きぼう屋

生きているから生きている

におい

2007年09月20日 | 「生きる」こと
ゆうやけこやけのにおいがする

と添くんが言いました。

そこに漂っていたのは隣のほほえみさん(パン屋さん)のにおいでしたが
それを目の前にひろがる夕焼けとひとつにしちゃうとは
どえらいことで
でも
ひとつの真理で

うーん
いい感性だなあ
感激感謝。




におい
というものが他の生命との接触を最も敏感に覚えさせる

とは先日のシンポジウムの中で分かち合われたひとつの大切なテーゼ

くさい!と言って少年はホームレスを殺した!
くさい!と避ける大人たちから学ぶ少年は裏の正義を実行したと言った!


くさい!と避ける教会や牧師やキリスト者が決して少なくないことは認めざるを得ないし

そういう僕も
くさい!という身体反応のままに
接触を避けることがいまだにある!
わけで・・・

しかし
生きることはくさい!

排泄物に分泌物があるからこそ僕らは生きている!


十字架上で血まみれ汗まみれ分泌物に排泄物まみれのキリストは
くさい!

キリストに近づくなら
くさいいのちとの接触
つまり他者との出会いを頂く!

くさいいのちとの接触を避けるなら
くさいキリストとの出会いをも避ける!


うーん

においはすごいなあ
においは恵みだなあ





「自立」って?議論はじめました!

2007年09月19日 | 教会のこと
自分ひとりで考えてもどうにもわからないことがありますなあ

その中でも
キリスト教会で
いや
世界で
まるでみんなが共通の理解をもっているかのように語られることば

それは


アイデンティティ
自立

などなど



アイデンティティ
についてはいくらかはこれまで学び考え対話を交わす中で
ある程度
まだやんわりだけど
つかみかけているような気がしますが

けど

自立
についてはなにしろ僕はよくわからないままでして・・・


ようやく
みんなで議論をするという
そういう場をつくることができました


とりわけバプテスト教会では自立というものを大切にしておりまして
どこにいっても
「自立!」
という叫び声が聞こえてきますが
申し訳ないけど
そうとう身勝手なイメージでそれぞれ捉えていると思いますし
「自立!」
と叫ぶことで安心してしまうみたいなところもあるだろうと思います

でも
自立って
他者の力ではなくて自分の力で立つ
というもので

神とかキリストとか聖霊の力を信じる教会において
どこで自立が語られるのか
本当にわかりません

自立の意味内容の範疇や射程はいったい何???

ひとつはっきりしているのは
抑圧してくる力から解放されて
自分で立つということですが

その場合
実はテーマは自立ではなくて
抑圧している力の正体であって・・・

そこで自立を語ることは
抑圧という大問題をぼやかしていることでもあって・・・

いや、逆に抑圧する力が「自立」という言葉でもってなおさら抑圧することがどんなに多いことか!!


自立というのはそもそもきっと
子が親から離れて自分で立つことで
それもとても動物的、身体的、生活的なことなのだと思います


日本のバプテストの場合
アメリカという親から離れて立つというところで自立というの語られるのはいいかもしれません。
でも
それは生活的なことで・・・

精神的自立といわれると
もうわかりません・・・

その中身はいったい何???

まあカントが自律というのを語ってくれていますが
これはどちらかというと
抑圧してくる力、法律、律法に縛られるのではなく
各々自らの決断において自らを律するということで

これなら
抑圧してくる力、雰囲気、気分などの正体を見極めて
そしてそれではないもので律するということだから
キリスト教会でも
歴史を語る中で語ることはできるかなあと思います

それでも一部であって
つまり
福音による決断で律するわけですが

そこまで行くと
福音律
キリスト律
って表現するほうが適当だろうし・・・

自立も
キリスト立って言い切ったら
どんなに
教会論が豊かに語れることかって
思うわけでして・・・


不思議なコトは

僕は
自立を語るからこそ
抑圧する力に抵抗するし
それと同じほどに
いやそれ以上に
自らが他者を抑圧することも発見するのだろうと思うのですが

どうも
自立を語るけれども
抑圧する力の正体とかは語らないことや
それを語るのはそれこそ個々人の自立の次の話って言ったりすることや

他者性が語られないことが

これまで多いのを見ることです

するとますます自立っていったい何?
となってしまいます・・・


わたしが自立で最も納得できている言葉は
ボンヘッファーが言う

ひとりで生きることのできる者のみが交わりで生きることができ
交わりで生きることのできる者のみがひとりで生きることができる

という言葉です

「世の光」7月号にもこの言葉は引用させていただいております

つまり

他者
というテーマは

自立というテーマであるということ


先日のシンポジウムで
自立について議論すると
他者というテーマを実が議論していることになっていまして・・・

「それって『自立』で語るより『関係性』じゃあないの」
なんて互いに確認しあったりして・・・


うーん

しかし
みんなを巻き込んで
議論をはじめようではありませんか・・・


これは楽しみ楽しみ
感謝感謝



わたしは

実はいまのところ

「自立」なんてない!あるのは「キリスト立」のみ!

