きぼう屋

生きているから生きている

目が飛び出そうとする思想

2008年10月31日 | 「生きる」こと
本日の記事は
バザーとは関係ないのですが・・・


昨今自分自身の歩みを反省する中で
この15年くらいの間に
ゆっくりと変わっていったことがあって
それはどう表現できるのかなあ

と考えていましたが

表現を思いつきました

わたしは
目が奥に引っ込む思想から
目が飛び出そうとする思想へと
15年ほどかけて
ゆっくりと変わってきているのだと思います

でも
まだ変われない部分もあって
目が奥に引っ込む思想にふけることもあります

この調子で
目が飛び出そうとする思想へ
いやいや
鼻も口も頬も外へ外へと飛び出そうとする思想へ
変化していきたいなあと願います

すると
確実に顔もかわるだろうと思います
表情のみならず
顔のつくり
パーツのかたちもかわるのだろうと思います

もしかしたら15年前とは
相当顔が変わったのかもしれません

これからも変わることが出来るだろうと期待します


と書きましても

あんまりわかってもらえないかなあ・・・


というわけで

バザーにはぜひぜひお越しくださいませ!!!!!

イイモノだらけ!!

2008年10月30日 | 教会のこと
連日
11月3日のバザーに向けて
準備をしています

火曜日と水曜日は
頼りがいのある女性たちが
バリバリ準備をすすめまして

本日は
ヒロコちゃんが夕方来てくれて
ウチの息子たちも一緒に
準備をすすめました

今年も
例年に負けず
イイモノが揃っています
しかもたくさんあります

例年の倍の1000人が来場しても
みんな満足の買い物ができるくらいです

服やネクタイはブランドものがたくさん!
TUMORI CHISATOからNIKEのダウンまで!
カメラは1961年のCANONET!
キャラクターものとしては初代キティちゃんものがいっぱい!
ガバラのグラスはあるし
高価な焼き物はあるし
ドンジャラから人生ゲームまであるし・・・

そのどれも
子どものおこづかいで買える値段!

惣菜では
シソの実が超オススメ!
80歳のおばあちゃんの手作りです!
限定50ヶ!

各種手作りジャムは毎年人気!

ってなわけで

今年は例年以上の来場がないと
品が余ってしまいます

ぜひぜひお誘いあわせの上お越しくださいませ!!

利益は
各福祉施設の寄付に半分
教会の庭の整備に半分
用いさせていただきます!!




献品を受けて

2008年10月26日 | 教会のこと
今週の京都教会週報巻頭言です。

*******************

「献品を受けて」

さて、いよいよ本日午後は
バザーの準備をみんなで行います。
キリストと共に、仲間と共に、
奉仕したく願います。

献品が77件届きました。感謝するばかりです。
私は、献品を下さる方と少しお話することがありますが、
そのお話が、私を祈りへと導く場合があります。

それは、献げてくださった品の歴史における、
時と場所と人を
幾分か知ることによってです。

つまり献品と一緒に、
品の背景の歴史全体も頂く出来事が起こります。

とりわけ、
結婚して家を出る娘さんの品とか、
死別した夫の品とか、
廃業して捨てるに捨てられない品
という物語は、胸を打ちます。

だから私は、
その品をめぐる物語をおのずと想像します。
それはほとんど架空の物語と結果的になるのですが、
しかし、
いのちと世界を豊かにするということにおいては、
より正確な箇条書きの歴史記述よりも、
力を発揮するだろうと思います。

それは、福音の物語だと思います。

そう言える鍵は、
「献げもの」である
というところにあります。

当教会のバザーは、
リサイクルショップのように、お金と交換しているわけではありません。
一方的に献げられています。

おそらく献品して下さった方は、
そこでお金と等価交換してもらったら困るのだと思います。
それでは、その方々の背負う歴史と存在が生かされないのだと思います。

このあたりのことは言葉で表現するのはむずかしいのですが、
しかし真理です。

歴史と存在が生きる場所というのは、
一方的な献げものにより、他のものには変換されない
という
地点にあるのではないでしょうか。

私は、献品を通して、
一方的な恵み、
すなわちキリストによる罪人である私たちの引き受け
という一方的な出来事こそ、
私たちの歴史と存在を生かす!ことを
もう一度学びました。

