きぼう屋

生きているから生きている

平和の旅in広島 その弐

2008年07月22日 | 教会のこと
広島到着前に

映画「ヒロシマナガサキ」から
もうひとつ感想を・・・

アメリカ兵の話から読み取ったことは午前に書きましたが

それはしかし二義的なことでありまして

なにしろ
被爆者の証言こそはじめのことであり
その証言という
受けるべき事柄を受ける
という

勝負!!!!

(まさに勝負
 受ける苦しさから逃れようとする
 自分自身との勝負)


歴史を学ぶということにおいては
起こされるわけです

共感なんてしきれないなかで
ひとつでも共感できるってことさえ偽りの中で

しかし
共感していきたいと願い
期待し
自らの精神を解放して開放する

という
あの極めて困難な作業をせねばならないわけです


わたしは最初の大学の学士論文で
「追体験」についての研究をしましたが
そこでのひとつの結論は
追体験は共感による極めて近似値的な他者理解
と述べたわけですが

昨今
自分の論を信用しなくなっています

他者と結ばれるというのは
人間の
追体験であろうと
共感であろうと
そういうあらゆる方法を駆使しても
どうにもならないことで

ただ
キリストによってのみ成立している!!

のだけれども

しかし人間として出来る範囲は
追体験であり
共感であり

だから
それをするしかないし
せねばならないし
することができる

のだけれども

その作業には
信用に値するものは
なにもない

ということをまず第一に知らねばならない

とまあ
思っているところです

そういう
弱い人間として

不可能な事柄を
ゆるされて行っていく

そういう作業を

被爆者の証言を受ける際に
頂いていくわけです




おそらく
受けたかどうかという判断を
なんとかしてみようとするならば

どれだけ
全身が重たくなったか
というところくらいしかないのではないか
と思っています




今回わたしが受けた重さを言葉に
これまた不可能ながらになんとか表現するなら

被爆者の被爆後の人生は

死んでいるのに生きており
生きているのに死んでいる

という

聖書的あるいは信仰的な言葉でいうならば
十字架にある生
そのものなのだ
ということでもあるのかなあ

というところです


ローマカトリックは自殺を禁じているから
たまたま私は死を選べなかった

とか

妹は死を選んだけど
私は生を選んだ
両方の人生が開かれていた

とかいう証言は

生と死が
全く異なることであり
別次元のことであると同時に

同時に起こされることであり
両者が複雑にねじれて共に入り込んでくる

という事柄が
歴史認識において
実は欠かせないということを

わたしに知らせるものだったのだろう
と思いました


というわけで
明日は
広島到着後のことを書いてみましょうか

ではでは

平和の旅in広島 その壱

2008年07月22日 | 教会のこと
平和の旅in広島
ということで
京都教会は20日の午後から21日にかけて
広島に行ってきました

平和の旅はこれが二回目

一回目は3年前に長野は松代へ行きました

夏の旅は
①教会に泊まってなにかをつくる
②具体的に人と出会いに行く
③具体的に土地と出会いに行く
という順序で
この間やっております。
人と土地が別々ということが
本来ありえないのですが

たとえば
人という場合は止揚学園
土地という場合は広島

といった具合です


今回は広島

まずは行きのバス編

礼拝が終わって
教会前に到着している観光バスに乗って広島へ

バスにのるやいなや
みんなにおにぎりが配られます

野の花会のみなさんが
朝早くから教会にきて
にぎってくれたおにぎり

梅に昆布におかか

感謝感謝

しかもひとりみっつ

これはさすがにたべきれない人もいるわけですが
そこは
でっかいJさんをはじめ
若者たちがスタンバイ

さらに
ひとりひとりに袋が手渡されます

なんと
お菓子の詰め合わせ

クッキーからあめちゃんから
柿の種からハイチューまで

子どもたちが大興奮


その興奮のままで
こんどは封筒が手渡されます

その中身は
今回の旅のしおりと
見学にいく施設のパンフレットに
広島の地図など


オリエンテーション開始

ますます気分が高まってきます



最初の大きなプログラムは
バスのなかで
映画「ヒロシマナガサキ」を見ること

この映画は
証言が淡々のつながっている映画で
しかし
見終わると
体に大きな重石が入ったかのような
感触を得ているという

秀作であります


被爆者の言葉
体の傷跡
残された写真、絵
を受けつつ

想像を絶する
(まさに想像を絶するわけです
 戦争体験者がまず必ず使うこの言葉は
 とても重要な言葉でして
 そうしか表現できないわけです)
出来事に言葉を失っていきます

また
この映画は
原爆をつくったり実際に落とした
アメリカのみなさんの証言もあります

彼らは基本的に
アメリカ
における基本認識の線からはずれることありません

その悲惨さをよく知りつつ
そこで深く胸をえぐられているけれども

すべきことをしたし
平和に貢献した
という線はくずしません



ひとつの発言から
彼らの葛藤が見えてきました

原爆を落としたひとりが言います

イラクに原爆を落とせば終わるではないか
という人がたくさんいる
とんでもない
彼らは核兵器について何も知らない

そのときの表情は
他のときと違って
こわばっていました

アメリカの教育では
ヒロシマナガサキへの原爆は
戦争を終わらすために必要だった

されるわけです

だからイラクもそうですが
戦争を終わらすために核兵器を
というのは
当然起こる声でもあるわけだと思います

この歴史認識は
アメリカの矛盾として
大きく横たわっています


こういうのは
どの国にもあって
日本にも
歴史教育で当たり前に言われていることが
大きな矛盾であることを
多くの人が気づきつつも
でも無意識にそれを押し殺し
主体的に洗脳され
矛盾が横たわり続けている
というものは

たくさんあるわけです



そういう矛盾に対する発言は
弱点をつく発言になるので
とても恐れられますし
ゆえに
そういう発言をする者は迫害を受けますし
だから
なかなか発言できないわけですが

しかし

あの原爆を落とした人は
もっとも魂込めた言葉として
そういう表情で
そういうからだでもって

矛盾の只中に放り投げる言葉を語っていました


実は
キリストに従うということは

こういう世界のあちこちに転がる
それに対する発言さえもゆるされない
でもそれが力を持っているという
矛盾を

あっけらかんと突いていく
という倫理なのだろうと思います

現代社会の

自由
平等
民主主義
防衛
あるいは
精神


というものの中身は
実は
触れてはいけないという
矛盾領域を突破できないところで成り立っていて



その矛盾領域にまったく気づかずに
いわば洗脳されているところの論理を信じる人

その矛盾領域に気が付きつつも
自分が食べていくためにしたたかに論理を組み立て
その論理に満足している人

その矛盾領域に気が付きつつ
自分が食べていくためにしたたかに論理を組み立てるけれども
それが偽りの論理であることを知っている人

その矛盾領域に気が付きつつ
自分が食べられなくなる可能性を知りつつも
矛盾領域を突いていく論理を組み立てる人

という感じで
それぞれ生きているのだろうなあと思います


またそれぞれの論理が

他者非難に費やされるか
新しいものの創造に費やされるか

でも
実はかなり事情はかわるわけでもありますが


まずは
映画を事前学習ということで
バスでみて

いよいよ広島に到着というわけでした

続きは次回

ではでは