きぼう屋

生きているから生きている

信仰の通奏低音

2015年12月30日 | 「生きる」こと
「神の名をみだりに唱えてはならない」
この戒めは十戒の土台なる禁止条項であり信仰の通奏低音。

神の名を唱えてはならないのは、神の名を唱える時に神は神ではなくなるから。
だから「ヤーウェ」を命がけで「アドナイ」と呼び変える。
否、命がけで「ヤーウェ」とは唱えない。
命がけで神の名は唱えない。

「私は有って有る者」
神はご自身をこう表現される。
英語では「I am that I am.」
神の自己紹介でもわかるのは、「名」が出てこないということ。
神は名乗っておられない。
神は「名」を持たない。
神は「名」を持つ事が出来ない。

つまり、「名」は、神を最も我々から遠ざけるものであり、
神の創造の本来を最も変質させるものだから。

でも!
人は「名」なしには聞く事も語る事も知る事も教えることもできない。
「名」なしに言葉も成立しない。

「名」により、わたしはわたしとなり、あなたはあなたとなる。
「名」により、ものごとはものごととなり、歴史は歴史となり、夢は夢となる。
と、私は考えるしかないだろう。
それ以外の認識方法をおそらく持たない。

なるほど、「名」から認識するほかない存在であるから、人はまさに罪人。

しかし!
それに依存するしかない我々であるにもかかわらず、そうではないところの、「名」を経由しない認識がある!
と、聖書を通して知る事が出来る。
それが信仰なのだろう。

我々には不可能であるにもかかわらず、しかし有って有るところの信仰がある。
だから、信仰は、強烈な緊張関係を我々に要求する。

我々は信仰ではなく「名」を土台にするしかない。
しかし神は「名」ではなく信仰を土台とすることを要求する。

「名」はイメージ。
我々は人名からその人をイメージする。
商品名から商品をイメージする。
しかも、一瞬にして認知するという業をこなす。
つまり「名」がアイデンティティとしてイメージされるということだ。
そしてこれが偶像の土台であろう。

わたしは「わたし」というアイデンティティで生きるしかないけど、
しかし、それをわたしの土台とするならば、
そのときにはわたしは偶像崇拝を証言しており、神を排除している。

わたしは「わたし」というアイデンティティで生きるしかない。
しかし!その罪を告白し続ける中で、「名」に抗いつつも生きる。
この緊張関係が備えられるなかで生きることがゆるされるのが、
信仰なのだろう。

あらゆる出来事も、あらゆる他者をも、
我々はイメージで認識することしかできないが、
そのイメージを土台としたときは、
同時に偶像崇拝をどうどうと証ししているときであり、神を排除しているときである。

我々はイメージで生きるしかない。
しかし!その罪を告白し続ける中で、「名」に抗いつつも生きる。
ここに信仰が備えられる。

信仰の緊張関係。
それは「名」というアイデンティティ、イメージ=偶像と、「名」を超越した神とのたたかいであり、それに我々が参与するよう要求される関係なのだろう。

もし、私がなんらかの共同体を理想とイメージするなら、
その共同体はすでに信仰共同体ではないのだろう。

もし、かつてと今を比較して、今に求めていたものがあると認識したとき、
それは今の状況を偶像崇拝しているのだろう。

もし、今の苦難がいつかは消えると、いつかに期待するならば、
それはいつかを偶像崇拝しているのだろう。

今の「名」のために過去を修正したり、状況を修正したりすることできる、
言い換えるならば、人間的に、極めて!人間的にいいイメージを持ちたい、持ってほしいときには、そのようなイメージづくり、イメージ操作を行うことができる。

目標設定は偶像設定と言って過言ではないだろう。
目標設定するときには、あの緊張関係を忘れないことは不可欠に違いない。

結果が出たという認識もまた偶像崇拝であろう。
神はその結果の前で、あの緊張関係のただ中で沈黙することを私に要求するのだろう。

「名」は嘘を生む
「名」は憎しみを生む
「名」は殺しを生む
「名」が偽証を生む
「名」はむさぼりを生む

一方
「名」からの超越は愛を生む

「名」を「アイデンティティ」「イメージ」と言い換えてもいいと思う。
このときの「名」は神抜きの存在となる。
「名」を「目標」「結果」と言い換えてもいい。
このときの「名」は神抜きの時間となる。

にもかかわらず!!!
「名」を超越した存在と時間に我々は生きる事がゆるされる。
我々は「名」を超越する可能性がないにもかかわらず!である!
これが信仰なのだろう。

あんなにも、聖書を書いた信仰の先輩をはじめ、いまでも多くの信仰者が命がけで神の名を唱えないのは、
偶像がどこかで崇拝されるとき、
それは一事が万事と、すでに!なっているときであるからだろう。

あの緊張関係抜きのちょっとした目標や結果崇拝があるところでは、
人への崇拝、カリスマ崇拝がすでにあり、神殺しが起こっているのだろう。


いま、ここ、という永遠の
その中心である主の十字架に
端的に集中する。
「名」は十字架にかかる。
言葉の音数少なく表現できるこの出来事は、
しかし、あらゆる言葉を尽くしても表現できるはずのない究極の出来事であり、
私はここで「名」を失い、つまり言葉を失い、沈黙するしかない。

ただただ「重みに耐えよ」という神からの要求のまえで忍耐する。

時間は計画でも目標でもない。
時間は忍耐なのだ。ここに永遠の介入がある。
存在はアイデンティティではない。
存在は罪の想起であり十字架なのだ。ここに名を超越された方の介入がある。

私は神を唱えてはならない事を知りつつ
この場でも神と何度も唱えるしかない。
神を唱えないという不可能な事柄に、
しかし、不可能だからとあきらめず、冷笑せず、命がけで取り組む。

あぁぁぁ
そろそろ終わりにしないとずっと書き続けてしまう・・・

という年末恒例の一年の想起の今年なりの抽象化なのでした。

クリスマスを味わう!「生」の変革を受ける救い!

2015年12月24日 | 「生きる」こと
今年もクリスマスが来る。
キリストの降誕を味わうことがゆるされる。

キリストは生まれた。
しかし、その「生」の根拠はない。

マリアは男性と関係を持たぬまま身ごもった。
それは、キリストの「生」には我々の知る根拠がない!ことを意味する。

キリストの誕生において、
まず明らかにされるべきは、
キリストの「生」には我々の知る「生」の根拠が通用しないということだ。

「生」の根拠がない!ということは、「生」は因果関係では語られないということだ。
過去のある二人の関係があったから「生」がある!ことを、クリスマスの恵みは超えており、その因果関係を無意味なもとさえする。

それは、時間軸の出来事を因果や目的手段で理解する我々に永遠が放り込まれるという恵みである。

そこでは「生」が目的や達成感で意味付けされるのではなく、永遠に激突され今ここにある!ことで意味付けされることが起こされる。

キリストの誕生は「生」そのものを変革する。

キリストの「生」により我々の「生」は最底辺からひっくり返される。

「生」は過去、現在、未来を生きるではなく、端的に永遠を生きるものとなる。

「生」はしたがって今ここで端的に異質なものと接触することで、その異質なものにより「生」とされる。
そこでは将来の目標は無意味なものとされる。
ただただ端的に異質なものに激突され、「生」が生まれることに集約される。
キリストの誕生は我々の「生」を異質との接触たる「生」とする。
我々の「生」は、接触した異質なものを受けることでのみ「生」となり、そのことで不安定を獲得し、不安を得、それが解消することなく、次の異質なものとの接触を受け、さらに「生」が「生」とされるなかで「生」となる。

よってキリストの誕生によって我々の「生」は、
将来の目標に向かう時間を歩むのではなく、
流れ来る時間が異質との接触における受難、受苦として端的に忍耐であるところの時間を歩む。

これはどんなにか我々のすべてを超えた救いであろうか!!!

