きぼう屋

生きているから生きている

戦争の足音

2007年04月29日 | 教会のこと
本日の礼拝もまた
そしてさらに
深かった

みんなが覚えて祈り続けている仲間が
久しぶりに礼拝を共にできた

胸が詰まった

みんなが覚えて祈り続けている新しく生まれた生命が
初めて礼拝を共にできた

目頭が熱くなった

連休ということもあるし
法事や結婚式と重なる仲間もいて
とても少ない人数で始まった礼拝

でも終わってみたら
いつもと同じ

例年なら3割減なのだが・・・

不思議だ・・・

この不思議
礼拝開始直後から起こっていたような気がする
司会のEさんの祈りが
世界全体を視野に入れ
足元を具体的に祈るという
よくよく準備された祈りであって
その祈りを共に祈るときに
礼拝全体が神に手渡されるというような
雰囲気から空気からなにもが動くというような
なんともいえない経験をした

さらに子どもメッセージ
Yさんがこれまたよくよく準備してくださって
アンネ・フランクの物語を紙芝居で
それも紙芝居用の舞台まで用意してくださって
語ってくださった

身体、精神、魂、なにもかもが
おのずと集中度を高めた
それは子どもたちも同じ

アンネ一家の隠れ家にゲシュタポがやってくるときの足音が
あまりにリアルに礼拝の場を突き刺した


わが息子たちが口々に言い始めた

こわい・・・
かぎ閉めて・・・
変な音がした・・・

よくよく聞いてみると
朝の子どもメッセージが生々しく彼らの経験となっていることを知った

ゲシュタポが来るのを恐れていた

5歳の三男が
悲しいだけでなくて、このあたり(胸をおさえつつ)が気持ち悪くなった
と言う

小1の次男が
戦争は絶対あかん!パパとママも戦争にならんようがんばってな
と言う

ああ!がんばるとも!
お前たちは俺が守る!

なんて言ったけど
彼らはよく知っている

戦争になったら守れないよ・・・

戦争にはさせない!

今日眠れない・・・
息子たちが口をそろえて言う

じゃあコレ見るか

パソコンを開いて
お気に入りに入っている
YOU TUBEの
FREE HUGS キャンペーンの動画を
みんなで見る

4人の息子がひざにのっかったり肩にのぼってきたりして
結局
3回も見る

互いにハグハグしながら・・・

いま
みんな眠った

この一日が
息子たちに植え付けた事柄は
大きな宝物だ

感謝だ

戦争はだめだ

「答え」から「応え」へ・・・神との道

2007年04月29日 | 教会のこと
4月29日の京都教会週報巻頭言です。

******************


5月3日は現憲法60周年。
しかし、憲法は変えられそう。
戦争や国としての人殺しができるものへ。

たった62年前まで、
身近な者が戦死する悲痛の中で、
そこから解放されることを願い、
せっかく戦争放棄を謳う憲法を手に入れたのに。
なぜ?

戦争時代の歴史をめぐる言論の特徴に私はこわくなる。
それは事実という「答え」を提示して終わりだから。

あらゆる生命が瞬間瞬間を生き、かかわり合う歴史に
「答え」はでないはず。
そこでは
ただ「応え」ることで
歴史と共に歩むことのみがあるのに。

私たちが戦争の悲痛に応え、
その悲痛も私たちに応える
このやりとりを繰り返す中でのみ、
歴史は生きる。
「答え」は逆に歴史を殺す。

本日午後、
私たちは教会の古い写真を共に整理する。
これは歴史に応え、歴史が応える欠かせない恵みの時。

教会60周年に向け歴史を振り返る時、
私たちが「答え」を見出そうとするなら誤るだろう。
また歴史解釈方法で苦労するにとどまるだろう。

しかし教会の歴史の物語、先輩方の物語が、
生々しく届き、
それに応え、さらに応えられることが繰り返されるとき、
教会の歴史は生きる。

私たちの神は生きる。
そして私たちは神を殺してはならない。

祈りで神を殺してはならない。
祈りで「答え」を求めてしまう時は、
神が殺される時。

祈りで神の愛に応え、
さらに神が応える中に、
信じて身を置く時は、
神が生々しく生きる時。

聖書で神を殺してはならない。
聖書からなんらかの「答え」を求める時は、
その原理(答え)が神を殺す時。

聖書という神の言葉に応え、
つまり具体的行動が生まれ(「応え」は英語ならリ・アクション)、
さらに神が応えることの繰り返しの中で、
私たちは生きた神と出会い続ける。

