きぼう屋

生きているから生きている

バザーという主の奇跡の業

2011年10月23日 | 教会のこと
今週の週報巻頭エッセイです。

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「バザーという主の奇跡の業」

今年もバザーの季節がやってまいりました。
すでに準備は夏から始まっています。そのみなさまの準備の労を感謝するばかりです。

バザーは主の業です。そして私たち教会はその業に参加させていただきます。

当教会のバザーに、教会の立つ通りの方はほぼ百%来場されます。
また千人以上の方が見えられます。
客として来られる方ばかりではありません。
当教会関係者でなくとも、バザーの奉仕に来られる方がたくさんおられます。
そして、お客さまも奉仕者も、みんな幸せそうないい顔をされます。
お客さまにとっては、前に進めないほどの混雑で、汗はかくし服は引っ張られる状況なのに、
これまでに小競り合いが起こったことがないどころか、
逆に不思議とみんないい顔をされています。
奉仕者も、息つく暇がないほどにみんな忙しいのに、
周りへの気配りが豊かで、
やっぱりいい顔をされています。

私はマタイ25章の、当教会が大切にしてきた箇所を思い起こします。
ただ他者のために自らの心と生活を開いて奉仕することが、主イエスにしたことである!
という事実が、バザーで起こっていると思います。

京都市の都市部の教会であっても、裕福な方の多い地域ではありません。
むしろ経済的には苦労されている方の多い地域です。
その中で当教会のバザーが、他のバザーからしても圧倒的に安い値を付けているのは、
教会の益のためでなく、地域のみなさまのためのバザーであり、主イエスのためのバザーであるという信仰を、
何度も重ねた話し合いで確認し実践しているゆえです。
奉仕者がお客様の前に商品の購入をしないことも、
他者と主イエスのためのバザーであるという確認ができているからです。
そして驚くほど地域から献品が集まり、しかも献げてくださった方が逆に教会に感謝を述べてくださるのも、
当教会の選び取ったバザーが主の業であり、隣人愛の業であることが、地域に届いているからと、私は思っています。

当教会のバザーでも主の奇跡が起こっているのです!。

そしてバザーが新たな信仰者をも生み出しています。
お客さまは奉仕者の隣人愛と主への愛という姿勢と人格とをしっかり受けています。
そしてそのような出会いから、教会の他の活動に興味をもたれます。
さらに教会の人と出会い、さらにさらに、その人の背景にある聖書に出会っていきます。
するとおのずと聖書を読むことになり、
そこから、実はバザーに客として教会に足を踏み入れたことが既に主との出会いであったことを追認識するわけです。

奉仕する私たちにとってはちょっと(かなり)大変ではありますが、
主と共に、みんなで一緒に、主の奇跡の業であるバザーに参加できることをうれしく感謝しています。

死とは?

2011年10月21日 | 「生きる」こと
「罪の報いは死である」
というところから、死と葬儀を考えてみました。
(先日のシンポジウムのパネリストになったからやっと考え始めました)。

そして罪をふたつから考えました。
ひとつは個人の罪
もうひとつは共同体の罪
これはいわば自己責任と社会責任をひっくり返しただけ。

葬儀の目的はこの中で共同体の罪を共有することである、と考えました。
死者個人の罪は、生前の牧会における罪告白への導きが勝負であり、
葬儀で彼の罪が語られることは牧会の失敗を意味し、
また失敗したからには、葬儀で語ることはなお許されず、
牧師が神の前に静かに立つことしかできない、と考えました。

ただ、これはキリスト者、それも教会共同体で生きたキリスト者の死と葬儀という、
限定付きです。
しかし311以後、教会や牧師は地域全体の死と葬儀にかかわることもテーマであることを考えると、
「教会」抜きの死と葬儀においては
「罪の報い」としての「死」を共有することは極めて難しい、と考えました。

