きぼう屋

生きているから生きている

青年たちへ

2010年08月30日 | 教会のこと
先週と今週の週報巻頭言です。

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先週の巻頭言

「青年のみなさまへ その壱」

休暇中の主日、
私は相模中央教会の礼拝に参加しました。
たまたま私の牧師である藤田英彦師が説教者として招かれていたためです。
相模中央教会は全国的に注目されています。
教勢の伸び、テーマの豊かさ、礼拝など各集会の行き届いている様子、行き届いた教会堂、教会員の献金と奉仕の豊かさなど、
組織がしっかりし、奉仕がきっちりしているだけでなく、
聖霊による交わりを信じきるからこその教会形成が起こされていました。
とても圧倒されました。

しかし、この相模中央教会も、
京都教会の青年たちの交わりと祈り、奉仕と社会的テーマに接したら
驚くだろうと思いました。
青年層に関しては、
サイズが三分の一の京都教会も変わらないのです。
これは私にとってアメージングでした。
そういえば当教会の五倍のサイズの常盤台教会も青年層の活発さは当教会と同じであると
常盤台教会出身のMさんが言っていましたが、
ただのリップサービスではないかもしれません。

さて、
そのことは次のことをも意味すると思いました。
つまり京都教会の青年は日本の教会の存続と発展のために、
私なりの言い方をするならば
日本のキリスト家族の深まりとひろがりのために、
大きな責任をも頂いているということです。

そしてその責任とは、
聖霊による交わりの具体を繰り返し経験し、
それを経験している者として社会で生きることです。

またこの経験があってはじめて教会の組織や奉仕は意味を持ちます。

かつてはプチ礼拝、現在は例会や木曜夜の集いにて、
すべての仲間の名前と状況を具体的にノートに記しみんなで祈ることは、
まさに聖霊の導きであると私は宣言するしかありません。

また、
それは自分のことは主に委ね、
ただ主と共に他者に向かうことにもなっています。

実に、自分の充実のための組織と奉仕は人間業ですが、
常に他者へ向かい他者とつながる活動は聖霊によるのです。

そして次週の新たな企画リトロバデイも、聖霊の導きに間違いありません。

また恐らくこれから、
この聖霊による業のために、
組織と奉仕がさらに確立してくることと思います。
しかも聖霊による交わりの具体=執り成し合いの人生による組織と奉仕は
とても美しいです。

おおいに期待しています。

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今週の巻頭言

「青年のみなさまへ その弐」

現在、
当教会の青年のみなさんは「出会い」にどんどん直面していると思います。
数年の間に仲間が急激に増えました。
さらに増えていくと思います。

そしてみんながキリストによってひとつとされ、
チーム・キリストを形成し、
キリスト家族として歩みます。

それは考え方や価値観が一緒ということではなく、
(むしろそれは教会ではまったく意味を持たず)、
ただキリストを信じ、
みんなでひとつのキリストの体であることを
生々しく覚えて生きるということが起こっており、
このことだけが、
生命、人格、人生、信仰、教会、世界、歴史にとって
大事なこととなります。

だからまず
これまで続けることがゆるされているように
日々丁寧に他者のために祈りましょう。
具体的に仲間の名前をあげ顔を思い浮かべ祈りましょう。

次に、
はじめて会った人が家族であることを主より受けましょう。

ここで大事なのは、
教会家族よりも個人や血縁家族を優先することから解放されることです。

個人を優先すると、
自分の健康と安定さえあれば動じなくなります。
すると
実は自分のそれらのみ求めるご利益宗教として教会を利用するようになります。
そして教会家族に不満があるとそこから離れることもできます。

そして何より自分がキリストにより変化する最大の奇跡を受け損ねます。

血縁家族を優先すると、
そこで完結しそこを安全地帯とするため、
キリストの体を受け損ね、やはり自分が変化する主の奇跡を受け損ねます。

信仰とは出会いによる変化の享受です。
この変化が主の最大の奇跡の業です。

キリストに出会った者にとっては教会家族が最優先です。
だからこそ教会家族では、
天涯孤独の方も、親や子どものない方も、母子家庭や父子家庭の方も、
血縁以上の父、母、祖父、祖母、息子、娘を、主から教会という具体として与えられます。

