きぼう屋

生きているから生きている

看取り

2010年06月29日 | ホームレス支援のこと
ホームレス生活をしていた方が亡くなった

明らかに大きな病であることがわかり
一年以上にわたり
医者、看護師、生活相談員も含めて支援ボランティアたちが繰り返し声をかけてきた
なんとか通院はするものの
入院はしない

しかし
さまざまな事情が重なり
ようやく入院

治る見込みは一年前からない

いよいよとなり
多くの仲間が彼に会うことができた

彼はみんなに囲まれ亡くなった

とくに病院スタッフの愛に感謝


しかし今回も
親類は見つからなかった
(あるいは拒絶された)

明日
出棺する

遺骨は教会がお預かりする

いつかご家族があらわれることを祈りつつ


彼は金麦が好きだった

買っておく


命どぅ宝の日

2010年06月27日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「命どぅ宝の日」

日本バプテスト連盟は、
全国女性連合の呼びかけにより6月23日を「命どぅ宝の日」として毎年覚えます。

1945年6月23日に沖縄地上戦が終結しました。
そしてこの日から沖縄は露骨に戦争システムの中で経済や生活が営まれることとなりました。
したがって6月23日は、
地上戦という惨事とそれによる死者や悲痛にある者を覚えると共に、
今日もなお沖縄は戦争状況にあり続けているし、
そこから解放されないシステムに縛られていることを覚え、
その苦痛を共に痛み、
そこからの解放のたたかいを、
解放の主イエス・キリストに従いつつ、
主と共に、
沖縄と連帯し、
具体的に祈り活動していくことを肝に銘じる日であります。

沖縄では米軍兵士による強姦、強盗が後を絶ちません。
自動車事故やヘリコプターの事故もあります。
自然破壊も起こります。
もちろん騒音問題もあります。
そして朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争に、
沖縄から、人を殺すために出発する軍人がいます。

しかし、生活者が脅かされ、様々な国の老若男女が殺されることで、
沖縄の経済がまわるシステムであり、
殺人と虐げにより、沖縄の生活者の命が保たれるという強烈なねじれを、沖縄はかかえています。

私たちはこのねじれを自らのこととして引き受けたいと願います。

主イエスがまず十字架にて引き受けています。

主がそのねじれにより自らの内臓がねじれる思いをするばかりでなく、
十字架でそのねじれゆえに殺されます。
主は一方の命を守るために虐げられ殺される他方の命と共に虐げられ殺されます。

その主の業によりキリスト者は
ねじれを覚え、ねじれに痛み、ねじれからの解放を祈り、そのために具体的に動きます。
つまりキリストの平和をキリスト共に叫び創ります。
それは虐げられ殺されるいのちが起こらざるを得ないシステムを神の国へと改革することです。

沖縄には「ちむぐりさ(肝苦さ)」という言葉があります。
他者の苦痛ゆえに自らの肝が苦しい、という意味です。
それは歴史を背負った言葉です。
ねじれを引き受けるゆえの言葉です。
「かわいそう」という言葉では置き換えられない言葉です。
わたしは勝手ながらここに十字架の主を見ます。

