きぼう屋

生きているから生きている

受難週

2010年03月31日 | 教会のこと
今週は受難週

われらの神は受難の神

感情的に完璧でもなければ
けっして苦しまないなんていう神ではない

神を形而上的な完成形で捉える瞬間に
人間は間違いをおかす

神は苦しまれる
神は我らと共に苦しまれる
神は我らのかわりに苦しまれる


本日
キリストがすべての受難を背負ってくれているという真実の中で
Hさんの大きな手術が行われました

私の体の一部がなくなっても神の愛はなくならない!

Hさんの手術を前にしての信仰告白はステキです


手術直前の時間
Hさんのもとには
私のほかにHさんの職場の同僚もいてくれました

同僚の方は3年前にHさんと同じ大きな手術をされた方とのこと

絶え間なくHさんにことばをかけつづける同僚さんの
しかしそのひとつひとつのことばが
同じ体験をしていることと
Hさんを愛されているゆえなのだと思いますが
明るくさわやかで
さらに精密で隙がなく

わたしは驚くしかありませんでした

Hさんは同僚さんのおかげでかなり不安を払拭できたと思います

同僚さんと主に感謝



年度の最終日だからでしょうか
精神が重たくなったり逆にふわふわして安定しなくなったりする仲間から
連絡がたくさんきました

4月を迎えるということは
幼い頃からの繰り返しの中で
身体が何かを覚えているゆえに
逆に不安を覚えるようです

だからわたしは単純に
いつでも明日はただの明日でいつでも明日は新しい明日
と一緒に認識する作業をしました


気づけば朝と昼の食事を取る暇がありませんでした
夕方3時くらいのようやく食事
昼の子どもたちの残したチキンライスをかき集めて食べました
うまかった!!

そして
締め切りの過ぎている原稿を仕上げます
なんとかうまくいって送信

そしてMちゃんの転会クラス
バプテスマクラスと転会クラスはすこぶるしあわせ

それが終わって
いよいよ受難週祈祷会

Yさんが90分前にきて会場準備をしてくれました
感謝

MちゃんとWさんも開始前に種無しパンを焼いています
これまた感謝

そしてマタイ福音書の受難と十字架の場面を丁寧に輪読
証を分かち合い
主の晩餐式

受難週祈祷会はひとつの杯からみんなで飲みます

そして本日の祈祷会
Tさんが約40年ぶりに参加

涙が出そう

Sちゃんの参加も同じく!


十字架のキリストこそわれらの主

受難の神こそ神

2010年03月30日 | 教会のこと
今週(受難週)の週報巻頭言です。

******************

「受難の神こそ神」

次週はイースター(復活祭)です。
キリスト教会の中心の祭です。

しかし、それ以上にキリスト教会の内容的な中心があります。

それは主イエス・キリストの十字架の苦難です。
私たちの神は、
全時代全地域の全ての交わりといのちの苦難を
身代わりとなって引き受け、実際に苦しみ続けます。

この受難の神が救い主であり、癒し主であり、創造主です。

そしてイースターとは、受難が去りスッキリした姿で復活する出来事ではありません。
イースターは、受難の神が私たちにわかる形で啓示された出来事です。

ですから、
復活された主イエスの傷口は消えず、
弟子たちは十字架で釘打たれた傷を確認して、
それが自分たちの神であることを知ったのです。

つまり受難の神こそが神であることを知ったのでした。

私たちの救いは受難の神のその苦難の中から生まれます。

私たちは救われてスッキリしません。
私たちは救われた者ゆえに、
私の苦難を主が引き受け、それゆえ猛烈に苦しまれている姿を、目の当たりにします。
だから私たちは、救いを感謝するにも、
戸惑いつつ、言葉を詰まらせつつ、感謝するしかできませんし、
むしろ、主が身代わりになっているという理不尽さの前に沈黙するしかありません。
私たちは、この神の前での沈黙を通して救いを知ります。

私たちの癒しも同様です。
痛みが消えることが癒しではありません。
主がすべてを引き受け、共に痛まれているという事実の中で、
私たちも痛みつつ、しかし同時に癒されていることを経験します。

いのちの創造も主の受難の中にあります。
主は私たちが日々新しいいのちを生きるたびに産みの苦しみを苦しまれます。
いのちも、交わり(関係性)も、主の産みの苦しみからのみ形成されます。
そして私たちが各々生きるとするならば、
その主の苦しみを丁寧に知ることこそが生きることであり、
私たちが聖霊によるキリストの体として交わりに生きるならば、
交わりの只中の苦しみを主が背負うことを丁寧に知ることこそが共に生きることです。