教会の中に血縁家族が優先される雰囲気が起こると
(これは案外教会がよく起こす大失敗)、
血縁家族がなく、あるいは関係がうまくいかず、さみしい思いをしている人を、
教会が排除しはじめます。

だから青年のみなさん、
キリスト家族となることに躍起になりませんか。
ここに信仰の秘密があるのです。


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このシリーズをもうちょっと続けようかな
と思ってます。



再延長

2010年08月27日 | 教会のこと
現在『百万人の福音』に連載中の
「キリスト家族-ホームレスと出会った教会」の
連載期間が
さらに12ヶ月延長されまして
2011年の12月までということになりました

がんばります


こころ→せかい・れきし

2010年08月24日 | 教会のこと
心ってなんなん?

胸のあたりに感じるらしい心でありますが
しかし
そこには心臓をはじめ身体器官があるのみでして・・・

心理学の本を読んでも
みんなぜんぜん違うことを言っているし
つまりこれまでの思想を
別の言葉で
それもちょっと内省的な言葉で翻訳しているだけと思ってしまったら
もはやそのようにしか読めなくなってしまっているし・・・

だから心理学にも右から左まであるし

うーん。。。

ただ心というところで何かを感じ何かを思い何かを決める

という感覚なのだろうなあ
ということはよーくわかります

しかし

わたしはやっぱり思います

心ってのは
ある!と考えても
ない!と考えても
どちらでもいいものなのだろうなあと・・・

聖書からも心ってのはよくわかりません

精神性と捉えることもできるし
魂と捉えることもできるし
霊とも捉えることができるし

上記のみっつの解釈(翻訳)と違って
「心」と訳されているところはなにゆえに「心」となっているのかも
わたしはわかっておりません

たしかに昔から体と心の二元論は語られてきましたし
とりわけ個人主義をもてはやすこの数十年は
個人主義ゆえに
個人の体と心というテーマに惹かれるということがあると思うのですが

しかし
聖書がそれに引っ張られて解釈されてはならないので
そのあたりの解釈は丁寧にする必要があります



わたしが聖書が心というときに
それが何を意味するのかと考えるとき

昨今は

こころ=せかい・れきし

と捉えるようになっています


「こころ」という歌詞が入っている讃美歌(子ども讃美歌も)の
その「こころ」の部分を
「せかい」や「れきし」に取り替えて歌ってみてくださいませ

はまりまくります

これは当教会員のMさんから5年前くらいに教えてもらって
年々
まったくそのとおり!
と思っていることであります


たとえば
♪キリストの平和がわたしたちの心のすみずみにまでいきわたりますように

♪キリストの平和がわたしたちの世界のすみずみにまで・・・
♪キリストの平和がわたしたちの歴史のすみずみにまで・・・
と歌うと

急に讃美歌の世界が広がり
具体的なキリストの働きが見えるようになり
つまり讃美歌が実体を伴うと思いませんか

実はこれはありとあらゆる讃美歌で通用します
「こころ」を「せかい」「れきし」に変えて歌うと
ドキッとします

これだ!って思います


つまり

わたしたちが心と呼ぶものは
実にわたしたちに大きな影響を与えているからこそそう呼ぶわけだと思いますが

しかし
私たちが影響を受けているのは
実に外側の世界であり
つながっている歴史であるわけです

世界と歴史はわたしたちの目の前にしっかりとあるものです

しかし
目の前にがっつりあるというものは
それが真実であるほどに
重たすぎるので

わたしたちが
とりわけ個に分断されて
あるいは積極的に個となって

個人主義であるときは
重たすぎて絶対に担えないので

それを

という抽象的なものとしてぼやけさせているのだろうなあ
と最近は考えています

でもぼやかしてでも
目の前にあるものがないと生きていけないので
ぼやかして目の前のものと向き合うというひとつの工夫なのだなあと思います

そして
しかし
キリスト者というのは
とりわけ
パウロのいうところの成人としてのキリスト者というのは

ぼやかさずに
世界と歴史を担い
それを十字架として主と共に背負う者のことであるわけで

キリスト者は
心として認識することから解放されて

目の前にある世界と歴史をそのまま背負うことへと招かれているに違いないと思います

現在詩編を読んでいますが

神の前に心を注ぎだす
とか
目の前に罪が並ぶ
とか

実に心の中にあると人間が思ってしまっているものを

もう一度
世界、歴史として
神の前に
そして自分の前に
しっかりと存在させて
それを受ける

ことが


強烈に大事


と思わされます


そしてそれは
個人では絶対に!絶対に!できません
だから
わたしたちはキリストの体なる教会共同体なのであります
交わりなのであります

キリストの体となることが
(個人主義から解放されることが)

