きぼう屋

生きているから生きている

起こる!

2012年05月29日 | 教会のこと
今週の日本バプテスト京都教会の週報巻頭エッセイです。

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「起こる!」

金環日食でもちきりだった先週。
私は絶対にしてはいけないという警告をあちこちから聞きつつも、肉眼で楽しんでしまいましたが、みなさんはいかがでしたでしょうか。
空にリングが浮かんだときの感動はかなりのものでした。
でも私はそれ以上に、日食時に暗くなったこと、気温がさがったこと、風が強くなったことに驚きました。
また少しこわくもなりました。
恐らくリングの美しさは事前にイメージできていたのに対し、体に直接覚える光や気温や風は事前の想像を超えていたのだろうと思います。

数十年、数百年に一度起こる金環日食について、日時等をこれほどまでに正確に予測できる現在の科学技術のすごみを覚えたと同時に、
しかし、日食という事が起こったときに覚える衝撃は、予想を超えたことに、私は感動したわけです。

私たちは日々起こすことを事前に計画します。
起こすことをイメージトレーニングする重要性も語られます。
それはできるだけ予想がどおりに生きることを人が無意識に求めているということかも知れません。
逆に言うと、予想がはずれることが、計画どおりに行かないことが、私たちにとってこわいことを表明していることにもなります。

そしてそのような私たちの習性は、事を起こすのが私たち自身であるという前提によるものであるに違いありません。

でも事を起こすのは神様です。私たちではありません。
今回の金環日食は、もしかしたら神を信じていない人でも創造の神を想起したような出来事でもあるかもしれません。
少なくとも全ての人が、人が日食を起こすことができないゆえの感動を覚えたと思います。

繰り返しますが、日食の日時を含めて、あそこまで予想できます。
でも、体感できた事は予想を超えていました。

そして、日々の一つ一つの出来事も、
それは私たちが計画して起こしていると思っている出来事でも、
実は神が起こしています。
そして神が起こすからには、私たちが綿密に計画し起こしていると思っている事でも、
神による私たちの予想を超えた、こわさを覚える出来事があらわれるだろうと思います。
人は常識的にはそのこわさを避けますが、しかし神を信じる者には、そのこわさが救いとなり希望となります。

本日はペンテコステです。聖霊が働き始めた日です。
聖霊は事を起こしました。それにより敵対していた民族がつながりました。
使徒言行録の2章の記事です。
その際、聖霊は突風として、また炎としてやってきました。
私たちがこわくなる出来事としてやってきたのです。
私たちの常識では避けるべきものが聖霊だったのです。
そう、理解を超えた事、腑に落ちない事、ゆえにこわくなりイライラすること、
そのようなものとして聖霊は働き、その働きにより、神に創られた者たちはひとつとされるわけです。

私たちはこの聖霊の働きを強く信じます。

また聖書は、神のことを出来事としてあらわします。
私たちは神を存在として認識することが多いです。
それもその通りなのですが、存在は私たちがイメージしやすいものです。
それに比べ、起こる事としての神は、イメージしづらいものです。
でも、神さまは、私たちの予想を超えた出来事として、予想を超えた結果として、そういう事を起こされる方として、
私たちの前に、とりわけ教会にあらわれることでしょう。

起こる!
予想を超えて起こる!
予想の反対の出来事としても起こる!
人の予想など関係なく救い出し赦し生かすために起こる!
これぞ神であり聖霊なのです。


無条件の交わり

2012年05月21日 | 教会のこと
今週の週報巻頭エッセイです。

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「無条件の交わり」

「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる(マタイ5:45)」。
当教会がホームレス支援炊き出しを開始して丸12年。(最初はNPOでなく教会内の委員会でした)。
当初は炊き出し参加者全員が路上生活者でした。
しかし、現在は自立支援も進み、生活保護でのアパート生活者も多く、実は炊き出しに来られる方の半分は路上生活者ではありません。

そうなると、炊き出し参加条件が、参加者の間で議論もされます。
「ホームレス支援」なので、路上で苦労している人のための炊き出しであり、生活保護受給者は来るべきでない、という意見がよく聞かれます。

ホームレス支援活動は当教会関係者を中心に、全国の方からの献金で成り立っています。
献金される方も楽な生活をされているわけではありません。
けれど命にかかわる路上生活をせざるを得ない方を熱く覚えつつ献げて下さっていると思います。
となると、生活保護者の食事にも献金が用いられることは、献金者の思いとも、多少ずれるのかもしれません。

しかし、この5年ほど、炊き出し参加者の中の生活保護受給者の割合が増え始め、
また、年金受給者、留学生を含む苦学生、旅人の参加もあり、
炊き出しの意味の変化を実感します。

