きぼう屋

生きているから生きている

霊に導かれて

2007年05月29日 | 教会のこと
5月27日の朝日新聞朝刊一面に
ひとつのデータが報告されました。

刑務所からの満期釈放者の4割が
帰る場所がないという調査結果です。
30年前には9%だったとのことで、
今、帰るべき「ホーム」を喪失している「ホームレス」問題は、
今を生きる私たちの中心課題であることがわかります。

またこの報道を見て
私はマタイの25章を思い起こしました。

受刑者を面会し、
宿がない者を泊めるということが、
主イエスにしたことなのだ!

という内容の部分です。

こういう課題に対して、
何の聖書解釈も必要なく、
私たちが聖書の言を信じる者として応えることが、
それこそ恵みであることを教えてくれます。

しかし私たちは正直に反省するほどに、
「ホームレス」に応えることが
教会やキリスト者の活動になりづらいことを知ります。

私たちを
活動させずに教会内部に閉じ込める背景には
何があるのでしょう?

そのひとつを少し考えてみました。

それは霊の導きについてです。

どうも私たちは霊を心に閉じ込めていないでしょうか。
ヨハネ福音書3章には、
肉から生まれたものは肉であり、
霊から生まれたものは霊であって、
私たちは霊から生まれることで新たに生まれる
とありますが、
この場合の肉と霊を考える時に、
体と心という感覚で、
霊を内面の事柄として考えることが多い気がするのは
私だけでしょうか。
心というものが発見されて以来、
霊を内面化する傾向が強いような気がします。

でも3章8節には
次のようにも書かれています。
「風は思いのままに吹く。
あなたはその音を聞いても、
それがどこから来て、
どこへ行くのかを知らない。
霊から生まれた者も
皆そのとおりである」。

そもそもヘブライ語では霊と風とは同じ語ですが、
霊に導かれるとは、
風とその音に導かれるようなものであるということは
意味深いと思います。

まず風は体の外側に在るものです。
ここで、
霊は心の中ではなく、
体の外に広がることがわかります。

さらに風は地球上の隅々まで到達するでしょうから、
霊は、地球の隅々の、
それも人間がかかわろうとしない困窮のあるところにまで、
私たちを導くということではないでしょうか。

また音というのは時間と共に在るものです。
音は過去から未来へつながることで認識されるものです。
つまり音は歴史です。
さらに音の成分は振動ですから、
音は歴史の振動とも言えるのではないでしょうか。

これはすなわち、
歴史の隅々まで、
これまた、人間が見ようとしないような困窮の歴史にまで
霊が行き届き、
霊がそこで情熱を震わせるからこそ
私たちはその霊に導かれるということではないでしょうか。

私たちが新しく生まれるということは、
実は、
霊によって地と歴史の隅々にまで導かれるという
そういう生命へと生まれ変わるということでありましょう。

さらにいうと、
「どこから来てどこに行くのか」は知るよしもなく、
ただ端的に
地と歴史の困窮に出会ったゆえに出会う
ということを繰りかえすのみが、
霊に導かれる人生の恵みではないでしょうか。

ぜひとも霊に導かれつつ、
だからこそマタイ25章にある生き様が求められるという、
そういう活動を担うことができたら、
次代の教会は
まさに本当の意味で
活き活きと生きると思ってもいます。

まずは、出会うところから。
ぜひご一緒に。

******************

日本バプテスト連盟ホームレス支援特別委員会ニュースレター巻頭言
(これは6月下旬発行予定・・・お先にこちらで!)


恵みへの応答

2007年05月24日 | 教会のこと
5月20日の京都教会週報巻頭言

*******************

信仰は神の恵みへの応答。
これは長いこと教会で言われつづけているまさしく正論。

しかしどうもピンとこないのは私だけ?
恵みへの応答ってなんでしょう?

