私とは何者か。
それを知るためには次の二つを要する。
ひとつは私の才能と業。もうひとつは私の限界。
ふたつのうちでより私を規定するのは後者である。
私とは何者か。
それを自分の才能と業から知ろうとする場合は、自分のみを必要とする。
しかし自分の限界から知ろうとする場合には、自分の限界を示す他者を必要とする。
私とは何者か。
それは私の限界を示す出来事と他者から問われる。
本来そうであるところの明らかに異質である他者から問われ、
究極に他者である神から問われる。
また、究極の限界である死から問われる。
それも不条理なる十字架の死から問われる。
汝の敵を愛せ。
最も異質な他者である敵を愛すること、
さらに最も異質な出来事である死を受容することは、
私のアイデンティティのために不可欠な事柄。
敵への愛と死の受容なしに私のアイデンティティが確保できないならば、
私は私を知ることがないということか?
私は信じる。
キリストによる和解とキリストの復活ゆえに
敵への愛と死の受容をキリストが起こすと。
しかし
そこで私についての答えが示されるのではなく、
問いの変化が起こされる。
つまり
問いは、私は何者か?から、キリストは何者か?へと変わる。
私のアイデンティティとはキリストのアイデンティティであり、
それは具体的な世界においては教会共同体というキリストの体のアイデンティティなのだ。
私とは何者か?という問いは、
キリストとは何者か?という問いであり、
教会とは何者か?という問いである。
これらの問いは切り離されることなく、
常に同時に問われるものである。
私とは何者か。
それは答えのある問いではない。
この問いを含めた上記みっつの繰り返しの問いとして、
アイデンティティであるところの問いである。
そして
問いがすでに
復活と希望の光のなかでの
和解と癒しの出来事の初穂となっているのだ。
******************
今もなお最も多く聞かれる要望、
私のアイデンティティを確保したい!
というものを受けて
私とは何者か
からいろいろと考えてみたらこうなったわけです。
それを知るためには次の二つを要する。
ひとつは私の才能と業。もうひとつは私の限界。
ふたつのうちでより私を規定するのは後者である。
私とは何者か。
それを自分の才能と業から知ろうとする場合は、自分のみを必要とする。
しかし自分の限界から知ろうとする場合には、自分の限界を示す他者を必要とする。
私とは何者か。
それは私の限界を示す出来事と他者から問われる。
本来そうであるところの明らかに異質である他者から問われ、
究極に他者である神から問われる。
また、究極の限界である死から問われる。
それも不条理なる十字架の死から問われる。
汝の敵を愛せ。
最も異質な他者である敵を愛すること、
さらに最も異質な出来事である死を受容することは、
私のアイデンティティのために不可欠な事柄。
敵への愛と死の受容なしに私のアイデンティティが確保できないならば、
私は私を知ることがないということか?
私は信じる。
キリストによる和解とキリストの復活ゆえに
敵への愛と死の受容をキリストが起こすと。
しかし
そこで私についての答えが示されるのではなく、
問いの変化が起こされる。
つまり
問いは、私は何者か?から、キリストは何者か?へと変わる。
私のアイデンティティとはキリストのアイデンティティであり、
それは具体的な世界においては教会共同体というキリストの体のアイデンティティなのだ。
私とは何者か?という問いは、
キリストとは何者か?という問いであり、
教会とは何者か?という問いである。
これらの問いは切り離されることなく、
常に同時に問われるものである。
私とは何者か。
それは答えのある問いではない。
この問いを含めた上記みっつの繰り返しの問いとして、
アイデンティティであるところの問いである。
そして
問いがすでに
復活と希望の光のなかでの
和解と癒しの出来事の初穂となっているのだ。
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今もなお最も多く聞かれる要望、
私のアイデンティティを確保したい!
というものを受けて
私とは何者か
からいろいろと考えてみたらこうなったわけです。