中身しかない信仰告白ってどんなん?
というご質問をいただきました
今の自分を取り巻く状況における
キリストの十字架の出来事が濃くしかしなめらかに物語られている
というものが
中身であります
十字架が中心!!
そして十字架が物語られることに
実はそんなにキリスト者は慣れていないと思っています
聞くことも語ることも慣れていない!!
11年も牧師をしておりますと
他の教会より招聘も視野に入れた説教を頼まれることがあります
そのようなとき
わたしは十字架の出来事をがっつりと語ります
それを教会が聞くことができるか否かというのがポイントになります
聞くことができたら可能性を見るし
そうでなければここを離れる理由を見出せないわけです
もし招聘されたければ
創造とか復活とか終末の希望を語れば
聞く方々もうれしくなるし心満たされるわけですが
十字架を物語ることで
本当は抱えていたり出会っていたりするけれども
無意識にも覆い隠している現実と向き合うことになって
表現できない身体感覚というか内臓感覚を味わわねばならない
となると
それを恵みと知るに至ることは少ないわけです
でも
わたしのチャレンジは
これが恵みであるということを喜びつつ分かち合うことであって
それがこのたびの信仰告白ではなされていたということです
そうそう
例えば青野太潮先生のような
十字架の逆説的な
十字架の原理については
多くの教会で聴くこともできるし語ることもできるのですが
しかし原理であって
物語には至らないわけです
青野先生の本も説教も物語るまでになっていませんし・・・
逆に復活を物語る説教に最近なってきていますもんねえ・・・
面白いなあと思いつつ
歓迎しているひとりでありますが・・・
というわけで
中身とはそういうものだと思います
いかが。
というご質問をいただきました
今の自分を取り巻く状況における
キリストの十字架の出来事が濃くしかしなめらかに物語られている
というものが
中身であります
十字架が中心!!
そして十字架が物語られることに
実はそんなにキリスト者は慣れていないと思っています
聞くことも語ることも慣れていない!!
11年も牧師をしておりますと
他の教会より招聘も視野に入れた説教を頼まれることがあります
そのようなとき
わたしは十字架の出来事をがっつりと語ります
それを教会が聞くことができるか否かというのがポイントになります
聞くことができたら可能性を見るし
そうでなければここを離れる理由を見出せないわけです
もし招聘されたければ
創造とか復活とか終末の希望を語れば
聞く方々もうれしくなるし心満たされるわけですが
十字架を物語ることで
本当は抱えていたり出会っていたりするけれども
無意識にも覆い隠している現実と向き合うことになって
表現できない身体感覚というか内臓感覚を味わわねばならない
となると
それを恵みと知るに至ることは少ないわけです
でも
わたしのチャレンジは
これが恵みであるということを喜びつつ分かち合うことであって
それがこのたびの信仰告白ではなされていたということです
そうそう
例えば青野太潮先生のような
十字架の逆説的な
十字架の原理については
多くの教会で聴くこともできるし語ることもできるのですが
しかし原理であって
物語には至らないわけです
青野先生の本も説教も物語るまでになっていませんし・・・
逆に復活を物語る説教に最近なってきていますもんねえ・・・
面白いなあと思いつつ
歓迎しているひとりでありますが・・・
というわけで
中身とはそういうものだと思います
いかが。