きぼう屋

生きているから生きている

バザー情報

2007年10月31日 | 教会のこと
バザーまで
あとちょっと!!

教会はすでにバザー会場に変身!!

今年もすばらしい商品だらけ
例年そうなんですが
さらにそう!!

私は中古衣類を本日並べましたが
半分近くがブランド品でびっくり!!

さらに
昨今流行のセレクトブランドなどは
値段をつけた一世代上の方々が知らないものだから
ビックリ価格!!
たぶんリサイクルショップが引き取る価格以下!

ぜひぜひ探し当ててくださいませ!!

それだけでなくて
あれもこれもびっくり価格だし
何しろお宝探しを味わえますし
ぜひぜひお越しくださいませ!!

子どもコーナーでみんなで遊ぶ手作りゲームも待ってます!!
おいしいごはんたちも待ってます!!

さらに昨日も今日も
献品を頂戴し感謝。

前日まで受け付けております!!


なにしろ当日は早い者勝ち!!
朝10時から

お楽しみに!!

出会いの表現

2007年10月29日 | 「生きる」こと
下記写真展に行ってきました!!
大推薦!!

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

加藤和子写真展 「タイドプール ~ Tidepool ~」
●会期 2007年10月27日(土)から11月3日(土)
●時間 11時から19時

●タイドプール・ミニ プレゼント
展示写真のサービスプリント版がそれぞれ1枚ありますので
お越しの方から お好きな写真を1枚 差し上げております

●場所 京都西陣町家スタジオ ギャラリーおよび石庭+α
  〒602-8233京都市上京区葭屋町通中立売上る福大明神町128
●問合せ先:
 加藤和子(かとうわこ・ICTアドバイザー・プランナー)
 tidepool2007@sandogasa.net

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

加藤和子さんのブログ
加藤わこ三度笠書簡
どうぞご覧あれ!


生活というのは
今・ココ
における時間と空間のすべてと
可能な限り丁寧に
第六感もふくめたすべての感覚と
感性に感情をもって
出会うものであって
さらにそこでの出会いを
覚悟と決断をもって
表現していく
というものなんだなあ

ということを学んだ展覧会でした。。。



和子さんは
日本バプテスト京都教会の時間と空間で起こされている出来事も
切り取って残してくださっていて
もしかしたら
今週土曜日(11月3日)のバザーで

そういう作品のいくつか


登場するかも知れません!

というか
親切な和子さんがそうしてくださる
とおっしゃってくださったのですが
展覧会中で忙しい和子さんですので
無理はしないでくださいね

来年も
再来年も
教会もバザーもありますので

くれぐれも
ご無理は
だめです。


みなさま
展覧会にぜひぜひ足を運んでくださいませ。









ぼちぼち生きて

2007年10月24日 | 「生きる」こと
この間
日々の活動の内容を紹介しつつ
そこから受けたことを書き留める
ということができておりませんが

何も受けてないということではなくて
嬉しくまた寂しく
楽しくまた悲しいという
あまりにも深いことを受け続けていて
言葉にできないというところです

バザーがらみではいろいろと起こってすごく幸せです
献品はほぼすべてが地域からのもの
それもわざわざ教会まで運んでくださいます
しかもとてもいい物ばかりで
ありがちな
不用品をそういうところで処分するということが
ほとんどなく
驚いてもいます

もっと驚いているのは
献品をしてくださった地域のみなさんの総数は
教会のメンバー(信徒)の総数を上回っているということで・・・

教会というのは
教会員のメンバーのみならず
覚えてくれている地域のみんなにより成立するのだなあ
と嬉しく感じております

これは京都に来て9年
私が思い描いて作りたいと願ってきた教会のかたちでもあるので
そのかたちがはっきりとみえてきたということでもありそうです

でも
ここまできたら
神さまを信じて教会家族のメンバーになってもいいと思うのだけどなあ

地域のみなさま
いかが?


全国ろう者修養会が今年も京都教会で開催されました。
新しい出会いもあり
嬉しかったあ

毎年一回開催されるこの修養会は
ひとつの教会である!
と認識するしかありません!
教会というキリストの体なる家族は
互いに覚えあい祈りあい
さらにその内側で小宇宙的にまとまるのではなく
いつも世界全体を見つめ
そこに向かっている
というところで成立しているわけです!

それをたっぷり感受して幸せ!!