さて、周りの反応ですが、

「教会」においても、死を「罪の報い」とすることに抵抗ある牧師が結構おられることにびっくり。

残念なところでは、「罪の報いは死である」というローマ書の言葉の解釈の問題!
といいつつ、全く解釈案を示せない中での意見。
だから対話不可能。
これはその方が聖書からではなく自分の気分としてこの聖書の言葉に反対していることを表明したもの。
牧師がこれではちょっと困るんだなあ。

もうひとつは、
丁寧に「罪」について、単数形と複数形、あるいは存在的なものと行為的なものにわけて説明するなかで、
死の原因となる罪をできるだけ少なくしようとする説明も多かったです。
ただ私には原理として単複や行為と存在で罪を分けることは理解しつつも、
論としてはよくわからないのですなあ。
僕らの存在と行為ってのはひとつであってわけられないと思うのです。

ただ、そのような原理を用いて新約聖書の物語という時間を獲得しつつの説明は、
対話が可能になるなあと思いました。

律法違反という複数形による行為的罪からの解放は、
律法に支配されている社会から見捨てられ、差別され、虐げられているという
その状態からの解放であることは間違いありません。

罪とは人を侵害する社会によって押し付けられたことなわけです。

でも、そういう罪ならば
罪の報いが死となることは、ごもっとも、となるかなあと思ったりもするわけです。
だって、人を傷つける社会の報いは死ですから。

ボンヘッファーは、全ての困窮の原因は罪であることを語ります。
つまり罪の報いは困窮といいます。
その困窮には死も入るはずです。
さらに律法違反的罪解釈から、ナチスドイツ下における死を考えていたかもしれないなあと、
彼のいろんな文章から考えたりします。

さらに、彼の中心テーマであるキリストへの服従への第一歩は
その罪をひとつひとつ告白すること、とまで述べます。

そのようにして、ボンヘッファーは、
カトリックにはあるもののプロテスタント教会が失っていた罪告白を復活させようと願ったわけです。


わたしは単純に原理化すると
旧約では神の呪いとしての死が描かれ、
新約では罪の報いとしての死が描かれている、と考えます。

そしてこのふたつを比較しつつ考える必要がありそうです。

逆に苦難と罪を分けたり、罪の中身を分けたりしても、堂々巡りはするものの発見はないと思ったりします。

むしろ大事なのは、苦難を呪いの範疇で捉えるか、罪の範疇で捉えるか、という議論です。

でもその議論はあまりに難しすぎるし、人間の限界を超えている可能性大なので、
苦難についてはわからない、と言うことができるのみかもしれません。
そしてここに立つならば、
死についてもわからない、と言うことができるのみだと思います。
となると、今回のシンポの意味もなしというわけで。

うーん、大きなテーマです。
そして、そういうテーマを真正面から提出できて、
しかも次回も議論を続けることが決定して、
なによりです。

真の伝道

2011年10月16日 | 教会のこと
今週の週報巻頭エッセイです。

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「真の伝道」

先日、大雨に見舞われタクシーで教会まで戻ってきたときのこと。
「荒神橋西詰めの教会まで」とお願いしたら、運転手がこちらを振り向いて「大谷牧師さんですか?」と言われる。

昨今、タクシー乗車時や地域の集い参加時に、当教会を認識している人に声をかけられる機会が多くなった。
運転手は、当教会のホームレス支援やバザーの働きに共鳴していると話してくれた。
またホームレス支援でいろいろ助けていただいているKさんが、
先日、結婚の報告のために訪れてくれた際、
いつものように近所のお茶屋で支援のための麦茶パックを購入し寄付してくださったが、
お茶屋の店主が当教会のホームレス支援を彼に感謝したことを同時に報告して下さった。

11月3日のバザーに向けて今年もみんなで準備を進めている。
正直大変な作業だ。
しかし今年もバザー準備奉仕の場は常に明るい。
それは恐らく私と同じく、
みんなそれぞれ当教会のバザーが地域の人々に愛されていることを具体的に見聞きするからと思う。
ホームレス支援ボランティアが明るいのも同様である。

つまり、当教会とここにおけるキリストの業が、
具体的にこの街のAさんやBさんの生活の助けとなっていることに接するとき、
奉仕する私たちは、確かに楽ではないけれども、
奉仕の只中で主の救いの喜びを経験しているのだ。