「信仰」は原語から直に読むならば「決断」。
生きる一瞬一瞬においていくつもの選択肢がある中で、私たちは決断しながら生きるということ。
そしてその決断する際の基準が、まさに恵み。
そう!基準は主イエス。
主イエスに招かれていることを決断するのが信仰。

99匹の羊でなく1匹の羊の状況に応えて、探しにいく決断を!
と主イエスは言います。
でも合理的に答えを求める私たちは、
リスクを計算し、
99匹を守り、
1匹の犠牲は痛みつつあきらめるという
選択をするのではないでしょうか。
いや、
痛みも覚えず冷静(酷)に
こういう選択を繰り返すのが
今の社会の本流でもありましょう。

つまり、
そこでは命が99や1という数字にされ、
それが全状況に当てはまる
と思ってしまう私たちの過ちがあるわけです。

しかし主イエスは1匹にかかわろうと招きます。
ならば99匹はどうするのか?
そう!
99匹から新たに1匹が迷い出たり、
危険な目にあうなら、
そこにすぐに駆けつけるのが主イエスであり、
そして一緒に駆けつけようと招かれているのが私たちではないでしょうか。

近年の聖書研究では、
こういう具体的運動を信仰と言い、
これを主に「従う」と表現しています。
(最初にこう言ったのはボンヘッファーであるのはよく知られるところ)
心で信じるのをこえ、体全体で従うということです。
この表現には、
心で信じるというとき、
実は自分の合理的答えを信じるに過ぎない!
という反省も含まれています。

主イエスの招きと合理的答えとは何が違うのでしょう。
それは、歴史(時間)を生きるか、無歴史(時間)を生きるかの違いです。
時間の中で主と共に生きるか、
それとも
どの時間でも同じ自分の答えがあると信じ生きるか
です。

さあ、どちらを選びましょう??

これ同時にスチュワードシップの思想なり。

またまた「答え」から「応え」へ!

2007年05月15日 | 「生きる」こと
この間わたしは
「答え」から「応え」へ
という事柄をテーマにぼんやり考えています。

たぶん、ここに現代世界の大きな誤りと
同時に転換可能性があると思っているからです。

現在の教育において私たちは「答え」探しに命をかけることを教わってきました。
それは「答え」があるというのが前提でもあるということです。
そして社会から「答え」を求められているのも事実です。

しかし、すこし考えれば、
生身のいのちたちが、歴史の中で物語を生きることにおいて
「答え」があるというのがアホらしいことに気がつくとも思います。

でもなんで「答え」に縛られてしまうのか。

たぶん安心するからだと思います。
「答え」がわかるとすっきりしてホッとするからだと思います。

また、「答え」がないと、不安だからだと思います。
不安に耐えるのが嫌だからだと思います。
そこで苦しむのが嫌だからだと思います。

苦しみ悩む力を、人間の力と考えなくなったからだと思います。

でも私は今の世界に必要なのは
「答え」ではなくて
苦しみ悩む「応え」だと思います。

世界の前提は「答え」ではなく
すべての前提は「苦しみ悩み」であることを確認せねばならないと思います。

人間の根源は「苦しみ悩む」事柄であって
人間はそれで人間でしかないところの人間として生きるのだと思います。

この十字架が人間と世界の中心だと思います。

だから私たちはたくさんの「答え」を知っていて
それをたくさん話す人は
知識が多くてすごいと尊敬できるかもしれないけど
その人にいろいろと悩み苦しみを語る気にはなれないのだろうと思います。

逆に私たちは
悩み苦しむ力を持っていて
こちらのそれをも一緒に悩み苦しんでくれるという
「応え」てくれる人には
一緒にいてもらいたいし、心底信頼したくなるのだと思います。

私たちは
「答え」探しではなく
「応え」探しをすべきだと思います。

「答え」は必ず理論になります。
理論は必ず数字になります。
「応え」は理論ではどうにも説明できません。
理論ではなく秘儀であります。

「答え」は数字なのでお金に換算されます。
「応え」はお金とは縁がありません。

「答え」はお金と不可分なので
「答え」探しはいつもお金探しと一緒になります。
だから、何をするにも自分に益があるような損得勘定により行われます。
「応え」はお金と無縁なので
「応え」探しは利害関係から解放されつつ行われます。

だから「答え」探しをする教育は
実は将来のお金探しのための方法論でしかなくなっているところが
今の教育の根本問題です。
金にならない授業は必要ないのです。

でも「応え」探しをする教育は
過去と今と将来を生きるいのちが
そう生きるしかないからこそ、そう生きるための行動を学びます。
だから出会うすべては教育となるのです。

「答え」で生きる時はかならず「目標」を強調します。
つまりそこでは時間も時間でいることがゆるされず、
ただの数字になるからです。
さらには「時は金なり」だからです。
そして「目標」という「答え」に近づくことのみが意味を持つようになり
他は排除されます。

