtwitterで紹介させていただいたものなので140字でテーゼ的に語られたものしか紹介できていません。
もっといろんな方の言葉が冊子には載っているのですが、
文体の特徴なのでしょうか、140字以内で言い切る文体と、もっと字数をかけて語る文体があり、
その前者のみ紹介できました。もちろん後者のものも優れているので、それは冊子にて。

**********************

<本田哲郎神父の言葉>

「貧しく小さくされた仲間たちを通して、必ず神は共に働かれる」。

「選びの理由は、それしかない。一番貧しく小さくされた者です」。

「本当に一番貧しく小さくされた者を通して、神はすべての人の救いのために彼らを選んでいる」。

「ゴミとかほこりとかが集積したような一番の低み。そこから神が共に立ち上がるという、それが神の働きの本質なんだ・・・」。

「貧しいことはよいことだ。小さいことは謙遜の証だということではない。第一、イエスは謙遜の模範を示さなかった。一度もへりくだりは見せてくれなかった。むしろそこからいかにして立ち上がるべきかということを死ぬまでやっていった」。


<関田寛雄牧師の言葉>

「常識というのは必ず強い者の側、多数者の側に立って働く。それをひっくり返していくことには大きな抵抗がある。だけれども、少なくとも私たちが神の国の福音から聞いていることは、常識をひっくり返して、保証されない人の側から、周辺化される人の側からものを考え、それを常識にしていく」。

「福音は常識を否定はしない。ただ新しい常識をも作る」。

「相対評価ではない。比較して評価するものではない。その命はその命として絶対的によしとされている」。

「根元的な神さまの一人ひとりに対する絶対評価が、この社会の常識なっていくための終わりなき闘いを闘い続けていくことが、教会の宣教ではないだろうか」。

「神の愛はまんべんなく注がれる愛、本質的にはそうかもしれません。だけれども、具体的現実的には、この時この人のためにと、愛が集中するわけです。偏った愛なのです。それがキリスト教的常識です」。


<奥田知志牧師の言葉>

「マタイ25章。『いと小さき者』という視座。世界の裁きという大きなスケールのことが、いと小さき者の一人にという最も小さい者を基準として始まる」。「世界の裁きは、最も小さな者の一人にしたことによって決まる」。

「世界はいと小さき者との関係によって決定づけられる」。

「イエスは、このいと小さき者への一つの行為が、実は世界の裁き、世界の救いという事柄に直結していると語っている」。

「宗教が陥っていった大きな罠は、宗教が個人化し精神化していったことだと思う。たとえばオウム真理教は肉体性を捨て去るということを修行の目的としていた・・・」

「現代の教会はややもすると『心』の楽しみにあまんじているのではないか。身体的に現実的な暮らしが望みに満たされることについてどのような展望と責任を持っているだろうか」。

「追われゆく者たち、孤立無縁とされた者たちは、次代の新たなる世界の創造を担う可能性をもった存在なのだ」。

「教会は形骸化した晩餐式(聖餐式)に甘んじるのではなく、罪の引き受けを含む食卓共同体としてあるべきではないか」。


<谷本仰牧師の言葉>

「聖書を読むのは語るためだ。具体的な情況の中で行動し発言するために聖書を読む。知識を蓄えるためでも脳のしわを増やすためでもない」。

「弱肉強食の論理に追いやられて閉じ込められた存在という弱者(ホームレスを襲撃する若者たち)」

「会社で通用することが教会で通用してはたまらない。教会は世の中と全く違うことを言う。つまり福音を語る」。

「日ごとの糧を今日も与えてください、という主の祈り。信じることと祈ることは食べることでもある。だから教会は食べるところでもある」。

「人が人に対して『かまわないでくれ』『あんたに関係ない』という現実に対して、『黙れ』というのが教会の仕事」。

「悪霊というのは、『あんな人たちと私は関係がない』と人に言わせる働きをする者として登場する」。

「からからに乾ききって、言葉も出ないその舌に、イエスが、イエスの言葉を置いてくださる」。

「借り物でいい。借り物の言葉で勝負する。自分の言葉で勝負するうちはクリスチャンでも教会でもない。借り物の言葉、すなわち主イエスの言葉で勝負する」。

「自分のことは自分が一番よく知っている、というのはクリスチャンの言葉ではない。イエス様が自分のことを一番よく知っていてくださるから安心だ、というのがクリスチャンの言葉」。