過去が破壊された、破滅した者たちにとって、
将来が見えないどころか、将来さえ破壊されている者たちにとって、

そういう過去、将来が、キリストの誕生による「生」の変革で無意味とされるところから始まる今ここの永遠の「生」=異質が私に入り込むことの繰り返しによる「生」、その異質の中心こそがキリストである「生」、そしてそれこそ、時間が受苦として、キリストの十字架の受苦として私の「生」に入り込むという「生」こそ!!!!!!!!!!!

クリスマスの恵みであり救いなのだ!!

このクリスマスを味わう!ことがゆるされる!

沖縄慰霊の日 犠牲の連鎖がなお強くなる中で 罪人たちが生きる

2015年06月24日 | 「生きる」こと
昨日は沖縄慰霊の日

安倍総理の言葉に気が萎えます。無力感を覚えます。
悲しい。

「悲しい」では正確に表現できない身体の覚える感触が、
身体を支配してします。
怒るのだけれど、「怒る」では正確に表現できない身体からわき上がるものに、
身体が押しつぶされそうな感じです。

沖縄地上戦での死者のおかげで今の日本の繁栄があるという、
「美化」なる歴史の解釈、修正が今回も国のトップから語られました。

絶対に違います。

戦争で自分は死にたくないし、自分の財産は守りたいから、他の人に死んでもらうという、
そういう犠牲者を差し出す行為から、
戦死者が生まれるわけです。

歴史の中のほんの5年スパンほどで考えられるところの、
いわば時の流れに身を任せるかたちで、
決して歴史全体から結論を出すというものではなくて、
繰り返してしまうけど、ほんの5年くらいのスパンで自分が守られるということを考えるところの、
不思議な「平和」は、
必ず犠牲者を生みます。

そして、時が経つと、
犠牲者のおかげで今があるとして、
犠牲者を誉め称えます。

犠牲の連鎖による不思議な「平和」

国レベルで原発政策、安保体制、福島、沖縄。

そして個々人レベル、小さな共同体レベルでも、
犠牲の連鎖による、歴史なき不思議な「平和」が生活の本質になっていることは、
とても多いというか、そういう体質になっていると、
反省せざるを得ないと思っているところでして、
そのあたりが表現できない身体作用となっている気がします。

そして、前回の投稿で長くつぶやかせて頂いたことですが、
積極的に生きるという自己暗示も、
犠牲を隠すためのひとつの修正手段だろうと思っています。

不思議な「平和」は実は犠牲の連鎖のこと。
だからたぶん、本当の平和は、その逆の連鎖に生きることなのだろう。

アメリカで白人の少年が学校で黒人少年を無差別に銃で殺した事件。
そこで子を殺された親が殺した少年をゆるすと語ったとのこと。

すごいと思いました。

犠牲の連鎖を止めるのはゆるしなのだ。
そしてそこからゆるしの連鎖、愛の連鎖がはじまるのだ。
と、単純に思ったりもします。

単純には本当にそうだと思います。

10年くらい前はそういう方向転換をしたいと、がんばって訴えている私がいました。

でも、ゆるしは、わたしに本当に出来ることなのか、
人間はゆるすことができるのか、

今はそういう問いの前にいます。

ほんとうは赦すことができるのは神のみではないか。

神の赦しの前で、
十字架上であの表現できないものをすべて受け止めるゆえに苦しみきり悲しみきり殺されきり死なれたもうキリストの前で、

わたしは、ただただ、自らの罪と、
向かいきることができない、
にもかかわらず、
向かい合うことしかできないのではないか。

犠牲の連鎖の世界に生きる者として
犠牲を前にして、
その世界に堕ちきっている罪人の私をキリストの十字架の前に差し出すしかできないのでは・・・・・・・。


戦争や原発という重大問題と向き合うときに、
命の保全、自然の保全という観点から、
つまり、創造論から丁寧に考えることと同時に、

いやそれ以上に、

私たちひとりひとりの、
私たちの生活する世界の、
実は堕落した様を、そういう罪を、
そして、私たちは罪人であり、世界は罪世界であることを、
隠さず、
解釈で修正もせず、
そのままあからさまにして、
それらと向かいあうことを

わたしは、神から問われていると、強く、強く、感じ取っています。

こういうのは消極的と言われるのかもしれません。
行動的ではなく静的なものでもあります。

でも、表現できない身体の感触と身体から湧き出るものを受けつつ、
罪人である私を十字架の前に差し出すことへの挑戦へ
招かれているのではないか、
と、
問われているところです。

祈りをささげつつ。















修学旅行で故郷へ

2015年06月04日 | 「生きる」こと
次男君。10日前まで修学旅行でした。
京都、奈良、大阪。

で、なんと、
バスで御池通、河原町通を通ったそうで、

「ここが行ってた中学校」「ここ入ったところに住んでた」「ここのラーメンうまい」とか、
ちょっと興奮してみんなにしゃべってたとのこと。

廃校になった春日小学校にプレハブが建っていたとのことで、もしかして復活?とも言っておりました。どうなんでしょう?。

サッカーに夢中な次男くん。
とても独特な技術とリズムでサッカーをします。

クラブでサッカーを教わってきて人たちとは動き方がまったく異なるから面白いです。

これは、まさに鴨川サッカーで養ったものだなあ。

鴨川でウチの兄弟がサッカーを毎日しておりましたら、
そこにご近所の子たちが交ざりだし、
鴨川を散歩しているお兄さんたちも交ざりだし、
さらには親御さんも交ざりだし、
いつの間にか、
いろんな年齢層が集まってサッカーをするようになってました。

狭い河原で、当時小学生の次男君は大きなお兄ちゃんを抜くために、
また、パスやトラップでミスすると鴨川にボールが落ちてびしょびしょになって取りにいくというわけだから、
そうならないパスやトラップをするために、
独特の技術、リズムを発見していったのだと思います。

彼は今でもシュートを強く打たなかったりします。
さっとコースを見つけてさらぁーと流し込む感じです。

鴨川を久しぶりに眺めた次男くん。
いい顔してます。

実は長男君が、
今、小倉南の友人宅近くの公園で、
高校の友人たちと
あの鴨川サッカーのようなことをしています。
月に二回ほどやっているのですが、
いろんな人が加わっていくそうです。

ときどき小4の四男くんを連れて行ってくれたりもします。

私もときどきお兄ちゃんたちとボールを蹴りますが、
先日、無回転のボールを蹴る練習をしていましたら、股関節を痛めまして、太もも内側が内出血しましたので、たぶんじん帯をすこしばかり損傷したみたいなのですが、
もう数年はボールを蹴りたいので、シェイプアップしようかと思っているところです。
と思って坂道ダッシュをしたら、再び股関節を痛めました。
でも、内出血はようやくおさまってまいりましたから
そろそろ、のんびりと、はじめようかと思っております。