「応え」で生きるときはかならず「目標」から解放されます。
そこでは端的に時間を生きます。
瞬間瞬間の状況においてひとつひとつ「応え」て生きます。
つまり決断の連続で生きます。
「応え」の積み重ねがそのまま人生、歴史になります。

「目標」を強調する空間は
「答え」が好きな空間です。

「決断」を強調する空間は
「応え」が好きな空間です。

ただただ未来の目標のみを語る政治は
「答え」が好きな政治です。
そして歴史に対する何の決断もしません。
そこでは歴史を生きることができません。
ただ地に足の着かないふわふわしたところを漂うばかりです。
だから何も産まれません。

歴史の瞬間瞬間を丁寧に生きて
ひとつひとつに「応え」る決断を繰り返す政治は
まさに「応え」る政治です。
そこでは罪責告白と和解が産まれます。

政治や教育だけでなく

キリスト教会が「目標」を強調すると
だいたいおかしくなります。
信仰とは神の行動(恵み)への応答で
つまり決断であって
「目標」達成の快感ではないからです。

「答え」にいのちをかけると
原理主義になります。
「応え」にいのちをかけると
愛に生きます。

「答え」は分かち合いません
「応え」は分かち合います

「答え」は人をつなげません
「応え」は人をつなげます

「答え」は孤独を生みます。
「応え」は仲間を生みます。

「答え」は脳みそで多くが作られます。
「応え」は体全部の具体的行動で多くが創られます。

「応え」はリスポンスですが
それではちょっと脳みそで作ること部分を多く含みすぎるような気がします。

レスポンスの議論はそこでいつもつまづくような気がします。

だから私は最近こう言い切っています。
「応え」はリアクションです!と。

リアクションも脳みそで作るものも当然含みつつ
体全部の具体的行動という意味合いが強いような気がします。

リアクションにいのちをかけるって
いいと思いません?

リスポンスという言葉で「応え」を考えるときにいいのは
リスポンシビリティという言葉も同時に考えられることです。
これが捨てがたいです。

つまり
「応え」ることこそ人間の「責任」なのです。
「答え」は二義的です。

ぐっとバプテストに引き付けますが
スチュワードシップは
「答え」ではなく「応え」精神だと思います。

はじめに「目標」があり
それを達成するためにスチュワードシップが語られるところでは
実はスチュワードシップは語られていない気がします。

「目標」にいのちかけることは
実は内向きな人や共同体によく見られます。
外向き
つまり愛にこだわると
そういうのは消えるようです。

歴史、人生はなにしろ外側とのかかわりなのですが
そのかかわることがしんどくなるときは
つまり悩み苦しむ力を持たないときは
内向きになり
自分の心探しをするようです。

それはつまり
他者を排斥し
自分の「答え」にこだわり
それが最も正しいと信じ
さらにそこに神を持ち出し
それが神聖だと信じてしまうという
よくある一連の動きのようです。

だから宗教はそこにはまり込みやすいようですが
ヒトラーなどがはまり込んだ場所であって
実は決してはまってはならないのだと思います。

と、まあ
ざっと
飛躍しつつ
書いてみました。

肉付けを数年かけてやりましょうか。

ではまた。

おしまい。。。


「答え」から「応え」へ!さらにユーモア!

2007年05月13日 | 教会のこと
5月13日の京都教会週報巻頭言

****************


先週の礼拝と教会学校で分かち合った聖書におけるイエスの言葉は
ユーモアたっぷり

「天の国はこういうものだ」ということで
畑に隠された宝と高価な真珠という
何よりも値段の高いものを例えに出すけど
実は当時の感覚で言うと
これは笑い話

畑で宝を見つけてそのまま取ったら泥棒
当時の法律では
土地にあるものはすべて土地所有者のもの
でも
全財産で宝の埋まる畑の周囲を
買える分だけ買って
宝が埋まるその場所を自分の土地にすると
その宝も合法的に自分のものになり
誰も文句が言えないという
なんとも知恵あふれる確信犯
そして
その隠された宝は
畑を買った全財産の数百倍の価値なわけ