教会の中心たる受難週を共に歩みます。


まさに「主」の日

2010年03月29日 | 教会のこと
本日(昨日)は主の日でした

ほんとに主の日でした

主語が人間になることなく主であり続けた日でした

ひとつの幻であったことですが
それが実現した日でした

キリスト教会といえども
主語がキリストとならず人間となってしまうところの
人間教会と
知らず知らずになってしまうのが
実に教会なわけですが

それでもって歴史を通して繰り返し反省をしているのですが

しかし
なかなか人間の日を打ち破る主の日に出会うことはむずかしいものです

無論
出会ったという感触がなくとも
出会っているという主の宣言の前に立つわけですが

わたしは
出会ったときには出会った感触があることを大事にします

この感触抜きに出会ったと言っても
その出会いが有機的なものになることはきっとないと思っています

感触に頼ることが厳密には罪としても
所詮罪人のわたしは赦された者としてさばかれつつ感触を大事にする中で
人間教会からキリスト教会へと向かう道を選びたいと思います


Bさんの子どもメッセージがすばらしかった!!
途中に手品まで飛び出してびっくりしましたが
そういう大きな演出があったにもかかわらず
演出部分よりも
内容がしっかりと焼きついたというところが
祈りと準備のたまものだったのだろうと思っています

感謝感謝

Mちゃんの証もすばらしかった!!
連盟ホームレス支援シンポジウムに参加したことの証でしたが
優れた説教になっておりました
深い!!

感謝感謝

そして教会のあちこちで

来週から始まる新年度にむけて対話が交わされているのを見て感激しております

昼食の交わりもいつもに輪をかけてわいわいがやがやで明るくてうれしかったです


Sくんが礼拝堂をステキな顔で動き回ってくれて泣きそうなくらい幸せでした




こういう日だからでしょうか

バプテスマを受けたい!

ふたりの若者が言ってくれました

キリストに感謝!


さて
今週はHさんの大きな手術
祈って祈って祈ります

中国に帰られたRちゃんは北京で就職活動に励んでいます
祈って祈って祈ります

祖父の最期を見守るSちゃん
風邪が長引いているMちゃんとお母さんのMさん
引越しが終わり新年度の準備で大変なSくんとお母さんのMさん
洗脳から解かれる苦しみにあるKさん
背骨の痛むHさん
休養中のWさん
ウツを担う仲間たち

祈って祈って祈ります

主が共におられます
主がかかわり
主が働き
主が癒します

アーメン

神も苦しんでくれている

2010年03月23日 | 教会のこと
本日は石居正己先生の告別式

ルーテルの神学者であり牧師でありました

わたしは直接お会いしたことはありませんが
しかし
当教会の前任牧師のお兄様であること
またそのゆえに当教会もバプテストの医療団もお世話になったことがあること
などから
告別式に参加させていただきました

ただ著書は読ませていただいております
そして神学的に苦悩されていることが読み取れるので
とても面白く読ませていただいています

それは
牧師として身体で受ける事柄と
小難しい本たちから受ける観念を
統合する苦悩です

ルターの研究家ですので
基本的には
20世紀の神学者たちと異なり
形而上的な言葉が多く出てきます

わたしは
ルターの大きな功績は
形而上的言語による神理解が語られる中で
なぜか不思議と
十字架に関しては形而上的言語を断念しているということだと思っています

石居正己先生は
十字架に関しては
ボンヘッファーから学び
そこからルターを解釈しているだろうと著書から勝手に思っています


それが石居先生を石居先生たらしめているのだと思っています
先生の献身性
あるいは献身的人格とでも申しましょうか
そういうものとなっているのだろうと思っています

つまり
十字架を中心とした生涯だったのだろうと勝手に思ってました


しかし
本日の告別式では
説教でも有名な学者たちの弔辞でも
不思議と十字架の神学は語られず
すべて形而上神学でした

だから主の弟子の死における主の受苦も語られず
死が神の計画である
という結論だけが明確になりました

形而上神学の特徴
つまり
神が苦しむことがない
というものがそのまま出ておりました

石居先生の告別式だっただけに
先生の生涯の葛藤からするなら
少し残念な気がしましたが

しかし
私と違い
説教や弔辞を語られた先生方は
石居先生との深い交わりゆえの
深い悲しみの中にあり
実は石居先生の死における言葉を発見し構築するのは
これからなのだろうとも
式のあたたかさから思いました