また、私はこの一年で教会が大きく変化したと認識する。
それは、この間に、
教会の交わりに加えられたことが具体的な救いとなったという証しが、
次々と起こされていることから発見する。

つまり、当教会は(時間はかかるが!)、あらゆる人をキリスト家族として迎え、
彼らの十字架を分かち合える共同体となってきたのだ。
自分の安定や救いのイメージではなく、
キリストが招く新しい人の具体的な救いとかかわりへと、意識する部分が変化したのだ。
新しい人との出会いが中心となったのだ。

そしてホームレスや知能、精神、発達障がい者に対する壁があったことを、私たちは忘れない。
差別的言動が起こったことも忘れない。
また、新しい人が主に招かれ加えられる時には必ず起こる共同体の雰囲気の変化がつらく、緊張関係が生まれたことも忘れない。

そしてこれらは今後も起こるだろう。
私たちは罪人の交わりに過ぎない。
しかし、起こるときには即座に罪を告白し和解を目指すことができるよう、
私たちは忘れない。

実に救いとは、
新しい人がキリスト家族に加えられる時、
その人の十字架こそが加えられ、
それを教会全体で背負うゆえに、
必ずそれまでとは教会の中身が変化するという神の働きである。
ゆえに私たちは新しい者と共に喜び共に苦しむ。

またこれが伝道である。
私たちは年に3回、地域に案内チラシを配る。
これは店舗の広告とは異なる。
というのは、
当教会が常に新しい人に開かれ、その人と共に変化し、共に十字架を背負い救いに与ることを具体的に知る時にこそ、
私たちは喜んでチラシを配ることができるからだ。
そしてそのようなチラシは命を持つ。

当教会は現在、
まずはバザーとホームレス支援において具体的伝道が起こされていることを知る。
なにしろバザーにはこの通りにお住まいの方がほぼ百%来場される。
これは主の業であり伝道そのものである。

私は、当教会では真の伝道が始まっていると、堂々と宣言したい。

歴史は継承されねばならないのです。

2011年10月14日 | 「生きる」こと
今週の週報巻頭エッセイです。

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「歴史は継承されねばならない」

本日より来年度に迎える60周年に向けて、当教会の歴史上の物語を分かち合います。
今月はS兄、Y姉より1950年代の物語を証言していただきます。

歴史は継承されねばなりません。
歴史継承なしの世界は、世界の本質を獲得することができません。
同じく教会も(あらゆる共同体も)、歴史継承なしに教会の本質を獲得することはできません。
それは、神を知ることはできないと言い換えても間違いではないと思います。

とても厳しい書き出しとなりました。
先週、私は会議で沖縄に行くことがゆるされ、そこでいくつもの証言に出会いました。
その中で、私は歴史継承は心を鬼にしても獲得するものであることを知らされました。

沖縄をはじめアジアの教会に影響を与え、沖縄キリスト教学院設立にかかわられた金城重明牧師が証言されました、

彼は、沖縄地上戦の最中にいました。
米軍が徐々に迫ってきます。
そのような時、日本人は美しく玉砕することを教えられてきました。
さらに日本軍より「自決」用の手榴弾も配られました。
その状況で大人の男たちが、自分の妻子をまず撲殺し「自決」するのを見て、
彼と彼の兄は、抵抗はせずも泣き続けた母親の首を、母親の泣き声が途切れるまで絞め続けたのです。
そしてその後、幼い兄弟の首にも手をかけました。
最後に残った彼と兄は、一人でも敵兵を殺してから死ぬ決意をし、米軍に向かって行きました。
しかし、それゆえに生きつづけることとなります。
しかしその罪責ゆえにその後、自殺を何度も試みます。
しかし罪と痛みを背負うキリストと出会い、牧師となられました。

私はこの証言を読んだことがあります。
しかし、今回ご本人の声にて聞かされたものは、全く質の異なるものでした。
歴史は紙面の文字という空間ではなく、
同じ空間の中で声などで証言される時間をも共有することにより本質を得ることは間違いないようです。