真珠を扱う人はたくさんの真珠の中から高価な真珠を見分けられる
でも一般の人は見分けられない
これは熟練の技
そして商人は
数十年に一度しか出てこないような高価な真珠を見つける
でも彼以外だれもその価値に気がつかないから
彼は自分の全財産で買えるくらいのものだと周りに思わせて
手に入れる
しかし
本当は全財産の数百倍の価値があったのだ

このユーモアたっぷりの切りかえしであらわされた天の国
つまり何よりも高価だけど
それがなかなか手に入らないと思われてしまう
そりゃあそう
目に見えなければ触れもしない
でも
そういう人の常識的感覚を越えたところで
つまりユーモアの領域で
天の国と出会うということだろう

そもそもユーモアはヒューマン=人間と同じ語源
つまり人間があるべき姿になる言動を意味する
だからユーモアの領域こそ
人間が人間でしかないところの人間として
歩むことの出来る場所なのかも

先日この場で「答え」でなく「応え」が大事なことを書いた
わたしたちが心身とも晴れずしんどいとき
どういう人に救われるだろう

心理学の「答え」を語る人だろうか
いやいやそれはますますしんどい
今の状態はこういう原因によるところの現象で・・・
なんて言われたところで
しんどい当人はどうにもならない

それより端的に全身全霊で「応え」てくれる人だがいい
つまりずっと一緒にいて
さらにずっとこっちの話を聞いてくれる人ならなおいい

でもあまりに深刻に聞かれると
これまたますますしんどい
ふたりで一緒にますます曇ってしまう

ならば誰に救われるのか
それはきっと
明るく応えてくれる人だろう

こっちの話を全部聞いてくれて
にこにこしながら全部肯定してくれると
なかなかこっちも救われる気がする
これは心理学に基づくカウンセラーが
どの学派の心理学を学んでいてもまずみんな最初にやるという
応え方(だと思う)

しかし
これで一時救われた気がしても
またすぐにしんどくなるのはなぜ?
と思うのは僕だけでないはず

でもこういう経験はみんなしているはず
話をじっくり聞いてくれながら
まったく異次元にこっちを連れて行くような
そういうユーモアで切り返されると
凝り固まった心身がほぐれるという経験
しんどいと思っていたことが実は軽やかだったと気づく経験

それは例えば悩みつつ歩いているときに
見知らぬ生まれたての赤ん坊と目が合って
それのみで全部が解決されるような経験

そうか!
主イエスの言葉はなんで救いになるのか?
それはユーモアでもって切り返してくれているからだ
人間が人間でしかないところの人間となるべき言葉を
僕らにむかって言ってくれるからだ
それは
僕らが思いつく言葉を超越して
意表をつく言葉だけど
それが極めて純粋に人間らしい言葉であり
もっというと真理そのものなのだ
(心理でなくて真理がいいのだ)

そう!主イエスはそういう方だ。
主イエスと共に歩もう!

彼の言葉は聖書にてどうぞ。

日、月、火の教会のひとコマ

2007年05月09日 | 教会のこと
この前の礼拝もうれしかった
この春、京都に引っ越してこられたOさんが礼拝に来て下さった。
以前の教会の人たちから
Oさんをよろしく
と、前々から幾度もお願いされていて・・・
初めてお会いしたのにそんな感じがしなかった・・・
以前の教会の仲間の愛情がステキで・・・
その愛情と同じだけ
京都でも神さまが用意してくれる
と、信じつつ
これからも一緒に歩みたい・・・
感謝

第三子と保育園で同級のワタロウとお母さんも
初めて礼拝に来て下さった。
ワタロウが子どもながらになんとも一緒にいて楽しいのは
前々から知っていたけど
お母さんも気兼ねなく一緒にありのままいられる方で・・・

経験上
そういう方は、実は精神性が深いとも思われ・・・

逆にわたしは
どうも相手に緊張させてしまうことが多く・・・
経験上
そういう方は
精神性が・・・
・・・・・・・
・・・・・・・
情けない・・・

しかし

なんかまたひとつワタロウ親子から学べたような気が・・・

で、ワタロウは一緒に夕食も食べていってくれて
なんともうれしく感謝。

さらに翌日お母さんがわざわざ
ふるさとのおいしいたけのこを炊いて持ってきてくださって
これが
やさしくてふかくて
なんとも春な味で
なんとも上手くて・・・

同時に料理ってその人の精神性を表現するんだなあって
なんとも納得してしまい・・・
感謝するばかり。。。


本日はうちの息子たちは公文でいなかったけど
一年生の友だちたちが遊びに来てくれて
息子たちはいないけど
そのまま教会の庭で遊んでくれて

これまたなんかうれしい
感謝。


教会のおばちゃまとおばあちゃまの
バイタリティにもびっくり。

昨日のホームレス支援炊き出しで精一杯動いた後
そのままみんなで平等院の藤を見に行き
今朝は教会の祈祷会にやってきて
一緒に昼食たべて
午後はバザーのための作業などをこなし・・・

