きぼう屋

生きているから生きている

参観

2008年07月09日 | 「生きる」こと
今日は久しぶりに
息子たちの授業参観に行ってきました

若菜さんが出産したてで
まだ行ける状況ではないので
ならば俺が!
という
変な
また
いんちきな
責任感でもって行ってきました


最初に1年生の添くんのところへ
目立つところに立ちました

他のお子さんたちは
大人を気にして何度も周囲を見るので
知らんおっちゃんが来た
みたいな顔をしてくれるのですが

添くんは
ぜんぜん周囲を見ないで
たぶんいつもと同じ感じで
授業を受けていました

気づいてくれたのは3分ほどたってから
満面の笑みで手を振ってくれました



その後は2年生の共くんのところへ
共くんもなかなか気づいてくれません
となりの女の子に話しかけてばっかりでした


気づいてくれたら
これまた満面の笑みでVサイン

最後に4年生の空くんのところへ
空くんもなかなか気づいてくれません

たまたまわたしの前に座っていた子が
手を上げて発言したので
そのときにその子を見て
そのうしろのわたしにも気が付いた
というわけでしたが

ニター
としておりました


最後にもう一度添くんのところへ

あらら
なんと
机をコの字型に並べてあったので
中央があいていたのですが
そのあいているところで
踊っておりました

そのあとは他人の席に座っておしゃべりしてるし・・・

わたしは5分ほどいましたが
まったく気が付きもせず・・・

うーん

先生たちはみんなよくやってくれておりました

個性は見えてきません
というか
個性を出すことのできる学校方針ではないようでして
そのあたりは見ていて面白くないところでした

だから
よくやっているというか
がんばっている
という感じかもしれません

先生たちの人格がにじみ出るのではなく
演技が光っている感じでした

でも
演技するしかないところでは
それを極めるというのも
大切なことなので

やりぬいてほしいところです
しかも
心身が壊れないようずぶとくやりぬいてほしいです

あたしゃ祈りますよ

授業の中身は
教室から何か生まれるという
わたしが期待するものでは
ありえるはずもなく

最初から答えの決まっているものでした

答えが決まっていてもいいのですが
その答えが深いものだといいのですが
残念
不思議とすべての授業が科目が違うのに
経営方法論によるところの答えを持つものでした

2年生なんて
ポスターをみて
なにが書いてあるか
どう工夫してあるか

というような
広告論の最初の授業みたいなことをしておりまして

ちょっとつまらなすぎます
こういうのは
小学生の時分にすることではありません

これでは
お国のために

益得のために
となっただけで
それも
武器による戦争が
お金による戦争へと
変わっただけで

すごいプログラムでやっているようで
洗脳の領域から解放されておりませんぞ



こういうやさしい領域のことは
もっと頭の悪くなった大人がすればいいことで

頭が切れまくっている小学生は
大人ができないことをやればいいわけです


なんていう教育論は
通用しないわけだから
こうなっているのでしょうが

でも
現場の先生は
子どもたちと毎日接するわけだから

こんなんじゃあ
子どもが
小さく窮屈になっていく
ということを感じるんじゃあないかなあ

と思うのですが

どうでしょう

教育委員会はまったく応援しませんが
現場の先生は心底応援します

といったところで

今日は寝ます

明日も朝6時半から7時10分まで
息子たちとランニング&キャッチボール
です


ではでは

成人

2008年07月08日 | ホームレス支援のこと
昨日の炊き出しも
みんなわきあいあいで
なによりでした

ボランティアのレギュラー数人が
旅行中でしたが
しっかりと穴埋めできる人も
当たり前のようにいてくれるのは
10年という活動がつくる
歴史そのものだろうと思い
感謝するばかり

当日テストのある学生も来てくれました

自分の若い頃を思い出すと
テスト前3日くらいは
何も予定をいれなかったわけで
でもだからといって
その3日の間ストイックに勉強できたか
というとそうでもないわけで

要は

ただ人間が小さかっただけなんだ
と今では思っています


テストがある日にボランティアにくることができる
というのは
将来にかけて
成人した人間(ボンヘッファーの概念ですが)
となるためには必要なことだろう
と思いました

なかなかの若者です

でも
テストだろうとなんだろうと
ボランティアにおいで!
それは人間形成になお必要!
とは
責任者として
まあ
言うことはできないわけです

それが
世の中でして・・・

でも
世の中から解放されるという
礼拝については
はっきり言えます

世におけるなにがあろうとも
礼拝を守ることは
成人した人間形成に
不可欠!!