心としてぼやかしていたものを
世界と歴史として受けることができるための秘密です


こころ→せかい・れきし

なのでございます


2011→2010

2010年08月20日 | 「生きる」こと
今週
わたしからお便りの届いたみなさま

日付を
2011年としていると思います

まことに申し訳ありません

ただしくは2010年です

今週は
いくつかの運動体の
2011年の計画案について考えておりまして
そんなことをしておりましたら
4桁の数字はなぜか2011と書いてしまっておりまして・・・

あーー情けない

注目教会に行って

2010年08月19日 | 教会のこと
8月8日の礼拝を
相模中央教会で守ることがゆるされました

本当は
妻の実家の近くの
教団本所緑星教会の礼拝に参加する予定だったのですが

直前の全国少年少女大会で
相模中央教会のメンバーにお会いしました折に
その方が
8日は平和を覚える礼拝で
説教者として藤田英彦牧師を招いている

とても嬉しそうに仰ってくださいました

藤田牧師は私たち夫婦の牧師です

しかも私たち夫婦はさらに
私たちの両親という認識も持ちます

わたしが
血のつながりを超えたキリストによるつながりの家族
を体験できたのは藤田夫妻と出会ったからです

その藤田夫妻が
たまたま
私たちが東京にいるときに
東京、神奈川に来ている!

ということで
相模中央教会の礼拝に参加しました

相模中央教会は
全国的に注目されている教会です

そして結果的に
相模中央に参加できたことはとてもよかったです
いろいろと学ぶことが出来ました

まず150名の教会のイメージを知ることができました
150名だと多すぎてお互いに家族と実感できるだけの交わりを持てないのでは?
という私の疑念はふっとびました

10年前の30名弱の当教会よりも
互いの交わりが深く行き届いており祈りあっています

また150名の交わりのために
会堂もプログラムも考えつくされていることを教えられました

会堂は
人が集える場所が多く
またリラックスできる空間づくりができており
ひとつひとつの空間の広さもちょうどよく
泊まることもシャワーを浴びることもできるし
子どもたちの居場所もありました
音響も多少響きすぎな面があるかもしれませんが
計算されていました

プログラムも
子どもたちが共に礼拝に集えるための人材面と教材面が見事に整っておりますし
礼拝に多くの人が参加するスタイルがとられています

そのためには相当に深い議論があったのだろうと容易に想像できます

そして私の関心は
そこまでの深い議論ができるのはなぜだろう?
というところに移るわけですが

すぐにわかりました

礼拝の30分前から
執事たちが
暑いのに会堂の外で礼拝にくる人たちを迎えていました
それも丁寧に言葉を交わしておられました

礼拝の数分前には教会員のベテランたちは
礼拝堂の前から詰めて座り
祈りをささげています

また月約献金という恵みを大切にしていることは
諸教会に配られる資料からもわかります

これからも相模中央教会からどんどん盗んでいきたいと思います

そして恐らく京都教会も
数十年後には150名までいかなくとも
それに近くなるのだろうなあと想像します

それは

青年の交わりが
深く聖書から聞きあい
真剣に祈りあい
他者の隣人となる
という
実は私もこれまで経験した教会で見たことがないほどに
充実したものとなっているからです

相模中央教会に行ってわかったことは
当教会の青年たちは全国の宝だということです
つまり
あの相模中央と同じだけ青年は与えられているし
青年たちが掘り下げているテーマからすると
それ以上に京都教会は青年に恵まれているかもしれないことがわかりました

かつて250名礼拝の常盤台教会から当教会に転会した青年も
青年に限っては同じ
と言っていました
そのときはリップサービスと思っていましたが
もしかしたら本当なのかもしれません


