きぼう屋

生きているから生きている

具体的

2008年06月30日 | 教会のこと
昨日の週報巻頭言です。

まずはお読みいただくことにしまして・・・

*********************

「具体的な生き様を求めて」

先週わたしたちは二つの研修会を持ちました。

そこでは、
具体的な世界で
具体的に生命を受ける私たちが、
具体的なキリストと共に
具体的に生きるとは何か?

が分かち合われたと思いました。

また研修会にむけて、
この間の
私の説教や週報巻頭言も、
具体的な生き様の選び取りについて
語るものとなりました。

だから
ある意味しんどい期間だったかもしれません。
つまり私たちは、
話が具体的になると、
自分の行為と責任について無視できなくなり、
厳しさやしんどさを覚え、
時にそこから離れたくなるものです。

そういう場面において
厳しさやしんどさからの道が
私は大きく見るとふたつあると思います。

まず一つ目は、
具体的なこと、
つまり自分が行為し、かかわり、応答するからこその
責任ときびしさとは
括弧に入れ、
抽象的な気分のいいイメージに逃げる道です。

もう一つは、
具体的な行為と責任は、
自分のみでなく、
キリストが共に担い、
また彼が全面的に引き受けることをも信じる中で
十字架を体感する道です。

これは、
前者が、快・不快が基準となり、
後者が、善・悪が基準となっている
とも言えましょう。

そしてもし
教会が快・不快で物事を選び取ると、
もはやキリストのいる場所がなくなるということでもあります。

私たちは、
祈り、聖書を頂くなかで、
善・悪という、具体的な生き様(倫理)における
見極めと決断が問われています。

ただその場合
「善人はひとりもいない」という前提にあって、
善なるキリストに従う具体的な生き様とは何か、
が問われることのみ!
残ります。

わたしが善!となると、
こわい思想となり、
戦争にもつながります。

今回の研修会のような
具体的な行為と責任が問われる事柄は、
善人でない者が善を決断する
という
私たちには本来不可能な選び取りを示されるため、
気分的には敬遠したくもなりますが、
しかしだからこそ、
キリストが共にいることを信じ、
ゆえに決断できることを
共に覚えたいと願います。

そして、
この具体的なひとつひとつが
人と教会と世界とをかたちづくります。

だから、
この具体的決断は、
ずばり!恵みです。


***************

バプテストの信徒というテーマで
とりわけスチュワードシップを分かち合ってきたので
正直しんどいわけですが
しかし
具体的な事柄なしには
何もはじまらないから



バプテストは
そういうことを死守してきた群れでもあり
がんばって
分かち合いました

なんでしんどいのか
ということを
ひとつは巻頭言で書きましたが

もうひとつとしては
神を語りたいけれども
スチュワードシップという場面では
人間を語ることがより多くなるし
もしかしたら
ここで神を語るというのは
実はかなり危険なことでもあって
つまり
スチュワードシップとか
信徒論というのは
人間による神利用になる危険性の高いテーマなので

ここでは逆に
徹底して人間を語るから

だから
しんどいのだろうなあ
と思いました

京都教会の
みなさま
お疲れ様でした




この週報巻頭言ですが
10倍かけて書かねばならないことを
これだけで書いているので
はっきりいってめちゃめちゃですが
(正直作文としては失格でありますが)

