きぼう屋

生きているから生きている

中身とは十字架です

2009年11月27日 | 教会のこと
中身しかない信仰告白ってどんなん?

というご質問をいただきました


今の自分を取り巻く状況における
キリストの十字架の出来事が濃くしかしなめらかに物語られている
というものが
中身であります


十字架が中心!!


そして十字架が物語られることに
実はそんなにキリスト者は慣れていないと思っています

聞くことも語ることも慣れていない!!


11年も牧師をしておりますと
他の教会より招聘も視野に入れた説教を頼まれることがあります

そのようなとき
わたしは十字架の出来事をがっつりと語ります
それを教会が聞くことができるか否かというのがポイントになります

聞くことができたら可能性を見るし
そうでなければここを離れる理由を見出せないわけです


もし招聘されたければ
創造とか復活とか終末の希望を語れば
聞く方々もうれしくなるし心満たされるわけですが

十字架を物語ることで
本当は抱えていたり出会っていたりするけれども
無意識にも覆い隠している現実と向き合うことになって
表現できない身体感覚というか内臓感覚を味わわねばならない

となると

それを恵みと知るに至ることは少ないわけです

でも
わたしのチャレンジは
これが恵みであるということを喜びつつ分かち合うことであって

それがこのたびの信仰告白ではなされていたということです


そうそう

例えば青野太潮先生のような
十字架の逆説的な
十字架の原理については
多くの教会で聴くこともできるし語ることもできるのですが

しかし原理であって
物語には至らないわけです
青野先生の本も説教も物語るまでになっていませんし・・・

逆に復活を物語る説教に最近なってきていますもんねえ・・・
面白いなあと思いつつ
歓迎しているひとりでありますが・・・


というわけで
中身とはそういうものだと思います

いかが。



12月2日夜7時は教会へ。他いろいろ

2009年11月25日 | 教会のこと
月刊誌(「百万人の福音」)に半年ほど連載することになっているのですが
その二本目をなんとかだいたいかたちにして編集者に送りました

今回の依頼内容をわたしなりに解釈しますと
ホームレス当事者と教会との出会いをできるだけわかりやすいエッセイ風で
ということになります

これはとても大事な仕事です

ひとつは日本のキリスト教会が

教会内部
あるいは
個人の内面
に閉じこもる形態から

聖書が端的に語るように
教会の外のとなりびとへと足を運び出会う
という形態に変化せねばならないし

さらに外部と出会うというためには
教会の交わりを
内部を充実させるあらゆる人間的手法ではなく
端的にキリストにより深めなければならない!

から
大事です


ふたつめとしては

聖書に生きるならば
キリストに従うならば
時代的に無意識にも
最も差別しているホームレスと教会は出会うしかない

から
大事です


そしてそれを
中学生でも理解できる文章で書きつつ
しかし
中身を浅くしてはならない

から
大事です


だから最初は
具体的に実際に起こった物語を詳細にがっつりと難しい語を多用して書いてしまいます

そして中身の落とさずに
翻訳する感じでより平易な文に直します


なかなか大変ですが
なかなか面白いです


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日曜日の全体懇談会はやっぱり面白かったです

レジュメにのっていることの話し合いももちろん面白いのですが

ここ数回は
その場で提案されるいきなり企画が通るので面白いです。

今回は1月の第五週の昼に餅つきをすることが決まりました

こうやってみんなでよってたかってわいわいと決める
ってことを
赴任した最初の月の週報巻頭言ですでに書いているのですが
それが実際となって
やっぱりうれしいです

よってたかってわいわい決める
ってのは
けっこうむずかしいのです

まず寄るという行為が生まれるのに生みの苦しみがあります
他者との緊張関係を超えることをそこで覚えます

たかるという行為を受け入れるのにエネルギーが要ります
個を主義としてしまう人には厳しい行為です
ここで個を尊重しつつも共同体という身体性を覚えます

わいわいという雰囲気が生まれるのもたやすくありません
どこか遠慮してしまっていてはこれは生まれません
みんなが地声ですっぴんになることを覚えます

決めるという行為もなかなか大変なことです
ここでは決めたことを守る責任と
しかし決めたことが絶対ではないという自由を覚えます

だから
やっぱり10年かかるわけです



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今度の礼拝は世界バプテスト祈祷週間礼拝
野の花会が主催です
交わりを持ついろんな国の仲間を覚えて祈ります