<私の言葉>

「教会形成はキリストがする」。

「我々のイメージできる範囲を超えたところで何かが起こされていく教会形成を信じ期待する」。

「他者と接触することは危険を呼び込む。接触により疲労も覚える。しかし、その中でしか他者との出会いはなく、共に生きることも起こらない」。

「人と人とが接触する摩擦、緊張、そこからくる不安、恐怖、そして排斥。キリストの体はそれらを包含する。ゆえに安定、安全はない。しかし終末の希望に照らされ、平和の芽がある、と信じる」。

「『古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることである』ならば、私たちの手に入れた安全安定は、所詮古いものとして過ぎ去っていく程度のものであると、私たちは端から理解していいのではないか」。

「そして私たちは新しく神から出るものに期待しながら教会を生きる。すると、教会は安定しない現場に立ち続けることもできる」。

「新しい人がそこに招かれ加わる度に教会は新しく変わる。出会いがある以上、それまでとは変わる。だから常に不安定で常にゆれるのが教会」。

「他者と出会うこととは私が新しく変わること」。

「他者と出会い私が変わるという激震を起こすのが福音。和解の福音」。

「神の赦しにより限界は乗り越えられる。倫理の出発点は罪の赦しである」。「罪を告白しないところにもはや教会は存在しない」。以上ボンヘッファー。「主の癒しに与るために一つの疲労を伴う行動が要求される。それは罪の告白。疲労した教会は罪の告白により生じる疲労を避けるかもしれない。しかしその疲労と、罪を告白せず生きるその後の多大な疲労とを比べるならば、前者の疲労は比較にならないほど軽い」。


肯定されること、愛されること、愛すること、用いられること

2011年07月24日 | 「生きる」こと
自分が肯定されるということは不可欠。でも自分で自分を肯定することは不必要。他者が自分を肯定してくれることが必要。他者が愛してくれることが必要。でも自分で自分を愛することは不必要、つまり自己愛は不必要。自己愛(ナルシズム)は病でもあるわけで・・・。

自分が肯定されるということなしに僕らは(少なくとも僕は)生きていけないなあ。肯定されるためには他者から愛されることが不可欠だけど、そもそも他者との出会いすらないとき、孤独なとき、どうする?。だからやっぱり神が自分を愛しているという事実が人に不可欠な自己肯定を与えるわけだ。

♪君は愛されるため生まれたぁ。のだなあ。これでもって自分を肯定できる。そして存在を肯定されたら即行為が起こされる。それは愛するという行為。君は愛するため生まれたぁ。になるわけだなあ。神に肯定され、神に用いられる。神に愛され、他者を愛する。ここまでひとくくりで自律。これがいいね。

小泉さんが首相だったころ、彼はよくナルシストと言われたけど、ほんとそうだと思う。自分で自分を肯定する人。自分で自分を愛する人。すると、自分で自分を肯定するために自分のイメージをつくりはじめるようだ。そのイメージは多数の人にウケるものにするようだ。

自己愛的な肯定感は、多数の人にウケるイメージを大事にし始めて、中身を問わなくなる。でも多数の人にウケると数の力を得る。人とお金は集まる。で、実は大小問わず商売しているところは、人とお金を集めたいからウケるイメージを求める。でもそれは自己愛的肯定感で病的かも。

むしろ企業の利益追求のための方法論が個人の肯定感確保に用いられているという順序かも。

自己愛的肯定感は自分が護られることが目的となる。商売では儲かることのみが目的となる。そこから何が消えるか。自分が削られること、自分が傷つくこと、自分が他者のために損をかぶること、責任をとること、が消える。つまり、愛することが消える。