そして、そういう一方的な恵みを受けた者は、
一方的に「献げる」者とされるところで、
なお真実に生かされるのだ!
と確認し、
主に感謝する時を持っています。

さて、今週は毎日バザーの準備ができますから、
その間に
少しでもこういう献品たちと出会っていただけたらとも願います。

祈りつつ、バザーにむけて備えましょう。


献品という思想

2008年10月24日 | 「生きる」こと
地域からのバザーへの献品は
77件になりました

感謝に耐えません

わたしは献品の持つ大きな内容を感じています
捨てることのできない品々を
しかし
お金と交換するのではなく
しかもわざわざ教会まで持ってくるという時間を割いて
提供するというのは

ひとつの倫理思想だと思います

それは昨今流行の
MOTTAINAI精神
という洗練されたものとも違うだろうと
感じています

献品を手渡されるときに
その品の物語を語ってくださる方がおられます

生活環境が変わったこと
そこには廃業も含まれます

家族が減ったこと
子どもの旅立ちや親の死があります

そういう中で
ダンボール数個分の献品を下さる方があれば
ひとつの献品を下さる方もおられます

わたしは
その品ひとつひとつが
いつ
どこで
だれと
だれに
どのように
用いられてきたか

ということを
おのずと想像します

その想像する物語は
まず間違いなく
実際の物語とは異なるわけですが
しかし
それでも
大きな狂いはないだろうと考えます

品を用いていた方が亡くなった
というときに
その亡くなった方の年齢や性別までは知るけれども
性格や生活スタイルなどは
知ることができません

でも
勝手ながらも
わたしの中で物語が語られていきます

この物語との出会いは
架空の物語との出会いは

事実を羅列する歴史教科書のような言葉から
人を知るよりも
はるかに知ることになるし
出会うことになると思います

献品の大きな内容は
そういう出会いを中心に持っています

ゆるされるならば
こういうバザーで品を見るときには

勝手な想像で大いに結構なので
その品のこれまでの歴史を
物語っていただけたらなあ
と願います

というわけで
バザーまであと10日

心よりお待ちしています

涙もろく

2008年10月22日 | 「生きる」こと
日本バプテスト連盟の
憲法改悪に反対する私たちの共同アクションニュースレターの
最新号の巻頭言

*********************

四十手前になって昨今涙もろくなっています。
映画、小説、漫画、歌や詩などに、
私の心で生きる人たちや出来事たちの反応するのが、
わかるようになってきたのかなあ、と思います。

そして彼らが私になおつながってくれることに感動して、
涙がでてきてしまいます。

だから一番大変なのは聖書を読むときです。

冗談でなく、いつも手元にタオルを用意しています。
京都教会のある男性に、
「牧師室の机にはいつもタオルがありますね。暑いですからねえ」
と言われたことがあります。
汗拭きでなく涙拭きです・・・
とは言えませんでしたが・・・。

たとえばローマ8章26節はどうしても泣くから、
読むのに覚悟が必要です。
こんなにまでして聖霊がかかわってくれることに
感動しっぱなしです。

また同じように、
現在の日本国憲法の前文と第9条を読むときも、
タオルが必要です。

私の心に住む人たちの叫び、嗚咽が、
前文と第9条の言葉に反応し、
私の精神全体を揺さぶります。

そこでは、
9条を読んでみんなが確認できるところの、
人間の限界を超えた地球規模の平和が、
さらに私なりに言うなら、
宇宙規模のキリストの平和が、
こんなにも嘆き悲しむ私たちに
なおつながってくれることに、
感動して涙を流してしまいます。

みなさんはどうでしょうか。

(日本バプテスト京都教会 大谷心基)