なんと
いろんな国の衣装を着て登場されるそうです

楽しみですねえ


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さらにその日の午後は小羊会
子どもたち集まれー
トーンチャイムでわいわい楽しむそうですよー

わたしは関西地方連合の会議で出られず残念・・・


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来週はルワンダに派遣する佐々木和之さんがウチに泊まります

京都のいろんなところでお話してくれますが
ウチの教会では
火曜日(12月1日)の朝10時半からと
水曜日(12月2日)の夜7時から
お話をしてくれます

火曜日は事前申し込みが必要ですが
水曜日は自由です

ぜひぜひお時間をつくってお越しくださいませ

これからの世界に最も大切なことが
よくわかると思います

和解こそ福音です

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ではでは

キリストのはたらき

2009年11月24日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です

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「キリストがはたらく」

「最近わたしのまわりで大きな悲痛を抱えている人がたくさんいて…」
と、ある方が涙を浮かべつつ仰られました。

これはキリストがはたらいておられる時と私は信じます。
私たちのまわりには
実は悲痛を抱える人が、気づかなくとも常にたくさんおられます。
また私たち自身も悲痛を覆います。
でもキリストのはたらきに私たちが招かれていることを発見するとき、
私たちはキリストと共に、
その悲痛という十字架を知り、背負うことができます。

しかし私は、
たくさんの悲痛と出会う時期もあれば、全く出会わない時期もありました。
出会わない時期は、おそらくキリストを知らず知らずに見失っていた時期なのだろうと悔い改めます。

繰り返しますが、
私たちはキリストと出会うと、
生活の只中で具体的な悲痛という十字架とも出会います。
そしてそれを背負います。主イエスと共に。他者と共に。

それは端的に苦しむ他者に寄り添うことになります。
キリスト者はキリストの権能を授かるゆえに寄り添うことができます。
そこで失敗しても赦されるゆえに何度も投げ出すことなく寄り添うことを選び取れます。

きっと一般的には、
他者の苦しみを苦しむことは利益にならず敬遠されますし、
「自己責任」で解決もします。

しかしだからこそキリスト者はそこに流されず、
祈って祈って寄り添いきります。
「このいと小さき者にしたことは、私(イエス)にしたことなのである」
と主が言われるのは事実です。
これがキリスト者の歩みの中心であり実はすべてです。

さらに、
実は悲痛の中にある他者こそが、
本当に寄り添ってくれる相手を、生きるためのするどいセンサーで探し当てます。
彼(女)らはその名を知らなくともキリストを求め、
具体的には寄り添い続けてくれる人を求めます。

だから、
キリスト者のまわりに悲痛を抱える人がおのずと増えることは本来的と言えます。
そしてそこでキリストがはたらかれます。
私たちはキリストにあって寄り添う相手と共に泣き、共に喜びます。
ここにキリストの体が生まれます。

そしてこの出来事こそ伝道でありその本質です。


キリストの十字架はどえらい!

2009年11月23日 | 教会のこと
中身のある
というか
中身のみの
信仰告白でした

すべてのことばが生活の只中における身体として語られていました
つまり
経験に近いようでしかし質的に全く異なり本質にせまるロゴスとして語られました

今つかんでいる場所は
十字架の事件においてぽっかり空いた穴から
十字架の事件のすべてを受けて
突破するという現場だろうと思いました

この現場に一度足を踏み入れたなら
今後そこから離れたからとて
またすぐに戻れるから

安心して
キリストによる自信を遠慮なく頂いて
キリスト者として歩み始めてください

聞きなれたフレーズがなく
原理を超えて
身体として語れただけに
単純に涙を誘うというものではなくて
告白の中心に迫られた者がぐっと涙をこらえるというものだったから

十字架の純粋性は複雑さとなってあらわれるのが常であるように
漂った雰囲気は
それがそうであるということが集合人格の無意識に覆われてもいたけれども
実はとても複雑なものとなりました

うちの教会にもすごいことが起こるようになりました

わたしはまだ
彼との対話の中で
信仰告白で語ろうとしていたけど当日ははずしたものと
その理由なども知っているから
告白の中心に迫りやすかったかもしれないけれど
しかしまだまだ何かを聞き逃していると思っています
だからこの告白がつくられる背景を知らないとなるとなおさらと思うので
ぜひともめいめい今日の告白を繰り返し追体験して参りましょう