修学旅行の話と言うか、サッカーの話になってしましまして。。。


運動会でした。

2015年06月02日 | 「生きる」こと
この前の日曜日は我が家の小学生たちの運動会でした。

でも私の中では、運動会は、体操服の胸に紅白の名札をまつり縫いするところから、すでに始まっておりましたよ。

裁縫も楽しい。料理をはじめとしてあらゆる家事は私のリラックスポイントになっております。


がんがん雨の予報だったけど、末娘のてるてる坊主のおかげでしょうか、見事に晴れました。暑すぎて困るほど。

みんなで弁当のメニューを考えて、当日は4時起きで作ります。
ハンバーグ、若鶏のチューリップの唐揚げ、ステーキ、かぼちゃの煮物、フライドポテト、出し巻き卵、枝豆、グラタン、フルーツ
卵とポテトがちょっと塩が強かったかなあ。でも炎天下でがんばる子たちにはちょうどよかったようでもありまして。

ほんとは、おやじの会が6時45分に集合して、場所取りなどのリードをするので、そこから参加したかったのですが、
弁当が間に合わず、ごめんなさい。
ということで、8時にようやく中学生以上のお兄ちゃんたちと小学校に着いたら、
すでに校庭はキャンプ場。
テントが張り巡らされて場所がありません。
が、
うまいこと、旗のポール下が空いてまして、
しかもそこはちょうどベンチにようにもなっていまして、
そこを我が家の空間といたしました。

で、

開会直前に、なんと、

先生たちが円陣を組んで気合いを入れてまして。

末娘の入学式のときから感じてはいましたが、先生たちにチーム感があってなかなか好きです。

ウチはなぜかみんな足が速くて、兄弟みんながリレーの選手に選ばれるのですが、
一年生の末娘も、選ばれました。
でも、練習で一回も勝てない人がいるということで、運動会前は、本人かなりショックを受けておりました。
保育園時代はかけっこも跳び箱も鉄棒も誰よりも出来ていたから、そういうものと思っていたみたいです。

で、リレーの一番手として走りますが、
彼女としてははじめて経験する最下位でバトンを渡しました。

が、本人は本番ではもはやすっきりしていまして、
来年はもっと早くなるために、長男くんから走り方を教えてもらうと言っております。

で、

そんなさわやかな末娘とは対照的に

わたしは、

彼女のは知る姿を見て号泣。

もうこんなに大きくなったんだなあと、こみあげてきてしまいました。
お兄ちゃんたちは、こんな私に慣れているので、またか、という感じでしたが・・・。

閉会してからは、お兄ちゃんたちとテントの片付けまで残りまして、
先生たちと残られた親御さんたちとお茶で乾杯して、

帰りました。

またまた日焼けしました。

このかん、釣りや次男くんのサッカー応援ですでに焼けているのですが、さらに。

で、
実は
四男くんはリレーに出ませんでした。

これまでは、有無を言わさず、先生が、速い人順でリレーの選手を選んでいたのですが、
今年の担任は、まず、リレーに出たい人を募集したそうです。
で、
四男くん、
「もういいかなあと思ったんだよね」
と、手を挙げなかったとのことで。

なんか彼らしいのでした。

彼のダンス、その中での側転、かっこよかったです。

彼も末娘も、ずっと笑顔で、すてきでした。

お兄ちゃんたちも、カメラにビデオを手に走り回ってくれまして、ありがたいかぎりでございました。

小学校の運動会はあと5回もあります。へへ、いいでしょう!。






新しい時代の新しい年の新しい教会

2012年01月10日 | 「生きる」こと
今週の週報巻頭エッセイです。


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「新しい時代の新しい年の新しい教会」

まずはじめにお詫びを。
皆様からのお年賀を心より感謝いたします。
同時に、我が家の2010クリスマスカード&2011賀状によるご挨拶が、
例年通り大幅に遅れておりますことをお詫びいたします。
また、年始から我が家全員がインフルエンザとなり、
最初の祈祷会をはじめ活動できずご心配をおかけしたことを重ねてお詫びいたします。
風邪など流行っておりますので、皆様の心と体が整えられるようお祈りいたします。

さて、恐らくほぼ毎年「新しい時代」の到来が叫ばれているかと思われますが、
しかし、現在は本当に新しい時代の幕開けを迎えていると思います。

それは、地球規模において、
これまでの経済システムに依存した生活スタイルが破綻しており、
その代替システムは提案されていないという時代です。

大変な時代です。
しかし私は悪い時代とは考えません。

経済システムにおける生活は、実は必ず搾取される者を生み出してきました。
日本国内では、搾取されている者がほとんど見えない時代が続き、
みんなが利益を平等に得るために法や施策が整ってきました。
しかしその一方で、国内では在日外国人や日雇い労働者、
国外ではアジアやアフリカの多くの国の市民が、搾取され続け、酷い環境での労働を強いられています。
そして今、このシステム維持のためにもっと多くの人々から搾取せねばならず、
日本ではその搾取対象に若者たちが加わったわけです。

ということは、
現システムの恩恵を受けている現在の年齢の高い半分の人たちが死を迎えると同時に、
誰も恩恵を受けなくなることがわかっており、
となると、
年齢の低い半分の人たちは、
生きるために新しい世界を共に創るしか手がない時代を迎えたということです。

だから、
誰も搾取されず、いじめられず、共に分かち合いつつ生きる世界を、
そういう神の国というヴィジョンを既にいただいている教会、つまりキリストに感動している者たちは、
率先して具体的に創り出しつつ生きるよう召されてはいないでしょうか。

まずは、教会共同体を本当の意味でキリストの体として創りあげるのがこの時代のミッションです。
このミッションは案外単純です。
聖書のままに生きることです。
それは、キリストに愛され、支えられ、ささげられている者として、
キリストの体なる教会の交わりを愛し、支え、ささげつつ生き、
同時に、この世界でとりわけ苦難にある者を愛し、支え、その者にささげつつ生きるということです。

ここでは、
キリスト、教会、世界のみっつが切り離されて、ひとつひとつ別々に理解されることが絶対にゆるされず、
まとめて一気に認識され行動されることのみが求められます。

聖書に生きる時代を創る教会とされていきたいと願います。

年末年始 我らキリスト家族なのだ

2011年12月31日 | 「生きる」こと
ピアソラをずっと聞いていて急にドキッとする。
震災以降、ピアソラの曲が体を重たくしすぎて動けなくなるから聞けていなかったのに、
なぜか今晩は聞き続けている。

無意識にも、苦難が私の体から去ったゆえのことなのか。
それとも同じく無意識にも、苦難が去らないために、ピアソラを聞いていたのか。
はたまた苦難を負う体力がこれまたいつの間にかついていて、ピアソラを聞く体力もついたということか。

よくわからない。

でもピアソラを聞いている。

明日の週報の祈りのきずな欄には、
帰省され家族と交わることのできるゆえに、
帰省先の礼拝に出席されたり、礼拝をお休みされる方の名前が連なっている。
それぞれの交わりを切に祈る。