音の中身

2008年10月21日 | 「生きる」こと
音楽も音も好きです


オーディオってもので
音楽や音を楽しみます

ただ
オーディオの音は
自分で詰めないと
実はとんでもない音になります

こういうことは
そういう専門家のHPなどで
知っていただくとして・・・

音を詰める時に
ピアノやバイオリンやギターなどなどなど
あらゆる楽器の
生の音を想起しつつ
そのような音が出るように

機械の内部や
接続ケーブルや
機械設置方法を
細かくいじりつつ
調整します

しかし
楽器というのは
同じ楽器でも
個々それぞれけっこう異なる音を出しているので
それで調整しても
CDによっては
なんだかおかしいということもあります

しかし
この間
大変ありがたいCDがありまして

それはホームレス支援のために製作された
「ゴーイング・ホーム」という
友人の谷本仰氏を中心につくられたCDでして

そこには谷本氏の歌声とバイオリン
さらには
友人の奥田知志氏の声が入っていまして

彼らの声
谷やんのバイオリンは
何度も生で聞いていますし

声なんてものは
体が覚えているので
たいへん細かいところまで想起できます

つまり
すでにわたしの心に住んでいる二人でもあるので
その声を聞いたときに
体がどう反応するかというのが
精密にわかります

だから
CDから出てくる声を聞いて
耳だけでは
こんなもんだなあ
と思っても
体がいわばトキッとするような反応がなければ
オーディオをさらにいじります


体が反応したところで
音の詰めは終了

すると
あらゆる楽器も実に生々しく聞こえるようになりました

ポピュラーな歌い手の声も
実はこういう声だったんだあ
と再発見したりします

テレビからの声とはぜんぜん違ったりします

というわけで


といいますか
声の表情というのは

きわめてすぐれて精密に
記憶しているし
それこそ
他者認識であり
他者との出会いである

と確認するわけです

同じく
顔の表情や色
体のしぐさなども
精密に記憶しているし
それを生々しく再現することが



なのでありましょう


つまり
音の中身もまた



なわけです

チーム

2008年10月20日 | 「生きる」こと
これまで
いろんなチームで生きてきまして・・・

スポーツや
音楽や
平和や
福祉や
趣味や
仕事などの
チームを生きてきまして


人はチームとしてしか生きられない
と思いつつ

しかし

もっとも大切で
絶対に欠いてはならず
実はすべてはここからしか始まらないし
ここに集約されるべき

チーム・キリスト


本当の意味で

つくることができていない

ということを反省しています



だから
宣言します

チーム・キリスト

発足にむけて
動きます

キリスト「教会」

2008年10月19日 | 「生きる」こと
今週の週報巻頭言です。

*****************

「キリスト『教会』」

いよいよバザーまで二週間。
献品はこれまでに59件届きました。
配ったチラシの50分の1になります。
びっくりする数字です。
感謝です。

さて、バザーの目的は、
「福音を伝える」ことと
「神の愛による交わりを得る」ことです
(2003年当教会発行「バザーをつくる!」より)。

実は後者は前者に含まれることですが、
あえて独立させています。
前者のみだと、
本来「福音」が中心に持つ「交わり」の出来事を、
私たちは、
現代の思想感覚の中で、見失いがちだからです。

バザーは、
教会の交わりを、集まるみんなに見てもらう場です。
それは共に奉仕する寄り添いネット、NA,AAのみなさん、
ときどき教会に来られる方で、でもバザーのお手伝いは毎年してくださるみなさんなどに、
まず身近に見てもらえます。
さらに、買い物にくる大人と子どもが、
交わりを見て心あたたかくなる経験ができたら
どんなに嬉しいでしょうか。