もう一度先生の本を読んでみよう
と思って書斎で探すものの
なぜか見つかりません

一時間くらい探しました
そしてやっと思い出しました
まとめて貸していました
でも貸した方はもう遠くに行ってしまっております

というわけで
あらためて3冊ほど注文しました

牧師という現場を持っている神学者の言葉は
わたしみたいなタイプにはとても大事です
あらためて学ばせていただきたいと思います

ご家族を覚えて祈りつつ


計画くずれという幸せ

2010年03月23日 | 「生きる」こと
本日は(もうとっくに昨日)は結婚記念日
丸13年
一緒に生きてもらっています

しかも職務の性質上
とっても近くにいつもいることになります

牧師夫婦は
八百屋の夫婦とおんなじ感じです
ふたりでいろいろこなします

遠慮なく言いますが
しあわせです

いまなお日々が新鮮なことに
ふたりで驚いています

またこんなふたりを応援してくれる仲間がいてくれて
感謝するばかりです


結婚記念日はいつもお休みの日なのですが
毎年なかなか休めないので
今回は家族で出かけることをずっと前から決めていました


淡路島に行こう
と決めていました

でも今朝になって
息子たちと話してみると
なんだか淡路島という感じではなくて
もう一度白紙に戻して行き先を決めてみたら
京都市の科学館に行きたいということになりまして
そこに向かって出発しました

しかし向かっている最中に
ちょっと時間が中途半端だったので
まず昼食をどこかで食べてから
そのあとに科学館に行こう!
ということになりました

しかししかし
昼食にもちょっと早かったので
もうちょっと足をのばして
コンビニでお弁当を買って
太陽が丘公園まで行って少し遊ぼう!
となりました

しかししかししかし
息子たちも娘も公園がえらく気に入りまして
結局科学館に行かずずっと公園で遊びました
みんな歩けなくなるくらい遊びました

そして最後に公園の中のもう一箇所で遊ぼうと思って移動していたら
次男が落ちている携帯電話を発見したので
公園事務所に向かうことにしました

そしてそして無事携帯電話を届けまして
最後のもう一箇所に今度こそ向かおうと思いましたら
機関車があるのが見えまして
みんなでそこに行きました

そしてそしてそして機関車を数分見ておりましたら
長男が叫びました

○○○ちゃん!

あらま
教会の仲間とこんなところで会うことができました

しかも
いつかお会いできたらなあ
と思っていたお連れさまとも
こんなところで会うことができました

不思議ですなあ

淡路島でもなく
科学館でもなく
最後のもう一箇所でもなく

計画とはぜんぜん違う運びとなった本日のお出かけは

この出会いのためにあったのかなあ
と思うほどでありました

そもそも

計画どおりに事が進むということの中に
人間の汚さや醜さや自己愛までをも見出すわたしは

キリストに従うゆえに計画どおりにはいかない!
ということに喜びを覚える者でもありまして

本日はまさにそんな感じでございました

信仰とは
計画がくずされることに喜びを見出す生き様なのです



夕食もウチでちょっとばかり豪華に・・・


実は
夕食後に家族みんなで輪になって
いろいろとおはなししているときに
大感動
が起こったわけですが
中身は内緒にしておきます

ただそれが
やっぱり何の計画性もなく
だからはやりのサプライズとかではもちろんなく
端的に
その時間のその場所で
子どもたちの親への愛が
スパーッと
はじけるというものだったことだけ
お伝えさせていただきます


だいたいにして
結婚生活ってのは
計画どおりにいかないところに本質をもっているわけでして

今回の記念日は
それを象徴的に再発見する日となりました


それにしても
若菜さんに感謝感謝なのでございます


日曜日に教会にて

2010年03月21日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

*******************

「日曜日に教会にて」

本日は、
「わかっとりますがな」
と叱られるかもしれないことを書きます。

日曜日、

私たちは正面玄関から教会に入ると幸せです。
すると受付奉仕者と顔を合わせられます。

次に出席者名簿に記名します。
キリストと共に礼拝をささげた記録となります。

そして週報棚のある人は、
そこに入っている週報と他の書類を取って目を通しますと、
その行為がすでにキリスト家族として福音を分かち合うこととなります。

さらに、廊下掲示板に目を通します。
同じくキリスト家族の分かち合いです。

さて礼拝堂に入ったなら、
互いに顔を見つめあってみましょう。
他者の顔を見つめることが、同時にキリストの顔を見つめることになり、
他者に見つめられることが、キリストに見つめられることになります。

そこでは豊かな優れた緊張感が起こります。

主の日の礼拝は、

この緊張感が十字架のキリストから生まれていることを知らせます。
この緊張感が十字架へと私たちを向かわせます。
十字架のキリストの下で一週間の罪を告白することへと導きます。

そして新しい命と、新たな一週間の生活を
赦されつつ歩むことができることを、
決定的に得ます。

そして新しい命とされた一人ひとりは、
他者と出会った緊張感が、
同時に
優れた愛となり、豊かに他者を受けることとなり、共に歩む喜びに満たされることとなるという
大きな変化を経験します。