「答え」でなく「応え」こそ私たちの恵み。

これが身体に染みつくか否かは
世界が平和か否かということと言っても
過言ではない。

そして
神はいまもここで
私たちに応え続ける。
私たちも
神に応え続けることがゆるされている。




「私のからだ」からの脱出

2007年04月25日 | 教会のこと
4月22日の京都教会週報巻頭言です。

********************

今年度私たち京都教会は、
「キリストのからだ」
というテーマを頂いています。

私たちみんなの生命、人格、精神、魂のすべては
「キリストのからだ」
として成立しています

決して
「私のからだ」
として成立することはできません

もし神を信じるというときに
神と自分のつながりのみを求めるなら
それによって神とのつながりを得ることは出来ません

人は
こういう感覚のとき神とつながった気になりつつ
実際は自分とつながっているだけだったりします

そこでは
「私にからだ」
として成立した気になって
なにも成立していないという
ふわふわしている現象を味わうことでしょう

もし神を信じるというときに
牧師と自分のつながりを大切にしようと思うなら
それは無論
牧師という人間を利用できるものの
神とのつながりは得ていません

いいところ
「私のからだ」
という成立していないけど成立していると思い込んでいるものを
維持することができるだけでしょう。

ならば
神とつながるというのは
どのようなかたちなのでしょう

こんなかたちかなあと思います

私たち世界中の生命みんなが
網の目のように縦横無尽につながり
そのどれひとつが切れても
そこから網が破けるような

そういうつながりを求めるとき

まさにキリストが破れる一つ一つの糸を
十字架という出来事で繕いつつ
つなげ続けてくださる出来事に出会い

そこで神とのつながりを知ることになるでしょう

これをパウロは
「キリストのからだ」
と呼んでいるのではないでしょうか。

実は私たちは端的に
他者との出会いを神から与えられ
その他者とのかかわりの中で
間におられるキリストと出会うという仕方で
キリストを知り
そのキリストによって他者とつながることを
信じるのだと思います

だからその
「キリストのからだ」
のための生き様というものを
神から示されるわけでもありましょう

ぜひとも京都教会は
「キリストのからだ」
を選び取りましょう

自分と神とのつながりとか
自分と牧師とのつながりという
「私のからだ」
という
人間的感覚から解放されつつ・・・



妄想の果ての偽装

2007年04月21日 | 平和のこと
昨日の朝
京都地裁へ
京都での親子タウンミーティングで
参加者を公募しておきながら
いわゆる今の文部科学省や京都市教育委員会にとって
都合がいいと思う人はさくらで用意し
都合がわるいと思う人は
「抽選でもれました」という嘘でもって
参加させないという
あの全国的に報道された偽装問題の裁判


都合がわるいとされた人が
わたしの大好きな人たちで
愛と思いやりにあふれ
他者のためにこれでもかと生きる人

なのに
京都市教育委員会は
あぶない人だから
警察沙汰になる人だから
参加させないようにと
内閣府に申請

どう考えても
きわめて平和な人たちなのに
彼らからみたら怪獣のように見えるらしい

しかしここにひとつの今の現象がある

今の政府のえらい人や教育委員会のえらい人は
つまり教育基本法を改悪して喜んでいる人や
平和憲法を改悪したいと思っている人は

自分と異なる意見を持つ人が
まるで怪獣かのように怖くてしかたがなくなるという現象

でも実は人間みんな意見なり個性なり行為が異なるわけだから
きっとあらゆる他者がこわいという現象であり

道ですれ違う人がみんな怪獣に見えてくるというような現象であり
だから犯罪者と呼ばれる人がひとりあらわれると
学校中あげて大警戒しないとならないと思ってしまうような現象であり
朝鮮民主主義人民共和国はなにしろ怪獣だと認識するしかない現象であり

だから
そういう怪獣をやっつけるために
憲法も法律も変えないと気がすまないという現象であり


だからこそ
自分たちもまた武器や国家神道という思想でもって
怪獣になるということに躍起になるという思想であり


実はこれは
他者と現実において確実に出会うことができないゆえに
そのような本当の意味での精神力・対話力がないゆえに
妄想ばかりがひろがり
みんなが怪獣にみえるという

実は妄想の中で生きているという

そう妄想に生きるしかない
そういう現象だ

だから
妄想でもともと生きているから
世の中を嘘で固めても
それに気づくこともできない

歴史を嘘で固めても
タウンミーティングで偽装しても
ほかにもあらゆる偽装をしても

そうするしか生きる道がないという悲しい現象



国と京都市を訴えていますが
そのそれぞれの答弁書
国は
「京都市教育委員会が、具体名をあげてはずせと要請してきた。不正だった」
とのこと
京都市は
「ただ客観的事実を知らせただけで、内閣府が勝手に不正した」
とのこと

