きぼう屋

生きているから生きている

希望の中身

2011年05月29日 | 教会のこと
今週の週報巻頭メッセージです。

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「希望の中身」

先週のこの場所で私たちは、
私たちに今必要なのは希望であることを分かち合った。
希望が今の私たちに飛び込んでくる。
地震と津波で破壊され絶望している人たちの只中に希望が飛び込む。
放射線の見えない被害の中で、恐怖のあまり状況に麻痺せざるを得ない人たちの只中に希望が飛び込む。

希望は十字架のキリスト。
十字架のキリストがすべてを引き受けてくださる出来事。
主が引き受けるゆえに、私たちは絶望の只中に差し込む希望の光を見る。
主が引き受けるゆえに、私たちの担う重い苦難が苦難の中身が薄れないままに、
しかし主により荷が軽くされ、私たちはその苦難を担い続けることがゆるされる。

人は苦しみを苦しみ、悲しみを悲しみ、恐れを恐れることで初めて人となる。
しかしそれらが長期化すると、私たちは本能的にそれらから逃げる。
思考、感情、感覚が停止したり、無関心になったりする。
しかしそうならずに、悲痛を背負い続けるために、希望の主は来られる。

希望の主の具体的なかたちは何か?
私はキリストの体なる交わりであると信じる。
この島では「絆」が叫ばれる。
しかしかつてから「絆」は存在する。
そこで今問われているのは「絆」の中身。

そして私たちは、「絆」の中身がキリストの体となるとき、
絶望と恐怖の只中を、キリストの体という希望にて健やかに生きることができると信じる。

キリストの体とは、互いに愛し合う群れ。
一人が苦しめばみんなで苦しむ群れ。
お付き合い程度や傷つかない程度という距離が壊され、キリストの十字架にて密着させられる群れ。

キリストの体とはそういう群れなる教会。
もし教会が交わりの距離を誤っているならば、悔い改め訂正することが、この島の絶望と恐怖の只中における希望とされるために必要なこと。

またこう表現できるかも知れない。
マルクスは、個人は死という限界がもつが、人類は永遠である、と述べた。
今私たちが個人であることは、
自分の死までの幸せのみが関心事となり、後の世代を愛さないことになり、
特に放射線問題では無責任となる。
しかしマルクスの言う人類、聖書のいうキリストの体なる交わりが永遠であるならば、
私たちはその永遠から希望を頂き、今の苦難の状況を生き抜くことがゆるされるはずだ。

だから私たちは、キリストの体とされていることを今こそ喜ぶ。
さらにキリストの体とされることを今こそ祈る。

繰り返す。
キリストの体なる交わりこそ、今のこの島の絶望と恐怖における希望。
主が私たちをキリストの体として今日も共に歩ませる。

本性に抵抗するロゴスに従う

2011年05月23日 | 「生きる」こと
我が家のトイレに積み上げられているたくさんの本たちの中から
今朝はなんとなく1年前の雑誌を手に取る。
「atプラス」の03号。
読了していたつもりだったが、目次の前にある巻頭エッセイをどうも読んでいなかったよう。
これが面白い。
岡崎乾二郎さんによるもの。
その冒頭部分を紹介。

ただ岡崎さんはマルクスから学んで書かれておられるゆえ、
紹介の後、聖書から学ぶ私は、少し言い換えをすることをお許しいただきたい。

しかし、大切な構造を教えてくれるとても優れた文章と思う。

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普遍的に考えようとするならば人間は頼りにならない。
忘却と変節こそ人間の性は本質としているからである。
ゆえに人は理論を必要とする。
人の身体のご都合主義に侵されることなく、
自分の判断そして行動を律するために。
であるならば、
この理論は人間に依拠するわけにはいかない。
すなわち理論は人間がそのフニャフニャ、ひねもすのたりくたりするだけの頭から捻り出したようなものであってはならない。
人間に対して、理論とは抵抗すなわち物質である。
抵抗のために理論があるのではなく、
理論それ自体が人間によって消去も除去も、
当然否定することもできない抵抗物であるということだ。
ゆえに理論的に考える、とは人間が考えるのではなく、
抵抗(が要請する理論)それ自体が考えるというべきである。
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私はここで用いられている理論を、
ヨハネ福音書から特に知る「ロゴス」に言い換えたい
ロゴスは人間の本性に対する抵抗として啓示される。
そのロゴスで私たちはご都合主義から解放され、主に従う。
だから信仰者が繰り返し注意しているのは、
自分でひねり出すのではなく、み言葉から戒められるかたちで、
ロゴスをいただくということ。

ロゴスは私自身への神の抵抗であるということ。
十字架における抵抗であるということ。
さらに死に抵抗する復活であり、
絶望に抵抗する希望であるということ。

さらにさらに
破壊に抵抗する再創造である!