つまりキリストの体を、
他者と顔を合わす中で
主より頂きます。

もし緊張のゆえに
他者の顔を見ることをせず、礼拝堂で神のみを見る、
という行為を選ぶとき、
それは実は、
神の顔ではなく、自分の顔を見ることになっています。

しかしご安心を。

そういう時もキリストは私たちの顔を覗き込んでくれます。
それゆえ、やはり愛へと導かれます。

そしてこれを得る上に大事なのは、
余裕を持って礼拝に出る!ことです。

欠席も遅刻も自由という風潮がもしあるならば、
それは大きな不幸です。

この自由さで愛が覆い隠されるより、
他者と、キリストに出会うために、覚悟を決めて礼拝を第一とし、
愛に満たされることが本来的にうれしいことです。

以上、日曜日に教会で起こること、でした。


涙も鼻水も

2010年03月20日 | 教会のこと
当教会員のお母様が天に召されました
今月末で97歳

自ら神に召される時がもはやきている
ということを豊かに幸せに認識し
その時を待つという
とてもステキな最期でした

そして本日は告別式

がまんしてみましたが
献花させていただくときは
もうどうにもなりませんでした

涙が止まりませんでした

そんなに多く会うことができていたわけでもないのに
わたしにとっては
とても大事で大好きなおばあちゃんでした

公の場所では到底書けないのですが

わたしの今がある

ということにおける
重要ないくつかの出来事の中でも

とても大きな出来事になっている
わたしのためにたててくださった命が注がれたお抹茶と
なぐさめの言葉は

キリストの出来事であると信じるしかないし

生涯わたしの魂のど真ん中にあり続けるしかありません


どんなに感謝しても感謝しきれません


涙も鼻水も止まらず

そして

黄砂と花粉がすごくて
さらに涙も鼻水も止まらず


どうしたらいいのでしょう!!


眼球とお鼻ももぎとって洗浄したいです



さて今週は教会家族の幼子ふたりが入院
しかし無事退院

引き続き祈ります

青年のおじいさんの容態がよろしくないとのこと

祈ります

連休で実家に顔を出す仲間が豊かな交わりを得られますように


アーメン
アーメン

よう掲載されておりますなあ

2010年03月18日 | 教会のこと
教会のHPに

これまでに新聞などに掲載されたものも載せてみようか
と提案して
ざっとファイルから出してみましたら

古い順に

毎日新聞    ホームレス支援の現場取材
京都新聞    ホームレス支援の現場取材
朝日新聞    イラクの芸術家講演会の取材
朝日新聞    荒神口通紹介
リビング京都  クリスマス紹介
雑誌MEETS 鴨川紹介
市民新聞    クリスマス紹介
京都新聞    教会員紹介
京都新聞    教会活動としてのホームレス支援紹介



こんなに出ておりました

いずれも写真付

結構多いですよねえ

なんでだろう??

死に勝っている

2010年03月15日 | 「生きる」こと
3週分の週報巻頭言です。

***********************

「死に勝っている」 2月28日巻頭言

日本バプテスト連盟靖国神社問題特別委員会が活動40年を記念して本を発行しました。
この本から、委員会の働きが、
福音に根ざす社会活動を超えて、日本バプテスト連盟全体の宣教と教会形成の核を作っていることがわかります。

またヤスクニ問題を取り扱うグループは、
70年代の運動の盛んな時期に、キリスト教各派から誕生しましたが、
その働きが若手に継承され、存続し、情熱を持って深められているのはバプテスト連盟のみと言って過言ではありません。

面白いのは、
ヤスクニ問題から多くのことを考え続けたバプテストは、
そういう教会を中心に教勢が伸び、
半減する他教派と異なり、今でも伸びを示すことです。
実にヤスクニ問題と向き合うことが伝道となるわけです。

ではバプテストは何が違っていたのか。

わたしは二つのことを歴史から見ます。

ひとつめは、
多くの教派が政治運動としてヤスクニ問題と向き合ったのに対し、
バプテストは、イエスは主なり!という信仰告白運動として向き合ったことです。
そしてこの委員会の取り組みを土台として、
1979年のバプテスト連盟信仰宣言や2002年の平和宣言が生まれたと言えます。

ふたつめは、
死と向き合ったことがあげられます。
バプテストはヤスクニ問題を考える中で、
死、死者、弔いという問題を、
キリスト教会が靖国神社のようにテーマとしてこなかったことを反省しました。
そしてそれを10年かけて学びました。

今、若者が国家やヤスクニに惹かれるのは、
死という不安を持つからです。

私の世代よりも、
今の十代、二十代の若者は、
安定した将来が見えにくく、
来年も平安に生きているかどうかという確信は持てずにいます。

それは同時に死が身近に迫ることです。

そこで、
彼らは国家の政策によって死から遠ざかることを期待しますし、
また死そのものに関しても、
自分の死に大きな意味を付けてくれて、無駄な死ではない、
と語るヤスクニに期待するのだと思います。