本文よりはるかに多い行間を
読んでいただければと願います。

ゴッドからキリストへ

2008年06月30日 | 教会のこと
昨日の礼拝説教がたいへんよかった
ことは
もう書きましたが

実は
信仰告白もありまして
これもよかった

どちらも

キリスト
が宣言され
告白されていました

キリストの体なる教会
キリストの体なるガリラヤ

が語られていて

ふたりとも

それは弱さであり矛盾でありうんぬん

と語ってくださり

その語りは
単に原理を語っているのではなくて
全身全霊で
絞り出すように語ってくれているから

まさに
キリストの十字架の出来事
なのだと
感謝するわけです


一方で
当教会はずっと

キリストではなく
どちらかというと
ゴッドのみが語られていました


聖霊だろうとイエスだろうとキリストだろうと
すべて
創造の範疇で
自分の存在との関係のみで
語り切れてしまうという

だから
聖霊でもイエスでもキリストでも
ゴッドの創造の一部で終わるという

そういうものが語られていました

それはつまり
十字架と復活と終末の希望
は語られず

出会い
交わり
キリストの体
具体的教会

が二の次にもならず
参の次四の次
になるというものです




しかし

いまは

見事にそのあたりが
二重構造になっています

つまり
キリストの体に生きるという情熱と
それが参の次四の次になるというぬるさが

それぞれくっきりしていると思います

まじめに聖書に向き合い
祈り
礼拝する教会なら
必ず通る道です




当教会の歴史からして
これから

キリストの体を死守しようとしてくれる人が増えているからこそ

その温度差のなかから
いろんな
一筋縄ではいかないことが
起こるだろうなあと
予想します


創造のみを
つまり言い方を変えると
自然性のみを受けているなら

そののちに
十字架を受ける時は
まさに
十字架を受けるから

一筋縄ではいかないわけです


当教会は

十字架を経験するだろうなあ

つまり
予想するわけです

しかし
知らねばならないのは
復活をも受けるし
希望にもあふれている
ということです

なぜなら
キリストの体であり
それを死守するから・・・


昨日の説教と信仰告白は
そういうことが起こったときの
道しるべになるだろうと思いました

やはり

感謝感謝


チーム

2008年06月29日 | 教会のこと
本日は青年会主催礼拝

なにしろすばらしかったです

なにがちがうんだろう
と考えてみて
これかなあと思ったのは

チーム

ということでした


つまり

当教会のテーマのひとつは

チーム

のようです


ただ個人個人が
役割をこなす
というところから
解放される

時が来たようです


チームとして
祈り対話し準備する

時が来たようです


根本を探れば

他者と共に
教会家族として

という事柄の
具体化
が起こり始めているようです


やったね





わたしは声を大にして言いたいのですが

牧師もまた
説教を語るだけでなく
聞かねばなりません


先週は渡邉さん
今週は南部さん
の説教を
わたしは聞くことがゆるされるという
礼拝に恵まれましたが


よかったあ!!!!


説教を
神の言葉の宣言を
聞く機会は

牧師も間違いなく必要です


月に一回くらいは
聞きたいなあ

二人牧師がいたら
そういうのができるのかなあ
とも考えつつ・・・


ひとり牧師でも
牧師が牧師となるためには
年に何回かは
牧師が説教を聴くことのできる礼拝をつくる
ということも
とても大事だと思いました



南部さんの説教がとてもよかった

先週の渡邉さんもそうでしたが
そっとやちょっとの牧師が話せる内容でない
という説教を
しておりました


わたしたちにとってガリラヤとは?
それは弱く貧しく矛盾に満ちた
関係によるところの場

という結論は
泣きそうになりました

実はわたしも
ガリラヤをテーマにした説教は
二度ほどしておりますが

たぶん
わたしでは伝わらなかったけど
南部さんで相当に教会全体に響いたなあ
と思いました

感謝感謝


南部さんの説教でいいなあと思ったのは
丁寧な文字の言語が
丁寧に朗読のように語られたこと

体の隅々まで丁寧に染み渡る言葉でした


わたしは
その逆で
音の言葉でしか語ることができず
もっというと
音楽の言葉で語るので

ときどき打楽器のような言葉を発したりもして
実は一ヶ月前くらいに
とある敬愛する姉妹から
そういう言葉があんまり好きでない
と指摘もされていまして・・・

「聖書教育」
を執筆した時も
打楽器的言葉の変更を余儀なくされたこともあり

文字の言葉って
やっぱいいなあ
と思いつつ

でもわたしは
音の言葉しか使えないわけです


渡邉さんは
両方使っていました


また
音域的に説教を見てみると

渡邉さんは
中低域がしっかりとでてくる安定した説教で

南部さんは
広域から低域までが滑らかにさわやかにでてくるという説教で

わたしは
中域のみどかんとでてくるような説教で

なんだか
わたしの説教はこれでいいのかなあ
と反省させられつつ

でも
中域がんがんで
いくのだろうなあ

半ばあきらめつつ
しかしそのスペシャリストになってやろう
とも思いつつ


やはり結論としては

説教を聴く礼拝が必要だ
と思うのでした


青年みなさん

この調子で

チームとして
隣人性
共同体性

ばりばり養って欲しいと願います

キリストとは
つまり
そういうことなんだろうと思います



本日は
大感謝




果実

2008年06月28日 | 「生きる」こと
ごくせんの最終回をみました
前回のほうがよかったかなあ
と思いつつ
でも
あの単純化された本質は
今回も描き出され
これは相当に大事なわけです

さて
明日はものすごく大きな出来事が
ふたつもあります

ひとつは
京都教会の礼拝が
青年主催で行われるという出来事です
説教
子ども説教
司会
奏楽
特別賛美
献金奉仕
受付奉仕
のすべてを青年が担います

もう教会に集まっておりまして
明日のために準備をすすめております

ただの勢いで
青年が礼拝を担う
と言ってきたところで
わたしは牧師なので
OKを出すことはできないわけですが

もちろん彼ら全員が常にというわけではないものの
日々の祈り
聖書との対話
他者へ向かう姿勢
教会の交わり
献金
といった事柄に
全人格を投入しているのがわかるから