半分
あえて議論のために
しかし
半分
本気で

言いまくっているところです・・・


おしまい。。。。。

信じる者は交わり、交わる者は信じる

2007年09月14日 | 教会のこと
先週土曜日
ワタロウが遊びに来てそのまま泊まるということで
我が家の四兄弟は朝からウキウキ
すると電話が鳴って
泊まり行っていい?
とトキが言うもんだから
ますますウキウキ

我が家はその日は六人兄弟になりました

日曜日
教会に子どもたちが喜んできてくれえうれしいなあ

常々思っていましたが
教会学校の小学生クラスと子どもクラスを少しばかり見てみたら
それはそれはリーダーたちが
全身全霊で子どもたちにかかわってくれていて
これだ!

すこぶる確信!

リーダーのみなさん
感謝!!

また当教会に転会を希望されているJさんと
転入会クラスを持ちまして
その際
当教会のグランドプランを一緒に分かち合いまして
なかなかいいじゃあない

教会の将来がまたまた楽しみになりました

月曜日
バプテスト連盟のホームレス支援シンポジウムのため
さいたま市へ

とても深い事柄を分かち合うことが出来ました
生田武志さんの講演は
野宿者を襲撃する若者の姿から世界全体を見るというもの
圧巻!!
たまたまルワンダから一時帰国していた佐々木宣教師が絡み
さらに各地でホームレス自立支援運動に取り組む仲間が絡み
あまりに深い議論を真夜中まで交わすことがゆるされ
感謝感謝

火曜日は「自立」というテーマでパネルディスカッション
これまた深くまた深く
来年の福岡でさらに続きをすることに
ちょっとすごいよ
この議論

そんな出張中の火曜日夜は
我が家はパーティだったとのこと
保育園仲間のたくさんのお父さんとお母さんと子どもたちが集まって
食べて飲んで
だったそうで
ここにもいたかったなあ・・・


ホームレス支援シンポジウムの合間に
来春の平和宣言全国研修会の計画を
たまたま研修会企画チームの仲間が集まっていたので
考えまして・・・

なぜか私が計画の責任を担っているもので・・・

これまた
自分で言ってちゃあ仕方がないけど
なかなかいい研修会になりそうな企画ができあがりました

大変な世の中だけど
その世に必要な論理と倫理とを
存分に議論できる企画が
来年も続く・・・
ってのは
単純に生きるのを楽しくしますなあ

いろいろと上手いこといかないことも多いけど

常に重いものを背負っている感触を
これでもかと持ち続けているけど

それを持ち続けることを可能とする出来事がある!!
それは
しつこいくらい一緒に生き
しつこいくらい言葉を交わす
という出来事

しかもその出来事は
与えられるものを
そのまま頂戴する出来事

つまり信仰

信じる者は交わり
交わる者は信じる




子子子さらに子さらにさらに子

2007年09月08日 | 「生きる」こと
西南学院の神学校時代の同級生のマツフジくんちに
第四子が誕生
あちらはこちらと違って
女の子も産まれるようで・・・

会いたいねー
産まれたての小さな小さな手足を見ると
いのちの底から感動するもんねえ・・・

めでたいめでたい

お大事に




日本バプテスト連盟の
ホームレス支援特別委員会の
責任を担っておりますが
その委員の仲間たちはなぜか

子沢山

タニモトさんちは5人
オガワさんちも5人
ヒロシマさんちは4人
マツフジさんちも4人
ウチも4人
オクダさんちは3人
ムギノさんちも3人

これ
奇跡だなあ
子どもがたくさんうまれる環境にある家族は
この奇跡を
他の様々なかたちで世界に還元することは
使命だと思う・・・

でもって
単純に
いのちが好きやねんなあ・・・
こわくないんよね
牧師という貧乏な職業なのに
家族がいっぱいでも
どうにでもなるって
確信してるんよね
いのちってのはそういうもので
神がかかわるからなおさらそうで


でもって
他者あってのわたしだから
身近に他者が与えられることが何よりうれしく・・・

でもって
わたしの夢とかやりたいことや気分とかで
動かないから
だから
きっと子沢山の道を選ぶことが出来るし
子たちに時間と力を吸われ続ける人生を選ぶことが出来る・・・