というわけで

炊き出しですが
これは
なにしろ当事者がここにくれば顔をあわせることができる
という
ホームの拠点
という意義をもって
そしてそれがすべての目的のなかで
割合をどんどん大きくしている
というものです

そして
わきあいあいとしたホームが
なによりで

それも
むずかしい言葉はあとまわしにして
とりあえずは
また行きたくなるという
あたたかい場であることが大事で

歴史を重ねるなかで

そこにあつまる当事者とボランティアが
めいめい互いに
わきあいあいを相乗的につくっていっているという
そういう段階に入っていると思います

ボランティアの現場ではじめて顔をあわせる若者同士は
不思議と
以前からの友達のように会話してますし

当事者ボランティア含めて
おじいちゃん、おばあちゃんたちは
孫のように若者にあたりまえに接してくれますし

寄り添いネットは
こういうのをつくりつづけ維持し続ける
というのが
京都におけるホームレス支援での
役割なのだろうなあ
と思ったりもしています

当事者のさまざまなことについては
ここに記せませんが
なにしろ
祈りかかわるしかありません

来月の炊き出しは
暑い夏を乗り切ろう!
ということで
焼肉丼大会です


というわけで
すこしおそくなりましたが
憐くんを保育園に送ってきます

ではでは

色々

2008年07月07日 | 教会のこと
昨日の礼拝は
ふるさとに帰ったり
旅行に行ったりで
礼拝に来られない仲間(教会家族)が
たくさんいました

この間
研修会や青年主催礼拝など
イベントが続いたので
それが終わった昨日に
みんなのいろいろが集中しました

逆に言うと
教会の企画にみんなで取り組むことができるようになった
ということでもあり
お休みが多いという現象の礼拝の大きな意味に
感謝するしかありません

他の地へ行かれている人が多いことは
あらかじめわかっていたので

今日はちょっと少ないな

決め付けていましたが

いえいえ
そんなにいつもと変わらず
不思議でありました

また
各地に散っている仲間たちが
それぞれの土地の教会で
礼拝を守っている
ということが
なにしろ嬉しいし

当教会における変化が
よくわかるひとつの現象でもあります

札幌教会のUさんから
当教会家族のYさんが来られたよ
というメールを頂きました

こういうつながりは生きる力に
即なります

感謝


はじめて礼拝にこられたNさんは
かなりしんどそうでしたので
今日もたくさん祈ります
神さんがついています


昼食当番は壮年会でした
なんとうなぎ丼

うなぎのみだとコストがかかるので
さつまあげをうなぎのたれで煮たものと
うなぎをのせるという
逆にくどくなくておいしい
という一品でした

抗菌剤は使われていないとのことで・・・


そういえば
当教会では研修会のときに
壮年会
という名称が変だねえ
という話がでまして

ごもっともでありまして

旧婦人会はとっくに女性会と名称変更しておりますが
壮年会も同じ問いを受けているわけでして

どうなることやら

わたしも壮年会のメンバーなので
会のテーマとして提案しようと思っております

壮年会といえば
次回からJさんが
いよいよ壮年会のメンバーとなってくれるようで
うれしくなにより

月一度の例会出席者が
