「生きる」と「死ぬ」、「生きている人」と「死んでいる人」が、
淡々と同等に語られているところに(ローマ14:7~9)希望を見る。
「死」「死後」「死者」について人は知らない。
それが不安、恐怖となる。
だからもしかすると宗教は競ってそれらの知を提供してきたのかもしれない。
キリスト教も天国と地獄、あるいは煉獄のイメージを。
でも聖書はそこまでそれらのイメージを提供はしない。と思う。
「死」「死後」「死者」について、
人はそれらを神の領域と認識することがゆるされる。
それは人の知も情も行き届かない領域。
同時にこれらから知るのは、
「生」「生者」「生者の世界」の大部分も、
人の行き届かない神の領域であることではないか。と思う。
「死」「死後」「死者」について知ることで、
死の不安と恐怖から解放されるというより、
「生」「生者」「生者の世界」をもあれら同様に知らず、
すべては神の領域であり、
神に委ねるのみであることを知るとき、
そこに死への勝利がある。ような気がするのだ。
「生」「生者」「生者の世界」について僕らが知るのは、
宇宙の広大な空間と長大な歴史からするならば、
天文学的数字分の一であり、
それは、決して「知っている」とは、ちょっとはずかしくて言えないよなあ。と思ったりする。
「死」について知らないのと同じく、
僕らは「生」について知らない。
人は当然自分自身についても知らない。
ただ自分自身が存在している奇跡を知るのみ。
自身の存在と行為の大部分が神の領域であることを了承することができるのみ。
この領域の了承こそ自己受容であり、自己肯定である。
この受容と肯定の際、
人の行き届く範囲はあえて省かれねばならない。と思うのだ。
淡々と同等に語られているところに(ローマ14:7~9)希望を見る。
「死」「死後」「死者」について人は知らない。
それが不安、恐怖となる。
だからもしかすると宗教は競ってそれらの知を提供してきたのかもしれない。
キリスト教も天国と地獄、あるいは煉獄のイメージを。
でも聖書はそこまでそれらのイメージを提供はしない。と思う。
「死」「死後」「死者」について、
人はそれらを神の領域と認識することがゆるされる。
それは人の知も情も行き届かない領域。
同時にこれらから知るのは、
「生」「生者」「生者の世界」の大部分も、
人の行き届かない神の領域であることではないか。と思う。
「死」「死後」「死者」について知ることで、
死の不安と恐怖から解放されるというより、
「生」「生者」「生者の世界」をもあれら同様に知らず、
すべては神の領域であり、
神に委ねるのみであることを知るとき、
そこに死への勝利がある。ような気がするのだ。
「生」「生者」「生者の世界」について僕らが知るのは、
宇宙の広大な空間と長大な歴史からするならば、
天文学的数字分の一であり、
それは、決して「知っている」とは、ちょっとはずかしくて言えないよなあ。と思ったりする。
「死」について知らないのと同じく、
僕らは「生」について知らない。
人は当然自分自身についても知らない。
ただ自分自身が存在している奇跡を知るのみ。
自身の存在と行為の大部分が神の領域であることを了承することができるのみ。
この領域の了承こそ自己受容であり、自己肯定である。
この受容と肯定の際、
人の行き届く範囲はあえて省かれねばならない。と思うのだ。