うーん
子どものことに関する相談相手にも事欠かないねえ

でもって
全員集合してみたいなあ

ちぢみ

2007年09月07日 | 「生きる」こと
添くんはよく空を見ます

「雲が走ってる」
と昨夕

「朝はちょっと紫やなあ」
と今朝

詩人やねえ


憐くんはまだおっぱいを飲みます



おっぱいを飲みながら
なぜか
逆立ちします




とりあえず笑えます

ここ

論理と倫理に福音と律法

2007年09月06日 | 「生きる」こと
ふたつのまえの記事の
論理と倫理
というのは
それぞれ
福音と律法の読み替え

突き抜けた出来事があって
論理は論理となり
倫理は倫理となる

昨今の
メディアで流されるような
政治家や官僚や経営者の発言は
誰から見ても
イイワケとアリバイ

でも
僕らも
ほぼすべての人が

自らの思いや感情、感覚を守り
それでもって自らを安定させるため
語ることばのほとんどを
イイワケとアリバイに
無意識にもしてしまう
ということは否定できないはず

しかし
それが無意識でなく
意識的戦略的に
政治や市場では用いられもする

宗教もそうだろう
教会ももしかしたら・・・

でも
そうなったら
おしまい

福音と律法が消える・・・
神が消える・・・

そこでは
人間みんながみんな
各々に神となってあらわれる・・・


別に神学とか信仰を語らずしても
論理と倫理は
突き抜けた事柄から語らずしては
どうにもならないことは
世界が
すでに知っている・・・

いまだことばにならず・・・

2007年09月05日 | 教会のこと
ことばになってくれないのです。
この前の礼拝の出来事が・・・

青年企画による礼拝

なにしろすばらしかった!

なにかが起こった

でも
その起こったことが
ことばにならない・・・

起こるべくして起こったことであるし
本当は起こっていたのに気づくことが出来なかったことかもしれないし
京都教会の既に知っていることに頑なにしがみつくゆえに
知らずに排除していたことかもしれない・・・

でも起こった
なにしろみんな喜んだ

落ち着いた興奮
さわやかな感動

うーん
やっぱ
ことばにならない・・・

でも
何かが
始まった・・・



論理 倫理

2007年09月04日 | 「生きる」こと
論理は
宇宙の隅々にまで
身体の隅々にまで
響くもの

そうでない論理は
いいわけ
と言う

倫理は
宇宙の隅々にまで
身体の隅々にまで
響くもの

そうでない倫理は
ありばい
と言う



僕らはどうあがいても
いいわけとありばいの中で生きるわけで

どんな優れた科学でも
いいわけとありばいの範疇にあるわけで

でも
その中で
論理と倫理を探すわけで
そこに希望を見るわけで

その情熱は
持ち続けたい・・・

すくなくとも

積極的に
いいわけとありばいで
生きるようには
なりたくない・・・



またまたキリストの身体・・・今年度テーマだから

2007年09月02日 | 教会のこと
今年度の京都教会のテーマは、「キリストの身体とされて」
パウロさんがコリントの教会の人たちに教えてくれたこと

つまり、
キリストは観念でも波動でも粒子でもなく
生々しい身体として
私たちに実感されるものだということ

身体とは不思議
あらゆる部分が複雑に絡み合う中で動きをつくり
さらに気分や感情をも生み出す
しかしそれは決してひとつの細胞で動かすのではなく
あらゆる部分が一緒に担いつつ動く

そして聖書はパウロさんを通して私たちに
キリストはまさに教会の交わりとして
教会に集うひとりひとりが
複雑に網の目状に絡み合うなかで
そういう動きとして実感されると教えてくれた

教会の交わりがキリストというのは事実

こう考えるとわかりやすいかも
つまり
人というのは
他の複数の他者と一緒に物事を運ぶことに
歴史を通して苦労してきており
その中で嫌な緊張や摩擦が生まれることをよく知る
そして
それならば一人でやったほうがいい
と繰り返し思いつつ
実際にそうするけれども
しかしそれが歴史の中で
とりわけ愛を失う結果となり
世界をおかしくしていることも知る
そんな中で
嫌な緊張や摩擦があろうとも
そこに和解と復活を起こし
なお交わりとして
深く複雑に絡み合いながら動くことを成すのは
キリスト以外にいるはずがない


さて
本日は青年と少年少女が礼拝のあらゆる奉仕をする
感謝に耐えない
また
もっと遠慮せず
教会の交わりに絡んできてほしいなあとも思う
これをいい機会としてぜひ

 京都教会はありがたいことに小さな交わり
 互いが行き届きあう可能性を持つ規模の交わり
だからもっと生々しい身体を実感できる交わりでもあるということ
時間、空間、証し、知恵、感性、技能、経済など
ありとあらゆるものが複雑に絡みあい動く中で
京都教会はさらに「キリスト」教会となる

ぜひキリストの身体とされてまいりたい


秋だなあ

2007年09月01日 | 教会のこと
いつのまにか9月になっておりました
携帯の壁紙がもみじにかわっていて気づきました

もう空はとっくに秋
いま外からは涼しい風とともに秋の虫の声が届きます

この夏は
召されたY兄の出来事を受けざるを得ないように正面から受け続けて
引きずらざるを得ないように重く重く引きずり
その中で新たに出会い新たにひらめき新たに考えるような
そういう時でした

そしてその時を経て
9月にまた秋になったということもあり
いくぶん軽やかさがじわじわ染み出しつつあるかなあ
というところにいます

そして2日の礼拝は
なんと青年と少年少女が企画し整えてくれる礼拝です

礼拝で読む聖書のことばから讃美歌、交読詩篇などを彼らが選び
司会、子どもメッセージ、OHP,受付、献金などの奉仕も彼らが担います

とても楽しみ

ぜひぜひよろしく

そして

もっともっと教会共同体をかき回して欲しいなあ
青年から責任役員が出るくらいにもはやなっているし
なっているからこそ
そうならないとなあ
と思っております。

遠慮なんかいらないよ

だって京都教会だから