そして虐げられ殺される命があってはならないことを「命どぅ宝(命こそ宝)」として覚えたいと思います。

また沖縄の抱えるシステムは、実は地球規模のシステムであり、
その痛みを一部地域に押し込めているものであることを忘れてはなりません。

沖縄の現在の諸問題は、私たちの肝が苦しむべき問題であり、
十字架の主がすでに苦しまれている問題です。

聖書は常にこのような場面で言葉が語られ、
ここでキリストに従うように神は招きます。
ぜひ招きに応えたいと願います。


空とメッシと俊輔と

2010年06月25日 | 「生きる」こと
本日(昨日)は空くんの誕生日
あっという間に12歳です

ついこの前生まれたばかりなのに・・・

空くんは予定日が26日でした
その日はサッカーのワールドカップの日本戦があるので
重ならないで欲しいなあ
と思っていたら24日に生まれてくれました

そして今年は誕生日に日本戦
この後3時半に彼を起こすことになっています


なんとメッシも俊輔も24日が誕生日
しかもどちらも空くんと同じ左利き

空くんはそれがとてもうれしいみたいです

普段は野球にどっぷりつかっている空くんも
今年はサッカーでございまして

まず家族からはサッカーボールがプレゼントされました

実はウチの息子たちはこれまで4回サッカーボールを紛失しています
紛失理由を彼らは語らないのですが
たぶん
河原で遊んでいて
そのまま鴨川にボールが落っこちて
流れてしまったのだろうと思います

というのは
今日の夕方に
空くんと共くんと河原でサッカーをしたら
なんと2度もボールが川に落ちまして
たまたま水量が普段より多かったので
いつもと流れが違って
50mほど流されたら岸に戻ってきてくれたので
今回は無事でしたが
この分ではいつかまた流されるだろうと思いました

またいろんな方からプレゼントが届きました

サッカーのユニフォーム(ポルトガル代表のもので背番号は7)や
今回のワールドカップの詳細な情報が載っている冊子なども
プレゼントしていただきました

他にもステキなプレゼントとカードをたくさんいただきました

12歳の誕生日をこれだけたくさんの仲間に
しかも人生の先輩たちに覚えてもらえるということが
空くんの人格形成に大きな影響を与えるだろうと思います

彼は先輩に愛されていることを知り
先輩に認められていることを知り
先輩を
つまり他者を
信頼することを自然に身につけるに違いありません

しかし昨今の空くんは
輪をかけて他者思いのいいやつです

寝不足のときや疲れがたまっているときは
いらいらすることもあるけど

体調がいいときは
親のため
兄弟のため
友人のために
せっせと動いています

先日の父の日にステキなカードをくれまして
マッサージ券をたくさんいただきましたが
空くんはそれをちゃんと用いるように念を押してくれるばかりでなく
券なしでマッサージをしてくれております

わたしも親にマッサージ券を贈ったことがありますが
それが用いられたのは一回でした
贈った私もとくに積極的にマッサージをすることはありませんでした
たぶん多くの場合そんな感じかもしれません

そして空くんがそんなやつなので
こちらも彼に引っ張られて不思議と少しいいやつになれます

空くんが少し腰が重いと言っていたので
彼が寝るときに腰のマッサージをしました

すると彼は予想通り
「今度お返しするから」
とにこにこしながら言ってくれまして
申し訳ないばかりです


空くんが眠りについたので
次に憐くんの背中をマッサージしました

そしたら憐くんも眠りについたので
今度は言ちゃんの背中をマッサージしました

そして言ちゃんの眠ったので
最後に若菜さんをマッサージしました

そしてみんな寝ました


3時半に何人かが起きます

あと少しですねえ

ではでは

シェルター再獲得

2010年06月20日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言

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「シェルター再獲得」

先週の全体懇談会で、
私は教会改築の際にシェルター的な部屋が必要と述べました。
翌日からの連盟ホームレス支援特別委員会でも、
今後の教会はシェルターを持つべきことを、
全国の教会に向け
委員会から発信すると決めました。

行き場のない人が教会に来られたら、教会は聖書を生きるゆえに彼を引き受けます。
引き受けられない罪人としての限界を抱えつつ、
しかしキリストに委ねるゆえに引き受けます。
信仰者は端的に、そこで主に従うか、従わないかという岐路と出会います。

半世紀前の日本の教会の多くは、
行き場のない人が常に宿泊していたと聞きます。

牧師の息子である私の父は教会で育ちましたが、
毎食知らない人が食卓におり、宿泊していたと証言します。

また信徒として献身的に教会を担う大先輩には、
教会での食事や宿泊が信仰の原体験となっている方が多くいます。
五千人の共食の物語などからして、これは極めて本質的な信仰体験と言えます。