壮年会もどんどん増えて定着しているので
もう部屋に入りきれなくなりそうです
うれしい悲鳴なわけです




昨日
我が家の長女
言が礼拝デビュー

たぶん言がデビューするだろうからと
アキラちゃんも久しぶりに来てくれました

昨日は本人に伝えましたが
あたしゃ毎日祈っております
ティーン時代は
ほんと大切な時代だから

また

アキラちゃんご一家から
心のこもった寄せ書きと
かわいい服を頂戴しまして
恐縮しつつも
嬉しすぎて顔がゆるみます


さて

今日は炊き出しです

もうボランティアが来てくれていて
準備を始めてくれています

ウチのボランティアのみなさんって
ほんとステキなんですよ

では
わたしもいってきます


ことば

2008年07月07日 | 教会のこと
 今週の京都教会週報巻頭言です。

********************

「ことば」

金曜日の朝日新聞朝刊に、
京大で開催されたフォーラムの講演要旨が載っていました。

講演者はフランスのドビルパンさん。
イラク戦争開戦直前の国連安保会議で、
戦争反対の演説をされ、
国連の会議では異例の大拍手が起こったという、
あの方です。

今回、彼はこう言います。
「言語の画一化は人類の死である」。
言語はそれぞれの共同体のことでもあり、
その画一化は人類の生命そのものである共同体が消えることであり、
つまりは人類の死でもある、
という論のようです。
(新聞による要旨によるならば・・・)

教会に生きる私たちはよくわかります。
共同体なる教会が、
即いのちであり、
その共同体の中身、
つまり、
「共に」という出来事、愛や希望、そして「キリストの体」
が消えることは、
人類、あるいは世界の死であるということは・・・。

今回この記事を読んで、
わたしは「聖霊」を思い起こします。

聖霊による業は、
言語が通じ合うことでいのちをつなげることではなく、
言語が通じ合わないのにつながり分かり合えた
という奇跡でした。

つまり逆にいうなら、
聖霊を与える神は、
言語の画一化を望むはずもなく、
さらには、
言語で論理的に一致することでつながった
という思いがどれだけ欺瞞であるかということも、
神は聖霊を通して
私たちに教えているに違いありません。

人間の言語に対する過剰な信頼は禁物だと思います。
同じ発音の言葉を互いに用いるとしても、
その言葉が個々人それぞれの中で形成されてきた
歴史、経験が
「ぴったり」
一致することはなく、
実は私たちは
「だいたい」
で分かり合っているに過ぎないことを、
大前提として知るべき!
と思わされます。

そして私たちが本当につながるのは、
ただキリストにおいて!であり、
キリストによる赦し、救い、和解のみ!であり、
聖霊の本当の業によるのみ!です。
つまり
神の言によるのみ!です。

キリストを、聖霊を、神を、受けること、
すなわち神の言で生きることがゆるされていることにこそ
私たちの幸いな歩みの秘密があります。

神の言を共に受け続けましょう。
赦しと救いと和解を祈り続けましょう。
他者を覚え続けることばを頂き続けましょう。


訪問

2008年07月05日 | ホームレス支援のこと
本日は
ホームレス支援機構・京都寄り添いネットによる
鴨川河原と御所のパトロール
みんなでおにぎりをにぎり
出会いに行きます