安心して
期待しつつ
礼拝を任せます

言い方を変えると
主イエスがついている!
ということを
信じることのできる彼らだから

大丈夫なわけです


こうやって礼拝は担われるというのは
もっと大人の人たちの手によっても為しえてないもので

教会にとっては
大転換的出来事なわけです



さてもうひとつの大きな出来事は
午後2時からシルクホールで
憲法9条京都の会発足の集い
が開催されることです

鶴見俊輔さんの基調講演に
その鶴見さんと
瀬戸内寂聴さんと安斉育郎さんとの鼎談があります

また帆足さんと工藤さんの演奏も
相当気合が入るだろうと思います

ちなみに
京都で発足するのは
東京の九条の会の地域版
ではありません

もともと
憲法改悪反対署名実行委員会が
守ろう憲法と平和きょうとネットの実行委員会として立ちあがり
九条改悪反対署名を集め始めたのは
東京で九条の会ができる前のはなしでして

東京でそれができたので
連帯してやってきたというところがありますが

しかし
運動の起こり方はまったく違います

京都では
丁寧に
市民ひとりひとりの手で
憲法九条京都の会
を立ち上げました

つまり
裾野が東京よりだいぶひろいかたちで
発足します

全国で平和をつくる運動をする場合には
ひとつ参考になるだろうとも
手前味噌で申し訳なくも
思っております

というわけで
こちらも

守ろう憲法と平和きょうとネット発足以来
地道に積み上げてきたことが
よくわかるかたちで起こるというところの
大転換的出来事に違いありません

わたしにとって
2008年6月29日は
大きな大きな記念となります


先日召された
葵教会の佐原牧師が
わたしが京都に来た時に
ホームレス支援を立ち上げる相談をさせてもらったとき
10年続けたら果実を見る
と言ってくれましたが

教会も
きょうとネットも
寄り添いネットも

まさに果実も味わう状況になってきました

ただ
佐原先生たちとはじめた
京都北部の教派を超えたキリスト教会の交わりは
3年ほどで立ち消えになり
今思うと
もっと力を注ぎたかったと
悔いるばかりです


明日は
果実をいっぱい食べて
腹いっぱいになります

祈りつつ

教育

2008年06月28日 | 平和のこと
昨晩は
守ろう憲法と平和きょうとネットの例会で
教育基本法が変わってから
どんなことが起きているかを
学びました

現場で体感している現役の先生が
おはなしをしてくれました

わたしの感想としては

子どもや親は
義務教育期間内において
学校内で
子と先生
子と勉強
という出会いがなくても

義務教育後や
学校外で
そういう出会いを見つけていくという
したたかさを持って生きることができるし

しかし
人が集まるという時点で
どんなにえらい人たちによって
規制されようとも
そこでは出会いがおこるものだから

致命傷にはならないと思うのですが

先生たちにとっては
致命傷になる
と思いました

先生たちおひとりおひとりの
人格というものが反映されない
教育システムになるんだなあ

悲しく切なくなりました

人格と人格
事柄と事柄
との出会いに期待しない場合
あるいは
それらの凄みと超越性を信じない場合

そういう人の集まる場所は
機械とされるんだなあ

むかついてきました


また
どちらかというと
どんどんかわる教育において
子がいわば洗脳される
というよりも
親や地域が利用されることによって
そこでの利害に巻き込まれ
抜け出せなくなる
という現象がおこるだろうなあ
と思ったりしました

わたしは教会の人間なので
そういうのに巻き込まれる心配がないのですが

地域で商売する方々はそうはいかないし
教会などの具体的な共同体に生きていない方々もそうはいかないし

このあたりが
教育基本法が変わったことによる
社会の変化なんだろうと思いました

教育勅語制定後

同じ感じなのかなあ


残念な流れですなあ

逆説

2008年06月26日 | 「生きる」こと
今日明日と
我が家のすぐ近くの京都御所の迎賓館で
サミットの外相会議がおこなわれるので

警察官がたくさんいます



彼らですが
なんというか
純粋で素直で正義感があって
懸命に働いてくれている
という印象を受けます

旅行者に道を尋ねられたら
京都の警察官ではないのに
(全国から集まってきています)
地図を開いていっしょに探しています

それが外国人で
外国の言葉で話しかけられても
身振り手振りで懸命に対応しています

でも

彼らの上司たちが
そういう純粋さで職務を担っているかというと

そうでないことがあまりに多いことは
もはやだれもが知っているわけです

悪しき宗教性を見ます

三角形の階級性で
底辺の人はきわめて純粋素朴で
言い方を変えるなら
信じやすく騙されやすいわけですが

三角形の頂点の人は
その純粋さを利用するという
そういう性質です

だから
これはキリスト教会がやっていたことだし
今でも多くはないけども
でも決して少なくない教会が
こうなっていることでしょうし

反省させられます


ならば

こういう悪しき宗教性から解放されるために

わたしたちはどういう部分を大切にしたらいいのだろう
という問いは大事でして

わたしは
わたしたちがかかえる
矛盾
ねじれ

といったものを
丁寧にみつめていくことだろうと思います

わたしたちの語ることばは
矛盾とねじれと罪にまみれたものであって
しかし
そういうなかで
復活による十字架
救いによる罪
愛による矛盾とねじれ
などを
超越的にいただくという