よく食べてよくしゃべってよく笑って

そして最後に入院している仲間のお見舞いにも行き・・・

ただただ存在に感謝するしかない・・・

僕もこの歳になってすこしわかるようになった気がするが
ただパワーがあるだけでなくて
相当に様々な経験をつんだ中で
本質を見極めている人たちでもあって・・・

教会はそりゃあ明るくなるわなあ。

愛する仲間たち!休んでください!

2007年05月08日 | 「生きる」こと
切実な祈りを祈る昨日と本日

愛する者を亡くした者を覚え・・・
病を担い苦闘する仲間たちを覚え・・・

病とは仲良く付き合うのが最善
しかし
むずかしい

自らの心身が思うようにならない
いらだちがある

周りに理解してもらうのもむずかしい
ひとりひとりに説明するのがしんどい
説明しても快く受け取ってもらえるかわからない

強く健康な心身が奨励され
そうであることがひとつの人間である資格かのように言われる世界

そうでないと
さぼっている
がんばっていない
と言われる世界


わたしが病を担い苦闘する仲間のために祈り祈りさらに祈るのは

わたしがそうであるから

2001年冬から体が思うように動かなくなっていった
2002年の春先から半年間発熱し続けた
原因は結局はっきりわからず・・・
アレルギーとストレスと疲労が心身をぼろぼろにしたのだろう
とは、ひとりの医者の出した結論

その間
しかしわたしは休めなかった
教会の50周年があり
連盟平和宣言作成の最終局面があり
教会がホームレス支援をすることに対する非難が起こり
教会で政治を語ることに対する不満があらわになり
私が一般的意味で社会にて自立できない地域の人たちに時間を割くことへの不満が大きくなり・・・
そういう不満の背景にある私の未熟さへの不満があらわになり・・・

子どももとても小さく・・・

医者は休めと言った
診断書も書いてくれた
しかし
休めなかった
ここで休んだら
教会も
わたしも
どうにもくだらなくなるだろうと思った

休んだら
弱みをみせたら
そこにつけこまれるとも思っていた

無理した

そして

冬にすべてが切れた

心身が停止した
動けなくなった

クリスマス礼拝の朝
高熱と共に
指一本動かす気力が消えた

心が反応しなくなった
一気に

牧師がクリスマス礼拝当日に現れないという
壮絶な経験を教会全体ですることになった

同時に一月後
友人の壮絶な死を経験する

もう自分は狂うだろうと思った
いや半ば狂っていた

医者は仕事をやめろと言った
見かねて違う職を紹介してくれる人もいた
見かねて京都から離れるようにと招聘してくれる教会もあった

たくさんの全国の仲間がなんとなく様子がおかしいことを察し
あらゆる手で助け慰めてくれた
この時にこんなに仲間がいたということを知った
残念だが
この時に誰が本当の仲間で誰が付き合いだったのかを知った

