5月27日の朝日新聞朝刊一面に
ひとつのデータが報告されました。
刑務所からの満期釈放者の4割が
帰る場所がないという調査結果です。
30年前には9%だったとのことで、
今、帰るべき「ホーム」を喪失している「ホームレス」問題は、
今を生きる私たちの中心課題であることがわかります。
またこの報道を見て
私はマタイの25章を思い起こしました。
受刑者を面会し、
宿がない者を泊めるということが、
主イエスにしたことなのだ!
という内容の部分です。
こういう課題に対して、
何の聖書解釈も必要なく、
私たちが聖書の言を信じる者として応えることが、
それこそ恵みであることを教えてくれます。
しかし私たちは正直に反省するほどに、
「ホームレス」に応えることが
教会やキリスト者の活動になりづらいことを知ります。
私たちを
活動させずに教会内部に閉じ込める背景には
何があるのでしょう?
そのひとつを少し考えてみました。
それは霊の導きについてです。
どうも私たちは霊を心に閉じ込めていないでしょうか。
ヨハネ福音書3章には、
肉から生まれたものは肉であり、
霊から生まれたものは霊であって、
私たちは霊から生まれることで新たに生まれる
とありますが、
この場合の肉と霊を考える時に、
体と心という感覚で、
霊を内面の事柄として考えることが多い気がするのは
私だけでしょうか。
心というものが発見されて以来、
霊を内面化する傾向が強いような気がします。
でも3章8節には
次のようにも書かれています。
「風は思いのままに吹く。
あなたはその音を聞いても、
それがどこから来て、
どこへ行くのかを知らない。
霊から生まれた者も
皆そのとおりである」。
そもそもヘブライ語では霊と風とは同じ語ですが、
霊に導かれるとは、
風とその音に導かれるようなものであるということは
意味深いと思います。
まず風は体の外側に在るものです。
ここで、
霊は心の中ではなく、
体の外に広がることがわかります。
さらに風は地球上の隅々まで到達するでしょうから、
霊は、地球の隅々の、
それも人間がかかわろうとしない困窮のあるところにまで、
私たちを導くということではないでしょうか。
また音というのは時間と共に在るものです。
音は過去から未来へつながることで認識されるものです。
つまり音は歴史です。
さらに音の成分は振動ですから、
音は歴史の振動とも言えるのではないでしょうか。
これはすなわち、
歴史の隅々まで、
これまた、人間が見ようとしないような困窮の歴史にまで
霊が行き届き、
霊がそこで情熱を震わせるからこそ
私たちはその霊に導かれるということではないでしょうか。
私たちが新しく生まれるということは、
実は、
霊によって地と歴史の隅々にまで導かれるという
そういう生命へと生まれ変わるということでありましょう。
さらにいうと、
「どこから来てどこに行くのか」は知るよしもなく、
ただ端的に
地と歴史の困窮に出会ったゆえに出会う
ということを繰りかえすのみが、
霊に導かれる人生の恵みではないでしょうか。
ぜひとも霊に導かれつつ、
だからこそマタイ25章にある生き様が求められるという、
そういう活動を担うことができたら、
次代の教会は
まさに本当の意味で
活き活きと生きると思ってもいます。
まずは、出会うところから。
ぜひご一緒に。
******************
日本バプテスト連盟ホームレス支援特別委員会ニュースレター巻頭言
(これは6月下旬発行予定・・・お先にこちらで!)
ひとつのデータが報告されました。
刑務所からの満期釈放者の4割が
帰る場所がないという調査結果です。
30年前には9%だったとのことで、
今、帰るべき「ホーム」を喪失している「ホームレス」問題は、
今を生きる私たちの中心課題であることがわかります。
またこの報道を見て
私はマタイの25章を思い起こしました。
受刑者を面会し、
宿がない者を泊めるということが、
主イエスにしたことなのだ!
という内容の部分です。
こういう課題に対して、
何の聖書解釈も必要なく、
私たちが聖書の言を信じる者として応えることが、
それこそ恵みであることを教えてくれます。
しかし私たちは正直に反省するほどに、
「ホームレス」に応えることが
教会やキリスト者の活動になりづらいことを知ります。
私たちを
活動させずに教会内部に閉じ込める背景には
何があるのでしょう?
そのひとつを少し考えてみました。
それは霊の導きについてです。
どうも私たちは霊を心に閉じ込めていないでしょうか。
ヨハネ福音書3章には、
肉から生まれたものは肉であり、
霊から生まれたものは霊であって、
私たちは霊から生まれることで新たに生まれる
とありますが、
この場合の肉と霊を考える時に、
体と心という感覚で、
霊を内面の事柄として考えることが多い気がするのは
私だけでしょうか。
心というものが発見されて以来、
霊を内面化する傾向が強いような気がします。
でも3章8節には
次のようにも書かれています。
「風は思いのままに吹く。
あなたはその音を聞いても、
それがどこから来て、
どこへ行くのかを知らない。
霊から生まれた者も
皆そのとおりである」。
そもそもヘブライ語では霊と風とは同じ語ですが、
霊に導かれるとは、
風とその音に導かれるようなものであるということは
意味深いと思います。
まず風は体の外側に在るものです。
ここで、
霊は心の中ではなく、
体の外に広がることがわかります。
さらに風は地球上の隅々まで到達するでしょうから、
霊は、地球の隅々の、
それも人間がかかわろうとしない困窮のあるところにまで、
私たちを導くということではないでしょうか。
また音というのは時間と共に在るものです。
音は過去から未来へつながることで認識されるものです。
つまり音は歴史です。
さらに音の成分は振動ですから、
音は歴史の振動とも言えるのではないでしょうか。
これはすなわち、
歴史の隅々まで、
これまた、人間が見ようとしないような困窮の歴史にまで
霊が行き届き、
霊がそこで情熱を震わせるからこそ
私たちはその霊に導かれるということではないでしょうか。
私たちが新しく生まれるということは、
実は、
霊によって地と歴史の隅々にまで導かれるという
そういう生命へと生まれ変わるということでありましょう。
さらにいうと、
「どこから来てどこに行くのか」は知るよしもなく、
ただ端的に
地と歴史の困窮に出会ったゆえに出会う
ということを繰りかえすのみが、
霊に導かれる人生の恵みではないでしょうか。
ぜひとも霊に導かれつつ、
だからこそマタイ25章にある生き様が求められるという、
そういう活動を担うことができたら、
次代の教会は
まさに本当の意味で
活き活きと生きると思ってもいます。
まずは、出会うところから。
ぜひご一緒に。
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日本バプテスト連盟ホームレス支援特別委員会ニュースレター巻頭言
(これは6月下旬発行予定・・・お先にこちらで!)