東電は、自己愛的肯定感のなかで外側の人を(お客様を)愛することを見事に失っていた企業のよう。ひとつの病。そしてこの病は悪。

キリスト教会をはじめ宗教も、人とお金を集めるために自分で自分を愛して多数にウケるイメージを提供しはじめていることも自己批判しつつ確認したい。宗教が中身を失っている可能性はある。そして宗教が人を愛せなくなっている可能性もある。宗教が社会的弱者にまだまだ無関心という事実がある。

これまたそもそも教会の「集める」伝道で用いた方法が企業に取り入れられた可能性もある。

そういえば奥田牧師はテレビで自己有用感という言葉を用いていたけど、これはつまり神に愛された自己肯定感と、ゆえに他者を愛し他者に頼られるという自己有用感ということかなあ。

つまり、神に愛されたら即他者を愛する、のが人。ということかなあ。

キリストはわたしのため。わたしはキリストのため、他者のため。

2011年07月23日 | 教会のこと
主が私の身代わりになる。主が私のために死ぬ。私のためによみがえる。私は主のために生きる。主のために死ぬ(ローマ14章)。私が主の身代わりになる???。難しい。どういうこと?主が私の隣にいるとか、私の内にいるとかいう表現ではなんかもの足りない。なんかもっとすごい。

キリストと人との関係は互いが互いのために在る関係。互いが自分のために互いを必要とする共依存を突破した共に生きるかたち。依存からの解放はキリストが私のために死んで生きることにより起こる。で、私がキリストのために食べて生きていずれ死ぬ。で、人間関係もこのかたちに与る。わけか・・。

脳みそが疲れたので大雑把に。つまり!自分のために生きるのは実はつまらんからさっさとやめて、キリストのために生きる!他者のために生きる!とりわけ他者の苦難の只中で!キリストの十字架にへばりつき!私は生き抜く!と日々覚悟を持って決断することを信仰というようだ。祈りつつそうしたいのだ。

自分のためにではなく他者のために!安息日は、私が主のために生き、同時に他者のために生きる時ということか。弟子たちが安息日に麦の穂を摘んだ(マタイ12章など)のはキリストのために食べる(ローマ14章)ためか。キリストのため!か!。

安息日の礼拝は他者のために生きること。自分のための礼拝ではなく、キリストのための礼拝であり他者のための礼拝であること。他者のために祈り他者のために讃美し他者のために聴く。一方で、緊急の他者のための業があるときに礼拝に参加できなくともその者は礼拝しているとまで解釈したら行きすぎか。

しかし他者のための業をなすためには礼拝参加が不可欠になることは業をなす者が最もよく知ることなのですが。。。

奉仕に満足はないわけだな。相手のためにするゆえに相手に行き届いたかどうかは常に不安なわけだ。自分が満足するため、スッキリするための奉仕は、実は自分を幸せにしないな。満足しない奉仕ゆえに幸せを得るわけだ。だから永遠に奉仕できるわけだな。満足したら不幸と言っても過言でないな。

他者のために祈り讃美するならば、祈りも讃美も私に満足を提供することはないのだろうな。満足できない幸せを提供してくれるわけだ。つまり、明日も他者のために祈り讃美できる幸せ。なお他者につながり行き届く可能性があるという幸せ。

神の言を響かせる楽器たる教会

2011年07月22日 | 「生きる」こと
「すべての武器を楽器に」というフレーズにいまさらながらドキッとする。神の言は武器では表現されない。エフェソ書における「神の武具」は真理と正義と信仰と救い。殺す道具では到底ない。だから武器は持たない。そして、代わりに楽器というのところの意味がふと見えた。

神の言が私に語りかけられている。私はそれを吸音材として吸収して響かせないこともできる。でも言は響かなければ消える。神の言は私を通して響くことを求めている。だから私は楽器を持つ。というか、楽器になる。神の言が広範囲に響くための楽器になる。開放的な楽器になる。

神の言を響かせる楽器としての教会。でもその言は苦難の十字架としてあらわれる。声に出す力を持ち合わせないほどの苦難の言を響かせる楽器とは何か?楽器に通される最初の響きを持ち合わせないほどの言の響きを受けられる楽器とは何か?そういう楽器たる教会とは?

