きぼう屋

生きているから生きている

増加

2008年07月04日 | 教会のこと
教会の週報を作っていて
各プログラムの参加人数などを確認していて
びっくりしました

当教会では
日曜日の礼拝前に
手話を学ぶプログラムを持っています

数年にわたり
地道に少人数ながら
恵まれたプログラムとして続けることがゆるされています

けれども
昨今は参加者が多くなってきていて
単純に嬉しいのですが

なんと
先週は20名を越えているではないですか

単純にすごくて感謝です


手話を学ぶというのは

明らかに

他者と出会うための
その出会いに期待するゆえの
出会いこそキリストであるからこその
救いであり赦しのある場であるからこその

ことなのでありますが



手話を学ぶプログラムへの参加者が増えているということは

他者へむかう
という
キリストならではの出来事が
教会において大切にされるようになった
ということなのだなあ

まあ解釈しつつ
感激しているところです

また

先週の礼拝では
ヒロコちゃんが主体的に
子ども讃美の手話通訳を担いたいと言ってくれて
通訳をしてくれました


歴史というのは
こういう出来事なのだと
思いました


感謝
感激


言語

2008年07月04日 | 「生きる」こと
今朝の朝日新聞に
京都大国際フォーラム「多極的世界観の構築と外国語教育」
における
ドミニク・ドビルパン氏の基調講演要旨が載っておりまして

この人の話すことはすばらしいねえ

イラク戦争開戦直前に
国連で大演説をした方で
NHKで同時通訳により生中継されましたが
感動的でした

今回の基調講演は
言語画一化はすなわち人類の死である
という線で語られたようです

ほんと
そう思います

というのは
日本のバプテストにおいては
この言語画一化
すなわち
アメリカのバプテストの英語
の翻訳でしかないところの
言葉
によって
いま
教会が教会でなくなってきた
という経験をしていると思うからです

ドビルパンの論から言うと
画一化は共同体を殺し
すなわちそれが人類の死と同じである
ということなのですが

キリスト教会というのは
意地でも共同体であり続ける群れであり
そうしないと
人類が
世界が
死ぬ
ことを豊かに知っている群れであるはずなのですが

そのあたりが
テーマとなっていない現状があるなあ
と思うわけです



わたしがこの間
なんとなく考えていたことを
ドビルパンは相当な線で語ってくれていそうなので
この基調講演が本になったら
すぐに読もうと思っています

わたしは
言語の画一化とは
理性による文字言葉の論理的一致を目指すものだけれども

しかし
牧師は異端となってでも

その一致を目指すのではなく

いうなれば
感情による話し言葉で
本当は論理的には一致していないのに
でも一致するというところ

しかし
その一致が
昨今の熱狂的宗教のような
気分やテンションの一致ではなくて

なにでもって一致しているのか

もっというと
こんなにばらばらで
理解もし合えず
もっというと
付き合いにくかったり嫌いな人どうしなのに
毎週毎週共に礼拝し
共に生きていく宣言をし
共同体を築くのか

というところでの一致なんて
なにが理由かわからない

という
そう!

わからない

という次元まで行くことにおける

そういう言語による一致を目指す

それが
画一化という死
からの解放であろうと思います


その一致については
キリスト者は

キリスト

というしかないのだろうと思います

別の言い方でいうなら

キリストによる
赦し
救い
和解

でしかないわけです


フランスもいろいろと大変な国ですが
ドビルパンのような外相がいるというあたりには
奥深いものを見ます

と同時に
日本がまったく追いつけないそういう状態になっても
でも
いろいろと大変なまま

というところには
さらに
人間の本質を見ます




という世界のあり方に
可能性を見出しうるのか

という問いでもありそうです

とまあ
あらゆる思想家が考えていることですが

むずかしいねえ。