きぼう屋

生きているから生きている

信仰の通奏低音

2015年12月30日 | 「生きる」こと
「神の名をみだりに唱えてはならない」
この戒めは十戒の土台なる禁止条項であり信仰の通奏低音。

神の名を唱えてはならないのは、神の名を唱える時に神は神ではなくなるから。
だから「ヤーウェ」を命がけで「アドナイ」と呼び変える。
否、命がけで「ヤーウェ」とは唱えない。
命がけで神の名は唱えない。

「私は有って有る者」
神はご自身をこう表現される。
英語では「I am that I am.」
神の自己紹介でもわかるのは、「名」が出てこないということ。
神は名乗っておられない。
神は「名」を持たない。
神は「名」を持つ事が出来ない。

つまり、「名」は、神を最も我々から遠ざけるものであり、
神の創造の本来を最も変質させるものだから。

でも!
人は「名」なしには聞く事も語る事も知る事も教えることもできない。
「名」なしに言葉も成立しない。

「名」により、わたしはわたしとなり、あなたはあなたとなる。
「名」により、ものごとはものごととなり、歴史は歴史となり、夢は夢となる。
と、私は考えるしかないだろう。
それ以外の認識方法をおそらく持たない。

なるほど、「名」から認識するほかない存在であるから、人はまさに罪人。

しかし!
それに依存するしかない我々であるにもかかわらず、そうではないところの、「名」を経由しない認識がある!
と、聖書を通して知る事が出来る。
それが信仰なのだろう。

我々には不可能であるにもかかわらず、しかし有って有るところの信仰がある。
だから、信仰は、強烈な緊張関係を我々に要求する。

我々は信仰ではなく「名」を土台にするしかない。
しかし神は「名」ではなく信仰を土台とすることを要求する。

「名」はイメージ。
我々は人名からその人をイメージする。
商品名から商品をイメージする。
しかも、一瞬にして認知するという業をこなす。
つまり「名」がアイデンティティとしてイメージされるということだ。
そしてこれが偶像の土台であろう。

わたしは「わたし」というアイデンティティで生きるしかないけど、
しかし、それをわたしの土台とするならば、
そのときにはわたしは偶像崇拝を証言しており、神を排除している。

わたしは「わたし」というアイデンティティで生きるしかない。
しかし!その罪を告白し続ける中で、「名」に抗いつつも生きる。
この緊張関係が備えられるなかで生きることがゆるされるのが、
信仰なのだろう。

あらゆる出来事も、あらゆる他者をも、
我々はイメージで認識することしかできないが、
そのイメージを土台としたときは、
同時に偶像崇拝をどうどうと証ししているときであり、神を排除しているときである。

我々はイメージで生きるしかない。
しかし!その罪を告白し続ける中で、「名」に抗いつつも生きる。
ここに信仰が備えられる。

信仰の緊張関係。
それは「名」というアイデンティティ、イメージ=偶像と、「名」を超越した神とのたたかいであり、それに我々が参与するよう要求される関係なのだろう。

もし、私がなんらかの共同体を理想とイメージするなら、
その共同体はすでに信仰共同体ではないのだろう。

もし、かつてと今を比較して、今に求めていたものがあると認識したとき、
それは今の状況を偶像崇拝しているのだろう。

もし、今の苦難がいつかは消えると、いつかに期待するならば、
それはいつかを偶像崇拝しているのだろう。

今の「名」のために過去を修正したり、状況を修正したりすることできる、
言い換えるならば、人間的に、極めて!人間的にいいイメージを持ちたい、持ってほしいときには、そのようなイメージづくり、イメージ操作を行うことができる。

目標設定は偶像設定と言って過言ではないだろう。
目標設定するときには、あの緊張関係を忘れないことは不可欠に違いない。

結果が出たという認識もまた偶像崇拝であろう。
神はその結果の前で、あの緊張関係のただ中で沈黙することを私に要求するのだろう。

「名」は嘘を生む
「名」は憎しみを生む
「名」は殺しを生む
「名」が偽証を生む
「名」はむさぼりを生む

一方
「名」からの超越は愛を生む

「名」を「アイデンティティ」「イメージ」と言い換えてもいいと思う。
このときの「名」は神抜きの存在となる。
「名」を「目標」「結果」と言い換えてもいい。
このときの「名」は神抜きの時間となる。

にもかかわらず!!!
「名」を超越した存在と時間に我々は生きる事がゆるされる。
我々は「名」を超越する可能性がないにもかかわらず!である!
これが信仰なのだろう。

あんなにも、聖書を書いた信仰の先輩をはじめ、いまでも多くの信仰者が命がけで神の名を唱えないのは、
偶像がどこかで崇拝されるとき、
それは一事が万事と、すでに!なっているときであるからだろう。

あの緊張関係抜きのちょっとした目標や結果崇拝があるところでは、
人への崇拝、カリスマ崇拝がすでにあり、神殺しが起こっているのだろう。


いま、ここ、という永遠の
その中心である主の十字架に
端的に集中する。
「名」は十字架にかかる。
言葉の音数少なく表現できるこの出来事は、
しかし、あらゆる言葉を尽くしても表現できるはずのない究極の出来事であり、
私はここで「名」を失い、つまり言葉を失い、沈黙するしかない。

ただただ「重みに耐えよ」という神からの要求のまえで忍耐する。

時間は計画でも目標でもない。
時間は忍耐なのだ。ここに永遠の介入がある。
存在はアイデンティティではない。
存在は罪の想起であり十字架なのだ。ここに名を超越された方の介入がある。

私は神を唱えてはならない事を知りつつ
この場でも神と何度も唱えるしかない。
神を唱えないという不可能な事柄に、
しかし、不可能だからとあきらめず、冷笑せず、命がけで取り組む。

あぁぁぁ
そろそろ終わりにしないとずっと書き続けてしまう・・・

という年末恒例の一年の想起の今年なりの抽象化なのでした。