きぼう屋

生きているから生きている

民主主義ってなんだ?心理的一側面 の、冒頭部分書きかけ、だけどたぶん続きは書かなそう、なもの、

2015年09月02日 | 聖書を読んでみました
民主主義ってなんだ? 心理的一断面
として、二ヶ月前の土曜勤務日に時間が空いたときにざっと書き始めたもの。
でもその後、こんなのを書き始めたことを忘れてました。
今朝、ファイルを整理していたら出てきました。
で、もはや、そのときに何を思いついたのか、どういう論理展開をしようとしていたのか、ちょっとあやふやなので、たぶん、続きは書かないだろうというものですが、
その書き出し部分を。


民主主義ってなんだ?

一人、あるいは超少数で決まったことで世界が動くことが、人の心身を死の方向へ導くことに気付いた先人たちがいました。彼らは、死ではなく「生きる」ことを選びました。そこで彼らは、みんなで決めてみんなで世界を担うことを選び獲得しました。それが民主主義です。これは、今に至るまでたたかわれつつ、引き継がれています。

ですから、民主主義にとって最も大事なことは「生きる」ことです。

では、「生きる」とは何でしょう?

全ての時代地域において、いのちは「私」一人のみで存在してはなく、少し足を動かせば、いやいや、少し目、耳を動かせば、他者がいることが確認でき、その他者と同時代同地域で生きていることを端的に、明確に知ることになります。

よって、
他者と共に生きるということが「生きる」ということです。

もっと言いますと、
他者が「私」に接触する感触が生々しいという状態を獲得するというところから始まるものが「生きる」ということであり、
他者の喜怒哀楽が「私」の喜怒哀楽になるということ、他者の十字架が「私」の十字架になるということが起こって初めて「生きる」のであり、
「私」にとって、「私」が「私」であるのか「他者」であるのかという境界線が消えることさえ起こるのが「生きる」ことであり、
ということは、だからこそ、「私」が「私」であるという明確な感触を、他者と接触するところから知る他者との違いから知るところの「私」として、繰り返し繰り返し知るということが「生きる」ということであり・・・。
そのように知る「私」であるから、つまり他者と異質であるということから知る「私」であって、自分でいいようにイメージする「私」、人からいいようにイメージしてもらうよう振舞う「私」ではないから、そこで知る「私」は、格好悪く、汚く、醜く、糞のような側面を持つことを隠すことができないところの「私」であり、
そういう知りたくもない面を多々持つ「私」でありながら、しかし、その「私」として、私は、「生きる」のです。

で、まさにそうして「生きる」ために、民主主義が選ばれています。

となると、逆に、他者との接触がないとき、「私」が実は他者との接触から知り得た異質性に基づくのではなく、勝手に気持ちいいようにイメージした「私」であるとき、
そのとき、「私」の向いている方向は、実は、死であるわけです。

ここでわかるのは、「私」にはふたつあるということです。
ひとつは「生きる」方向を向く「私」。
もうひとつは「死ぬ」方向を向く「私」。

この中で、民主主義で獲得したいのは「生きる」方向を向く「私」です。

でも、実は残念ながら、民主主義というシステムで「死ぬ」方向を向く「私」を獲得しようという動きも多々あります。
といいますか、そういう動きのほうが圧倒的に多いと言っていいかもしれません。
この場合は、そういう「私」を獲得するために、民主主義のシステムを利用すると言うべきでしょうか。
他者と接触しない「私」は、他者と接触しないゆえに、他者を生かすことをしません。するとそれにより他者が死に向かいます。また本来「私」は他者との接触ゆえに知られる存在ですから、実はそのときに私に「私」が知られることもなく、「私」も死に向かいます。

でもなぜか「私」が死に向かうという認識に至ることなく、「私」が私のイメージのままに存在するために、他者を利用することが起こります。「私」が私のイメージどおりになることをアイデンティティと呼び、その獲得を奨励することが多いゆえに、他者を利用することを隠す場合も多々あります。

たとえば、「私」のアイデンティティのために国家のアイデンティティが求められる時代には、国家のために命を落とした英雄、英霊として、「私」のために利用された他者が、利用されたことを隠され、逆に意味づけされることが当たり前になっています。

「私」のために殺される他者を必要とするなかで「私」が生きるということが(本当はそのときに「私」は死を向いているのですが)、当たり前に起こります。

そして、そういう「私」が尊重されるために、民主主義というシステムも利用されます。他者を利用できるのだから、システムを利用することも難しくはありません。

また、この場合に他者が殺されるということが起こるゆえに、実は民主主義も殺されるということが起こります。