だから
逆説
となるという

そういうものだろうと思います

もし順説のみ言葉だったら
まるでQ&Aみたいだったら
成功事例のみの言葉だったら
方法論のみの言葉だったら
それは悪しき宗教性に縛られているものであることを

よーくよーく知らねばならないのだろう
と思います



悪しき宗教性は
人や金を集めやすく
大きな運動を起こしやすいから

人を興奮させやすく
勘違いさせやすいので

ほんと
要注意です


たとえば
純粋な見張りをせねばならない
いわゆる底辺の警察官が
実はいまサミットに来たえらい人を護るということで
戦争に向かう世界をつくるための
最前線にいることにもなっている
ということは

悪しき宗教性という壁によって
隠されるのだろうと思います


教会が
同じことにならないよう
祈ります



広島へむかって

2008年06月25日 | 教会のこと
日曜日の研修会後は
平和の旅in広島実行委員会がありまして
つまりこの夏に教会で行くわけですが


研修会後だからとってもおそくなったのですが
さらに
脳みそを研修会でフル回転させているもんだから
とても疲れもあったのですが

そういう委員たちが
しかし
とても楽しく
準備をすすめました

つまり
期待し楽しみにしている旅だから
準備もとてもたのしいのだなあと
とてもふつうのことに
今一度気が付きました

これは
他者の痛み
歴史の痛みへの
共感と想像力
そして
キリストによりつながる信仰
による出来事であることを
宣言してもいいだろうと思います

逆に

自分の内面
自分の気分
自分の持つ答え
自分のイメージやリズムやペース
にこだわる場合には
人といっしょにするプログラムは
期待も楽しみもないのだろうなあ

強く思わされました

昨日火曜日の祈祷会と
みんなでわいわいの
お昼ごはんのあと

このかん教会のみんなで折った千羽鶴を
糸で結んでいく作業を
これまた
楽しくわいわい行ってくれまして

それも
広島に行く人も行くことがかなわない人も
みんなで楽しくやってくれまして

これはもうひとつすごいことが起こっているなあと
感謝するしかありません

自分が参加できないプログラムの準備も
期待し楽しみつつできる
というのは

自分が参加できなくとも
参加する仲間がいるなら
キリストの体としてひとつであるからして
自分もつまり
参加しないけど参加するという
祝福にあずかることを
知っているからだと
これまた宣言せねばならないと思いました

こういうのが
信仰
というのだと思いました

さらに
祈って祈って
準備をしていきたいと思います

40分後

2008年06月24日 | 平和のこと
あと40分後に
憲法9条京都の会実行委員会が開催されます
場所は当教会集会室
いよいよ次週29日(日)午後2時から
シルクホールで
発足集会をします

鶴見俊輔さんの講演と
瀬戸内寂聴さんと鶴見さんの対談など
もりだくさんです

そして
代表呼びかけ人として
さらに梅原猛さんがなってくれるということで

有馬頼底さん
安斎育郎さん
梅原猛さん
茂山千之丞さん
瀬戸内寂聴さん
鶴見俊輔さん

という顔ぶれがそろいました

ここに至るまでには
なかなかしんどいときもありましたが
希望を棄てず
ねばりづよく続けてきた
それこそ
数百時間という時間をささげてきた
名があがることのない人たちの
愛と情熱と人格を

今後わたしは
しっかりと記憶し
語り継がねばならないと思っているところです



こういう大きな運動になってきまして
さらにおおきなうねりにするには
代表に立ってくださったビッグネームの
愛と情熱と人格が
うごめくことが不可欠でありまして

大きな期待を寄せております

さて

恒久平和をつくる運動はまさにこれから!!
そしてわたしは
これからは
願っていたところの
名のあがらない市民のひとりとなって
なお
ねばりづよくやってきたいと
強く思っております

29日の発足集会では司会をしろ!
ということすが・・・
日曜日で
教会のすべてが終わって向かうしかないけど
そうすると遅刻することがわかっているし・・・
だれか
かわりに担ってくれる方
おられないかなあ・・・
と願いつつ
しかし
最後の大仕事ということで
する責任もあるのかなあ
とも思いつつ