と、同時に、
その欄に「年末年始を一人で過ごす仲間を特に覚えてお祈りを」と書いた。
というか、勝手に手がキーをたたいていた。

大晦日の本日。
いつもより参加者が少ない中、
家族のいない方が礼拝準備と清掃に来てくれた。
ウチの子の面倒も夕方まで見てくれた。
家族はあるが、交わりを持つ状況でない子どもも早朝から来ていた。

 
311以後を生きるゆえだろう。
例年以上に年末年始を家族と過ごすことのない方を覚える。

例年元旦礼拝後に、
年始を一人で過ごす方と一緒に、
教会から5分のところにある、
5歳からひとりで礼拝に通い、昨年高2でバプテスマを受けたサオリちゃんの実家のケーキ屋兼喫茶店にて、
昼食とケーキをいただく。
ささやかな私からのお年玉。

しかし忘れられない風景がある。
連盟の少年少女隣人と出会う旅に参加のため、
元日夜に会場である東八幡教会に到着したら、
奥田牧師宅では教会員があつまり宴を楽しんでいた風景。

ウチの教会は集まる家族のない者で集まるが、
東八幡教会はそもそも血縁家族を超えて教会家族が共に新年を迎えていたのだ。

今年は天に召された親戚があり、
2日には私も帰省することになった.
しかし、311以後の時代が始まった今、どこかで突破せねばならないと強く思う。

来年の年末年始には、
教会家族として集まることができるようすることは、
もはやこの時代の牧師の役割であると思った。
東八幡教会の真似でもいいだろう。

同時に、
牧師は、年末年始を血縁家族のみと過ごしてはいけないと思った。
これは主イエスが福音書にて述べていることに反している。
せめて牧師くらいは実践せねば。

以前にホームレス支援におけるアンケートから、
年末年始が一番さみしい、という結果を得ているし、
年末年始に死にたくなるというコメントもいただいている。

なのに、ずっとなんだか中途半端だった。

いかんいかん。

我らキリスト家族なのだ。


激感動クリスマスカード

2011年12月27日 | 「生きる」こと
昨日四男くんが保育園のおともだちからいただいたクリスマスカードを、
今朝も感動しながらじっくりと見てしまいました。

皮膚のすみずみがうれしく反応します。

ひっくりかえっている平仮名がまじりながら
丁寧なメッセージが描かれています。
折り紙で切られた独特の模様が貼られています。
仮面ライダーと、
なんと
「日本でさいだいのアブ、メスアカオオムシヒキ」が、紙面いっぱいに描かれています。

ウチの四男のことをとっても好いてくれているんだなあって
よーくわかります。

とてもありがたいです。

相手に喜んでほしいとき、
この年代は、自分が喜ぶものをそのまま贈るのだろうなあと思いました。
自分が最高に喜べる日本最大のアブの絵をうきうきしながら描くわけです。

もしこの年代に、変に相手の好きなものを詮索していたら、
このダイナミックな感動的なカードにはならないでしょうし、
そういう子どもは少しこわい感じもします。
それは経験を積む中で、
少しずつ相手の好みにあわせて贈るというスキルが得られるというものでしょうが、
これは相当高度なスキルだと思います。

そして大人でもこのスキルは二の次だと思ったりします。
一義的のものは、相手に喜んでいただきたいという思いだと思います。
愛だと思います。

ウチの子たちでもそうですし、
教会の子たちでもそうですし、
私の幼き日の経験でもそうなのですが、

この年代は、
自分のもっとも好きな人形などおもちゃをあげる、あるいは貸す、ということにおいて
相手への愛を表現するわけです。
とにかくよろこんでいただきたいわけです。

だから
「日本さいだいのアブ」は涙もんなのです。

かみさま
この子たちが
一生の友だちとなりますように

アアメン




「グローバル化と21世紀の宣教」のための提言

2011年12月02日 | 「生きる」こと
2009年に広島で開催された宣教シンポジウム資料として書いたものです。
311以後にもう一度読みたいと思いました。

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日本バプテスト連盟中長期計画に向けての提言

ホームレス支援特別委員会
委員長(当時) 大谷心基(日本バプテスト京都教会牧師)



1) はじめに

 現代の世界システムとなったグローバリゼーションの只中にある教会は、キリストに従うゆえにどういう存在としていかなる行為をすべきなのか、が、今回のシンポジウムの大きなテーマと理解する。そしてそれが日本バプテスト連盟中長期計画の中で具体化されるものと期待する。
 当委員会は、一貫して掲げる委員会理念をグローバリゼーションの世界の只中で噛み砕くかたちで今回の提言をしたい。
 そこではじめに、連盟定期総会資料に常に記している当委員会理念を確認したく願う。

<理念>
* マタイ25章31節~46節の御言葉に立つ。「主の兄弟である最も小さい者のひとり」としてのホームレスに関わることは、信仰の、そして福音宣教の課題であると考える。
* マタイ4章4節の御言葉に立つ。「ホームレス問題」は、「ホーム」ということばで表現される「関係性」「帰るべきところ」「いのちの基盤」「家族など愛し支えあう者たちのいるところ」の喪失がその本質であると考える。ホームレス問題は単なる「ハウスレス」問題ではない。「ハウス」(家)に代表される「衣・食・住」という物質的な必要を満たすとともに、教会、家族、地域、学校、職場における関係、そしてそれらの土台である神との関係を回復することこそが、課題である。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」。ホームレスのひとりひとりを含め、わたしたちのすべてが、神の口からひとりひとりに対して与えられる赦しと愛の宣言のもとで兄弟姉妹であり、家族であると理解する。

2) グローバリゼーション(余剰、搾取、格差、貧困、戦争)

 グローバリゼーションはホームレスを産み出す。システム上これは必然である。
現代の多くの思想家が言うように、グローバリゼーションの正体は余剰分の確保を競うことである。企業は世界市場の競争で勝つため資本を増加せねばならない。したがって企業は資本を拡大することに躍起になる。すると利益は資本にまわされ、労働者確保にはまわされない。また合併や買収により資本を増やす。そこでは労働者が多数解雇される。
資本は社会に還元されない端的な余剰分である。今世界には余剰がある。しかしその余剰を大きくしなければ経済競争に敗れるシステムとなぜかなってしまった。そして資本という余剰金がさらに増え、市場にまわる金が減る。
さらに余剰分増加のための搾取が起こる。余りのないところがさらに搾取される。ここで大きな格差が生まれ、貧困が拡大する。
そしてホームレスが産み出される。
実際に日本においても、このシステムを導入した小泉構造改革以降、急激にホームレスが増加した。
したがって当委員会にとって、グローバリゼーションは緊急に克服すべき世界システムである。
敬虔なカトリック信者の思想家であるジャン・リュック・ナンシーは、このようなシステムはすでに経済ではなく、あえて呼ぶなら「超」経済であり、それは経済が経済を超えて正体不明のものになったということであると分析する。この論は後の提言にも結びつくので紹介する。
さらにグローバリゼーションは戦争を生み、人を殺す。貧困を受ける者は貧困からの解放のため戦争ですべてが変わることを望み、また資本増大を目指す者は搾取の手段として戦争を歓迎する。
よって「殺すな」という戒めに立つキリスト教会にとって、またその戒めを「平和に関する信仰的宣言」として告白する当連盟諸教会・伝道所にとって、戦争を必然的に生むグローバリゼーションの克服は緊急課題である。