ジョーノさんが当教会のメンバーに加わりました
優しくて力持ち!
とは彼のこと!!
証しではしっかり「決断」が述べられていまして・・・
まさに「決断」が信仰なわけで・・・
嬉しく感謝感謝。。。


市役所前の炊き出しボランティアには若い僧侶さんが来てくれました
嬉しいかぎり
じっくりお話がしたいです
さらにホームレス当事者のために
手作りクッキーを真心こめて焼いてくださった方もいて・・・
それをもらったみなさんの笑顔は
これはこれは
くしゃくしゃで
へらへらで
なんともいい顔でした・・・


息子の友人が泊まりにきて
そこで起こった数々のほほえましい出来事は
映像と音で身体全体が覚えているけど
言葉にならないんですよねえ・・・

なにしろ嬉しい

感謝感謝。。。




昨日
わたしは牧師室の本の整理をしました

実は牧師室をもらったとき(もう6年前ですが)
本を棚に詰め込むので精一杯で
その後も、ちゃんとジャンルごとに整理などできず
さらにその後も本は増えているので
もうただ棚に入っているだけという
めちゃめちゃな状態でした

そしてやっと時間をつくってやりました

いっきに使いやすい部屋になり嬉しい限り

しかし
わたしはだぶっている本がたくさんあるだろうなあ
と予想していたのですが

新書で数点あったのみでした
ということは
ごちゃごちゃでも
どの本をもっているかを把握できていたということで

けっこうそれなりに読んで勉強してるなあ

自分に感心したりもしました

といいますか
それが職務なのでやってあたりまえなのですが・・・

本を読む時間を作る!
というのはひとつの勝負です!

今は早朝に祈りと読書の時間をつくっています・・・



本の整理をして
本日は
左足の付け根と腰がしびれて痛くなっております・・・

負傷箇所は足の付け根でそれが腰にも響いているということでしょうが
この箇所は初めて痛みを覚えまして・・・

だんだんと故障箇所が増えますなあ・・・

運動する時間をつくるのもまた
勝負ですな

うん。




自由

2007年10月17日 | 教会のこと
ホームレスは好きでやってる・・・
自由をあえて選んでいる・・・

といわれる市民の方はいまでもたくさんおられまして・・・

アンケートなどで
それは違う!
ということを言えるので
そのように応えておりますが・・・

しかし
ずっと
「自由」って何?
ってな問いも脳みその隅にありまして・・・


ふとこんな風に思いました。

「自由」ってのは
生きる方向に向かってあるものであり
死ぬ方向に向かってあるものではない!


今の世界
いやもしかしたら人間の世界はいつでも
なぜか死に向かっています。

まあ当然
いつかは死ぬわけですから
そうりゃあそうだ!
とも言えそうですが

しかし
もうちょっと考えてみると
みんな死なないために
他者を蹴落とし踏みつぶし
時に殺すわけで

直接的に
それ以上に経済システムにおいて間接的に
時に殺すわけで

でも
世界の循環としては
もはや死なないための循環でなく
みんなが
死に向かっているという循環として
かっちりと世界システム化していると言っても過言ではなく
なんとも希望が見えない世界なわけです。

だから
自分で自分の命を落とす自由とか
自分で自分の身体を傷つける自由とか
時に語られるのかもしれません。

ホームレス当事者と出会うと誰でも知るのは
病気だけど、病院に行きたがらない仲間でありまして
そういうときによく聞く言葉は
「別に病気でもいい!おれの自由だ!」
というものです。

でも
「自由」ってのは
死に向かうものはないと思いました。
死に向かう自由は偽者だと思いました。

でも
死に向かう自由が多く語られそれが肯定されるのは
世界が死に向かっているからであり
それを今一度生きる方向へ向かわせる事柄については
世界がほとんど知らないからだと思いました。