だから真剣に祈ります。
神の愛が充満する交わりを経験できるように。
キリストが共におられることを確信できるように。

さて、
バザーには今年も止揚学園のみなさんが来てくださいます。
例年「交わり」を体現してくださり感謝に耐えません。

以前
止揚学園を教会のみんなで訪ねたとき、
福井理事長が語られました。
「止揚学園は、キリスト教精神による施設ではなく、キリスト教施設です」。

この言葉の意味するものは大きすぎるほどです。
歴史、思想を丁寧に学び、
さらに現場から問う中で、
はじめてうまれる言葉であろうとも思います。

つまり福井先生は、
神さまは「精神」以上に「信仰」を、
それはつまり、「内面」以上に、
それよりはるかに広い外側、つまり他者、世界があるからこその「交わり」を、
その具体的で不可欠なものとして「教会」を、
私たちに与えてくださっている!
という事実を
見失ってはならない!
というみ言葉を語ったのだろうと思います。

バプテストの学校、
西南学院の寺園喜基院長より、
新しい著書を頂きました。
それは院長による学院広報誌巻頭言や、
入学式、卒業式挨拶などが収録されたものです。
学びつつ楽しく読ませて頂きました。

そこには通奏低音がありました。
それは「教会」です。
直接表現はなされていませんが、
「交わり」という大前提のない文はひとつもありません。
さらに言うなら、
キリストを語るときは、「交わり」を受ける、
ということでもあります。

つまり、西南学院というミッションスクールは、
キリスト「精神」ではなく、キリストそのもの、
つまり「教会」を中心に置くことを死守しているわけです。

これはクリスチャンの学院関係者の多くが
具体的に教会の交わりに責任的に生きていることからもうかがえます。

このことは
日本バプテスト医療団と深い関係にある私たちの指針ともなります。
私たちは医療団にかかわるクリスチャンが、
具体的な教会を責任的に負うことにこそ、
「精神」を超えた「キリスト」の力が
医療団に充満することを、知るのだと思います。

また医療団のある地に立つ教会は、
「精神」でなく「キリストそのもの」を
生々しく受けている教会であるからして、
「交わり」が生々しくまた深い「教会」であり続ける必要があります。

「精神」は時代と共に廃れます。
「教会」は永遠に存続します。

キリスト施設も、
どこに立つかで、廃れもするし存続もすると思います。

さらに、実は教会もまた、
「精神」に立つのみとなると廃れるし、
「交わり」を担うと、そこでこそ永遠の命となります。

今の時代、
「精神」でキリスト「教」を求める人はあまりいないと思います。
巷には、
「精神=内面」を語るわかりやすい言葉が、
(わかりやすい=ただしい、ということではありませんが)
氾濫しているからです。

でも
「交わり」としてキリスト「教会」を求める人は、
必ずたくさんいるはずです。
孤独という病理が地球規模ではびこっている時代だからです。

だから、
わたしたちはバザーをします。
ぜひ共に。


愛します宣言

2008年10月16日 | 教会のこと
今朝はバプテスト病院と看護学校の
礼拝説教を担いました

病院スタッフへの説教は
有名な「善きサマリア人」の物語からのおはなし

「律法とは何か」

「隣人は誰か」
というふたつの問いの
本質が同じであり
両方でひとつである
というおはなし

世界とは何か
国とは何か
政治とは何か
教会とは何か
牧師とは何か
信徒とは何か
福音とは何か
信仰とは何か
神とは何か
病院とは何か
医者とは何か
医療とは何か
看護とは何か
生とは何か
死とは何か

これらについて
ぼくらは延々と議論を積み重ねているし
積み重ねなければならないわけですが

しかし
これだけでは実はまったくなにも生み出さないのです

生み出さないから
昨今は
「何か」に加えて「どうやって(HOW TO)」
という問いでもって解決したくなっている世の中ですが
でも
そうしたとて
なにも生み出さないのです

ぼくらは
「隣人とは誰か」
という問いを苦手とするから
言葉の響きとしても
次のもののなかに違和感を覚えるものがでてきます


しかし問わねばならないわけです

世界とは誰か
国とは誰か
政治とは誰か
教会とは誰か
牧師とは誰か
信徒とは誰か
福音とは誰か
信仰とは誰か
神とは誰か
病院とは誰か
医者とは誰か
医療とは誰か
看護とは誰か
生とは誰か
死とは誰か