そして
病と付き合うようになった
付き合えるようになった

それは
仲間たちの愛によるものだった

それにより希望をもった
だから
病と付き合う決断ができた

8時間寝ても5時間しか体力が持たなかった
朝5時におきてすぐ仕事をはじめ
朝食までにおわらせるようにした。
そして外に出る仕事をひとつのみ行うようにした

少しずつ体力が回復した
6時間持つようになり
8時間持つようになり
日中、寝込む時間を必要としなくなり

今、5年経過し
7割がた回復したようなところを迎えている


病を担う者は愛されねばならない

病を担う者は弱者で生産性がなく
付き合う価値がない
とされるからこそ
愛されねばならない

そこから
希望と病との付き合いが始まる

そして

病を担う者は無理してはならない
無理をすると回復は驚くほど遅れる

僕みたいになってはならない
休まねばならないときは休まねばならない


そして7割がた回復し
ある程度動けるようになった今

教会共同体も実は長いこと
僕が赴任する前から
病だったのだろうと知るに至った

教会の仲間を愛したくなり
そうしようと決心し
幾分、それができるようになってきたかもしれない

こんな背景も同時に
今年の教会のテーマ
「キリストの体」を提案した理由のひとつ

教会の場合は病を担い何年か・・・

7割がた回復できたか・・・


そして学んだ
病との付き合いは
人を成熟させる

力は弱さの中でこそ発揮されるのだ

パウロの言うことは極めて単純な真理だ


だから祈りに祈る

病と付き合う仲間たちが
愛され
希望を頂き
病と本当の意味で付き合い
そして信仰的意味で復活することを・・・

主イエスが共にいる!!




のぼり旗

2007年05月06日 | 教会のこと
5月3日の憲法60周年のつどいについて
新聞はいずれも大きくとりあげてくれまして
感謝です。

朝日、読売、毎日、京都


朝日新聞京都版には
憲法ウォークの写真がカラーで載っておりましたが
そこで我が家の第四子がはじめて新聞に載りました。


これでこれまでに家族みんながなにかしらの新聞に載ったということで・・・

家族みんなでデモに行くってのが
記者の目を引くのでしょうか。

また教会の仲間や友人たちも一緒に写っていて・・・

これはお宝になりました。

そしてさらに
日本バプテスト連盟憲法共同アクションがつくった
緑ののぼり旗の下三分の一が
かろうじて写っていまして
これがなんだかうれしかったです。
そして写ったところは十字架を基調とする
憲法改悪運動の連盟のシンボルデザインの部分でもあって
なおうれしかったりします。

いまのぼり旗は教会の庭に立っています。
鴨川や荒神橋からよく見えます。
いい眺めです。

国や社会全体の雰囲気
それに同調する多くの人々の雰囲気に
嫌われたくない故に
それを配慮という言葉に摩り替えて
目立つ思想表現をしないで
そういう雰囲気を害さないという
不思議なことが日本の宗教でおこりがちですが

そんなことしてキリストの真逆を歩むのはいやですから
わたしこれでもキリストを信じているので
世の雰囲気を害しても
キリストを害することはしたくないので

旗は立つのであります。

そしてわたしは旗を見て
大声で笑うのでした。
平和を先取りして
喜んで笑うのでした。

しかし
でっかく
「憲法改悪反対」
と書かれているのぼり旗をつくるとは
これ
なかなかのもんでございます。

へんなところにこびない姿勢が
そうさせるのだろうなあと思い
今のバプテスト連盟の潮流に感謝しつつ・・・

今のバプテスト連盟にはいくらでも力を惜しまない!

はっきり思うことが出来て
さらに感謝しつつ・・・

キリストの平和をつくりつづけたいのでした。
おしまい。。。


感謝

2007年05月05日 | 平和のこと
みなさま、
5月3日はありがとうございました。
「平和憲法60周年」の集いをみんなで成功させることができ、
感謝に耐えません。

実行委員会の予想をはるかに上回る参加者が与えられました。
集会参加人数は、チケット枚数から2,430名を確認できました。
しかし、チケットの必要なかった中学生以下の子どもたちや、
デモから参加した方々も多数おられましたので、
2,500名は超えただろうと思います。
また憲法ウォークは1,150名の参加でした。
こちらも予想の倍の参加者でした。
みなさまの主体的積極的な参加に感謝するばかりです。

そして心からお詫び申し上げます。
資料の数が足りず、資料をもらうことが出来なかった方、
会場で座ることができなかった方や、
ロビーで講演を聞くしかできなかった方、
本当に申し訳ありませんでした。

主義主張を超えて一緒に取り組み始めて8年。
このかたちは京都において根付いたのだろうと思います。
さらにその根付き具合が、
わたしたちの想像を超えて深いのだろうと思います。
それが今回の予想を超える参加者数などに
あらわれているのだろうと思いました。
そしてこれからますます
このかたちは必要になるだろうと思います。
ぜひ今後とも一緒に声をあげていきたく切に願います。

また同時に、
みなさまがぞれぞれ、
それこそ命をかけて行っている
集会、学習会、街宣、訴訟などの各運動により、
京都全体に平和を求める声が
確実に広がっていることも証明したのだろうと思います。
ぜひとも引き続き、
互いに励むことが出来ればと願います。