本日いただいたテーマ


就職時の保証人を探すのがむずかしいということ
ほんとにそう

なんとかせねば

以前ホームレスでしたが
不治の病を担うKさんが御池のところに遊びに来ていまして
先月よりだいぶ痩せておられ

食べるためのパワーがなくなってきたのを覚える・・・

と言われ・・・
重たい現実をわたしは共に生きることができるか


付き合いが始まって10年のMさんは
言に会うのを楽しみにしてくれていて
月曜日の教会での炊き出しを心待ちしてくれているとのことで

単純に嬉しい


しんどい仲間がいる
ということで
看護士さんと歯科衛生士さんと当事者のNさんとHさんが
南のほうへ急行

週明けに血液検査をする約束をとってきてくれました

自分のごはんよりも
猫たちのごはんにお金をかけるMさんのところに
子猫がたくさん生まれましたが

目がつぶれていて
命が短いことがわかる子猫がいて

訪問メンバーの看護学生が
その場を去ることができなくなり

しばらくしてその子猫にバイバイして
最後尾でいっしょに歩きましたが

彼女のこれまでの命にかんする経験を聞き
そこから考えていることの深さに
胸を打たれました


本日は総勢26名のボランティア
とくに若者がたくさんでした

ふたつの看護学校から8名
(わがバプテストの看護学校ではないのですが・・・)
仏教大学で社会福祉を学ぶ学生が2名
京都芸大の学生が1名


いまどきの若者は

とてもいいです


最初の学生をしていた当時のわたしより
わたしが出会う今の学生たちは
断然いいです


今後ともよろしくです



スピーカー2

2008年07月05日 | 「生きる」こと
スピーカー2であります
以前スピーカーという記事を書いておりまして
それは
パソコンで
できるだけ明瞭な発音でラジオを鳴らすために
タイムドメインのスピーカーを設置した
というものでした



実はそれと同じ時期に
もうひとつスピーカーがやってきました

こっちが実は
おおもの
でして・・・

敬愛するワタローパパのブログを見たら
なんと
ワタローパパもスピーカーを換えたということだから
なんだか触発されてしまったようです

京都でのさまざまな仕事なり活動なりが
10年目に入りまして
不思議とその多くがいいかたちで一段落しまして
いわばそのお疲れさん!
といいますか

若菜さんが
ごくろうさん
と買ってくれまして・・・


執務室のスピーカーが変わりました

リビングのスピーカーは
TANNOYのTD500なのですが
中身をいじりたおして
奇跡的な音を奏でるようになっているので
つぶれるまで使いたいと思います


執務室は
DYNAUDIOのコンター1.1に
パイオニアのPT-R9というスーパートゥイーターをつけて
鳴らしていたのですが

1. 1ということはスタンドも必要でして
なんだかすごくごちゃごちゃしまして
スタンドと1.1とR9の
音をあわせるのも難しくて
しだいに面倒くさくなってきて

いい音ではあったのですが
ごちゃごちゃがいやだ
と思い始めたら
楽しくなくなってきまして


スピーカーを換えてしまいました

今度はELACのトールボーイの516です
ドイツ職人の手によるものです

ELACに関しては
DYNAUDIOとは逆の音
というイメージもついているようですが

わたしが店などで視聴する限り
同じ方向だと思っていました

たしかにアルミ素材のユニットなどを使うので
硬い音を出すイメージもあるのですが
実際に聞くと

アンプやケーブルなど他の機器の音を素直に出すところの
基本はあたたかい音のスピーカーであることを
発見しておりました


執務室でもあたたかい音を出してくれました


少し
一部に過剰な響きがすることを発見

銀の響きがしてきます

わたしはケーブルからなにから銀素材はメッキにいたるまで
全く使用していません


スピーカーの中を見てみると
内部配線が銀メッキより線でした

銀メッキより線でこんなにあたたかい音が出るということは
このアルミユニットは
OFCなんかをつけてやったら
落ち着きすぎて逆にこまる
というくらいに
持たれているイメージとは逆のスピーカーのようです


内部配線を換えようか考えましたが
銀がシステムの中でほんの少量入っていると
実は楽器それぞれの固有の音を
うまいこと出すようになる
と経験から考えているので
他のところで銀と
それに似た響きを持つ高純度の銅線を
使わないことにして

ますはインタコを換えました
これまで使用してきたものは
マクラーレンのものですが
銀ハンダが使用されているので
そうでないところの
イソダのものにしました

これがうまくいきました

またスピーカーの内部配線が太いより線なので
スピーカーケーブルは銅単線にし


CDプレーヤーの内部配線の電源関係も
より線から単線に換えました

これもうまいこといってくれました

ちなみにCDは
いまだにNECのCD-10を大切に使っております
もはや20年選手です
こういう音に厚みがありキレがあるというものと
なかなか出会うことが出来ていません