ならばキリスト教会はそこで何を語るのか。
それは次週のこの場所で考えたいと思います。


********************


「死に勝っている その弐」 3月7日巻頭言

我々は死に支配されています。
だれもが最終的に迎えるしかないという死以上に
強い支配力を持つものはありません。

そして国家とは、
国民を死から遠ざけるための機関です。
言い換えると、安全と健康を維持する機関です。
そしてこれは正しいことです。
しかし、
地球規模で丁寧に見るとき、
食料、水、ワクチンなどが、富める国に独占されていることを私たちは知らねばなりません。

またこの事実から私たちは、
安全と健康を求める姿勢が
もはや度を越えていること、
必要分以上であること、
もはや安全と健康を偶像化し信仰していることを認めざるを得ません。

それは同時に、
死を必要以上に恐れているということでもあります。

だから、
死から私たちを遠ざける国と、
死に意味づけをする靖国神社や国立追悼施設は、
必要以上に信仰されます。

繰り返しますが、
それは、私たちが死に支配されているからです。

しかし!キリスト者はそこから解放されています。
死ではなく、新しい命に支配されていています。
すでに死に打ち勝っていると宣言されたキリストに支配されています。

先週、E兄のバプテスマがありました。
キリスト者はバプテスマにより新しい命を得ます。
しかし同時に、バプテスマにより死を受けます。

つまり、
キリスト者は、パウロが言うように、
繰り返し死んでいる者として生きています。
死に支配されながらの死ぬ時までという制限付の生ではなく、
すでに死に打ち勝っているからこそ、
死を受容している永遠の生という、
まさに新しい命を生きるのがキリスト者です。

だからキリスト者は、
国家もヤスクニも信仰する必要がなく、

端的にキリストを信じます。

死に支配されることがまったく起こらないままに、
キリストに従います。

同じく国家に支配されることもありません。

また昨今は、
安全と健康を自分でお金を出して買う時代ですが、
キリスト者はお金を信仰することもしません。

私たちはすでに死に打ち勝っています。
だから安心して共に主の新しい命を生きます。
キリストこそが命です。


********************


「死に勝っている その参」 3月14日巻頭言

この世で最も強い力は死です。
しかし、キリストが死に既に勝っている以上、
私たちも死に勝っています。

私たちは、
バプテスマを受けた時点で、すでに死を受け、新しい命へと変換されました。

それまでの命と、新しい命との最たる違いは、
死の力に支配されている命であるか、死を既に受容した命であるか、です。

そして死を受容しつつ生きる新しい命を得たキリスト者は、
同時に、罪にも支配されません。

パウロが言うように、「罪の報酬は死」です。
私たちは必ず死ぬ者であるからして、必ず罪を犯す者であり、必ずその罪を神によりさばかれる者です。

しかし!ここで奇跡が起こります。
私たちが自らの罪ゆえにさばかれねばならないのに、
キリストが身代わりとなって十字架でさばかれることが、
今も繰り返し起こされます。

そして、ゆえに、私たちは、罪人であるにもかかわらず、赦され、歩み続けることができます。
つまり、私たちは、赦された罪人として歩みます。
罪を犯すことのない聖人ではありません。
キリスト者とは、死と同じく、罪人であることをも受容する者です。

だから、わたしたちは、
自分の正しさ、潔白さ、美しさ、清さ、賢さ、強さなどに、こだわる必要はなくなります。
これらへのこだわりは、実は罪に支配されているからこそ起こります。
これらは死から遠ざかることを目指したように、罪のさばきから遠ざかることを目指すゆえの自己認識として現われます。

私たちは死に勝ち、
同時にキリストによるさばきの引き受けにより
罪人のまま神に赦されています。

だから、
私たちは既に赦され救われているからこそ、
ひとつひとつの罪を丁寧に告白し、
誤り、醜さ、汚さ、単純さ、弱さなどを隠さずに、
引き受けつつ歩むことができます。

私たちは罪人です。

弱いです。誤りだらけです。

それ以外の者にはなれません。

しかし!キリストの引き受けにより、
神からは、そういう者として赦されています。

この奇跡こそが私たちを幸せに、健やかに生かします。

この信仰が大事です。

だから!常に!私たちには、十字架のキリスト!が必要!です。

そして!常に!私たちには、十字架のキリスト!が伴います!。

インマヌエル!神われらと共にいます!