教会はキリストの証言を毎週毎週同じ空間と時間を共有する礼拝の場で分かち合います。
恐らくこの密接な共有をはずすときに教会は本質を見失うゆえに、活字印刷時代もIT時代もわざわざ集まっての礼拝が死守されるのでありましょう。

同じく、それぞれの時代の教会共同体の信仰物語も、紙面で残すのみならず声にて継承される必要があります。

さらに継承される物語の中身も大切です。
それは十字架にてイエスを失った神の痛み、および十字架上の主イエス・キリストの痛みと響きあう中身である必要があります。
同時にキリストに罪が告白されるものであるべきです。

歴史とは、体に覚えることのできる罪責と痛みの物語のことを言うのではないでしょうか。
たとえそれが喜びに満ちた物語でも、その喜びにべったり貼りつく罪と痛みが表現されなければ、それは歴史とはならないのではないでしょうか。

罪と痛み抜きの歴史は個々人の思想や信念にはなっても歴史にはならないのです。

国家や個人の歴史が罪と痛み抜きのそれぞれの思想、信念でしかないことが多い時代であり、それにより歴史教科書も書かれるこの国の中で、
信仰者は、思想や信念を信じるのではなく、十字架のキリストを信じる中で、歴史を獲得することこそ、神が求めておられることに違いありません。

歴史は継承されねばならないのです。

神の領域に触れる

2011年10月02日 | 教会のこと
今週の週報巻頭エッセイです。

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「神の領域に触れる」

先週の礼拝にて分かち合った聖書箇所(ローマ14:7~9)にて、
「生きること」と「死ぬこと」、「生きている人」と「死んでいる人」が、
淡々と同等に語られているところに、私は希望を見る。

「死」「死後」「死者」について人は知ることができない。
この事実は人に予想を超える不安と恐怖を与える。
ゆえに宗教は競ってそれらの知を提供してきた歴史があるだろう。

キリスト教も天国と地獄、また煉獄のイメージを提供してきた。
しかし、聖書自体がそこまで明確に死後の世界について書いているかと問われるならば、
私は、丁寧に釈義するほどに肯定することができなくなる。

聖書は確かに「死」「死者」「死後」が存在することは語る。
だがその中身を確定させることに躍起ではない。
それよりも、これらが「生」「生者」「生者の世界」と同等である事実を例えば上記箇所では語りきる。

私はここから逆の発想をいただく。
つまり、私たちは「生」について知るが「死」について知らないのではなく、
「死」について知らないほどに「生」についても知らないというのが事実ではないか。
その事実へと聖書は私たちを導きたいのではないか。

「死」「死後」「死者」について私たちが知らないのは、私たちが無知であるからではない。
それらが神の領域であるからだ。
人の知も情も行為も届くことのゆるされない神の領域なのだ。
そして私たちはその神の領域を承認し、
そこに委ねることで不安と恐怖から解放される。

同じく、「生」「生者」「生者の世界」についても、
その宇宙規模の広大な空間と長大な歴史からするならば、
私たちは、その天文学的数字分の一に触れたに過ぎず、
それをもって知るということは傲慢であると反省する。

つまり、生きている私たちの存在と行為とその世界もまた、
その大部分は私たちの行き届かない神の領域であり、
それゆえに私たちは生かされている。

また、その承認こそが信仰であり、
それが救いであり喜びである。

となると、私たちはそれぞれ自分自身についても知らないことを認めることとなる。
ただ自分自身が存在している奇跡を知るのみである。
自分について自分の手でどうにかできるのはわずかであり、
命と人生の大部分は神の領域であることを了承することができるのみ!なのだ。
これが本当の意味での自己肯定である。

この神の領域について、聖書は「栄光(カーボード)」と呼ぶと私は考える。
栄光とは人の力量のことではなく神の領域のことだ。
同時にこの領域は「尊厳(同語源)」である。
全ての人と全ての行為は、他の者が侵入できない神の領域を有しており、
それゆえに尊厳が保たれるのだ。

この神の領域に触れる幸いを教会家族として共有したい。