神の言を響かせる楽器たる教会は、しかし言を大音量で響かせることはできない。わずかな響きを受け取り消すことなく響かせる。その響きは一気に広範囲に届かない。隣の人が響き、さらに隣の人が響く。響きが消えないように手渡しで響き合っていく。でもそうやって広範囲に響く。

放射能物質汚染時代に私が救われるということは、神のさばきに生きるということなのだろう。

2011年07月21日 | 「生きる」こと
罪な私ゆえの罪な時代。罪な時代ゆえの罪な私。罪人として罪時代を生きる希望は何?どこ?いつ?誰?

罪時代のさばきと罪人のさばきは、罪時代に罪人として生き抜く希望から恵みとして起こされる。

私の罪としての東電の罪。私の醜さとしての原発村の醜さ。原発利権を壊すことで私は私を壊す。あらゆる利権とたたかうことで私は私とたたかう。そのために私は生き抜く。

原発事故で明らかになる神以外の諸力を退ける神の働きに参与する。神は私を神以外の諸力に参与する者としてさばくとしてもその神の働きに参与する。そこで私は神のさばきに与ることが赦される。さばきを逃れつつ神以外の諸力を退けようと私がするならば、それはサタンでサタンを追い出すにすぎない。

救われることの中にはさばかれることが含まれる。救われるゆえにさばかれ、さばかれるゆえに救われる。十字架のキリストを直視する。キリストの肉は切り裂かれ血はしたたる。十字架の刺さる地面には黒い血が溜まる。さばかれているキリストに私は関係付けられる。キリストが代理する私へのさばき。

*******************

放射能物質汚染時代に私が救われるということは、神のさばきに生きるということなのだろう。

真剣に遊ぶ

2011年07月21日 | 「生きる」こと
使命をなすことも、間違いなく仕事をこなすことも、そもそも生きることも、真剣に遊ぶことなんだろうなあ。まじめに作業をするという感じではなくて・・・。リスクも楽しむというか・・・。

イエスは律法を完成させるために来たとのこと。律法をはじめあらゆる法とか、徳とか精神というものは、目的であって手段ではないのか?で、その場合の手段は・・・遊び!!律法に遊びつつ向かう。

手段が法だとガチガチで非人間的。手段を法にすると利益のために法を利用する。法はもっと尊敬されなければ!法はもっと完全でなければ!法の完全化を目指して、自由に生きる。真剣に自由を生きることこそ遊び。

遊びとしての礼拝の獲得。かしこまった服装と儀式という祭りの側面も大事だが、同時に祭の持つにぎやかに飲み食いして歌い踊り無礼講になるという面が復権することも大事かも。

幼い頃からの記憶に正直になってみる。私の歴史に、心に、何が刻まれているか?家族や友人と遊んだ記憶なんだなあ。飲み食いした記憶なんだなあ。今も心痛める記憶を遊びの記憶が癒す感じというか。キリストとの交わりが心に刻まれるのも同じなんていうと言い過ぎ?

受験勉強とかも、真剣に記憶するよりも、遊びながら、ゲーム的に、あるいはみんなわいわいしながら記憶するほうが、後々まで記憶されていることになったりしない?

遊ぶことで枠を破る。遊びは創造。遊びで言葉の概念を突き破り詩が生まれる。遊びで個々人の領域が破られ新たな関係が結ばれる。眠るのも遊び。目覚めるのも遊び。食べるのもうんちするのも脳や体を鍛えるのも休めるのも遊び。うわあ。たぶんかなり飛躍しすぎてるう。

でも間違ってはいないと思うのでした。

.