死とは誰か
と問われるならば
ぼくらは
出会っている具体的な名前と顔とを想起するしかありません

その名前と顔の前で沈黙し絶句するしかありません

「何か」と問うときに言葉が多くなるのとは対照的に
「誰か」という問いは言葉を奪い取ります

ただ名前と顔の前で沈黙し
祈ります

これがみ言葉の前でしずまることでもあります

「誰か」
という問いが言語の響きとしてフィットするくらい
当然のこととなることを願いつつ・・・

というおはなし


看護学校の学生たちへの礼拝説教は
「人にして欲しいことを人にしなさい」
というイエスの言葉のおはなし

この言葉は聖書に触れていなくとも
ほぼみんなが
親や先生や先輩や友人などからいただいている言葉

しかしイエスはさらに
「愛してくれる人を愛しからってそれに何の意味があるの?」
「善いことをしてくれる人に善いことをしたからって何の意味があるの?」
と加えます。

つまり
「人にして欲しいことを人にする」
ということは
「愛してくれない人を愛する」
「善いことをしてくれない人に善いことをする」
というとんでもない命令なわけです

さて
我が家の近くの商店街が
「街に愛される商店街」
を一つの指標としていました

この手のことばはよく聞きます
「世界に愛される企業になろう」
「お客様に愛される店になろう」
「地域に愛される教会になろう」
「地域に愛される病院になろう」

つまりいくらでもでてくるのでキリがないわけですが
これつまり
今のわたしたちが
「愛されたい症候群」
になっているということだろうと思います

でも思います
思い切って
イエスの言うような方向に転換したらどうだろう!って

つまり
「我々商店街は街を愛します!」
「我々商店はお客さまを愛します!」
「我々教会は地域を愛します!」
「我々病院は地域を愛します!」

つまり
「愛されたい症候群」
から
「愛します宣言」
への転換が必要ではないかと思います

すると
「愛します」っていってくれるところには
人が集まるのではないかとも思います

身近な友人や先生に対してもそうです
愛されていない
気にかけてもらっていない
覚えてもらっていない
というのはとても苦しく悲しくさみしいことですが

でも
そんなときこそ
相手がこちらをどう思っているかということは問わず
端的に
「あんたはどう思っているかにかかわらずわたしは愛します」
と決断して宣言したら
その後の展開は大きく違ってくるはずです

「愛します宣言」
という
「人にして欲しいことを人にしなさい」
を生きていきたいものです

というおはなし

感謝

2008年10月15日 | 「生きる」こと
嬉しいことが続いております

教会ではバザーやクリスマスのことを
わきあいあいと楽しく話し合い準備することができています
教会の仲間のこの積極さが教会を明るくしてくれていることに
感謝するばかりです。

今思うと
赴任当時のどんよりとした暗さは
この逆のことに積極的だったということなのだろうと
今だからわかります

当教会における歴史の最重要な事柄は
手話言語による信仰の交わりの形成ですが

20代の若者が
手話を積極的に学びはじめてくれて
通訳の奉仕も少しづつしてくれるのは
嬉しいというわたしの感情をはるかに超えた
キリストの喜びであることを信じます

これで20代と30代の手話通訳者が起こされたことになり
昨年天に召されたYさんの信仰が
まさに信仰が
そう信仰に生きるならばその信仰はかならず継承されるのですが
キリストによりしっかりと継承された
と信じることしかできません
嬉しくてたまりません