講師の小森さんも言っていましたが、
憲法改悪反対の声は、
相当に結集し始めているのだと思います。
さらにわたしは、
聞こえている声以上に、
さまざまな状況の中で声に出すことが出来ない声が
とてもたくさんあると思っています。
だから胸を張って、
声を出すことが可能な人は、
益々声をあげていきたいと願います。
それは、
間違いなく市民が求めている声であり、
聞きたい声になっているからです。

最後に、手前味噌ですが、
実行委員に参加された方々に感謝を表さずにはおれません。
体力精神力の限界近くまで、
もしかしたら限界を超えて、
5月3日の取り組みのために尽力してくれました。
心から感謝します。

そして重ねて思います。
きっとこの実行委員の参加者が倍になったら、
信じられないほどの豊かな取り組みができるだろうと。
そこで、
これからの憲法集会実行委員会や憲法署名実行委員会に、
まだ参加しきれていない各運動体や九条の会などの
主体的積極的参加を切に切に呼びかけたく思います。

これらの委員会は、
実はいつもぎりぎりまで
とても純粋に本質的な対話と議論をしています。
あらゆる意見が反映されることを望み、時間を費やしています。
これはとても貴重な場です。
しかし残念なのは、
最後の最後に具体的に取り組みを担う仲間の力が限られてきて、
そこで可能な方法で行うしかないということにもなっています。
それは同時に純粋な本質的な事柄を削ることになり、
痛みも覚えています。
しかし、これが解消されるために必要なことは単純です。
一緒に汗をかく人が増えることです。

わたしは夢見ます。
昨日以上の取り組みが京都で近い将来に実現すること。
京都に平和を求め憲法改悪に反対すること声が満ちること。
そして憲法改悪を阻止することに成功すること。
さらには、
戦争がなくなること。
悪しきグローバリゼーションにかわるもう一つの世界が起こること。
みんな共に生きて、分かち合い、愛し合い、
一緒に喜んで一緒に泣く世界になること。

昨日の平和憲法60周年のつどいの成功を
遠慮なく喜ぶと同時に、
ぜひともこれから一緒に汗を流し、
共に歩むことが出来る喜びを先取りし、
それも喜びたいと思います。

本当にありがとうございました。


5.3憲法集会実行委員会委員長 
大谷心基(日本バプテスト京都教会牧師)

平和憲法60周年のつどい大成功!!

2007年05月04日 | 平和のこと
昨日は
平和憲法60周年のつどい
でした。
京都会館で盛大に行いました。
会場は超満員
2,500名は越えていました。
その後の憲法ウォークも1,150名
みなさんの主体的積極的参加に感謝するばかりです。

講師の猿田佐代さんと小森陽一さんの講演もそれぞれ質が高く
それでいてわかりやすく
感謝に耐えません。

質が高いというのは、
彼らが運動をしっかりしているため
地に足が着いているからだと思いました。

ただの学者とかだったら
こうはいきません。
講師の選択は大成功でした。

夜の懇親会で小森さんが言いました。
「会場の熱気と反応のよさは正直すごかった」

舞台袖にいたわたしも
そういう会場の力を感じていました。

もうこれは参加者みんなでつくりあげた集会だと言い切っていいでしょう。
感謝です。

わたしの直観でしかありませんが、
しかし運動をし続ける中で、
また状況をみつめていくなかで
そして少ないながらも歴史学、社会学、哲学の知識を対話させるなかで
憲法は最終的に改悪されない!
と、最近思っていましたが、
昨日、それをさらに強く思いました。

実行委員のみなさま
本当にありがとうございました。
そしてお疲れ様でした。

最高の仲間です。
またこれからも一緒にできるのがうれしくて仕方ありません。

最後に
一応
わたしの開会のあいさつをのせておしまいにします。

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本日は平和憲法60周年のつどいへようこそ!
共に参加できて大変うれしいです。
本日はとてもさわやかな陽気です。
そして思いました。
私たちはとてもさわやかな憲法を、今、持つことができていると。

しかし、どうも薄暗い憲法に変えたいと思う人たちもいるようです。
なんで変えたいのだろう?
この間それをよく考えます。
もちろん、悪しきグローバリゼーション、そこでの経済競争という背景などもありますが
単純にこういうこともあるだろうと思っていることがあります。