うーむ・・・

このかん

2008年06月23日 | 教会のこと
日曜日に言(こと)が帰ってきました
生後5日
第五子で長女

第四子の憐は女の子のような顔立ちでしたが
言は男の子のような顔立ちで
いまのところハンサムです

今夜は第一子の空が
言を抱っこして家の中をお散歩
言も安心しきっておりまして
30分くらいそんなことをしていたら
空に抱かれながら寝てしまいました

また
アオヤマさんが電話をくれました
だって
言はアオヤマさんと同じ誕生日なんですもん
これはめっちゃうれしい



みんな眠りにつくなかで
憐だけは起きておりまして
ついさっきまでの一時間ほど
わたしは憐とずっとおしゃべりをしていました

保育園のせんせいのユカリと遊んだことを
何度も何度も教えてくれました

さて
一日戻って昨日でありますが
わたしたち京都教会は
教会創立記念の時を持ちました
1952年6月24日に教会組織し
今年は56年目

そしてこの日に
今年は特別研修会をしました
テーマは「バプテストの信徒」
講師は渡邉亶さん
恵泉教会員で現在はわが日本バプテスト連盟の理事長

朝の礼拝説教も亶さん

バプテストは牧師でなくても
専門的な学びをしていなくても
ばりばり説教をします
つまり
神の言をとりつぎます

すばらしい説教でした

ここまでの説教ができる牧師もそうそういないと思いました

内容もきわめて神学的でした
本当の意味で神学的でした
つまり
キリストに従っているからこその
キリストに集中するという意味で
下手に専門的に学んでしまって
そちらでごまかすような説教も多い中で
痛快なほどに
まさに説教でした

感謝感謝



わたしが牧師として
今後すべきことがひとつはっきりしました

亶さんのような信徒が生まれる教会づくりです

はっきりしたので

やります


午後の特別研修会も
これまた痛快でした

人間の心理においてデリケートだろうとセンシティブだろうと
そんなことは二の次で
端的に
人間として神から
あるいは超越的歴史から
要求されていることを
言い切って
やっていこうとする

という
これまた感謝するしかない内容でした

わたしは
「自立」については
今後さらに批判的に考察していきたいと思いますが

「自律」については
たとえばカントなどはまさに
そういう超越的な要求、命令を
受けることのできる人間のことをいうわけだから

こちらはきわめてバプテスト的であり
キリスト的であると
思っているわけであります


京都教会はこの数十年
人間心理と自己実現で動いてきたなかで
わたしは
その正反対のことを言い続けてきまして
つまり
キリストへの服従と自律を言い続けてきまして

そして
ここで
わたしがそれでも変なバランス感覚ゆえに
ちゃんと言い切っていなかったことを
亶さんは
あっさりと言い切ってくれたので

もうこの時点で
京都教会はチェンジすることになるのだろう
と思います
(といいますか
 もはや実質チェンジしているのですが
 それを明確にすべきときが来たようです)



そのまた前日は
奏楽者研修会でした
美登恭子さんが関西へ凱旋です

いまは北九州の東八幡教会員ですが
かつては兵庫におられまして
関西地方連合の音楽委員長もしてくれていました

ここでの中心テーマは応答と派遣でした
つまり
キリストへの服従と自律ということで

なるほど
キリスト教会
とりわけバプテスト教会は
やはりここにこだわるわけです

人間としても
また音楽としても


両研修会において
質疑が活発におこなわれたのを見て

わたしは安心しました
まさに教会がチェンジしていることの証だから・・・


さてその土曜日の研修会の前ですが

亶さんを駅に迎えにいった帰りに
若菜さんが入院していた足立病院に
持って帰る荷物を取りに来て!
ということで行きました

だから亶さんも言に会いにいくことになりました


不思議と病院前で
サクラのお母さんにもばったり会って
生まれたことを報告できたのですが
そうしたら目に涙をたくさん浮かべて喜んでくれて
せっかくだから
サクラママもいっしょに病室に来てもらいました