やれやれ


しかし
今の内閣も教育委員会も
悪い意味での宗教だわなあ



国民投票法案反対

2007年04月18日 | 平和のこと
国民投票法案が衆議院で可決され
本当に5月3日までに成立しそう・・・

この法案は国民が直接意思を示すことが出来る
なんていう
きれいなものではなくて・・・

憲法を
戦争ができるように
「国」という枠で国民をまとめるように
変えたいがための
憲法改悪手続き法案
というのが本当のところ

この法案
実はよく見てみると
国民の25%の賛成で憲法を改悪できる仕組み
これって改悪したい組織の票でなんとかなるという仕組み

さらに
憲法改悪か否かをお互いにキャンペーンするのに
組織としてしてはだめということだけど
でもテレビCMはがんがんOKという
つまり金を持っているところが一方的にキャンペーンできる仕組み

さらにさらに実は
憲法改悪に反対する大きな組織は
すでに日教組が日の丸君が代問題で
憲法改悪に力を使えないように仕組まれ

法案によれば、自治労などの大きな組織の動きを止める仕組みがかっちりしているし

解放同盟は不祥事がどんどん明らかになるという仕方で
実は憲法改悪反対と叫ぶことすらできない状況になっており
というか
こういう時期だから、こういうことが明らかにされてきたという
とても政治的なことであり・・・
無論こういう不祥事はとんでもないことだが・・・

また貧しい人を増やすことで
自分の生活問題に集中させて
憲法どころでない!
と言わせるのも仕組まれている
と思ってしまうのは私だけか・・・

本夕は
あまりにあまりに悲しすぎることに
長崎市長が狙撃され・・・

憲法改悪に反対する政治家が
強烈に動きづらくなることは間違いなく・・・

なんでこんなにも憲法を変えたくなってしまうのだろう・・・


わたしは1970年生まれ
戦争が終わってから25年

最近よく考える
25年って、戦争ついこの前終わったというくらいの時だと・・・

私の実感としてみてみるなら
今から25年前
わたしは小学校6年生
つまり
修学旅行で細川たかしの「北酒場」を熱唱し
テレビはガンダムに夢中になり
まんがはキャプテン翼で
ちまたでは聖子ちゃんカットのお姉ちゃんがあふれ
といったような
これらはみんな
ついこの前の話であって・・・

もうちょっと考えると
わたしの人生を大きく変えた地下鉄サリン事件と阪神淡路大震災は
今から12年前だけど
つい
ほんとについこの前のことで・・・

ってなると

戦争はおわってほんのちょっとで産まれたわたしが
戦争をヒトゴトにできるはずもなく
だからそこから産まれた平和憲法を簡単に変えることができるはずもなく・・・

とまあ
何が言いたいかというと・・・

わたしたちは
自分が実際に生きている70、80、90年くらいが自分の生きる歴史のスパンではなくて

ちょっと前でしかない25年
いやいや
きっと戦争体験者で良心的な方なら
62年だってほんのちょっと前のことだろうから

そういう範囲でのちょっと前の歴史から
同時にちょっと後の歴史
つまり
いまの子どもたちが成人し、さらにじいさん、ばあさんになるまでの歴史も含めて
そういう歴史のスパンのすべてが
わたしの歴史となるというような

つまり
この200~300年という歴史のいのちたちと
わたしのいのちが響きあうという
そういういのちといのちとの出会いを繰り返すという
真実のいのちの歩みをするならば

憲法を変えたいなんて思うはずもないのではないか・・・
と思ったりする

もっというと
いのちといのちとが出会い響きあうということ
そこに行き着く想像力があるということ
が欠如しているとき
つまり
自分とほんの狭い周辺、いいところ、国という枠の中に
(しかし「国」という枠にこだわる者は実は極めて自分とその周辺の枠しかないわけだが)
閉じこもり
閉じこもるゆえに
その外側がこわくなり
信頼すると言う事柄は
(だからもちろん愛するなんて当然)
忘れてしまうというか消えてしまい