だから当教会の青年会の歴史を
ここで少し見つめてみたいと思います

わたしが赴任したとき
青年は0人でした

そこに東京北教会からSさんがこちらで学ぶためにやってこられました
すると城西教会のKさん、新潟からのKさんも集うようになりました
すると
学生たちが少しずつ参加するようになりました
これが青年会第一期です

ここでわかるのは
当教会の青年会第一期は
他教会で育った青年たちによって始まったということです
感謝に耐えません
とりわけSさんの活躍には今も感謝しております

その後彼女はドイツに行かれ
東京に戻り
今もバプ連で活躍してくれています

この第一期は5名くらいの青年会でした

そして学生たちはみんな旅立ちました


では第二期を見てみましょう
新潟のKさんがとってもがんばってくれました
そして高崎教会からAさんが来られました
八王子めじろ台からIさんが来られました
東大阪教会からKさんが来られました
若松教会からHさんが来られました

そうです
第二期も他教会で学んだ青年により当教会は活性化します

そして学生がたくさんあつまります

毎週の教会学校青年クラスは座席がないほどでした

第二期は10名の青年会となりました

そして第二期も実にAさん以外は旅立っていきました


しばらくAさんのみの年がありました
しかし
そこにSさんが来られました
あのバプ連の音楽を支えるM3姉妹?のおひとりです

そして常盤台教会よりMさんが来られ
高須教会よりZさんが来られ
長崎教会よりHさんが来られ

実にこれまた他教会で活躍していた人たちにより
当教会の青年会は盛り上がっていくこととなります

とりわけSさんは
青年会と教会学校
さらに礼拝のプログラムから雰囲気にかかわることまで
フル回転で担ってくれました

そして教会は
Sさんを中心とする青年会に教会学校の小学生クラスと子どもクラスをお願いする決断をします
このとき青年会は
教会学校の青年クラスを持つことが出来ず
みんなで後輩たちのリーダーを担いました

しかし
彼らは独自に交わりを持ちます
そのひとつがプチ礼拝
「百万人の福音」に紹介されたこともあります

実に青年会第三期が
京都教会の歴史を動かすことにもなっていきます

そして彼らが基礎をつくったから
安心して新しい青年たちが当教会に通うようになります

年々びっくりするほど新たな仲間が与えられます

バプテスマが途切れることなく起こされます
地元の人が来るようになります

そして
いま

20名を超える青年会が起こされています

いまや
教会学校の小学生クラスと子どもクラスはもちろん
執事
総務
手話通訳
奏楽
他礼拝奉仕の数々

青年たちが教会の中心を実質担っています

びっくりするくらいたくさんの奉仕を担っています


そして
読書会や木曜夜の集い
地域の子どもたちを集めたリトロバ・デイなど
新たなプログラムもはじまっています

とりわけ
ホームレスのこと
平和のこと
歴史、世界のこと
福祉のこと
などに精通する青年が多いことも
ある意味現代の日本の教会では極めていい意味で特殊と言えるのかと思います


わたしはただただ主に感謝するしかありません

また
第三期草創期の
青年会のみならず教会の基礎をつくった仲間には特別に感謝するばかりです

この基礎があるから
いま
その上に積み上げることができます


いつかこの青年たちと
相模中央教会や
恵泉教会などを
見学に行きたいものです

そして京都教会の将来の姿をイメージできたらなあと思います


感謝感謝

平和を創る

2010年08月17日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「平和を創る」

65年前の今日、日本が戦争に敗れた。
この戦争で
2,000万人のアジアの国々の人たちと
300万人の日本の人たちが命を落とした。
その中で沖縄では20万人、広島では15万人、長崎では9万人が亡くなった。

しかし、戦争に敗れるかたちで、銃を向けあうことはなくなったかも知れないが、
戦争は終わっていない。
広島、長崎ではなお後遺症のために命を落とす人がおられ、具体的に心身に痛みを負う人がおられる。
また愛する人が戦争で死に、今も悲しむ人がおられる。
65年前までの戦争で受けた心身の破壊、痛み、苦しみ、悲しみは、今なお生々しくあり、
それは戦争が生々しく続いているということだ。