それは、憲法を変えたいと思っている人たちは
人とかかわっていくことがとてもしんどい事柄だということです。
それが不可能だということです。
とりわけ、意見、立場の違う人とはまったくかかわることができないどころか
意見、立場の違う人がすごく怖くなってしまうのだろうなあと思っています。
そう
意見、立場の違う人がまるで妖怪か怪獣だと思っているみたいです。

親子タウンミーティングの不正、偽装がありました。
みなさんが明確に記憶している出来事です。
意見、立場の違う人は、
「抽選でもれました」
なんていう嘘でもって
京都市教育委員会と内閣府として排除するという
とんでもないことが起こりまして・・・

その裁判が始まったので、それに行ってきました。
そしてそこでいろんなおはなしを聞いて思いました。

排除された人はわたしの大好きな人たちでして・・・
お付き合いしてとても楽しくうれしくなる方々のなのですが、
その方々を、憲法を変えたいひとたちは
まるで妖怪か怪獣かのように思って、
一対一で話するなんてことはできず
でっかい組織でもって排除するという
なんとも変なことになったわけです。

そう考えると
憲法を変えたいひとたちが
朝鮮民主主義人民共和国をまるで怪獣のように言いまくっているのも
よくわかります。

そしてさらに
勝手に人間を怪獣のように思って怖がる故に
自分もそれに対抗するために怪獣になるべきと錯覚し

それによって憲法を変えたい人たちは
自分を権力や武力でもって
怪獣化させようとしているということなのだろうと思いました。

だから今の憲法もいやなのでしょう。
だって今の憲法は
人間が人間でしかないところの人間として生き歩むことを定めるからです。

だからわたしたちはこうしたらいいと思いました。

まずは私たちが人間であり続けるのが大切です。
そして同時に
憲法を変えたいひとたちに
「あなたも人間でいいんだよ。怪獣にならなくてもいいよ」
と、声をかけてあげて、慰めてあげるということです。

本日は、これから少し長いですが
ぜひ最後までご一緒しましょう。
よろしくお願いします。

共に生きるのみ

2007年05月01日 | 「生きる」こと
メーデーの集会に行った。
あいさつを頼まれていた。
来賓のひとりになっていた。

うーん。
立場上仕方がないのかもしれないし
運動の形式上のこともあるかもしれないが

連帯して生きるひとりとして
率直にあいさつしたいなあ
と思いつつ・・・

率直に自由にあいさつをしてきた。


さまざまな課題に取り組むひとたちのあいさつが続いた。
わたしもこっちの枠にいれてほしいなあと思いつつ
その言葉のひとつひとつの重たさに
身体が何かを応答しようとしている
というような時をいただいた。

賃金、待遇格差の問題
辺野古の問題
郵政民営化の問題
憲法改悪の問題
国民投票法案の問題
アジアの困窮と圧政の問題
在日朝鮮人に対する暴力、圧力の問題
などなど

辺野古と連帯し2年半、毎週繁華街で署名運動をする青年が言う。
「モルヒネとむち」
「ゆりかごから即墓場」

現実だ

共に担うべき事柄がたくさんあり
ただ共に担って生きるのみ


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僕のあいさつはこんな感じのもの。

・・・・・・・・・・・

権力、経済力のある者はますますそれらを得、
そして安全地帯へ。
ない者はますますそれらを奪われ、
そして危険地帯へ。

本日、ここへ来る途中の道のりで
ホームレスの仲間が生活する小屋に
「撤去せよ」という
行政からの張り紙が貼ってあった。

そこで生きる人たちをよく知る者にとっては
それ以上に当人にとっては
あまりに冷酷な
死を同時に意識するしかないような

あまりにひどいことだ。

そう!
ない者はますます危険地帯へ。

それも
戦争、戦場という事柄がからんできている・・・

そういう世界になった。

ない者は再チャレンジしろ!と言われるが
一言で言わねばならない。
仮に百歩譲って再チャレンジしようと思っても
こんな世界にチャレンジする気にもなれない。
戻りたい世界ではない。

そもそも世界が根本的に誤っている!


戻りたくなる世界を

僕らの手で

一緒につくろう!

一緒に叫ぼう!

一緒に生きよう!