自分が閉じこもっているという基準でもって
憲法をそういうものに変えたい
となるのではないか

だから
閉じこもり
国民を縛りつけ
さらに信頼できない者は排除するという
憲法にどうしてもなるという・・・

まさに
歴史がない
ということなのだろう・・・

なんか
根暗だよなあ

おっと古い言葉でありますが

いやいやでも
ほんのついこの前の言葉なのでありますよ


♪存在はタダよ

2007年04月14日 | 教会のこと
4月15日の京都教会週報巻頭言です。

**************************


小学校に入りたての共君が聞いてきました。
「存在ってなに?」。
突然だったのでびっくり。
「共君は、今ちゃんとここにいるだろ」。
「うん」。
「みんないるだろ」。
「うん」。
「ちゃんといるのが存在」。
「ふーん」。
とまあ、わかったようなわからないようなやりとりをしつつ、
共君もなんとなく納得してくれたわけですが、

続けて彼は言いました。
「そうか、そういう存在はタダなんか」。
「え?」。
「存在はタダやんなあ」。
「うん、まあタダやなあ」。
「そうや!歌で言ってるやん」。
「そんな歌あるの?」。
「あるやん」。
「保育園で歌ってたの?」。
「ちゃう、テレビであるやん」。
「あるの?」。
「あるやん」。
とまあ、共君は存在がタダという歌から、なかなか難しいことを考えているのでした。

で、京都テレビを見ていたら、その歌が出てきました。
それは岩田呉服店のCMでした。
従業員らしき人たちが手をたたきながら歌っていました。
「そいつぁ岩田だよ~」。
なるほど!!

♪そいつぁいわただよ
♪そんざいは ただよ

共君は聞き間違えたおかげで、かなり高尚なことを考えていたのでした。

存在はタダです。
神さまは無償で私たちを創造し、愛と恵みを無償で分け与え続けています。
そして先週分かち合った「復活」とは、
神抜きの世界で、
すべてが有料で、
金で存在価値が決まり、
他者と分かち合うこと、愛と恵みが消えていく世界で、
神が今一度、救い主を示し、
無償で愛と恵みを注いで、
今ここに実際に存在し、さらに共に存在する神や隣人という他者がいてくれるという
端的な喜びを、
私たちに下さったときでありましょう。

存在はタダよ!
これは大事!

金を持っているか否かで存在の重さがかわることはあり得ず、
みんなタダで、みんなそれを分かち合うのみ。

本当は全部タダだ!
ということを繰り返し与える復活の業。
本当は全部愛と恵み!
ということを繰り返し与える復活の業
本当はだから存在物を独占的に所有したり、その安全を確保したりする必要もない!
ということを繰り返し与える復活の業
本当はつまりは、現実問題としてできっこない!というところにすぐぶつかるけど、しかしただただ分かち合うのみ!
ということを繰り返し与える復活の業

信じてみてもよろしいのでは?

他者のいない教育

2007年04月13日 | 「生きる」こと
ウチの息子たちが将来通うであろう
京都の実験校
御池中学


前を昼に通りました。

「輝きあい、育ちあい、魅力ある学校・・・(云々)」
という標語がでっかい幕に書かれ
玄関にデン!とかけられていました・・・

ん?
こういう日本語って成立する?

「あい」
ってのは、相互性をあらわしますなあ。

しかし
「輝く」「育つ」ってのは
自己完結している行為ですなあ。

輝かせあい、育てあい・・・
なら、まだわかるけど・・・

うーん
なるほど今の教育事情がわかりますなあ。
本当は自己完結して、他者との関係性なんてどうでもいいのだけれど
でもって、ただ国や大きな力を持つ様々な公の言うとおりに実直に行動できる人間づくりをしたいのだけど
だけど標語にするときには
いちおう「みんなで一緒に」みたいな雰囲気も入れようとして
「あい」
なんていう言葉も入った・・・

という
とてもとても偽善くさい標語でして・・・


そもそも
日本語として、あるいは論理的に成立するのかどうか・・・

中学校の先生たちはコレに違和感を覚えないのかなあ。

しかししかし
小学校の入学式の校長の講話と同様
ひとりで出来ることが標語になり
自己完結、自己責任的人間をつくろうとし
もはや
自然に他者性、相互性が消え去っているという
なんとも薄気味悪い
教育の状況が見えてきてしまうのでした。

やれやれ。

だから教会教育はしっかりやろうっと!!