こちらも中はいじり倒しておりますので
それでメーカーの一般品の音では
納得いかないのかも知れません

あとは、
銀があるばあいは
どこかでアルミの響きを入れると
なぜかうまいこと音が重心を下げるかたちで整うので
これはスピーカーの中に仕掛けをしまして

これもうまいこといきました

(イソダのインタコもアルミが入っているので
 この役割を担っているはずです)

トールボーイは
どうしても低音がブーミーになるので
それもスピーカーを少しいじったときに調整したら
キレがよくなってきました

しかし
もう売ることは出来ないくらいまで
いじってしまったようです

だから
こちらもつぶれるまで
いじることでグレードアップしていこうと
思っております

とまあ

この2ヶ月のあいだに
3日ほど夜ほとんど寝ないで
こんなことをしておりました

そういえば

マクラーレンの前に使用していた
自作の太くて固めの単線で作ったインタコが
IDODA以上にはまりました

これは理由がわかりません

ピアノが442でばっちり聞こえます
イソダだと440くらいになりがちで
他の銅系のものだとさらにトーンが下がりがちなのですが
(だからやっぱりELACは落ち着きすぎなのですが)
トーンがさがると弦なども聞きやすくなったりしますが
自作の単線のインタコだと
ピアノが442でありつつ弦も重心が低く
不思議とうまい音を出しています

まあそんなこんなで

わたしの趣味なわけですが

オーディオを趣味とする者たちの中では
かなりお金がかからないタイプでもありまして

もちろん
車やバイクや釣りやゴルフや旅行といった趣味より
はるかにお金はかからないのですが

しかし

第五子が誕生したというときに

スピーカーを買うというのは
あとが大変ということであります

まあでも
そのあたりはどんぶりでいきましょう

趣味の話なので
こんな趣味のない人には退屈な話ですみませんでした

お付き合い感謝








増加

2008年07月04日 | 教会のこと
教会の週報を作っていて
各プログラムの参加人数などを確認していて
びっくりしました

当教会では
日曜日の礼拝前に
手話を学ぶプログラムを持っています

数年にわたり
地道に少人数ながら
恵まれたプログラムとして続けることがゆるされています

けれども
昨今は参加者が多くなってきていて
単純に嬉しいのですが

なんと
先週は20名を越えているではないですか

単純にすごくて感謝です


手話を学ぶというのは

明らかに

他者と出会うための
その出会いに期待するゆえの
出会いこそキリストであるからこその
救いであり赦しのある場であるからこその

ことなのでありますが



手話を学ぶプログラムへの参加者が増えているということは

他者へむかう
という
キリストならではの出来事が
教会において大切にされるようになった
ということなのだなあ

まあ解釈しつつ
感激しているところです

また

先週の礼拝では
ヒロコちゃんが主体的に
子ども讃美の手話通訳を担いたいと言ってくれて
通訳をしてくれました


歴史というのは
こういう出来事なのだと
思いました


感謝
感激


言語

2008年07月04日 | 「生きる」こと
今朝の朝日新聞に
京都大国際フォーラム「多極的世界観の構築と外国語教育」
における
ドミニク・ドビルパン氏の基調講演要旨が載っておりまして

この人の話すことはすばらしいねえ

イラク戦争開戦直前に
国連で大演説をした方で
NHKで同時通訳により生中継されましたが
感動的でした

今回の基調講演は
言語画一化はすなわち人類の死である
という線で語られたようです

ほんと
そう思います

というのは
日本のバプテストにおいては
この言語画一化
すなわち
アメリカのバプテストの英語
の翻訳でしかないところの
言葉
によって
いま
教会が教会でなくなってきた
という経験をしていると思うからです