アーメン
アーメン

主よ

2010年03月09日 | 「生きる」こと
これまでも健康面で何の問題もなく
朝も元気だったけど
夕方帰宅したら
亡くなっていた・・・

生と死を強烈に受ける出来事の只中にいます

受けるべきと知りつつも受け入れられない中で
身体と心と魂がうめきます

遺されたご家族を覚えてお祈りいたします
主が共におられます
主が共に悲痛を受けておられます
主が共に涙をながしておられます
同時に主が涙をぬぐわれます

主よ お守りください
主よ お助けください
主よ あなたに委ねます

教会家族に感謝!

2010年03月08日 | 教会のこと
昨日の礼拝は
わたしの経験するなかでは
最も多い欠席届をいただいた礼拝でした

だから
週報の祈りのきずな欄は
いつものスペースでは足りずに
もう半ページほど増やすことになりました

合計で15名の欠席届


これはうれしいことです

礼拝に出ても出なくてもいい

礼拝に出たほうがいいけど勝手に休んでもいい

礼拝に出たいけど休まざるを得ないときは連絡せず休む

礼拝に出たいけど出られないから祈って欲しいし連絡する


よくわかるかたちで変化してきているからです


しかも

欠席届けを出しつつ

なんとか礼拝に出られるために
土曜日に仕事を詰め込んで終わらせた仲間

仕事が終わって午後教会に飛び込んできて
残っていた仲間とプチ礼拝を持てた仲間

仕事が終わって夜中に飛び込んできて
私と聖書を読んだ仲間


おります

そうなんですなあ
キリストの体ですから・・・



これだけ欠席届があって
実際にたくさんお休みだったけれども
それでも昨年度の平均出席者よりもたくさん

キリストはウチの教会で何をされようとしているのでしょう?

耳を澄まし
目を凝らし
心を研ぎ澄まし

みこころを受けていきたいと願うばかりです




この場所で日曜日に起こっているうれしいことを
これまで書いてきているのですが

このかん
なかなか書けません

というのは

思わず涙がでてしまうような
魂揺さぶる出来事が
毎週毎週
ものすごいたくん起こっているから
書ききれないし選びきれないし
言葉にもできないし
どうしようもないわけです

このかん
教派を問わず
他の教会のメンバーが
京都旅行の際に
当教会の礼拝に参加されると

ほぼ全員が

感動した!
ステキな教会!
どうしたらこうなるの?

と言ってくれています

別に
賛美が元気なわけでもないし
雰囲気が荘厳でもないし
説教がうまいわけでもないし
プログラム進行も整っているわけではありませんし


でも

なんともいえない
体の芯に響く
何かが

それも
ひとつ!
とされているという出来事としての何かが

礼拝にあります


なんだろう!?

よくある礼拝と違うのは

とても騒がしいことです

それは
あらゆる人がいるから騒がしいです

赤ん坊に幼児に小学生に若人
高齢者
手話を用いる人
車椅子の人
うつの人
自閉症の人
大きな病気の人

それぞれ
まったく行動言動のスピードとトーンが違います
でも
なんらかの雰囲気にスピードとトーンをあわせるということは
ウチの礼拝の場合必要ありません

みんなが自分のスピードとトーンで礼拝します

だから
がちゃがちゃになるし
騒がしくなります

でも

これが大事です


そして礼拝を素人でよってたかって作ります

司会
奏楽
手話通訳
OHP
子どもメッセージ
献金当番
などなど

めいめい丁寧に祈り準備し
礼拝前にみんなで祈り
礼拝を担いつくります

そのときに
進行がきれいに見えるように
格好つけることは
ウチの礼拝では厳禁です

進行が大事なのではなくて
奉仕者が
キリストを証することが大事なわけです


しばらく続いていたバプテスマクラスが落ち着いたので
ちょっと待ってもらっていた転入会クラスを
ぼちぼち始めることができます

3名の仲間がおられます


ウチは
新しい仲間が与えられたら
その方が中心となります

新しい仲間が
教会から何かを受けるのではなく

教会全体が
新しい仲間との出会いから
さらなる深みを獲得します

ボンヘッファーが言うように
キリストの受肉は
教会の交わりです

バルトが言うように
キリストの出来事は
共同性です

ユンゲルの言うように
新しい命とは
関係性です


そうそう

ウチの教会は
すでにみんながアイデアをどんどん出すし
みんなが主体的に担うし
みんなが責任も担うので

わたしは牧師の仕事に集中できるようになってきました

これもすごいことだなあと思っています

つまり
教会を担うみんなの十字架を一緒に担う
という役割に徹することができるようになりました

牧師だけが十字架を担う
なんてことがあったら
みんなが

だめです!

って言ってくれますし・・・

助かります

うれしいです

キリストがいます

わたしたちはキリストの体です


京都教会のみなさん

ほんとうにありがとう!!