3) 格差、貧困と個々人

 貧困層が起こり、格差社会となった現代社会は、極論ではなく勝ち組と負け組みとで構成されるようになった。そこでは勝つための競争が起こる。さらには勝ち組となるための教育も始まった(京都市では高校の授業でマクドナルドの経営戦略を学ぶ)。
 競争は同時に分断を生む。ある個人が勝ち組となることは同時に他の個人を負け組とすることである。
 現代における貧困は、分断された個々人の貧困である。貧困に苦しむ者は、同時に分断され孤立していることに苦しむ。競争において分断され貧困となった時、人はその苦しみを共有する関係にある他者をも失っている。つまり「共に苦しむ」仲間がいない。さらには貧困となった原因を自分に見出し自己否定することで(自己責任論)、自分との関係をも失っていく。したがって当委員会は、ホームレスを「ホーム(関係性)」の「レス(喪失)」と認識する。貧困の大きなテーマのひとつは、孤立からの解放であり、関係性の回復、ホームの形成である。そして分断とのたたかいであり、人間の恢復である。
 勝ち組は苦しむことがないかと問うならば、私は勝ち組こそ決定的な苦しみを内包していると言わざるを得ない。まずは勝ち抜いた人も孤立している。「共に喜ぶ」仲間がいない(勝つことが喜びであるとは本来言うことができないが)。また競争を勝ち抜いたということは、他者を踏みつけ、他者から搾取したことであるが、それを自覚しないよう調整しつつ生きることは苦しみではなかろうか。仮にそれが無意識であったとしても。人はこういう場面でさばかれるのを待っている。そしてさばかれるゆえに存在を赦され、次こそは他者を踏みつけるのでも搾取するのでもなく、別の道を歩むことを希む。しかしそれでも同じ道を繰り返すときにはもう一度さばかれる。これが信仰である。
 勝ち組、負け組という枠組みとは関係なく、現代の格差・貧困社会の中での大きな課題は「個人」である。分断された個人とは他者と出会うことのない個人である。そこで個人はおのずと自らを世界の大きさまで肥大化することになる。先ほどナンシーの、現在の経済は「超」経済という正体不明のものとなった、という論を紹介したが、個人もまた「超」個人となり、いまや正体不明のものとなった。あるいは「超」人間と言えるかもしれない。すなわち、今われわれは人間であることを止めて、人間を超えようとしている。これこそ、自分自身の、あるいは個人の偶像化、つまり人間の神化ではなかろうか。そしてそれは個人が世界になるはずのないところで、世界となろうとする不思議な挑戦である。しかしその挑戦に生きる者は自身が世界全体となる幻想を抱く。そこではアイデンティティが肥大化する。その現象は、個人主義と信じつつ国家やなんらかの力と自身を一体化させるかたちで現われる。平たく言うと長いものに巻かれることが個人主義を信じるゆえに起こる。個は他者との出会いからのみ起こされるが、他者との分断からは起こされ得ない。他者と共に生きる中で個人は個人とされるが、分断される中では個人は「超」人間という肥大化した幻想体となる。そしてその幻想体はそれぞれの時代地域の中で最も大きな力と必ず結びつく。つまりそれにより自身が最も肥大化できるからだ。そしてこの個人という名の「超」人間が「超」経済というグローバリゼーションを産み出した。
 
4) 今日キリスト教会とは何者か

 日本バプテスト連盟は教会教育において「生の全領域」という範囲を大切にしてきた。この徹底が今後さらに必要と考える。教会と私生活、福音と社会、信仰と行為、精神と身体というような二元論は、生の全領域が語られる場では居場所を持たない。我々は二元論から解放される。
 その中で個人と全体という二元論は克服されねばならないことを前述した。個人は容易に全体となり、全体は同じく個人となる。つまりこのふたつは異なるどころか同質である。ならば我々は今何を問うべきか。それは個人だろうと全体だろうと、他者と共にあるか、他者と分断されているか、である。
 個のアイデンティティが確立して初めて他者と出会うことができるというのは嘘である。我々は他者と出会うことで個が確立する。乳児は親や兄弟と出会うことから個を確立する。キリスト者は他者なるキリストと出会うことから個を確立する。
 しかし個のアイデンティティ確立を最初の作業と信じるケースは多い。しかしそこから解放されねばならない。繰り返すが他者と出会うことのない個のアイデンティティは永遠に肥大化する。これは究極の偶像礼拝である。さらにその個人は余剰分を確保することで肥大化する。キリスト者がその状態になるときには次の現象が起こる。それは自身の時間的余剰ができて初めて礼拝出席と奉仕をなし、金銭的余剰ができて初めて献金をするということである。ここで一番目に余剰分、二番目にキリストという順序が起こる。すると第一の他者であるキリストとの出会いが余剰分で行われるゆえに、同時代に生きる他者との出会いも余剰分で行う。隣人愛は余剰分があるときのみのテーマとなる。これが偶像礼拝の引き起こす現象である。
 そして私たちは今日の教会にこの要素が程度は異なれへばり付くことを否定できない。教会が個人の余剰分あっての教会となっている部分は大きい。しかしそれはキリスト教会ではなくグローバリゼーションに生きることであり、同時にキリストではなく余剰分に従うことであり、さらには搾取と格差、貧困と戦争に協力することとなる。
 我々は今覚悟を決めてキリストへ従う方向へ向き直さねばならない。それは各個の確立ではなく、第一の他者であるキリストと出会うゆえの、同時代の具体的他者との出会いによる双方の確立という方向である。

 それをキリスト教会は「共に生きる」という言葉で大切にしている。この徹底も欠かせない。共に生きることは単純なイメージではなく具体的な行為である。当委員会が理念とするマタイ25章から学ぶならば、それは、飢えていたときに食べさせ、のどが乾いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねる、という具体的な行為である。
 我々諸教会・伝道所は具体的な宣教施策として以上の事柄を持つだろうか。また持たなくともそのような者があらわれたときに我々はどうするか。教会には余剰分がないためにかかわることができないという論を正当化するだろうか。もしそうならば教会は変えられねばならない。そのような他者との出会いからこそ教会は教会となるという事実を生きねばならない。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という主イエスの言葉は事実である。この件に関してはこの提言の最後に具体的な提案をしたく願う。

 このようなかかわりが「共に生きる」ということである。そしてここから各個が確立する。
 しかしかかわるから各個が確立するということでもない。かかわるなかで我々が知ることになり、知らされるしかない事柄があるから各個が確立する。それは主イエス・キリストの十字架である。十字架はどこに立ち、キリストはどこで釘打たれているのか。それは他者とかかわりつつも、限界ゆえに他者とかかわりきれない自分自身を見せ付けられ、それにより他者との裂け目を知るに至るところではないか。そこで神は他者を愛しきれない我々をさばく。そのさばきは十字架のキリストにおいてなされている。我々は自らにおこるさばきを十字架のキリストの傷と死により知るに至る。その十字架が、我々の限界と、私と他者との裂け目の只中に立ち、なお我々を他者へと向かわせる。なお我々を愛することへと向かわせる。
 我々は他者との出会いの中でキリストの十字架の前に立ち、そこでさばきと赦しの奇跡を受けて、初めて我々自身となる。各個はそこではじめて各個となり、教会はそこではじめて教会となる。