そして、実は炊き出しは、より聖書の目指すものへ近づいているとも思わされています。
つまり、参加資格、条件は全くなく、誰もが参加できるものへなってきていると思うのです。

炊き出しは確かに食事を提供する場です。
しかし、主イエスが、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる(マタイ4:4)」と語られ、
有名な五千人の共食でもこの事柄が起こされたことを知るとき、
炊き出しでも同じことが起こされていると認識することはできないか、と思っています。
主イエスは、炊き出しにて、パンの分かち合いと同時に、神の言葉の分かち合いを起こしているのではないだろうか、と。
それは、路上生活者も、生活保護受給者も、年金生活者も、学生も、会社員も、主婦も、子どもも、ボランティアも、
食事を共にし、顔を合わせ、声をかけあう事実が、キリストの体という神の言葉で生きることだと思うのです。

礼拝もきっと同じです。
どんな境遇の人も神により集い、キリストの体とされ、誰一人排除されず、悪人も正しくない人も交わりに加わり、共に救いに与ります。

またこの交わりからは特徴が発見されます。
炊き出しも礼拝も、最初は自分が空腹や苦痛から解放されることを目的としながらも、
集い続ける中で、
他者の空腹や苦痛にキリストと共に寄り添い、他者を愛し、他者のために祈り、他者と共に生きることまで起こされるという特徴です。
礼拝も炊き出しも、そのようになっていることを主に感謝しつつ。
さらにそうなるよう主に祈り期待しつつ。

士師記はむずかしいですが・・・

2012年05月14日 | 教会のこと
今週の週報巻頭エッセイです。
ひさしぶりにアップです。
この間(一ヶ月ほど)の週報巻頭エッセイは極めて教会内部向けだったのでアップできず。

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「士師記はむずかしいですが」

今、私たちは、礼拝と教会学校にて士師記からのメッセージを分かち合っています。
でもとてもむずかしいです。
それは、戦争が神の名によって肯定されていく記事があるからだと思います。

十戒の「殺すなかれ」も、
原語のヘブライ語からすると、
自分の属する共同体内部の人を殺すな、という命令ではあっても、
共同体外部の人を殺すな、までは言っていないという解釈が生まれてしまいます。

となると、
まず、旧約聖書の時代の共同体外部の人とは、どういう者として認識されていたのか、
を、考えてみたいと思います。
結論から言うと、
おそらく、今で言うところの宇宙人のように、共同体外部の人を認識していたのではないかと思います。
外部の人については、客観的な情報もなく、もちろん出会うことも対話することもなく、
ただただこちら側の一方的な思い(込み)のみあっただろうと思います。
また、今の時代の映画などで宇宙人が地球人を攻撃する存在として描かれるように、
当時も自分たちの命を狙う者として共同体外部の人が認識されていたのではないでしょうか。
そして、この背景の中で、外部の者から自分たちを守る神が語られたのだろうと思います。

現在、この地に住む私たちは、
自分のかかわる共同体や国以外の人を、自分の命を常に狙う存在とは認識しないだろうと思います。
地球にはそういう存在はいないと普通に考えていると思います。

でも逆にこういう環境に生きる私たちが問われるのは、
共同体を失ってしまうことがあること、
共同体への責任感が薄くなってしまうこと、
共同体(特に国家)が、自分を守る最大権力として理解されるに留まること、
などが、起こっているということではないでしょうか。

すると、共同体は個人を守るための道具にすぎなくなってきます。
でもそうなると、
私たちにとって大事なことが、
旧約の時代では共同体全体を守ることであったものが、自分自身を守ることへと変化しているかもしれません。

本当は、共同体全体を守ることから、それを越えて全宇宙の命を守ることへの変化を願うところでもありますが、
逆にもっと狭くなって、自分自身のみが守る対象となっている気もします。

そうすると、もしかしたら旧約時代より、現在は、聖書の語る世界からは、遠くなっているかもしれません。
当時よりもはるかに破壊的な戦争が起こったり、隣の住人の状況を知らないということが起こるのは、そういうことかも知れません。

だから、女性士師デボラが、個々人を、裁くことにおいて救いに導いたことは重要です。
私たちは、神に自らの罪を見出していただき、それを丁寧に裁かれることで、
他者や他共同体の者との和解、共生に目覚めるのでしょう。

主の恵みを数えることと、罪を数えることは、実は同じ神からの救いの出来事であるわけです。
そしてひとつひとつ数えられる中で、私たちは悔い改め、十字架をいただき、復活の命として救われます。