キリスト教会は平和を創ることを神からの使命として受けている。
平和は個人の心の問題ではない。
具体的な歴史と、その歴史に共にかかわる人たち全体を問題とする。
すなわち具体的な歴史と絡み合うすべての人の、
その絡み合った心身のすべての平安を問題とする。

つまり
十字架につけられたキリストという具体的な歴史ゆえの救いが平和の根源だ。
聖霊が、絡み合っている歴史の只中の心身たちをなお結び付け、
個々が分断されることを赦さず、
ただ愛を(敵をも愛す愛を)期待するのが平和の根源だ。

そのような世界が、
つまり平和が創られることこそが
神の創造であることを聖書は語る。

「平和を創る者たちは幸い」だ。そして「神の国はその者たちのもの」である。

もし教会が神の国であり、神の国を目指し、神の国を欲するなら、
教会に招かれた者は、
平和を創ることを、80年前後の人生の中心行動とする。
教会に集うわれわれは、
具体的な歴史の只中で、
心の問題に矮小化せず、
平和を創る具体的な行動を選び取る。

今年も本日から日本バプテスト連盟の「平和に関する信仰的宣言」を数回にわけて交読する。
繰り返しこの宣言を読み、心身に刻み、宣言どおりに生きる挑戦を教会のわれわれはする。
すでに教会内に具体的な活動もある。

平和はこうして創られるべきものだ。
そして主と共に終わらない戦争に終止符を打つことを
教会のわれわれは夢見る。


8.15バプテスマ

2010年08月15日 | 教会のこと
本日の礼拝では
信仰告白とバプテスマがあります

8.15にそれが起こされるというのは

現代日本のキリスト教会にとって
意味深いことです

キリストの歴史とはこういうことだと思います

感謝です

ハッピーです



別件ですが
わたしのメールは復旧しました
すみませんでした

ご迷惑をおかけしております。

2010年08月14日 | 「生きる」こと
わたくしへの個人メールが
どうも届かない状況のようです。
(当方が受信できない状況のようです)。

すみません。

8月9日の20時までのメールは届いておりますが
それ以降のものは届いておりませんので
大切なメールの場合は
もう一度お送りくださいますようお願いいたします。

対策中のため、
重たいものは受信できない可能性がまだありますが、
だいたい大丈夫なようです。

お手数をおかけしますが
よろしくお願いいたします。

広島と長崎の間の主日

2010年08月14日 | 教会のこと
あと一日残されたところの
今週の
週報巻頭言です。
遅くなりすみません。

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「広島と長崎の間の主日」



牧師休暇中の礼拝を教会家族全体で担ってくださり感謝に耐えない。
私たち家族は妻の実家から近い教会の礼拝に出席予定。
この教会は平和を宣教の中心メッセージとして歴史を通して語り続けている教会であり、
広島に原爆が落とされた日と長崎に落とされた日のあいだにあたる主の日に、
このような教会の礼拝を肌で学んでみたいと思う。

平和は宣教の中心だ。

私たちはキリストの平和を創る使命を与えられている。

平和とは神の国が完成することであり、神が神となることだ。

フーバーという有名な学者が言う。
「人間は神の一部であり、部分の中にある欠乏は全体の中にある。
そして全体は部分の欠乏に悩む。
ゆえに人の祈りは全体の欠乏に向けられねばならない。
(省略)
また人は自らの欠乏が神の欠乏から来ることを知っている。
だから人は神の欠乏が満たされるように祈る。
すると同時に、人の欠乏も満たされる」。

あらゆる時代、
各地域にある欠乏は、単独のものではなく、全体の欠乏であるのだ。
それは全体である神が欠乏しているゆえのことなのだ。
広島に欠乏があり、長崎に欠乏があるならば
(原爆投下直後はもちろん!今も莫大な被害に対して、慰めも憐れみも保障も伝承も欠乏している!)、
それは世界全体の欠乏であり、
神の欠乏なのだ。