ドビルパンの論から言うと
画一化は共同体を殺し
すなわちそれが人類の死と同じである
ということなのですが

キリスト教会というのは
意地でも共同体であり続ける群れであり
そうしないと
人類が
世界が
死ぬ
ことを豊かに知っている群れであるはずなのですが

そのあたりが
テーマとなっていない現状があるなあ
と思うわけです



わたしがこの間
なんとなく考えていたことを
ドビルパンは相当な線で語ってくれていそうなので
この基調講演が本になったら
すぐに読もうと思っています

わたしは
言語の画一化とは
理性による文字言葉の論理的一致を目指すものだけれども

しかし
牧師は異端となってでも

その一致を目指すのではなく

いうなれば
感情による話し言葉で
本当は論理的には一致していないのに
でも一致するというところ

しかし
その一致が
昨今の熱狂的宗教のような
気分やテンションの一致ではなくて

なにでもって一致しているのか

もっというと
こんなにばらばらで
理解もし合えず
もっというと
付き合いにくかったり嫌いな人どうしなのに
毎週毎週共に礼拝し
共に生きていく宣言をし
共同体を築くのか

というところでの一致なんて
なにが理由かわからない

という
そう!

わからない

という次元まで行くことにおける

そういう言語による一致を目指す

それが
画一化という死
からの解放であろうと思います


その一致については
キリスト者は

キリスト

というしかないのだろうと思います

別の言い方でいうなら

キリストによる
赦し
救い
和解

でしかないわけです


フランスもいろいろと大変な国ですが
ドビルパンのような外相がいるというあたりには
奥深いものを見ます

と同時に
日本がまったく追いつけないそういう状態になっても
でも
いろいろと大変なまま

というところには
さらに
人間の本質を見ます




という世界のあり方に
可能性を見出しうるのか

という問いでもありそうです

とまあ
あらゆる思想家が考えていることですが

むずかしいねえ。


雑魚

2008年07月03日 | 「生きる」こと
本日は31度まであがるそうで・・・
京都市の気温・・・

夏ですなあ

夏は好きです
いろいろと好きですが
今は
夜の雑魚寝が好きです

敷布団を敷いたら
あとは好き勝手に寝ます

暑いから動き回ります

ふとんからはみ出たり
暑いくせに重なったり
たたいたりけったり
頭突きしたり



それに
うまれたての言も加わります

夜も静かにはなりません



静かなのは好きじゃあないです
ずっとさわがしいのが好きです

みんなが
遠慮なく生きたら
そりゃあ
さわがしいわけですし・・・

お高いフランス料理店より
庶民の居酒屋が好きだということと同じようなもんです

礼拝も
庶民の居酒屋系が好きです

そもそもバプテストは
そういう礼拝から始まっていますし・・・

異端

2008年07月03日 | 「生きる」こと
牧師ってのは
異端中の異端なのだなあ
と最近思います

しかし
その異端が何に対する異端なのか
というのも大切でありまして

たとえば
人が歴史の中で育んできた知恵

完全に無視して
自分の原理で生きる

みたいな異端は
その手の宗教家やスピリチュアル愛好家に任せておきまして

牧師は
知恵をさらに聖書と対話させる中で
所詮人間として知恵でもって生きるしかないことを決断的に選択して
その知恵を神からの命令として受けることを信じ
よって
知恵でもって生きる