しかし、いつからか日本の教会は、
行き場のない人を引き受けられなくなっていると言われても反論できない状態にあると思います。
ときによくある批判のとおり、下手すると教会は教会員のサークルになっています。

しかし、今こそ教会は再獲得すべきです。
教会はありとあらゆる人が飛び込むことのできる場所となります。
教会は新来者をも家族として引き受ける交わりとなります。
つまり、素性の知れない人を愛と信頼で引き受けるという、他の施設にはまずできないことをする場になります。
しかも、ついさっき会ったばかりなのに、どちらかが死ぬまで共に生きることを即座に信仰的に決断する交わりとなります。

それは教会に集うキリスト者が、主イエス・キリストにそうしてもらっているからです。
そうしてもらっていることを知る者こそがキリスト者です。

また教会員とは、
会ったばかりの他者を引き受けるチームのことを言います。
だからシェルターは教会の本質上必要です。
「宿のない人を泊めたことが、いと小さき者(主イエス)にしたこと(マタイ25章)」なのです。

最後にもうひとつ聖書の言葉を紹介して終わります。
「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません(ヨハネの手紙一4:20)」。


生・死

2010年06月18日 | 「生きる」こと
昨日で言ちゃんも2歳になりました

うまいことろうそくの火も消せました

サオリちゃんちのチョコレートケーキをわしづかみで食べました

あいかわらずかわいいです


さてしかし
2歳になったらおっぱいは終わり
という約束を
言ちゃんは母親としておりまして

いよいよその日が来ました

だからがんばってます

言ちゃんも若菜さんもがんばってます

これまではおっぱいを飲みながら寝ていた言ちゃんは
それができないので寝付けません
だから若菜さんがおんぶして
すずしい庭でしばらくすごして
言ちゃんが寝たら戻りまして
また夜中に起きたらそれを繰り返すという
お互いにとてもがんばっているわけです

また朝起きたらまずおっぱいを探しにいく言ちゃんですが
今朝は
なぜかそれをせずに
空くんと添くんにべったりとくっついて
ずっとおしゃべりしていました
(共くんはランニング部の朝練で言が起きるときにはもういません)
歌もうたっていました

つまりとってもテンションが高かったです
がんばっているわけです

ますますかわいいです


さらに昨晩は
当教会に来ていたノリちゃんが
(結婚して遠くに行ってしまったのですが)
無事出産したという連絡もありました

写真も届きました

めちゃかわいい!!!

主に感謝
ご家族に感謝乾杯




昨日の午前中は
当町内会の責任を長いこと担ってくださった方の告別式

12年前
夏の町内会の食事会の席で
わたしにかけてくれたふたつのことばが忘れられません
なるほど!と思いましたし
今でもそのことばで救われている面があります

中身をいうことができないのが残念ですが・・・

とてもいろんな面で深い方でした

ご遺族を覚えてお祈りいたします


本日は今から
死と向かい合っている方を見舞います
不安と平安が入り組む中で
共に祈ります


生・死に
徹底的に向き合うことを再獲得する時代がやってくるはずです
それは
なによりも
具体的ないのちにかかわることを二の次にしてきた我々が
あらゆることをおかしくしてしまったという反省から起こるはずです

だから
具体的にいのちにかかわります


開かれた交わり

2010年06月14日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「開かれた交わり」

教会は開かれた交わりです。

それは主イエスが十字架ですべてをさらけ出すほど開かれ、
また共に礼拝し食することに主イエスがこだわったほどに開かれています。

また主の死と復活が交わり全体の死と復活となるほどに、
主イエスが交わりのすべてを共有し引き受けるほどに開かれています。

さらに聖霊が言語と住環境と思想環境を越え、
人々を防衛も秘密も不必要なほどにつなげるから、教会は開かれています。

さて、当教会は毎月第二主日午後に全体懇談会を持ちます。
私たちはそこで教会のあらゆることを報告し共有し議論します。
そこは当教会で最も透明性があり民主的である開かれた場です。