共有する空間と時間

2007年04月12日 | 「生きる」こと
人権論の講義を本日の午前中にさせていただき、さっき帰ってきた。
思いのほか学生の反応がよくてびっくりした。
緊張していた表情が講義の終わりには何かに集中するあの独特の表情に変わっていくのを見ることが出来た。
と同時に
しだいに眠くなる表情とも出会うことができた。
どちらも、学生たちの応答として感謝するしかない。

しかしココ!というところでは
みんな寝ている学生も起きた。
こういうのも面白い。

私の講義の内容や講義法でもなく
学生の授業態度でもなく
学生と私が共有する空間と時間が何かを起こす
というところが学びの真実ではないか。

しかし体力がいるなあ。
かなり疲労する。
なにしろ
90分×2なのだ。

終わったら昼ということもあるが
肉と野菜とアイスクリームをえらく食べたくなった。
脳みそが「血をくれ」と叫んでいたのか。

講義は準備していたことと全く違うことを話しているというものになった。
初めて会う学生であっても
講義の中で具体的に対話があったわけでなくても
その講義を共有するというそれだけの事実が
その時に語るべきことを与えてくれる。

「名前」とは何か?
「名前」を見聞きするときに、共に浮かんでくる様々なイメージは?その質と量は?
「名前」を付けるという行為、呼ぶという行為の本質は?
「名前」が「記号」に成り下がってしまう状況とは?その歴史とは?

いろんな文献・資料からの言葉を用意していたけど
結局
話したのは自分の言葉のみ。

このあたりはすでに自分の言葉になっていたんだなあと
うれしく確認。

「名前」から人権を考える・・・

この講義は
年とる中で
いろんな出会いを経験して
ふと思い出すような
そういうものになったらいい

というものだから
学生の身体でも心でも魂でも
どこかに
そっと
でも
しっかり
ひとことだけでも
ひっかかっていてほしい・・・


さてさて
お見舞いしたい大切な方がいる。
出かけるとしましょうか。


あれから2年 入学式雑感再び

2007年04月09日 | 「生きる」こと
あれから2年 入学式雑感

第二子が小学校に入学した。
先週入学式があった。
第一子入学から2年。
教育基本法が腹黒さをかかえるものへと変わり
憲法も同種のものへ変えられる体制が整いつつあり
入学式もそれと歩みを同じくして変わるのか
と思っていたが
2年前と全く変わっていなかった。

仰々しい金屏風に日の丸
形式ばったプログラム
魂の抜けたことばがゆれる君が代
魂こもった校歌

さらには
校長の話までまったく同じ
PTA会長のあいさつも人が変わったはずなのに同じ

それはどれも極めて単純なスローガンの連呼
そして誇張表現の多さ
「とっても」「すごく」「すばらしい」
実に見事に洗脳言語が並んだと言える

2年前と同じことを大きな声で言わねばならない。
子どもたちは洗脳言語があふれる現場に通わねばならないのだ。

しかしありがたいのは
あれだけ大勢の子どもと教師が集まっている場所では
どんなにお上が洗脳言語で統率したかろうとも
人と人が単純に共にいるという
変えようのない人間らしい姿が
洗脳体制が表にあらわれるのを阻害するだろうし
またちゃんとわかっている教師も親もいる。
僕みたいに真正面から抗うスタイルの人もいれば
お上との関係の中でしたたかに抗うスタイルの人もいる。

子どもたちは
洗脳言語と
仲間と共に在るという物語の言語との
はざまで生き
そのどちらを最後に選ぶかというのは
つまりは、仲間と一緒に喜んだり泣いたりということをどれだけできたか
にかかってくるのだろう。
もし孤独にすごしたら
洗脳言語を選ぶしかないから
僕らのやるべきことはただひとつ
子どもたちの関係性を深くさらに深くすることに協力することだ。

教育をめぐる大状況はますます薄気味悪くなる。
しかし個々の現場は希望を持つ。
この有名な
文科省や教育委員会お墨付きの実験小学校でさえ
薄気味悪いものを吹き飛ばす人間と人間との出会いの物語はたくさんある。

そうだ
2年前と違うものもあった
それは
壇上にあがる人たちが日の丸に対して礼をする時間の長さと頭を下げる深さ
短くなり浅くなっていた

こういうところに本質があらわれる。
たぶんこういう文書が出回ると今度からは長く深くなるだろうけど
もう本質はばれてしまったと言っていいだろう。

それにしても校長の話の意味のなさは
どうにかならないか。

かがやきの「か」は「考える子」の「か」
かがやきの「が」は「がんばる子」の「が」
かがやきの「や」は「やさしい子」の「や」
かがやきの「き」は「鍛える子」の「き」
だそうだ。

そもそも「考える子」というくらいなら
校長がちゃんと講話を考えるべきだろう。

このよっつの共通点は何か。
それは、自分がどうやるか!ということだけということ
人と人とが出会い交わる現場である学校なのに
「他者」が消えているのが特徴

ぼくだったらどうするかなあ。
そもそも「かがやき」なんていう標語にはしないけど・・・

仕方なくこれでやるなら

かがやきの「か」は「感謝感激だらけの仲間」の「か」
かがやきの「が」は「がむしゃらに一緒に居続ける仲間」の「が」
かがやきの「や」は「やかましく遊び意見交換しあう仲間」の「や」
かがやきの「き」は「気兼ねは無用な仲間」の「き」