 今日キリスト教会とは、主イエス・キリストの十字架の前に立つ群れのことである。十字架を知るゆえに神にさばかれることを知る群れである。十字架により存在が赦され、真の恢復を頂き、そういう者たちとして他者と出会い続け、他者を愛し続ける群れである。
 今日キリスト教会とは、主イエス・キリストの十字架を放り投げる群れではない。さばきを認識しない群れではない。さばきのない赦しだけを受ける群れではない。十字架のない恵みに生きる群れではない。十字架の在り処に出会うことがない群れではない。すなわち、他者と出会うことを拒否する群れではない。引きこもる群れではない。余剰分があってはじめて教会を考える群れではない。

 したがって私は、前回の宣教会議で提案された「全被造物と共なる礼拝」という標語を軸に展開された新たな連盟宣教理念は、大切なテーマを見出しつつも最も重要な事柄、つまり全被造物と出会うことがゆるされる根源である主イエス・キリストの十字架の出来事が中心からはずれていることを指摘せねばならない。それは、十字架のキリストが中心とならない新たな理念もまた、グローバリゼーションに加担し、戦争に協力する理念となる恐れがあることの指摘でもある。また「異なる者が異なるままで」というフレーズも同様である。異なる者が異なるままである根源であるキリストの十字架による異質な者同志の出会いを、具体的な計画として立てることが今日の教会に求められている。無論深く読み込めば前回の理念にそこまでのことが述べられていることは承知しつつ、しかし十字架が中心に来る述べ方に変えることの意味は計り知れない。

 最後に当委員会から具体的提案をしたい

 当委員会は、各個教会・伝道所がキリストの出来事に突き動かされて、ホームレス生活者の支援を行うことを目的としている。それは教会の交わりが、例えばマタイ25章のみ言葉に後押しされて、本当にホームレス生活者と出会い、彼(女)らが今の状態から救済されるよう行為することである。
 その際、教会は救済に必要な知識を持つ必要がある。生活保護法などの法律や、行政や民間等のさまざまな社会的資源の存在とそれらとの協力方法などを教会が知ることは、これからますます広がる貧困社会の中で、欠かせないことである。まずはそのような研修を当委員会単独ではなく、連盟全体として開催する必要性を訴える。
 さらに連盟諸教会・伝道所は各都道府県にまたがるため、教会・伝道所が各地域の貧困社会における救済センターを目指すことを提案したい。その際、連盟に加盟する教会の中には、教会が、あるいは教会から生まれた民間団体がすでに優れた救済プログラムを有しているところもあるため、ネットワークを結び、相談と対応ができるシステムづくりを提案したい。
 さらには、ホームレス生活者や、貧困生活者とかかわるときに発生する金銭面を支援するシステムも、連盟全体として整備することを提案する。
 つまり、ここでも二元論を克服し、単に精神面でかかわるのではなく、物理面も含めて他者とかかわることのできる宣教体制づくりが必要であると考える。
 ここが現代のグローバリゼーションと戦争に加担するか、キリストに加担するかの別れ道であるため、しつこく繰り返すが、余剰でつくるのではなく、キリストのために、他者のために、献げてつくることを提案する。
以上
 

汝の敵を愛せよ。同質と異質

2011年11月30日 | 「生きる」こと
この間の大きな出来事を通して感じたことを
ツイッターでこんな風につぶやいてみました。

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敵を想定しその敵にやられる!という恐怖と、
そいつのせいで不幸!という感情的原因と、
そいつをやっつける!という感情的目的でまとまることを求めること。
同時にそれは結局自分に対する評価ゆえにまとまるのでなく、
敵の敵は味方ということでまとまるということになっていること。

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すると
ツイッターで平川克美さんも
同じ出来事から同じテーマを覚えたらしく
連続してつぶやかれました。

そのとおりだなあ、と思いました。
ここに残しておきたいと思いました。

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敵対者を発見し、現状の停滞はすべてこの敵対者に原因するというロジックは、
一見わかり易く、それゆえ政治的にしばしば採用される。

このロジックの欠点は、
最初は外敵を打破するという手法で集められた同質集団が、
次にはその集団内部に敵を発見しなくてはならなくなるということです。
そうやって同質集団は縮小していく。
歴史上の同一党派に起きた粛清はそのことを示しています。

このようにして、最期はごく少数の独裁的な権力と多数の面従腹背者しか残らなくなる。
これを避けるためには、最初のロジックを見直す必要がある。
それは、敵対者のなかに、自分との同質性を発見するということ。

政治的成熟とは、
敵対者のなかに、自分と同じものを見出して、
なんだ同じじゃないかというかたちで協同するところに始まります。
そうすることによって、はじめて違いが何であったのかということが冷静に判断することができる。

同じものなど何一つないという方もおられるかもしれませんが、
それこそ幼児的な観念の特徴だろうと思います。
人間は同じところから出発して、成長するに従ってそれぞれ個性的にばらけていく。
成長期とは異質性を発見していくプロセスだからです。

しかし、成熟をむかえ、老いに向かって、
最期は皆同じようになって、誰にでも平等な死に至る。
ばらけていたものが、再び同質性へ向かって移行してゆく。
そのばらける力と、まとまる力が激しく拮抗することをわたしは「移行期的混乱」と呼びました。

人口が減少し、超高齢化して成熟国家となった日本にもとめられているのは、
個々の違いを際立たせる政治ではなく、
同じものを発見しネットワークしてゆくような成熟した政治だろうと思います。
地域共同体こそ、そのネットワークの基盤だとわたしは考えています。

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同質性の発見と違いの発見が同時的に起こるわけです。

ただ私の経験では、
個々の違いが当然のこととして互いに受容されている!
ということが起こっていることが条件でそれが成熟であるという言い方もしたいと思いました。

違いに耐えられない場合に、
違う者を敵とすることと同じくらい、
違いを強調し、同じことを非難するということも起こるので、
この後者も卒業することが条件。だとも思ったのでした。

全く違う者どうしという大前提のなかで
同じっぽいものを見出していく。

このあたりが意識しなくても身体にて行われたらとてもおもしろい。

と思うのでした。




とっちゃんがやりたいって言ったからみんなもやりたいのです。

2011年11月14日 | 「生きる」こと
昨日の主の日もしあわせでした。
礼拝では連盟定期総会の代議員の涙涙の証
午後は増改築の図面第一案を見ながらみんなでわいわい
そして
夕方からはバーベキュー

このバーベキュー企画
とってもうれしい出来事でした

前回のバーベキューはタサッキーが初給与で教会家族に感謝をあらわしたい!
ということで行われましたが
そのバーベキューに
小3のとっちゃんはご家族の都合で参加できませんでした
それがとても残念だったようで
ウチの妻に
「次のバーベキューはいつ?」って尋ねました
11月3日のバザーが終わるまでは教会が忙しかったので
妻は
「バザーが終わったらしようね!」ってこたえました
とっちゃんは「やったー!」と大喜び