しかしベテラン執事による祝辞はさすがでして
この状況を把握した上での
すんごいことが起こっているという只中だからこそのことばでして
こちらも驚きつつ感激しました


キリストは
彼に
彼の生きる共同体なる教会に
今日
信仰告白とバプテスマとを通して
何かを起こされていると思いました

その何かは
きっと数年後に
下手したら
数十年後に
ふと見つかるような気がしてなりません



明日は教会有志で登山

登りながらキリストのわざを見つめたいなあと思いました

今日はっきり言えることは
キリストの十字架は
どえらい
ということでしょうかねえ

人生がほんとにひっくり返る!
この十字架の前に立てば
常識で言う幸せとはぜんぜんちがって
下手したら正反対で
しかし
これ以上ない幸せ
に出会ってしまう!!

うん

しあわせ!!


というわけでして
提出せねばならない原稿が3本
今週中に書きます
もうしばらく!!



イエスは主なり!

2009年11月20日 | 教会のこと
おそくなりましたが今週の週報巻頭言

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「イエスは主なり」

昨日まで、日本バプテスト連盟第55回定期総会が開催され、当教会からはS兄、Y姉、私の3名が代議員と派遣されました。

今回の総会で日本バプテスト連盟は、大きな決断をしました。
それは全国のバプテストの仲間が一人ひとり「イエスは主なり!」と告白し生きる決断であったと思います。

具体的には教役者退職金制度の改革を決議しました。
アメリカのバプテスト同胞の献金による新宿の土地を売って得た莫大な財源によりこの制度は作られましたが、
経済危機を迎え、多くの企業年金制度が回らなくなったように、連盟の制度も現行制度を維持できなくなりました。
そこで49歳以下の者への年金を廃止(退職一時金は従来どおり)し、年金は厚生年金にて賄うことを決議しました。
これは各教会の負担が増え、一方で若い牧師への支給額は減るということでもあります。

大変な時代になりました。
しかし
いい時代になりました。

というのは
安心や安全という前提があるからバプテストの信仰者で生きるのではなく、
キリストに献身するから信仰者として生きることのみが残されるからです。

アメリカの同胞の身を切る献金に甘えて安心していた日本のバプテストが、
これからは自分たちの献身と献金で宣教を担うことを選び取ったのです。

そしてその象徴が教役者退職金制度の改革なのですが、
しかし私は、新しい制度も連盟の協力献金が3割増ほどにならねばいずれ機能しなくなると予想します。
それは同時に、各個教会における献金も教会員数も3割増になる必要を実は求められる制度ということです。

このように数字増を示されると違和感を覚える時代でもありますが、
わたしは増えることを願っていいだろうと思います。

しかもこの数字は実現すると思います。
つまり、
アメリカの同胞の献金でいいところだけを持っていくという利益信仰(「益は主なり!」)が教会で場を持たなくなり、
端的に「イエスは主なり!」のみが生き生きと教会でうごめくしかないからです

「イエスが主なり!」が語られるところでの増加と
「益が主なり!」が語られるところでの増加は
中身が全く違います。
そして今は前者による増加の可能性のみ残っている時代です。

さて私は総会では、
この連盟の危機を乗り越えるために、
原則であり理想であるのは、各個教会で丁寧に第一のこととして伝道と献金がなされるという道筋ではあるけど、
こうなる間に連盟運動体がなくならないために、教会を通らない連盟への直接献金を用いる手段もあると意見をさせていただきました。
少なくともアメリカの同胞ではなく、自分たちの献金であるというところで一歩前進にはなるからです。

しかし、教会では、
私は大切な原則である「イエスは主なり!」という告白は、
絶対に精神論にも抽象論にもなりえず、
礼拝を共にする信仰家族の交わりと具体的な献金となることを強く訴えます。