ってところかなあ・・・

いやあ、まだこれじゃああまいなあ・・・

うーん。

わが第二子よ
お兄ちゃんといっしょに
今日も楽しくいってらっしゃい。


ちなみに2年前の入学式雑感は
わたしがはじめてということもあって
気合も入っているこういうものです。





入学式雑感

 いよいよ第1子が小学生。入学式に行った。嫌な意味で緊張した。わかってはいたが、日の丸、金屏風の圧力は、相当なものだった。意味のわからないもの、そう、例えばおばけと遭遇しているかのような、そんな緊張だった。
 校門で身を縮めて、このような状況に反対するビラを配っておられたご婦人の姿が、脳裏にあらわれる。救われたような気がした。あの世界も同時にあるわけだから、おばけをじっくり観察するか・・・。
 「起立、礼」。式が始まる。何に礼をしているのか。説明はない。そして、間髪いれず君が代。なるほど、立ったままの状態で、君が代となるわけだ。立った状態から座るのは、座った状態のまま立たないこととは桁違いの力がいる。これも、お上からの指導によるものなのか。座らなかった。立ったまま、周りをよく見てみた。何人か歌わない教師もいるだろう・・・。いなかった。また変な緊張が走った。・・・ただ、僕が歌っていない人を見つけられなかっただけ・・・。そこに託してみる。上級生が見事に君が代を歌う。大きな口をあけて、大きな声で。しかし!嬉しかった。なんとも魂のこもらない歌とはこのこと!ただ歌っているだけ。君が代が上滑りしている印象を受けた。だから短期的な洗脳はないだろう。がしかし、長期的に慣習として身にしみることはあるだろう、とも思った。
 校長の話がはじまる。NHKスペシャルにも取り上げられた、全国的に有名な小学校。あるいは、公立の実験校。そこの校長だけに期待した。・・・が・・・。「考える子」「がんばる子」「やさしい子」「きたえる子」になれ!という話だった。そして頭文字をとって「がかやき」だという。話の内容は極めて単純な優性思想。しかし倫理の中身が語られることはなく、賢く強い子がよい!という枠しかない。しかも何のためにそういう子になるのかという、目的も語られない。また、この4つの倫理も、「かがやき」に無理やりあてはめた感もあるほどに、練られていない。またもや、おばけと遭遇したような感を持った。目的も中身もなく、宙に浮いている倫理的な教訓。意味のない言葉。それはまさにおばけ。さらにおどろいたのは、「新一年生はすごい!すばらしい!」を連発していたこと。「すごい」「すばらしい」という、抽象的で、でも気分が良くなる言葉の連発ほどに、意味のない、しかし、人々を不思議な雰囲気に持っていくおばけ的なものはないのかもしれないと思った。いったい校長は新一年生の何を知っていて、すごいとか、すばらしいと言うのだろう?少なくとも、僕のところの第1子や、僕の教会に関わっている子どもたちについて、そんな安価な判断をされても本当に困る。別に、すごくなってほしくもなければ、すばらしくなってほしくもない。具体的に歴史を生きている者として、歴史を生きてほしいだけ。主の十字架が乱立する歴史の只中を。
 PTA会長の話が続いた。京都の文化と伝統を、街をあげて学ぶことができるすごい学校とのこと。そして「ありがとう」の言葉と、元気に居ることが友だちを作るという倫理。ここでも、倫理。背筋が冷たくなるのを感じた。道徳、倫理しか語られないのは何なのか。しかも、友だちを作るのは「ありがとう」の言葉なのか。元気でいないと、友だちはできないのか。大変だあ!と思った。脅しやなあ!と思った。僕は、僕がかかわる子どもたちに、全身全霊で同級生たちとぶつかるなかで、ちゃんとつまづいて、ちゃんと限界を知って、お互いの違いが違い以上のなにものでもなく、しかしその違いを担い合って、ちゃんと共に生きる友達をつくることができることを、叫んでいこう。それはつまり、主によって出会った先生や同級生は、なんとしても愛していきたい!というところで、友だちは友だちとなることを、伝えていこう。
 校長とPTA会長の話の共通点は、「歴史」が語られていないこと。具体的な、事実と真実とを含んだ歴史が無視されているということ。つまり、中身と目的のすべてが無視されているということ。だから、残っているのは倫理・道徳だけ!ということ。中身のない倫理、すなわちそれは、カタチにはめること以外のなにものでもない。そしてカタチにはめるための、抽象的ながら、気分のいい言葉が並べられる。「すごい」「すばらしい」「伝統」「文化」。つまり、おばけが並んでいる。そうだ。いま、子どもたちは、おばけを教育されるわけだ。時代状況のなかで、その歴史の意味を問うことなく、なんとなく気分のいい雰囲気に流れることができるような、しかも、その気分のいい雰囲気が真実であり、真理であると言ってしまうところの、そういうおばけを身につけようとしている・・・。
 おばけを身につけたら、おばけになっちゃうよ。おばけになったら、人間のこと、いのちのこと、人格のことなんか、わからなくなっちゃうよ。さあ、おばけ退治をしなきゃ。
 何で退治する?それは校長とPTA会長が教えてくれた。彼(女)らは、気持ちのいいこと、楽しいこと、嬉しいことだけを語った。そう、おばけは、そこでしか生きられないから。だから、僕らはちゃんと見よう。ちゃんと聞こう。ちゃんと語ろう。この世界に転がる、そして子どもたちの精神にも転がる、痛み、苦しみ、悲しみなどを。おばけはこれが一番嫌い。でも、世界中の痛み、苦しみ、悲しみを、全部掘り起こすくらいの勢いで、そしてその痛み、苦しみ、悲しみを、つまりそういう証言をあつめて、「歴史」を盾にして、おばけを退治しよう!「具体的」な証言で、「抽象的」な心理的雰囲気を退治しよう!それはつまり、主の十字架の前に立ち、そこにいる主の証言を、自らの告白とさせていただくなかで、主以外の力と真向かうということ。主よ!来てください!
 愛する第一子。きっとおばけと人間のはざ間にある学校で生活するわけだけど、その現場で生きるからこそ、そのはざ間を瞬時に見抜けるような、そういう力を、せっかくだから養って欲しい。教科書にかじりつく必要もなければ、跳び箱や鍵盤ハーモニカにかじりつく必要もない。あなたは、あなたが今まで、僕やみんなにしているように、同級生や先生たちみんなをじっくり見て、じっくり聞いて、いつも僕にしてくれるように、応答してくれたらいい。そのひとつひとつの向かい合いの中心に主がいるから。その向かい合いの繰り返しこそ、あなたの「歴史」になるから。そして「歴史」が「いのち」「人格」となるから。もちろん主によるところの。