サクラママも出産を控えています
また同級生になるので嬉しいかぎりです

祈ります


その前の日は市役所前炊き出しでした


大雨の中
市役所へ

サミット外相会議前で
警察官がいっぱいいたけど
文句を言われることはなく
楽しくできました

ただ本能寺さんが
この一週間いなくなっているのが
心配で心配でなりません

神さんたのんます



その炊き出しの前は
神学生が農村の教会と都市の教会のそれぞれのテーマを学ぶということで
インタビューにきてくれたので

ほぼはじめて
都市の教会ということを本気で考えました

しかし
じつは聖書も都市で書かれているし
神学も都市がコンテキストなので

そういう点はきわめて基本に忠実に考えることができました


いまのここにおける特有のこととしては
交通の発展があるかなあと思いました

だから都市における地域は
距離でなく
時間で考えることができるということです

早い乗り物で移動するなら
長い距離でも
地域となるということです

すると
場所の問題はどうなるのか

ということで
都市の教会は
生活場所が近いということがないからには
教会で共同体を構築するしかない
というテーマを持つだろうと思いました

なかなか面白かったです
役に立てたかはわかりませんが・・・


というようなこの間でした


言が生まれたことをみなさんに覚えていただき
感謝に耐えません

いま我が家は
花とカードと女の子の服と
果物やお菓子に囲まれ
とてもにぎやかです


さて
明日は教会の創立記念日
そして
空の誕生日


不思議と嬉しい出来事が続きます


と同時に

本日は沖縄地上戦終結の日で
腹に突き刺さる感触を持ち
西成の暴動のコンテキストに
同じく腹突き刺される感触を受け
30歳代の自殺者の増加など
同世代、後輩世代の社会に追い詰められた
というか迫害されたゆえの
精神状況に痛みつつ

だからこそ

嬉しいことはおおげさにも
喜こんでおかなくてはならないと
思っているところです


とりとめもなく書いたものを
読んでくださり感謝


只中にある者としての「わたし」

2008年06月22日 | 教会のこと
書きたいことがありすぎます

第五子のこと
炊き出しのこと
奏楽者研修会のこと
特別研修会のこと
礼拝のこと

でも
本日は書く元気が残っていないので

本日の週報の巻頭言で
ごまかします
すみません


*************


「只中にある者としての『わたし』」

本日は、
恵泉バプテスト教会のメンバーで
日本バプテスト連盟理事長でもある
渡邉亶さんを迎えて
研修会のときを持ちます。

テーマは「バプテストの信徒」です。

祈りつつ期待しつつ参加したく願います。

また本日は同時に、
当教会の創立を記念します。
1952年6月24日に教会組織し、
今年は56年目の歩みを迎えます。
キリストの歴史に参与できる喜びを
益々分かち合いたいと願います。

さらに6月23日の
沖縄地上戦終結の日に最も近い主の日を、
「命(ぬち)どぅ宝の日」として覚えることを、
連盟全国女性会は決めました。

私たち日本バプテスト連盟は、
沖縄を国外と位置づけ排斥した歴史の
罪を告白しています。
それは同時に、
沖縄が敗戦後抱える
地上戦の傷痕や米軍基地問題を、
私たちも一緒に担い祈ることの決意です。
ぜひ共に覚えましょう。

また次週は、青年会主催の礼拝です。
説教は、同志社大学大学院で神学を学ぶNさんが担われます。
こちらも
祈りつつ期待しつつ
参加したく願います。

さて、
これら京都教会で起こされる出来事には
共通点があります。

それは、
「わたし」が
キリストにより
時間空間のあらゆる事柄とつながるゆえに、
あらゆる事柄の只中にある!
ということです。

そしてこれこそ
「バプテスト」の精神の根幹です。

キリストゆえに!
教会の交わりの只中にある「わたし」。
教会の過去、また将来の出来事の只中にある「わたし」。
沖縄の過去、現在、未来の出来事の只中にある「わたし」。
地上戦で命が殺されていく現場の只中にある「わたし」。
礼拝を準備する青年会の只中にある「わたし」。
説教者の渡邉兄、N姉の祈りと準備の只中にある「わたし」。
第三者でなく、
斜に構えることも距離をおくことも必要なく、
その出来事ごとの只中にいる「わたし」。
人間の思惟的には、
出来事の只中にあることは不可能といわれても、
キリストと共なることを信じるゆえに、
キリストと共に
只中でかかわることが赦される!
という一点で、
只中に向かう「わたし」。

これを私たちバプテストは
「主体性」
と呼び、

生における大切なスタイルとして受け継いでいます。

ぜひ共に只中に!!



予感

2008年06月20日 | ホームレス支援のこと
今夜は
京都市役所前炊き出しです
ホームレス支援機構・京都寄り添いネットによるものですが

いま京都は
来週のサミット外相会議にむけた警備のため
警察官の数が半端ではありません

警察ってこんなにいろんな車両をもっていたんだあ
なんて感心できてしまうくらい
ありとあらゆる車両に
たくさんの警察官が乗って
町中を走っています

どれくらい走っているかというと

距離2キロの産婦人科まで車を走らせると
警察車両を5台は見ることになるという
数です

我が家(当教会)は荒神橋西詰めなので
橋はいつでもそういう場所になるように
常にでっかい車両に4,5人乗っての
厳重な警備がひかれていまして
なんだか
変な気分です