歴史の証言と意味

2011年07月19日 | 教会のこと
今週の週報巻頭エッセイです。

*************************

「歴史の証言と意味」

本日の週報にて、59年の歴史の中で数字が四つずれていた週報ナンバーを訂正。
そして本日の週報は3,000号。
S兄とH兄が当教会の現存する週報すべてに目を通し分析するという細かい作業をしてくださり、
本日正確な数字を回復することができた。
お二人に感謝するばかりである。
さらにその作業により、週報を発行していないと思われる最初期の礼拝があることもわかった。
礼拝回数で言うと本日は3,080回目。
そこで本日の週報からは週報ナンバーに加え礼拝ナンバーも表示される。

さて、私たちは3,080回の礼拝と3,000号の週報を受けることがゆるされた。
それだけの歴史を主と共に重ねた。
そして来年は60周年。
この区切りのときに教会の歴史の歩みを次の世代に残す作業に挑戦している。
しかし歴史はどのようにして継承されるのか。

わたしは聖書から大きくわけて二つの方法を見出す。
一つは歴史の物語を証言すること。もう一つは各時代の意味を見出すこと。
前者は福音書の記述方法であり、後者パウロ書簡の方法であると言えるかもしれない。

まず大事なのは証がたくさん起こされること。
これはそのために祈りに祈ることから始まるだろう。
証は自分の体験をそのまま語られるものが望ましい。
それぞれ体験に意味付けはされているだろうが、意味よりも体験がそのまま物語られることが大事。
福音書が、具体的な場所と時間にて起こった事と会話などを物語りとしてそのまま伝えるように、
できる範囲で細かいところまで思い出しつつ、その場にいなかった次世代の者に伝えることが出来ればと願う。
いつ、どこで、どういう景色の中で、だれとだれがいる中で、こんなことがあった、
と、淡々と伝えることができたら、
実は継承の大部分が成功したこととなる。

たくさんの証が重ねられるとき、今度はその物語の意味が見出されていく。
パウロがイエスの共同体の証を聴くところからそれらの意味を与えられ、手紙としているように。

その時、意味付けをする者たちは注意する必要がある。
意味づけは歴史の物語を生かすことも殺すことも出来ることを。
意味付けとはそれぞれの物語の本質を発見し、その本質にて物語通しを関連させることである。
しかし本質は簡単に見抜けるものではない。深い洞察と知識、物語の前での沈黙と追体験とを要する。
もっとも悪い例は、
すべての物語を「神の計画」という一言でまとめてしまい、
個々の物語の内包する十字架の罪と苦難と赦し、復活の希望、
さらにそれらがごちゃごちゃに絡まっている事実が無視されてしまうというようなもの。

そうではなく、ごちゃごちゃの只中に証を聞いた者たちが身を置き、
ごちゃごちゃの只中で本質が見出され、物語どうしが繋がり、時代の特徴が見えてくるだろう。
ここに意味が与えられるはず。

そして意味付けは次世代の者たちの大切な役割である。

私たちは、京都教会による福音書(証言)と京都の信徒への手紙(意味)を見出していきたいと願う

スチュワードシップ*高価な恵みとしての献金

2011年07月15日 | 教会のこと
今週の週報巻頭エッセイです。

************************

「高価な恵みとしての献金」

先月25日のスチュワードシップ・教会形成研修会にて、私たちは、
キリスト教会が特に献金において長年大切にしている十分の一という基準がある一方で
新約聖書から知ることができるのは十分の十であることを学びました。
そしてバプテストとは、
国家から自由になるためのたたかいに、
信仰の事柄として十分の十にてかかわることを選び取り、
同時に、国家により不自由とされている者たちとの連帯、あるいは彼(女)らへの支援を、
十分の十にて選び取ったことを分かち合いました。

使徒言行録に記される初代教会も似た状況であったと想像します。
それが原始共産制をとった教会の選びだったのではないでしょうか。
その時代地域にて市民に不自由と苦難を与える大きな力から解放されるために、
教会メンバーは十分の十の財力と能力等を注いでいくわけです。

さて、しかし十分の十は同時にカルトに変質する可能性を多く持ちます。
ときたま全財産を宗教団体にささげるという行為が報道され、カルトであることが批判されますが、
罪人に過ぎない私たちは、
財産を神のためではなく自分たちのために用いることを
知らず知らずのうちにすることを心に留めなければなりません。
さらに言うならば、
私たちが「神のため」を知ることができるかどうかと問われるならば、
それは自明ではないことを前提とする必要すらあります。
つまり、十分の十をささげるという行為を選び取るならば、
どんなに優れた共同体でもカルトとなる可能性が極めて高くなるわけです。