イースターな一日

2007年04月08日 | 教会のこと
イースターという一日を終えようとしており・・・
心地よい疲れを覚えつつ・・・
なんとなく終わってしまうさみしさを覚えつつ・・・

朝の最初のイースター礼拝
商売をしている仲間と一緒の礼拝
時間をきっちりしないと
開店準備に間に合わないから
いつもはちゃんとやるのだけど・・・
なぜか
わたしの話が長くなってしまって・・・
礼拝の最後まで参加できない仲間をつくってしまいました・・・

ごめんなさい・・・


朝のいわゆる通常の時間のイースター礼拝
青年たちによる聖歌隊讃美からはじまる・・・
喜びにみちた元気な讃美
復活はコレくらいドカンと始まるんだなあと感激しつつ

その次の会衆みんなでの讃美はいつもの倍の声が集まりまして・・・
青年たちが讃美に込めたものが共鳴したようでありました。

聖歌隊の讃美も心がこもっておりました。
ウチ
つまり京都教会の聖歌隊は
いつも不思議と見事な響きをかもし出すんです。
なんでだろう・・・
高校生から80歳近くの方までが一緒に歌うのですが・・・
心震える響き・・・
決して音楽的に上手いということではなく・・・
伝わる響きなのです・・・

わたしのイースター説教は
自分の中学校時代からの
自分の中に抱え込んできたいわゆるダブルスタンダードから産み落とされてきた
生々しい歴史を語るところから復活を語るという
大冒険をしまして・・・

妻に言わせると説教中の説教ということでしたが・・・

正直終わってみるとしんどいもので・・・

途中何度胸がつまり泣きそうになったか・・・
まだまだこういう話をするには修行が足りないことがわかりました・・・


なによりも感激したのは
イースター礼拝に参加し、喜びを分かち合うために
体調を懸命に整えて教会にひさしぶりに来ることができた
高齢者や病の方がおられたこと

主に感謝。
祈って祈って祈ります。

午後は鴨川河原で祝会

たくさん集まった子どもたちは
キャンディハンティング

青年たちがギターで讃美をリードしてくれて
みんなで讃美
「君は愛されるために生まれた」

輪になってみんなでゲーム

0歳から88歳までが一緒に祝いました。

そして教会としての企画は終わったけど
河原で残る人は残って余韻を楽しみつつ・・・
子どもたちはあばれつつ・・・

するとそこにいろんな人がなんとなく加わってきました・・・

荒神橋の下で生活するおっちゃん
長男の小学校の同級生家族
長男が保育園時代の同級生の家族
教会学校にきている仲間の家族
長男と同じ小学校に通う顔だけ知っている上級生たち
関西のほかの教会の青年たち

