広島到着前に
映画「ヒロシマナガサキ」から
もうひとつ感想を・・・
アメリカ兵の話から読み取ったことは午前に書きましたが
それはしかし二義的なことでありまして
なにしろ
被爆者の証言こそはじめのことであり
その証言という
受けるべき事柄を受ける
という
勝負!!!!
(まさに勝負
受ける苦しさから逃れようとする
自分自身との勝負)
が
歴史を学ぶということにおいては
起こされるわけです
共感なんてしきれないなかで
ひとつでも共感できるってことさえ偽りの中で
しかし
共感していきたいと願い
期待し
自らの精神を解放して開放する
という
あの極めて困難な作業をせねばならないわけです
わたしは最初の大学の学士論文で
「追体験」についての研究をしましたが
そこでのひとつの結論は
追体験は共感による極めて近似値的な他者理解
と述べたわけですが
昨今
自分の論を信用しなくなっています
他者と結ばれるというのは
人間の
追体験であろうと
共感であろうと
そういうあらゆる方法を駆使しても
どうにもならないことで
ただ
キリストによってのみ成立している!!
のだけれども
しかし人間として出来る範囲は
追体験であり
共感であり
だから
それをするしかないし
せねばならないし
することができる
のだけれども
その作業には
信用に値するものは
なにもない
ということをまず第一に知らねばならない
とまあ
思っているところです
そういう
弱い人間として
不可能な事柄を
ゆるされて行っていく
そういう作業を
被爆者の証言を受ける際に
頂いていくわけです
で
おそらく
受けたかどうかという判断を
なんとかしてみようとするならば
どれだけ
全身が重たくなったか
というところくらいしかないのではないか
と思っています
で
今回わたしが受けた重さを言葉に
これまた不可能ながらになんとか表現するなら
被爆者の被爆後の人生は
死んでいるのに生きており
生きているのに死んでいる
という
聖書的あるいは信仰的な言葉でいうならば
十字架にある生
そのものなのだ
ということでもあるのかなあ
というところです
ローマカトリックは自殺を禁じているから
たまたま私は死を選べなかった
とか
妹は死を選んだけど
私は生を選んだ
両方の人生が開かれていた
とかいう証言は
生と死が
全く異なることであり
別次元のことであると同時に
同時に起こされることであり
両者が複雑にねじれて共に入り込んでくる
という事柄が
歴史認識において
実は欠かせないということを
わたしに知らせるものだったのだろう
と思いました
というわけで
明日は
広島到着後のことを書いてみましょうか
ではでは
映画「ヒロシマナガサキ」から
もうひとつ感想を・・・
アメリカ兵の話から読み取ったことは午前に書きましたが
それはしかし二義的なことでありまして
なにしろ
被爆者の証言こそはじめのことであり
その証言という
受けるべき事柄を受ける
という
勝負!!!!
(まさに勝負
受ける苦しさから逃れようとする
自分自身との勝負)
が
歴史を学ぶということにおいては
起こされるわけです
共感なんてしきれないなかで
ひとつでも共感できるってことさえ偽りの中で
しかし
共感していきたいと願い
期待し
自らの精神を解放して開放する
という
あの極めて困難な作業をせねばならないわけです
わたしは最初の大学の学士論文で
「追体験」についての研究をしましたが
そこでのひとつの結論は
追体験は共感による極めて近似値的な他者理解
と述べたわけですが
昨今
自分の論を信用しなくなっています
他者と結ばれるというのは
人間の
追体験であろうと
共感であろうと
そういうあらゆる方法を駆使しても
どうにもならないことで
ただ
キリストによってのみ成立している!!
のだけれども
しかし人間として出来る範囲は
追体験であり
共感であり
だから
それをするしかないし
せねばならないし
することができる
のだけれども
その作業には
信用に値するものは
なにもない
ということをまず第一に知らねばならない
とまあ
思っているところです
そういう
弱い人間として
不可能な事柄を
ゆるされて行っていく
そういう作業を
被爆者の証言を受ける際に
頂いていくわけです
で
おそらく
受けたかどうかという判断を
なんとかしてみようとするならば
どれだけ
全身が重たくなったか
というところくらいしかないのではないか
と思っています
で
今回わたしが受けた重さを言葉に
これまた不可能ながらになんとか表現するなら
被爆者の被爆後の人生は
死んでいるのに生きており
生きているのに死んでいる
という
聖書的あるいは信仰的な言葉でいうならば
十字架にある生
そのものなのだ
ということでもあるのかなあ
というところです
ローマカトリックは自殺を禁じているから
たまたま私は死を選べなかった
とか
妹は死を選んだけど
私は生を選んだ
両方の人生が開かれていた
とかいう証言は
生と死が
全く異なることであり
別次元のことであると同時に
同時に起こされることであり
両者が複雑にねじれて共に入り込んでくる
という事柄が
歴史認識において
実は欠かせないということを
わたしに知らせるものだったのだろう
と思いました
というわけで
明日は
広島到着後のことを書いてみましょうか
ではでは