逆にこの具体が消えるときに信仰が最も恐ろしい事柄に化けます。

わたしたちは本物の具体的な信仰を選び取ります。
主イエスのみに従います。
自分の思いや益という誘惑から解放されることを真剣に祈ります。

さて本日は青年たちが礼拝のすべてを整えてくださいました。
熱い祈りと準備がありました。

また先週の執事会では、
礼拝の司会を担う者が祈りと準備を丁寧にすべきということや、讃美歌を心から声をしっかり出して賛美していこうということが、
牧師が口を挟む隙がないほど、めいめいが自身を問いつつ熱く議論がされました。

これは行為をもって義認を語っているわけではありません。
この10年。
ここに至るまでに私たち教会は徹底的に他者とのかかわりにチャレンジしてきており、
そこで出会うキリストとその赦しを受けることを選び取ってきており、
その故にその具体が基本中の基本である礼拝への備えを求めることになることと
私たちは出会っているわけです。

ここでは「イエスは主なり!」のみが分かち合われています!

だから期待します。
ここまできたら次々と
教会共同体の中で起こされるキリストの働きを発見できて、
みんなが神の思し召しのままにつなげられ
確実に一つとされ、
血縁を超えたキリスト縁で家族となり、
共に喜び共に泣くという人生最大の幸せを
経験していくことでしょう。

「イエスは主なり!」
アーメン!


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さきほど
平安女学院の先生と生徒さんたちが
収穫感謝祭のおりに
ホームレス生活を余儀なくされている仲間を覚えてくれて
お米を持ってきてくれました

感謝



信仰に理由なし

2009年11月20日 | 教会のこと
今週は本日(昨日)まで毎日バプテスマクラスを持つという
初めての体験であり
もう二度とないかもしれないという体験をしております

これからキリストを主と告白しようという仲間と過ごす時は
実はこちらが多くを学び頂く時とおのずとなり
感謝するしかありません

キリストさん
ありがとう!!

そして今週から信仰告白を書き始めたのは小学校二年生

その出だしからして感動しました

深すぎる!!!


本番はクリスマス礼拝ですが
感動しすぎたのでもう紹介してしまいます

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ぼくはイエスさまが大好きなのでバプテスマを受けたくなりました
なんでイエスさまが好きなのかはわかりません
お父さんとかお母さんが好きなのもなんでかわかりません
それとおんなじです
***************

イエスさまを好きな理由なんてない!!

もしあえていうなら
こちらがイエスさまが好き!というのは
イエスさまがこっちを好いている!
ということにおけるこちらがわの感触なのだろうと思いました


次週に信仰告白をされるNさん
来月に信仰告白を予定しているSさんとMさん

来年に予定しているNさんとTさんとIさん
きっとBさんも


新しく信仰を告白する仲間が
教会の交わりの
牧師の
信仰の鮮度を回復させるということが
案外あっさりと当然のごとく起こります

キリストってすごいなあと思います

なにしろ
感謝感謝

赦しと応え

2009年11月17日 | 教会のこと
主なる神よ

あなたが全時代全地域のすべてのいのちに向かって働かれておられることを信じます

同時にあなたの働きにわたしたちを招いておられることを知っています

しかしその招きに応えていないわたしたちがいることをもよく知っています

そのゆえに

ますます苦しみ死を迎えざるを得ない主の仲間がたくさんおられることをも知っています

わたしたちは赦していただけるのでしょうか

わたしたちの代わりにさばかれている十字架のキリストの前に立ち

キリストゆえのあなたの赦しを信じ

赦されるゆえに

次こそは

主なるあなたのはたらきにわたしたちが参与できますように

キリストの名により祈ります

アーメン


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ふと思い出しました
先週の日本バプテスト連盟第55回定期総会における
ホームレス支援特別委員会のアピールの時間の
わたしの祈りのことばです