これまた教会のひとつの姿で
京都教会の特徴だなあと
感激しつつ

子どもたちの野球の万年キャッチャーをつとめました。

で、青年たちは

つい先ほどまでつるんでおりまして・・・
そうそうこれなんだなあと
うれしくなりました・・・


青年たちも教会をあとにし・・・

なんとなくさみしく・・・
でもうれしい疲れもあり・・・


青年たちがつるんでいるあいだは
わたしたち家族は
友人家族と夕食へ。

リラックスできるひととき。
これまたしあわせでした。。。


明日から次男が小学校へ。
はやいなあ。。。



イースターのお知らせ

2007年04月07日 | 日本バプテスト京都教会のお知らせ
荒神橋の西詰めの
日本バプテスト京都教会の

***************
イースター(復活祭)のお知らせ
***************

4月8日(日)

朝10:30~ イースター礼拝
(教会聖歌隊、青年聖歌隊讃美あり)

昼12:30~ イースターパーティー
(気候がよければ河原でお花見、よくなければ教会集会室で)


どなたもご自由にどうぞ

こんなんでした。

2007年04月04日 | 「生きる」こと
先週
キャッチャーミットではないけど
オールラウンド用の左利き用グローブがやってきてくれました。
キシモトさんちのお兄ちゃんが小学生のときに使っていたもの。
新品よりうれしい!
歴史がつながり重なるってのは
命と人生を豊かにしてくれる。

ありがとうありがとう!!

さっそく毎日空くんはそのグラブにボールを投げ込んでいます。

空くん
野球がうまい!
子ども同士の野球ではなくて
大人が本気で投げたり
バッティングセンターに立たせたりすると
しっかりボールを捉える姿にびっくりすることができるのです。


親のいろいろと受け継いで
身体も手も小さくて
アトピーで手は荒れて割れて

野球をするには苦労するというか
痛くてしゃーない身体なので

なんとも申し訳ない・・・
のです。

でも
それでも野球は楽しいのです。



土曜日に妻が教会の清掃中にぬれた廊下ですべって腰に青あざ
日曜日に共くんが階段でこけてすねに青あざ
月曜日に添くんがなんと
家の前の通りで車に接触されてくるぶし上に青あざ

みんな大丈夫かいな??

ある日タクシーに共くんといっしょに乗ったら
「お!この前飛び出してきた子やないか!轢くかと思った」
なんて言われてしまったもんで
きっと、飛び出したんでしょうなあ・・・

まだ

死なないでくれえ



受難週 十字架 絶望 希望

2007年04月02日 | 教会のこと
受難週
キリストの十字架を深く覚える
十字架で深くえぐられる故に

十字架の出来事を
あっさりと一言で片付けてしまうきわめてよろしくない伝統が
教会にあるのが不思議

キリストは私たちの罪のために十字架で死なれた。
だから私たちは救われた

というもの

十字架の出来事をこんな原理にしてしまうのは
最大の罪

十字架

なぜ俺を見捨てるのか
という神への叫び

絶望

われわれはこのキリストの絶望を通して
自らの絶望を知る
自らの絶望を知り、それを担いきれないことがさらなる絶望であることを知り
キリストがその絶望を担うことを信じる

われわれはこのキリストの絶望を通して
世界に転がる絶望を知る
その絶望を担いきれない自らにさらに絶望し
キリストがその絶望を担うことを信じる

なにを言ってるんだか
という文章になってしまうが

絶望を絶望として知ることができること
絶望を知ることが出来ないという絶望でないところの絶望に溺れないでいいということ

ただただ
神は俺を見捨てるのか
と問うしかない
絶望

これが十字架
この十字架の場所に立つことができるなら

天幕は裂け
岩は割れる

その裂け目から
神の国が
やってくる

そのとき

神は俺を見捨てるのか
と叫びつつ死んだ者は
すでに
墓の中で喜び踊る

神の国が来る!!と

絶望を生きることを選び取る者は希望を生き
絶望を生きることを選び取れない者は希望を生きない