昨日までは
関西の牧師たちの修養会でしたが
ここでの交わりと分かち合いも
深いものでした

関西に来て驚いたのは
議論が極めて原理的で論理になっていない
ということでした

でも
不思議とそういう原理的な議論が無視されるかのように
実際に関西全体の教会の動きが与えられていきました

このあたりは
わたしの「社会」の動きについての考察を深めてくれている
ひとつの現象でもあります

しかし
ここにきて原理でもって手続きが支配され
関西の運動とそれに伴う金(活動費)の動きが
変化してきています
これはもちろん好ましくない方向にです

でも
昨日までの修養会では
原理でなく論理が語られました
脳みそでなく身体全体で語られていました

これは面白い傾向だと思いました

原理で運動を獲得したいほうも無意識ならば
それを無意識に感じて論理を組み立てるということも起こる
というのは

関西のバプテストが健康であるひとつの証拠だと思います

数字では決して表せない健康さです

だからこれまた嬉しくてなりません


さて京都では
現市長の門川さんが
その前の教育委員長時代に
とくにお金にかんしてとってもずるく悪いことをしていたことが
(自分のいうことを聞く教師に公費からお金をあげていました)
どんどんばれてきまして
地裁でも高裁でも
金を返すようにという判決が出まして
これまた嬉しいわけです

彼は
京都のタウンミーティングでのやらせでも負けるでしょうし
選挙のときに教育委員会のお金で自分の本を配るということをしたことでも
いずれ負けるでしょうし
上記の裁判も負けていますし

彼が悪人だとは思いませんが
こういうずるさはいけないのだということが
社会でしっかりと確認されるのは
大切だろうと思います


小学生の息子たちは
今日まで秋休みで
3人で自転車で鴨川を南方向に遊びに行っています
四男のために京都駅で新幹線の写真をとってくる
と意気込んでおりました

ひるごはんも3人でどこかで食べるのだそうです
だからそのお金を渡そうとしたら
自分たちの小遣いで食べるからいい!
ということで
なんともたのもしく嬉しいわけです


バザーの献品ももうしわけないくらい地域のみなさまから頂戴しております
すでにご寄付くださった方が50件となりました

心からお礼申し上げます



嬉しいことがたくさんあるなかでも
最近Oさんのお母さまが(たいへん高齢な方です)
礼拝にご参加くださるのですが
私どもを覚えてくださって
丁寧に手作りしてくださった折り紙などをプレゼントしてくださり
お母さまが費やしてくださった時間というか
物語に
涙があふれてきてしまいます

感謝に耐えません


また今晩の祈祷会は
以前当教会のメンバーだったさやかちゃんが来てくれて
チェロによる讃美の証をしてくれます
実はわたし
つい先日
東京への出張の帰りに
とある教会堂で
彼女のチェロ演奏を独り占めするという恵みをいただいてしまっておりますが

京都からドイツに旅立ち
日本に帰って東京でプロとして活躍されているわけですが

それはそれは
かつて京都にいたときももちろんすでにすごかったのですが
さらにさらに表現できないすごさが演奏から伝わりました

ご本人は素人からこんなん言われても困ると思いますが
しかししかし

嬉しくてたまらないわけです

とまあ
こんな感じのこのごろです

ではでは


単純なでかいミス

2008年10月13日 | 教会のこと
教会では週報を毎週発行しています
基本的にわたしがつくります

週報には当然ですが日付とナンバーが入ります

そして
わたし

10年目にして
はじめて
その日付とナンバーを間違えて発行してしまいました

先週のままで
直さずに印刷してしまいました

実は週報の中身では
毎週いくつかの間違いがあり
それに関しては
教会のメンバーは
宝探しをするように楽しんでくださるという
心の広さと温かさでもって
応じてくださっていますが