しかしそのときに
私たちは自分でひねり出すのではなく
み言葉に戒められつつ、与えられる。

そのときに起こされるのは、
ご都合主義での判断ではなく、
十字架を背負う抵抗なる行動。


戦争前夜に
しかし人は自らの本性に従った。
ロゴスが抵抗してくることを拒んだ。
前夜であることを認めなかった。
戦争がはじまった。

放射線による甚大な被害が出る前夜である今
人は何に従うのか。

津波による破壊と絶望の中
人は何に従うのか。

自らの本性か
本性に抵抗するロゴスか

希望を生きる

2011年05月22日 | 教会のこと
今週の週報巻頭エッセイです。

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「希望を生きる」

「希望はわたしたちを欺くことがありません(ローマ5:5)」。
長男が生まれた時、私には、一気に将来が開けるという大きな変化が起こった。
長男が小学生の頃の家族や教会や世界、
中学生の頃、二十歳の頃、彼が結婚して孫が与えられた頃、その孫が小学生の頃…を、
相当リアルに、またうれしく想像できた。
それは私の中で、将来に色や音、動きが加わった瞬間。
その後にさらに四人の子どもが与えられた時も同じく。

教会家族にはたくさんの子どもが与えられている。
生まれて三週間の輝生くんや、おなかで育まれている命も与えられている。
この事実は、
彼(女)らが生きていく将来が、私たちの教会に希望として輝いていることを示す。
私たち教会は、
彼(女)らのために、将来にわたって、主イエス・キリストが伴われ働かれることを、
今、リアルに、
神からの希望として見させられている。 

私たちは希望を生きる。
希望は私たちの道しるべ。
そして目の前のいくつもの道から、希望に導かれる道を、私たちは、今、選ぶ。

原発事故により放射線量の多い地域に住む人たちは、
歩むべき道の選択において苦しむ。

原因の一つは、放射線の量や被害について何を信じるべきかわからないことがある。

しかし同時に、
放射線による苦しみが、今ではなく、将来に現われる事実も原因だ。
「花粉でマスクをする人に比べ、放射線でマスクをする人は少ない」。
福島に住むある母親が嘆く。
花粉はすぐに症状が出るからか、私たちはマスクをする。
でも放射線は症状が出ないからか、吸い続けたら将来苦しくなると知りつつも、マスクをはずす。
これが私たちの弱さのようだ。

そしてこの弱さは同時に希望の弱さではなかろうか。

子どものいる親からは将来の苦しみを避けるための声が叫ばれる。
それは子どもを通して希望を強く持つからに違いない。

ならば希望をキリストの必然として強く知る私たちは、
将来の苦しみを避けるために叫ぶその親たちに思いを合わせるに違いない。

ただ、どうも人は将来より、
今をストレスなく健やかに生きることを選び取る本性を持つ。

だから希望に生きることは自分の本性とのたたかいともなる。

このとき、
私たちは冒頭のみ言葉を思い起こしたい。
希望は欺くことがない!と神が約束される。
逆に言うと、
今をストレスなく生きることには、欺きが隠れている可能性もあるのだ。

放射線量の高い地域の人たちを覚えて祈る。
心から主の働きと癒しとを祈る。
さらに主が彼らに希望を贈り、そもそも主が希望であることを告知されることを祈る。
この世界のみんなが希望をいただくことを祈る。
ゆえに欺きから解放されることを祈る。
共なる歩みが与えられることを祈る。


神の創造を生きる

2011年05月15日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「神の創造を生きる」

私たちは今、創世記から神の創造について学んでいます。
創造を学ぶとき、私たちはひとつの方向性を知るに至ります。
それは、神の創られた宇宙全体へと、私たちが解放され開かれていくという矢印です。