バザー当日の朝
とっちゃんが言いました
「今日の夜、バーベキューやんな!たのしみい!」

妻の「バザーが終わったら」ということばは
とっちゃんには、
バザーが終わって余裕ができたらする、ということではなく
バザーが終わったその日の夜にする、と伝わったのでした

でもバザー当日の夜にはバーベキューを準備できる体力が誰にも残っていません
大人たちはとっちゃんに謝るしかありません


とっちゃんがバーベキューをとっても楽しみしてくれたから
昨夕はみんなでバーベキューをしたのでした

とっちゃんがやりたいって言ったから
てるきもひめもだいちもとっきーもにのこもこともそうともにこもさくもれんもそうもとももしょうも
みんなやりたくてたまらなくなったのでした

子どもたちはおなかがぽっこりふくれるほど食べたのでした

少年少女も
青年も
若いお父さんお母さんも
おじいちゃんおばあちゃんも

用事で礼拝をお休みした大人も
礼拝後に用事で一度教会を出た大人も
とっちゃんがやりたいって言ったから
夕方には庭でみんなでバーベキューをするために集まったのでした

これぞ!
わが京都教会なのでした!

しあわせでございます

「経済」とは「オイコス」+「ノモス」なんだなあ

2011年11月02日 | 「生きる」こと
アメリカもやばいしEUもやばい
もちろん日本もやばい
たぶん中国もやばい
世界の経済は相当にやばい

グローバリゼーションという名の金の一極支配を
地球全体に金がまわると言い切って
(昨今はグローバリゼーションという言葉でごまかすことは減り
端的にアメリカ帝国支配といわれているとも思うが)
その一極のみやばくないようにしてみたものの
もはやそこもやばい

という状況で
今度はTPPということで・・・
名を変え云々としか思えないのは私のみ?

経済というのは顔を直接あわせることのできる仲間内でのみ成立する!

私はそう考えるのです。

それが国家内という経済のときは
具体的に顔を合わせられない者がいるにしても
ぎりぎり工夫でなんとかなったのかもしれません

でも地球全体というわけにはいかなかったわけです

ちょっと語源から原理的な話をします
「経済」つまり「エコノミー」は
もともとギリシア語で「オイコス」+「ノモス」です

「オイコス」とは共に具体的に寝食をする共同体のことであり、
「ノモス」とは法のことです

経済は、
顔を合わせ肌の温度が伝わる距離で共に生きる仲間たちの
その生活から了承しあっている有形無形の法のことなのです

さらにわたしは聖書から知るオイコス・ノモスから
神の国の共同体である具体的各個教会の
そこに与えられた神からの倫理、つまり福音と律法こそが
経済の本質的意味である
と本気で考えています

ここで大事なのは
アホみたいに繰り返し顔を合わせて互いの体温を感じ
互いの表情やしぐさや声から互いの様子や状況さえわかりあえるというような
そういう共同体、仲間においてのみ
経済は本来的に機能するということです

私たちは戦争の経験を経て
国家という枠組みではやばいので
それを超えた地球市民というものを目指したと思います
美しくまたただしい発想だと思います

でも
あまりに大きな枠組みを目指すことで
具体的に顔を合わせ体温を覚えあう関係については
もしかしたらそんなに意識されていなかったかもしれません

そして地球市民というビジョンが利用されてグローバリゼーションが現れたとも言えます



破綻したのです


ここからどうするか
それは経済が通用する共同体の形成を
みんなが本気でするということだと思います

でも不思議とここに本気になることができません

たとえば教会でも
教会共同体という経済域で生きてみようという発想は
なかなか浸透しません

(こういう私が教会で度々言っていても、私のいる教会でも理解は得られにくいほどでして)

クリスチャンといえども
生活に必要なお金などのあらゆる物事に関しては
教会以外別のところで確保しているケースがほとんどで
おそらく教会共同体から抜けても生活面でなんら困らないと思います
(精神面で困るケースはあっても)

たぶん地域社会でも同じだと思います
あらゆるサークルでももちろん

しかし
このような地球になったからには
どうにかしたほうがいいと思います

ひとつには
もう一度国家共同体を家族とし
とりあえずお金面を整えなおすという方法があると思います
でもこの場合は国家はやばいというあの恐れを
常にかかえつつすることになると思います
そしておそらくこのかたちしか実際には次の一手はないとも思います

しかし
そこで大事なのは
同時に国家のやばさもまた経済が機能するには大きすぎるゆえ!
と覚えつつ
あのオイコス・ノモスを具体的に形成することだと思います

国家で生きると共に
家庭で生きると共に
いやそれ以上に
教会共同体で、信仰共同体で生きるわけです

家庭で一月に食費が5万円かかったら
教会の仲間との食費に5千円かけるわけです

家族で住む家に5千万円かかったら
教会堂に5百万をかけるわけです

こういう知恵が十分の一という知恵だと思います

そしてそれ以上に
もっと端的に
顔を合わせ体温を感じた出会いの中で
出会った他者が隣人となり
その隣人のために時間や金がいくらかかろうとも
その隣人と共に生活するということまで言うのが

十一という律法を排除はもちろんせずとも
それ以上に愛なのだ!
という新約における倫理なのではないでしょうか

経済はこういう隣人愛のことだ!
と言って過言ではないはずです

というわけで
わたしはこの時代にも
実は希望いっぱいでウキウキすらしています

共に生きようや












死とは?

2011年10月21日 | 「生きる」こと
「罪の報いは死である」
というところから、死と葬儀を考えてみました。
(先日のシンポジウムのパネリストになったからやっと考え始めました)。

そして罪をふたつから考えました。
ひとつは個人の罪
もうひとつは共同体の罪
これはいわば自己責任と社会責任をひっくり返しただけ。

葬儀の目的はこの中で共同体の罪を共有することである、と考えました。
死者個人の罪は、生前の牧会における罪告白への導きが勝負であり、
葬儀で彼の罪が語られることは牧会の失敗を意味し、
また失敗したからには、葬儀で語ることはなお許されず、
牧師が神の前に静かに立つことしかできない、と考えました。

ただ、これはキリスト者、それも教会共同体で生きたキリスト者の死と葬儀という、
限定付きです。
しかし311以後、教会や牧師は地域全体の死と葬儀にかかわることもテーマであることを考えると、
「教会」抜きの死と葬儀においては
「罪の報い」としての「死」を共有することは極めて難しい、と考えました。

さて、周りの反応ですが、

「教会」においても、死を「罪の報い」とすることに抵抗ある牧師が結構おられることにびっくり。

残念なところでは、「罪の報いは死である」というローマ書の言葉の解釈の問題!
といいつつ、全く解釈案を示せない中での意見。
だから対話不可能。
これはその方が聖書からではなく自分の気分としてこの聖書の言葉に反対していることを表明したもの。
牧師がこれではちょっと困るんだなあ。

もうひとつは、
丁寧に「罪」について、単数形と複数形、あるいは存在的なものと行為的なものにわけて説明するなかで、
死の原因となる罪をできるだけ少なくしようとする説明も多かったです。
ただ私には原理として単複や行為と存在で罪を分けることは理解しつつも、
論としてはよくわからないのですなあ。
僕らの存在と行為ってのはひとつであってわけられないと思うのです。