祈りの原稿はないのか?
と仰ってくださった方がおられまして

しかし
あのときにとっさに祈ったのは

延長して議論した議事がおわったばかりの
開放感も手伝ったところのざわめきがすごくて
その大人数の群れがもういちど沈黙の前に立つことができるため

でありまして・・・

とっさの祈りなので
ことばもでてきたものが祈られたというものでしたので・・・


総会期間中には何を祈ったのか思い出せませんでした

でも
おもしろいもので
ふと洗濯物をたたみながら
思い出してしまいました

あの祈っている情景がそのまま浮かび上がってきたら
ことばもはっきり聞こえてきました

というわけで
ここに載せておきます



青年たちへ

2009年11月16日 | 教会のこと
キリストは生きておられる
本当なんです

ぼくらはいわゆる辞書で語られる範囲の
生と死
を超えて
生と死を知らされていることを
知らされているとおりに知らねばならないのです

それは超越論ではありません
超越したら知らされないのですから

もちろんカルトでもありません
カルトは辞書で語られる範囲のことばで実は語ります

これは
現実です


京都教会の本日の礼拝は
青年会が企画し準備し祈り担いました。

受付
司会
奏楽
説教
子ども説教
手話通訳
OHP
献金奉仕

かたちとしては説教スタイルではなくて3名の証リレーでしたが
充分にキリストが宣言されていますから
充分に説教でもありました

感動しました

礼拝の開会祈祷が
献金感謝の祈祷が

ぼくの魂をわしづかみにします

ちょうど心臓マッサージをするように

復活を経験できました

形式的でなく
形骸化してなく
格好もつけていない
本物の祈りは
常に奇蹟です


三名の証リレーは
今教会全体で学んでいる使徒言行録から
聖霊の導きに焦点をあてて語られましたが

聖霊の導きは
出会い
であって

その出会いが
人生も人格も変えてくれる

という格別の喜びが
素直に語られて

胸のあたりで蒸留水が滝のように流れる感覚を受けつつ聞くことができました


手話での賛美は
はじまった途端に
歌えなくなるほど震えました

ユアサさんが生きておられたら・・・
40年来の夢がかなった

大声をあげてくれたと思います

いや
イエス様の真横で
声を上げているはずです



次週はそんな青年の仲間のひとりが信仰告白します
バプテストリーは夕方に青年の仲間がピカピカにしてくれました

生きておられるキリストがそこで豊かに働きます

祈って祈って祈ります


そしてさらに
本日昼に女子青年のひとりがバプテスマの決心を伝えてくださり
早速今週からバプテスマクラスを開始することになりました

さらにさらに
夜には男子青年のひとりがバプテスマの決心を遠まわしにだけど伝えてくださり
彼との対話もはじめていきたいと思います


このブログで何度も言っているけれども

今の若者はステキです

希望を持つことが容易でない時代に生きる若者たちは
自分自身で把握する以上の困窮を背負っています

でも
その困窮は恵みであることをぼくも大声で宣言します

主イエスもパウロも大声で宣言してくれているように


たぶんだけれども

日本が経済成長のなかで
いつでも希望に満ちているといわれている中で育った人は
(ぼくも含めて)