しかし不思議なのは、
優れて開かれたシステムも、
交わりが外部に開かれて、交わりにある個々人が互いに開かれて、
はじめて!、
本当の意味で機能します。

交わりが、個々人が閉じるとき、
実は開かれたシステムは、コトを運ぶためのアリバイに使用されます。
それは、閉じた交わりから開かれた交わりへの移行時に、仕方なくそうなる場合もありますが、
注意すべきは、交わりが閉じていることが意識されず、
開かれたシステムを用いたことのみで満足することも多いことです。

しかし
開かれたシステムを開かれた交わりが用いる場合に
互いに引き受けあう積極的で建設的な議論ができるのとは異なり
開かれたシステムを閉じた交わりが用いる場合は
互いに責任を回避しあう消極的で距離をおいた立場を正当化することが起こります。

当教会の全体懇談会においても、
この10年で閉じた交わりが開かれていく過程を歩む中で、それらを経験してきています。
そして今、それが機能し建設的な議論が可能ともなってきました。
それは、
開かれたシステムの用い方ががうまくなったゆえではなく、
教会の交わりが、
端的に共に祈り語り食べ、時にボーっと過ごすゆえに、
愛と信頼が身体に染みる形で与えられてきているゆえに
開かれた交わりとしてあらわれる割合が高くなってきたゆえだと思います。

そして次の当教会の交わりの挑戦は、
新しい仲間が交わりに招かれたとき、
主の十字架と聖霊ゆえに、
自らが閉じないことを大切にすること!でありましょう。

もちろん秘密がなく演技も全くしない理想の姿を得ることは困難ですし、
罪人の私たちがそうなるとしたら、それこそ嘘になりますが、

しかし、全く初めての人と顔を合わせても閉じないことを、
信仰として祈りつつ主よりいただく段階を、当教会の交わりは歩み始めたと思います。

私は、ますます開かれてますます神の国を先取りすることが楽しみです。
感謝。


和解の同時性

2010年06月07日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「和解の同時性」

ガザは今もイスラエル軍に継続して攻撃されています。
先日はガザへの救援船も攻撃され、国連で問題になっています。
キリスト者はイスラエルで起こる戦争への大きな責任を担います。
この戦争で殺された人たち(女性や子どもも多数)への罪を背負います。

私たちはキリストにおいてひとつです。
この「ひとつ」は、
エフェソ書によれば、
イスラエルのユダヤ人と異邦人との和解により成立します。
そして和解により、
異邦人は、
神がイスラエルと結ばれた神の国の住民となる契約に加えられることで、神の国に生きることになります。

当教会の現況としては、私たちはみんな異邦人です。
だからみんなユダヤ人との和解へと神に召されます。

またそのユダヤ人とは、
異邦人キリスト者により、想像を絶する大虐殺を受けた人たちです。
キリスト者として召された私たちは、
虐殺の時代と地域に身を置いていなくとも、
「その血は二代、三代へと及ぶ」という聖書の言葉どおり、
アウシュビッツ(大虐殺の舞台)の罪を背負います。

我々キリスト者は、聖書に逆らい、ユダヤを抹殺しました。
ユダヤ人からイスラエルを奪い、神殿を奪い、トーラー(ユダヤ教の命でもある旧約聖書前半部)を奪いました。

そして大戦後、アメリカによりユダヤ人はイスラエルの土地を取り戻しましたが、
逆にそこで生活していたアラブ人は土地を奪われました。
しかし他にあてもなくイスラエルに残るしかないわけですが、
イスラエル国家は彼らをガザに閉じ込め、攻撃を続けます。

私は聖書に書かれている以上、
キリスト者とユダヤ人の和解がない限り、
異邦人キリスト者の私たちに神の国の住民票は実は与えられない可能性が強いことを覚えます。
キリスト者がまずユダヤ人の歴史を十字架として背負い続ける決断をし、
ユダヤ人およびユダヤ教と共に、神の和解の中で歩まねばなりません。