2010年03月06日 | 教会のこと
本日(もう昨日)は新聞に載ったので
急遽予定を変更して一日中教会にいました

問い合わせがきっと来るだろうから・・・


来ました

さらに
米と服も届けられました

京都新聞ってすごい!!

朝日や毎日に載ったときはここまでの反響ではなかったなあ


なので
教会でできる机仕事をずっとこなしておりました

今はもう一度ウチの教会の総会資料をすべて読み返して分析しております
ちょっと不思議な感じのするところはそのときの週報なども読みます

するといろいろ見えてきます

そんな中で
私が11年ですることがゆるされたことは
教会の深い歴史の只中でまさに歴史として起こされていることを確認できて

ホッとしました

もしかしたら
わたしのイメージで
ウチの教会の歴史を無視してしまっていないだろうか

というのが
今回の研究テーマのひとつでしたので
それがなくてよかったです

そしてこれまでは
歴史を重ねている部分をさらに深めることをしてきました
礼拝改革(なにしろ礼拝が続いているというのは感謝)
教会学校再生
女性会活動の深化とほかの会の再生
ろう伝道の継承と深化
などなど

そしてこれからは
歴史となりきれていない部分を修復することに挑戦です
それが今回の二つ目のテーマ
いろいろ見えてきました
教会音楽
継続的な研修
執事、役員、総務の深化
などなど

そして
社会的福音活動について
ずっと学習会を数十回にわたって開催してきましたが
具体的な活動になっていなかったので

そういう意味ではホームレス支援は
教会の信仰を強くしたなあと主に感謝するばかりです

さらに
実はわたしには夢があります

これはたまたま
二人の教会員から別々にしかしほぼ同じ夢を聞いたのですが

それは
経済的問題
精神や病の問題
関係性の問題
などなどで
勉強がなかなかできない状況にある子どもたちのための
塾なりフリースクールをしたい!

というものでした

ぜひともしたいです

しかも
ウチの教会のメンバーには
各教科の先生がいてくれておりますし
さらにホームレス支援にきてくれている他の教会員で先生をしている人も
この話をしたら
ぜひしたい!
と言ってくれておりますし

なんとか実現できるよう学んでいきたいと思います

寺子屋ならぬ教会小屋をしたいわけです

夕食をみんなで食べる塾!

みんなで礼拝もする塾!
困窮のない人(ないふりをする人)は
無神論という信仰にしがみつくことができるけれども
困窮を抱える人は
キリストの十字架という現実を知ることで
解放され突破することが必要なわけです

ここでいう礼拝は
多くの人の持つ厳粛なイメージというか
宗教的イメージのものではありません

真の意味での礼拝です


だからNPOや法人でなく
教会としてやりたいと思っております

といいつつ

実現できるのは
何年後でしょうか

でももう夢をもってしまっておりますので

それを持ち続けますので

さらに日々祈っておりますので

あとはキリストの返事を待っております


あとね
いろんな言葉のクラスもやりたいんです

英語
韓国語
中国語
ドイツ語
手話

ここまでは今の教会メンバーでできます

ちなみにわたしはどれもできませんが


うーん楽しくなってきた!!








3月5日京都新聞28面

2010年03月05日 | ホームレス支援のこと
とってもいい記事でした。
記者さんに感謝!
カラー写真もすばらしい!
カメラマンさんにも感謝!

今朝の京都新聞に大きく載っておりました

当教会のホームレス支援の取り組みの記事

NPOとしてでなく
教会として!

というこの手の記事は
とてもめずらしいと思います

キリストに従うゆえに
まさに信仰者として
他者のために活動することがしっかり書かれていてうれしいです

「聖書には
 『飢えている者がいれば食べさせ・・・』とある。
 『他者の隣人になる』ことが教えの根幹だ。
 困窮する人、孤独な人に手を差し伸べることは信者の生き方の中心であり、
 ホームレス支援は信仰そのものだ。」

と書かれておりました。

見事でしょ!

で、
今朝の電話で、本日の朝刊に載っていることを知ったのですが
その電話は妻がとったのですが

なんと
非難の電話だったのでした
面白いでしょう!

あんたたちが支援なんかするから
川で体洗ったりうんこしたりするんだ!
っていう主張だったようです

妻はこういうのにすでに動じないので

うんこするなってことは食べるなってこと?
わたしたちはそういうのを見るたびに丁寧に当事者と話し込んでいるけど
あなたはどうなの?
自分の思いをそのうんこしている人に伝えてる?

