今週の週報巻頭メッセージです。
****************
「希望の中身」
先週のこの場所で私たちは、
私たちに今必要なのは希望であることを分かち合った。
希望が今の私たちに飛び込んでくる。
地震と津波で破壊され絶望している人たちの只中に希望が飛び込む。
放射線の見えない被害の中で、恐怖のあまり状況に麻痺せざるを得ない人たちの只中に希望が飛び込む。
希望は十字架のキリスト。
十字架のキリストがすべてを引き受けてくださる出来事。
主が引き受けるゆえに、私たちは絶望の只中に差し込む希望の光を見る。
主が引き受けるゆえに、私たちの担う重い苦難が苦難の中身が薄れないままに、
しかし主により荷が軽くされ、私たちはその苦難を担い続けることがゆるされる。
人は苦しみを苦しみ、悲しみを悲しみ、恐れを恐れることで初めて人となる。
しかしそれらが長期化すると、私たちは本能的にそれらから逃げる。
思考、感情、感覚が停止したり、無関心になったりする。
しかしそうならずに、悲痛を背負い続けるために、希望の主は来られる。
希望の主の具体的なかたちは何か?
私はキリストの体なる交わりであると信じる。
この島では「絆」が叫ばれる。
しかしかつてから「絆」は存在する。
そこで今問われているのは「絆」の中身。
そして私たちは、「絆」の中身がキリストの体となるとき、
絶望と恐怖の只中を、キリストの体という希望にて健やかに生きることができると信じる。
キリストの体とは、互いに愛し合う群れ。
一人が苦しめばみんなで苦しむ群れ。
お付き合い程度や傷つかない程度という距離が壊され、キリストの十字架にて密着させられる群れ。
キリストの体とはそういう群れなる教会。
もし教会が交わりの距離を誤っているならば、悔い改め訂正することが、この島の絶望と恐怖の只中における希望とされるために必要なこと。
またこう表現できるかも知れない。
マルクスは、個人は死という限界がもつが、人類は永遠である、と述べた。
今私たちが個人であることは、
自分の死までの幸せのみが関心事となり、後の世代を愛さないことになり、
特に放射線問題では無責任となる。
しかしマルクスの言う人類、聖書のいうキリストの体なる交わりが永遠であるならば、
私たちはその永遠から希望を頂き、今の苦難の状況を生き抜くことがゆるされるはずだ。
だから私たちは、キリストの体とされていることを今こそ喜ぶ。
さらにキリストの体とされることを今こそ祈る。
繰り返す。
キリストの体なる交わりこそ、今のこの島の絶望と恐怖における希望。
主が私たちをキリストの体として今日も共に歩ませる。
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「希望の中身」
先週のこの場所で私たちは、
私たちに今必要なのは希望であることを分かち合った。
希望が今の私たちに飛び込んでくる。
地震と津波で破壊され絶望している人たちの只中に希望が飛び込む。
放射線の見えない被害の中で、恐怖のあまり状況に麻痺せざるを得ない人たちの只中に希望が飛び込む。
希望は十字架のキリスト。
十字架のキリストがすべてを引き受けてくださる出来事。
主が引き受けるゆえに、私たちは絶望の只中に差し込む希望の光を見る。
主が引き受けるゆえに、私たちの担う重い苦難が苦難の中身が薄れないままに、
しかし主により荷が軽くされ、私たちはその苦難を担い続けることがゆるされる。
人は苦しみを苦しみ、悲しみを悲しみ、恐れを恐れることで初めて人となる。
しかしそれらが長期化すると、私たちは本能的にそれらから逃げる。
思考、感情、感覚が停止したり、無関心になったりする。
しかしそうならずに、悲痛を背負い続けるために、希望の主は来られる。
希望の主の具体的なかたちは何か?
私はキリストの体なる交わりであると信じる。
この島では「絆」が叫ばれる。
しかしかつてから「絆」は存在する。
そこで今問われているのは「絆」の中身。
そして私たちは、「絆」の中身がキリストの体となるとき、
絶望と恐怖の只中を、キリストの体という希望にて健やかに生きることができると信じる。
キリストの体とは、互いに愛し合う群れ。
一人が苦しめばみんなで苦しむ群れ。
お付き合い程度や傷つかない程度という距離が壊され、キリストの十字架にて密着させられる群れ。
キリストの体とはそういう群れなる教会。
もし教会が交わりの距離を誤っているならば、悔い改め訂正することが、この島の絶望と恐怖の只中における希望とされるために必要なこと。
またこう表現できるかも知れない。
マルクスは、個人は死という限界がもつが、人類は永遠である、と述べた。
今私たちが個人であることは、
自分の死までの幸せのみが関心事となり、後の世代を愛さないことになり、
特に放射線問題では無責任となる。
しかしマルクスの言う人類、聖書のいうキリストの体なる交わりが永遠であるならば、
私たちはその永遠から希望を頂き、今の苦難の状況を生き抜くことがゆるされるはずだ。
だから私たちは、キリストの体とされていることを今こそ喜ぶ。
さらにキリストの体とされることを今こそ祈る。
繰り返す。
キリストの体なる交わりこそ、今のこの島の絶望と恐怖における希望。
主が私たちをキリストの体として今日も共に歩ませる。