そしてその中でキリスト教会は歴史的に、
旧約聖書から十分の一という数字を見出し、それを基準としています。
そして十分の一は教会共同体の責任にて、
残る十分の九は各々の責任にて、
神のために用いることをひとつの知恵として見出しています。
ですので、例えば十分の一についての学びと分かち合いが不十分である当教会などは、
当面は十分の一という数字を味わうことが豊かな恵みに与ることであると思います。

しかし後々は、
十分の一という基準以上に、
共同体のために自分が痛みを覚えることのできる献金の精神を基準にしたく思います。
つまり余った中から献金するのではなく、
自分の生活を削ることで、
キリストが私たちのためにご自身が削り取られていることを知るという、
そういう献金に出会いたいと願うのです。
つまり自分の十字架を負う(マルコ8:34など)行為としての献金があるわけです。
しかも共に生きることとは、
互いに痛みを共有することと同じ意味と言って過言でない事柄です。
献金は共に生きる行為なのです。
そして十分の一は、不思議とだれでも自分が削られる思いを持つことのできる数値であり、
そのあたりが今もってキリスト教会全体の基準となってることと関係があるのではないかと思います。

献金は、十字架を味わうところの高価な恵みなのです。

私たちの教会のヴィジョン

2011年07月06日 | 教会のこと
今週の週報巻頭エッセイです。

今回は当教会の運動をし続けるというテーマですので、
一般向けではないのですが・・・。

*********************

「私たちの教会のヴィジョン」


先週は藤田英彦牧師を迎えスチュワードシップ・教会形成を学ぶことがゆるされた。
藤田牧師の骨太の話は、当教会の背骨が太くされるための神の恵みであった。

その中で私たちは、ヴィジョンにおいてひとつとなるべきことを確認した。
歴史を通して地球上にあらゆる教会が起こされ、主に従うためのあらゆるヴィジョンがそれぞれに与えられる。
そして各教会は異なるヴィジョンを持つ。
ただしヴィジョンは限界を抱える私たちがその限界の中で具体的にひとつとなるための、
人間的なものであることを前提として知る必要がある。
ゆえにややもすると各教会のヴィジョンは二の次で礼拝に集中するということになるかもしれない。
しかし、罪人の集まりである私たちは、共に教会家族として歴史を重ね総会を経て共にヴィジョンを決断してきた。
つまり人間的なものであるからこそ慎重にヴィジョンと向き合っている。
そして人間である私たちができる主との協働として、
ヴィジョンを目指してひとつとなることは欠かせない。

本日はこの場で当教会のヴィジョンを共有したい。
まず2004年に決議され、数年ごとに改定されている「グランドプラン」にて、

私たちは、
聖書の言葉と日常を対話させること、
他者の隣人となること、
教会が地域の拠点となること、
の三点を理念とし、

活動の重点として、
60周年に向けた歴史の掘り起こし、
高齢者とのかかわり、
子どもとのかかわり、
教会学校の深化、
ホームレス支援、
依存症者ミーティングへの協力、
改築、
の7点を挙げている。

さらにグランドプランの展開としての中長期計画として、
100人礼拝の実現、
献金行為の信仰的理解の熟成、
会計システムの改定、
2015年増改築完成、
60周年計画を、
今年2月の総会で決議した。

私たちはこれらのヴィジョンが実現することを共に祈り、
それによりひとつとなる恵みをもいただきたく願う。

ただヴィジョンとして足りていないものもある。
それは青年の交わりと人格の信仰的深化、
教会音楽の深化である。
次回総会ではこのあたりを共に議論したく願う。

そして何よりも、311を受けたことにより
私たちの交わりが変化するゆえに、
ヴィジョンでかかげたひとつひとつの中身が変化するだろう。
共に丁寧に変化していきたいと願う。