きぼう屋

生きているから生きている

神の領域

2011年09月29日 | 「生きる」こと
「生きる」と「死ぬ」、「生きている人」と「死んでいる人」が、
淡々と同等に語られているところに(ローマ14:7~9)希望を見る。

「死」「死後」「死者」について人は知らない。
それが不安、恐怖となる。
だからもしかすると宗教は競ってそれらの知を提供してきたのかもしれない。
キリスト教も天国と地獄、あるいは煉獄のイメージを。
でも聖書はそこまでそれらのイメージを提供はしない。と思う。

「死」「死後」「死者」について、
人はそれらを神の領域と認識することがゆるされる。
それは人の知も情も行き届かない領域。
同時にこれらから知るのは、
「生」「生者」「生者の世界」の大部分も、
人の行き届かない神の領域であることではないか。と思う。

「死」「死後」「死者」について知ることで、
死の不安と恐怖から解放されるというより、
「生」「生者」「生者の世界」をもあれら同様に知らず、
すべては神の領域であり、
神に委ねるのみであることを知るとき、
そこに死への勝利がある。ような気がするのだ。

「生」「生者」「生者の世界」について僕らが知るのは、
宇宙の広大な空間と長大な歴史からするならば、
天文学的数字分の一であり、
それは、決して「知っている」とは、ちょっとはずかしくて言えないよなあ。と思ったりする。
「死」について知らないのと同じく、
僕らは「生」について知らない。

人は当然自分自身についても知らない。
ただ自分自身が存在している奇跡を知るのみ。
自身の存在と行為の大部分が神の領域であることを了承することができるのみ。
この領域の了承こそ自己受容であり、自己肯定である。
この受容と肯定の際、
人の行き届く範囲はあえて省かれねばならない。と思うのだ。

敬老感謝

2011年09月21日 | 「生きる」こと
今週の週報巻頭言です。

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「敬老感謝」

年に一度、この時期に、
当教会は敬老感謝礼拝を持ち、
信仰、人生の先輩方を覚えております。
そしてここでは
75歳以上の方々のお名前をご紹介させていただきます。

(ネット上では省略 31名)

出エジプト記の十戒に
「父母を敬え」という神の戒めがあります。
これは幼子にお父さんとお母さんの言うことを聞くよう求めるものではなさそうです。
むしろ当時のイスラエルのリーダーたちに、年老いた父母を敬うよう戒めたものです。

「敬う」というヘブライ語は「重み」という意味を持つ語が使用されています。
ここから推測できるのは、
イスラエルの民がエジプトから脱出し、追っ手から逃げるときに、
恐らく年老いた者たちがその速度を落とす存在であったことではないでしょうか。
そして高齢者たちが、
「自分たちのことは放っておいて、若者たちが捕まって殺されないようさっさと逃げておくれ」
とリーダーたちに言ったかもしれません。
しかし神は、リーダー世代に、
高齢者の重みをしっかり覚えよ!と戒めます。

ここから私は、
若者たちが高齢者をおんぶし、
その体重を覚えつつ神の国に向かい、
行く手を邪魔するものから逃げる
という姿を想像します。

この戒めから、
教会の次世代、次々世代の仲間たちは、
先輩の重みを覚えることを学びたいと願います。
それは、
体の重みを知るという生活の只中での高齢者との関係をさらに獲得させていただくことと、
彼らの信仰の証、人生の知恵という重みを継承することであるはずです。

また高齢の仲間たちは、
次世代に体重を委ねることと、
丁寧に信仰の物語を証しし、教会共同体を覚えて祈ることを、
さらに主よりいただくことがゆるされるならと願います。

人生・信仰の先輩を主に感謝しつつ。