今回も
そのように応じてくださるわけですが

しかししかし
日付などを確認しないままに印刷してしまった
ということは
なんとも
大失態であります

ほんと申し訳なくお詫びする次第です

わたしも
自分自身にショックを受けております



これは真実でありますが
牧師というのは
教会に育てられますなあ

感謝に耐えません


今後ともよろしくおねがいするばかりなのであります

バザーへの献品募集中

2008年10月09日 | 教会のこと
今年も11月3日(休・月)に
教会のバザーがあります

例年500人以上が来場してくれるバザー
今年も家族そろってきてくださいませ

着々と準備が進んでおります

案内チラシが完成しました
また地域に配布させていただきます


8月24日に
新教会案内と一緒に
バザーの献品のお願いチラシを
地域に配布させていただきました

約2800件ほど配布しました


そのチラシを見て
献品をくださった方が
これまでに36件

100件に1件以上が
献品を下さったということになります

これはすごいことだなあ
と驚嘆しております

感謝に耐えません


さて
まだまだ献品受付中です
11月2日まで受け付けております

ご家庭で眠っているもの余っているものを
ぜひぜひ
ご寄付くださいませ

バザーの利益は
例年
そのすべてを福祉施設等に献金させていただいております


今年は
半分を各施設への献金
半分を教会の庭の整備
に使用させていただきたくねがっております

教会の庭は
実は教会関係者が利用するのとおなじだけ
教会を会場とする福祉活動関係者が利用しております


というわけで

献品をぜひぜひお願いいたします

自分を愛するように

2008年10月05日 | 教会のこと
今週の教会週報巻頭言です。


****************

「自分を愛するように」

大阪のビデオ店火災で、15名が亡くなりました。
このビデオ店は、安く寝泊りができるということで、
実質的には、宿泊所だったようです。

昨今、ネットカフェ難民という言葉が生まれましたが、
ビデオ店で寝泊りする難民、
つまりホームレス、ないしその予備軍も確実にいます。

今回の死者の中に、
ホームレス、あるいはホームレス予備軍と呼ばれる方々が必ずいたことは、
支援活動経験からわかります。

30年前には、
貧困地域の家屋と街は
火事が起こったら、消防車が入ることができず、大惨事になる
という問題を、
京都でも大きなテーマとしていたようですが、

今でも、貧困に苦しむ者は、
あのアメリカのハリケーン「カトリーナ」が、
貧困地域の人々を飲み込んだことからも分かるように、
災害に遭う可能性が極端に高いのです。

まずは、その事実を噛み締めつつ、
主イエスがそういう場所にこそ、
先立って行かれていることを、
聖書から素直に頂きたく願います。

さて、もうひとつ分かち合いたいことは、
今回の火災は、放火によるもの、
それも、自分を殺すための放火によるものであった
ということです。

ある男性が、自らのかかえる困窮で自暴自棄となり、
火をつけたものの、自分は怖くなり逃げて、
身代わりに15名が亡くなった
と言うこともできる火災でした。

わたしはここに、
現在の地球全体を覆う人間の本性を見ます。

それは、
本当は自分を殺したいくらい、
自分自身の困窮が深いけれども、
そこで自分の代わりに、
まさに身代わりに
他者を殺すという本性です。

記憶に新しい秋葉原の事件もそうですし、
家族内などの身近なところで起こる暴力的行為(言動や感情も含む)もそうなのだと思います。

戦争もそうかもしれません。
破綻が見えている国が、
自暴自棄になって、他国を破綻させるというところで、
「身代わり」を求めているのかも知れません。

人間はその本性として
無意識にも「身代わり」を求めるのではないでしょうか。

さて、ここでキリスト教会の交わりは、
あの有名な主イエスの言葉を分かち合わねばなりません。
それは「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」という
決定的に大切な言葉です。

私たちは、
自分を嫌うときは、その代わり他者を嫌い、
自分を殺したいときは、代わりに他者を殺してしまいます。

また自分を演技する人は、他者との関係も演技(せいぜいお付き合い)となることでしょう。

しかし、自分を愛することがゆるされるならば、
実は、自分を愛するということにはならず、
自分を愛する代わりに、他者を愛するのだろうと思います。
しかも
それは具体的な行動になると思います。

つまり、
自分を愛するということは、
他者を愛するという行動としてしか見えないわけです。

だから、主イエスの言う「自分を愛する」は、
自己愛(ナルシズム)とは正反対なわけです

そして、私たちが自分を愛することがゆるされるのは、
ただただ、
私たちの身代わりとして、
あらゆる罪と困窮を引き受けた主イエスが、
逆に、
主イエスの身代わりとして
私たちが愛することができる!ようにしてくれた!
という
奇跡の事件があるゆえです。

主イエスにより、自分を愛することをゆるされ、
ゆえに
もはや必然的に他者を愛する者と、
これからも共にされたく、願い祈ります。