創造物語は、
イスラエルの人々が、バビロニアという国家から解放され、
神の創造された宇宙全体の一員であることを、
救いとして確認するために描かれたものでもあります。

神を信じるイスラエルの人々は、
バビロニアという帝国のために自分や世界が創造されたのではなく、
神の被造物全体のために創造されたことの意味を見出しています。

私は、現代社会でも、
大小さまざまなバビロニアがたくさんあると考えます。
私たちは様々なグループで生きていることと思います。
しかし、そのグループのみで完結しているならば、
つまりそのグループの中ですべてが賄えるとなるならば、
そのグループはバビロニアです。

私たちは、神の創られた宇宙全体の連帯(シャローム)の中でのみ
本当の救いと喜びに出会い、平和を得ます。

しかし、宇宙の中のどこか一部でまとまることにおいて満足し、
それですべてが整うと感じるなら、
それは私たちが宇宙に対抗して小宇宙を建設していることになると思います。
小宇宙とは、聖書の語るバベル(バビロニア)の塔です。

もし自分ひとりですべてできると思うとき、
それは小宇宙に生きており、神の創造を見失います。
家族が他の家族との交わりを持たないとき、その家族は小宇宙です。
仲良しグループ、会社のグループ(愛社精神)、学校のグループ(愛校心)、国(愛国心)、
そして教会も、
内側の愛のみ語られるならば、そこは小宇宙となり、創造を見失います。

原発事故とその後の隠蔽を含む対応は、
原発を推進するグループが小宇宙であり、
その世界の外側へ開かれることがないために起こったと言うこともできます。

私たちは、
それぞれのグループの外へ向かう愛を、
実は神の創造において頂きます。

それはいつでも新たな出会いが中心となります。
つまり神の創造とは、出会いなのです。


覚えて祈ることのできる恵み

2011年05月01日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「覚えて祈ることのできる恵み」

東日本の地震と津波、原発事故から一ヵ月半が過ぎました。
津波の被災を受けた人たちは、誰もが心身の限界を迎えています。
すぐに休まねばならないくらい疲労しています。
原発事故は伝わる情報の信頼性すら確保できず、収束する見通しが立っていません。

そこで教会、キリスト者は何ができるのでしょう。

私は、亡くなられた方と、生き延びつつも苦難にある方とを覚えて祈ることだろうと思っています。
それもできたら名前を呼んで祈ることです。
もし亡くなった方や被災者に知り合いがいるならば、その方の名を挙げつつ祈りましょう。
また知り合いでなくても、新聞などで名前を知ったなら、その名前を挙げつつ祈りましょう。

私たちがそれをするのは、主イエスが、私たちに求めるだろうからです。
被災地で亡くなられた方と一緒に主イエスは十字架で死にました。
被災地で苦しむ方と共に主イエスは十字架で苦しんでいます。
その十字架に向かう直前に、
主イエスは、ゲッセマネで、血の涙を流しつつ祈られました。
同時に疲れのため眠っていた弟子たちに、祈るよう求めました。

私たちも、亡くなられた方、苦難にある方を覚えずに眠ってしまうかも知れません。
でも主イエスは、そんな私たちに見捨てるのではなく、
なお愛し信頼して、祈ろう!と言います。

だから祈ります。

そして十字架の主イエスのために祈るということは、
主と共に亡くなられ、また苦しまれている一人ひとりの名を挙げて祈ることに違いありません。

私が多少しつこいほどに
教会員名簿やそれぞれのアドレス帳を見ながら、
そこに記されている名前を呼んで顔を思い浮かべて祈ろう!
と呼びかけていることは、
私たちに与えられている大きな恵みを生かしきろう!
ということに他なりません。

そしてこの互いの祈りあいが起こるならば、
教会とキリスト者は間違いなく命を得ます。
地域と他者の命に役立つ教会、キリスト者になります。
開かれ、愛にあふれます。

さらにこの具体的に覚える祈りから、
具体的な死者の弔いと苦難者への寄り添いが起こります。

この祈りから教会の交わり、礼拝、祈祷会、教会学校、各会の交わりが本物となります。
 
私たち京都教会は祈ります。