復活、快復、和解、救いを知らないからだと思いました。

でもそういう世界では
死に向かう自由を肯定するしか
手がない!
ということは
起こりうるし起こるはずだと思いました。

でもそれは実は
死に向かう自由を手に入れたのではなく
生に向かう自由を手に入れることが不可能な世界になった
ということでしかないだろう
と思うわけです。

だから
やっぱり
「病院に行こう」「生きよう」
と語り続けたいと思います。

そして
生に向かう
生きる自由を
まさに本物の自由として
表現していきたいと思います。

赦しも救いも和解も快復も復活も
教会は表現することが出来るのだから。

スポーツ・宗教・教会・世界

2007年10月16日 | 教会のこと
ボクシングにおいて亀田家の行動が大問題になり
また相撲においても時津風部屋の行動が大問題になっております。

これら一連の行動と
それが大問題になるということと
それによって世間が処分を求めていくということ

見ていくうちに

わたしはスポーツは実は宗教学的に考えねばならないんだなあ
と思うようになりました。

私たちの世界は
実はいつでもどこでも
自分が生き残るために
勝利するために
相手を蹴落とし
負かし
時に殺します。

とりわけお金というものでそれが数字で表れる昨今は
なおますます
それを激しく互いに行っていきます。

そして
そのお金でまわる世界では
どこであっても
ありとあらゆる狡賢さでもって
勝利し生き残ることが目指されています。

そして持っていない者はますます搾取され持てないようになった世界が
いま広がっています。

みんな
そうやって死をあまりにも身近に感じている人がたくさんいることを知っています。

でも知らないふりをします。
あるいは
冷笑的にふるまう術を身に付けます。

そうやって
ますます狡賢くなって
生き残り勝利するために動き始めます。

そうしないと生きていけないから・・・


でも
同時にみんな知っています。

それはあまりに悲惨な現実であること
実はみんなで滅びに向かっていること
みんなでいわば集団自殺しているようなことであること

だから実はみんな願っています。
こういうサバイバル競争でない
みんなが生き生きと
まさに復活し快復し生きることができる世界であってほしいことを。


まさにそういう復活の世界を信じ
そのために行動し続けるというのが
信仰であり
宗教であるわけです。
(内面の安定という宗教はただサバイバル競争における力の一つであり本来の宗教とは正反対のものです)


実はそういう信仰的宗教的事柄を
人々はスポーツに求めているのだなあ
と思いました。

実生活における金の勝負ではあり得ないですが、
蹴落とす相手が具体的にわかっているけれども
でもその相手を尊敬し、
そういう中で勝負し
終われば勝っても負けても互いにさらに敬い
それをスポーツマンシップという
ひとつの教義としている
それがスポーツなのだなあと思いました。

だから金の勝負である今の変な経済社会においては問われないけれども
スポーツでは反則は徹底的に問われるわけでもありましょう。

スポーツくらいは
あの集団自殺社会とは違うものであってもらわないと
希望が消えてしまうのだろうと思いました。


だからこそスポーツにおける関係性は
宗教的な関係性になるのかも知れません。

時津風部屋や亀田家のように
カルト宗教の形態における関係性を持つようになったり
いやいや
これは多くの学校における
体育会系の部活等における関係性もあり・・・
実はスポーツをする団体が
宗教的に知恵と知識の足りないような形になっていることが多いのもうなずけます。


これは一方でキリスト教会も問われるわけで
同じような形態の群れは
少なくないはずです。

また
今、家族というものもまたカルト的であるケースが増えているのは

実社会における生存競争という集団自殺行為に疲労しているゆえに
家族には違うものを求めるゆえに
でも
信仰の本質や宗教の歴史は
この国では無視されるケースが多いゆえに

カルト的になるのかも知れません。

実はこれはキリスト教会のテーマであるわけですなあ。

今後も少しづつ考えていきたいと思います。

権威とのたたかい

2007年10月09日 | 教会のこと
根源的な問いをこのブログで発することが多いのですが・・・
今回もそんなところでして・・・

私はバプテストですし
バプテストが好きですなあ・・・

しかし
そのバプテストとしての特徴が
イイワケとアリバイに使われるのが多いのは
世間のあらゆる思想信条と同じでして・・・

どうもロゴスにならない・・・

たとえば「権威」というテーマ

バプテストはすべての人の権威を認めません。
聖書の言葉のみが権威です。

しかしその聖書の言葉のみ!というのが
原理主義という枠組みでよく語られるように
自分に都合のいいことを聖書の言葉で語ることで
実は自分を権威にするという
そういう倒錯が見られるのが
おそらく今の世界のバプテストの最も大きな現象。