経済的にどん底のアジアやアフリカの同世代の人と話すときに
彼らの深さについていけない経験をしたと思います

理想と現実を深く丁寧に把握し
純粋でありつつしたたかに生きる凄みの前に
自分自身の人間力の小ささにびびったと思います

いやもしかしたら
びびることができないほどに鈍感で
気づくことすらできないケースがほとんどだったかもしれません


わたしは今の若者たちと出会って
同じ感触を抱くことがよくあります

だからそんな青年たちに言いたいです

京都教会の青年のみならず
全国のバプテスト教会の青年たち

土曜日まで連盟定期総会で一緒だった
若い牧師たち

もはやキリストの支えのなかで
自分たちの中身を堂々と出し切って
中身で堂々と勝負してください

何の遠慮もいりません

格好つける必要もないし
こびる必要もないし

周辺のいろんなことで勝負する必要などないので

中身をどんどん出し切ってください

もし
そういう態度が生意気だ
というような先輩がいたら

そんな先輩は置いて行ってください

そして10年後に
そういう先輩をケアしてあげてください


ちゃんと
地声で
すっぴんで
キリストの働きに参与するために
やるべきことをやりきってください

つまり
本気で
献身してください


今の時代の若者を
キリストが必要としているように
教会も世界も必要としています

京都教会の青年たちが
毎月毎月
よくわかるほどに成熟していくことに
驚きつつ喜んでいます

また
今回の連盟定期総会で
バプテストで青年が
とりわけ出会いで変えられて
はぐくまれていることを知り
ぼくはとてもうれしかったです

安心すらしました


キリストは生きておられる
本当に生きておられる

この現実は
困窮の只中に十字架にてあらわれる

今の時代の若者たちは
だから現実に出会う


ぼくはこれからの宣教が
つまり生命と生活のすべてが

この青年たちの存在ゆえに
ますます楽しみで仕方がありません

感謝感謝


感謝

2009年11月10日 | 教会のこと
とっても遅くなってしまいましたが
11月3日の当教会バザーが
今年もとても祝されましたことを

神さまに
献品くださりまた当日お越しくださった地域のみなさまに
バザーの準備と当日の奉仕をしてくださった仲間たちに

全身全霊をもって感謝をしたく願います

ありがとうございました


実はわたしはバザーの前日に
耐えられなくて牧師室で泣いてしまっておりました

バザーの準備のために
毎日毎日献身的に
いや献身しているからこそ
教会で一緒に作業をする仲間がいて

それもいつの間にかそれぞれの賜物がフルに発揮される状況になっていて
互いに互いの賜物を敬いつつ
変な遠慮などなく
おおきな笑い声が耐えることなく
作業がなされていく只中にいることができて

しあわせすぎたわけです

またなによりも
願い続けていた教会の交わりの姿が
目の前にひろがっていて
驚きつつ
感謝するしかなく
涙せざるを得なかったのだと思います

同時に
この交わりを得るために担った十字架は
決して小さいものではなかった
ということが
涙となったのかもしれません


はっきりと言えます

日本バプテスト京都教会は

変化しました


キリストに従う群れとして歩み始めています

世の基準に当然のように従うというかっての姿はほとんど見当たらなくなりました


これまでほんとうにすみません
これから教会として主と共に悔い改めつつ歩みます


だから
今年のバザーは
当日を迎える前に
すでに大成功をおさめておりました

これだけ質の深い交わりを得て準備がされているならば
当然そこでは
聖書に聞き祈りつつの準備がなされてもいるわけで
しかも
聖書と祈りの獲得は
決してたやすいことではなく
相当に覚悟を決めて主体的に選び取っているわけなので

当日
うまくいかないわけがなかったのです



当日も朝も
誰もあせることなく
やはり笑いが絶えずに準備が進みます

しかもどんどん奉仕者が集まります
予定していた奉仕者数を超えてさらに集まります

過去最高の奉仕者数といつのまにかなっています

わたしは単純に本質的に断言しますが
聖書に聞き祈りつつ交わりが深まるならば
こういうことは起こるわけです


そしてバザーの開会礼拝
わたしはおのずとこう説教するわけでした

バザーはもはやこの時点で大成功
もはや恵みで満たされている
あとは
もはや恵みに満たされ成功しているという大前提の中で
バザーを丁寧に味わっていきましょう
丁寧にひとりひとりとかかわってまいりましょう
そして
本日奉仕するわたしたちは
本当に家族です
血縁以上に深い絆で結ばれたキリスト縁の家族です
たとえ初めて顔をあわせたとしてもそういう家族です
そういう家族として
地域の方々を招きます
隣人を招くことのできる家族は幸せです
では一緒にバザーを担いましょう



もう来場者数を数える余裕はなかったのですが
お昼前に
食事が完売してしまうし
会場いっぱいに並べた1万点を越す品もどんどん減っていくし

1, 000人以上
もしかしたら1,500人くらい来てくれたのかもしれません


でもこんなにおおきなバザーなのに
純利益は約38万

バザーのことを知っている人たちは
(他の教会の牧師さんとか幼稚園やっている方とか)
利益は100万どころか150万でもおかしくないよねえ

といってくれますが

ウチはどうも安すぎるようです

(献品いただいたなかには
他のバザーで売れ残ったものもありました
すると値札がついたままになっているわけですが
たとえば300円の値札が付いていたものを
ウチの教会の値付けグループが手にしたら
30円という値札に変えられるというわけです)


来年以降は
食事の数を増やす必要があるので
その分利益が増えるかもしれませんが
しかし
こんな感じでできるだけ続けていきたいと思いますので

来年度以降も
献品と来場と奉仕とご協力とご理解を
よろしくお願いいたします




虹のちバザー

2009年11月02日 | 「生きる」こと
いよいよ明日はバザー

荒神橋西詰めの日本バプテスト京都教会へどうぞ!

とっても寒くなりますが
教会のバザーにくればとてもあったかくなります!!