というやりとりをするわけですが

もちろん
野ぐぞをする人はおりませんなあ

つまり
電話をくださった彼は

自分が追い込まれているから
その発散を
さらに追い込まれているホームレス当事者に向けたいわけなのでした

妻がいろいろ聞くうちに
その彼は
失業中で
収入が無く貧しく
実家においてもらっている
と告白したそうであります

実家があってよかったですね
でも
なかったらあなたはいったいどうなっていたのでしょう?
ホームレスだった可能性はない?

と妻
さすが!

電話をくれた彼も
炊き出しに来てくれておおいに結構ですし
むしろ大歓迎ですし

相談くだされば
わたしたちは
あなたのために動きます

ってなわけで

本当にいい記事で

感謝感謝なのでありました



罪を背負いつつ

2010年03月01日 | 「生きる」こと
本日の炊き出しもポカポカでした。

ホームレス当事者
年金や生活保護で生活する者
海外からの留学生(本日はカメルーン)

お互いに声をかけあって
助け合います

ステキな光景です

こういう光景がこの町にあること

ウチの教会にあること

主に感謝するしかありません


そしてこの連帯から

信仰者として堂々というなら
キリストの十字架による連帯から

世界が動き変わります

希望を持って
これからも活動を続けます


自立し
来週から職業訓練のための学校に行く
50cm以上の長髪の若者が

坊主にしてください!

ということで

本日断髪式

いやいや坊主のほうがかっこいいではないですか

ビフォアとアフターの写真はもちろんとりました。


ぜひともよい学びを!


そして

治療がもはやできず
病気のすすむままに
残りの生を歩む仲間が
今日もしっかりと来られました


よかったよお
会えたねえ
来月はどうかねえ

かなり恐ろしい挨拶をかわしますが

しかし
毎回会うたびに
しっかりと話し込むしかありません

ほかの仲間たちも
もう明日はいないかもしれねえなあ
といいながらも
彼の行動のひとつひとつに気を配ります

この炊き出しの現場は

ある意味教会以上に教会です

いまウチの教会は大きくかわりはじめておりますが
炊き出しの現場で教会の本質を経験した教会メンバーが
それを教会共同体にも持ち込んでいるから
変わり始めていると言えます

ウチの教会はあったかくていい教会になりました


今週のいつかの京都新聞に

ウチの教会のことが記事としてでっかく載るそうです


京都新聞を購読されている方
載っていたら教えてください
すぐに買いに行きます

我が家はじいさんが勤めていた関係で
朝日新聞を購読しておりますので
京都新聞を読めないのでございます

今日
卒業式でこれなかった
TさんYさん

それぞれの旅立ちを覚えて祈っておりますぞ

あななたちはえらいステキなので
自信をもって新しい道を進んでくださいませ


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昨日は
Eくんの信仰告白とバプテスマ

感動して感動して感動しました

Eくんも涙
私も説教で涙
司会者も最後の最後に涙
結婚報告をしたメンバーまで涙

実は

Nくんの初子どもメッセージから
感動の渦が起こり始めておりまして

それは

罪を背負うという深いテーマでありまして

それがEくんの信仰告白にもつながりまして
罪人である自分が赦されているから罪を背負う
となりまして

さらに
Eくんへの励ましのメッセージでTさんは
主の祈りの
罪を赦しましたように罪をお赦しください
からは何人も自由になれない

さらに重ね合わせてくれまして

ここまできたら
わたしの説教は
なにがあっても響くということでございまして

そしてそれらが全部織り重なって

Eくんのバプテスマ式を迎えまして
それはおのずと
教会全体のバプテスマともなるのでした



夜は
若人たちがみんなでピザとワッフルと焼いては食っての大パーティー

Eくんのバプテスマと
Yくんの誕生日と
そしてそして
Rさんのお別れ

MさんとSくんの親子も
大阪に引っ越してしまうので
これから一緒に礼拝できるのは月に一度くらいとなってしまうわけで

それも含めてすべてをみんなで覚えます

Sくんは
ウチの教会を変えてくれました
まさに神様からのギフト

わたしは丁寧に個々人思い返すといいと思います

Sくんはセンサーが敏感です

自分のことを愛してくれる人のところにのみべったりとくっつきます

だからいつごろSくんがべったりしてくれるようになったか
という時点を思い出すなら
そのときが
こちらが変化できた祝されたときということになります

まだSくんにべったりしてもらえてないとするなら
こういう変化がこれから訪れることを期待すべきということです

しかしこれから月に一回というのはとてもさびしいです
でも絶対にキリストによってつながっております



明日はRさんを空港まで送ります

どういう気持ちになるかは予想できるけれども
今は何も考えないようにします


さみしくなることも
かなしくなることも
いのることも

たくさんあるけど

わたしはしあわせです

みなさんのおかげです

かみさんのおかげです

いえすさんのおかげです

感謝感謝

祈りつつ