ただ、そのような原理を用いて新約聖書の物語という時間を獲得しつつの説明は、
対話が可能になるなあと思いました。

律法違反という複数形による行為的罪からの解放は、
律法に支配されている社会から見捨てられ、差別され、虐げられているという
その状態からの解放であることは間違いありません。

罪とは人を侵害する社会によって押し付けられたことなわけです。

でも、そういう罪ならば
罪の報いが死となることは、ごもっとも、となるかなあと思ったりもするわけです。
だって、人を傷つける社会の報いは死ですから。

ボンヘッファーは、全ての困窮の原因は罪であることを語ります。
つまり罪の報いは困窮といいます。
その困窮には死も入るはずです。
さらに律法違反的罪解釈から、ナチスドイツ下における死を考えていたかもしれないなあと、
彼のいろんな文章から考えたりします。

さらに、彼の中心テーマであるキリストへの服従への第一歩は
その罪をひとつひとつ告白すること、とまで述べます。

そのようにして、ボンヘッファーは、
カトリックにはあるもののプロテスタント教会が失っていた罪告白を復活させようと願ったわけです。


わたしは単純に原理化すると
旧約では神の呪いとしての死が描かれ、
新約では罪の報いとしての死が描かれている、と考えます。

そしてこのふたつを比較しつつ考える必要がありそうです。

逆に苦難と罪を分けたり、罪の中身を分けたりしても、堂々巡りはするものの発見はないと思ったりします。

むしろ大事なのは、苦難を呪いの範疇で捉えるか、罪の範疇で捉えるか、という議論です。

でもその議論はあまりに難しすぎるし、人間の限界を超えている可能性大なので、
苦難についてはわからない、と言うことができるのみかもしれません。
そしてここに立つならば、
死についてもわからない、と言うことができるのみだと思います。
となると、今回のシンポの意味もなしというわけで。

うーん、大きなテーマです。
そして、そういうテーマを真正面から提出できて、
しかも次回も議論を続けることが決定して、
なによりです。

歴史は継承されねばならないのです。

2011年10月14日 | 「生きる」こと
今週の週報巻頭エッセイです。

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「歴史は継承されねばならない」

本日より来年度に迎える60周年に向けて、当教会の歴史上の物語を分かち合います。
今月はS兄、Y姉より1950年代の物語を証言していただきます。

歴史は継承されねばなりません。
歴史継承なしの世界は、世界の本質を獲得することができません。
同じく教会も(あらゆる共同体も)、歴史継承なしに教会の本質を獲得することはできません。
それは、神を知ることはできないと言い換えても間違いではないと思います。

とても厳しい書き出しとなりました。
先週、私は会議で沖縄に行くことがゆるされ、そこでいくつもの証言に出会いました。
その中で、私は歴史継承は心を鬼にしても獲得するものであることを知らされました。

沖縄をはじめアジアの教会に影響を与え、沖縄キリスト教学院設立にかかわられた金城重明牧師が証言されました、

彼は、沖縄地上戦の最中にいました。
米軍が徐々に迫ってきます。
そのような時、日本人は美しく玉砕することを教えられてきました。
さらに日本軍より「自決」用の手榴弾も配られました。
その状況で大人の男たちが、自分の妻子をまず撲殺し「自決」するのを見て、
彼と彼の兄は、抵抗はせずも泣き続けた母親の首を、母親の泣き声が途切れるまで絞め続けたのです。
そしてその後、幼い兄弟の首にも手をかけました。
最後に残った彼と兄は、一人でも敵兵を殺してから死ぬ決意をし、米軍に向かって行きました。
しかし、それゆえに生きつづけることとなります。
しかしその罪責ゆえにその後、自殺を何度も試みます。
しかし罪と痛みを背負うキリストと出会い、牧師となられました。

私はこの証言を読んだことがあります。
しかし、今回ご本人の声にて聞かされたものは、全く質の異なるものでした。
歴史は紙面の文字という空間ではなく、
同じ空間の中で声などで証言される時間をも共有することにより本質を得ることは間違いないようです。

教会はキリストの証言を毎週毎週同じ空間と時間を共有する礼拝の場で分かち合います。
恐らくこの密接な共有をはずすときに教会は本質を見失うゆえに、活字印刷時代もIT時代もわざわざ集まっての礼拝が死守されるのでありましょう。

同じく、それぞれの時代の教会共同体の信仰物語も、紙面で残すのみならず声にて継承される必要があります。

さらに継承される物語の中身も大切です。
それは十字架にてイエスを失った神の痛み、および十字架上の主イエス・キリストの痛みと響きあう中身である必要があります。
同時にキリストに罪が告白されるものであるべきです。

歴史とは、体に覚えることのできる罪責と痛みの物語のことを言うのではないでしょうか。
たとえそれが喜びに満ちた物語でも、その喜びにべったり貼りつく罪と痛みが表現されなければ、それは歴史とはならないのではないでしょうか。

罪と痛み抜きの歴史は個々人の思想や信念にはなっても歴史にはならないのです。

国家や個人の歴史が罪と痛み抜きのそれぞれの思想、信念でしかないことが多い時代であり、それにより歴史教科書も書かれるこの国の中で、
信仰者は、思想や信念を信じるのではなく、十字架のキリストを信じる中で、歴史を獲得することこそ、神が求めておられることに違いありません。

歴史は継承されねばならないのです。

神の領域

2011年09月29日 | 「生きる」こと
「生きる」と「死ぬ」、「生きている人」と「死んでいる人」が、
淡々と同等に語られているところに(ローマ14:7~9)希望を見る。

「死」「死後」「死者」について人は知らない。
それが不安、恐怖となる。
だからもしかすると宗教は競ってそれらの知を提供してきたのかもしれない。
キリスト教も天国と地獄、あるいは煉獄のイメージを。
でも聖書はそこまでそれらのイメージを提供はしない。と思う。

「死」「死後」「死者」について、
人はそれらを神の領域と認識することがゆるされる。
それは人の知も情も行き届かない領域。
同時にこれらから知るのは、
「生」「生者」「生者の世界」の大部分も、
人の行き届かない神の領域であることではないか。と思う。

「死」「死後」「死者」について知ることで、
死の不安と恐怖から解放されるというより、
「生」「生者」「生者の世界」をもあれら同様に知らず、
すべては神の領域であり、
神に委ねるのみであることを知るとき、
そこに死への勝利がある。ような気がするのだ。

「生」「生者」「生者の世界」について僕らが知るのは、
宇宙の広大な空間と長大な歴史からするならば、
天文学的数字分の一であり、
それは、決して「知っている」とは、ちょっとはずかしくて言えないよなあ。と思ったりする。
「死」について知らないのと同じく、
僕らは「生」について知らない。

人は当然自分自身についても知らない。
ただ自分自身が存在している奇跡を知るのみ。
自身の存在と行為の大部分が神の領域であることを了承することができるのみ。
この領域の了承こそ自己受容であり、自己肯定である。
この受容と肯定の際、
人の行き届く範囲はあえて省かれねばならない。と思うのだ。