市役所前にも
24時間体制で警官がいますので

なんかいやな予感がします

ホームレスを強いられているおじさんおばさんが
職務質問を受けるということもでてくるでしょうし

警備上の理由ということで
炊き出しを妨害される可能性もあります

西成で暴動が起こっている最中なので
なおさらとも思います

いつもどおり

集まったみんなが笑顔でわいわいおしゃべりして
笑顔で帰ることができればいいのですが・・・

祈りつつ・・・

分娩室は宴会室

2008年06月19日 | 「生きる」こと
17日
陣痛がはじまり車で病院へ
途中小学校で早退した兄貴たちを乗せます

担任の先生方がいってらっしゃいと手を振ってくれました
ありがたいですしえらいと思います

また
5人目というのはある意味名物です



病院に到着

和室の分娩室にみんなで入ります
ごくごく普通の和室です
でも
赤ちゃんを産むための部屋です

ちゃぶ台もあります

若菜さんはふとんで寝て
その横で息子たちがあばれているという
そういう分娩室でしたが

そんななかで
おばあちゃんが鹿児島から到着

そのおばあちゃんがいろいろと
おみやげの饅頭やおかしやジュースを出してくれるので
ちゃぶ台が急ににぎやかになりまして

もはや宴会がはじまりました
じゃんけんでお菓子の数を決めたり
ジュースごぼしたり・・・


その横で

若菜さんは陣痛で苦しんでいます



助産師さんが
若菜さんの腰のあたりをマッサージしてくれますが

息子たちも
顔をゆがめる母親が心配になってきたようで
それぞれ若菜さんのいろんなところをさすります

それが逆効果の場合もたくさんあったようですが
耐え切れなくて
さする息子たちの手を若菜さんがどかす
ということもありましたが

こんなときでも母親はえらいもんです

そういう息子たちの行為を
逆効果でも受け入れます

後から聞くと
いろんなところをさすってもらったことで
気が紛れて
けっこうよかったみたい
ということでもありましたが

これまた母親の愛にあふれた解釈なのでしょうなあ

しかし

いよいよ産まれるというところになると
息子たちが母親の脇に自然にあつまり
とても緊張しはじめました

みんなの体が硬直してきます

母親が涙を流しながら痛み苦しんでいるのが
目と耳に衝撃としてぶつかってきます

共くんが
気が付けば
涙がぼろぼろです



髪の毛が出てきまして
息子たちの目がかわりまして

そのあとは
新しいいのちが頭を出し体を出し
というのを
丁寧に迎えてくれました

へその緒を切ったのは共くん
空くんは
できない・・・
とのことでした

その気持ちもなんとなくわかります



産まれた生命が女の子で

そこにいてくれたお医者さんや助産師さんたちが
いっせいに喜んだのが
なんだか面白かったです

さて
産まれまして
みんなで
言ちゃんのほっぺたなどをさわっている中

添くんは
産後におこるさまざまなことを
お医者さんや助産師さんのとなりで
じーっと観察していました

つまり

出血の手当てや
胎盤がでてくるところなどを

じっくりと見ておりました

こりゃあなかなかのもんです

とまあ
にぎやかな出産場面でした

憐くんも
しっかりとその場面を焼き付けたようで
その晩寝る時ふとんのなかで

ママちーちー(血)いっぱいでたなー
ママ泣いてたなー

と心配そうに言っていまして
翌日母親にあった第一声も

ママちーちー大丈夫?
というもので

これまたなかなかのもんでした

一気にみんながお兄ちゃんになりました
学年がひとつずつ増えたのか
というくらい
しっかりと生活してくれています

しかし
もうじき赤ちゃん帰りがはじまるわけですが

小学校にいくおにいちゃんたちは
本日も
学校帰りに直接病院に行きます

なんだかそういう息子たちがうらやましいです


若菜さんも
さすがに年齢を重ねておりますから
疲労具合がこれまでよりも
大きいものがありますが

しかし順調に回復しております

お祈り感謝
神に感謝

ひとつの勝負

2008年06月18日 | 「生きる」こと
言ちゃん出産の場面は
なかなか楽しいものでしたが
それはまた今度ということで

本日は
同志社高校の礼拝の風景を

本日は高校2年生

チャペルがわけあって使用できないため
音楽室でひとつのクラスの生徒さんにお話をして
残りのクラスの生徒さんたちは
放送で聞くというものだったのですが

そういうものだったので
話し手と聞き手の距離が近くて
とてもたのしいものでありました

礼拝が始まります
でも生徒さんたちは
礼拝に興味なし!
という態度を競ってつくりだすという雰囲気のなかで
全身の筋肉から力が抜けた状態という
リラックス方法としてはとってもいい状態でありました



讃美歌を歌うときになったら
とってもだらだらと起立しまして

歌っているのはひとり
それもとっても小さな声
なわけで

これまた
競ってたるそうな状態をつくりだすというものでありました

しかし
チャペルとは違って
今回は話し手のわたしから距離が近いから

わたしは賛美しながら
ひとりひとりの目をじっくり見ていくわけでありまして・・・
すると
急に固まる生徒さんもいれば
苦笑いする生徒さんもいれば
目をそらす・・・
下を向く・・・
などなど
たぶん見られた生徒さんの立場からすれば
どのような態度をとってよいのかわからなくなるという
不思議な緊張感を強いられてしまうという
まあ
かわいそうだけど
楽しいという
そんなことをしながら