本日は主にバザーの食堂をにぎわす
カレーライスとか
おでんとか
いろんなおそうざい
が準備されていきました

だからずっと教会はおいしいにおいでした

献品は結局103件で1万点以上
感謝感謝

毎年のように
今年は品が集まらないのではないか・・・

なぜか心配してしまうのですが

今年も
いつもと同じだけ不思議と集まりましたし
びっくりするくらいの上等なものが多くて
感謝感謝なのであります

本日
服を持ってきてくださった方が4件もありまして

それがブランド品ばっかりで

だいたい
定価の50分の1くらいで値段をつけたのですが
申し訳なかったかなあ

それが今日だけで100着以上

でね

みんなでバザーの準備をわいわいしていましたら

鴨川の対岸から

虹がかかっているではありませんか

幅は3m以上
長さは50mくらい

7色どころではなくて
倍ほどの色は確認できました

さらに

虹の上に虹がかかり

虹が消えたら
また新たな虹がかかり


みんな子どもに戻って
といいますか

普段は隠れてしまっている純粋さが爆発して

虹を見てはしゃいでしまいました


神さまからのバザーの前祝と本気で受け取っております



もうひとつみんなで純粋にうれしくなったことがありまして

それは
わたがしの試作でして

えらいたのしいぃぃ


わたがしをもった顔がみんなかわいぃぃ


というわけで

明日はバザーにこないとほんとに損!!

寒ければ寒いほど
こなければ損!!

心があったかくなるどころじゃあないほどにあったかくなるよおぉ


ではまた明日!!
心よりお待ちしております!!

信仰を確認する場

2009年11月01日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

*********************

「信仰を確認する場」

いよいよ今週火曜日はバザーです。
先週は毎日奉仕者が与えられ、驚くほどに準備が進んでいます。感謝です。
そして本日午後には、みんなで最終的に整えてまいりたいと思います。

地域からの献品は現在90件です。これまた感謝です。

献品を受け取る時、私はいつも感激します。
ささげてくださる方の精神の良い面と出会うからです。

まずは
ささげてくださる方が、
受け取るこちらに感謝をしてくださることに、
恐縮しつつも、精神の本質を知り感謝しています。

私たちが日常的に経験する「一般」というのは、
実は精神の本質が保たれるよりも、
時代地域の雰囲気や力に合わせて保たれる場合が多いため、
一般的には、
頂いた私が感謝するということになろうと思いますが、
不思議とバザーの献品においては、
ささげて感謝すること!が起こされます。

これは精神の本質です。
すべての命はささげることにおいて命となります。
自然界においてはそれが死につながるとしても、
いや、死につながるからこそ、
神は復活の命を約束し、
ささげてこそ命となる出来事を起こします。

逆に命はささげることを惜しむとき、
すでに命ではなく、
それは別物となります。
聖書はそれを「肉」と表現し、
命のない状態(霊のない状態とも語る)であることを指摘します。

しかし、
いくらキリストが死に打ち勝っていることを耳で聞いたことがあっても、
死がすべてに勝り、
死や老いや様々な機能低下を恐れるという不信仰の中に私たちはうずもれがちです。
そしてうずもれると、
他者のためにささげるという身を削る行為はできなくなり、
せいぜい余りを施す程度になります。
そしてそれが「一般」であり、社会システムとなっているものでもあります。

しかしバザーは、
教会をその「一般」から解放し、
霊、すなわち精神の、信仰の本質へと導きます。

それはバザーがさまざまな「ささげる」が折り重なって起こされているからです。
物をささげ、時間をささげ、労力をささげ、さらに売り上げをささげます。

そこには、ささげてもらったものを自分のためにためこむ、という行為が入りません。

そもそも、
神からキリストを含めてすべてをささげられた私たちは、それを自分のためにためこむべき!
という表現は聖書に出てきません。
聖書はただ、
すべてをささげられた者は、同じくすべてをささげる!
という方向のみ語ります。
また、ささげられたものを計画的に用いることは語られても、
それが自分や身内のための計画としては語られず、
それを超えた異邦人、差別されている者を含む世界全体のために計画的に用いるよう語られます。

バザーはまさにそれを体現します。
そしてその本質を見失わないよう、今後とも祈りつつ共にかかわりたく願います。

だからバザーは信仰を確認する場です。
ささげることの重なり合いを経験し、
私たちの命を、神さまにより「肉」から本当の意味での命とされていきたいと願います。