またそれは同時に、
日本人キリスト者が
アジア諸国の人たちの命、土地、言葉、信仰、生活、財産を奪い、
虐殺を繰り返したという罪を、
神が和解を起こすゆえに繰り返し想起し、十字架として背負うことです。

そして
この神によるユダヤ人と異邦人キリスト者との和解が起こされると同時に、
ユダヤ人とアラブ人の和解と共生も起こされ、
アジアの人々の和解と共生をも起こされるに違いありません。

その際、
アラブ人が殺されることと、ユダヤ人が殺されたことを背負い、
キリスト者は和解の道をひたすら歩み続けます。
またアジア人が殺されたことを背負い、
日本人キリスト者は和解の道を歩みます。

そしてイスラエル(神が契約した人・土地)が平和になるときに、
世界も同時に平和になることを、
私は聖書から学びます。

和解こそ神の業です。
アーメン。

贈り物

2010年06月06日 | 「生きる」こと
今日(というか昨日)は若菜さんの誕生日でして

もはやお互いの人生の半分は一緒に生きている
という年齢になってまいりまして

なんだか不思議なもんです

まずは6年生の長男がものすごいおみやげを持って帰ってきました
小学校対抗の野球で
さよなら満塁ホームランを打ってきました

内角の直球をおっつけながら強く振ったら
センターに伸びていったということで
たいしたもんです
なにしろ
学年で一番(二番?)小さい奴なのですから・・・

またみんなそれぞれ誕生日カードを渡しておりました
長男は辞書を調べながら
若菜さんが勉強しているハングルで
メッセージを送っておりました
これまた脱帽でございます
「あまり怒らないでね」
ということで
なかなかのメッセージでもあります

次男と三男は
飛び出す絵本的なカードをつくってました
次男はあいかわらずウ○コを書いておりまして・・・
さらに湯気まで書いておりまして・・・
若菜さんはホットソフトクリームやな
と言っておりましたが・・・

四男は得意の家族みんなの顔を描いてました

また夕方から教会のKちゃんも来てくれて
ついさっきまで一緒に過ごせました

Kちゃんが我が家につきましたら
なにしに行くのかをうっかり言うこともせずに
車にのっけて
みんなで山を越えて大津へ

リサイクルショップに探していたのと同じソファがあるという情報を得て
走っていったのでした

しかし残念
売れてしまっておりました

でもとっても安く
子どもたちのバックを買うことができました

Kちゃんは
車の中で叫んだり喧嘩したり泣いたりする息子たちの
子守をずっとしてくれてまして
恐縮でしたが
助かりました

しかも若菜さんにプレゼントも
それも彼女が気になっていた小説
感謝感謝


さてさて
家族からは
若菜さんが生まれて以来もっとも高価な誕生日プレゼントを贈ることになりました

彼女が25年間欲しかったものです

でも希望とは少し変わってしまいました

本当はマグナが欲しかったようですが
またがってみると
小柄な彼女にはでかすぎて
ちょっと無理でした

そして彼女にとても似合ったのが
ビラーゴでして
それを贈ることとなりました

届くのは10日後くらいでしょうか


マグナとかビラーゴってのは
250ccのバイクでございます


若菜さんはもう
高速道路ではマグナじゃあないとなあ
と言っておりますので
バイクもだんだんでかくなるような気がします

しかしただでさえ忙しい若菜さんなのですが
いったいどこまで走りにいく気なのでしょう?

N先生が浦和にいっちゃったしなあ
と若菜さんは申しておりましたので
たぶんN先生が昨年度までおられた岐阜までは
走りに行きたかったようです

まあ心配するだけ損なようです

この後我が家の家計がどうなるかも心配するだけ損なようです

ただ若菜さんが現在の彼女のミッションを実践しつづけるためには
これくらいの趣味への出費は間違いなく必要でして
さらに走ってもらうことも必要なわけです

若菜さんと一緒に走ってもいいよ
というみなさん
連絡をしてあげてくださいませ

なにしろおめでとうございます
一緒に歩めてしあわせです