讃美歌が終わると
今度は
誰が一番早く座るかという
それこそ
すべての筋肉が見事に連動してすばやく動くという
見事な運動的競争が起こりまして

ふき出したいのをがまんしていたわけです



わたしの話の番がきまして

「おはようございます」
というけれども
そりゃあ予想どおりでございまして
まったく反応がありません

シーン

というわけでございますが

無言でみんなの目を次々と見ながら

「そんな話し手がさみしなることせんといて
 帰りたなる
 きてよかったあって思いたいし
 もう一回やろか
 いくよ
 おはあよおうーござあいまあす」

ということで

こうなると半分くらいはカンネンして
「おはようございます」
となるわけでして

「うん
 えらい
 きてよかった」

なんてわけわからんこといいつつ

お話のはじまりですが

「おひさしぶりです
 前回は2月にきてこんなん話したわけですが
 覚えてますか」

と聞いてみたら
みんな顔をあげるではないですか

ちょっとこっちがびっくり
よーく覚えてくれているわけです


「本日はその続きで
 わたしの反省編です」

ってな具合で
あとはみんなじっくり聞いてくれまして

帰る際には
「ありがとうございました」
と言ってくれる生徒さんまでおりまして

そうなんです

高校生は
ちゃんと話せば
ちゃんと聞いて
ちゃんと記憶している
つまり
自分のテーマとしている
わけであります


このわたしの話には
さらに続きがあります

それは次回
11月ということで・・・


10年も牧師をまじめにやっておりますと
こういう
何度か回数を経て
原稿なしで
聞き手とのやり取りのなかで
自在に変化しながら
しかし本質ははずさない
というネタは
いやでも数十本はたまるわけで


しかし
高校生相手のときは
この数十本のみで勝負するわけでありまして

これは

話し手としてはとっても楽しいときなのです

というわけで

この三日間は
第五子である長女の誕生もあって
とっても楽しい時でした

感謝感謝

誕生

2008年06月17日 | 「生きる」こと
本日6月17日
午後5時28分

生まれました

第五子







これまできまして



今回

























女の子でした

3230g


名前は

大谷言(おおたにこと)

です


母子共に健康です


お祈りありがとうございました



イワサキせんせ

やりましたよ!!

歯&プール

2008年06月17日 | 「生きる」こと
添くんの前歯が抜けそうです
あのぐらぐらです
彼ははじめての体験です

面白いのは
親のわたしが
息子たちの歯が抜けることを通して
自分の歯がはじめて抜けた時のことなどを
鮮明に想起するということ

空くん
共くん
添くん
と三人目となると
わたしもまた
自分の子どものころの記憶がますます明確に
脳みそにくっつく
ということを味わいます

これは歯だけではありません

たとえば
添くんは今日
学校でプールの授業があるので
体温と脈拍をはかって
親が印をおしましたが

すると
わたしが小学生のときに
朝体温をはかっていた部屋の情景などが
見事に想起されますし
プールでなにをしたかも想起されます

つまり

息子たちの経験を追体験するなかで
自らの経験をも追体験するという
祝福にあずかります

子ども
あるいは
世代の異なる者たち
と交わるということは

記憶がより明確になるということであり
歴史がより明確になるということであり
「わたし」が
より「わたし」になる

ということなのだろう
と思います

この間こだわっている「自立」も
ゆえに
他者との交わり
それも
世代が異なるなど
交わりが容易くない者たちとの交わり
があって
はじめて語り始めることのできることでしょうし

歴史を掘り起こすということも
交わりに生きてはじめて起こることなわけです

だから
次世代は
交わりに絶対に欠かせません

次世代への歴史の継承よりも
次世代の存在ゆえの歴史の歴史化
が大切だろうと思います


「交わり」が中心なら
次世代は起こされます


「自己実現」みたいのが中心なら
次世代が起こされることは
そりゃあ
むずかしいわけです


よくあることですが

いわゆる
人の集まりというのは

「交わり」を生きる集まりとしてまさに交わりに生きるのか
「自己実現」を手助けする集まりとして利用できるところを利用するのか

という
どちらかに流れていきます

前者は人が存在であり
後者は人が消費者であります


といった感じで

次世代という存在は
本質的に交わりにとって欠かせないものです

その本質は
単純に
歯が抜けたことをみんなで共有できる
といったものです


というわけで

いよいよ

第5子が

若菜さんのおなかから出たがり始めました

陣痛がすこしづつ始まってきました

今日でしょうか
明日でしょうか


新たな次世代に
感謝感激になるわけですが

たまらんですなあ

ではでは