からこその異端なのだなあ
と思っております

知恵でもって生きるなんて
あたりまえ
のように聞こえるかもしれませんが

世界というものは
このような知恵をどんどん隅に追いやってしまって
単純に力の強い者が真ん中にやってくるわけでして

それは
武力であり
経済力であることがまずほとんどなのでして

そのようなものの前では
たとえば優れたエネルギーの作り方でさえも
これほど環境!環境!と云うにもかかわらず
隅に追いやられるわけですから

そういういわゆる科学的に証明できるようなものでも
大きな力の前では無力になるわけですから

人の経験による知恵なんてものは
大きな力のある特定の人の
原理なりイメージなり趣味の前では
無力になるわけです

しかし残念なことは
そういう大きな力に
なぜか人は追随してしまうし
ときにするしか生きる方法がなくなるわけです

でも
牧師は
最後の最後まで
異端として
追随しないのだろうと思います

ほんとは
キリスト者も・・・



たとえば大きな力に人が追随してしまうようなときは
感情的な言葉が語られます
逆に言うと理性的な言葉ではありません

さらにいうと
書き言葉よりも話し言葉が力を持ちます

思想の世界でも
話し言葉が復権しております

それは小さな地域の言葉たちや
日本でいうなら消えそうな方言など
文字になっていない言葉の重要性をとらえているものでもあります


書き言葉よりもそういう話し言葉が先行しているゆえに
話し言葉の復権が見られるのだろうと思いますが

しかし
話し言葉は大きな力に利用されやすいものでもあります

そこで
知恵にしがみつくときに
わたしたちは書き言葉で考えることが多くなります



ここでも牧師は先駆的に異端にならねばならない
と思いはじめています

つまり
知恵を感情とし
知恵を話し言葉とし

感情や話し言葉として
異端でありつづける

ということであります


イエスは
そうだったはずだと思うところから考えています



感情による教会は流行しています

でも最初に戻りますが
それがわたしから見るなら
原理という異端としての感情であり
安っぽい宗教にキリストを格下げすることになっているわけで

でもだからといって
感情に対して理性ではなく
原理に対して知恵であって
その知恵を
やはり感情でつかむというのが

牧師の役割かなあ
と思うところです

だから
Wで異端になってしまいます

書き言葉はたぶん
学者や先生の領域なのだなあと思います


話し言葉が書き言葉に先行するという事実と同時に
その逆の事実もあるわけで
学者や先生も極めて重要な役割を担うわけです


さて
しかし
こんなことを考えている昨今でありましたが
先日
敬愛する南部神学生の極めて優れた説教に出会いまして

また悩むわけですが

それが確かに書き言葉だったのですが
しかし
それが書き言葉のままで感情の領域をカバーしていたわけです

それをどのように説明したらいいのかはわかりませんが

たぶん
信仰が言葉を超えたのかなあと
もう少し正確に言うと
神の言が人の言葉を超えたのかなあと

そういういわば当たり前のことが
説教では起こされるのだなあと

しみじみといまだに感激しているところです

となると


ここに書き連ねたわたしのテーマは
いったい何?
となりそうですが

しかし
そうもならない
という

まあ
牧師は
異端なわけだなあと思いました

うーむ
伝わりにくいことを書いておりますなあ

すみません

ではでは


単純

2008年07月01日 | 「生きる」こと

語る言葉の
重たさ

軽さ

というのは

他者と共に在るところからの言葉か
それも
他者のために時間や金や力がささげられている中での言葉か

それとも

時間も金も力もただ自分のために使っている中での言葉か
つまり独り言か



分かれるのだなあ

という単純さ


噛み締めてます


言葉(論理)の精密さや斬新さは
そういうのは
まずほとんど
いやまったく

重さには関係ないのだなあ

という単純さ


噛み締めてます


命であり
世界であり
歴史であり
関係であり
愛であり
希望であり
信仰であり
十字架であり
復活であり

というところの

重たい言葉の場所には

どんなに精密で斬新な言葉であっても
他者への献身のない言葉は

入る余地がない!

という単純さ


噛み締めてます


逆に

他者と共に
他者のために

というところからの言葉なら
そこから発せられる言葉(論理)が
悪い意味で単純で
稚拙で
感情的だったりしても

重たい

という単純さ


噛み締めてます



この間
半ば仕方がないけれども
テーマがテーマだっただけに
わたしの言葉は
軽いなあ

と思うわけです

と言っても
重い言葉を失った場が多い中では
(他者性が消えた場があふれる中では)

軽いとか重いとかないのかもしれませんが

あるのは

快か不快か
わかるかわからないか

といったことであることに
愕然することもなくなるほど

世界でもありますが


しかし

重くないと
もみがらのごとく飛んでしまうのでありまして

やはり
しっかりと
この単純さを
噛み締めたいのであります

おしまい