だから実はもはや聖書のみが権威という
この一連の文章は崩壊しているし
それを立ち直らせることは歴史的に意味がないだろうと思っています・・・

まあしかし
牧師や教会役員などに権威がない!
ということは実生活問題の中でよくわかるから
これはよくできている制度だと思います。

でも
例えばそういう中で
牧師、役員、信徒という区分のなかに
職務的な違いはあれ本質的な違いはないということで
いろいろと教会が考えるなら

そこではかならず次のテーマも同時に考えられねばならないでしょう。

それは
男性と女性という区分というテーマです。

牧師が信徒に権力を振りかざせるというところからの解放
信徒が牧師の権力に半ば脅かされるというところからの解放
を考えるなら

男性が女性に権力をふりかざせるというところからの解放
女性が男性の権力に脅かされるというところからの解放
を同じだけテーマにしていないならばおかしい・・・

それなしに
牧師の権威について語っている教会は
実はアリバイとイイワケ
つまり
牧師を守るためのアリバイとイイワケ
信徒を守るためのアリバイとイイワケ
教会組織を守るためのアリバイとイイワケ
を超えることは出来ていないということだろうと思います。

しかししかし
牧師と信徒
男性と女性
ということをテーマとする教会は
さらに同時に
大人と子ども
ということもテーマにすることでしょう。

とても簡単なことで
歴史的に
信徒に女性に子どもは
暴力を受けているわけです。

でもここにくると
なぜか明確に
大人と子どもの区分がなされる。

幼児洗礼の否定など
積極的にバプテストは区分をする。

教会学校において子どもの礼拝だけ区別されているとうこともある。

なぜだろう。。。
ここに矛盾を見るのは私だけなのか・・・

大人と子どもの区分は近代の歴史が重ねられる中で極めて重要な出来事であるはず。
知らねばならないことは
大人と子どもと
その間の思春期という区分などは

牧師と信徒という区分と力関係を人間が作ったように
男性と女性という力関係と人間が作ったように
やはり
決して自然の事実ではなくて
人間が近代に作り出した区分と力関係で
そこでは明らかに大人が子どもを支配しているわけです。

だから
例えば
学校制度と同じく
同じ年、年代に生まれた人をグループにする教会学校をしていたら
それは
牧師と信徒という「権威」に関するテーマを考えていたとしても
やはりロゴスにはならないという・・・

そういうことでありましょう。。。


健康な人と病気の人
とくに精神の病という範疇でそれが語られる場合のこともテーマとなっていないなら

やはり
牧師と信徒
男性と女性
大人と子ども
について考えていても
それはロゴスにはなっていないという証拠でありましょう。。。


歴史的に人間が作り出してきて整理整頓してしまった枠組みとそこにおける力関係を
徹底的に批判する中でしか
バプテストは成立しないわけですなあ。。。

つまり
端的にそこで弱くされている者に寄り添い
そこからの言葉が教会をかたちづくる
というところに賭けるというところがバプテストなわけでしょうなあ。。。

牧師社会の教会は
牧師の権威を語らない。。。

男性社会の教会は
牧師の権威を語り男性信徒の力を保証すれど
男性の権威は語らない。。。

大人社会の教会は
牧師の権威と男性の権威を語り
男性と女性の大人の力は保証すれど
大人の権威は語らない。。。

体力のある人間社会の教会は
牧師と男性と大人の権威を語り
子どもも含めた体力のある人間の力は保証すれど
体力(経済力・知力・健康を総合したものとして)の権威を語らない。。。



教会が人間が集まっている現場として
そのようなことを語るとき

イイワケとアリバイで語る場合は
その現場からなんらかの人間の偏った力があるかないかで語ることになるだろう・・・
だからある意味犯人さがしをする・・・・

しかし
ロゴスで語る場合は
その現場はどこかにかならず人間の偏った力があるということを知り
その偏った力が今の時点でどこにあるのか
牧師か男性か大人か体力ある人間か
いや最も細かく分析するなかで
それを見出し
その力のあるところを告白しあう中で
次の具体的対策を考えていくことになるだろう・・・

つまり罪人の集まりでしかない教会の
交わりを維持するための
悪しき妥協点なり結論点を
いつもよく見えるかたちで共有していく
という教会の姿を
ロゴスで語る教会は選択するだろう・・・

とまあ
こんなあたりを
なんとなく考えているところで
もっと深く掘り下げていきたいと思っているところです。。。



各個教会制度は
もっと悪く利用されていて
イイワケとアリバイでないところの論理を
私はなかなか聞いたことがありません。

誰か教えてくださいなあ。
先輩方。