また実に私たち個々人が、自分のことと認識している欠乏も、
世界全体の欠乏であり、
神の欠乏であるのだ。

だから自分の欠乏を覚えるならば、
世界全体の欠乏に祈りを向けなければならない。
そこから今週は、広島と長崎に祈りを向ける必要がある。

また欠乏だけではないだろう。
苦しみも悲しみも、
すべては全体のことであり、同時に神の苦しみ、悲しみである。

地球の裏側のAさんの呻きは、神の呻きであり、私の呻きなのだ。

私の嘆きは、神の嘆きであり、世界全体の嘆きなのだ。

全ての十字架は、キリストの十字架であり、
ゆえにそこで全体とされ、
さらにキリストに従う者が共に背負う十字架とされるのだ。

これが平和への第一歩だ。そして終末には完成する。
つまり神が欠乏なき満たされた神とその日にはなる。

平和を創ろう。

ウキウキ

2010年08月03日 | 「生きる」こと
ふと思いました

車が趣味の人ってのは
ずっとウキウキなのかなあと思いました

だって
ありとあらゆる道に
大好きな車が走っているわけですから

バイク好きの妻に
車と同じ量のバイクが走っていたらどう?
って聞きましたら

ずっとウキウキしっぱなし
ということでした

オーディオが趣味の私からすると
ありとあらゆるところに
TANNOY、JBL、WADIA
ってのが並んでいるわけで
そうだったらずっとウキウキです



人が好きな人は
たとえ他人であっても
街にあふれている人々の中に立って
やっぱりずっとウキウキなのだなあとも思いました

生命が好きな人も
生命だらけの地球のどこに行ってもウキウキ



あらゆる空間と時間を満たす神さまが好きな人は
ほんとは
ずっと
ウキウキなのだなあ

と思いながら

牧師のくせに
ずっとウキウキではない自分を発見しつつ

しかし
同時にあらゆる空間と時間に立つ十字架により
ずっとキリストとともにそれを背負うのだなあ
とも確認しつつ

実は

キリスト者ってのは

決して無礼なことでなく
ほんとに
ウキウキしながら苦難を経験するのだろうなあ

と思ったのでした

おしまい

ターニング・ポイント

2010年08月02日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

最近なんだか同じことばっかり言っておりますが
たぶんこのあたりのことは一生言い続けるのだなあ
と思っております。

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「ターニング・ポイント」

6月から礼拝と教会学校で開催された信仰基礎講座もいよいよ本日まで。
様々な項目にわけ
聖書が何を語り、
私たちは何を聞き、
動き、生きることができるか!
を分かち合ってまいりましたが、
そこで一つの通奏低音を私たちは発見できたのではないでしょうか。

それは、私たちはひとつ!ということです。
神が働くのも、
キリストが十字架で私たちの罪と悲痛を引き受けるのも、復活するのも、
聖霊が私たちを導くのも、
すべての時間と空間のすべての存在と行動を
なにはともあれひとつ!
とするためであり、
そのひとつ!こそが世界の大前提であるということです。

ただ残念ながら、
近代思想は、ひとつ!が前提ではなく、
個々の存在と行為がバラバラであることを前提とします。
ひとつ!は全体主義として退けられることも度々です。
しかし教会は知らねばなりません。
前提は個ではなく、キリストによるひとつ!であり、
キリストの体であり、
チーム・キリストであり、
異質の他者と強く結ばれ共に生きる!ことです。

聖書は原文に忠実であるほどに、
個が前提であることを見出すことがほぼ不可能であるところの書です。

とりわけ私たちが感じる痛み、苦しみ、悲しみは、
個人のそれらであると私たちが思いがちであったとしても、
実はキリストの十字架を通して、
キリストがかかわる世界全体のそれらであることを、私たちは忘れてはなりません。
信仰は共感共苦(コンパッション)を成立させます。
だから信仰は欠かせません。

さて、
当教会はそういう意味で今、ターニング・ポイントを迎えています。
当教会は年々新しい仲間が与えられています。
そこでは、
それまでの仲間は新しい仲間にかかわりきる使命を神から受けます。
しかし罪人ゆえそれができず悩みもします。
しかし悩みつつもかかわるしかなく、かかわらないという選択肢はありません。
私たちは教会でゲストからホストになります。
気が合う人だけでなく、出会ったばかりの他者が即メンバーとされるチームが
チーム・キリストです。

しかもそこに本当の主の癒しも起こります。

私たちはキリスト家族!